Libo

襄公(元年~三十一年)

春秋 · 左丘明(旧题) · 第39巻 / 56

有與疑年,使之年。曰:“臣小人也,不知紀年。臣生之歲,正月甲子朔,四百有四十五甲子矣,其季於今三之一也。”吏走問諸朝,師曠曰:“魯叔仲惠伯會郤成子於承匡之歲也。是歲也,狄伐魯。叔孫莊叔於是乎敗狄於鹹,獲長狄僑如及虺也豹也,而皆以名其子。七十三年矣。”史趙曰:“亥有二首六身,下二如身,是其日數也。”士文伯曰:“然則二萬六千六百有六旬也。”

人ありてその年齡を懷疑し、彼に年歲を言わしめた。言った、「臣は小人。年を記することを知らず。臣の出生の年は、正月甲子の朔日。すでに四百四十五個の甲子を經たり。最末の一個は今日に至るは三分之一」と。吏は朝廷に走りて問うと、師曠は言った、「是れ魯の叔仲恵伯が承匡で郤成子と會見した年。あの年、狄は魯を攻めた。叔孫莊叔はこうして鹹で狄を敗り、長狄僑如および虺・豹を俘獲し、皆もって兒子に名を起こした。七十三年」と。史趙は言った、「亥は二を頭と為し六を身と為す。二を移し下ろして身のごとくせば、即ちその日數」と。士文伯は言った、「然れば二萬六千六百六十日」と。

趙孟問其縣大夫,則其屬也。召之,而謝過焉,曰:“武不才,任君之大事,以晉國之多虞,不能由吾子,使吾子辱在泥塗久矣,武之罪也。敢謝不才。”遂仕之,使助為政。辭以老。與之田,使為君復陶,以為絳縣師,而廢其輿尉。於是,魯使者在晉,歸以語諸大夫。季武子曰:“晉未可媮也。有趙孟以為大夫,有伯瑕以為佐,有史趙、師曠而諮度焉,有叔向、女齊以師保其君。其朝多君子,其庸可媮乎?勉事之而後可。”

趙孟はその縣大夫を問うに、自らの下屬。彼を召し、道歉して言った、「武は才能なく、君王の大事を擔任す。晋の憂患多きによって、吾子を任用する能わず。吾子を泥涂に屈辱せしむること久し。是れ武の罪。敢えて才能なきを謝す」と。こうして彼に官を為らせ、執政を幫助せしめた。年老をもって推辞した。彼に田を給し、國君のために衣服を管理せしめ、絳縣師を為らせ、かつあの輿尉を廢掉した。當時、魯の使者は晋に在り、歸りて諸大夫に告げた。季武子は言った、「晋は輕視すべからず。趙孟あって大夫を為り、伯瑕あって輔佐を為り、史趙・師曠あって諮詢度量し、叔向・女齊あって國君の師保を為る。朝廷に君子多し。どうして輕視すべからん。努力して事えて然る後乃ち可」と。

夏四月己亥,鄭伯及其大夫盟。君子是以知鄭難之不已也。

夏四月己亥、鄭伯はその大夫と盟約を結んだ。君子はこれによって鄭の災難の停止せざるを知る。

蔡景侯為大子般娶於楚,通焉。大子弒景侯。

蔡景侯は太子般のために楚より妻を娶り、彼女と私通した。太子は景侯を弑殺した。

初,王儋季卒,其子括將見王,而嘆。單公子愆期為靈王御士,過諸廷,聞其嘆而言曰:“烏乎!必有此夫!”入以告王,且曰:“必殺之!不戚而願大,視躁而足高,心在他矣。不殺,必害。”王曰:“童子何知?”及靈王崩,儋括欲立王子佞夫,佞夫弗知。戊子,儋括圍蒍,逐成愆。成愆奔平畦。五月癸巳,尹言多、劉毅、單蔑、甘過、鞏成殺佞夫。括、瑕、廖奔晉。書曰“天王殺其弟佞夫。”罪在王也。

初め、王室の儋季が死去し、その子括はまさに王に見えんとして、歎息した。單公子愆期は靈王の御士を為り、朝廷を經過し、彼の歎息するを聞きて言った、「ああ!必ずこのを得んと欲す!」入りて王に告げ、かつ言った、「必ず彼を殺せ!悲哀せずして願望大なり。目光は浮躁にして脚步は高し。心は別處に在り。殺さずば、必ず害あらん」と。王は言った、「小孩子は何を知らん」と。靈王の死去に及び、儋括は王子佞夫を立てんと欲したが、佞夫は知らず。戊子、儋括は䓕を包圍し、成愆を驅逐した。成愆は平畦に出奔した。五月癸巳、尹言多・劉毅・單蔑・甘過・鞏成は佞夫を殺した。括・瑕・廖は晋に出奔した。《春秋》に記して「天王殺其弟佞夫」と言うは、罪は王に在り。

或叫於宋大廟,曰:“譆,譆!出出!”鳥鳴於亳社,如曰:“譆譆。”甲午,宋大災。宋伯姬卒,待姆也。君子謂:“宋共姬,女而不婦。女待人,婦義事也。”

人ありて宋の太廟で喊して言った、「譆、譆!出出!」鳥は亳社で叫び、言うがごとし、「譆譆」と。甲午、宋に大火災あり。宋の伯姬が死去した。是れ保姆を待つ。君子は思う、「宋共姬は、是れ女兒にして婦人にあらず。女兒は人を待ち、婦人は權宜に行事する可し」と。

