襄公(元年~三十一年)
二月庚寅,寧喜、右宰谷伐孫氏,不克。伯國傷。寧子出舍於郊。伯國死,孫氏夜哭。國人召寧子,寧子復攻孫氏,克之。辛卯,殺子叔及大子角。書曰:“寧喜弒其君剽。”言罪之在寧氏也。孫林父以戚如晉。書曰:“入於戚以叛。”
二月庚寅、寧喜・右宰穀は孫氏を攻めたが、攻克せず。伯国は傷を受けた。寧子は出て郊外に住んだ。伯国が死に、孫氏は夜に哭した。国人は寧子を召し、寧子は再び孫氏を攻め、攻克した。辛卯、子叔および太子角を殺した。《春秋》に記して「寧喜弑其君剽」と言うは、罪が寧氏に在るを言う。孫林父は戚を帯びて晋に至った。《春秋》に記して「入于戚以叛」と。
罪孫氏也。臣之祿,君實有之。義則進,否則奉身而退,專祿以周旋,戮也。
是れ孫氏に帰罪す。臣の俸禄は、実は国君の所有。義に合えば前進し、然らざれば身を保護して退下す。俸禄を專有して周旋するは、是れ殺すべし。
甲午,衛侯入。書曰:“復歸。”國納之也。大夫逆於竟者,執其手而與之言。道逆者,自車揖之。逆於門者,頷之而已。公至,使讓大叔文子曰:“寡人淹恤在外,二三子皆使寡人朝夕聞衛國之言,吾子獨不在寡人。古人有言曰:‘非所怨勿怨。’寡人怨矣。”對曰:“臣知罪矣!臣不佞不能負羈洩,以紲扌幹牧圉,臣之罪一也。有出者,有居者。臣不能貳,通外內之言以事君,臣之罪二也。有二罪,敢忘其死?”乃行,從近關出。公使止之。
甲午、衛侯は入った。《春秋》に記して「復帰」と言うは、国家が彼を接納するを言う。大夫の国境で迎えるは、手を握りて彼と話した。路上で迎えるは、車上より揖を作した。城門で迎えるは、ただ頷くのみ。公は至り、人を遣わして大叔文子を責めて言わせた、「寡人は外に憂患し、あの数名は皆寡人に早晚に衛の話を聞かせた。吾子は独り寡人を在意せず。古人に言あり、『怨むべからざるを怨むるな』と。寡人は怨んだ」と。答えて言った、「臣は罪を知った!臣は不才、馬の籠頭韁繩を背負う能わず、もって牛馬を牽引す。是れ臣の罪一。出る者あり、留まる者あり。臣は二心する能わず、内外の話を溝通して国君に事えるは、是れ臣の罪二。二つの罪あり。敢えて死を忘れんや」と。こうして走り、近關から出た。公は人を遣わして彼を拦えた。
衛人侵戚東鄙,孫氏愬於晉,晉戍茅氏。殖綽伐茅氏,殺晉戍三百人。孫蒯追之,弗敢擊。文子曰:“厲之不如!”遂從衛師,敗之圉。雍鉏獲殖綽。復愬於晉。
衛人は戚の東部辺境を侵伐し、孫氏は晋に控訴し、晋は茅氏を戍守した。殖綽は茅氏を攻め、晋の戍卒三百人を殺した。孫蒯は追趕したが、攻撃を敢えてせず。文子は言った、「悪鬼にすら及ばず!」こうして衛軍を追趕し、圉で彼らを敗った。雍鉏は殖綽を俘獲した。再び晋に控訴した。
鄭伯賞入陳之功。三月甲寅朔,享子展,賜之先路、三命之服,先八邑。賜子產次路、再命之服,先六邑。子產辭邑,曰:“自上以下,隆殺以兩,禮也。
鄭伯は陳に入った功労を賞賜した。三月甲寅の朔日、子展を宴享し、彼に先路・三命の礼袍を賜い、先に八邑を給した。子産に次路・再命の礼袍を賜い、先に六邑を給した。子産は城邑を推辞して言った、「上より下に至るまで、隆重と減殺は二をもって差と為す。これは礼。
