襄公(元年~三十一年)
楚薳罷如晉蒞盟,晉將享之。將出,賦《既醉》。叔向曰:“薳氏之有後於楚國也,宜哉!承君命,不忘敏。子蕩將知政矣。敏以事君,必能養民。政其焉往?”崔氏之亂,申鮮虞來奔,僕賃於野,以喪莊公。冬,楚人召之,遂如楚為右尹。
楚の䓕罷は晋に至りて盟約に参加し、晋はまさに彼を宴享せんとした。まさに出でんとして、《既醉》を賦した。叔向は言った、「䓕氏は楚において後嗣あるは、是れ應該である!国君の命令を承受して、敏捷を忘れず。子蕩はまさに政事を執掌せん。敏捷をもって国君に事えれば、必ず能く百姓を養わん。政事はなおどこに至らん」と。崔氏の乱事に、申鮮虞は奔り来て、野外で人を雇いて車を駕せしめ、荘公のために喪を服した。冬、楚人は彼を召し、こうして楚に至りて右尹を為った。
十一月乙亥朔,日有食之。辰在申,司歷過也,再失閏矣。
十一月乙亥の朔日、日食があった。辰星は申に在り。是れ司曆の過錯、二度閏を失した。
◇襄公二十八年
◇襄公二十八年
【經】二十有八年春,無冰。夏,衛石惡出奔晉。邾子來朝。秋八月,大雩。
【経】二十八年春、氷なし。夏、衛の石惡は晋に出奔した。邾子が朝見に来た。秋八月、大雩を行った。
仲孫羯如晉。冬,齊慶封來奔。十有一月,公如楚。十有二月甲寅,天王崩。乙未,楚子昭卒。
仲孫羯は晋に行った。冬、斉の慶封が奔り来た。十一月、襄公は楚に行った。十二月甲寅、天子が死去した。乙未、楚子昭が死去した。
【傳】二十八年春,無冰。梓慎曰:“今茲宋、鄭其飢乎?歲在星紀,而淫於玄枵,以有時災,陰不堪陽。蛇乘龍。龍,宋、鄭之星也,宋、鄭必飢。玄枵,虛中也。枵,耗名也。土虛而民耗,不飢何為?”夏。齊侯、陳侯、蔡侯、北燕伯、杞伯、鬍子、沈子、白狄朝於晉,宋之盟故也。齊侯將行,慶封曰:“我不與盟,何為於晉?”陳文子曰:“先事後賄,禮也。小事大,未獲事焉,從之如志,禮也。雖不與盟,敢叛晉乎?重丘之盟,未可忘也。子其勸行!”衛人討寧氏之黨,故石惡出奔晉。衛人立其從子圃以守石氏之祀,禮也。
【伝】二十八年春、氷なし。梓慎は言った、「今年宋・鄭はおそらく饑饉せんか?歳星は星紀に在るに、かえって頭を過ぎて玄枵に至る。これによって時令の災あり。陰は陽を承受する能わず。蛇は龍に乗る。龍は宋・鄭の星。宋・鄭は必ず饑饉す。玄枵は、中間は虚。枵は耗の名。土地は空虚にして百姓は耗損す。饑饉せずして何を為さん」と。夏。斉侯・陳侯・蔡侯・北燕伯・杞伯・胡子・沈子・白狄は晋に朝見した。宋の盟の故である。斉侯はまさに出行せんとし、慶封は言った、「われわれは盟約に参加せず。なぜ晋に行かん」と。陳文子は言った、「先に事を為して然る後財貨を談ずるは、礼。小なるは大なるに事え、まだ事えるを獲得せざれば、それに従うはそれの願うがごとくするは、礼。たとえ盟約に参加せずとも、敢えて晋を背叛せんや。重丘の盟は忘れるべからず。あなたはなお彼に行くを勸めよ!」衛人は寧氏の党羽を討伐した。だから石惡は晋に出奔した。衛人はその姪圃を立てて石氏の祭祀を守らしめた。これは礼に合う。
邾悼公來朝,時事也。
邾悼公が朝見に来た。是れ時の事である。
秋八月,大雩,旱也。
秋八月、大雩を行った。旱のためである。
蔡侯歸自晉,入於鄭。鄭伯享之,不敬。子產曰:“蔡侯其不免乎?日其過此也,君使子展廷勞於東門之外,而傲。吾曰:‘猶將更之。’今還,受享而惰,乃其心也。君小國事大國,而惰傲以為己心,將得死乎?若不免,必由其子。其為君也,淫而不父。僑聞之,如是者,恆有子禍。”
蔡侯は晋より帰り、鄭に入った。鄭伯は彼を宴享したが、恭敬せず。子産は言った、「蔡侯はおそらく免れないでしょう?往日彼がここを経過し、君王は子展を遣わして東門外で慰勞したに、驕傲した。我は言った、『なお改正せん』と。今帰りて、宴享を受けて怠惰す。即ちこれがその心である。君王は小国をもって大国に事えるに、かえって怠惰驕傲をもってその心と為す。まさに死を得る能くせんや。もし免れずば、必ずその子による。彼は国君を為るに、淫乱して父に似ず。僑が聞くに、このごときは、常に子の禍あり」と。
孟孝伯如晉,告將為宋之盟故如楚也。
孟孝伯は晋に行き、まさに宋の盟の故のために楚に行かんとするを告知した。
蔡侯之如晉也,鄭伯使遊吉如楚。及漢,楚人還之,曰:“宋之盟,君實親辱。今吾子來,寡君謂吾子姑還!吾將使馹奔問諸晉而以告。”子大叔曰:“宋之盟,君命將利小國,而亦使安定其社稷,鎮撫其民人,以禮承天之休,此君之憲令,而小國之望也。寡君是故使吉奉其皮幣,以歲之不易,聘於下執事。今執事有命曰:‘女何與政令之有?必使而君棄而封守,跋涉山川,蒙犯霜露,以逞君心。’小國將君是望,敢不唯命是聽。無乃非盟載之言,以闕君德,而執事有不利焉,小國是懼。不然,其何勞之敢憚?”子大叔歸,覆命,告子展曰:“楚子將死矣!不修其政德,而貪昧於諸侯,以逞其願,欲久,得乎?《周易》有之,在《復》ⅱⅲ之《頤》ⅶⅲ,曰:‘迷復,兇。’其楚子之謂乎?欲復其願,而棄其本,復歸無所,是謂迷復。能無兇乎?君其往也!送葬而歸,以快楚心。楚不幾十年,未能恤諸侯也。吾乃休吾民矣。”裨灶曰:“今茲周王及楚子皆將死。