六月,鄭子產如陳蒞盟。歸,覆命。告大夫曰:“陳,亡國也,不可與也。

六月、鄭の子産は陳に至りて盟約に參加した。歸りて復命した。大夫に告げて言った、「陳はまさに亡ぶ國家。親近すべからず。

聚禾粟,繕城郭,恃此二者,而不撫其民。其君弱植,公子侈,大子卑,大夫敖,政多門,以介於大國,能無亡乎?不過十年矣。”

禾粟を聚集し、城郭を修繕し、此の兩樣を恃むに、かえって百姓を安撫せず。國君は根基弱く、公子は奢侈し、太子は卑微し、大夫は驕傲し、政事は門多く、大國の間に處す。能く滅亡せざらんや。十年を超えず」と。

秋七月,叔弓如宋,葬共姬也。

秋七月、叔弓は宋に行った。是れ共姬を安葬する。

鄭伯有耆酒,為窟室,而夜飲酒擊鐘焉,朝至未已。朝者曰:“公焉在?”其人曰:“吾公在壑谷。”皆自朝布路而罷。既而朝,則又將使子皙如楚,歸而飲酒。庚子,子皙以駟氏之甲伐而焚之。伯有奔雍梁,醒而後知之,遂奔許。大夫聚謀,子皮曰:“《仲虺之志》云:‘亂者取之,亡者侮之。推亡固存,國之利也。’罕、駟、豐同生。伯有汰侈,故不免。”

鄭の伯有は酒を嗜み、地下室を作り、夜に酒を飲み鐘を擊ち、朝見する人は至るもまだ畢らず。朝見する人は言った、「公はどこに在る」と。その人は言った、「わが公は壑谷に在る」と。皆朝廷より路を分かちて散った。隨後上朝し、またまさに子皙を遣わして楚に行かせんとした。歸りて即ち酒を飲んだ。庚子、子皙は駟氏の甲士をもって攻めかつ燒掉した。伯有は雍梁に出奔し、酒醒めて然る後知り、こうして許に出奔した。大夫は聚集して謀劃し、子皮は言った、「《仲虺之志》に言う、『亂するは彼を奪取し、滅亡するは彼を欺侮す。滅亡を推進し存在を鞏固するは、國家の利益』と。罕・駟・豐は同胞。伯有は驕汰奢侈す。だから免れず」と。

人謂子產:“就直助強!”子產曰:“豈為我徒?國之禍難,誰知所儆?或主強直,難乃不生。姑成吾所。”辛丑,子產斂伯有氏之死者而殯之,不及謀而遂行。印段從之。子皮止之,眾曰:“人不我順,何止焉?”子皮曰:“夫人禮於死者,況生者乎?”遂自止之。壬寅,子產入。癸卯,子石入。皆受盟於子皙氏。乙巳,鄭伯及其大夫盟於大宮。盟國人於師之梁之外。

人ありて子産に言った、「正直に靠近し強きを幫助せよ!」子産は言った、「あに我の黨徒ならんや。國家の禍難は、誰が誰を警戒するかを知らん。あるいは人ありて強直を主持せば、災難は乃ち發生せざらん。姑く我の位置を成就せん」と。辛丑、子産は伯有氏の死者を收殮して殯葬し、謀劃に及ばずして走った。印段は跟從した。子皮は彼を拦え、衆人は言った、「人はわれわれに順從せず。何を拦むる」と。子皮は言った、「あの人は死者に禮あり。まして活人をや」と。こうして自ら拦えた。壬寅、子産は入った。癸卯、子石は入った。皆子皙氏で盟約を受けた。乙巳、鄭伯はその大夫と太宮で盟約を結んだ。師之梁の外で國人と盟約を結んだ。

伯有聞鄭人之盟己也,怒。聞子皮之甲不與攻己也,喜。曰:“子皮與我矣。”

伯有は鄭人が自らに針對して盟約を結んだを聞き、怒った。子皮の甲士が自らを攻めるに參與せざるを聞き、喜んだ。言った、「子皮は我に親附した」と。

癸丑,晨,自墓門之瀆入,因馬師頡介於襄庫,以伐舊北門。駟帶率國人以伐之。

癸丑、早朝、墓門の水道より入り、馬師頡に倚りて襄庫で甲を著て、舊北門を攻めた。駟帶は國人を率いて彼を攻めた。

皆召子產。子產曰:“兄弟而及此,吾從天所與。”伯有死於羊肆,子產襚之,枕之股而哭之,斂而殯諸伯有之臣在市側者。既而葬諸斗城。子駟氏欲攻子產,子皮怒之曰:“禮,國之幹也,殺有禮,禍莫大焉。”乃止。

皆子産を召した。子産は言った、「兄弟はこの地步に至った。我は上天の與うる所に從う」と。伯有は羊肆で死し、子産は彼のために衣を著せ、頭を大腿に枕して哭し、入殮して伯有の市旁の家臣の所に殯した。隨後斗城に安葬した。子駟氏は子産を攻めんと欲し、子皮は怒りて言った、「禮は國家の骨幹。禮ある人を殺すは、禍はこれより大ききはなし」と。こうして停止した。

於是遊吉如晉還,聞難不入,覆命於介。八月甲子,奔晉。駟帶追之,及酸棗。與子上盟,用兩珪質於河。使公孫肸入盟大夫。己巳,復歸。書曰“鄭人殺良霄。”不稱大夫,言自外入也。

當時游吉は晋より歸り、災難を聞きて城に入らず、副手に復命した。八月甲子、晋に出奔した。駟帶は追趕し、酸棗に到達した。子上と盟約を結び、兩珪をもって黃河に質證した。公孫肸を遣わして城に進み大夫と盟約を結ばせた。己巳、再び歸った。《春秋》に記して「鄭人殺良霄」と。大夫と稱せざるは、外より入ったを言う。

