成唯識論巻第四
《解脫經》中,亦別說有此第七識。如彼頌言:
《解脱経》の中にもまた別にこの第七識有りと説く。かの頌の説けるが如く:
「染汙意恆時,諸惑俱生滅,
「染汚の意は恒時に、諸惑と倶に生滅す。
若解脫諸惑,非曾非當有。」
もし諸惑を解脱せば、曽に非ず当に非ず。」
彼經自釋此頌義言:有染汙意,從無始來,與四煩惱,恆俱生滅。謂我見、我愛,及我慢、我痴。對治道生,斷煩惱已,此意從彼便得解脫。爾時,此意相應煩惱,非唯現無,亦無過、未,過去、未來,無自性故。如是等教,諸部皆有,恐厭廣文,故不繁述。
かの経は自らこの頌の義を釈して説く:染汚意有りて、無始より来り四煩悩と恒に倶に生滅す。いわゆる我見・我愛、および我慢・我癡。対治の道生じて煩悩を断じての後、この意はそれより便ち解脱を得。かの時、この意に相応の煩悩は、ただ現に無きのみならず、また過・未も無し。過去・未来は自性無きが故に。かくのごとき等の教は諸部皆なお有り。広文を厭わんことを畏れて、ゆえに繁述せず。
已引聖教;當顯正理。
已に聖教を引きたり。まさに正理を顯すべし。
謂契經說:不共無明,微細恆行,覆蔽真實。若無此識,彼應非有。
いわゆる契経に説く:不共無明は微細にして恒に行い、真実を覆蔽すと。もしこの識無ければ、それはまさに有に非ざるべし。
謂諸異生,於一切分,恆起迷理不共無明,覆真實義,障聖慧眼。如伽他說:
いわゆる諸異生は一切分にて恒に理に迷う不共無明を起こして、真実の義を覆して聖の慧眼を障る。偈に説けるが如く:
「真義心當生,常能為障礙,
「真義の心は当に生ずるに、常に能く障碍と為る。
俱行一切分,謂不共無明。」
一切分に倶行す、いわゆる不共無明。」
是故契經說:異生類恆處長夜,無明所盲,惛醉纏心,曾無醒覺。
ゆえに契経に説く:異生類は恒に長夜に処り、無明に盲され、惛醉は心に纏いて、曽て醒覚無し。
若異生位,有暫不起此無明時,便違經義。俱異生位,迷理無明,有行、不行,不應理故。此依六識,皆不得成。應此間斷,彼恆染故。許有末那,便無此失。
もし異生位に暫くこの無明を起こさざる時有れば、便ち経義に違す。倶に異生位なれば、理に迷う無明は行有り不行有るは理に応えず。これは六識に依りて皆成立すること能わず。これは間断して、それは恒染ならん。末那有りと許せば便ちこの失無し。
染意恆與四惑相應,此俱無明,何名不共?
染意は恒に四惑と相応す。この倶の無明はどうして名づけて不共という。
有義:此俱我見、慢、愛,非根本煩惱,名不共何失?