蔡侯が晋に行った時、鄭伯は游吉を遣わして楚に行かせた。漢水に至り、楚人は彼を帰らせて言った、「宋の盟に、君王は実に自ら辱くも臨んだ。今吾子が来る。寡君は言う、吾子はしばらく帰れ!我はまさに驛車を遣わして晋に問いて然る後告げん」と。子大叔は言った、「宋の盟に、君王の命令はまさに小国を利し、また社稷を安定し、民人を鎮撫し、礼をもって天の福を承受せしめんとす。是れ君王の憲令、小国の期望。寡君はこれによって吉を遣わして皮幣を奉上せしめ、年成が容易ならざるによって、下面の執事に聘問せしめた。今執事に命令ありて言う、『なんじは政令に何の相干あらん。必ずなんじの国君に封守を拋棄せしめ、山川を跋涉し、霜露を蒙受して、もって君王の心意を滿足せしめよ』と。小国はただ君王を期望するのみ。敢えて唯命を聽かざらんや。おそらく盟書の話に符合せずして、君王の徳に缺を為さしめ、執事もまた不利あらん。小国はこれを怕れる。然らずんば、敢えて何の労苦を怕れん」と。子大叔は帰りて復命し、子展に告げて言った、「楚子はまさに死せん!政徳を修めずして、かえって諸侯に貪昧し、もって願望を滿足す。長久を欲するも、能くせんや。《周易》にこれあり、《復》の《頤》に変わるに、言う、『迷復、凶』と。おそらく楚子を言うのであろうか?その願望を恢復せんと欲して、かえって根本を拋棄す。帰るに処なし。これを迷復と言う。能く凶ならざらんや。君王はなお往け!葬を送りて然る後帰り、もって楚を快意せしめよ。楚はなお十年に近づかず、諸侯を体恤する能わず。われわれはこうしてわれわれの百姓を休息せん」と。裨竈は言った、「今年周王および楚子は皆まさに死せん。
歲棄其次,而旅於明年之次,以害鳥帑。周、楚惡之。”
歳星はその位置を離れ、明年の位置に寄旅して、もって鳥の尾を害す。周・楚はこれを惡とす」。
九月,鄭遊吉如晉,告將朝於楚,以從宋之盟。子產相鄭伯以如楚,舍不為壇。外僕言曰:“昔先大夫相先君,適四國,未嘗不為壇。自是至今,亦皆循之。
九月、鄭の游吉は晋に行き、まさに楚に朝見せんとするを告知し、もって宋の盟に従わんとした。子産は鄭伯を輔佐して楚に至り、住みて壇を築かず。外僕は言った、「昔先大夫は先君を輔佐し、四つの国に至り、未嘗て壇を築かざるなし。あの時より今に至るまで、皆遵循す。
今子草舍,無乃不可乎?”子產曰:“大適小,則為壇。小適大,苟舍而已,焉用壇?僑聞之,大適小有五美:宥其罪戾,赦其過失,救其災患,賞其德刑,教其不及。小國不困,懷服如歸。是故作壇以昭其功,宣告後人,無怠於德。小適大有五惡:說其罪戾,請其不足,行其政事,共某職貢,從其時命。不然,則重其幣帛,以賀其福而吊其兇,皆小國之禍也。焉用作壇以昭其禍?所以告子孫,無昭禍焉可也。”
今あなたは草地上に住みて、おそらく不可でしょう?」子産は言った、「大なるは小なるに至れば、即ち壇を築く。小なるは大なるに至れば、隨便に住むのみ。どうして壇を用いん。僑が聞くに、大なるが小なるに至るに五美あり。罪戾を寬宥し、過失を赦免し、災患を救助し、徳行刑罰を賞賜し、達せざるを教導す。小国は困せず、歸服すること家に帰るがごとし。だから壇を築きて功労を顯明し、後人に宣告し、徳を怠慢するなかれ。小なるが大なるに至るに五惡あり。罪戾を解說し、不足を請求し、その政事を實行し、職貢を供給し、それに従うは時の命令。然らずんば、即ち幣帛を加重し、もって福を祝賀し凶を吊問す。皆小国の禍。どうして壇を築きて禍を顯明せん。もって子孫に告げて、禍を顯明するなかれとせば即可」と。底本の「共某職貢」の「某」は即ち其。
齊莊封好田而耆酒,與慶舍政。則以其內實遷於盧蒲弊氏,易內而飲酒。數日,國遷朝焉。使諸亡人得賊者,以告而反之,故反盧蒲癸。癸臣子之,有寵,妻之。慶舍之士謂盧蒲癸曰:“男女辨姓。子不闢宗,何也?”曰:“宗不餘闢,餘獨焉闢之?賦詩斷章,餘取所求焉,惡識宗?”癸言王何而反之,二人皆嬖,使執寢戈,而先後之。
斉の慶封は田獵を喜好し酒を嗜み、政事を慶舍に交した。こうして內室を盧蒲弊氏に遷し、妻妾を交換して酒を飲んだ。數日の後、國人は改めてあそこに上朝した。各々逃亡の人にして賊人を得る能くするに、來て報告すれば即ち彼らを帰らしめた。だから盧蒲癸を帰らしめた。癸は子之の家臣を為り、寵を受け、女を彼に嫁がせた。慶舍の士は盧蒲癸に言った、「男女は姓を分別するを要す。あなたは宗を避けず。なぜか」と。言った、「宗は我を避けず。我は獨りどこでそれを避けん。賦詩は章を斷じ、我は我の求むる所を取る。どうして宗を認識せん」と。底本の「莊封」は即ち慶封。癸は王何を說きて彼を帰らしめた。兩人は皆寵を受け、彼らに寢戈を持たせ、前後で護衛した。
公膳,日雙雞。饔人竊更之以鶩。御者知之,則去其肉而以其洎饋。子雅、子尾怒。慶封告盧蒲弊。盧蒲弊曰;“譬之如禽獸,吾寢處之矣。”使析歸父告晏平仲。平仲曰:“嬰之眾不足用也,知無能謀也。言弗敢出,有盟可也。”子家曰:“子之言云,又焉用盟?”告北郭子車。子車曰:“人各有以事君,非佐之所能也。”陳文子謂桓子曰:“禍將作矣!吾其何得?”對曰:“得慶氏之木百車於莊。”文子曰:“可慎守也已!”盧蒲癸、王何卜攻慶氏,示子之兆,曰:“或卜攻讎,敢獻其兆。”子之曰:“克,見血。”冬十月,慶封田於萊,陳無宇從。丙辰,文子使召之。請曰:“無宇之母疾病,請歸。”慶季卜之,示之兆,曰:“死。”奉龜而泣。乃使歸。