於子蟜之卒也,將葬,公孫揮與裨灶晨會事焉。過伯有氏,其門上生莠。

子蟜の死去の時に在り、まさに安葬せんとして、公孫揮と裨竈は早朝に會合して事を辦じた。伯有氏を經過し、門上に莠草が生えた。

子羽曰:“其莠猶在乎?”於是歲在降婁,降婁中而旦。裨灶指之曰:“猶可以終歲,歲不及此次也已。”及其亡也,歲在娵訾之口。其明年,乃及降婁。

子羽は言った、「あの莠草はなお在るか」と。當時歲星は降婁に在り、降婁は中天に在りて天亮した。裨竈は指して言った、「なお此の一歲を過ごす能し。歲星は此の位置に至らざらん」と。彼の滅亡に及ぶに、歲星は娵訾之口に在り。第二年、乃ち降婁に至った。

僕展從伯有,與之皆死。羽頡出奔晉,為任大夫。雞澤之會,鄭樂成奔楚,遂適晉。羽頡因之,與之比,而事趙文子,言伐鄭之說焉。以宋之盟故,不可。

僕展は伯有に跟從し、彼とともに死んだ。羽頡は晋に出奔し、任地の大夫を為った。鷄沢の會に、鄭の樂成は楚に出奔し、こうして晋に至った。羽頡は彼に倚りて、彼と勾結し、趙文子に事えて、鄭を攻める主張を言った。宋の盟の故のために、不可。

子皮以公孫鉏為馬師。

子皮は公孫鉏に馬師を為らせた。

楚公子圍殺大司馬蒍掩而取其室。申無宇曰:“王子必不免。善人,國之主也。王子相楚國,將善是封殖,而虐之,是禍國也。且司馬,令尹之偏,而王之四體也。絕民之主,去身之偏,艾王之體,以禍其國,無不祥大焉!何以得免?”為宋災故,諸侯之大夫會,以謀歸宋財。冬十月,叔孫豹會晉趙武、齊公孫蠆、宋向戌、衛北宮佗、鄭罕虎及小邾之大夫,會於澶淵。既而無歸於宋,故不書其人。

楚の公子圍は大司馬𫇭掩を殺しかつその家室を奪取した。申無宇は言った、「王子は必ず免れざらん。善人は國家の主人。王子は楚を輔佐し、應當に善を培養すべきに、かえって虐害す。是れ國家を禍害す。しかも司馬は令尹の輔佐、是れ王の四肢。百姓の主人を斷絕し、自身の輔佐を去り、王の肢體を砍掉して、もってその國家を禍害す。不祥はこれより大ききはなし!何をもって免れん」と。宋の火災の故のために、諸侯の大夫は會見し、宋に財貨を歸還するを謀劃した。冬十月、叔孫豹は晋の趙武・齊の公孫蠆・宋の向戌・衛の北宮佗・鄭の罕虎および小邾の大夫と會合し、澶淵で會見した。隨後宋に歸給せず。だから《春秋》にあの人々を記さず。

君子曰:“信其不可不慎乎!澶淵之會,卿不書,不信也夫!諸侯之上卿,會而不信,寵名皆棄,不信之不可也如是!《詩》曰:‘文王陟降,在帝左右。’信之謂也。又曰:‘淑慎爾止,無載爾偽。’不信之謂也。”書曰“某人某人會於澶淵,宋災故。”尤之也。不書魯大夫,諱之也。

君子は言った、「信用は謹慎せざるべからざるか!澶淵の會に、卿を記さざるは、守信せざるである!諸侯の上卿は、會見してかえって守信せず。寵と名は皆拋棄せり。守信せざるはこのごとくすべからず!《詩》に言う、『文王は升降し、上帝の左右に在り』と。是れ信用を言う。また言う、『よくよくなんじの舉止を謹慎し、虚僞を帶びるなかれ』と。是れ守信せざるを言う」。《春秋》に記して「某人某人會于澶淵、宋災故」と言うは、責備する。魯の大夫を記さざるは、避諱する。

鄭子皮授子產政,辭曰:“國小而逼,族大寵多,不可為也。”子皮曰:“虎帥以聽,誰敢犯子?子善相之,國無小,小能事大,國乃寬。”

鄭の子皮は政事を子産に交した。推辞して言った、「國家は小にして逼迫せられ、族は大にして寵幸の人多し。治理すべからず」と。子皮は言った、「虎は率いて命を聽かん。誰が敢えてあなたを冒犯せん。あなたはよくよく輔佐せよ。國家に小なきはなし。小なるは能く大なるに事えれば、國家は乃ち寬緩す」と。

子產為政,有事伯石,賂與之邑。子大叔曰:“國,皆其國也。奚獨賂焉?”子產曰:“無慾實難。皆得其欲,以從其事,而要其成,非我有成,其在人乎?何愛於邑?邑將焉往?”子大叔曰:“若四國何?”子產曰:“非相違也,而相從也,四國何尤焉?《鄭書》有之曰:‘安定國家,必大焉先。’姑先安大,以待其所歸。”既,伯石懼而歸邑,卒與之。伯有既死,使大史命伯石為卿,辭。

子産は執政し、事ありて伯石を需要し、城邑をもって彼を賄賂した。子大叔は言った、「國家は皆彼の國家。なぜ獨り賄賂する」と。子産は言った、「欲望なきは實に難し。皆欲望を得て、もって事に跟從し、かつ成功を要求す。我に成功あるにあらず。あに他人に在らんや。城邑に何の吝惜があらん。城邑はまさにどこに至らん」と。子大叔は言った、「四方之國に對してどうせん」と。子産は言った、「互相に違背するにあらずして、互相に跟從す。四方之國は何を責備せん。《鄭書》に言あり、『國家を安定するは、必ず先に大族を照顧せよ』と。姑く先に大なるを安定して、もってその歸向を待て」と。後、伯石は懼怕して城邑を歸還したが、終にやはり彼に給した。伯有はすでに死した。太史を遣わして伯石に卿を為るを命じせしむるに、推辞した。

