Libo

宣公

战国 · 公羊高 · 第23巻 / 44

(經十一三)公孫歸父會齊人伐莒。

(経十一三)公孫帰父が斉国人と会して莒を攻めた。

(經十一四)秋,晉侯會狄於櫕函。

(経十一四)秋、晋侯が櫕函で狄と会見した。

(經十一五)冬,十月,楚人殺陳夏徵舒。

(経十一五)冬十月、楚国人が陳国の夏征舒を殺した。

(傳)此楚子也,其稱人何?貶。曷為貶?不與外討也。不與外討者,因其討乎外而不與也,雖內討亦不與也。曷為不與?實與而文不與。文曷為不與?諸侯之義,不得專討也。諸侯之義不得專討,則其曰實與之何?上無天子,下無方伯,天下諸侯有為無道者,臣弒君,子弒父,力能討之,則討之可也。

(伝)この人は楚子なのに、なぜ「人」と称するか。貶めである。なぜ貶めるか。外から来て討つことに賛成しないからである。外から来て討つことに賛成しないとは、外で討つならば賛成せず、内で討ってもなお賛成しないということである。なぜ賛成しないか。実は賛成するが、文の上では賛成しない。文の上でなぜ賛成しないか。諸侯の職分として、擅自に討伐してはならない。諸侯の職分として擅自に討伐してはならないのに、実は賛成すると言うのはなぜか。上に天子なく、下に方伯なく、天下の諸侯に無道の事を為す者あり、臣が君を殺し、子が父を殺し、力をもって討つべきならば、すなわち討ってよいのである。

(經十一五)丁亥,楚子入陳,納公孫寧、儀行父於陳。

(経十一五)丁亥、楚子が陳に入り、公孫寧・儀行父を陳に送り入れた。

(傳)此皆大夫也,其言納何?納公黨與也。

(伝)この人々はみな大夫なのに、なぜ「納」と書くか。公の党羽を送り入れるのである。

宣公(經十二一)十有二年

宣公(経十二一)十有二年

春,葬陳靈公。

春、陳霊公を葬った。

(傳)討此賊者非臣子也,何以書葬?君子辭也。楚已討之矣,臣子雖欲討之而無所討也。

(伝)この賊を討ったのは臣子ではないのに、なぜ葬りを記すか。君子の言い方である。楚国がすでに討ったので、臣子は討ちたいと思っても討つ所がなかったのである。

(經十二二)楚子圍鄭。

(経十二二)楚子が鄭を包囲した。

(經十二三)夏,六月乙卯,晉荀林父帥師及楚子戰於邲,晉師敗績。

(経十二三)夏六月乙卯、晋国の荀林父が軍を率いて楚子と邲で交戦し、晋軍は大敗した。

(傳)大夫不敵君,此其稱名氏以敵楚子何?不與晉而與楚子為禮也。曷為不與晉而與楚子為禮也?莊王伐鄭,勝乎皇門,放乎路衢。鄭伯肉袒,左執茅旌,右執鸞刀,以逆莊王曰:「寡人無良,邊垂之臣,以幹天禍,是以使君王沛焉,辱到敝邑。君如矜此喪人,錫之不毛之地,使帥一二耋老而綏焉,請唯君王之命。」莊王曰:「君之不令臣,交易為言,是以使寡人得見君之玉面而微至乎此。」莊王親自手旌,左右撝軍退舍七里。將軍子重諫曰:「南郢之與鄭相去數千裡,諸大夫死者數人,廝役扈養死者數百人,今君勝鄭而不有,無乃失民臣之力乎?」莊王曰:「古者杅不穿、皮不蠹,則不出於四方。是以君子篤於禮而薄於利,要其人而不要其土,告從,不赦不詳,吾以不詳道民,災及吾身,何日之有?」既則晉師之救鄭者至曰:「請戰。」莊王許諾。將軍子重諫曰:「晉,大國也,王師淹病矣,君請勿許也。」莊王曰:「弱者,吾威之,強者吾闢之,是以使寡人無以立乎天下!」令之還師而逆晉寇。莊王鼓之,晉師大敗,晉眾之走者,舟中之指可掬矣。莊王曰:「嘻!吾兩君不相好,百姓何罪?」令之還師而佚晉寇。