公家の膳食は、每日雞二隻。饔人は竊かに鴨子に換えた。御者はこれを知りて、即ち肉を去りて肉汁のみを送上した。子雅・子尾は怒った。慶封は盧蒲弊に告げた。盧蒲弊は言った、「禽獸に比すれば、我はすでにそれらの皮上に睡った」と。析歸父を遣わして晏平仲に告げさせた。平仲は言った、「嬰の兵衆は用に足らず。智は謀る能わず。話は敢えて口を出さず。盟約あれば即可」と。子家は言った、「あなたの話はすでにこのよう。またどうして盟約を用いん」と。北郭子車に告げた。子車は言った、「人は各々國君に事える方式あり。佐の能くする所にあらず」と。陳文子は桓子に言った、「禍亂はまさに發作せん!われわれは何を得られん」と。答えて言った、「莊地で慶氏の木頭一百車を得る」と。文子は言った、「謹慎して守住すべし!」盧蒲癸・王何は慶氏を攻めるを卜に問い、兆を子之に見せて言った、「人ありて仇人を攻めるを卜に問う。敢えて兆を獻上す」と。子之は言った、「攻克する能し。血を見た」と。冬十月、慶封は萊で田獵し、陳無宇は跟從した。丙辰、文子は人を遣わして彼を召した。請うて言った、「無宇の母は病重し。帰るを請います」と。慶季はこのために卜に問い、兆を彼に見せて言った、「死」と。龜を捧げて哭泣した。こうして彼を帰らせた。
慶嗣聞之,曰:“禍將作矣!謂子家:“速歸!禍作必於嘗,歸猶可及也。”子家弗聽,亦無悛志。子息曰:“亡矣!幸而獲在吳、越。”陳無宇濟水而戕舟發梁。盧蒲姜謂癸曰:“有事而不告我,必不捷矣。”癸告之。姜曰:“夫子愎,莫之止,將不出,我請止之。”癸曰:“諾。”十一月乙亥,嘗於大公之廟,慶舍蒞事。盧蒲姜告之,且止之。弗聽,曰:“誰敢者!”遂如公。麻嬰為屍,慶圭為上獻。盧蒲癸、王何執寢戈。慶氏以其甲環公宮。陳氏、鮑氏之圉人為優。
慶嗣は聞いて言った、「禍亂はまさに發作せん!」子家に言った、「速やかに帰れ!禍は發作して必ず秋祭に在り。帰ればなお及ぶ」と。子家は聽かず、また悔改の心意なし。子息は言った、「畢竟した!僥倖に呉・越において容身を獲得せん」と。陳無宇は水を渡る後船を毀り橋を拆いた。盧蒲姜は癸に言った、「事ありてかえって我に告げざれば、必ず成功しない」と。癸は彼女に告げた。姜は言った、「夫子は剛愎。人の拦むなくば、まさに出でざらん。我は彼を拦むるを請います」と。癸は言った、「好し」と。十一月乙亥、太公廟で秋祭を舉行し、慶舍は場に至りて主持した。盧蒲姜は彼に告げ、かつ彼を拦えた。聽かずして言った、「誰が敢えてか」と。こうして公に至った。麻嬰は尸を為り、慶圭は上獻を為った。盧蒲癸・王何は寢戈を持った。慶氏は甲士をもって公宮を環繞した。陳氏・鮑氏の圉人は俳優を為った。
慶氏之馬善驚,士皆釋甲束馬而飲酒,且觀優,至於魚裡。欒、高、陳、鮑之徒介慶氏之甲。子尾抽桷擊扉三,盧蒲癸自後刺子之,王何以戈擊之,解其左肩。
慶氏の馬は驚き易し。士は皆甲を脫ぎて馬を拴いで酒を飲み、かつ俳優を觀て、魚里に至るまで。欒・高・陳・鮑の徒衆は慶氏の甲を著けた。子尾は椽子を抽き出して門を三下敲き、盧蒲癸は後ろより子之を刺し、王何は戈をもって彼を擊ち、左肩を卸下した。
猶援廟桷,動於甍,以俎壺投,殺人而後死。遂殺慶繩、麻嬰。公懼,鮑國曰:“群臣為君故也。”陳須無以公歸,稅服而如內宮。
なお廟椽を抓著し、屋脊を震動し、俎と壺をもって投擲し、人を殺して然る後死した。こうして慶繩・麻嬰を殺した。公は恐懼し、鮑國は言った、「群臣は君王の故のためである」と。陳須無は公を帶びて帰り、祭服を脫ぎ去りて內宮に入った。
慶封歸,遇告亂者,丁亥,伐西門,弗克。還伐北門,克之。入,伐內宮,弗克。反,陳於嶽,請戰,弗許。遂來奔。獻車於季武子,美澤可以鑑。展莊叔見之,曰:“車甚澤,人必瘁,宜其亡也。”叔孫穆子食慶封,慶封汜祭。穆子不說,使工為之誦《茅鴟》,亦不知。既而齊人來讓,奔吳。吳句餘予之朱方,聚其族焉而居之,富於其舊。子服惠伯謂叔孫曰:“天殆富淫人,慶封又富矣。”
慶封は帰り、亂事を報告する人に遇い、丁亥、西門を攻めたが、攻克せず。回りて北門を攻め、攻克した。入りて、內宮を攻めたが、攻克せず。返回し、岳で陣を列ね、交戰を請うも、許されず。こうして奔り来た。車子を季武子に獻じ、光澤は鏡子と為るべし。展莊叔はこれを見て言った、「車子は甚だ光澤。人は必ず憔悴す。滅亡すべし」と。叔孫穆子は慶封に飯を給し、慶封は遍く祭した。穆子は喜ばず、樂工に彼のために《茅鴟》を誦させるも、また知らず。隨後齊人は來て責め、呉に出奔した。呉の句余は彼に朱方を給し、族人を聚集してあそこに住まわせ、原來よりさらに富んだ。子服恵伯は叔孫に言った、「上天はおそらく淫邪の人を富ましむ。慶封はまた富んだ」と。
穆子曰:“善人富謂之賞,淫人富謂之殃。天其殃之也,其將聚而殲旃?”癸巳,天王崩。未來赴,亦未書,禮也。
穆子は言った、「善人の富むを賞と言い、淫邪の人の富むを殃と言う。上天はおそらく彼に殃を與えんとして、まさに聚集して然る後彼らを殲滅せんか」と。癸巳、天子が死去した。訃告はまだ來ず、また記載せず。これは禮に合う。
崔氏之亂,喪群公子。故鉏在魯,叔孫還在燕,賈在句瀆之丘。及慶氏亡,皆召之,具其器用而反其邑焉。與晏子邶殿,其鄙六十,弗受。子尾曰:“富,人之所欲也,何獨弗欲?”對曰:“慶氏之邑足欲,故亡。吾邑不足欲也。益之以邶殿,乃足欲。足欲,亡無日矣。在外,不得宰吾一邑。不受邶殿,非惡富也,恐失富也。且夫富如布帛之有幅焉,為之制度,使無遷也。夫民生厚而用利,於是乎正德以幅之,使無黜嫚,謂之幅利。利過則為敗。吾不敢貪多,所謂幅也。”