臣之位在四,且子展之功也。臣不敢及及賞禮,請辭邑。”公固予之,乃受三邑。
臣の位子は第四に在り、しかも是れ子展の功労。臣は敢えて賞賜の礼に够らず。城邑を推辞することを請います」と。底本の「及及」は衍して「及」一つ。公は堅く彼に給し、こうして三邑を受けた。
公孫揮曰:“子產其將知政矣!讓不失禮。”
公孫揮は言った、「子産はおそらくまさに政事を執掌せん!謙讓して礼を失わず」と。
晉人為孫氏故,召諸侯,將以討衛也。夏,中行穆子來聘,召公也。
晋人は孫氏の故のために、諸侯を召集し、まさに衛を討伐せんとした。夏、中行穆子が聘問に来た。是れ襄公を召すである。
楚子、秦人侵吳,及雩婁,聞吳有備而還。遂侵鄭,五月,至於城麇。鄭皇頡戍之,出,與楚師戰,敗。穿封戌囚皇頡,公子圍與之爭之。正於伯州犁,伯州犁曰:“請問於囚。”乃立囚。伯州犁曰:“所爭,君子也,其何不知?”上其手,曰:“夫子為王子圍,寡君之貴介弟也。”下其手,曰:“此子為穿封戌,方城外之縣尹也。誰獲子?”囚曰:“頡遇王子,弱焉。”戌怒,抽戈逐王子圍,弗及。楚人以皇頡歸。
楚子・秦人は呉を侵伐し、雩婁に至り、呉に防備あるを聞きて帰った。こうして鄭を侵伐し、五月、城麇に至った。鄭の皇頡は戍守し、城を出て楚軍と交戦し、戦敗した。穿封戌は皇頡を囚禁し、公子圍は彼と功を争った。伯州犁に裁正を請い、伯州犁は言った、「囚犯に問うことを請います」と。こうして囚犯を立たせた。伯州犁は言った、「争う所は君子である。彼に何の知らざるがあらん」と。手を抬高して言った、「あの夫子は王子圍、寡君の尊貴の弟」と。手を放下して言った、「このは穿封戌、方城外の県尹。誰があなたを俘獲したか」と。囚犯は言った、「頡は王子に遇い、敵せず」と。戌は怒り、戈を抽きて王子圍を追ったが、追い及ばず。楚人は皇頡を帯びて帰った。
印堇父與皇頡戍城麇,楚人囚之,以獻於秦。鄭人取貨於印氏以請之,子大叔為令正,以為請。子產曰:“不獲。受楚之功而取貨於鄭,不可謂國,秦不其然。若曰:‘拜君之勤鄭國,微君之惠,楚師其猶在敝邑之城下。’其可。”弗從,遂行。秦人不予。更幣,從子產而後獲之。
印堇父は皇頡とともに城麇を戍守し、楚人は彼を囚禁し、秦に献じた。鄭人は印氏より財貨を取りて釈放を請うと、子大叔は令正を為り、これをもって請うた。子産は言った、「得られない。楚の功労を受けて鄭より財貨を取るは、国家と言うべからず。秦はこのようでない。もし言わば、『君王が鄭のために勤労したを拜謝す。君王の恩恵なくば、楚軍はおそらくなお敝邑の城下に在らん』と。乃ち可」と。従わず、こうして往った。秦人は給さず。币を改換し、子産に従いて然る後彼を得た。
六月,公會晉趙武、宋向戌、鄭良霄、曹人於澶淵以討衛,疆戚田。取衛西鄙懿氏六十以與孫氏。趙武不書,尊公也。向戌不書,後也。鄭先宋,不失所也。
六月、襄公は晋の趙武・宋の向戌・鄭の良霄・曹人と澶淵で会合して衛を討伐し、戚の田界を劃定した。衛の西部辺境懿氏六十邑を取りて孫氏に給した。《春秋》に趙武を記さざるは、襄公を尊重するである。向戌を記さざるは、彼が後れて至ったのためである。鄭が宋の前に在るは、位置を失わざるである。
於是衛侯會之。晉人執寧喜、北宮遺,使女齊以先歸。衛侯如晉,晉人執而囚之於士弱氏。