大史退,則請命焉。覆命之,又辭。如是三,乃受策入拜。子產是以惡其為人也,使次己位。

太史は退下し、即ち任命を請求した。再び任命し、また推辞した。このごとく三度して、乃ち策書を受けて入りて拜謝した。子産はこれによってその為人を惡み、彼を位次に自らの下に處らしめた。

子產使都鄙有章,上下有服,田有封洫,廬井有伍。大人之忠儉者,從而與之。泰侈者,因而斃之。

子産は都城邊邑に章程あらしめ、上下に服飾あり、田に封疆溝洫あり、廬井に編制あり。大人中に忠誠節儉なるは、跟從親近す。驕泰奢侈なるは、こうして斃さしめた。

豐卷將祭,請田焉。弗許,曰:“唯君用鮮,眾給而已。”子張怒,退而徵役。子產奔晉,子皮止之而逐豐卷。豐卷奔晉。子產請其田裡,三年而復之,反其田裡及其入焉。

豐卷はまさに祭祀せんとして、田獵を請求した。許さずして言った、「ただ國君のみ鮮獸を用う。衆人は充足せば即可」と。子張は怒り、退下して徒役を徵發した。子産は晋に出奔し、子皮は彼を拦えかつ豐卷を驅逐した。豐卷は晋に出奔した。子産はその田里を保留するを請い、三年後に彼を歸らせ、田里および收入を歸還した。

從政一年,輿人誦之,曰:“取我衣冠而褚之,取我田疇而伍之。孰殺子產,吾其與之!”及三年,又誦之,曰;“我有子弟,子產誨之。我有田疇,子產殖之。子產而死,誰其嗣之?”

執政すること一年、輿人は誦して言った、「我の衣冠を取りて收藏し、我の田畝を取りて編制す。誰が子産を殺さん。我は參與せん!」三年に至り、また誦して言った、「我に子弟あり、子産は教誨す。我に田畝あり、子産は繁殖す。子産もし死せば、誰が彼を繼承せん」と。

◇襄公三十一年

◇襄公三十一年

【經】三十有一年春王正月。夏六月辛巳,公薨於楚宮。秋九月癸巳,子野卒。己亥,仲孫羯卒。冬十月,滕子來會葬。癸酉,葬我君襄公。十有一月,莒人殺其君密州。

【經】三十一年春、周天子の暦の正月。夏六月辛巳、襄公は楚宮で死去した。秋九月癸巳、子野が死去した。己亥、仲孫羯が死去した。冬十月、滕子は會葬に來た。癸酉、わが國君襄公を安葬した。十一月、莒人はその國君密州を殺した。

【傳】三十一年春,王正月,穆叔至自會,見孟孝伯,語之曰:“趙孟將死矣。其語偷,不似民主。且年未盈五十,而諄諄焉如八九十者,弗能久矣。若趙孟死,為政者其韓子乎!吾子盍與季孫言之,可以樹善,君子也。晉君將失政矣,若不樹焉,使早備魯,既而政在大夫,韓子懦弱,大夫多貪,求欲無厭,齊、楚未足與也,魯其懼哉!”孝伯曰:“人生幾何?誰能無偷?朝不及夕,將安用樹?”穆叔出而告人曰:“孟孫將死矣。吾語諸趙孟之偷也,而又甚焉。”又與季孫語晉故,季孫不從。

【傳】三十一年春、周天子の暦の正月、穆叔は會より歸り、孟孝伯に見え、彼に言った、「趙孟はまさに死せん。その話は苟且、百姓の主人に似ず。しかも年紀はなお五十に滿たずして、かえって諄諄として八九十歲の人のごとし。能く長久せざらん。もし趙孟が死せば、執政するはおそらく韓子であろうか!吾子は何ぞ季孫と言わざる。友好を樹立すべし。是れ君子。晋君はまさに政事を失わん。もし樹立せずば、彼をして早く魯を防備せしめよ。隨後政事は大夫に在り。韓子は懦弱、大夫は多く貪り、欲望を求めて滿足せず。齊・楚はなお親附に足らず。魯はおそらくまさに懼れんか!」孝伯は言った、「人生は能く幾久しきか。誰が能く苟且せざらん。早晨は晚上を待たず。まさにどこに樹立を用いん」と。穆叔は出でて人に告げて言った、「孟孫はまさに死せん。我は彼に趙孟の苟且を談ずるに、彼自らはさらに甚だし」と。また季孫と晋の事を談じたが、季孫は聽從せず。

及趙文子卒,晉公室卑,政在侈家。韓宣子為政,為能圖諸侯。魯不堪晉求,讒慝弘多,是以有平丘之會。

趙文子の死去に及び、晋の公室は卑微し、政事は奢侈の私家に在り。韓宣子は執政し、なお諸侯を謀劃する能し。魯は晋の需求に承當する能わず。讒邪は多し。これによって平丘之會あり。

齊子尾害閭丘嬰,欲殺之,使帥師以伐陽州。我問師故。夏五月,子尾殺閭丘嬰以說於我師。工僂灑、渻灶、孔虺、賈寅出奔莒。出群公子。

齊の子尾は閭丘嬰を忌害し、彼を殺さんと欲し、彼を遣わして軍を率いて陽州を攻めさせた。わが國は出兵の故を詢問した。夏五月、子尾は閭丘嬰を殺してわが軍に解說した。工僂洒・渻竈・孔虺・賈寅は莒に出奔した。諸公子を放出した。

