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成唯識論巻第四

唐 · 护法等造,玄奘译 · 第31巻 / 39

諸支相望,增上定有,餘之三緣,有無不定。契經依定,唯說有一。愛望於取,有望於生,有因緣義。若說識支是業種者,行望於識,亦作因緣。餘支相望,無因緣義。而《集論》說,無明望行,有因緣者,依無明時,業習氣說,無明俱故,假說無明,實是行種。《瑜伽論》說,諸支相望無因緣者,依現愛、取,唯業有說。無明望行,愛望於取,生望老死有餘二緣。有望於生,受望於愛,無等無間,有所緣緣。餘支相望,二俱非有。

諸支の相望むるに増上は定めて有り。其余の三縁は有・無定まらず。契経は定に依って、ただ一有りと説く。愛は取に望み、有は生に望みて、因縁の義有り。もし識支は業種と説かば、行は識に望みてもまた因縁を作す。其余の支の相望むるは因縁の義無し。しかし《集論》の説く、無明は行に望みて因縁有りとは、無明の時に依って業の習気を説く。無明に倶のゆえんに假に無明と説く。実は是れ行種なり。《瑜伽論》の説く、諸支の相望みて因縁無きとは、現の愛・取に依りて、ただ業・有を説く。無明は行に望み、愛は取に望み、生は老死に望みて其余の二縁有り。有は生に望み、受は愛に望みて、等無間無くして所縁縁有り。其余の支の相望むるは二倶に有に非ず。

此中且依隣近、順次、不相雜亂,實緣起說。異此相望,為緣不定。諸聰慧者,如理應思。

ここに且く隣近・順次・相雑乱せざる実の縁起に依って説く。此に異なって相望むるは縁と為ること定まらず。諸々の聡慧なるは理の如くまさに思択すべし。

惑、業、苦三攝十二者:無明、愛、取,是惑所攝;行、有一分,是業所攝;七、有一分,是苦所攝。

惑・業・苦の三は十二を摂す。無明・愛・取は惑の摂する所。行・有の一分は業の摂する所。七・有の一分は苦の摂する所。

有處說業全攝有者,應知彼依「業有」說故。有處說識業所攝者,彼說業種為識支故。

処有りて業は全く有を摂すと説くは、まさに彼らは「業有」に依って説くと知るべきのゆえん。処有りて識は業の摂する所と説くは、彼らは業種を識支と為すと説くのゆえん。

惑、業所招獨名苦者,唯苦諦攝,為生厭故。

惑・業の招く所を独り名づけて苦というは、ただ苦諦の摂する所なり。生を厭わしめんが為のゆえん。

由惑、業、苦即十二支故,此能令生死相續。

惑・業・苦はすなわち十二支なるに由るのゆえんに、これは能く生死をして相続せしむ。

復次,生死相續,由內因緣,不待外緣,故唯有識。

復た次に、生死相続は内の因縁に由って、外縁を待たず。ゆえに唯だ識有り。

因謂有漏、無漏二業正感生死,故說為因;緣謂煩惱、所知二障助感生死,故說為緣。

因とはいわゆる有漏・無漏の二業は正しく生死を感ず。ゆえに説いて因と為す。縁とはいわゆる煩悩・所知の二障は助けて生死を感ず。ゆえに説いて縁と為す。

所以者何?

なんの故か。

生死有二:

生死は二有り。

一、分段生死,謂諸有漏善、不善業,由煩惱障緣助勢力,所感三界麁異熟果,身命短長,隨因緣力,有定齊限,故名分段。

一、分段生死とは、いわゆる諸有漏の善・不善業は、煩悩障の縁助の勢力に由って、感ずる所の三界の麁き異熟果にして、身命の短長は因縁の力に随って定の斉限有り。ゆえに名づけて分段という。

二、不思議變易生死,謂諸無漏有分別業,由所知障緣助勢力,所感殊勝細異熟果。

二、不可思議の變易生死とは、いわゆる諸無漏の有分別業は、所知障の縁助の勢力に由って、感ずる所の殊勝の細き異熟果。

由悲願力,改轉身命,無定齊限,故名變易;無漏定願正所資、感,妙用難測,名不思議。

悲願の力に由って身命を改転して、定の斉限無し。ゆえに名づけて變易という。無漏の定願の正しく資し感ずる所にして、妙用は測り難し。名づけて不可思議という。

或名「意成身」,隨意願成故。如契經說:如取為緣,有漏業因,續後有者,而生三有。如是無明習地為緣,無漏業因,有阿羅漢、獨覺、已得自在菩薩,生三種意成身。

あるいは名づけて「意成身」という。意の願に随って成ずるのゆえん。契経に説けるが如く:取を縁と為すが如く、有漏の業因は後有を續けて、三有を生ず。かくのごとく無明の習地を縁と為して、無漏の業因にて、阿羅漢・独覚・已に自在を得たる菩薩有りて、三種の意成身を生ず。