一義有り:これに倶の我見・慢・愛は根本煩悩に非ず。名づけて不共というも何の失かあらん。
有義:彼說理、教相違。純隨煩惱中,不說此三故,此三,六、十煩惱攝故。處處皆說染汙末那與四煩惱恆相應故。
一義有り:彼らの説は理・教に相違す。純随煩悩の中にこの三を説かず。この三は六・十の煩悩の摂する所なり。処処に皆染汚末那は四煩悩と恒に相応すと説けり。
應說四中,無明是主,雖三俱起,亦名不共。從無始際,恆內惽迷,曾不省察,痴增上故。
まさに説くべし、四中に無明は主なり。三と倶に起こると雖も、もまた名づけて不共という。無始の際より恒に内に昏迷して、曽て省察せず。癡の増上なるが故に。
此俱見等,應名相應,若為主時,應名不共?如無明故,許亦無失。
この倶の見等はまさに名づけて相応と言うべく、もし主と為る時はまさに名づけて不共と言わんか。無明の如く、許すもまた失無し。
有義:此痴名不共者,如不共佛法,唯此識有故。
一義有り:この癡を名づけて不共という。不共の仏法の如く、ただこの識に有り。
若爾,餘識相應煩惱,此識中無,應名不共。依殊勝義,立不共名,非互所無,皆名不共。謂第七識相應無明,無始恆行,障真義智,如是勝用,餘識所無,唯此識有,故名不共。既爾,此俱三亦應名不共。無明是主,獨得此名。或許餘三,亦名不共;對餘「痴」故,且說無明。
もし然らば、其余の識に相応する煩悩は、この識の中に無ければ、まさに名づけて不共と言うべし。殊勝の義に依って不共の名を立つ。並びて互いに無き所は皆名づけて不共というに非ず。いわゆる第七識に相応する無明は無始に恒に行いて、真義の智を障る。かくのごとき勝用は其余の識の無き所にして、ただこの識に有り。ゆえに名づけて不共という。すでに然らば、この倶の三もまたまさに名づけて不共と言うべし。無明は主にして独りこの名を得。あるいは其余の三を許してもまた名づけて不共という。其余の「癡」に対して、且く無明を説く。
不共無明,總有二種:一、恆行不共,餘識所無;二、獨行不共,此識非有。
不共無明は総じて二種有り。一、恒行不共。其余の識の無き所。二、独行不共。この識には有に非ず。
故《瑜伽》說無明有二:若貪等俱者,名相應無明;非貪等俱者,名獨行無明。是主獨行,唯見所斷。如契經說:「諸聖有學,不共無明,已永斷故,不造新業。」非主獨行,亦修所斷。忿等皆通見、修所斷故。
ゆえに《瑜伽》に無明は二有りと説く。もし貪等に倶なるは名づけて相応無明という。貪等に倶ならざるは名づけて独行無明という。是れ主の独行にしてただ見の断ずる所なり。契経に説けるが如く:「諸聖有学は不共無明を已に永断して、新業を造らず。」主に非ざる独行もまた修の断ずる所なり。忿等は皆見・修の断ずる所に通ず。
恆行不共,餘部所無;獨行不共,此、彼俱有。
恒行不共は其余の部の無き所。独行不共は此・彼に皆有り。
又契經說:眼、色為緣,生於眼識。廣說乃至意、法為緣,生於意識。若無此識,彼意非有。
また契経に説く:眼・色を縁として眼識を生ず。広く説けば乃至意・法を縁として意識を生ず。もしこの識無ければ、かの意は有に非ず。
謂如五識,必有眼等增上不共俱有所依。意識既是六識中攝,理應許有如是所依。此識若無,彼依寧有?
いわゆる五識の如く、必ず眼等の増上・不共・倶有の所依有り。意識はすでに六識中の摂する所なれば、理まさにかくのごとき所依有ると許すべし。この識もし無ければ、かの依はどうして有らん。
不可說色為彼所依,意非色故。意識應無隨念、計度二分別故。
まさに色をかの所依と説くべからず。意は色に非ざるが故に。意識はまさに随念・計度の二分別無かるべし。
亦不可說五識無有俱有所依,彼與五根俱時而轉,如牙、影故。又識與根,既必同境,如心、心所,決定俱時。
またまさに五識は倶有の所依無しと説くべからず。彼らは五根と倶時に転ずるが故に。牙・影の如し。また識と根とはすでに必ず境を同じくせば、心・心所の如く、決定して倶時なり。
由此理趣,極成意識如眼等識必有不共,顯自名、處。等無間不攝,增上生所依,極成六識隨一攝故。
これに由る理趣にて、極成の意識は眼等識の如く、必ず不共有りて、自らの名・処を顯す。等無間は摂せず、増上生の所依なり。極成の六識は随一の摂する所なり。
又契經說:思量名意。若無此識,彼應非有。
また契経に説く:思量を名づけて意という。もしこの識無ければ、それはまさに有に非ざるべし。
謂若意識現在前時,等無間意已滅非有。過去、未來,理非有故。彼思量用,定不得成。既爾,如何說名為意?若謂假說,理亦不然。無正思量,假依何立?若謂現在,曾有思量,爾時名識,寧說為意?