崔氏の亂事に、諸公子を喪失した。だから鉏は魯に在り、叔孫還は燕に在り、賈は句瀆之丘に在り。慶氏の滅亡に及び、皆召して帰りて、器用を備辦し城邑を歸還した。晏子に邶殿の邊邑六十を給したが、受けず。子尾は言った、「富は人の欲する所。なぜ獨り欲せざる」と。答えて言った、「慶氏の城邑は欲望を滿足した。だから滅亡した。我の城邑はなお欲望を滿足せず。邶殿を加えれば、即ち欲望を滿足す。欲望を滿足すれば、滅亡は數日なし。外に在りては、我の一邑を主宰する能わず。邶殿を受けざるは、富を惡むにあらず。富を失うを怕るる。しかも富は布帛に幅度あるがごとし。それのために制度を制定し、それを遷移せざらしむ。百姓の生活は豊厚にして器用は利あり、こうして徳行を端正して幅度を限制し、貶損怠慢せざらしむ。これを幅利と言う。利が過分なれば即ち敗壞す。我は敢えて多くを貪らず。即ち謂う所の幅」と。
與北郭佐邑六十,受之。與子雅邑,辭多受少。與子尾邑,受而稍致之。公以為忠,故有寵。
北郭佐に六十邑を給し、受けた。子雅に城邑を給するに、多きを推辞して少なきを受けた。子尾に城邑を給するに、受けて漸く送り還した。公は忠誠とし、だから寵あり。
釋盧蒲弊於北竟。求崔杼之屍,將戮之,不得。叔孫穆子曰:“必得之。武王有亂臣十人,崔杼其有乎?不十人,不足以葬。”既,崔氏之臣曰:“與我其拱璧,吾獻其柩。”於是得之。十二月乙亥朔,齊人遷莊公,殯於大寢。以其棺屍崔杼於市,國人猶知之,皆曰:“崔子也。”
盧蒲弊を北部辺境に放逐した。崔杼の尸體を求め、まさに尸を戮せんとしたが、得られず。叔孫穆子は言った、「必ず得られる能し。武王に亂臣十人あり。崔杼にあるか。十人に至らず、安葬するに用うるに足らず」と。後、崔氏の家臣は言った、「我にあの大璧を給せば、我は棺柩を獻出せん」と。こうして得た。十二月乙亥の朔日、齊人は莊公を遷し、正寢に停殯した。その棺をもって崔杼を市上に陳尸し、國人はなお認識して皆言った、「是れ崔子」と。
為宋之盟故,公及宋公、陳侯、鄭伯、許男如楚。公過鄭,鄭伯不在。伯有勞於黃崖,不敬。穆叔曰:“伯有無戾於鄭,鄭必有大咎。敬,民之主也,而棄之,何以承守?鄭人不討,必受其辜,濟澤之阿,行潦之蘋藻,置諸宗室,季蘭屍之,敬也。敬可棄乎?”及漢,楚康王卒。公欲反,叔仲昭伯曰:“我楚國之為,豈為一人?行也!”子服惠伯曰:“君子有遠慮,小人從邇。飢寒之不恤,誰遑其後?不如姑歸也。”
宋の盟の故のために、襄公および宋公・陳侯・鄭伯・許男は楚に行った。襄公は鄭を經過し、鄭伯は在らず。伯有は黃崖で慰勞したが、恭敬せず。穆叔は言った、「伯有もし鄭において罪なくば、鄭は必ず大災咎あらん。恭敬は百姓の主人であるに、かえってこれを拋棄す。何をもって守持を承受せん。鄭人は討伐せずば、必ず辜を受けん。濟沢の旁の土山、路辺積水中の苹藻は、宗室に放ち、季蘭は尸を為す。即ち恭敬。恭敬は拋棄すべからんや」と。漢水に至り、楚康王が死去した。襄公は帰らんと欲し、叔仲昭伯は言った、「われわれは楚のためである。あに一人のためか。行け!」子服恵伯は言った、「君子は長遠の謀劃あり、小人は近きに從う。饑寒も体恤せず。誰が後事を顧みん。姑く帰るに如かず」と。
叔孫穆子曰:“叔仲子專之矣,子服子始學者也。”榮成伯曰:“遠圖者,忠也。”
叔孫穆子は言った、「叔仲子は專斷した。子服子は始めて學習する人」と。榮成伯は言った、「遠くを謀劃するは、是れ忠誠」と。
公遂行。宋向戌曰:“我一人之為,非為楚也。飢寒之不恤,誰能恤楚?姑歸而息民,待其立君而為之備。”宋公遂反。
襄公はこうして前行した。宋の向戌は言った、「われわれは一人のためである。楚のためではない。饑寒も体恤せず。誰が能く楚を体恤せん。姑く帰りて百姓を休息させ、彼らが國君を立てるを待ちて然る後防備を為せ」と。宋公はこうして帰った。
楚屈建卒。趙文子喪之如同盟,禮也。
楚の屈建が死去した。趙文子は彼のために同盟のごとく喪を服した。これは禮に合う。
王人來告喪,問崩日,以甲寅告,故書之,以徵過也。
王室の人は來て喪事を報告し、死去の日を問うに、甲寅をもって報告した。だから記載する。もって過錯を驗證す。
◇襄公二十九年
◇襄公二十九年
【經】二十有九年春王正月,公在楚。夏五月,公至自楚。庚午,衛侯衎卒,閽弒吳子餘祭。仲孫羯會晉荀盈、齊高止、宋華定、衛世叔儀、鄭公孫段、曹人、莒人、滕子、薛人、小邾人城杞。晉侯使士鞅來聘。杞子來盟。吳子使札來聘。
【經】二十九年春、周天子の暦の正月、襄公は楚に在り。夏五月、襄公は楚より歸った。庚午、衛侯衎が死去し、門を看る人は呉子余祭を弑殺した。仲孫羯は晋の荀盈・齊の高止・宋の華定・衛の世叔儀・鄭の公孫段・曹人・莒人・滕子・薛人・小邾人と會合して杞城を修築した。晋侯は士鞅を遣わして聘問に來させた。杞子は來て盟約を結んだ。呉子は札を遣わして聘問に來させた。
秋九月,葬衛獻公。齊高止出奔北燕。冬,仲孫羯如晉。
秋九月、衛獻公を葬った。齊の高止は北燕に出奔した。冬、仲孫羯は晋に行った。
【傳】二十九年春,王正月,公在楚,釋不朝正於廟也。楚人使公親襚,公患之。穆叔曰:“祓殯而襚,則布幣也。”乃使巫以桃列先祓殯。楚人弗禁,既而悔之。
