成唯識論巻第四
云何為誑?為獲利譽,矯現有德,詭詐為性;能障不誑,邪命為業。謂矯誑者,心懷異謀,多現不實邪命事故。此即貪、痴一分為體,離二無別誑相用故。
何をか誑と謂う。利誉を獲る為に、有德を矯現して、詭詐を性と為す。能く不誑を障り、邪命を業と為す。いわゆる矯誑するは心に異謀を懐いて、多く実ならざる邪命の事を現ずるのゆえん。これすなわち貪・癡の一分を体と為す。この二を離れて別に誑の相用無きのゆえん。
云何為諂?為網他故,矯設異儀,險、曲為性;能障不諂教誨為業。謂諂曲者,為網帽他,曲順時宜,矯設方便,為取他意或藏己失。不任師、友正教誨故,此亦貪、痴一分為體,離二無別諂相用故。
何をか諂と謂う。他を網するが為のゆえんに、異儀を矯設して、険・曲を性と為す。能く不諂・教誨を障るを業と為す。いわゆる諂曲するは他を網帽せんが為(籠罩して欺瞞す)に、時宜に曲順して方便を矯設して、他の意を取りあるいは自己の失を藏するを為す。師・友の正教誨を任くること能わざるのゆえん。これもまた貪・癡の一分を体と為す。この二を離れて別に諂の相用無きのゆえん。
云何為害?於諸有情,心無悲愍,損惱為性;能障不害,逼惱為業。謂有害者,逼惱他故。此亦瞋恚一分為體,離瞋無別害相用故。瞋、害別相,準善應說。
何をか害と謂う。諸有情に対して、心に悲愍無くして、損悩を性と為す。能く不害を障り、逼悩を業と為す。いわゆる害有るは他を逼悩するのゆえん。これもまた瞋恚の一分を体と為す。瞋を離れて別に害の相用無きのゆえん。瞋・害の別相は善に准じてまさに説くべし。
云何為憍?於自盛事,深生染著,醉傲為性;能障不憍,染依為業。謂憍醉者,生長一切雜染法故。此亦貪愛一分為體,離貪無別憍相用故。
何をか憍と謂う。自己の盛事に対して、深く染著を生じて、醉傲を性と為す。能く不憍を障り、染の依を業と為す。いわゆる憍醉するは一切の雑染法を生長するのゆえん。これもまた貪愛の一分を体と為す。貪を離れて別に憍の相用無きのゆえん。
云何無慚?不顧自、法,輕拒賢善為性;能障礙慚,生長惡行為業。謂於自、法無所顧者,輕拒賢善,不恥過惡,障慚生長,諸惡行故。
何をか無慚と謂う。自・法を顧みずして、賢善を軽拒するを性と為す。能く慚を障碍して、悪行を生長するを業と為す。いわゆる自・法に対して顧る所無きは、賢善を軽拒して、過悪を恥じず。慚を障って諸悪行を生長するのゆえん。
云何無愧?不顧世間,崇重暴惡為性;能障礙愧,生長惡行為業。謂於世間無所顧者,崇重暴惡,不恥過罪,障愧生長,諸惡行故。
何をか無愧と謂う。世間を顧みずして、暴悪を崇重するを性と為す。能く愧を障碍して、悪行を生長するを業と為す。いわゆる世間に対して顧る所無きは、暴悪を崇重して、過罪を恥じず。愧を障って諸悪業を生長するのゆえん。
不恥過惡,是二通相;故諸聖教,假說為體。
過悪を恥じざるはこの二の通相なり。ゆえに諸聖教は假に体と説く。
若執不恥為二別相,則應此二體無差別。由斯二法應不俱生,非受、想等有此義故;若待自、他,立二別者,應非實有,便違聖教;若許此二實而別起,復違論說俱遍惡心。
