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成唯識論巻第四

唐 · 护法等造,玄奘译 · 第21巻 / 39

云何無貪?於有、有具,無著為性;對治貪著,作善為業。

何をか無貪と謂う。有・有具に対して、著無きを性と為す。貪著に対治して善を作すを業と為す。

云何無瞋?於苦、苦具,無恚為性;對治瞋恚,作善為業。

何をか無瞋と謂う。苦・苦具に対して、恚無きを性と為す。瞋恚に対治して善を作すを業と為す。

善心起時,隨緣何境,皆於有等,無著、無恚,觀有等立,非要緣彼。如前慚、愧,觀善、惡立,故此二種,俱遍善心。

善心の生起する時、何れの境に縁ずるに随っても、皆有等に対して著無く恚無し。有等を観て立つ。必ずそれらに縁ずるを須いず。前の慚・愧の善・悪を観て立つが如し。ゆえにこの二種は皆善心に遍す。

云何無痴?於諸理事,明解為性;對治愚痴,作善為業。

何をか無癡と謂う。諸々の理事に対して、明解を性と為す。愚癡に対治して善を作すを業と為す。

有義:無痴即慧為性。《集論》說:此報、教、證、智決擇為體,生得、聞、思、修所生慧。如次皆是決擇性故。

一義有り:無癡はすなわち慧を以って性と為す。《集論》に説く:これは報・教・証・智の決択を以って体と為し、生得・聞・思・修の所生慧なり。この次第に按すれば皆決択性たるのゆえん。

此雖即慧,為顯善品,有勝功能,如煩惱見,故復別說。

これはすなわち慧なると雖も、善品の殊勝の功能有るを顯示する為に、煩悩の見の如く、ゆえにまた別に説く。

有義:無痴非即是慧,別有自性,正對無明。如無貪、瞋,善根攝故。

一義有り:無癡はすなわち慧に非ず。別に自性有りて、正しく無明に対す。無貪・無瞋の如く、善根の摂する所なるのゆえん。

論說:大悲無瞋、痴攝,非根攝故。若彼無痴,以慧為性,大悲如力等,應慧等根攝。又若無痴無別自性,如不害等,應非實物。便違論說:十一善中,三世俗有,餘皆是實。

論に説く:大悲は無瞋・無癡の摂する所にして、根の摂する所に非ずとのゆえん。もし彼の無癡は慧を以って性と為さば、大悲は力等の如く、まさに慧等根の摂する所ならん。またもし無癡は別の自性無ければ、不害等の如く、まさに実物に非ざるべし。便ち論説に違背す:十一善の中に三は世俗有にして、其余は皆実なりと。

然《集論》說:慧為體者,舉彼因果,顯此自性。如以忍、樂,表「信」自體,理必應爾。

しかし《集論》に慧を以って体と為すと説くは、その因果を挙げて、この自性を顯示す。忍・楽を用いて「信」の自体を表するが如く、理必ずまさに然るべし。

以貪、瞋、痴六識相應,正煩惱攝。起惡勝故,立不善根。斷彼必由通、別對治。通唯善慧,別即三根。由此無痴必應別有。

貪・瞋・癡は六識と相応して、正煩悩の摂する所なり。悪を起こすに殊勝なるのゆえんに、不善根を立つ。それらを断ずるは必ず通・別の対治に由る。通はただ善慧のみ、別はすなわち三根なり。これに由って無癡は必ずまさに別に有るべし。

勤謂精進,於善、惡品修、斷事中,勇、悍為性;對治懈怠,滿善為業。

勤とは精進を説く。善・悪品の修・断の事に於て、勇・悍を性と為す。懈怠に対治して善を満たすを業と為す。

「勇」表勝進,簡諸染法。「悍」表精純,簡淨無記。即顯精進,唯善性攝。

「勇」は勝進を表して諸染法を簡別す。「悍」は精純を表して浄無記を簡別す。すなわち精進はただ善性の摂する所なりを顯示す。

此相差別略有五種。所謂:被甲、加行、無下、無退、無足。

この相の差別は略して五種有り。いわゆる:被甲・加行・無下・無退・無足。

即經所說:有勢、有勤、有勇、堅猛、不捨善軛,如次應知。

すなわち経の説く所なり:勢有り・勤有り・勇有り・堅猛・善軛を捨てず。この次第に按してまさに知るべし。

此五別者,謂初發心、自分、勝進,自分行中,三品別故;或初發心、長時、無間、慇重、無餘,修差別故;或資糧等,五道別故。二乘究竟道,欣大菩提故,諸佛究竟道,樂利樂他故;或二加行、無間、解脫、勝進別故。