当時衛侯は会に与った。晋人は寧喜・北宮遺を執え、女齊を遣わして先に帯ち帰らせた。衛侯は晋に至り、晋人は彼を執えて士弱氏に囚禁した。
秋七月,齊侯、鄭伯為衛侯故,如晉,晉侯兼享之。晉侯賦《嘉樂》。國景子相齊侯,賦《蓼蕭》。子展相鄭伯,賦《緇衣》。叔向命晉侯拜二君曰:“寡君敢拜齊君之安我先君之宗祧也,敢拜鄭君之不貳也。”國子使晏平仲私於叔向,曰:“晉君宣其明德於諸侯,恤其患而補其闕,正其違而治其煩,所以為盟主也。
秋七月、斉侯・鄭伯は衛侯の故のために晋に至り、晋侯は併せて彼らを宴享した。晋侯は《嘉樂》を賦した。国景子は斉侯を輔佐し、《蓼蕭》を賦した。子展は鄭伯を輔佐し、《緇衣》を賦した。叔向は晋侯に両国の君を拜謝させて言わせた、「寡君は敢えて斉君がわが先君の宗廟を安定したを拜し、敢えて鄭君が二心なきを拜す」と。国子は晏平仲に私に叔向に言わせた、「晋君は諸侯に明徳を宣揚し、患難を体恤し闕失を補救し、違失を糾正し煩乱を治理す。だから盟主を為る。
今為臣執君,若之何?”叔向告趙文子,文子以告晉侯。晉侯言衛侯之罪,使叔向告二君。國子賦《轡之柔矣》,子展賦《將仲子兮》,晉侯乃許歸衛侯。叔向曰:“鄭七穆,罕氏其後亡者也。子展儉而壹。”
今臣のために国君を執える。どうせん」と。叔向は趙文子に告げ、文子は晋侯に告げた。晋侯は衛侯の罪を言い、叔向を遣わして両国の君に告げさせた。国子は《轡之柔矣》を賦し、子展は《将仲子兮》を賦し、晋侯はこうして衛侯を放回するを許した。叔向は言った、「鄭の七穆は、罕氏は最後に滅亡する。子展は節儉にして専一」と。
初,宋芮司徒生女子,赤而毛,棄諸堤下,共姬之妾取以入,名之曰棄。長而美。平公入夕,共姬與之食。公見棄也,而視之,尤。姬納諸御,嬖,生佐。
初め、宋の芮司徒は女を生み、皮膚は紅くして毛あり、堤下に丢った。共姬の妾は取り入れ、彼女に名を起こして棄と言った。長じて美しし。平公は夜に入り、共姬は彼と飯した。公は棄を見て、彼女を視るに、特に美しし。姬は彼女を御妾に送り入れ、寵を受け、佐を生んだ。
惡而婉。大子痤美而很,合左師畏而惡之。寺人惠牆伊戾為大子內師而無寵。
貌は醜なれど温順。太子痤は美麗にして狠戾。合左師は怕れて彼を悪んだ。寺人惠牆伊戾は太子の內師を為るも寵を受けず。
秋,楚客聘於晉,過宋。大子知之,請野享之。公使往,伊戾請從之。公曰:“夫不惡女乎?”對曰:“小人之事君子也,惡之不敢遠,好之不敢近。敬以待命,敢有貳心乎?縱有共其外,莫共其內,臣請往也。”遣之。至,則臽欠,用牲,加書,徵之,而聘告公曰:“大子將為亂,既與楚客盟矣。”公曰:“為我子,又何求?”對曰:“欲速。”公使視之,則信有焉。問諸夫人與左師,則皆曰:“固聞之。”公囚大子。大子曰:“唯佐也能免我。”召而使請,曰:“日中不來,吾知死矣。”左師聞之,聒而與之語。過期,乃縊而死。佐為大子。公徐聞其無罪也,乃亨伊戾。