公作楚宮。穆叔曰:“《大誓》云:‘民之所欲,天必從之。’君欲楚也夫!故作其宮。若不復適楚,必死是宮也。”六月辛巳,公薨於楚宮。叔仲帶竊其拱璧,以與御人,納諸其懷而從取之,由是得罪。

襄公は楚宮を建造した。穆叔は言った、「《大誓》に言う、『百姓の欲する所は、上天は必ず跟從す』と。君王は楚を欲すか!だからこんな宮を建造す。もし再び楚に至らざれば、必ずこの宮裏で死せん」と。六月辛巳、襄公は楚宮で死去した。叔仲帶はその大璧を偷走し、御者に給して、懷裏に放ちて再び跟いて取り去らせ、これによって罪を得た。

立胡女敬歸之子子野,次於季氏。秋九月癸巳,卒,毀也。

胡女敬歸の子子野を立て、季氏に住まわせた。秋九月癸巳、死去した。是れ哀毀。

己亥,孟孝伯卒。

己亥、孟孝伯が死去した。

立敬歸之娣齊歸之子公子裯,穆叔不欲,曰:“大子死,有母弟則立之,無則長立。年鈞擇賢,義鈞則卜,古之道也。非適嗣,何必娣之子?且是人也,居喪而不哀,在戚而有嘉容,是謂不度。不度之人,鮮不為患。若果立之,必為季氏憂。”武子不聽,卒立之。比及葬,三易衰,衰衽如故衰。於是昭公十九年矣,猶有童心,君子是以知其不能終也。

敬歸の妹齊歸の子公子裯を立てんとし、穆叔は欲せずして言った、「太子が死せば、同母弟あれば即ち立て、なければ即ち年長を立つ。年歲相同なれば賢を選擇し、道義相同なれば即ち占卜す。是れ古代の道理。嫡嗣にあらざれば、何ぞ必ず妹の子を立てん。しかも此の人は、喪に居りて悲哀せず、憂戚の中に喜悅の面容あり。これを法度に合わずと言う。法度に合わざる人は、少なくして禍患を為さざるなし。もし真に彼を立てば、必ず季氏の憂慮と為らん」と。武子は聽かず、終に立てた。安葬に及び、三度衰服を更換し、衰服の衣襟は舊衰のごとく壞れたり。當時昭公は十九歲にして、なお童心あり。君子はこれによって彼が善終する能わざるを知る。

冬十月,滕成公來會葬,惰而多涕。子服惠伯曰:“滕君將死矣!怠於其位,而哀已甚,兆於死所矣。能無從乎?”癸酉,葬襄公。

冬十月、滕成公は會葬に來り、怠惰にして眼淚多し。子服恵伯は言った、「滕君はまさに死せん!その位子上に在りて怠惰し、哀傷はすでに過分し、死の處所で預兆を顯出す。能く跟わざらんや」と。癸酉、襄公を安葬した。

公薨之月,子產相鄭伯以如晉,晉侯以我喪故,未之見也。子產使盡壞其館之垣而納車馬焉。士文伯讓之,曰:“敝邑以政刑之不修,寇盜充斥,無若諸侯之屬辱在寡君者何?是以令吏人完客所館,高其閈閎,厚其牆垣,以無憂客使。

襄公の死去の月に、子産は鄭伯を輔佐して晋に行き、晋侯はわが國の喪事の故のために、まだ彼に見えず。子産は人に館舍の牆を全部拆壞せしめ、車馬を放ち入れた。士文伯は責備して言った、「敝邑は政刑の修整せざるによって、寇盜は充滿し、諸侯の屬官の辱くも寡君に臨むに辦法なし。これによって吏人に客人の住む館舍を完善せしめ、里門大門を加高し、牆垣を加厚して、もって客使を憂慮せざらしむ。

今吾子壞之,雖從者能戒,其若異客何?以敝邑之為盟主,繕完葺牆,以待賓客,若皆毀之,其何以共命?寡君使匄請命。”對曰:“以敝邑褊小,介於大國,誅求無時,是以不敢寧居,悉索敝賦,以來會時事。逢執事之不間,而未得見,又不獲聞命,未知見時,不敢輸幣,亦不敢暴露。其輸之,則君之府實也,非薦陳之,不敢輸也。其暴露之,則恐燥溼之不時而朽蠹,以重敝邑之罪。僑聞文公之為盟主也,宮室卑庳,無觀臺榭,以崇大諸侯之館。館如公寢,庫廄繕修,司空以時平易道路,圬人以時塓館宮室。諸侯賓至,甸設庭燎,僕人巡宮,車馬有所,賓從有代,巾車脂轄,隸人牧圉,各瞻其事,百官之屬,各展其物。公不留賓,而亦無廢事,憂樂同之,事則巡之,教其不知,而恤其不足。賓至如歸,無寧災患?不畏寇盜,而亦不患燥溼。今銅鞮之宮數里,而諸侯舍於隸人。門不容車,而不可逾越。盜賊公行,而天厲不戒。賓見無時,命不可知。若又勿壞,是無所藏幣,以重罪也。敢請執事,將何以命之?雖君之有魯喪,亦敝邑之憂也。

