閔公
(傳)潰者何?下叛上也。國曰潰,邑曰叛。
(伝)「潰」とは何か。下が上に叛くことである。国については潰と言い、邑については叛と言う。
(經四二)遂伐楚,次於陘。
(経四二)続いて楚を伐ち、陘に驻屯した。
(傳)其言次於陘何?有俟也。孰俟?俟屈完也。
(伝)なぜ「次于陘」と言うのか。待つ者があったのである。誰を待つのか。屈完を待ったのである。
(經四三)夏,許男新臣卒。楚屈完來盟於師,盟於召陵。
(経四三)夏、許男新臣が卒した。楚の屈完が軍中に来て盟し、召陵で盟した。
(傳)屈完者何?楚大夫也。何以不稱使?尊屈完也。曷為尊屈完?以當桓公也。其言盟於師、盟於召陵何?師在召陵也。師在召陵,則曷為再言盟?喜服楚也。何言乎喜服楚?楚有王者則後服,無王者則先叛。夷狄也,而亟病中國,南夷與北狄交。中國不絕若線,桓公救中國,而攘夷狄,卒帖荊,以此為王者之事也。其言來何?與桓為主也。前此者有事矣,後此者有事矣,則曷為獨於此焉?與桓公為主,序績也。
(伝)屈完とは何人か。楚の大夫である。なぜ「使」と称さないのか。屈完を尊んだのである。なぜ屈完を尊ぶのか。桓公に相当する者としたのである。なぜ「盟于師・盟于召陵」と言うのか。軍隊が召陵にあったからである。軍隊がすでに召陵にあるのに、なぜ再び「盟」と言うのか。楚を服させたことを喜んだのである。なぜ楚を服させたことを喜ぶのか。楚は王者あれば後れて服し、王者なければ先に叛く。もともと夷狄でありながら、しきりに中国を病め、南夷と北狄が交代で迫った。中国は絶えぬこと糸の如しというとき、桓公は中国を救い、夷狄を攘い、ついに荊を屈服させ、これをもって王者の事業としたのである。なぜ「来」と言うのか。桓公を主としたのである。これ以前にも事があり、これ以後にも事があったのに、なぜ独りここでそうするのか。桓公を主とするのは、その功績を序列するのである。
(經四四)齊人執陳袁濤塗。
(経四四)斉人が陳の袁涛塗を捕らえた。
(傳)濤塗之罪何?闢軍之道也。其闢軍之道奈何?濤塗謂桓公曰:「君既服南夷矣,何不還師濱海而東,服東夷且歸?」桓公曰:「諾。」於是還師濱海而東,大陷於沛澤之中。顧而執濤塗。執者曷為或稱侯?或稱人?稱侯而執者,伯討也。稱人而執者,非伯討也。此執有罪,何以不得為伯討?古者周公東征則西國怨,西征則東國怨。桓公假塗於陳而伐楚,則陳人不欲其反由己者,師不正故也。不修其師而執濤塗,古人之討,則不然也。
(伝)涛塗の罪は何か。大軍の道を避けさせたことである。彼はどのように大軍の道を避けさせたのか。涛塗は桓公に言った。「君王はすでに南夷を服させました。なぜ軍を還して海に沿って東に進み、東夷を服させてからお帰りにならないのですか。」桓公は言った。「よし。」こうして軍を還して海に沿って東に進み、大いに沛沢の中に陥った。顧みて涛塗を捕らえた。捕らえるのになぜあるいは侯と称し、あるいは人と称するのか。侯と称して捕らえるのは、覇者の罪を討つことである。人と称して捕らえるのは、覇者の討ではない。今回捕らえたのは罪ある者なのに、なぜ覇者の討とできないのか。古え周公が東征すれば西の国が怨み、西征すれば東の国が怨んだ。桓公は陳に道を借りて楚を伐ったが、陳人は彼が帰りに再び自分を経ることを欲しなかった。軍が正しくなかった故である。自分の軍を修めずして涛塗を捕らえたのは、古人の討とはそうではないのである。
(經四五)秋,及江人、黃人伐陳。八月,公至自伐楚。
(経四五)秋、江人・黄人とともに陳を伐った。八月、僖公は楚を伐つ軍から帰った。
(傳)楚已服矣,何以致伐楚?叛盟也。
(伝)楚はすでに服したのに、なぜ楚を伐ったことからの帰還と書くのか。相手が盟を叛いたからである。
(經四六)葬許繆公。冬,十有二月,公孫慈帥師會齊人、宋人、衛人、鄭人、許人、曹人侵陳。