亦名變化身,無漏定力,轉令異本,如變化故。如有論說:聲聞無學永盡後有,云何能證無上菩提?依變化身,證無上覺,非業報身,故不違理。

もまた名づけて變化身という。無漏の定力は本に異ならしめて転ず。變化するが如きのゆえん。論有りて説けるが如く:声聞の無学は後有を永く尽くせば、どうして能く無上菩提を証せん。變化身に依って無上の覚を証す。業報身に非ず。ゆえに理に違せず。

若所知障助無漏業,能感生死,二乘定性,應不永入無餘涅槃。如諸異生拘煩惱故。

もし所知障は無漏業を助けて能く生死を感ぜば、二乗の定性はまさに永く無余涅槃に入らざるべし。諸異生は煩悩に拘えらるるが如きのゆえん。

如何道諦實能感苦?誰言實感?不爾,如何?無漏定、願,資有漏業,令所得果,相續長時,展轉增勝,假說名感。如是感時,由所知障為緣助力,非獨能感。然所知障,不障解脫,無能發業潤生用故。

どうして道諦は実に能く苦を感ずるや。誰か実に感ずと説く。然らず、いかんとなれば。無漏の定・願は有漏の業を資して、得る所の果をして相続して長時に、展転増勝せしむ。假に名づけて感と説く。かくのごとき感の時は所知障を縁と為して助力するに由る。独り能く感ずるに非ず。しかし所知障は解脱を障らず。能く業を発して生を潤すの用無きのゆえん。

何用資感生死苦為?自證菩提,利樂他故。謂不定性獨覺、聲聞,及得自在大願菩薩,已永斷伏煩惱障故,無容復受當分段身。恐廢長時修菩薩行,遂以無漏勝定願力,如延壽法資現身因,令彼長時與果不絕,數數如是定願資助,乃至證得無上菩提。

何の用にか生死苦を資感せん。自ら菩提を証して他を利楽するのゆえん。いわゆる不定性の独覚・声聞および自在を得たる大願の菩薩は、已に永く煩悩障を断伏せしゆえに、復た当の分段身を受くるを容れず。長時の菩薩行を修するを廃せんことを恐れて、遂に無漏の勝定願力を以って、延寿の法の現身の因を資するが如く、それらをして長時に果と絶えざらしめ、数・数かくのごとく定願は資し助けて、乃至無上菩提を証得するに至る。

彼復何須所知障助?既未圓證無相大悲,不執菩提、有情實有,無由發起猛利悲願;又所知障,障大菩提,為永斷除,留身久住;又所知障為有漏依,此障若無,彼定非有,故於身住,有大助力。

それらはまた何ぞ所知障の助を須いん。すでに未だ無相の大悲を圓証せざれば、菩提・有情の実有を執せず。猛利の悲願を発起する由無し。また所知障は大菩提を障る。永く断せんが為に身を留めて久しく住す。また所知障は有漏の依と為る。この障もし無ければ、それらは定めて有に非ず。ゆえに身住に対して大きの助力有り。

若所留身,有漏定願所資助者,分段身攝,二乘、異生所知境故。無漏定願所資助者,變易身攝,非彼境故。

もし留むる所の身の有漏の定願の資助する所は、分段身の摂する所なり。二乗・異生の知る所の境なるのゆえん。無漏の定願の資助する所は、變易身の摂する所なり。それらの境に非ざるのゆえん。

由此應知,變易生死,性是有漏,異熟果攝,於無漏業,是增上果。有聖教中說為無漏,出三界者,隨助因說。

これに由ってまさに知るべし、變易生死は性は是れ有漏にして、異熟果の摂する所にして、無漏業に対して是れ増上果なり。聖教の中に無漏と説き三界を出ずと為す有るは、助因に随って説く。

頌中所言諸業習氣,即前所說二業種子;二取習氣即前所說二障種子,俱執著故。「俱」等餘文,義如前釋。

頌中の説く所の諸業習気はすなわち前の説く所の二業の種子。二取習気はすなわち前の説く所の二障の種子。倶に執著なるのゆえん。「倶」等の其余の文は義は前の釋するが如し。

變易生死,雖無分段前後異熟別盡別生,而數資助,前後改轉,亦有前盡餘復生義。雖亦由現生死相續,而種定有,頌偏說之。或為顯示真異熟,因果皆不離本識,故不說現。現異熟因,不即與果。轉識間斷,非異熟故。