もし恥じざるを執してこの二の別相と為さば、すなわちまさにこの二の体は差別無かるべし。これに由ってこの二法はまさに倶生せざるべし。受・想等にこの義有るに非ざるのゆえん。もし自・他を待ってこの二の分別を立てば、まさに実有に非ざるべし。便ち聖教に違背す。もしこの二は実有にして生起を分別すと許せば、また論説に違背す。倶に悪心に遍すと。
不善心時,隨緣何境,皆有輕拒善及崇重惡義故,此二法俱遍惡心,所緣不異,無別起失。
不善心の時、何れの境に縁ずるに随っても、皆善を軽拒しおよび悪を崇重するの義有るのゆえんに、この二法は倶に悪心に遍して、所縁異ならず。別起の過失無し。
然諸聖教說不顧自、他者,自、法名自,世間名他。或即此中拒善、崇惡,於己益損,名自、他故。而論說為貪等分者,是彼等流,非即彼性。
しかし諸聖教に自・他を顧みずと説くは、自・法を名づけて自といい、世間を名づけて他という。あるいはすなわちここに善を拒み悪を崇して、自己の益・損に対して、名づけて自・他というのゆえん。しかし貪等の分と論説するは、それらの等流にして、すなわちそれらの性に非ず。
云何掉舉?令心於境不寂靜為性;能障行捨、奢摩他為業。
何をか掉挙と謂う。心をして境に対して寂静ならざらしむるを性と為す。能く行捨・奢摩他(止)を障るを業と為す。
有義:掉舉貪一分攝,論唯說此是貪分故,此由憶昔樂事生故。
一義有り:掉挙は貪の一分の摂する所なり。論にただこれは貪分と説くのゆえん。これは昔の楽事を憶念するに由って生ずるのゆえん。
有義:掉舉非唯貪攝,論說掉舉遍染心故,又掉舉相謂不寂靜,說是煩惱共相攝故,掉舉離此無別相故。雖依一切煩惱假立,而貪位增,說為貪分。
一義有り:掉挙はただ貪の摂する所に非ず。論に掉挙は染心に遍すと説くのゆえん。また掉挙の相はいわゆる寂静ならず。煩悩の共相の摂する所と説くのゆえん。掉挙はこれを離れて別相無きのゆえん。一切煩悩に依って假立する雖も、しかし貪位は増せば、貪分と説く。
有義:掉舉別有自性,遍諸染心,如不信等,非說他分,體便非實,勿不信等亦假有故。而論說為世俗有者,如睡眠等,隨他相說。掉舉別相,謂即囂動,令俱生法,不寂靜故。若離煩惱無別此相,不應別說障奢摩他,故不寂靜非此別相。
一義有り:掉挙は別に自性有りて、諸染心に遍す。不信等の如し。他分と説かば、体は便ち実に非ざるに非ず。不信等をしてもまた假有ならしむること莫れ。しかし世俗有と論説するは、睡眠等の如く、他相に随って説く。掉挙の別相はいわゆるすなわち囂動にして、倶生の法をして寂静ならざらしむるのゆえん。もし煩悩を離れて別にこの相無ければ、まさに奢摩他を障ると別説すべからず。ゆえに寂静ならざるはこの別相に非ず。
云何惛沈?令心於境,無堪任為性;能障輕安、毘缽舍那為業。
何をか惛沈と謂う。心をして境に対して堪任無きを性と為す。能く軽安・毘鉢舍那(観)を障るを業と為す。
有義:惛沈痴一分攝,論唯說此是痴分故,惛昧沈重是痴相故。
一義有り:惛沈は癡の一分の摂する所なり。論にただこれは癡分と説くのゆえん。惛昧沈重は癡の相なるのゆえん。
有義:惛沈非但痴攝,謂無堪任是惛沈相,一切煩惱皆無堪任,離此無別惛沈相故。雖依一切煩惱假立,而痴相增,但說痴分。
一義有り:惛沈はただ癡の摂する所のみに非ず。いわゆる堪任無きは惛沈の相なり。一切煩悩は皆堪任無し。これを離れて別に惛沈の相無きのゆえん。一切煩悩に依って假立すると雖も、しかし癡相増せば、ただ癡分と説く。
