成唯識論巻第八
如是住內心,知所取非有,
かくのごとく内心に住して、取る所は有に非ずを知り、
次能取亦無,後觸無所得。」
次には取る能もまた無し。後には得る所無きに触る。」
此加行位未遣相縛,於麁重縛亦未能斷,唯能伏除分別二取,違見道故。於俱生者及二隨眠,有漏觀心有所得故,有分別故,未全伏除,全未能滅。
この加行位は未だ相縛を遣わず。麁重の縛に於てもまた未だ断ずる能わず。ただ能く分別の二取を伏除するのみ。見道に違するのゆえん。倶生のおよび二の随眠に於ては、有漏の観心は得る所有るのゆえん、分別有るのゆえんに、未だ全く伏除せず、全く未だ滅する能わず。
此位菩薩於安立諦、非安立諦俱學觀察,為引當來二種見故,及伏分別二種障故,非安立諦是正所觀,非如二乘唯觀安立。
この位の菩薩は安立諦・非安立諦に於て倶に観察を学ぶ。当来の二種の見を引かんが為のゆえん、および分別の二種の障を伏せんが為のゆえん。非安立諦は正しく観ずる所なり。二乗のただ安立を観ずるが如ならず。
菩薩起此煖等善根,雖方便時通諸靜慮,而依第四方得成滿,託最勝依入見道故。
菩薩はこの煖等の善根を起こすに、方便の時は諸静慮に通ずると雖も、しかし第四に依って乃ち成満するを得。最勝の依に託して見道に入るのゆえん。
唯依欲界善趣身起,餘慧、厭心非殊勝故。
ただ欲界の善趣の身に依って起こす。其余は慧・厭心は殊勝に非ざるのゆえん。
此位亦是解行地攝,未證唯識真勝義故。
この位もまた解行地の摂する所なり。未だ唯識の真勝義を証せざるのゆえん。
次通達位,其相云何?
次に通達位の行相はいかん。
頌曰:
頌に説く:
28若時於所緣,智都無所得,
もし時に縁ずる所に於て、智は倶に得る所無からば、
爾時住唯識,離二取相故。
かの時に唯識に住す。二取の相を離るるのゆえん。
論曰:若時菩薩於所緣境,無分別智都無所得,不取種種戲論相故,爾時乃名實住唯識真勝義性,即證真如智與真如平等平等,俱離能取、所取相故,能、所取相,俱是分別,有所得心,戲論現故。
論に説く:もし時に菩薩は縁ずる所の境に於て、無分別智は倶に得る所無し。種種の戯論相を取らざるのゆえん。かの時に乃ち名づけて実に唯識の真勝義性に住す。すなわち真如を証する智は真如と平等平等なり。倶に能取・所取の相を離るるのゆえん。能・所取の相は倶に是れ分別にして、得る所有る心は戯論の現ずる所のゆえん。
有義:此智二分俱無,說無所取、能取相故。
一義有り:この智は二分倶に無し。取る所・取る能の相無しと説くのゆえん。
有義:此智相、見俱有,帶彼相起名緣彼故,若無彼相名緣彼者,應色智等,名聲等智,若無見分應不能緣,寧可說為緣真如智?勿真如性亦名能緣,故應許此定有見分。
一義有り:この智は相・見倶に有り。彼の相を帯びて起こるを名づけて彼に縁ずと為すのゆえん。もし彼の相無きを名づけて彼に縁ずと為さば、まさに色の智等は名づけて声等の智と為るべし。もし見分無ければまさに縁ずること能わざるべし。どうして真如に縁ずる智と説くべきや。真如性をしてもまた名づけて能縁と為さしむること莫れ。ゆえにまさにこれは定めて見分有ると許すべし。
有義:此智見有相無,說無相取,不取相故,雖有見分而無分別,說非能取,非取全無。雖無相分,而可說此帶如相起,不離如故。如自證分緣見分時不變而緣,此亦應爾;變而緣者便非親證,如後得智應有分別,故應許此有見無相。