變易生死は分段の前後の異熟の別尽別生無きと雖も、しかし数・数資し助けて前後改転す。もまた前の尽きて其余更に生ずるの義有り。現の生死相続に由ると雖も、しかし種は定めて有りて、頌は偏りてそれを説く。あるいは真の異熟を顯示する為に、因・果は倶に本識を離れず。ゆえに現を説かず。現の異熟因はすなわち果と与せず。転識は間断して、異熟に非ざるのゆえん。

前、中、後際,生死輪迴,不待外緣,既由內識,淨法相續,應知亦然。謂無始來,依附本識,有、無漏種,由轉識等,數數燻發,漸漸增勝,乃至究竟,得成佛時,轉捨本來雜染識種,轉得始起清淨種識,任持一切功德種子。由本願力,盡未來際,起諸妙用,相續無窮。

前・中・後の際の生死輪回は外縁を待たず。すでに内識に由れば、浄法の相続もまさに然るべしと知る。いわゆる無始より来り本識に依附して、有・無漏の種有りて、転識等に由って数・数薫発して、漸々増勝して、乃至究竟にして仏を成ずるを得る時、本来の雑染識種を転捨して、始起の清浄種識を転得して、一切の功徳種子を任持す。本願力に由って未来際を尽くして諸々の妙用を起こして、相続して窮まること無し。

由此應知,唯有內識。

これに由ってまさに知るべし、唯だ内識有り。

若唯有識,何故世尊處處經中說有三性?

もし唯だ識有らば、なんの故にか世尊は処処の経の中に三性有りと説く。

應知三性亦不離識。

まさに知るべし、三性もまた識を離れず。

所以者何?

なんの故か。

頌曰:

頌に説く:

20由彼彼遍計,遍計種種物,

彼彼の遍計に由って、種種の物を遍計す。

此遍計所執,自性無所有。

この遍計所執の自性は有る所無し。

21依他起自性,分別緣所生。

依他起の自性は、分別の縁の生ずる所なり。

圓成實於彼,常遠離前性。

圓成實は彼に於て、常に前の性を遠離す。

22故此與依他,非異非不異,

ゆえにこれと依他とは、異に非ず不異に非ず。

如無常等性,非不見此彼。

無常等の性の如く、これを見ざれば彼に非ず。

論曰:周遍計度,故名遍計;品類眾多,說為「彼彼」。謂能遍計虛妄分別。即由彼彼虛妄分別,遍計種種所遍計物:謂所妄執蘊、處、界等,若法、若我自性差別。此所妄執自性差別,總名遍計所執自性。如是自性,都無所有,理、教推徵,不可得故。

論に説く:周遍に計度するがゆえに名づけて遍計という。品類众多なるがゆえに「彼彼」と説く。いわゆる能く遍計する虚妄分別。すなわち彼彼の虚妄分別に由って、種種の遍計する所の物を遍計す。いわゆる妄に執する所の蘊・處・界等、あるいは法あるいは我の自性差別。この妄に執する所の自性差別を総じて名づけて遍計所執の自性という。かくのごとき自性は倶に有る所無し。理・教に推征して求むるを得ざるのゆえん。

或初句顯能遍計識,第二句示所遍計境,後半方申遍計所執若我、若法自性非有,已廣顯彼不可得故。

あるいは初句は能く遍計する識を顯示し、第二句は遍計する所の境を示し、後半は纔めて遍計所執のもし我もし法の自性は有に非ざるを申す。已に広くそれらの求むるを得ざるを顯すのゆえん。

初能遍計,自性云何?

初めの能く遍計するは自性いかん。

有義:八識及諸心所,有漏攝者,皆能遍計,虛妄分別為自性故;皆似所取、能取現故;說阿賴耶以遍計所執自性,妄執種為所緣故。

一義有り:八識および諸心所の有漏の摂する所は倶に能く遍計す。虚妄分別を以って自性と為すのゆえん。倶に所取・能取に似て現ずるのゆえん。阿頼耶は遍計所執の自性・妄執の種を以って所縁と為すと説くのゆえん。

有義:第六、第七心品執我、法者,是能遍計。

一義有り:第六・第七の心品の我・法を執するは是れ能く遍計するなり。

唯說意識能遍計故,意及意識名意識故;計度分別能遍計故;執我、法者必是慧故;二執必與無明俱故;不說無明有善性故;痴、無痴等不相應故;不見有執導空智故;執有、達無不俱起故;曾無有執非能燻故。