この五の分別とは、いわゆる初発心・自分・勝進にして、自分行の中に三品の分別有るのゆえん。あるいは初発心・長時・無間・殷重・無余にして、修の差別なるのゆえん。あるいは資糧等の五道の分別なるのゆえん。二乗の究竟道は大菩提を欣求するのゆえん。諸仏の究竟道は他を利楽するを楽するのゆえん。あるいは二の加行・無間・解脱・勝進の分別なるのゆえん。

「安」謂輕安,遠離麁重,調暢身心,堪任為性;對治惛沈,轉依為業。

「安」とは軽安を説く。麁重を遠離して、身心を調暢して、堪任を性と為す。惛沈に対治して、転依を業と為す。

謂此伏除能障定法,令所依止,轉安適故。

いわゆるこれは能く定を障る法を伏除して、依る所をして安適に転ぜしむるのゆえん。

「不放逸」者:精進、三根,於所斷、修,防、修為性;對治放逸,成滿一切世、出世間善事為業。

「不放逸」とは、精進・三根は断ずる所・修する所に対して、防・修を性と為す。放逸に対治して、一切の世・出世間の善事を成満するを業と為す。

謂即四法,於斷修事,皆能防、修,名不放逸。非別有體,無異相故。於防惡事、修善事中,離四功能,無別用故。雖信、慚等,亦有此能,而方彼四,勢用微劣;非根、遍策,故非此依。

いわゆるすなわちこの四法は断・修の事に対して皆能く防・修す。名づけて不放逸という。別に体有りに非ず。異相無きのゆえん。悪事を防ぎ善事を修するの中に、四法の功能を離れて、別の用有る無きのゆえん。信・慚等もまたこの能有ると雖も、しかしかの四に比ぶれば勢用は微劣にして、根に非ず遍策に非ず。ゆえにこの依る所に非ず。

豈不防、修是此相用?

あに防・修はこの相用に非ざるや。

防、修何異精進、三根?

防・修は精進・三根と何の異なるか有らん。

彼要待此,方有作用。

それらはこれを待つを要して、乃ち作用有り。

此應復待餘,便有無窮失。

これはまさにまた其余を待つべくして、便ち無窮の過失有り。

勤唯遍策,根但為依,如何說彼有防、修用?

勤はただ遍策のみ。根はただ依と為るを作すのみ。どうしてそれらに防・修の用有りと説かん。

汝防、修用,其相云何?

汝の説く所の防・修の用は行相いかん。

若普依持,即無貪等。若遍策錄,不異精進。止惡、進善,即總四法。令不散亂,應是等持。令同取境,與觸何別?令不忘失,即應是念。

もし普遍に依持せば、すなわち無貪等なり。もし遍く策録せば、精進に異ならず。悪を止め善を進むるはすなわち総の四法なり。散ぜざらしむれば、まさに等持ならん。同じく境を取らしむれば、触と何の分別かあらん。忘失せざらしむれば、まさに念ならん。

如是推尋不放逸用,離無貪等,竟不可得。故不放逸,定無別體。

かくのごとく不放逸の用を推尋すれば、無貪等を離れて、終に求むるを得ず。ゆえに不放逸は決定して別体無し。

云何「行捨」?精進、三根,令心平等、正直、無功用住為性;對治掉舉,靜住為業。

何をか「行捨」と謂う。精進・三根は心をして平等・正直・無功用住ならしむるを性と為す。掉挙に対治して静住を業と為す。

謂即四法,令心遠離掉舉等障,靜住名捨。平等、正直、無功用住,初、中、後位,辯捨差別。由不放逸先除雜染;捨復令心寂靜而住。

いわゆるすなわちこの四法は心をして掉挙等の障を遠離せしめて、静に住するを名づけて捨という。平等・正直・無功用住は初・中・後の位にて捨の差別を弁ず。不放逸に由って先ず雑染を除き、捨はまた心をして寂静に住せしむ。