【傳】二十九年春、周天子の暦の正月、襄公は楚に在るは、廟で朝正せざるを解釋す。楚人は襄公に自ら死者のために衣を著せしめ、襄公は憂患した。穆叔は言った、「先に殯を祓除して然る後衣を著せば、即ち幣を陳列するに等し」と。こうして巫を遣わして桃茢をもって先に殯を祓除せしめた。楚人は禁止せず、隨後后悔した。底本の「桃列」は即ち桃茢。
二月癸卯,齊人葬莊公於北郭。
二月癸卯、齊人は北郭で莊公を安葬した。
夏四月,葬楚康王。公及陳侯、鄭伯、許男送葬,至於西門之外。諸侯之大夫皆至於墓。楚郟敖即位。王子圍為令尹。鄭行人子羽曰:“是謂不宜,必代之昌。松柏之下,其草不殖。”
夏四月、楚康王を安葬した。襄公および陳侯・鄭伯・許男は葬を送り、西門外に到達した。諸侯の大夫は皆墓上に至った。楚の郟敖は即位した。王子圍は令尹を為った。鄭の行人子羽は言った、「これを不合適と言う。必ず彼に代わりて昌盛せん。松柏の下に、草は繁殖する能わず」と。
公還,及方城。季武子取卞,使公冶問,璽書追而與之,曰:“聞守卞者將叛,臣帥徒以討之,既得之矣,敢告。”公冶致使而退,及舍而後聞取卞。公曰:“欲之而言叛,只見疏也。”公謂公冶曰:“吾可以入乎?”對曰:“君實有國,誰敢違君!”公與公冶冕服。固辭,強之而後受。公欲無入,榮成伯賦《式微》,乃歸。五月,公至自楚。公冶致其邑於季氏,而終不入焉。曰:“欺其君,何必使餘?”季孫見之,則言季氏如他日。不見,則終不言季氏。及疾,聚其臣,曰:“我死,必以在冕服斂,非德賞也。且無使季氏葬我。”
襄公は歸り、方城に到達した。季武子は卞を取得し、公冶を遣わして問候せしめ、璽書をもって追いかけて彼に給して言わせた、「卞を守る者はまさに背叛せんとするを聞く。臣は徒衆を率いて討伐し、すでに得た。敢えて告知す」と。公冶は使命を完成して即ち退下し、館舍に至りて然る後卞を取得したを聞いた。襄公は言った、「それを欲してかえって背叛と言うは、ただ疎遠せられたのみ」と。襄公は公冶に言った、「我は入るべきか」と。答えて言った、「君王は實に國家を有す。誰が敢えて君王に違背せん」と。襄公は公冶に冕服を給した。堅く推辞し、強迫して然る後受けた。襄公は城に入らざらんと欲し、榮成伯は《式微》を賦し、こうして歸った。五月、襄公は楚より歸った。公冶はその城邑を季氏に交還し、終に入らず。言った、「國君を欺騙するは、何ぞ我を遣わさん」と。季孫は彼に見えれば、即ち季氏を往日のごとく談じた。見えずば、即ち始終季氏を談ぜず。病むに及び、家臣を聚集して言った、「我が死せば、必ずここに在る冕服をもって入殮せよ。徳による賞賜にあらざるが故に。かつ季氏に我を葬らしむるなかれ」と。
葬靈王,鄭上卿有事,子展使印段往。伯有曰:“弱,不可。”子展曰:“與其莫往,弱不猶愈乎?《詩》云:‘王事靡盬,不遑啟處,東西南北,誰敢寧處?堅事晉、楚,以蕃王室也。王事無曠,何常之有?”遂使印段如周。
靈王を安葬するに、鄭の上卿は事あり、子展は印段を遣わして往かせた。伯有は言った、「年少。不可」と。子展は言った、「人の往くなきより、年少はなおよくないか。《詩》に言う、『王事に止息なく、閒暇なくして安處せず。東西南北、誰が敢えて安寧に居住せん』と。堅定に晋・楚に事え、もって王室を藩衛せよ。王事に曠缺なくば、何の常規があらん」と。こうして印段を遣わして周に往かせた。
吳人伐越,獲俘焉,以為閽,使守舟。吳子餘祭觀舟,閽以刀弒之。
呉人は越を攻め、俘虜を獲得し、門を看る人を為らせ、船を守らせた。呉子余祭は船を觀看し、門を看る人は刀をもって彼を弑殺した。
鄭子展卒,子皮即位。於是鄭飢而未及麥,民病。子皮以子展之命,餼國人粟,戶一鍾,是以得鄭國之民。故罕氏常掌國政,以為上卿。宋司城子罕聞之,曰:“鄰於善,民之望也。”宋亦飢,請於平公,出公粟以貸。使大夫皆貸。司城氏貸而不書,為大夫之無者貸。宋無飢人。叔向聞之,曰:“鄭之罕,宋之樂,其後亡者也!二者其皆得國乎!民之歸也。施而不德,樂氏加焉,其以宋升降乎!”晉平公,杞出也,故治杞。六月,知悼子合諸侯之大夫以城杞,孟孝伯會之。
鄭の子展が死去し、子皮が即位した。當時鄭は饑饉してまだ麥熟に至らず、百姓は困病した。子皮は子展の命令をもって、國人に粟を發放し、每戸一鐘。これによって鄭の百姓を得た。だから罕氏は常に國政を掌管し、上卿を為った。宋の司城子罕は聞いて言った、「善に靠近するは、是れ百姓の仰望」と。宋もまた饑饉し、平公に請い、公家の粟を出して借貸せしめた。大夫に皆借貸せしめた。司城氏は借貸して記載せず。粟なき大夫のために借貸した。宋に饑民なし。叔向は聞いて言った、「鄭の罕、宋の樂は、是れ最後に滅亡する!此の兩家はおそらく皆國家を得る能くせんか!是れ百姓の歸向。施與してかえって自ら徳ありとせず。樂氏はさらに増加し、おそらくまさに宋とともに升降せんか!」晋平公は杞女の生む所。だから杞を修治した。六月、知悼子は諸侯の大夫と會合して杞城を修築し、孟孝伯は會合した。
鄭子大叔與伯石往。子大叔見大叔文子,與之語。文子曰:“甚乎!其城杞也。”
鄭の子大叔は伯石とともに前往した。子大叔は大叔文子に見え、彼と話した。文子は言った、「過分なるかな!杞城を修築する」と。