今吾子はそれを拆壞す。たとえ隨從は警戒する能くとも、別の客人に對してどうせん。敝邑が盟主を為るによって、修繕して完好し牆壁を修補して、もって賓客を待つ。もし皆毀壞せば、何をもって命令を供給せん。寡君は匄を遣わして命令を請示せしむ」と。答えて言った、「敝邑の狹小にして大國の間に處するによって、責求に定時なく、これによって敢えて安居せず。敝邑の賦稅を盡く搜して、もって四時の貢事に會合す。執事に閒暇なきに碰上し、まだ進見する能わず、また命令を得ず。進見の時間を知らず。幣を交納するを敢えてせず、またそれを暴露せしむるを敢えてせず。交納すれば、即ち君王府庫の財物。進薦陳列せずば、敢えて交納せず。暴露せば、燥濕の時に按せずして朽爛生蠹するを怕れ、敝邑の罪を加重せんとす。僑が聞くに文公が盟主を為りし時、宮室は低矮、觀臺樓榭なく、もって諸侯の館舍を增高加大せり。館舍は公の寢宮のごとく、庫房馬廐は修繕し、司空は時に道路を平整し、泥瓦匠は時に館舍宮室を粉刷す。諸侯賓客至れば、甸人は庭燎を設置し、僕人は宮室を巡視し、車馬に處所あり、賓客隨從に人の替代あり、巾車は車軸に油を上げ、隸人牧圉は各々職事を照看し、百官の所屬は各々その物を陳列す。公は賓客を滞留せず、また廢棄の事なし。憂樂は相同、事あれば即ち巡視し、知らざるを教導し、足らざるを体恤す。賓客至ること家に歸るがごとし。あになお災患あらんや。寇盜を怕れず、また燥濕を怕れず。今銅鞮の宮は數里あり、諸侯はかえって隸人の所に住む。門は車子を容れず、また翻越すべからず。盜賊は公然に行走し、天災瘟疫は警戒せず。賓客の進見は定時なく、命令は知るべからず。もしまた拆壞せざれば、即ち幣を藏むる處なく、もって罪を加重せんとす。敢えて執事に請問す。まさに何をもって命令せん。たとえ君王に魯の喪事あれども、また敝邑の憂慮。

若獲薦幣,修垣而行,君之惠也,敢憚勤勞?”文伯覆命,趙文子曰:“信!我實不德,而以隸人之垣以贏諸侯,是吾罪也。”使士文伯謝不敏焉。晉侯見鄭伯,有加禮,厚其宴好而歸之。乃築諸侯之館。

もし進薦幣を獲得して、牆を修好して走らば、是れ君王の恩恵。敢えて勤勞を怕れんや」と。文伯は復命し、趙文子は言った、「確かに!われわれは實に徳なく、隸人の牆垣をもって諸侯を接納す。是れわれわれの罪」と。士文伯を遣わして不聰敏を謝せしめた。晋侯は鄭伯に見え、禮節は增加し、宴享友好を加厚して然る後彼を歸らせた。こうして諸侯の館舍を修築した。

叔向曰:“辭之不可以已也如是夫!子產有辭,諸侯賴之,若之何其釋辭也?《詩》曰:‘辭之輯矣,民之協矣。辭之繹矣,民之莫矣。’其知之矣。”

叔向は言った、「言辞の停止すべからざるはこのごとし!子産に言辞あれば、諸侯は依頼す。どうして言辞を放下せん。《詩》に言う、『言辞は和洽すれば、百姓は即ち協同す。言辞は連續すれば、百姓は即ち安定す』と。彼は是れを知る」と。

鄭子皮使印段如楚,以適晉告,禮也。

鄭の子皮は印段を遣わして楚に行かせ、晋に至った事を告知した。これは禮に合う。

莒犁比公生去疾及展輿,既立展輿,又廢之。犁比公虐,國人患之。十一月,展輿因國人以攻莒子,弒之,乃立。去疾奔齊,齊出也。展輿,吳出也。書曰“莒人弒其君買朱鉏。”言罪之在也。

莒犁比公は去疾および展輿を生み、すでに展輿を立て、また廢掉した。犁比公は暴虐、國人は憂患した。十一月、展輿は國人に倚りて莒子を攻め、彼を弑殺し、こうして即位した。去疾は齊に出奔した。是れ齊女の生む所。展輿は呉女の生む所。《春秋》に記して「莒人弑其君買朱鉏」と言うは、罪は國君に在るを言う。

吳子使屈狐庸聘於晉,通路也。趙文子問焉,曰:“延州來季子其果立乎?巢隕諸樊,閽戕戴吳,天似啟之,何如?”對曰:“不立。是二王之命也,非啟季子也。若天所啟,其在今嗣君乎!甚德而度,德不失民,度不失事,民親而事有序,其天所啟也。有吳國者,必此君之子孫實終之。季子,守節者也。雖有國,不立。”

呉子は屈狐庸を遣わして晋に聘問させた。是れ道路を開通する。趙文子は彼に問うて言った、「延州來季子は果たして立つ能くせんや。巢は諸樊を隕落せしめ、門を看る人は戴呉を殺害せり。上天はあたかも彼を開啓するがごとし。どうか」と。答えて言った、「立たず。此は兩位の王の命數。季子を開啓するにあらず。もし上天の開啓する所は、おそらく今の繼位國君に在らんか!甚だ徳ありて法度あり。徳は百姓を失わず、法度は事を失わず。百姓は親近して事は次序あり。是れ上天の開啓する所。呉を保有するは、必ず此の國君の子孫が終に保有す。季子は節を守る人。たとえ國家あれども、立たず」と。

十二月,北宮文子相衛襄公以如楚,宋之盟故也。過鄭,印段勞於棐林,如聘禮而以勞辭。文子入聘。子羽為行人,馮簡子與子大叔逆客。事畢而出,言於衛侯曰:“鄭有禮,其數世之福也,其無大國之討乎!《詩》曰:‘誰能執熱,逝不以濯。’禮之於政,如熱之有濯也。濯以救熱,何患之有?”子產之從政也,擇能而使之。馮簡子能斷大事,子大叔美秀而文,公孫揮能知四國之為,而辨於其大夫之族姓、班位、貴賤、能否,而又善為辭令,裨諶能謀,謀於野則獲,謀於邑則否。鄭國將有諸侯之事,子產乃問四國之為於子羽,且使多為辭令。與裨諶乘以適野,使謀可否。而告馮簡子,使斷之。事成,乃授子大叔使行之,以應對賓客。是以鮮有敗事。北宮文子所謂有禮也。