いわゆるもし意識の現前する時、等無間の意は已に滅して有に非ず。過去・未来は理有に非ず。かの思量の用は定めて成ずるを得ず。すでに然らば、どうして名づけて意と説かん。もし假説と説かば、理また然らず。正の思量無くして、假は何に依って立たん。もし現在に曽て思量有りて、かの時名づけて識と為す。どうして意と説かん。
故知別有第七末那,恆、審思量,正名為意,已滅依此,假立「意」名。
ゆえに別に第七末那有りて、恒・審に思量して、正しく名づけて意と知る。已に滅せしはこれに依って假に「意」の名を立つ。
又契經說:無想、滅定染意若無,彼應無別。
また契経に説く:無想・滅定は染意もし無ければ、彼らはまさに別無かるべし。
謂彼二定,俱滅六識及彼心所,體數無異。若無染意,於二定中,一有一無,彼二何別?若謂加行、界、地、依等有差別者,理亦不然。彼差別因,由此有故。此若無者,彼因亦無。
いわゆるかの二定は皆六識およびそれらの心所を滅す。体数は異無し。もし染意無ければ、二定の中に一有り一無し。かの二に何の別かあらん。もし加行・界・地・依等に差別有りと説かば、理また然らず。かの差別の因はこれに由って有り。これもし無ければ、かの因もまた無し。
是故定應別有此意。
ゆえに決定してまさに別にこの意有るべし。
又契經說:無想有情,一期生中,心、心所滅。若無此識,彼應無染。
また契経に説く:無想の有情は一期生の中に心・心所は滅す。もしこの識無ければ、彼らはまさに染無かるべし。
謂彼長時,無六轉識;若無此意,我執便無。非於餘處有具縛者,一期生中,都無我執。彼無我執,應如涅槃,便非聖賢同所訶厭。
いわゆる彼らは長時に六転識無し。もしこの意無ければ、我執は便ち無し。並びて余処に在りて具縛の人有りて、一期生の中に皆我執無きに非ず。彼らの我執無きはまさに涅槃の如く、便ち聖賢の同じく訶厭する所に非ざるべし。
初、後有故,無如是失。中間長時無故,有過。去、來有故,無如是失。彼非現、常,無故,有過。所得無故,能得亦無。
初・後に有れば、この失無し。中間長時に無ければ、過有り。去・来に有れば、この失無し。彼らは現に非ず常に非ずして、無ければ、過有り。得る所無ければ、得る能もまた無し。
不相應法,前已遮破。
不相応法は前に已に遮破せり。
藏識無故,燻習亦無。餘法受燻,已辯非理。
蔵識無ければ、薫習もまた無し。其余の法は薫を受くるは已に非理と弁ぜり。
故應別有染汙末那,於無想天恆起我執,由斯賢聖同訶厭彼。
ゆえにまさに別に染汚末那有りて、無想天にて恒に我執を起こすべし。これに由って賢聖は同じく彼らを訶厭す。
又契經說:異生善、染、無記心時,恆帶我執,若無此識,彼不應有。
また契経に説く:異生の善・染・無記心の時、恒に我執を帯び、もしこの識無ければ、それはまさに有るべからず。
謂異生類,三性心時,雖外起諸業,而內恆執我。由執我故,令六識中所起施等,不能亡相。
いわゆる異生類は三性心の時、外に諸業を起こすと雖も、しかし内に恒に我を執す。我を執するに由って、六識中に起こる所の施等をして相を亡ぜしめず。
故《瑜伽》說:染汙末那,為識依止,彼未滅時,相了別縛,不得解脫。末那滅已,相縛解脫。
ゆえに《瑜伽》に説く:染汚末那は識の依止と為る。それの未だ滅せざる時、相了別の縛にして解脱を得ず。末那の滅するの後、相縛は解脱す。
言相縛者,謂於境相不能了達,如幻事等。由斯見分相分所拘,不得自在,故名相縛。
相縛とは、いわゆる境相に対して了達すること能わざるを説く。幻事等の如し。これに由って見分は相分の拘する所にして自在を得ず。ゆえに名づけて相縛という。