一義有り:この智は見有りて相無し。取る相無しと説く。相を取らざるのゆえん。見分有ると雖も、しかし分別無し。説いて能取に非ずと為す。取る全く無きに非ず。相分無きと雖も、しかしこれは如の相を帯びて起こると説くべし。如を離れざるのゆえん。自証分は見分に縁ずる時に変せずして縁ずるが如く、これもまたまさに然るべし。変じて縁ずるは便ち親証に非ず。後得智の如くまさに分別有るべし。ゆえにまさにこれは見有りて相無しと許すべし。
加行無間此智生時,體會真如,名通達位;初照理故,亦名見道。
加行の無間にこの智の生ずる時は、真如を体会す。名づけて通達位という。初めて理を照らすのゆえんに、もまた名づけて見道という。
然此見道,略說有二。
しかしこの見道は略説して二有り。
一、真見道,謂即所說無分別智,實證二空所顯真理,實斷二障分別隨眠,雖多剎那事方究竟,而相等故,總說一心。有義:此中二空、二障漸證、漸斷,以有淺深、麁細異故。有義:此中二空、二障頓證、頓斷,由意樂力有堪能故。
一、真見道とはいわゆるすなわち説く所の無分別智にて、実に二空の顯す所の真理を証し、実に二障の分別随眠を断ず。多くの刹那の事にて乃ち究竟すると雖も、しかし相お等しきのゆえんに、総じて一心と説く。一義有り:ここに二空・二障は漸証・漸断す。浅深・麁細の異有るに因るのゆえん。一義有り:ここに二空・二障は頓証・頓断す。意楽力に由って堪能有るのゆえん。
二、相見道,此復有二。
二、相見道。これにまた二有り。
一、觀非安立諦有三品心:一、內遣有情假緣智,能除軟品分別隨眠;二、內遣諸法假緣智,能除中品分別隨眠;三、遍遣一切有情、諸法假緣智,能除一切分別隨眠。
一、非安立諦を観ずるに三品の心有り。一、内に有情の假に縁ずる智を遣るは能く軟品の分別随眠を除く。二、内に諸法の假に縁ずる智を遣るは能く中品の分別随眠を除く。三、遍く一切の有情・諸法の假に縁ずる智を遣るは能く一切の分別随眠を除く。
前二名法智,各別緣故。第三名類智,總合緣故。
前の二を名づけて法智という。各別に縁ずるのゆえん。第三を名づけて類智という。総合して縁ずるのゆえん。
法真見道二空見分自所斷障無間、解脫,別總建立,名相見道。
真見道に法する二空の見分の自らの断ずる所の障の無間・解脱を、別総に建立して、名づけて相見道という。
有義:此三是真見道,以相見道緣四諦故。有義:此三是相見道,以真見道不別緣故。
一義有り:この三は真見道なり。相見道は四諦に縁ずるに因るのゆえん。一義有り:この三は相見道なり。真見道は別に縁ぜざるに因るのゆえん。
二、緣安立諦有十六心,此復有二。
二、安立諦に縁ずるに十六心有り。これにまた二有り。
一者依觀所取、能取,別立法、類十六種心。
一は取る所・取る能を観ずるに依って、別に法・類の十六種の心を立つ。
謂於苦諦有四種心:一、苦法智忍,謂觀三界苦諦真如,正斷三界見苦所斷二十八種分別隨眠。二、苦法智,謂忍無間觀前真如,證前所斷煩惱解脫。三、苦類智忍,謂智無間無漏慧生,於法忍、智各別內證,言後聖法皆是此類。四、苦類智,謂此無間無漏智生,審定、印可苦類智忍。如於苦諦有四種心,集、滅、道諦應知亦爾。此十六心,八觀真如,八觀正智。法真見道無間、解脫見、自證分差別建立,名相見道。