此無別體,如不放逸,離彼四法,無相、用故。能令寂靜,即四法故;所令寂靜,即心等故。

これは別体無し。不放逸の如く、かの四法を離れて相・用無きのゆえん。能く寂静ならしむるはすなわち四法のゆえん。寂静ならしむる所はすなわち心等のゆえん。

云何「不害」?於諸有情,不為損惱,無瞋為性;能對治害,悲愍為業。

何をか「不害」と謂う。諸有情に対して、損悩を為さざるにして、無瞋を性と為す。能く害に対治して悲愍を業と為す。

謂即無瞋,於有情所,不為損惱,假名不害。

いわゆるすなわち無瞋は有情の所に対して損悩を為さず。假に名づけて不害という。

無瞋,翻對斷物命瞋;不害,正違損惱物害。無瞋與樂;不害拔苦。是謂此二麁相差別。

無瞋は物の命を断つ瞋に翻対す。不害は物を損悩する害を正しく違す。無瞋は楽を与え、不害は苦を抜く。これはこの二の麁相の差別を説く。

理實無瞋實有自體;不害依彼一分假立。為顯慈、悲,二相別故。利樂有情,彼二勝故。

理に按して実に説けば、無瞋は実に自体有り。不害はそれが一分に依って假立す。慈・悲の二相の分別を顯示する為のゆえん。有情を利楽するにかの二は殊勝なるのゆえん。

有說:不害非即無瞋,別有自體,謂賢善性。此相云何?謂不損惱。無瞋亦爾,寧別有性?謂於有情不為損惱,慈悲賢善,是無瞋故。

人の説く有り:不害はすなわち無瞋に非ず。別に自体有り。いわゆる賢善性。これは相いかん。いわゆる損悩せざる。無瞋もまたこの如し。どうして別に性有らん。いわゆる有情に対して損悩を為さず。慈悲賢善はすなわち無瞋のゆえん。

「及」顯十一,義別心所,謂欣、厭等善心所法。雖義有別,說種種名,而體無異,故不別立。

「及」は十一の外に義の上の別の心所有るを顯示す。いわゆる欣・厭等の善心所法。義は分別有りて種種の名を説くと雖も、しかし体は異ならず。ゆえに別に立てず。

欣謂欲俱,無瞋一分,於所欣境,不憎恚故。

欣とは欲と倶の無瞋の一分を説く。欣する所の境に対して憎恚せざるのゆえん。

不忿、恨、惱、嫉等亦然;隨應正翻瞋一分故。

忿・恨・悩・嫉等ならざるもまたこの如し。随応して正しく瞋の一分を翻すのゆえん。

厭謂慧俱無貪一分,於所厭境,不染著故。

厭とは慧と倶の無貪の一分を説く。厭する所の境に対して染著せざるのゆえん。

不慳、憍等,當知亦然。隨應正翻,貪一分故。

慳・憍等ならざるもまさに然るべしと知る。随応して正しく翻す、貪の一分なるのゆえん。

不覆、誑、諂無貪、痴一分;隨應正翻,貪、痴一分故。

覆・誑・諂ならざるは無貪・無癡の一分なり。随応して正しく翻す、貪・癡の一分なるのゆえん。

有義:不覆唯無痴一分;無處說覆亦貪一分故。

一義有り:覆ならざるはただ無癡の一分のみ。覆もまた貪の一分なりと説く処無きのゆえん。

有義:不慢信一分攝,謂若信彼,不慢彼故。有義:不慢捨一分攝,心平等者,不高慢故。有義:不慢慚一分攝,若崇重彼,不慢彼故。

一義有り:慢ならざるは信の一分の摂する所なり。いわゆるもしそれを信ぜば便ちそれを慢らざるのゆえん。一義有り:慢ならざるは捨の一分の摂する所なり。心の平等なるは高慢せざるのゆえん。一義有り:慢ならざるは慚の一分の摂する所なり。もしそれを崇重せば便ちそれを慢らざるのゆえん。

有義:不疑即信所攝,謂若信彼,無猶豫故。有義:不疑:即正勝解,以決定者,無猶豫故。有義:不疑即正慧攝,以正見者,無猶豫故。

一義有り:疑わざるはすなわち信の摂する所なり。いわゆるもしそれを信ぜば猶豫無きのゆえん。一義有り:疑わざるはすなわち正勝解なり。決定するは猶豫無きのゆえん。一義有り:疑わざるはすなわち正慧の摂する所なり。正見するは猶豫無きのゆえん。

不散亂體,即正定攝。正見、正知,俱善慧攝。不忘念者,即是正念。

散乱せざるの体はすなわち正定の摂する所なり。正見・正知は皆善慧の摂する所なり。念を忘れざるはすなわち正念なり。

悔、眠、尋、伺,通染、不染,如觸、欲等,無別翻對。

悔・眠・尋・伺は染・不染に通ず。触・欲等の如く、別に翻対無し。

何緣諸染所翻善中,有別建立,有不爾者?