子大叔曰:“若之何哉?晉國不恤周宗之闕,而夏肄是屏。其棄諸姬,亦可知也已。諸姬是棄,其誰歸之?吉也聞之,棄同即異,是謂離德。《詩》曰:‘協比其鄰,昏姻孔雲。’晉不鄰矣,其誰雲之?”齊高子容與宋司徒見知伯,女齊相禮。賓出,司馬侯言於知伯曰:“二子皆將不免。子容專,司徒移,皆亡家之主也。”知伯曰:“何如?”對曰:“專則速及,侈將以其力斃,專則人實斃之,將及矣。”
子大叔は言った、「どうせんか?晋は周宗の缺失を体恤せずして、かえって夏の餘孽を保護す。それが諸姬姓を拋棄するは、また知るべし。諸姬姓を皆拋棄すれば、誰がそれに歸向せん。吉が聞くに、相同を拋棄して相異に靠近するは、これを離徳と言う。《詩》に言う、『その鄰人に親近し、婚姻は甚だ盛んなり』と。晋は人を鄰と為さず。誰がなおそれに親附せん」と。齊の高子容と宋の司徒は知伯に見え、女齊は禮を相した。客人が出ると、司馬侯は知伯に言った、「此の兩位は皆免れざらん。子容は專斷し、司徒は奢侈す。皆家族を滅亡する主人」と。知伯は言った、「どうか」と。答えて言った、「專斷すれば即ち來ること速し。奢侈すればまさに自らの力に憑りて斃命せん。專斷は即ち他人が彼を斃さしむ。まさに至らん」と。
範獻子來聘,拜城杞也。公享之,展莊叔執幣。射者三耦,公臣不足,取於家臣,家臣:展瑕、展玉父為一耦。公臣,公巫召伯、仲顏莊叔為一耦,鄫鼓父、黨叔為一耦。
范獻子は聘問に來り、杞城を修築したを拜謝した。襄公は彼を宴享し、展莊叔は幣を持った。射る人は三耦。公臣は足らず、家臣より取った。家臣:展瑕・展玉父は一耦を為す。公臣は、公巫召伯・仲顏莊叔は一耦を為し、鄫鼓父・黨叔は一耦を為す。
晉侯使司馬女叔侯來治杞田,弗盡歸也。晉悼夫人慍曰:“齊也取貨。先君若有知也,不尚取之!”公告叔侯,叔侯曰:“虞、虢、焦、滑、霍、揚、韓、魏,皆姬姓也,晉是以大。若非侵小,將何所取?武、獻以下,兼國多矣,誰得治之?杞,夏餘也,而即東夷。魯,周公之後也,而睦於晉。以杞封魯猶可,而何有焉?魯之於晉也,職貢不乏,玩好時至,公卿大夫相繼於朝,史不絕書,府無虛月。如是可矣,何必瘠魯以肥杞?且先君而有知也,毋寧夫人,而焉用老臣?”杞文公來盟。書曰“子”,賤之也。
晋侯は司馬女叔侯を遣わして來て杞田を治理せしめたが、全部歸還せず。晋悼夫人は惱怒して言った、「齊は財貨を收取した。先君もし知あれば、こんな取を贊成せざらん!」公は叔侯に告げ、叔侯は言った、「虞・虢・焦・滑・霍・揚・韓・魏は、皆姬姓。晋はこれによって壯大した。もし小なるを侵伐せざれば、まさにどこより取らん。武公・獻公以下、兼併した國は多し。誰が能く治理せん。杞は夏の餘裔にして、かえって東夷に靠近す。魯は周公の後裔にして、かえって晋と和睦す。杞を魯に封ずるもなお可。また何かあらん。魯の晋に對するは、職貢は缺かず、玩好は時に送到し、公卿大夫は朝廷に相繼ぎ、史官は記載を斷絕せず、府庫に空月なし。このようであれば足る。何ぞ必ず魯を瘦せて杞を肥やさん。しかも先君もし知あれば、寧ろ夫人を責めん。どうして老臣を用いん」と。杞文公は來て盟約を結んだ。《春秋》に記して「子」と言うは、彼を貶低するである。
吳公子札來聘,見叔孫穆子,說之。謂穆子曰:“子其不得死乎?好善而不能擇人。吾聞‘君子務在擇人’。吾子為魯宗卿,而任其大政,不慎舉,何以堪之?禍必及子!”請觀於周樂。使工為之歌《周南》、《召南》,曰:“美哉!始基之矣,猶未也。然勤而不怨矣。”為之歌《邶》、《鄘》、《衛》,曰:“美哉,淵乎!憂而不困者也。吾聞衛康叔、武公之德如是,是其《衛風》乎?”為之歌《王》,曰:“美哉!思而不懼,其周之東乎?”為之歌《鄭》,曰:“美哉!其細已甚,民弗堪也,是其先亡乎!”為之歌《齊》,曰:“美哉!泱泱乎!大風也哉!表東海者,其大公乎!國未可量也。”為之歌《豳》,曰:“美哉!蕩乎!樂而不淫,其周公之東乎?”為之歌《秦》,曰:“此之謂夏聲。夫能夏則大,大之至也,其周之舊乎?”為之歌《魏》,曰:“美哉!渢渢乎!大而婉,險而易行,以德輔此,則明主也。”為之歌《唐》,曰:“思深哉!其有陶唐氏之遺民乎?不然,何憂之遠也?非令德之後,誰能若是?”為之歌《陳》,曰:“國無主,其能久乎?”自《鄶》以下無譏焉。為之歌《小雅》,曰:“美哉!思而不貳,怨而不言,其周德之衰乎?猶有先王之遺民焉。”為之歌《大雅》,曰:“廣哉!熙熙乎!曲而有直體,其文王之德乎?”為之歌《頌》,曰:“至矣哉!直而不倨,曲而不屈,邇而不逼,遠而不攜,遷而不淫,復而不厭,哀而不愁,樂而不荒,用而不匱,廣而不宣,施而不費,取而不貪,處而不底,行而不流,五聲和,八風平,節有度,守有序,盛德之所同也。”
呉の公子札は聘問に來り、叔孫穆子に見え、彼を喜んだ。穆子に言った、「あなたはおそらく善死を得ざらんか?善を喜好して人を選擇する能わず。我が聞くに『君子の要務は人を選擇するに在り』と。吾子は魯の宗卿を為り、大政を擔任す。謹慎に擧薦せずば、何をもって承受せん。禍は必ずあなたの身に至らん!」周樂を觀看するを請うた。樂工に彼のために《周南》・《召南》を歌わせ、言った、「美なるかな!始めて基礎を奠定す。まだ完成せず。しかるに勤勞にして怨なし」と。彼のために《邶》・《鄘》・《衛》を歌わせ、言った、「美なるかな、深きかな!憂愁にして困頓せず。我が聞くに衛康叔・武公の徳はこのごとし。是れその《衛風》か」と。彼のために《王》を歌わせ、言った、「美なるかな!思念にして懼懼せず。是れ周の東遷か」と。彼のために《鄭》を歌わせ、言った、「美なるかな!