(伝)大夫は国君と対等であるべきではないのに、ここで名氏を称して楚子と敵対させるのはなぜか。晋に賛成せず楚子を礼に合うと賛成するからである。なぜ晋に賛成せず楚子を礼に合うとするか。荘王が鄭を攻め、皇門で勝ち、大逵に至った。鄭伯は上身を裸にし、左手に茅旌を執り、右手に鸞刀を執って、荘王を迎えて言った。「寡人は良くなく、辺境の臣が天の禍を招き、君王に赫焉として怒らせ、尊くも敝邑に辱臨させました。君王もしこの亡国の人を憐れみ、草も生えぬ地を賜って、一二の老人を連れて安んじさせてくださるならば、ただ君王の命に従うのみです。」荘王は言った。「あなたの不善な臣どもが交わり交わり讒言を進めたので、寡人はあなたの玉面に見えることができ、わずかにこの地步に至ったのである。」荘王は自ら旌旗を執り、左右に軍を指麾して七里退かせた。将軍子重が諫めて言った。「南郢と鄭とは数千里隔たり、大夫は数人死に、厮役扈養は数百人死にました。今君王は鄭に勝ちながらこれを有さないとは、民臣の力に背くのではありませんか。」荘王は言った。「古は盂が破れず皮が蛀まなければ、四方に兵を出さなかった。だから君子は礼に厚く利に薄く、要するに人を求めて土を求めないのである。すでに服従を表したのに、これを赦さないのは善ではない。私が不善をもって民を導くならば、禍いは我が身に落ち、あとどれほどの日があろうか。」ほどなく鄭を救う晋軍が至り、「戦わせてください」と言った。荘王はこれを許した。将軍子重が諫めて言った。「晋は大国であり、王の軍はすでに久しく疲れています。君王にお許しなさらないようお願いします。」荘王は言った。「弱ければこれを威嚇し、強ければこれを避けるのでは、寡人は何をもって天下に立たん!」令して師を回して晋軍を迎え撃たせた。荘王が鼓を撃つと、晋軍は大敗し、晋国の逃げる者が舟中に切り落とされた指は掬うほどであった。荘王は言った。「ああ!我ら二国君が相好しなかったばかりに、百姓に何の罪があろうか。」令して師を回し、晋軍を逃がしてやった。

(經十二四)秋,七月。

(経十二四)秋七月。

(經十二五)冬,十有二月戊寅,楚子滅蕭。

(経十二五)冬十二月戊寅、楚子が蕭を滅ぼした。

(經十二六)晉人、宋人、衛人、曹人同盟於清丘。

(経十二六)晋国人・宋国人・衛国人・曹国人がともに清丘で会盟した。

(經十二七)宋師伐陳。

(経十二七)宋軍が陳を攻めた。

(經十二八)衛人救陳。

(経十二八)衛国人が陳を救った。

宣公(經十三一)十有三年

宣公(経十三一)十有三年

春,齊師伐衛。

春、斉軍が衛を攻めた。

(經十三二)夏,楚子伐宋。

(経十三二)夏、楚子が宋を攻めた。

(經十三三)秋,螽。

(経十三三)秋、螽が災いを成した。

(經十三四)冬,晉殺其大夫先縠。

(経十三四)冬、晋国がその大夫先縠を殺した。

宣公(經十四一)十有四年

宣公(経十四一)十有四年

春,衛殺其大夫孔達。

春、衛国がその大夫孔達を殺した。

(經十四二)夏,五月壬申,曹伯壽卒。

(経十四二)夏五月壬申、曹伯寿が卒した。

(經十四三)晉侯伐鄭。

(経十四三)晋侯が鄭を攻めた。

(經十四四)秋,九月,楚子圍宋。

(経十四四)秋九月、楚子が宋を包囲した。

(經十四五)葬曹文公。

(経十四五)曹文公を葬った。

(經十四六)冬,公孫歸父會齊侯於谷。

(経十四六)冬、公孫帰父が穀で斉侯と会見した。

宣公(經十五一)十有五年

宣公(経十五一)十有五年

春,公孫歸父會楚子於宋。

春、公孫帰父が宋で楚子と会見した。

(經十五二)夏,五月,宋人及楚人平。

(経十五二)夏五月、宋国人と楚国人が講和した。

(傳)外平不書,此何以書?大其平乎已也。何大乎其平乎已?莊王圍宋,軍有七日之糧爾。盡此不勝,將去而歸爾。於是使司馬子反乘堙而堙宋城,宋華元亦乘堙而出見之。司馬子反曰:「子之國何如?」華元曰:「憊矣。」曰:「何如?」曰:「易子而食之,析骸而炊之。」司馬子反曰:「嘻!甚矣憊!雖然,吾聞之也:圍者柑馬而秣之,使肥者應客,是何子之情也?」華元曰:「吾聞之:君子見人之厄則矜之,小人見人之厄則幸之。吾見子之君子也,是以告情於子也。」司馬子反曰:「諾,勉之矣!吾軍亦有七日之糧爾,盡此不勝,將去而歸爾。」揖而去之,反於莊王。