なんの故にか諸染の翻ずる所の善の中に、別に建立する有り、この如ならざる有るや。

相、用別者,便別立之;餘善不然,故不應責。又諸染法遍六識者,勝故翻之,別立善法。慢等、忿等,唯意識俱。害雖亦然,而數現起損惱他故;障無上乘勝因悲故;為了知彼增上過失,翻立不害。失念、散亂及不正知,翻入別境,善中不說。

相・用に分別有るは便ち別にそれを立つ。其余の善はこの如ならず。ゆえに責問すべからず。また諸染法の六識に遍するは殊勝のゆえん、それを翻して別に善法を立つ。慢等・忿等はただ意識と倶のみ。害はもまたこの如なると雖も、しかし数・数現起して他を損悩するのゆえん。無上乗の殊勝の因たる悲を障るのゆえん。その増上の過失を了知せしめんが為に、翻して不害を立つ。失念・散乱および不正知は翻して別境に入る。善の中に説かず。

染、淨相翻,淨寧少染?

染・浄は相翻ずるに、浄はどうして染に比べて少なきや。

淨勝染劣,少敵多故。又解理通,說多同體,迷情事局,隨相分多。故於染、淨,不應齊責。

浄は勝れ染は劣る。少は能く多に敵するのゆえん。また解理は通じて多に同体と説き、迷情は事局にして相に随って多に分かつ。ゆえに染・浄に対して斉しく責むべからず。

此十一法,三是假有,謂不放逸、捨及不害,義如前說。餘八實有,相、用別故。

この十一法は三は假有なり。いわゆる不放逸・捨および不害。義は前に説けるが如し。其余の八は実有なり。相・用分別なるのゆえん。

有義:十一四遍善心,精進、三根,遍善品故。餘七不定。

一義有り:十一中に四は善心に遍す。精進・三根は善品に遍するのゆえん。其余の七は定まらず。

推尋事理,未決定時,不生信故。慚、愧同類,依處各別,隨起一時,第二無故。要世間道斷煩惱時,有輕安故。不放逸、捨,無漏道時,方得起故。悲愍有情時,乃有不害故。

事理を推尋して未だ決定せざる時は信を生ぜざるのゆえん。慚・愧は同類にして依処各々別なり。随って一時に起こるに第二は無きのゆえん。世間道にて煩悩を断ずる時に軽安有るのゆえん。不放逸・捨は無漏道の時に乃ち起こるを得るのゆえん。有情を悲愍する時に乃ち不害有るのゆえん。

論說:十一六位中起。謂決定位,有信相應。止息染時,有慚、愧起,顧自、他故。於善品位,有精進、三根。世間道時,有輕安起,於出世道,有捨、不放逸。攝眾生時,有不害故。

論に説く:十一は六位の中に起こる。いわゆる決定位に信の相応有り。染を止息する時に慚・愧の起こる有り。自・他を顧るのゆえん。善品位に於て精進・三根有り。世間道の時に軽安の起こる有り。出世道に於て捨・不放逸有り。衆生を摂する時に不害有るのゆえん。

有義:彼說未為應理。推尋事理,未決定心,信若不生,應非是善。如染心等,無淨信故。

一義有り:彼らの説は未だ理に応えず。事理を推尋して未だ決定せざる心は、信もし生ぜざれば、まさに善に非ざるべし。染心等の如く、浄信無きのゆえん。

慚、愧類異,依別境同,俱遍善心,前已說故。

慚・愧は類異なりて依別れど境は同じ。倶に善心に遍すは前に已に説けるゆえん。

若出世道輕安不生,應此覺支非無漏故。

もし出世道に軽安は生ぜざれば、まさにこの覚支は無漏に非ざるのゆえん。

若世間道無捨、不放逸,應非寂靜防惡修善故;又應不伏掉、放逸故。有漏善心既具四法,如出世道應有二故。

もし世間道に捨・不放逸無ければ、まさに寂静・防悪・修善に非ざるのゆえん。またまさに掉挙・放逸を伏すること能わざるのゆえん。有漏の善心はすでに四法を具えば、出世道の如くまさにこの二有るべきのゆえん。

善心起時,皆不損物,違能損法,有不害故。

善心の生起する時は皆物を損せず。能く損する法に違して不害有るのゆえん。

論說:「六位起十一」者,依彼彼增,作此此說。故彼所說,定非應理。

論の説く「六位に十一を起こす」とは、各々の増勝に依って各々の説を作す。ゆえに彼らの説く所は決定して理に応えず。

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