有義:惛沈別有自性,雖名痴分而是等流,如不信等,非即痴攝。隨他相說名世俗有,如睡眠等,是實有性。惛沈別相,謂即瞢重,令俱生法,無堪任故。若離煩惱無別惛沈相,不應別說障毘缽舍那故。無堪任非此別相,此與痴相有差別者,謂痴於境,迷闇為相,正障無痴,而非瞢重,惛沈於境瞢重為相,正障輕安而非迷闇。
一義有り:惛沈は別に自性有り。癡分と名づくると雖も、しかし是れ等流なり。不信等の如く、すなわち癡の摂する所に非ず。他相に随って世俗有と説き名づく。睡眠等の如く、是れ実有性なり。惛沈の別相はいわゆるすなわち瞢重にして、倶生の法をして堪任無からしむるのゆえん。もし煩悩を離れて別に惛沈の相無ければ、まさに毘鉢舍那を障ると別説すべからざるのゆえん。堪任無きはこの別相に非ず。これと癡相と差別有るを知る。いわゆる癡は境に対して迷闇を相と為して、正しく無癡を障るも瞢重に非ず。惛沈は境に対して瞢重を相と為して、正しく軽安を障るも迷闇に非ず。
云何不信?於實、德、能不忍樂欲,心穢為性;能障淨信,惰依為業。謂不信者多懈怠故。
何をか不信と謂う。実・徳・能に対して忍・楽・欲せずして、心穢を性と為す。能く浄信を障り、惰の依を業と為す。いわゆる不信のは多く懈怠するのゆえん。
不信三相,翻信應知。然諸染法,各有別相,唯此不信,自相渾濁,復能渾濁餘心、心所,如極穢物,自穢、穢他,是故說此心穢為性。由不信故,於實、德、能不忍樂欲,非別有性,若於餘事,邪忍樂欲,是此因果,非此自性。
不信の三相は信に翻してまさに知るべし。しかし諸染法は各々別相有りて、唯だこの不信のみ、自相渾濁して、また能く其余の心・心所を渾濁せしむ。極穢の物の自ら穢して他を穢すが如し。ゆえにこの心穢を性と為すと説く。不信なるのゆえんに、実・徳・能に対して忍・楽・欲せず。別に性有るに非ず。もし其余の事に対して邪に忍・楽・欲するは、是れこれが因果にして、これが自性に非ず。
云何懈怠?於善、惡品修、斷事中,懶惰為性;能障精進,增染為業。謂懈怠者,滋長染故。於諸染事而策勤者,亦名懈怠,退善法故。於無記事而策勤者,於諸善品無進、退故,是欲、勝解,非別有性。如於無記,忍可樂欲,非淨、非染,無信不信。
何をか懈怠と謂う。善・悪品の修・断の事に於て、懶惰を性と為す。能く精進を障り、染を増すを業と為す。いわゆる懈怠するは染を滋長するのゆえん。諸染事に対して策勤するも、もまた名づけて懈怠という。善法を退するのゆえん。無記の事に対して策勤するは、諸善品に対して進無く退無きのゆえん。是れ欲・勝解にして、別に性有るに非ず。無記に対して忍・可・楽・欲するが如く、浄にも染にも非ずして、信にも不信にも非ず。
云何放逸?於染、淨品,不能防、修,縱蕩為性;障不放逸,增惡損善所依為業。謂由懈怠及貪、瞋、痴,不能防修染淨品法,總名放逸,非別有體。雖慢、疑等亦有此能,而方彼四,勢用微劣,障三善根、遍策法故。推究此相,如不放逸。
何をか放逸と謂う。染・浄品に対して、能く防・修せずして、縱蕩を性と為す。不放逸を障り、悪を増し善を損する依る所を業と為す。いわゆる懈怠および貪・瞋・癡に由って、能く染浄品の法を防修せず。総じて名づけて放逸という。別に体有るに非ず。慢・疑等もまたこの能有ると雖も、しかしかの四に比ぶれば勢用は微劣にして、三善根・遍策法を障るのゆえん。この相を推究するは不放逸の如し。