(伝)外の講和は例によって記さないのに、ここで記すのはなぜか。彼らが自ら講和したことを大きく見せるためである。なぜ自ら講和したことを大きく見せるか。荘王が宋を包囲した時、軍中に七日分の糧しかなかった。これを食べ尽くしてもまだ勝てなければ、去って帰るつもりであった。そこで司馬子反を遣わして土山に登り宋城に近づかせると、宋国の華元もまた土山に登って出て彼に会った。司馬子反は言った。「あなたの国はどうですか。」華元は言った。「疲弊しきっています。」問うて言った。「どのように疲弊しているのか。」答えて言った。「子を易えて食い、骨を析いて炊いています。」司馬子反は言った。「ああ!疲弊の甚だしいことよ!そうはいっても、私は聞いた。囲まれた者は馬の口を箝ませて芻を与え、肥えた馬を出して客に応じるものだと。あなたはなぜこのように実情を吐くのですか。」華元は言った。「私は聞いた。君子は人の困厄を見ればこれを憐れみ、小人は人の困厄を見ればこれを幸うと。私はあなたを君子と見たので、実情をお告げしたのです。」司馬子反は言った。「よし。努めて守りなさい!我が軍も七日分の糧しかなく、これを食べ尽くしてもまだ勝てなければ、去って帰るつもりです。」揖して去り、荘王に報告した。

(傳)莊王曰:「何如?」司馬子反曰:「憊矣!」曰:「何如?」曰:「易子而食之,析骸而炊之。」莊王曰:「嘻!甚矣憊!雖然,吾今取此,然後而歸爾。」司馬子反曰:「不可。臣已告之矣,軍有七日之糧爾。」莊王怒曰:「吾使子往視之,子曷為告之?」司馬子反曰:「以區區之宋,猶有不欺人之臣,可以楚而無乎?是以告之也。」莊王曰:「諾。舍而止。雖然,吾猶取此然後歸爾。」司馬子反曰:「然則君請處於此,臣請歸爾。」莊王曰:「子去我而歸,吾孰與處於此?吾亦從子而歸爾。」引師而去之,故君子大其平乎已也。此皆大夫也,其稱人何?貶。曷為貶?平者在下也。

(伝文は続けて言う:)荘王は言った。「どうだったか。」司馬子反は言った。「疲弊しきっていました!」問うて言った。「どのように疲弊しているのか。」答えて言った。「子を易えて食い、骨を析いて炊いています。」荘王は言った。「ああ!疲弊の甚だしいことよ!そうはいっても、私は今これを取ってから帰る。」司馬子反は言った。「いけません。臣はすでに彼に告げました。軍中には七日分の糧しかないと。」荘王は怒って言った。「私はあなたを遣わして見させたのに、なぜ彼に告げたのか。」司馬子反は言った。「区区たる一宋にも、人を欺かない臣がいるのです。楚にかえっていないことがありましょうか。だから告げたのです。」荘王は言った。「よし。営を安んじて住め。そうはいっても、私はやはりこれを取ってから帰る。」司馬子反は言った。「では君王はここにお留まりください。臣を帰らせてください。」荘王は言った。「あなたが私を離れて帰れば、私は誰とともにここに留まろうか。私もあなたに従って帰る。」軍を引いて去った。だから君子は彼らが自ら講和したことを大きく見せるのである。この人々はみな大夫なのに、なぜ「人」と称するか。貶めである。なぜ貶めるか。講和したのが下位の者だからである。

(經十五三)六月癸卯,晉師滅赤狄潞氏,以潞子嬰兒歸。

(経十五三)六月癸卯、晋軍が赤狄潞氏を滅ぼし、潞子嬰児を連れて帰った。

(傳)潞何以稱子?潞子之為善也,躬足以亡爾。雖然,君子不可不記也。離於夷狄,而未能合於中國,晉師伐之,中國不救,狄人不有,是以亡也。

(伝)潞はなぜ「子」と称するか。潞子は善事を行ったが、自身の力は滅亡にしか足りなかった。そうはいっても君子は記さざるを得ない。彼は夷狄を離れたが、まだ中原に合わず、晋軍が彼を攻めた時、中原も救わず、狄人も彼を保有せず、だから滅んだのである。