いわゆる苦諦に於て四種の心有り。一、苦法智忍とは、いわゆる三界の苦諦の真如を観て、正しく三界の見苦の断ずる所の二十八種の分別随眠を断ず。二、苦法智とは、いわゆる忍の無間に前の真如を観て、前の断ずる所の煩悩の解脱を証す。三、苦類智忍とは、いわゆる智の無間に無漏の慧生じて、法忍・智に於て各別に内証して、後の聖法は倶にこの類と説く。四、苦類智とは、いわゆるこの無間に無漏智生じて、苦類智忍を審定・印可す。苦諦に於て四種の心有るが如く、集・滅・道諦もまさに然るべしと知る。この十六心は八は真如を観、八は正智を観ず。真見道に法する無間・解脱見・自証分の差別を建立して、名づけて相見道という。
二者依觀下、上諦境,別立法、類十六種心。
二は下・上の諦境を観ずるに依って、別に法・類の十六種の心を立つ。
謂觀現前、不現前界,苦等四諦各有二心,一、現觀忍;二、現觀智,如其所應法真見道,無間、解脫見分觀諦,斷見所斷百一十二分別隨眠,名相見道。
いわゆる現前・不現前の界を観ずるに、苦等の四諦は各々二心有り。一、現観忍。二、現観智。その応ずる所の如く真見道に法して、無間・解脱の見分は諦を観て、見の断ずる所の百一十二の分別随眠を断ず。名づけて相見道という。
若依廣布聖教道理,說相見道有九種心。
もし広く布く聖教の道理に依れば、相見道は九種の心有りと説く。
此即依前緣安立諦二十六種,止、觀別立,謂法類品忍、智合說各有四觀,即為八心,八相應止,總說為一,雖見道中止觀雙運,而於見義觀順非止,故此觀、止開合不同,由此九心名相見道。
これすなわち前の安立諦に縁ずる二十六種に依って、止・観を別に立つ。いわゆる法類品の忍・智は合して説いて各々四観有り。すなわち八心。八の相応する止は総じて一と説く。見道の中は止観双運すると雖も、しかし見義に対しては観は順にして止に非ず。ゆえにこの観・止は開合同じからず。これに由って九心を名づけて相見道という。
諸相見道依真假說,世第一法無間而生及斷隨眠,非實如是,真見道後方得生故,非安立後起安立故。分別隨眠真已斷故。前真見道證唯識性,後相見道證唯識相,二中初勝,故頌偏說,前真見道根本智攝,後相見道後得智攝。
諸々の相見道は真に依りて假に説く。世第一法の無間に生じておよび随眠を断ずるは、実はこの如しに非ず。真見道の後に乃ち生ずるを得るのゆえん。非安立の後に安立を起こすのゆえん。分別随眠は真に已に断ぜたるのゆえん。前の真見道は唯識性を証し、後の相見道は唯識相を証す。二中に初は勝れるがゆえに頌は偏りて説く。前の真見道は根本智の摂する所、後の相見道は後得智の摂する所。
諸後得智有二分耶?
諸々の後得智は二分有るか。
有義:俱無,離二取故。
一義有り:倶に無し。二取を離るるのゆえん。
有義:此智見有相無,說此智品有分別故,聖智皆能親照境故,不執著故,說離二取。
一義有り:この智は見有りて相無し。この智品は分別有りと説くのゆえん。聖智は倶に能く親しく境を照らすのゆえん。執著せざるのゆえんに、二取を離ると説く。
有義:此智二分俱有。
一義有り:この智は二分倶に有り。
說此思惟似真如相,不見真實真如性故。又說此智分別諸法自、共相等,觀諸有情根性差別而為說故。又說此智現身、土等,為諸有情說正法故,若不變現似色、聲等,寧有現身說法等事?