云何失念?於諸所緣,不能明記為性;能障正念、散亂所依為業。謂失念者,心散亂故。
何をか失念と謂う。諸々の所縁に対して、能く明記せざるを性と為す。能く正念を障り、散乱の依る所を業と為す。いわゆる失念するは心散乱なるのゆえん。
有義:失念念一分攝,說是煩惱相應念故。
一義有り:失念は念の一分の摂する所なり。煩悩に相応の念と説くのゆえん。
有義:失念痴一分攝,《瑜伽》說此是痴分故,痴令念失,故名失念。
一義有り:失念は癡の一分の摂する所なり。《瑜伽》にこれは癡分と説くのゆえん。癡は念をして失せしむ。ゆえに名づけて失念という。
有義:失念俱一分攝,由前二文影略說故,論復說此遍染心故。
一義有り:失念は倶に一分の摂する所なり。前の二文に由って影略に説くのゆえん。論にまたこれは染心に遍すと説くのゆえん。
云何散亂?於諸所緣,令心流蕩為性;能障正定,惡慧所依為業。謂散亂者發惡慧故。
何をか散乱と謂う。諸々の所縁に対して、心をして流蕩せしむるを性と為す。能く正定を障り、悪慧の依る所を業と為す。いわゆる散乱するは悪慧を発するのゆえん。
有義:散亂痴一分攝,《瑜伽》說此是痴分故。
一義有り:散乱は癡の一分の摂する所なり。《瑜伽》にこれは癡分と説くのゆえん。
有義:散亂貪、瞋、痴攝,《集論》等說是三分故,說痴分者,遍染心故,謂貪、瞋、痴令心流蕩,勝餘法故,說為散亂。
一義有り:散乱は貪・瞋・癡の摂する所なり。《集論》等に是れ三分と説くのゆえん。癡分と説くは染心に遍するのゆえん。いわゆる貪・瞋・癡は心をして流蕩せしめて、其余の法に勝れるのゆえんに、散乱と説く。
有義:散亂別有自體,說三分者是彼等流,如無慚等,非即彼攝,隨他相說名世俗有。散亂別相,謂即躁擾,令俱生法皆流蕩故。若離彼三,無別自體,不應別說障三摩地。掉舉、散亂二用何別?彼令易解,此令易緣,雖一剎那,解、緣無易,而於相續有易義故。染汙心時,由掉亂力,常應念念易解、易緣,或由念等力所制伏,如繫猨猴有暫時住,故掉與亂,俱遍染心。
一義有り:散乱は別に自体有り。三分と説くはそれらの等流にして、無慚等の如く、すなわちそれらの摂する所に非ず。他相に随って世俗有と説き名づく。散乱の別相はいわゆるすなわち躁擾にして、倶生の法をして倶に流蕩せしむるのゆえん。もしかの三を離れて別に自体無ければ、まさに三摩地を障ると別説すべからず。掉挙・散乱の二用は何の分別か有らん。それは解を易えしめ、これは縁を易えしむ。一刹那にて解・縁は易ならざると雖も、しかし相続に対して易の義有るのゆえん。染汚心の時は掉乱の力に由って、常に念・念解を易え縁を易うべし。あるいは念等の力の制伏する所に由って、繫がれたる猿猴の暫時の住有るが如し。ゆえに掉と乱とは倶に染心に遍す。
云何不正知?於所觀境,謬解為性;能障正知、毀犯為業。謂不正知者,多所毀犯故。
何をか不正知と謂う。観ずる所の境に対して、謬解を性と為す。能く正知を障り、毀犯を業と為す。いわゆる不正知のは多く毀犯するのゆえん。
有義:不正知慧一分攝,說是煩惱相應慧故。
一義有り:不正知は慧の一分の摂する所なり。煩悩に相応の慧と説くのゆえん。
有義:不正知痴一分攝,《瑜伽》說此是痴分故,令知不正,名不正知。
