Libo

成唯識論巻第四

唐 · 护法等造,玄奘译 · 第22巻 / 39

應說信等十一法中,十遍善心,輕安不遍。要在定位,方有輕安,調暢身心,餘位無故。

まさに説くべし、信等の十一法の中に十は善心に遍し、軽安は遍せず。定位に在るを要して乃ち軽安有りて、身心を調暢す。其余の位には無きのゆえん。

〈決擇分〉說:十善心所定、不定地皆遍善心,定地心中,增輕安故。

〈決択分〉に説く:十の善心所は定地・不定地に倶に善心に遍す。定地の心中に軽安を増すのゆえん。

有義:定加行,亦得定地名。彼亦微有調暢義故。由斯欲界亦有輕安。不爾,便違〈本地分〉說:信等十一通一切地。

一義有り:定の加行もまた定地の名を得。それもまた微かに調暢の義有るのゆえん。これに因って欲界にもまた軽安有り。然らずんば便ち〈本地分〉の説くに違背す:信等の十一は一切地に通ず。

有義:輕安唯在定有。由定滋養,有調暢故。論說:欲界諸心、心所,由闕輕安,名不定地。說一切地有十一者,通有尋伺等三地皆有故。

一義有り:軽安はただ定にのみ有り。定の滋養する所に由って調暢有るのゆえん。論に説く:欲界の諸心・心所は軽安を缺くがゆえに、名づけて不定地という。一切地に十一有りと説くは、尋・伺等を通して三地に皆有るのゆえん。

此十一種,前已具說。第七、八識,隨位有無。第六識中,定位皆具。若非定位,唯闕輕安。

この十一種は前に已に具に説きたり。第七・八識は位に随って有無す。第六識の中には定位は皆具す。もし定位に非ざれば、ただ軽安を缺くのみ。

有義:五識唯有十種,自性散動,無輕安故。

一義有り:五識はただ十種のみ有り。自性は散動にして軽安無きのゆえん。

有義:五識亦有輕安。定所引善者,亦有調暢故。成所作智俱,必有輕安故。

一義有り:五識もまた軽安有り。定の引く所の善はもまた調暢有るのゆえん。成所作智と倶には必ず軽安有るのゆえん。

此善十一,何受相應?十五相應。一除憂、苦,有逼迫受,無調暢故。

この善の十一は何の受と相応するや。十は五受と相応す。一は憂・苦を除く。逼迫受有れば調暢無きのゆえん。

此與別境皆得相應。信等欲等,不相違故。

これは別境と倶に能く相応す。信等・欲等は相違せざるのゆえん。

十一唯善。

十一はただ善なり。

輕安非欲,餘通三界。

軽安は欲界に在らず。其余は三界に通ず。

皆學等三。

皆学・無学・非学非無学の三種に通ず。

非見所斷。《瑜伽論》說:信等六根,唯修所斷,非見所斷。

見の断ずる所に非ず。《瑜伽論》に説く:信等の六根はただ修の断ずる所にして、見の断ずる所に非ず。

餘門分別,如理應思。

其余の門の分別は理の如くまさに思択すべし。

如是已說善位心所,煩惱心所其相云何?

かくのごとく已に善位の心所を説きたり。煩悩の心所の行相はいかん。

頌曰:

頌に説く:

12煩惱謂貪、瞋、痴、慢、疑、惡見。

煩悩とは貪・瞋・癡・慢・疑・悪見を説く。

論曰:此貪等六性是根本煩惱攝故,得煩惱名。

論に説く:この貪等の六は、性は根本煩悩の摂する所なるのゆえん、煩悩の名を得。

云何為貪?於有、有具,染著為性;能障無貪,生苦為業。

何をか貪と謂う。有・有具に対して、染著を性と為す。能く無貪を障り、苦を生ずるを業と為す。

謂由愛力,取蘊生故。

いわゆる愛の力に由って取蘊を生ずるのゆえん。

云何為瞋?於苦、苦具,憎恚為性;能障無瞋,不安隱性,惡行所依為業。

何をか瞋と謂う。苦・苦具に対して、憎恚を性と為す。能く無瞋を障り、安隱せざる性にして、悪行の依る所を業と為す。

謂瞋必令身、心熱惱,起諸惡業,不善性故。

いわゆる瞋は必ず身・心をして熱悩せしめて、諸々の悪業を起こす。不善性なるのゆえん。

云何為痴?於諸理、事,迷闇為性;能障無痴,一切雜染所依為業。

何をか癡と謂う。諸々の理・事に対して、迷闇を性と為す。能く無癡を障り、一切雑染の依る所を業と為す。

謂由無明,起疑、邪見、貪等煩惱、隨煩惱業,能招後生雜染法故。

いわゆる無明に由って、疑・邪見・貪等の煩悩・随煩悩の業を起こして、能く後生の雑染法を招くのゆえん。

云何為慢?恃己於他,高舉為性;能障不慢,生苦為業。

何をか慢と謂う。己を恃みて他に対して、高挙を性と為す。能く不慢を障り、苦を生ずるを業と為す。

謂若有慢,於德、有德,心不謙下,由此生死輪轉無窮,受諸苦故。

いわゆるもし慢有れば、徳・有德に対して心は謙下せず。これに由って生死は輪転して窮まること無く、諸苦を受くるのゆえん。

此慢差別有七、九種,謂於三品、我、德處生。

この慢の差別は七・九種有り。いわゆる三品・我・徳の処に対して生ず。

一切皆通見修所斷,聖位我慢既得現行,慢類由斯起亦無失。

一切は見・修の断ずる所に通ず。聖位の我慢はすでに現行するを得れば、慢の類はこれに由って起こるもまた過失無し。

云何為疑?於諸諦理,猶豫為性;能障不疑善品為業。

何をか疑と謂う。諸々の諦理に対して、猶豫を性と為す。能く疑わざる善品を障るを業と為す。

謂猶豫者,善不生故。

いわゆる猶豫するは善は生ぜざるのゆえん。

有義:此疑以慧為體,猶豫簡擇說為疑故。「毘」助「末底」,是疑義故,「末底」般若義無異故。

一義有り:この疑は慧を以って体と為す。猶豫簡択を疑と説くのゆえん。「毘」(vi-)は「末底」(mati、慧)を助くるは疑の義なるのゆえん。「末底」と般若とは義異無きのゆえん。

有義:此疑別有自體,令慧不決,非即慧故。《瑜伽論》說:「六煩惱中,見世俗有,即慧分故。餘是實有,別有性故。」「毘」助「末底」,執慧為疑,「毘」助「若南」,智應為識。界由助力,義便轉變,是故此疑非慧為體。

一義有り:この疑は別に自体有りて、慧をして決せざらしむ。すなわち慧に非ざるのゆえん。《瑜伽論》に説く:「六煩悩の中に見は世俗有なり。すなわち慧の分なるのゆえん。其余は実有にして別に性有るのゆえん。」「毘」は「末底」を助けて慧を疑と執す。「毘」は「若南」(jñāna、智)を助けて智はまさに識と為るべし。界は助力に由って義は便ち転変す。ゆえにこの疑は慧を以って体と為すに非ず。

云何惡見?於諸諦理,顛倒推度,染慧為性;能障善見,招苦為業。

何をか悪見と謂う。諸々の諦理に対して、顛倒して推度して、染慧を性と為す。能く善見を障り、苦を招くを業と為す。

謂惡見者,多受苦故。

いわゆる悪見は多くの苦を招くのゆえん。

此見行相,差別有五:

この見の行相の差別は五有り。

一、薩迦耶見:謂於五取蘊,執我、我所,一切見趣所依為業。

一、薩迦耶見(有身見):いわゆる五取蘊に対して我・我所を執して、一切の見趣の依る所を業と為す。

此見差別,有二十句、六十五等,分別起攝。

この見の差別は二十句・六十五等有りて、分別起の摂する所なり。

二、邊執見:謂即於彼,隨執斷、常,障處中行、出離為業。

二、辺執見:いわゆるすなわちそれに対して断・常を随執して、処中行・出離を障るを業と為す。

此見差別,諸見趣中,有執前際四遍常論、一分常論;及計後際有想十六;無想、俱非各有八論;七斷滅論等,分別起攝。

この見の差別は諸見趣の中に、前際を執する四の遍常論・一分常論有り、および後際を計する有想十六、無想・倶非各々八論有り、七の断滅論等ありて、分別起の摂する所なり。

三、邪見:謂謗因果、作用、實事及非四見諸餘邪執,如增上緣,名義遍故。

三、邪見:いわゆる因果・作用・実事を謗し、および四見に非ざる諸々の其余の邪執。増上縁の如く、名・義遍するのゆえん。

此見差別,諸見趣中,有執前際二無因論、四有邊等、不死矯亂;及計後際五現涅槃;或計自在、世主、釋、梵及餘物類,常恆不易;或計自在等是一切物因;或有橫計諸邪解脫;或有妄執非道為道,諸如是等皆邪見攝。

この見の差別は諸見趣の中に、前際を執する二の無因論・四の有辺等・不死の矯乱、および後際を計する五の現涅槃。あるいは自在・世主・釈・梵および其余の物類を計して常恒にして易わらずと為し、あるいは自在等は一切の物の因と計し、あるいは横に諸々の邪解脱を計し、あるいは妄りに非道を道と執す。かくのごとき類は皆邪見の摂する所なり。

四、見取:謂於諸見及所依蘊,執為最勝,能得清淨,一切鬪諍所依為業。

四、見取:いわゆる諸見および依る所の蘊に対して、執して最勝と為して能く清浄を得ると為して、一切の鬥諍の依る所を業と為す。

五、戒禁取:謂於隨順諸見戒禁及所依蘊,執為最勝,能得清淨,無利勤苦所依為業。

五、戒禁取:いわゆる諸見に随順する戒禁および依る所の蘊に対して、執して最勝と為して能く清浄を得ると為して、利無き勤苦の依る所を業と為す。

然有處說:執為最勝,名為見取,執能得清淨,名戒取者,是影略說,或隨轉門。不爾,如何非滅計滅、非道計道,說為邪見,非二取攝。

しかし処有りて説く:執して最勝と為すを名づけて見取と為り、執して能く清浄を得るを名づけて戒取というは、是れ影略に説き、あるいは転門に随う。然らずんばいかん。滅に非ざるを滅と計し、道に非ざるを道と計するを、邪見と説くにして、二取の摂する所に非ず。

如是總別十煩惱中,六通俱生及分別起,任運、思察,俱得生故。疑後三見,唯分別起,要由惡友或邪教力,自審思察,方得生故。

かくのごとく総・別の十煩悩の中に、六は倶生および分別起に通ず。任運・思察にて倶に生ずるを得るのゆえん。疑と後の三見はただ分別起のみ。悪友あるいは邪教の力に由って、自ら審かに思察して、乃ち生ずるを得るのゆえん。

邊執見中通俱生者,有義:唯斷。常見相麁,惡友等力方引生故。《瑜伽》等說:「何邊執見是俱生耶?謂斷見攝。」學現觀者,起如是怖:「今者我,我何所在耶?」故禽獸等若遇違緣,皆恐我斷,而起驚怖。

辺執見中の倶生に通ずるは、一義有り:ただ断のみ。常見の相は麁く、悪友等の力に由って乃ち引生するのゆえん。《瑜伽》等に説く:「何の辺執見をか倶生と為す。いわゆる断見の摂する所。」現観を学ぶ人はかくのごとき怖を生起す:「今この我は何の処にか在らん。」ゆえに禽獣等もし違縁に遇えば、皆我の断ぜんことを恐れて、驚怖を生起す。

有義:彼論依麁相說,理實俱生,亦通常見。謂禽獸等,執我常存,熾然聚集長時資具。故《顯揚》等諸論皆說:於五取蘊,執斷、計常,或是俱生或分別起。

一義有り:かの論は麁相に依って説く。理に按して実は倶生もまた常見に通ず。いわゆる禽獣等は我の常存を執して、熾然として長時の資具を聚集す。ゆえに《顯揚》等の諸論は皆説く:五取蘊に対して断を執し常を計するは、あるいは倶生あるいは分別起なり。

此十煩惱,誰幾相應?