秋、楚の客人は晋に聘問し、宋を経過した。太子は彼と熟し、野外で宴享するを請うた。公は彼を行かせ、伊戾は跟従するを請うた。公は言った、「彼はあなたを悪むではないか」と。答えて言った、「小人が君子に事えるは、悪まれども遠離を敢えてせず、喜ばれども靠近を敢えてせず。恭敬して命令を待ち、敢えて二心あらんや。たとえ人の外面を供給するあれど、人の裏面を供給するなし。臣は往くを請います」と。彼を派遣した。至り、即ち坑を挖り、牲を用い、盟書を加え、取りて証を為し、跑りて公に告げて言った、「太子はまさに乱を為さんとし、すでに楚客と盟約を結んだ」と。底本の「臽欠」は即ち坎。公は言った、「是れ我の子である。また何を求めん」と。答えて言った、「快を欲す」と。公は人を遣わして見せると、確かにあり。夫人と左師に問うと、皆言った、「もとより聞いた」と。公は太子を囚禁した。太子は言った、「ただ佐のみ我を免る能し」と。彼を召して請わせるに、言った、「日中に来ずば、我は死せんを知る」と。左師は聞き、絮々叨叨として彼と話した。期限を過ぎ、こうして縊りて死んだ。佐は太子を為った。公は漸く彼が罪なきを聞き、こうして伊戾を烹った。
左師見夫人之步馬者,問之,對曰:“君夫人氏也。”左師曰:“誰為君夫人?餘胡弗知?”圉人歸,以告夫人。夫人使饋之錦與馬,先之以玉,曰:“君之妾棄使某獻。”左師改命曰:“君夫人。”而後再拜稽首受之。
左師は夫人の馬を遛う人を見て、彼に問うと、答えて言った、「是れ君夫人氏」と。左師は言った、「誰が君夫人か。我はどうして知らざる」と。圉人は帰りて、夫人に告げた。夫人は人を遣わして錦と馬を饋贈し、先に玉を送上して言わせた、「君王の妾棄は某人を遣わして奉献す」と。左師は改称して言った、「君夫人」と。然る後再拜叩頭して受けた。
鄭伯歸自晉,使子西如晉聘,辭曰:“寡君來煩執事,懼不免於戾,使夏謝不敏。”君子曰:“善事大國。”
鄭伯は晋より帰り、子西を遣わして晋に聘問させ、致辞して言わせた、「寡君は来て執事を煩労し、罪を免れざるを怕れ、夏を遣わして不聡敏を謝せしむ」と。君子は言った、「大国に事えるを善くす」と。
初,楚伍參與蔡太師子朝友,其子伍舉與聲子相善也。伍舉娶於王子牟,王子牟為申公而亡,楚人曰:“伍舉實送之。”伍舉奔鄭,將遂奔晉。聲子將如晉,遇之於鄭郊,班荊相與食,而言復故。聲子曰:“子行也!吾必復子。”及宋向戌將平晉、楚,聲子通使於晉。還如楚,令尹子木與之語,問晉故焉,且曰:“晉大夫與楚孰賢?”對曰:“晉卿不如楚,其大夫則賢,皆卿材也。如杞、梓、皮革,自楚往也。雖楚有材,晉實用之。”子木曰:“夫獨無族姻乎?”對曰:“雖有,而用楚材實多。歸生聞之:‘善為國者,賞不僣而刑不濫。’賞僣,則懼及淫人;刑濫,則懼及善人。若不幸而過,寧僣無濫。與其失善,寧其利淫。
初め、楚の伍参は蔡の太師子朝と友好し、その子伍举は声子と相好した。伍举は王子牟の女を娶り、王子牟は申公を為りて逃亡し、楚人は言った、「実は伍举が彼を送り走らせた」と。伍举は鄭に出奔し、まさに続けて晋に出奔せんとした。声子はまさに晋に至らんとして、鄭の郊外で彼に遇い、荆を鋪きて坐りてともに食い、帰国の事を談じた。声子は言った、「あなたは行け!私は必ずあなたを帰らせん」と。宋の向戌がまさに晋・楚を講和せしめんとするに及び、声子は晋に至りて使を通じた。帰りて楚に至り、令尹子木は彼と話し、晋の事を問い、かつ言った、「晋の大夫と楚とは誰が賢か」と。