依如是義,有伽他言:
かくのごとき義に依って、偈有りて説く:
「如是染汙意,是識之所依,
「かくのごとき染汚意は、是れ識の依る所。
此意未滅時,識縛終不脫。」
この意の未だ滅せざる時、識縛は終に脱せず。」
又善、無覆無記心時,若無我執,應非有漏。自相續中,六識煩惱與彼善等不俱起故。去、來緣縛,理非有故。非由他惑,成有漏故;勿由他解,成無漏故。
また善・無覆無記心の時、もし我執無ければ、まさに有漏に非ざるべし。自相続の中に六識の煩悩とそれらの善等とは倶に起こらず。去・来の縁縛は理有に非ず。並びて他惑に由って有漏を成すに非ず。他解に由って無漏を成さしむること莫れ。
又不可說:別有隨眠,是不相應,現相續起,由斯善等成有漏法。彼非實有,已極成故。
またまさに説くべからず:別に随眠有りて不相応にして、現に相続して起こり、これに由って善等は有漏法を成す。彼らは実有に非ざるは已に極成せり。
亦不可說:從有漏種,生彼善等,故成有漏。彼種先無因可成有漏故。
またまさに説くべからず:有漏種よりそれらの善等を生ず。ゆえに有漏を成す。かの種は先に因無くして有漏を成すべからず。
非由漏種,彼成有漏;勿學無漏心,亦成有漏故。
並びて漏種に由って彼らは有漏を成すに非ず。学の無漏心をしてもまた有漏を成さしむること莫れ。
雖由煩惱,引施等業,而不俱起,故非有漏正因;以有漏言,表漏俱故;又無記業,非煩惱引,彼復如何得成有漏?
煩悩に由って施等の業を引くと雖も、しかし倶に起こらず。ゆえに有漏の正因に非ず。有漏の言は漏に倶を表するが故に。また無記業は煩悩の引く所に非ず。彼らもまたどうして有漏を成ずるを得ん。
然諸有漏,由與自身現行煩惱俱生、俱滅,互相增益,方成有漏。由此燻成有漏法種,後時現起,有漏義成;異生既然,有學亦爾。無學有漏,雖非漏俱;而從先時有漏種起,故成有漏,於理無違。
しかし諸有漏は自身の現行煩悩と倶生・倶滅して、互相増益して、乃ち有漏を成す。これに由って薫じて有漏法種を成し、後時に現起して有漏の義成立す。異生はすでに然れば、有学もまたこの如し。無学の有漏は漏に倶に非ざると雖も、しかし先時の有漏種より起こるがゆえに有漏を成す。理上違背無し。
由有末那恆起我執,令善等法有漏義成。此意若無,彼定非有,故知別有此第七識。
末那有るに由って恒に我執を起こして、善等の法の有漏の義を成立せしむ。この意もし無ければ、それは定めて有に非ず。ゆえに別にこの第七識有るを知る。
證有此識,理趣甚多,隨《攝大乘》,略述六種,諸有智者,應隨信學。
この識有るを証するに理趣甚だ多し。《摂大乗》に随って略く六種を述ぶ。諸々の智者有らばまさに随って信学すべし。
然有經中說六識者,應知彼是隨轉理門,或隨所依六根說六,而識類別,實有八種。
しかし経の中に六識と説く有り。まさに知るべし、それは転理の門に随う。あるいは依る所の六根に随って六と説く。しかし識の類別は実に八種有り。
如是已說第二能變。第三能變,其相云何?
かくのごとく已に第二能変を説きたり。第三能変のその相はいかん。
頌曰:
頌に説く:
8次第三能變,差別有六種,
次に第三の能変は、差別に六種有り。
了境為性、相,善、不善、俱非。
境を了するを性・相と為して、善・不善・倶非なり。
論曰:次中思量能變識後,應辯了境能變識相。
論に説く:中の思量能変識に次いで、後にまさに了境能変識の相を弁ずべし。
此識差別總有六種,隨六根、境,種類異故。
この識の差別は総じて六種有り。六根・境に随って種類異なり。
