成唯識論巻第四
雖無始來心、心所法,已能緣自相、見分等,而我、法執恆俱行故,不如實知。眾緣所引自心、心所,虛妄變現,猶如幻事、陽焰、夢境、鏡像、光影、谷響、水月、變化所成,非有似有。依如是義,故有頌言:
無始より来り心・心所法は已に能く自の相・見分等に縁ずると雖も、しかし我・法執は恒に倶行するのゆえんに、実の如く知らず。衆縁の引く所の自心・心所は虚妄に變現して、猶ほ幻事・陽焰・夢境・鏡像・光影・谷響・水月・變化の成ずる所のごとく、有に非ずして有に似たり。かくのごとき義に依って、ゆえに頌有りて説く:
「非不見真如,而能了諸行,
「真如を見ざるに非ざれば、しかるに能く諸行を了せん、
皆如幻事等,雖有而非真。」
倶に幻事等の如く、有ると雖もしかし真に非ず。」
此中意說:三種自性,皆不遠離心、心所法。
ここに意は説く:三種の自性は倶に心・心所法を遠離せず。
謂心、心所及所變現,眾緣生故,如幻事等,非有、似有,誑惑愚夫,一切皆名依他起性。愚夫於此橫執我法、有無、一異、俱不俱等,如空花等,性、相都無,一切皆名遍計所執。依他起上,彼所妄執我、法俱空,此空所顯識等真性,名圓成實。
いわゆる心・心所以及び変現する所は、衆縁の生ずる所なるのゆえん、幻事等の如く、有に非ずして有に似たりて、愚夫を誑惑す。一切を倶に名づけて依他起性という。愚夫はここに於て横に我法・有無・一異・倶不倶等を執す。空華等の如く、性・相倶に無し。一切を倶に名づけて遍計所執という。依他起の上にそれらの妄に執する所の我・法は倶に空なり。この空の顯す所の識等の真性を名づけて圓成實という。
是故此三,不離心等。
ゆえにこの三は心等を離れず。
虛空、擇滅、非擇滅等,何性攝耶?
虚空・択滅・非択滅等は何の性の摂する所ぞ。
三皆容攝。
三は倶に摂を容す。
心等變似虛空等相,隨心生故,依他起攝;愚夫於中,妄執實有,此即遍計所執性攝;若於真如,假施設有虛空等義,圓成實攝。有漏心等,定屬依他;無漏心等,容二性攝。眾緣生故,攝屬依他;無顛倒故,圓成實攝。
心等は変じて虚空等の相に似たるは、心に随って生ずるのゆえん、依他起の摂する所なり。愚夫は中に於て妄りに実有を執す。これすなわち遍計所執性の摂する所なり。もし真如に於て假に施設して虚空等の義有れば、圓成實の摂する所なり。有漏の心等は定めて依他に属す。無漏の心等は二性の摂する所を容す。衆縁の生ずる所なるのゆえんに依他に摂属し、顛倒無きのゆえんに圓成實の摂する所なり。
如是三性與七真如,云何相攝?
かくのごとき三性と七真如とはどうして相摂する。
七真如者:一、流轉真如,謂有為法,流轉實性;二、實相真如,謂二無我,所顯實性;三、唯識真如,謂染淨法,唯識實性;四、安立真如,謂苦實性;五、邪行真如,謂集實性;六、清淨真如,謂滅實性;七、正行真如,謂道實性。
七真如とは、一、流転真如とは、いわゆる有為法の流転の実性。二、實相真如とは、いわゆる二無我の顯す所の実性。三、唯識真如とは、いわゆる染浄法の唯識の実性。四、安立真如とは、いわゆる苦の実性。五、邪行真如とは、いわゆる集の実性。六、清浄真如とは、いわゆる滅の実性。七、正行真如とは、いわゆる道の実性。
此七實性,圓成實攝,根本、後得二智境故;隨相攝者,流轉、苦、集三,前二性攝,妄執雜染故;餘四皆是圓成實攝。
この七の実性は圓成實の摂する所なり。根本・後得の二智の境なるのゆえん。相に随って摂するは、流転・苦・集の三は前の二性の摂する所なり。妄執は雑染なるのゆえん。其余の四は倶に圓成實の摂する所なり。
三性六法,相攝云何?彼六法中,皆具三性。色、受、想、行、識及無為,皆有妄執緣生理故。
三性と六法とは相摂いかん。かの六法の中に倶に三性を具す。色・受・想・行・識および無為は倶に妄執・縁生の理有るのゆえん。
三性五事,相攝云何?