答えて言った、「晋の卿は楚に如かず。その大夫はしかし賢、皆卿の材料である。杞・梓・皮革のごとき、是れ楚より往ける。楚に人材あると雖も、実は晋がこれを用う」と。子木は言った、「あに族姻なからんや」と。答えて言った、「あると雖も、楚の人材を用うるは実に多し。歸生が聞くに、『国を治めるを善くするは、賞は僭越せずして刑は濫せず』と。賞が僭越すれば、即ち淫邪の人に落つるを怕れ、刑が濫すれば、即ち善人に落つるを怕る。もし不幸にして過分ならば、寧ろ僭越して濫するなかれ。善人を失うより、寧ろ淫邪に利あれ。
無善人,則國從之。《詩》曰:‘人之雲亡,邦國殄瘁。’無善人之謂也。故《夏書》曰:‘與其殺不辜,寧失不經。’懼失善也。《商頌》有之曰:‘不僣不濫,不敢怠皇,命於下國,封建厥福。’此湯所以獲天福也。古之治民者,勸賞而畏刑,恤民不倦。賞以春夏,刑以秋冬。是以將賞,為之加膳,加膳則飫賜,此以知其勸賞也。將刑,為之不舉,不舉則徹樂,此以知其畏刑也。夙興夜寐,朝夕臨政,此以知其恤民也。三者,禮之大節也。有禮無敗。今楚多淫刑,其大夫逃死於四方,而為之謀主,以害楚國,不可救療,所謂不能也。子儀之亂,析公奔晉。晉人置諸戎車之殿,以為謀主。繞角之役,晉將遁矣,析公曰:‘楚師輕窕,易震盪也。若多鼓鈞聲,以夜軍之,楚師必遁。’晉人從之,楚師宵潰。
善人なくば、国家は即ち従いて終わる。《詩》に言う、『人亡びぬれば、邦国は困病す』と。善人なきを言う。だから《夏書》に言う、『無辜を殺すより、寧ろ常法を守らざるを失え』と。是れ善人を失うを怕るる。《商頌》に言あり、『僭越せず濫せず、怠慢匆忙を敢えてせず、下国に命じて、その福を分封す』と。是れ湯が天福を獲得した故。古代の百姓を治めるは、賞賜を勉励して刑を用うるを畏懼し、百姓を体恤して倦怠せず。賞は春夏に在り、刑は秋冬に在り。これによってまさに賞せんとすれば、これのために膳を加え、膳を加えれば即ち飽足して下に賜う。これによってその賞賜を勉励するを知る。まさに刑を用いんとすれば、これのために牲を殺し盛饌せず、盛饌せざれば即ち音楽を撤除す。これによってその刑を用うるを畏懼するを知る。早起き晩睡り、朝夕に政に臨む。これによってその百姓を体恤するを知る。此の三樣は、礼の大節である。礼あれば敗亡なし。今楚は淫刑多く、大夫は死を逃れて四方に至り、あのの謀主を為り、もって楚を害す。救治すべからず。即ち謂う所の不能。子儀の乱事に、析公は晋に出奔した。晋人は彼を戎車の後ろに安置し、謀主を為らせた。繞角の戦に、晋はまさに逃げ走らんとしたに、析公は言った、『楚軍は軽佻、震蕩し易し。もし多処に鼓を撃ちて同様の声を發せば、夜に全軍をもって進攻せば、楚軍は必ず逃げ走らん』と。晋人は従い、楚軍は夜に崩潰した。
晉遂侵蔡,襲沈,獲其君;敗申、息之師於桑隧,獲申麗而還。鄭於是不敢南面。
晋はこうして蔡を侵伐し、沈を襲撃し、その国君を俘獲し。桑隧で申・息の軍隊を敗り、申麗を俘獲して然る後帰った。鄭はこうして敢えて南に向かわず。
楚失華夏,則析公之為也。雍子之父兄譖雍子,君與大夫不善是也。雍子奔晉。