一義有り:不正知は癡の一分の摂する所なり。《瑜伽》にこれは癡分と説くのゆえん。知をして正ならざらしむ。名づけて不正知という。
有義:不正知俱一分攝,由前二文,影略說故,論復說此遍染心故。
一義有り:不正知は倶に一分の摂する所なり。前の二文に由って影略に説くのゆえん。論にまたこれは染心に遍すと説くのゆえん。
「與」、「並」、「及」言顯隨煩惱非唯二十,《雜事》等說貪等多種隨煩惱故。
「与」・「並」・「及」の言は随煩悩はただ二十のみに非ざるを顯示す。《雑事》等に貪等の多种の随煩悩を説くのゆえん。
隨煩惱名,亦攝煩惱,是前煩惱等流性故;煩惱同類餘染汙法,但名隨煩惱,非煩惱攝故。
随煩悩の名はもまた煩悩を収攝す。前の煩悩の等流性なるのゆえん。煩悩と同類の其余の染汚法はただ名づけて随煩悩という。煩悩の摂する所に非ざるのゆえん。
唯說二十隨煩惱者,謂非煩惱,唯染、麁故;此餘染法,或此分位,或此等流,皆此所攝。隨其類別,如理應知。
ただ二十の随煩悩を説く。いわゆる煩悩に非ざるはただ染・麁なるのゆえん。この其余の染法はあるいはこの分位にして、あるいはこの等流にして、皆是れこの摂する所なり。その類別に随って理の如くまさに知るべし。
如是二十隨煩惱中,小十、大三,定是假有;無慚、無愧、不信、懈怠定是實有;教、理成故。掉舉、惛沈、散亂三種,有義是假,有義是實。所引理、教,如前應知。
かくのごとき二十随煩悩の中に、小の十・大の三は決定して假有なり。無慚・無愧・不信・懈怠は決定して実有なり。教・理の成ずるのゆえん。掉挙・惛沈・散乱の三種は、一義には是れ假、一義には是れ実。引く所の理・教は前の如くまさに知るべし。
二十皆通俱生、分別,隨二煩惱勢力起故。
二十は倶に倶生・分別に通ず。二煩悩の勢力に随って起こるのゆえん。
此二十中,小十,展轉定不俱起。互相違故,行相麁猛,各為主故。
この二十中に、小の十は展転して決定して倶に起こらず。互相違するのゆえん。行相は麁猛にして各々主要を為すのゆえん。
中二,一切不善心俱,隨應皆得小、大俱起。論說:大八遍諸染心。展轉小、中,皆容俱起。
中の二は一切不善心に倶なり。随応して倶に小・大と倶起するを得。論に説く:大の八は諸染心に遍す。展転して小・中は倶に倶起を容す。
有處說:六遍染心者,惛、掉增時,不俱起故。有處但說:五遍染者,以惛、掉等違唯善故。
処有りて説く:六は染心に遍す。惛・掉の増する時は倶に起こらざるのゆえん。処有りてただ説く:五は染に遍するは、惛・掉等は違してただ善なるのみのゆえん。
此唯染故,非第八俱。第七識中唯有大八,取捨差別,如上應知。第六識俱容有一切。小十麁猛,五識中無。中、大相通,五識容有。
これらはただ染なるのみのゆえん、第八と倶せず。第七識の中にはただ大の八のみ。取捨の差別は上の如くまさに知るべし。第六識は倶に一切有るを容す。小の十は麁猛にして五識の中に無し。中・大は相通じて五識に有るを容す。
由斯中、大五受相應。
これに因って中・大は五受と相応す。
有義:小十除三,忿等唯喜、憂、捨三受相應。諂、誑、憍三,四俱,除苦。
一義有り:小の十は三を除く。忿等はただ喜・憂・捨の三受と相応す。諂・誑・憍の三は四に倶にして苦を除く。
有義:忿等四俱,除樂;諂、誑、憍三,五受俱起。意有苦受,前已說故。