ただ意識は能く遍計すと説くのゆえん。意および意識を名づけて意識というのゆえん。計度分別は能く遍計するのゆえん。我・法を執するは必ず是れ慧なるのゆえん。二執は必ず無明と倶のゆえん。無明は善性有りと説かざるのゆえん。癡・無癡等は相応せざるのゆえん。執有りて空智を導くを見ざるのゆえん。有を執し無を達するは倶に起こらざるのゆえん。曽て執有りて能く薫するに非ざるのゆえん。

有漏心等不證實故,一切皆名虛妄分別。雖似所取、能取相現,而非一切能遍計攝,勿無漏心亦有執故,如來後得應有執故。經說佛智現身、土等種種影像,如鏡等故,若無緣用應非智等。雖說藏識緣遍計種,而不說唯,故非誠證。由斯理趣,唯於第六、第七心品,有能遍計。

有漏の心等は実を証せざるのゆえんに、一切を倶に名づけて虚妄分別という。所取・能取の相に似て現ずると雖も、しかし一切の能く遍計するの摂する所に非ず。無漏心をしてもまた執有らしむること莫れとのゆえん。如来の後得はまさに執有るべきのゆえん。経に仏智は身・土等の種種の影像を現ずと説く。鏡等の如きのゆえん。もし縁の用無ければまさに智等に非ざるべし。蔵識は遍計の種に縁ずと説くと雖も、しかし唯と説かず。ゆえに誠証に非ず。この理趣に由って、ただ第六・第七の心品に於て能く遍計する有り。

識品雖二,而有二、三、四、五、六、七、八、九、十等遍計不同,故言「彼彼」。

識品は二なると雖も、しかし二・三・四・五・六・七・八・九・十等の遍計同じからざる有り。ゆえに「彼彼」と説く。

次所遍計自性云何?《攝大乘》說是依他起,遍計心等所緣緣故。圓成實性寧非彼境?真非妄執所緣境故,依展轉說亦所遍計。遍計所執雖是彼境,而非所緣緣,故非所遍計。

次に遍計する所の自性はいかん。《摂大乗》に是れ依他起と説く。遍計の心等の所縁縁なるのゆえん。圓成實性はどうしてそれらの境に非ざる。真は妄執の縁ずる所の境に非ざるのゆえん。展転に依って説けばもまた遍計する所なり。遍計所執はそれらの境なると雖も、しかし所縁縁に非ず。ゆえに遍計する所に非ず。

遍計所執,其相云何?與依他起,復有何別?

遍計所執の行相はいかん。依他起とまた何の分別か有らん。

有義:三界心及心所,由無始來虛妄燻習,雖各體一,而似二生:謂見、相分,即能、所取。如是二分,情有理無,此相說為遍計所執。二所依體,實託緣生,此性非無,名依他起,虛妄分別緣所生故。

一義有り:三界の心および心所は無始より来る虚妄薫習に由って、各々体一なると雖も、しかし二に似て生ず。いわゆる見・相分にしてすなわち能・所取。かくのごとき二分は情有りて理無し。この相を説いて遍計所執と為す。二の依る所の体は実に縁に託して生ず。この性は無に非ず。名づけて依他起という。虚妄分別の縁の生ずる所なるのゆえん。

云何知然?諸聖教說:虛妄分別是依他起,二取名為遍計所執。

どうしてかくのごときを知る。諸聖教に説く:虚妄分別は是れ依他起なり。二取を名づけて遍計所執という。

有義:一切心及心所,由燻習力所變二分,從緣生故,亦依他起。遍計依斯妄執定實有無、一異、俱不俱等,此二方名遍計所執。

一義有り:一切の心および心所は薫習力の変ずる所の二分に由って、縁に従って生ずるのゆえんに、もまた是れ依他起なり。遍計はこれに依って妄りに定めて実の有無・一異・倶不倶等を執す。この二は乃ち名づけて遍計所執という。

諸聖教說:唯量、唯二、唯種種,皆名依他起故。又相等四法、十一識等,論皆說為依他起攝故。

諸聖教に説く:唯量・唯二・唯種種は倶に名づけて依他起というのゆえん。また相等の四法・十一識等は論に倶に説いて依他起の摂する所と為すのゆえん。

不爾,無漏後得智品二分,應名遍計所執。許應聖智不緣彼生,緣彼智品應非道諦;不許應知有漏亦爾。又若二分是遍計所執,應如兔角等非所緣緣,遍計所執體非有故。又應二分不燻成種,後識等生,應無二分。又諸習氣是相分攝,豈非有法能作因緣?若緣所生內相、見分,非依他起,二所依體,例亦應然,無異因故。