三性と五事とは相摂いかん。
諸聖教說,相攝不定:
諸聖教に説く所は相摂定まらず。
謂或有處說:依他起攝彼相、名、分別、正智;圓成實性攝彼真如;遍計所執不攝五事。彼說有漏心、心所法,變似所詮,說名為相;似能詮現,施設為名;能變心等,立為分別;無漏心等,離戲論故,但總名正智,不說能、所詮。四從緣生,皆依他攝。
いわゆるあるいは処有りて説く:依他起はそれらの相・名・分別・正智を摂し、圓成實性はそれらの真如を摂し、遍計所執は五事を摂せず。彼らは説く、有漏の心・心所法は変じて詮する所に似たるを説いて名づけて相と為り、能く詮するに似て現ずるを施設して名と為し、能く変ずる心等を立てて分別と為し、無漏の心等は戯論を離れるのゆえんに、ただ総じて名づけて正智というて能・所詮を説かず。四は縁に従って生ず。倶に依他の摂する所なり。
或復有處說:依他起攝相、分別;遍計所執,唯攝彼名;正智、真如,圓成實攝。彼說有漏心及心所相分名相,餘名分別;遍計所執,都無體故,為顯非有,假說為名;二無倒故,圓成實攝。
あるいはまた処有りて説く:依他起は相・分別を摂し、遍計所執はただそれらの名を摂し、正智・真如は圓成實の摂する所なり。彼らは説く、有漏の心および心所の相分を名づけて相と為し、其余を名づけて分別という。遍計所執は倶に体無きのゆえんに、非有を顯さんが為に假に名と説く。二は倒無きのゆえんに圓成實の摂する所なり。
或有處說:依他起性唯攝分別;遍計所執,攝彼相、名;正智、真如,圓成實攝。彼說有漏心及心所相、見分等,總名分別,虛妄分別為自性故,遍計所執,能詮、所詮,隨情立為名、相二事。
あるいは処有りて説く:依他起性はただ分別を摂す。遍計所執はそれらの相・名を摂す。正智・真如は圓成實の摂する所。彼らは説く、有漏の心および心所の相・見分等を総じて名づけて分別という。虚妄分別を以って自性と為すのゆえん。遍計所執は能詮・所詮にて、情に随って名・相の二事を立つ。
復有處說:名屬依他起性,義屬遍計所執。彼說有漏心、心所法相、見分等,由名勢力成所遍計,故說為名;遍計所執,隨名橫計,體實非有,假立義名。
また処有りて説く:名は依他起性に属し、義は遍計所執に属す。彼らは説く、有漏の心・心所法の相・見分等は名の勢力に由って遍計する所を成ず。ゆえに名と説く。遍計所執は名に随って横に計す。体は実に有に非ず。假に義の名を立つ。
諸聖教中所說五事,文雖有異,而義無違。然初所說不相雜亂,如《瑜伽論》廣說應知。
諸聖教の中の説く所の五事は文は異有ると雖も、しかし義は違無し。しかし初の説く所は雑乱せず。《瑜伽論》の広く説けるが如くまさに知るべし。
又聖教中說有五相,此與三性相攝云何?