(經十五四)秦人伐晉。

(経十五四)秦国人が晋を攻めた。

(經十五五)王札子殺召伯、毛伯。

(経十五五)王札子が召伯・毛伯を殺した。

(傳)王札子者何?長庶之號也。

(伝)王札子とは何者か。長庶の称である。

(經十五六)秋,螽。

(経十五六)秋、螽が災いを成した。

(經十五七)仲孫蔑會齊高固於牟婁。

(経十五七)仲孫蔑が牟婁で斉国の高固と会見した。

(經十五八)初稅畝。

(経十五八)初めて畝に応じて税を取った。

(傳)初者何?始也。稅畝者何?履畝而稅也。初稅畝,何以書?譏。何譏爾?譏始履畝而稅也。何譏乎始履畝而稅?古者什一而藉。古者曷為什一而藉?什一者天下之中正也。多乎什一,大桀、小桀;寡乎什一,大貉、小貉。什一者天下之中正也,什一行而頌聲作矣。

(伝)「初」とはどういう意味か。始めることである。「税畝」とはどういう意味か。田畝に応じて税を取ることである。初めて畝税を行ったのは、なぜ記すか。譏りである。何を譏るか。畝税を始めたことを譏るのである。なぜ畝税を始めたことを譏るか。古は十に一つを取り、民の力を借りて耕した。古はなぜ十に一つを取り民の力を借りて耕したか。十に一つは天下の中正である。十に一つより多く取れば大桀・小桀であり、十に一つより少なく取れば大貉・小貉である。十に一つは天下の中正であり、十に一つが行われれば頌声が起こるのである。

(經十五九)冬,蝝生。

(経十五九)冬、蝝が生じた。

(傳)未有言蝝生者,此其言蝝生何?蝝生不書,此何以書?幸之也。幸之者何?猶曰受之云爾。受之云爾者何?上變古易常,應是而有天災,其諸則宜於此焉變矣。

(伝)いまだかつて「蝝生」と書いたことがないのに、ここでなぜ「蝝生」と書くか。蝝が生じるのは例によって記さないのに、ここで記すのはなぜか。これを幸うのである。幸うとはどういう意味か。受け入れると言うに似ている。受け入れるとはどういう意味か。上が古法を変え常規を易えたので、正にこれに応じて天災があったのだから、おそらくここで変わり戻るべきなのである。

(經十五十)飢。

(経十五十)飢饉があった。

宣公(經十六一)十有六年

宣公(経十六一)十有六年

春,王正月,晉人滅赤狄甲氏及留籲。

春、周暦正月、晋国人が赤狄甲氏と留吁を滅ぼした。

(經十六二)夏,成周宣謝災。

(経十六二)夏、成周の宣謝で火災があった。

(傳)成周者何?東周也。宣謝者何?宣宮之謝也。何言乎成周宣謝災?樂器藏焉爾。成周宣謝災,何以書?記災也。外災不書,此何以書?新周也。

(伝)成周とは何か。東周である。宣謝とは何か。宣宮の台榭である。なぜ「成周宣謝災」と書くか。楽器がそこに蔵されているからである。成周宣謝の火災をなぜ記すか。災害を記したのである。外の災害は例によって記さないのに、ここで記すのはなぜか。周を新王と見なすからである。

(經十六三)秋,郯伯姬來歸。

(経十六三)秋、郯伯姫が帰って来た。

(經十六四)冬,大有年。

(経十六四)冬、大いに豊年があった。

宣公(經十七一)十有七年

宣公(経十七一)十有七年

春,王正月庚子,許男錫我卒。

春、周暦正月庚子、許男錫我が卒した。

(經十七二)丁未,蔡侯申卒。

(経十七二)丁未、蔡侯申が卒した。

(經十七三)夏,葬許昭公。

(経十七三)夏、許昭公を葬った。

(經十七四)葬蔡文公。

(経十七四)蔡文公を葬った。

(經十七五)六月癸卯,日有食之。

(経十七五)六月癸卯、日食があった。

(經十七六)己未,公會晉侯、衛侯、曹伯、邾婁子同盟於斷道。秋,公至自會。

(経十七六)己未、宣公は晋侯・衛侯・曹伯・邾婁子とともに断道で会盟した。秋、宣公は会盟から帰った。

(經十七七)冬,十有一月壬午,公弟叔肸卒。

(経十七七)冬十一月壬午、宣公の弟叔肸が卒した。

The original text is in the public domain. The Japanese is a machine-assisted translation of this library’s own Chinese paraphrase, checked against a fixed glossary so that technical terms match the definitions used elsewhere on this site. It is a reading aid and does not replace the original.