この十煩悩は誰かいくつと相応するや。

貪與瞋、疑,定不俱起,愛、憎二境,必不同故;於境不決,無染著故。

貪と瞋・疑とは決定して倶に起こらず。愛・憎の二境は必ず同じからざるのゆえん。境に対して決せざれば染著無きのゆえん。

貪與慢、見,或得相應,所愛、所陵境非一故,說不俱起。所染、所恃境可同故,說得相應。於五見境,皆可愛故,貪與五見相應無失。

貪と慢・見とはあるいは相応するを得。愛する所・陵する所の境は一に非ざるのゆえんに、倶に起こらずと説く。染する所・恃む所の境は同じくすべきのゆえんに、相応するを得と説く。五見の境に対して皆愛すべきのゆえんに、貪と五見と相応して過失無し。

瞋與慢、疑或得俱起;所瞋、所恃境非一故,說不相應。所蔑、所憎境可同故,說得俱起;初猶豫時,未憎彼故,說不俱起。久思不決,便憤發故,說得相應;疑順、違事,隨應亦爾。

瞋と慢・疑とはあるいは倶に起こるを得。瞋する所・恃む所の境は一に非ざるのゆえんに、相応せずと説く。蔑する所・憎する所の境は同じくすべきのゆえんに、倶に起こるを得と説く。初め猶豫する時に未だそれを憎まざるのゆえんに、倶に起こらずと説く。久しく思いて決せざれば便ち憤発するのゆえんに、相応すと説く。順・違の事を疑うも随応してもまたこの如し。

瞋與二取,必不相應,執為勝、道,不憎彼故。

瞋と二取とは必ず相応せず。勝・道と執してそれを憎まざるのゆえん。

此與三見,或得相應,於有樂蘊,起身、常見,不生憎故,說不相應。於有苦蘊,起身、常見,生憎恚故,說得俱起。斷見翻此,說瞋有、無。邪見誹撥惡事、好事,如次說瞋或無或有。

これと三見とはあるいは相応するを得。楽の蘊有りに対して身・常の見を起こして憎を生ぜざるのゆえんに、相応せずと説く。苦の蘊有りに対して身・常の見を起こして憎恚を生ずるのゆえんに、倶に起こるを得と説く。断見はこれに翻して、瞋の有・無を説く。邪見は悪事・好事を誹撥して、この次第に按して瞋はあるいは無しあるいは有りと説く。

慢於境定,疑則不然。故慢與疑,無相應義。

慢は境に対して決定す。疑は便ちこの如ならず。ゆえに慢と疑とは相応の義無し。

慢與五見,皆容俱起,行相展轉,不相違故。然與斷見,必不俱生,執我斷時,無陵、恃故。

慢と五見とは皆倶起を容す。行相は展転して相違せざるのゆえん。しかし断見と倶は必ず倶生せず。我断を執する時は陵・恃無きのゆえん。

與身、邪見一分亦爾。

身見・邪見の一分と倶もまたこの如し。

疑不審決,與見相違,故疑與見,定不俱起。

疑は審決せず。見と相違す。ゆえに疑と見とは決定して倶に起こらず。

五見展轉,必不相應,非一心中,有多慧故。

五見は展転して必ず相応せず。一心の中に多くの慧有るに非ざるのゆえん。

痴與九種,皆定相應,諸煩惱生,必由痴故。

癡と九種とは倶に決定して相応す。諸煩悩の生ずるは必ず癡に由るのゆえん。

此十煩惱,何識相應?藏識全無;末那有四;意識具十;五識唯三:謂貪、瞋、痴。無分別故。由稱量等,起慢等故。

この十煩悩は何の識と相応するや。蔵識は全く無し。末那は四有り。意識は十を具す。五識はただ三のみ:いわゆる貪・瞋・癡。分別無きのゆえん。称量等に由って慢等を起こすのゆえん。

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