また聖教の中に五相有りと説く。これと三性との相摂はいかん。
所詮、能詮各具三性:謂妄所計,屬初性攝;相、名、分別,隨其所應,所詮、能詮,屬依他起;真如、正智,隨其所應,所詮、能詮,屬圓成實,後得變似能詮相故。
詮する所・能く詮するは各々三性を具す。いわゆる妄に計する所は初性の摂する所に属す。相・名・分別はその応ずる所に随って、詮する所・能く詮するは依他起に属す。真如・正智はその応ずる所に随って、詮する所・能く詮するは圓成實に属す。後得は能く詮する相に似て変ずるのゆえん。
二相屬相,唯初性攝,妄執義、名,定相屬故。
二相の属相はただ初性の摂する所なり。妄執の義・名は定めて相属するのゆえん。
彼執著相,唯依他起,虛妄分別為自性故。
かの執著の相はただ依他起なり。虚妄分別を以って自性と為すのゆえん。
不執著相,唯圓成實,無漏智等為自性故。
執著せざる相はただ圓成實なり。無漏智等を以って自性と為すのゆえん。
又聖教中說四真實,與此三性相攝云何?
また聖教の中に四真実を説く。これと三性との相摂はいかん。
世間、道理所成真實,依他起攝;三事攝故;二障淨智所行真實,圓成實攝;二事攝故。
世間・道理の成ずる所の真実は依他起の摂する所なり。三事の摂する所なるのゆえん。二障の浄智の行ずる所の真実は圓成實の摂する所なり。二事の摂する所なるのゆえん。
《辯中邊論》說:初真實唯初性攝,共所執故;第二真實通屬三性,理通執無執,雜染、清淨故;後二真實唯屬第三。
《辯中辺論》に説く:初の真実はただ初性の摂する所なり。共の執する所なるのゆえん。第二の真実は三性に通属す。理は執・無執・雑染・清浄に通ずるのゆえん。後の二真実はただ第三に属す。
三性四諦,相攝云何?
三性と四諦とは相摂いかん。
四中一一皆具三性。
四中の一一は倶に三性を具す。
且苦諦中無常等四各有三性。無常三者:一、無性無常,性常無故;二、起盡無常,有生滅故;三、垢淨無常,位轉變故。
且く苦諦の中の無常等の四は各々三性有り。無常の三とは、一、無性無常とは性は常無のゆえん。二、起尽無常とは生滅有るのゆえん。三、垢浄無常とは位の転変するのゆえん。
苦有三者:一、所取苦,我、法二執所依取故;二、事相苦,三苦相故;三、和合苦,苦相合故。
苦の三有るとは、一、所取苦とは我・法の二執の依りて取る所のゆえん。二、事相苦とは三苦の相なるのゆえん。三、和合苦とは苦相の合するのゆえん。
空有三者:一、無性空,性非有故;二、異性空,與妄所執自性異故;三、自性空,二空所顯為自性故。
空の三有るとは、一、無性空とは性は有に非ざるのゆえん。二、異性空とは妄に執する所の自性と異なるのゆえん。三、自性空とは二空の顯す所を自性と為すのゆえん。
無我三者:一、無相無我,我相無故;二、異相無我,與妄所執我相異故;三、自相無我,無我所顯為自相故。
無我の三とは、一、無相無我とは我相無きのゆえん。二、異相無我とは妄に執する所の我相と異なるのゆえん。三、自相無我とは無我の顯す所を自相と為すのゆえん。
集諦三者:一、習氣集,謂遍計所執自性執習氣,執彼習氣假立彼名;二、等起集,謂業、煩惱;三、未離繫集,謂未離障真如。
集諦の三とは、一、習気集とはいわゆる遍計所執の自性を執する習気にて、彼の習気を執して假に彼の名を立つ。二、等起集とはいわゆる業・煩悩。三、未離繫集とはいわゆる未だ障を離れざる真如。
滅諦三者:一、自性滅,自性不生故;二、二取滅,謂擇滅二取不生故;三、本性滅,謂真如故。