一義有り:忿等は四に倶にして楽を除く。諂・誑・憍の三は五受に倶起す。意に苦受有るは前に已に説けるのゆえん。
此受俱相,如煩惱說。
この受倶の相は煩悩の説くが如し。
實義如是,若隨麁相,忿、恨、惱、嫉、害憂、捨俱;覆、慳喜、捨;餘三增樂。中、大隨麁,亦如實義。
実義はこの如し。もし麁相に随えば、忿・恨・悩・嫉・害は憂・捨と倶なり。覆・慳は喜・捨と倶なり。其余の三は楽を増す。中・大は麁に随いて、もまた実義の如し。
如是二十,與別境五,皆容俱起,不相違故。
かくのごとき二十は別境の五と倶に倶起を容す。相違せざるのゆえん。
染念、染慧,雖非念、慧俱,而痴分者,亦得相應故。念亦緣現、曾習類境。忿亦得緣剎那過去,故忿與念,亦得相應。染定起時,心亦躁擾,故亂與定相應無失。
染の念・染の慧は念・慧と倶せざると雖も、しかし癡分のはもまた相応するを得るのゆえん。念もまた現・曽習の類境に縁ず。忿もまた刹那の過去に縁ずるを得。ゆえに忿と念ともまた相応するを得。染定の起こる時、心もまた躁擾す。ゆえに乱と定と相応して過失無し。
中二、大八十煩惱俱。
中の二・大の八は十煩悩と倶なり。
小十定非見、疑俱起。此相麁動,彼審細故。忿等五法,容慢、痴俱,非貪、恚並,是瞋分故。慳痴、慢俱,非貪、瞋並,是貪分故。憍唯痴俱,與慢解別,是貪分故。覆、誑與諂,貪、痴、慢俱。行相無違,貪、痴分故。
小の十は決定して見・疑と倶に起こらず。この相は麁動にして、それらは審細なるのゆえん。忿等の五法は慢・癡と倶を容して、貪・恚と並せず。是れ瞋の分なるのゆえん。慳は癡・慢と倶して、貪・瞋と並せず。是れ貪の分なるのゆえん。憍はただ癡と倶のみ。慢と解別して、是れ貪の分なるのゆえん。覆・誑と諂とは貪・癡・慢と倶なり。行相は違無くして、貪・癡の分なるのゆえん。
小七、中二,唯不善攝。小三、大八,亦通無記。
小の七・中の二はただ不善の摂する所なり。小の三・大の八はもまた無記に通ず。
小七、中二,唯欲界攝。誑、諂欲、色,餘通三界。
小の七・中の二はただ欲界の摂する所なり。誑・諂は欲・色に在り。其余は三界に通ず。
生在下地,容起上十一。耽定於他,起憍、誑、諂故。
下地に生じて上の十一を起こるを容す。定に耽して他に対して憍・誑・諂を起こすのゆえん。
若生上地,起下後十。邪見愛俱,容起彼故。小十,生上無由起下。非正潤生,及謗滅故。
もし上地に生ぜば、下の後十を起こす。邪見は愛に倶して、それらを起こるを容すのゆえん。小の十は上に生じて下を起こす由無し。正しく生を潤すに非ず、および滅を謗るのゆえん。
中二、大八,下亦緣上。上緣貪等,相應起故。
中の二・大の八は下もまた上に縁ず。上の縁する貪等と相応して起こるのゆえん。
有義:小十,下不緣上。行相麁近,不遠取故。
一義有り:小の十は下は上に縁ぜず。行相は麁近にして遠く取らざるのゆえん。
有義:嫉等亦得緣上。於勝地法,生嫉等故。
一義有り:嫉等もまた上に縁ずるを得。勝地の法に対して嫉等を生ずるのゆえん。
大八諂、誑,上亦緣下。下緣慢等,相應起故。梵於釋子,起諂、誑故。憍不緣下,非所恃故。
大の八と誑・諂とは上もまた下に縁ず。下の縁する慢等と相応して起こるのゆえん。梵は釈子に対して諂・誑を起こすのゆえん。憍は下に縁ぜず。恃む所に非ざるのゆえん。