その細はすでに太過し、百姓は承受する能わず。是れその先に滅亡せんか」と。彼のために《齊》を歌わせ、言った、「美なるかな!泱泱たるかな!是れ大風か!東海を表率するは、是れ太公か!國家は限量すべからず」と。彼のために《豳》を歌わせ、言った、「美なるかな!坦蕩たるかな!快樂にして過分せず。是れ周公の東征か」と。彼のために《秦》を歌わせ、言った、「これを夏聲と言う。能く夏なれば即ち大なり。大なるの極に至る。是れ周の舊地か」と。彼のために《魏》を歌わせ、言った、「美なるかな!渢渢たるかな!大なるに溫婉、險なるに易く實行す。徳をもってこれを輔佐せば、即ち明主」と。彼のために《唐》を歌わせ、言った、「思慮の深きかな!おそらく陶唐氏の遺民あらんか?然らずんば、なぜ憂慮することこのように遠き。美徳の後裔にあらざれば、誰が能くこのごとくせん」と。彼のために《陳》を歌わせ、言った、「國家に主人なくば、能く長久せんや」と。《鄶》以下より譏評を加えず。彼のために《小雅》を歌わせ、言った、「美なるかな!思念にして二心なく、怨恨にして言わず。是れ周徳の衰微か?なお先王の遺民あり」と。彼のために《大雅》を歌わせ、言った、「廣大なるかな!和樂なるかな!曲折にして正直の本體あり。是れ文王の徳か」と。彼のために《頌》を歌わせ、言った、「極に至れり!直にして倨傲せず、曲にして屈服せず、近にして逼迫せず、遠にして離心せず、遷徙にして過分せず、反復にして厭倦せず、哀にして愁せず、樂にして荒れず、用いて匱乏せず、廣にして顯揚せず、施與して耗費せず、取りて貪らず、處して停滯せず、行して流蕩せず。五聲は和諧し、八風は平靜し、節奏に度あり、守持に序あり。是れ盛徳の共にする所」と。
見舞《象箾》《南籥》者,曰:“美哉!猶有憾。”見舞《大武》者,曰:“美哉!周之盛也,其若此乎!”見舞《韶濩》者,曰:“聖人之弘也,而猶有慚德,聖人之難也。”見舞《大夏》者,曰:“美哉!勤而不德,非禹其誰能修之?”見舞《韶箾》者,曰:“德至矣哉!大矣!如天之無不幬也,如地之無不載也,雖甚盛德,其蔑以加於此矣。觀止矣!若有他樂,吾不敢請已!”其出聘也,通嗣君也。故遂聘於齊,說晏平仲,謂之曰:“子速納邑與政!無邑無政,乃免於難。齊國之政,將有所歸,未獲所歸,難未歇也。”故晏子因陳桓子以納政與邑,是以免於欒、高之難。
舞《象箾》《南籥》を見て、言った、「美なるかな!なお遺憾あり」と。舞《大武》を見て、言った、「美なるかな!周の盛時は、おそらくこのごとくであろう!」舞《韶濩》を見て、言った、「聖人の弘大なるに、なお慚愧の徳あり。聖人の難處」と。舞《大夏》を見て、言った、「美なるかな!勤勞にして自ら徳ありとせず。禹にあらざれば誰が能く修成せん」と。舞《韶箾》を見て、言った、「徳は極に至れり!大なるかな!天の覆わざるなく、地の載せざるなきがごとし。たとえ盛徳なりとも、これに加える能くするなし。觀看はこれに止まる!もしなお他の樂あらば、我は敢えて請わざらん」と。彼が國を出でて聘問するは、繼位の國君のために交通するである。だから続けて齊に聘問し、晏平仲を喜び、彼に言った、「あなたは速やかに城邑と政事を交出せよ!城邑なく政事なくば、乃ち難を免るべし。齊の政事はまさに歸する所有らん。まだ歸處を獲得せず。難は停歇なし」と。だから晏子は陳桓子を通じて政事と城邑を交出し、これによって欒・高の災難を免れた。
聘於鄭,見子產,如舊相識,與之縞帶,子產獻紵衣焉。謂子產曰:“鄭之執政侈,難將至矣!政必及子。子為政,慎之以禮。不然,鄭國將敗。”
鄭に聘問し、子産に見え、舊相識のごとく、彼に縞帶を給し、子産は紵衣を獻じた。子産に言った、「鄭の執政は奢侈す。難はまさに至らん!政事は必ずあなたに至らん。あなたが執政すれば、禮をもって謹慎せよ。然らずんば、鄭はまさに敗れん」と。
適衛,說蘧瑗、史狗、史鰍,公子荊、公叔發、公子朝,曰:“衛多君子,未有患也。”
衛に至り、蘧瑗・史狗・史鰌・公子荆・公叔發・公子朝を喜び、言った、「衛に君子多し。まだ患難なし」と。
自衛如晉,將宿於戚。聞鐘聲焉,曰:“異哉!吾聞之也:‘辯而不德,必加於戮。’夫子獲罪於君以在此,懼猶不足,而又何樂?夫子之在此也,猶燕之巢於幕上。君又在殯,而可以樂乎?”遂去之。文子聞之,終身不聽琴瑟。
衛より晋に至り、まさに戚に住まんとした。鐘聲を聞きて、言った、「奇異なるかな!我が聞くに、『辯才ありて徳なくば、必ず刑戮を加えらる』と。夫子は國君の罪をここに得た。懼れるもなお足らず、また何を快樂せん。夫子はここに在るは、燕子が帳幕上に巢を為すがごとし。國君はまた殯に在り。しかして作樂すべきか」と。こうして離れた。文子は聞いて、終身琴瑟を聽かず。
適晉,說趙文子、韓宣子、魏獻子,曰:“晉國其萃於三族乎!”說叔向,將行,謂叔向曰:“吾子勉之!君侈而多良,大夫皆富,政將在家。吾子好直,必思自免於難。”
晋に至り、趙文子・韓宣子・魏獻子を喜び、言った、「晋はおそらくこの三族に聚集せんか!」叔向を喜び、まさに走らんとして、叔向に言った、「吾子は努力せよ!國君は奢侈にして賢良の人は多く、大夫は皆富み、政事はまさに私家に在らん。吾子は直を喜好す。必ず自ら難を免れんを想え」と。
秋九月,齊公孫蠆、公孫灶放其大夫高止於北燕。乙未,出。書曰:“出奔。”