十二月、北宮文子は衛襄公を輔佐して楚に行った。是れ宋の盟の故である。鄭を經過し、印段は棐林で慰勞し、聘禮のごとくして慰勞の辭を用いた。文子は城に進みて聘問した。子羽は行人を為り、馮簡子と子大叔は客人を迎接した。事が畢りて出で、衛侯に言った、「鄭は禮あり。是れ幾世の福。おそらく大國の討伐なからんか!《詩》に言う、『誰が能く熱を持して、往きて水洗を用いざらん』と。禮の政事に對するは、熱に水洗あるがごとし。洗いて熱を救うに、何の患難があらん」と。子産は執政し、才能あるを選擇して使用した。馮簡子は能く大事を決斷し、子大叔は美秀にして文采あり、公孫揮は能く四國の作為を知り、かつ大夫の族姓・班位・貴賤・能否を分辨し、また辭令を善くす。裨諶は能く謀劃す。野外で謀劃すれば即ち得當し、城裏で謀劃すれば即ち得當せず。鄭はまさに諸侯の事あらんとすれば、子産は即ち子羽に四國の作為を問い、かつ彼に多く辭令を作らしめた。裨諶と乘車して野外に至り、彼に可否を謀劃せしめた。然る後馮簡子に告げ、彼に決斷せしめた。事が定まりて、乃ち子大叔に交して實行せしめ、もって賓客に應對した。これによって敗れる事は少なし。即ち北宮文子の謂う所の禮あり。

鄭人遊於鄉校,以論執政。然明謂子產曰:“毀鄉校,何如?”子產曰:“何為?夫人朝夕退而遊焉,以議執政之善否。其所善者,吾則行之。其所惡者,吾則改之。是吾師也,若之何毀之?我聞忠善以損怨,不聞作威以防怨。豈不遽止,然猶防川,大決所犯,傷人必多,吾不克救也。不如小決使道。不如吾聞而藥之也。”然明曰:“蔑也今而後知吾子之信可事也。小人實不才,若果行此,其鄭國實賴之,豈唯二三臣?”仲尼聞是語也,曰:“以是觀之,人謂子產不仁,吾不信也。”

鄭人は鄉校で游玩し、もって執政を議論した。然明は子産に言った、「鄉校を毀掉するは、どうか」と。子産は言った、「何を為さん。あの人々は朝夕に歸りて游玩し、もって執政の好壞を議論す。彼らの好とするは、我は即ち實行す。彼らの惡むは、我は即ち改正す。是れ我の師。どうして毀掉せん。我が聞くに忠善をもって怨を減少すと聞くも、威を作して怨を防止すとは聞かず。あに即時に止住する能わざらんや。しかるに水を防ぐがごとく、大決口の衝犯する所は、人を傷すること必ず多し。我は救う能わず。小口を開きて疎導するに如かず。我の聞くをもって藥と為すに如かず」と。然明は言った、「蔑は今より後吾子が確かに事えるべきを知る。小人は實に才能なし。もし真に此を實行せば、鄭は實に依頼せん。あに此の數位の臣のみならんや」と。仲尼は此の話を聞きて言った、「此より觀れば、人は子産を不仁と言う。我は信じず」と。

子皮欲使尹何為邑。子產曰:“少,未知可否?”子皮曰:“願,吾愛之,不吾叛也。使夫往而學焉,夫亦愈知治矣。”子產曰:“不可。人之愛人,求利之也。今吾子愛人則以政,猶未能操刀而使割也,其傷實多。子之愛人,傷之而已,其誰敢求愛於子?子於鄭國,棟也,棟折榱崩,僑將厭焉,敢不盡言?子有美錦,不使人學制焉。大官、大邑,身之所庇也,而使學者制焉,其為美錦,不亦多乎?僑聞學而後入政,未聞以政學者也。若果行此,必有所害。譬如田獵,射御貫則能獲禽,若未嘗登車射御,則敗績厭覆是懼,何暇思獲?”子皮曰:“善哉!虎不敏。吾聞君子務知大者、遠者,小人務知小者、近者。我,小人也。

子皮は尹何をして邑を治理せしめんと欲した。子産は言った、「年少。可不可を知らずや」と。子皮は言った、「謹厚。我は彼を喜愛す。我を背叛せざらん。彼をして學習せしめば、彼もまたさらに治理を知らん」と。子産は言った、「不可。人が人を喜愛するは、彼に利あるを求む。今吾子は人を喜愛してかえって政事を彼に給す。まだ刀を拿る能わざるに彼をして切割せしむるがごとし。傷害は實に多し。あなたが人を喜愛するは、ただ彼を傷害するのみ。誰が敢えてあなたに喜愛を求めん。あなたは鄭に對して棟樑。棟樑折れて椽子崩れれば、僑はまさに壓せらるん。敢えて言盡せざらんや。あなたに美錦あれど、人に學んで裁るを讓らず。大官・大邑は自身の庇護する所にして、かえって學習する人に裁らしむ。それの美錦に對するは、また多すぎではないか。僑が聞くに學習して然る後政事に入ると聞くも、政事をもって學習するとは聞かず。もし真に此を實行せば、必ず害處あらん。田獵に比すれば、射御熟練すれば即ち禽獸を獲得する能し。もしまだ車に登りて射御せざれば、即ち敗績翻車壓迫を怕る。どうして獲得を空想する暇あらん」と。子皮は言った、「善し!虎は聰敏ならず。我が聞くに君子は大なる遠なるを知るに致力し、小人は小なる近なるを知るに致力す。我は小人。