この如しに非ず。無漏の後得智品の二分はまさに名づけて遍計所執と言うべし。かの聖智はそれらに縁じて生ぜずと許すべくして、それらに縁ずれば智品はまさに道諦に非ざるべし。まさに有漏もまたこの如しと知るべきを許さず。またもし二分は遍計所執なれば、まさに兎角等の如く所縁縁に非ざるべし。遍計所執の体は有に非ざるのゆえん。またまさに二分は薫じて種を成さざるべし。後の識等の生ずるはまさに二分無かるべし。また諸習気は相分の摂する所なり。あに非有の法は能く因縁を作さんや。もし縁の生ずる所の内の相・見分は依他起に非ずんば、二の依る所の体は例してもまたまさに然るべし。異因無きのゆえん。

由斯理趣,眾緣所生心、心所體及相、見分,有漏、無漏皆依他起。

この理趣に由って、衆縁の生ずる所の心・心所の体および相・見分は、有漏・無漏倶に是れ依他起なり。

依他眾緣而得起故。頌言:「分別緣所生」者,應知且說染分依他,淨分依他亦圓成故。或諸染淨心、心所法,皆名分別,能緣慮故。是則一切染、淨依他,皆是此中依他起攝。

他の衆縁に依って起こるを得るのゆえん。頌に説く「分別の縁の生ずる所」は、まさに且く染分の依他を説くと知るべし。浄分の依他もまた圓成なるのゆえん。あるいは諸々の染浄の心・心所法は倶に名づけて分別という。能く縁慮するのゆえん。然らば一切の染・浄の依他は倶に是れここの依他起の摂する所なり。

二空所顯圓滿成就,諸法實性,名圓成實。顯此遍、常,體非虛謬,簡自、共相、虛空、我等。無漏有為,離倒、究竟、勝用周遍,亦得此名。然今頌中,說初非後。

二空の顯す所の圓滿成就は諸法の実性にして、名づけて圓成實という。この遍・常を顯示して、体は虚謬に非ず。自・共相・虚空・我等を簡別す。無漏の有為は倒を離れて究竟にして勝用周遍して、もまたこの名を得。しかし今頌の中は初を説いて後に非ず。

此即於彼依他起上,常遠離前遍計所執,二空所顯真如為性。

これすなわちかの依他起の上に於て、常に前の遍計所執を遠離して、二空の顯す所の真如を性と為す。

說「於彼」言:顯圓成實與依他起,不即不離;「常遠離」言:顯妄所執能、所取性,理恆非有。「前」言義顯不空依他;「性」顯二空非圓成實,真如離有離無性故。

「於彼」を説く言は圓成實と依他起とは即せず離れざるを顯示す。「常遠離」を説く言は妄に執する所の能・所取の性は理恒に有に非ざるを顯示す。「前」の言は義は不空の依他を顯す。「性」は二空は圓成實に非ざるを顯す。真如は有を離れ無を離るる性なるのゆえん。

由前理故,此圓成實與彼依他起,非異非不異。異應真如非彼實性;不異此性應是無常。彼此俱應淨、非淨境,則本後智,用應無別。

前の理に由るのゆえんに、この圓成實とかの依他起とは、異に非ず不異に非ず。異なればまさに真如はそれらの実性に非ざるべし。不異なればこの性はまさに無常ならん。彼此倶にまさに浄・非浄の境ならば、すなわち本・後の智の用はまさに分別無かるべし。

云何二性,非異非一?如彼無常、無我等性。無常等性與行等法異,應彼法非無常等;不異此應非彼共相。

どうして二性は異に非ず一に非ず。かの無常・無我等の性の如し。無常等の性は行等の法と異なれば、まさにそれらの法は無常等に非ざるべし。不異なればこれはまさにそれらの共相に非ざるべし。

由斯喻顯,此圓成實與彼依他,非一非異,法與法性,理必應然,勝義、世俗,相待有故。

この喩に由って顯す。この圓成實とかの依他とは一に非ず異に非ず。法と法性とは理必ずまさに然るべし。勝義・世俗は相待して有るのゆえん。

非不證見此圓成實,而能見彼依他起性。

この圓成實を証見せざるに非ざれば、しかる後に能くかの依他起性を見るに非ず。

未達遍計所執性空,不如實知依他有故。無分別智證真如已,後得智中,方能了達依他起性如幻事等。

未だ遍計所執性の空を達せざれば、依他の有を実の如く知らざるのゆえん。無分別智は真如を証し已って、後得智の中に乃ち能く依他起性は幻事等の如くを了達す。

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