(経四六)許繆公を葬った。冬の十二月、公孫慈が軍隊を率いて斉人・宋人・衛人・鄭人・許人・曹人と会して陳に侵入した。
僖公(經五一)五年
僖公(経五一)五年
春,晉侯殺其世子申生。
春、晋侯がその世子申生を殺した。
(傳)曷為直稱晉侯以殺?殺世子母弟直稱君者,甚之也。
(伝)なぜ直ちに晋侯と称して殺を記すのか。太子あるいは同母弟を殺すとき直ちに君と称するのは、その事を甚だしく言うのである。
(經五二)杞伯姬來朝其子。
(経五二)杞伯姫がその子を伴って来て朝見した。
(傳)其言來朝其子何?內辭也,與其子俱來朝也。
(伝)なぜ「来朝其子」と言うのか。これは魯国自身の辞であり、その子とともに来て朝見したのである。
(經五三)夏,公孫慈如牟。公及齊侯、宋公、陳侯、衛侯、鄭伯、許男、曹伯會王世子於首戴。
(経五三)夏、公孫慈が牟に行った。僖公は斉侯・宋公・陳侯・衛侯・鄭伯・許男・曹伯とともに首戴で王世子に会した。
(傳)曷為殊會王世子?世子貴也。世子,猶世世子也。
(伝)なぜ殊更に王世子に会したと書くのか。世子が尊いからである。世子とは、世々子たる者ということである。
(經五四)秋,八月,諸侯盟於首戴。
(経五四)秋の八月、諸侯が首戴で盟した。
(傳)諸侯何以不序?一事而再見者,前目而後凡也。
(伝)諸侯はなぜ一一列挙しないのか。同一の事が再び現れるとき、前には目列し、後には凡そ総称するのである。
(經五五)鄭伯逃歸不盟。
(経五五)鄭伯が逃げ帰って盟に加わらなかった。
(傳)其言逃歸不盟者何?不可使盟也。不可使盟,則其言逃歸何?魯子曰:「蓋不以寡犯眾也。」
(伝)なぜ「逃帰不盟」と言うのか。盟させることができなかったのである。盟させることができなかったのなら、なぜ「逃帰」と言うのか。魯子が言った。「おそらく寡をもって衆を犯さないのである。」
(經五六)楚人滅弦。弦子奔黃。
(経五六)楚人が弦を滅ぼした。弦子は黄に奔った。
(經五七)九月戊申朔,日有食之。
(経五七)九月戊申朔、日食があった。
(經五八)冬,晉人執虞公。
(経五八)冬、晋人が虞公を捕らえた。
(傳)虞已滅矣,其言執之何?不與滅也。曷為不與滅?滅者亡國之善辭也。滅者,上下之同力者也。
(伝)虞はすでに滅んだのに、なぜ「執」と言うのか。「滅」という字を与しないのである。なぜ「滅」に与しないのか。「滅」は国を亡ぼしたときの善い辞である。「滅」とは上下が力を同じくしたということである。
僖公(經六一)六年
僖公(経六一)六年
春,王正月。
春、周暦の正月。
(經六二)夏,公會齊侯、宋公、陳侯、衛侯、曹伯伐鄭,圍新城。
(経六二)夏、僖公は斉侯・宋公・陳侯・衛侯・曹伯と会して鄭を伐ち、新城を囲んだ。
(傳)邑不言圍,此其言圍何?強也。
(伝)邑については例により「囲」と言わないのに、ここで「囲」と言うのはなぜか。強横だったからである。
(經六三)秋,楚人圍許,諸侯遂救許。
(経六三)秋、楚人が許を囲み、諸侯は続いて許を救った。
(經六四)冬,公至自伐鄭。
(経六四)冬、僖公は鄭を伐つ軍から帰った。
僖公(經七一)七年
僖公(経七一)七年
春,齊人伐鄭。
春、斉人が鄭を伐った。
(經七二)夏,小邾婁子來朝。鄭殺其大夫申侯。
(経七二)夏、小邾婁子が来て朝見した。鄭がその大夫申侯を殺した。
(傳)其稱國以殺何?稱國以殺者,君殺大夫之辭也。
(伝)国を称して殺を記すのはなぜか。国を称して殺を記すのは、君が大夫を殺す辞である。
(經七三)秋,七月,公會齊侯、宋公、陳世子款、鄭世子華,盟於寧毋。
(経七三)秋の七月、僖公は斉侯・宋公・陳世子款・鄭世子華と会し、寧毋で盟した。
(經七四)曹伯般卒。
(経七四)曹伯般が卒した。
(經七五)公子友如齊。