衣服附在吾身,我知而慎之。大官、大邑所以庇身也,我遠而慢之。微子之言,吾不知也。他日我曰:‘子為鄭國,我為吾家,以庇焉,其可也。’今而後知不足。自今,請雖吾家,聽子而行。”子產曰:“人心之不同,如其面焉。吾豈敢謂子面如吾面乎?抑心所謂危,亦以告也。”子皮以為忠,故委政焉。子產是以能為鄭國。

衣服は我の身に附するに、我は知りかつ謹慎す。大官・大邑はもって自身を庇護するに、我は疎遠かつ怠慢す。あなたの話なくば、我は知らざらん。往日我は言った、『あなたは鄭を治理し、我は我が家を治理し、もって庇護す。おそらく可』と。今より後不足を知る。今より後、請う、たとえ我が家なりとも、あなたに聽きて實行せん」と。子産は言った、「人心の不同は、面孔のごとし。我はどうして敢えてあなたの面孔が我の面孔に似ると言わん。ただ心裏に危險と思うを、またもって告げるのみ」と。子皮は忠誠とし、だから政事を彼に委託した。子産はこれによって能く鄭を治理した。

衛侯在楚,北宮文子見令尹圍之威儀,言於衛侯曰:“令尹似君矣!將有他志,雖獲其志,不能終也。《詩》云:‘靡不有初,鮮克有終。’終之實難,令尹其將不免?”公曰:“子何以知之?”對曰:“《詩》云:‘敬慎威儀,惟民之則。’令尹無威儀,民無則焉。民所不則,以在民上,不可以終。”公曰:“善哉!何謂威儀?”對曰:“有威而可畏謂之威,有儀而可象謂之儀。君有君之威儀,其臣畏而愛之,則而象之,故能有其國家,令聞長世。臣有臣之威儀,其下畏而愛之,故能守其官職,保族宜家。順是以下皆如是,是以上下能相固也。

衛侯は楚に在り、北宮文子は令尹圍の威儀を見て、衛侯に言った、「令尹は國君に似たり!まさに別の心志あらん。たとえ心志を獲得すとも、善終する能わず。《詩》に言う、『始めなきなく、終結する能くする少なし』と。終結は實に難し。令尹はおそらく免れざらんか」と。公は言った、「あなたは何をもって知る」と。答えて言った、「《詩》に言う、『威儀を敬慎すれば、是れ百姓の法則』と。令尹に威儀なくば、百姓に法則なし。百姓の取法せざる所にして、かえって百姓の上に在るは、善終すべからず」と。公は言った、「善し!何を威儀と言う」と。答えて言った、「威ありて畏懼すべきを威と言い、儀ありて仿效すべきを儀と言う。國君に國君の威儀あり。その臣は畏懼して愛戴し、取法して仿效す。だから能く國家を保有し、美名は世に傳わる。臣に臣の威儀あり。その下の人は畏懼して愛戴す。だから能く官職を守住し、族を保ち家を宜しうす。此に順い以下皆此のごとし。だから上下は能く互相に鞏固す。

《衛詩》曰:‘威儀棣棣,不可選也。’言君臣、上下、父子、兄弟、內外、大小皆有威儀也。《周詩》曰:‘朋友攸攝,攝以威儀。’言朋友之道,必相教訓以威儀也。《周書》數文王之德,曰:‘大國畏其力,小國懷其德。’言畏而愛之也。《詩》云:‘不識不知,順帝之則。’言則而象之也。紂囚文王七年,諸侯皆從之囚。紂於是乎懼而歸之,可謂愛之。文王伐崇,再駕而降為臣,蠻夷帥服,可謂畏之。文王之功,天下誦而歌舞之,可謂則之,文王之行,至今為法,可謂象之。有威儀也。故君子在位可畏,施捨可愛,進退可度,周旋可則,容止可觀,作事可法,德行可象,聲氣可樂,動作有文,言語有章,以臨其下,謂之有威儀也。”

《衛詩》に言う、『威儀棣棣、計算すべからず』と。是れ君臣・上下・父子・兄弟・內外・大小に皆威儀あるを言う。《周詩》に言う、『朋友の輔佐する所は、威儀をもって輔佐す』と。是れ朋友の道理は、必ず互相に威儀をもって教訓するを言う。《周書》に文王の徳を計數して言う、『大國はその力を畏懼し、小國はその徳を懷念す』と。是れ畏懼して愛戴するを言う。《詩》に言う、『識らず知らず、上帝の法則に順從す』と。是れ取法して仿效するを言う。紂は文王を七年囚禁し、諸侯は皆彼に跟いて囚せられた。紂はこうして懼れて放ち歸した。愛戴と言うべし。文王は崇を攻め、二度出兵して即ち降服して臣と為し、蠻夷は率いて歸服した。畏懼と言うべし。文王の功勞は、天下は誦讀歌舞す。取法と言うべし。文王の行為は、今に至るも法則。仿效と言うべし。威儀あり。だから君子は位子上に在りて畏るべく、施舍は愛すべく、進退は度量すべく、周旋は取法すべく、容止は觀看すべく、事を作すは效法すべく、徳行は仿效すべく、聲氣は快樂すべく、動作に文采あり、言語に條理あり、下に臨み視るに、これを威儀ありと言う」と。

The original text is in the public domain. The Japanese is a machine-assisted translation of this library’s own Chinese paraphrase, checked against a fixed glossary so that technical terms match the definitions used elsewhere on this site. It is a reading aid and does not replace the original.