この思惟は真如の相に似たりと説く。真実の真如性を見ざるのゆえん。またこの智は諸法の自・共相等を分別して、諸有情の根性差別を観て説を為すと説くのゆえん。またこの智は身・土等を現じて、諸有情の為に正法を説くと説くのゆえん。もし色・声等に似て變現せざれば、どうして身を現じて法を説く等の事有らん。
轉色蘊依不現色者,轉四蘊依應無受等。又若此智不變似境,離自體法應非所緣,緣色等時應緣聲等,又緣無法等應無所緣緣,彼體非實無緣用故。
色蘊の依を転じて色を現ぜざれば、四蘊の依を転ずるはまさに受等無かるべし。またもしこの智は境に似て變ぜざれば、自体法を離れてまさに縁ずる所に非ざるべし。色等に縁ずる時はまさに声等に縁ずべし。また無法等に縁ずるはまさに所縁縁無かるべし。彼の体は実に非ずして縁の用無きのゆえん。
由斯後智二分俱有。
これに由って後の智は二分倶に有り。
此二見道與六現觀相攝云何?
この二見道は六現観と相摂いかん。
六現觀者:一、思現觀,謂最上品喜受相應,思所成慧,此能觀察諸法共相,引生煖等,加行道中觀察諸法此用最猛,偏立現觀,煖等不能廣分別法,又未證理故非現觀。
六現観とは、一、思現観とは、いわゆる最上品の喜受に相応する思の成ずる所の慧にて、これは能く諸法の共相を観察して、煖等を引生す。加行道の中に諸法を観察するにこの用は最も猛れり。偏りて現観を立つ。煖等は能く広く諸法を分別せず、また未だ理を証せざるのゆえんに現観に非ず。
二、信現觀,謂緣三寶世、出世間決定淨信,此助現觀令不退轉,立現觀名。
二、信現観とは、いわゆる三宝の世・出世間に縁ずる決定の浄信にて、これは現観を助けて退転せざらしむ。現観の名を立つ。
三、戒現觀,謂無漏戒除破戒垢令觀增明,亦名現觀。
三、戒現観とは、いわゆる無漏戒は破戒の垢を除きて観をして増明ならしむ。もまた名づけて現観という。
四、現觀智諦現觀,謂一切種緣非安立根本、後得無分別智。
四、現観智諦現観とは、いわゆる一切種の非安立の根本・後得の無分別智に縁ずる。
五、現觀邊智諦現觀,謂現觀智諦現觀後,諸緣安立世、出世智。
五、現観辺智諦現観とは、いわゆる現観智諦現観の後に、諸々の安立に縁ずる世・出世智。
六、究竟現觀,謂盡智等究竟位智。
六、究竟現観とは、いわゆる尽智等の究竟位の智。
此真見道攝彼第四現觀少分,此相見道攝彼第四、第五少分,彼第二、三雖此俱起而非自性,故不相攝。
この真見道はかの第四現観の少分を摂し、この相見道はかの第四・第五の少分を摂す。かの第二・三はこれと倶起するも自性に非ざるを以ってゆえに相摂せず。
菩薩得此二見道時,生如來家,住極喜地,善達法界,得諸平等,常生諸佛大集會中,於多百門已得自在,自知不久證大菩提,能盡未來利樂一切。
菩薩はこの二見道を得る時に、如来家に生じ、極喜地に住し、法界を善く達して、諸々の平等を得、常に諸仏の大集会の中に生じて、多百の門に於て已に自在を得て、久しからずして大菩提を証せんことを自知して、能く未来を尽くして一切を利楽す。
次修習位,其相云何?