秋九月、齊の公孫蠆・公孫竈はその大夫高止を北燕に放逐した。乙未、國を出た。《春秋》に記して「出奔」と。
罪高止也。高止好以事自為功,且專,故難及之。
是れ高止に歸罪す。高止は用事を喜好して自ら功に居り、かつ專斷す。だから災難は彼の身に至った。
冬,孟孝伯如晉,報范叔也。
冬、孟孝伯は晋に行き、范叔に報いた。
為高氏之難故,高豎以盧叛。十月庚寅,閭丘嬰帥師圍盧。高豎曰:“苟請高氏有後,請致邑。”齊人立敬仲之曾孫宴酀,良敬仲也。十一月乙卯,高豎致盧而出奔晉,晉人城綿而置旃。
高氏の災難の故のために、高竪は盧に拠りて背叛した。十月庚寅、閭丘嬰は軍を率いて盧を包圍した。高竪は言った、「もし高氏に後嗣あらしめんを請えば、城邑を交出せんを請います」と。齊人は敬仲の曾孫宴酀を立てた。是れ敬仲を好しとするである。十一月乙卯、高竪は盧を交出して晋に出奔し、晋人は綿を修築して彼を安置した。
鄭伯有使公孫黑如楚,辭曰:“楚、鄭方惡,而使餘往,是殺餘也。”伯有曰:“世行也。”子皙曰:“可則往,難則已,何世之有?”伯有將強使之。子皙怒,將伐伯有氏,大夫和之。十二月己巳,鄭大夫盟於伯有氏。裨諶曰:“是盟也,其與幾何?《詩》曰:‘君子屢盟,亂是用長。’今是長亂之道也。禍未歇也,必三年而後能紓。”然明曰:“政將焉往?”裨諶曰:“善之代不善,天命也,其焉闢子產?舉不逾等,則位班也。擇善而舉,則世隆也。天又除之,奪伯有魄,子西即世,將焉闢之?天禍鄭久矣,其必使子產息之,乃猶可以戾。不然,將亡矣。”
鄭の伯有は公孫黑を遣わして楚に行かせんとした。推辞して言った、「楚・鄭はまさに交惡す。かえって我を遣わすは、是れ我を殺さんとす」と。伯有は言った、「是れ世世代代行人を為る」と。子皙は言った、「可なれば即ち往き、難なれば即ち停止す。何の世代があらん」と。伯有はまさに強迫して彼を遣わさんとした。子皙は怒り、まさに伯有氏を攻めんとして、大夫は調解した。十二月己巳、鄭の大夫は伯有氏で盟約を結んだ。裨諶は言った、「この盟約は、能く維持すること幾久しきか。《詩》に言う、『君子は屢々盟約を結び、亂はこれによって增長す』と。今是れ亂を增長する道路。禍は停歇なく、必ず三年して然る後乃ち緩解する能し」と。然明は言った、「政事はまさにどこに至らん」と。裨諶は言った、「善は不善に代わる。是れ天命。どうして子産を避ける能くせん。擧薦は等級を超えず。即ち位次である。善を選擇して擧れば、即ち世道は隆盛。上天はまた清除し、伯有の魄を奪い去り、子西は死去す。まさにどこに避けん。上天は鄭を禍害すること久し。必ず子産をして止息せしめて、乃ちなお安定すべし。然らずんば、まさに滅亡せん」と。
◇襄公三十年
◇襄公三十年
【經】三十年春王正月,楚子使薳罷來聘。夏四月,蔡世子般弒其君固。五月甲午。宋災。宋伯姬卒。天王殺其弟佞夫。王子瑕奔晉。秋七月,叔弓如宋,葬宋共姬。鄭良霄出奔許,自許入於鄭,鄭人殺良霄。冬十月,葬蔡景公。晉人、齊人、宋人、衛人、鄭人、曹人、莒人、邾人、滕子、薛人、杞人、小邾人會於澶淵,宋災故。
【經】三十年春、周天子の暦の正月、楚子は䓕罷を遣わして聘問に來させた。夏四月、蔡の世子般はその國君固を弑殺した。五月甲午。宋に火災あり。宋の伯姬が死去した。天子はその弟佞夫を殺した。王子瑕は晋に出奔した。秋七月、叔弓は宋に行き、宋共姬を安葬した。鄭の良霄は許に出奔し、許より鄭に入り、鄭人は良霄を殺した。冬十月、蔡景公を葬った。晋人・齊人・宋人・衛人・鄭人・曹人・莒人・邾人・滕子・薛人・杞人・小邾人は澶淵で會見した。宋の火災の故のためである。
【傳】三十年春,王正月,楚子使薳罷來聘,通嗣君也。穆叔問:“王子之為政何如?”對曰:“吾儕小人,食而聽事,猶懼不給命而不免於戾,焉與知政?”固問焉,不告。穆叔告大夫曰:“楚令尹將有大事,子蕩將與焉,助之匿其情矣。”
【傳】三十年春、周天子の暦の正月、楚子は䓕罷を遣わして聘問に來させた。是れ繼位の國君のために交通するである。穆叔は問うて言った、「王子が執政するはどうか」と。答えて言った、「われら小人は、飯を食いて差を聽く。なお命令を供應し及ばずして罪を免れざるを怕る。どうして政事に參與して知らん」と。堅く問うも、告げず。穆叔は大夫に告げて言った、「楚の令尹はまさに大事あらん。子蕩はまさに參與し、彼を幫助して實情を隱瞞した」と。
子產相鄭伯以如晉,叔向問鄭國之政焉。對曰:“吾得見與否,在此歲也。
子産は鄭伯を輔佐して晋に行き、叔向は鄭の政事を問うた。答えて言った、「我が見る能くするや否やは、此の一年に在る。
駟、良方爭,未知所成。若有所成,吾得見,乃可知也。”叔向曰:“不既和矣乎?”對曰:“伯有侈而愎,子皙好在人上,莫能相下也。雖其和也,猶相積惡也,惡至無日矣。”
駟・良はまさに爭う。どうして了結するかを知らず。もし了結あれば、我は見る能し。乃ち知るべし」と。叔向は言った、「すでに和好せずや」と。答えて言った、「伯有は奢侈にして剛愎、子皙は人の上に處るを喜好す。互いに下に居る能くするなし。たとえ和好すとも、なお互いに惡を積む。惡の來るは數日なし」と。
三月癸未,晉悼夫人食輿人之城杞者。絳縣人或年長矣,無子,而往與於食。
三月癸未、晋悼夫人は杞城を修築する輿人に飯を給した。絳縣に人ありて年紀老いたり。子なく、かえって飯に參加しに往いた。