滅諦の三とは、一、自性滅とは自性は生ぜざるのゆえん。二、二取滅とはいわゆる択滅にて二取は生ぜざるのゆえん。三、本性滅とはいわゆる真如なるのゆえん。
道諦三者:一、遍知道,能知遍計所執故;二、永斷道,能斷依他起故;三、作證道,能證圓成實故。然遍知道,亦通後二。
道諦の三とは、一、遍知道とは能く遍計所執を知るのゆえん。二、永断道とは能く依他起を断ずるのゆえん。三、作证道とは能く圓成實を証するのゆえん。しかし遍知道はもまた後の二に通ず。
七三三性,如次配釋。今於此中,所配三性,或假或實,如理應知。
七と三の三性はこの次第に按して配釋す。今ここに於て配する所の三性はあるいは假あるいは実なり。理の如くまさに知るべし。
三解脫門所行境界,與此三性相攝云何?理實皆通,隨相各一。空、無願、相,如次應知。緣此復生三無生忍:一、本性無生忍;二、自然無生忍;三、惑苦無生忍。如次此三,是彼境故。
三解脱門の行ずる所の境界はこの三性と相摂いかん。理実は倶に通じて、相に随って各々一。空・無願・相はこの次第に按してまさに知るべし。これに縁じて更に三の無生忍を生ず。一、本性無生忍。二、自然無生忍。三、惑苦無生忍。この次第に按してこの三はそれらの境なるのゆえん。
此三云何攝彼二諦?應知世俗具此三種;勝義唯是圓成實性。世俗有三:一、假世俗;二、行世俗;三、顯了世俗。如次應知即此三性。勝義有三:一、義勝義,謂真如,勝之義故;二、得勝義,謂涅槃,勝即義故;三、行勝義,謂聖道,勝為義故。無變、無倒,隨其所應,故皆攝在圓成實性。
この三はどうしてかの二諦を摂する。まさに知るべし、世俗は具にこの三種有り。勝義はただ圓成實性のみ。世俗は三有り。一、假世俗。二、行世俗。三、顯了世俗。この次第に按してまさにすなわちこの三性と知るべし。勝義は三有り。一、義勝義とはいわゆる真如にして勝の義なるのゆえん。二、得勝義とはいわゆる涅槃にして勝はすなわち義なるのゆえん。三、行勝義とはいわゆる聖道にして勝を義と為すのゆえん。變無く倒無し。その応ずる所に随う。ゆえに倶に圓成實性に収攝す。
如是三性,何智所行?遍計所執,都非智所行,以無自體,非所緣緣故。愚夫執有,聖者達無,亦得說為凡、聖智境。依他起性,二智所行。圓成實性,唯聖智境。
かくのごとき三性は何の智の行ずる所ぞ。遍計所執は倶に智の行ずる所に非ず。自體無きに因りて、所縁縁に非ざるのゆえん。愚夫は有りと執し、聖者は無を達すれば、もまた凡・聖の智境と説くを得。依他起性は二智の行ずる所。圓成實性はただ聖智の境のみ。
此三性中,幾假?幾實?遍計所執,妄安立故,可說為假;無體相故,非假非實。依他起性,有實有假:聚集、相續、分位性故,說為假有;心、心所、色,從緣生故,說為實有。若無實法,假法亦無,假依實因而施設故。圓成實性,唯是實有,不依他緣而施設故。
この三性の中に幾つか假、幾つか実。遍計所執は妄に安立するのゆえんに假と説くべし。体相無きのゆえんに假にも実にも非ず。依他起性は実有り假有り。聚集・相続・分位性なるのゆえんに假有と説く。心・心所・色は縁に従って生ずるのゆえんに実有と説く。もし実法無ければ假法もまた無し。假は実因に依って施設するのゆえん。圓成實性はただ実有のみ。他縁に依らずして施設するのゆえん。
此三為異?為不異耶?應說俱非,無別體故;妄執、緣起、真義別故。
この三は異と為すか不異と為すか。まさに倶に非ずと説くべし。別体無きのゆえん。妄執・縁起・真義に分別するのゆえん。
如是三性,義類無邊,恐厭繁文,略示綱要。
かくのごとき三性は義類辺無し。繁文を厭わんことを恐れて、略して綱要を示す。