次に修習位の行相はいかん。
頌曰:
頌に説く:
29無得不思議,是出世間智,
得無し・思議すべからざるは、是れ出世間の智。
捨二麁重故,便證得轉依。
二の麁重を捨てるのゆえんに、便ち転依を証得す。
論曰:菩薩從前見道起已,為斷餘障,證得轉依,復數修習無分別智。
論に説く:菩薩は前の見道を起こり已りてより、余の障を断じて転依を証得せんが為に、また数々無分別智を修習す。
此智遠離所取、能取,故說「無得」及「不思議」;或離戲論說為「無得」,妙用難測名「不思議」。
この智は取る所・取る能を遠離す。ゆえに「無得」および「不可思議」と説く。あるいは戯論を離れて「無得」と説き、妙用は測り難きを名づけて「不可思議」という。
是出世間無分別智,斷世間故,名「出世間」。二取隨眠是世間本,唯此能斷獨得「出」名。或「出世」名依二義立,謂體無漏及證真如,此智具斯二種義故,獨名「出世」,餘智不然,即十地中無分別智。
是れ出世間の無分別智にして、世間を断ずるのゆえんに名づけて「出世間」という。二取の随眠は是れ世間の本にして、ただこの能く断ずるを独り「出」の名を得。あるいは「出世」の名は二義に依って立つ。いわゆる体は無漏および真如を証す。この智はこの二種の義を具えるのゆえんに、独り名づけて「出世」という。其余の智はこの如ならず。すなわち十地の中の無分別智なり。
數修此故,「捨二麁重」。二障種子立「麁重」名,性無堪任,違細、輕故,令彼永滅,故說為「捨」。
これを数々修するのゆえんに「二の麁重を捨つ」。二障の種子は「麁重」の名を立つ。性は堪任無きにして、細・軽に違するのゆえん。それらをして永滅せしむ。ゆえに「捨」と説く。
此能捨彼二麁重故,便能證得廣大「轉依」。
これは能くかの二の麁重を捨てるのゆえんに、便ち能く広大の「転依」を証得す。
「依」謂所依,即依他起,與染、淨法為所依故;染謂虛妄遍計所執;淨謂真實圓成實性。轉謂二分,轉捨、轉得。由數修習無分別智,斷本識中二障麁重,故能轉捨依他起上遍計所執,及能轉得依他起中圓成實性。由轉煩惱得大涅槃,轉所知障證無上覺。成立唯識,意為有情證得如斯二轉依果。
「依」とはいわゆる所依にしてすなわち依他起なり。染・浄の法と所依と為るのゆえん。染とはいわゆる虚妄の遍計所執。浄とはいわゆる真実の圓成實性。転とはいわゆる二分にて、転捨・転得。数々無分別智を修習するに由って、本識の中の二障の麁重を断ず。ゆえに能く依他起の上の遍計所執を転捨し、および能く依他起の中の圓成實性を転得す。煩悩を転じて大涅槃を得、所知障を転じて無上の覚を証す。唯識を成立するは意は有情をしてかくのごとき二の転依の果を証得せしめんと欲す。
或「依」即是唯識真如,生死、涅槃之所依故。
あるいは「依」はすなわち唯識の真如にして、生死・涅槃の依る所なるのゆえん。
愚夫顛倒,迷此真如,故無始來受生死苦,聖者離倒,悟此真如,便得涅槃畢竟安樂。由數修習無分別智,斷本識中二障麁重,故能轉滅依如生死,及能轉證依如涅槃,此即真如離雜染性。如雖性淨而相雜染,故離染時假說新淨,即此新淨說為轉依,修習位中斷障證得。
愚夫は顛倒してこの真如に迷う。ゆえに無始より来り生死苦を受く。聖者は倒を離れてこの真如を悟れば、便ち涅槃の畢竟の安楽を得。数々無分別智を修習するに由って、本識の中の二障の麁重を断ず。ゆえに能く如に依る生死を転滅し、および能く如に依る涅槃を転証す。これすなわち真如の雑染を離るる性なり。如は性は浄なると雖も、しかし相は雑染す。ゆえに染を離るる時に假に新浄と説く。すなわちこの新浄を説いて転依と為す。修習位の中に障を断じて証得す。
雖於此位亦得菩提,而非此中頌意所顯,頌意但顯轉唯識性,二乘滿位名解脫身,在大牟尼名法身故。
この位に於てもまた菩提を得ると雖も、しかしここの頌意の顯す所に非ず。頌意はただ唯識性を転ずるを顯す。二乗の満位を名づけて解脱身といい、大牟尼(仏)に在りては法身と名づくるのゆえん。