(経七五)公子友が斉に行った。
(經七六)冬,葬曹昭公。
(経七六)冬、曹昭公を葬った。
僖公(經八一)八年
僖公(経八一)八年
春,王正月,公會王人、齊侯、宋公、衛侯、許男、曹伯、陳世子款、鄭世子華,盟於洮。
春、周暦の正月、僖公は王人・斉侯・宋公・衛侯・許男・曹伯・陳世子款・鄭世子華と会し、洮で盟した。
(傳)王人者何?微者也。曷為序乎諸侯之上?先王命也。
(伝)「王人」とは何人か。微しい者である。なぜ諸侯の上に序列するのか。王命を先にするからである。
(經八二)鄭伯乞盟。
(経八二)鄭伯が盟に参加することを乞うた。
(傳)乞盟者何?處其所而請與也。其處其所而請與奈何?蓋酌之也。
(伝)「乞盟」とは何か。自らの所に処って与ることを請うことである。自らの所に処って与ることを請うとはどういうことか。おそらく盟の酒を酌んで彼に送るのである。
(經八三)夏,狄伐晉。
(経八三)夏、狄が晋を伐った。
(經八四)秋,七月,禘於太廟,用致夫人。
(経八四)秋の七月、太廟で禘祭を行い、用いて夫人を致した。
(傳)用者何?用者不宜用也。致者何?致者不宜致也。禘用致夫人,非禮也。夫人何以不稱姜氏?貶。曷為貶?譏以妾為妻也。其言以妾為妻奈何?蓋脅於齊媵女之先至者也。
(伝)「用」とは何か。「用」の字を用いるのは、用いるべきでないことを示す。「致」とは何か。「致」の字を用いるのは、致すべきでないことを示す。禘祭を用いて夫人を致すのは、礼ではない。夫人はなぜ姜氏と称さないのか。貶めたのである。なぜ貶めるのか。妾をもって妻としたことを譏るのである。どのように妾をもって妻としたのか。おそらく斉の先に至った媵女に脅されたのである。
(經八五)冬,十有二月丁未,天王崩。
(経八五)冬の十二月丁未、天子が崩じた。
僖公(經九一)九年
僖公(経九一)九年
春,王三月丁丑,宋公御說卒。
春、周暦の三月丁丑、宋公御説が卒した。
(傳)何以不書葬?為襄公諱也。
(伝)なぜ葬を記さないのか。襄公のために諱んだのである。
(經九二)夏,公會宰周公、齊侯、宋子、衛侯、鄭伯、許男、曹伯於葵丘。
(経九二)夏、僖公は葵丘で宰周公・斉侯・宋子・衛侯・鄭伯・許男・曹伯に会した。
(傳)宰周公者何?天子之為政者也。
(伝)宰周公とは何人か。天子のために政を執る者である。
(經九三)秋,七月乙酉,伯姬卒。
(経九三)秋の七月乙酉、伯姫が卒した。
(傳)此未適人,何以卒?許嫁矣。婦人許嫁,字而笄之,死則以成人之喪治之。
(伝)この人はまだ嫁いでいないのに、なぜ卒を記すのか。すでに許嫁していたからである。婦人は許嫁すれば、字を与え笄を加え、死せば成人の喪をもってこれを治める。
(經九四)九月戊辰,諸侯盟於葵丘。
(経九四)九月戊辰、諸侯が葵丘で盟した。
(傳)桓之盟不日,此何以日?危之也。何危爾?貫澤之會,桓公有憂中國之心,不召而至者,江人、黃人也。葵丘之會,桓公震而矜之,叛者九國。震之者何?猶曰振振然。矜之者何?猶曰莫若我也。
(伝)桓公の盟は日を記さないのに、ここでなぜ日を記すのか。彼を危うんだのである。何を危うんだのか。貫沢の会では、桓公に中国を憂える心があり、召さずして至ったのは江人・黄人であった。葵丘の会では、桓公は震いて矜り、叛いたのは九国あった。「震」とは何か。振振然と言うが如し。「矜」とは何か。我に及ぶものなしと言うが如し。
(經九五)甲戌,晉侯詭諸卒。冬,晉裡克弒其君之子奚齊。
(経九五)甲戌、晋侯詭諸が卒した。冬、晋の里克がその君の子奚斉を弑した。
(傳)此未逾年之君,其言弒其君之子奚齊何?殺未逾年君之號也。
(伝)これはまだ年を踰えていない君なのに、なぜ「弑其君之子奚斉」と言うのか。まだ年を踰えない君を殺すときに用いる号である。
僖公(經十一)十年
僖公(経十一)十年