楚が華夏を失うは、即ち析公の為す所。雍子の父兄は雍子を誣陷し、国君と大夫は妥善に処理する能わず。雍子は晋に出奔した。
晉人與之鄐,以為謀主。彭城之役,晉、楚遇於靡角之谷。晉將遁矣。雍子發命于軍曰:‘歸老幼,反孤疾,二人役,歸一人,簡兵蒐乘,秣馬蓐食,師陳焚次,明日將戰。’行歸者而逸楚囚,楚師宵潰。晉降彭城而歸諸宋,以魚石歸。
晋人は彼に鄐を給し、謀主を為らせた。彭城の戦に、晋・楚は靡角之谷で相遇した。晋はまさに逃げ走らんとした。雍子は軍隊に令を發して言った、『老いる小さきは帰れ、孤儿病人は返回せよ、一家に二人服役するは、一人を帰れ。精選士兵に車乘を檢閱し、馬を喂い飽かせ飯を食い飽かせ、軍隊は陣を列ねて駐地を焼掉せよ。明日まさに交戦せん』と。帰るべきを行かせかつ楚の俘虜を放走せしむるに、楚軍は夜に崩潰した。晋は彭城を降服して宋に帰還し、魚石を帯びて帰った。
楚失東夷,子辛死之,則雍子之為也。子反與子靈爭夏姬,而雍害其事,子靈奔晉。晉人與之邢,以為謀主。扞禦北狄,通吳於晉,教吳叛楚,教之乘車、射御、驅侵,使其子孤庸為吳行人焉。吳於是伐巢、取駕、克棘、入州來,楚罷於奔命,至今為患,則子靈之為也。若敖之亂,伯賁之子賁皇奔晉。晉人與之苗,以為謀主。鄢陵之役,楚晨壓晉軍而陳,晉將遁矣。苗賁皇曰:‘楚師之良,在其中軍王族而已。若塞井夷灶,成陳以當之,欒、範易行以誘之,中行、二郤必克二穆。
楚が東夷を失うは、子辛はこのために死す。即ち雍子の為す所。子反と子霊は夏姬を争い、彼の事を阻擾し、子霊は晋に出奔した。晋人は彼に邢を給し、謀主を為らせた。北狄を抵御し、呉をして晋と交通せしめ、呉に楚を背叛するを教え、彼らに乗車・射御・驅馳侵伐を教え、その子狐庸に呉の行人を為らせた。呉はこうして巢を攻め駕を取得し棘を攻克し州來に入り、楚は奔命に疲れ、今に至るもなお禍患。即ち子霊の為す所。若敖の乱事に、伯賁の子賁皇は晋に出奔した。晋人は彼に苗を給し、謀主を為らせた。鄢陵の戦に、楚軍は早朝に晋軍に逼近して陣を列ね、晋はまさに逃げ走らんとした。苗賁皇は言った、『楚軍の精良は、ただその中軍の王族に在るのみ。もし井を填め灶を平げ、陣を列ねて抵当せば、欒・范は行列を改變して誘引し、中行・二郤は必ず二穆を攻克せん。
吾乃四萃於其王族,必大敗之。’晉人從之,楚師大敗,王夷師熸,子反死之。
われわれはこうして四面より集中してその王族を打てば、必ず彼らを大敗せん』と。晋人は従い、楚軍は大敗し、君王は傷を受け軍隊の士気は熄滅し、子反はこのために死した。
鄭叛吳興,楚失諸侯,則苗賁皇之為也。”子木曰:“是皆然矣。”聲子曰:“今又有甚於此。椒舉娶於申公子牟,子牟得戾而亡,君大夫謂椒舉:‘女實遣之!’懼而奔鄭,引領南望曰:‘庶幾赦餘!’亦弗圖也。今在晉矣。晉人將與之縣,以比叔向。彼若謀害楚國,豈不為患?”子木懼,言諸王,益其祿爵而復之。聲子使椒鳴逆之。
鄭の背叛・呉の興起、楚が諸侯を失うは、即ち苗賁皇の為す所」と。子木は言った、「これら皆対である」と。声子は言った、「今またこれより甚だしきあり。椒举は申公子牟の女を娶り、子牟は罪を得て逃亡し、君王と大夫は椒举に言った、『実はなんじが遣送した!』懼れて鄭に出奔し、頸を伸ばして南を望みて言った、『ほぼ我を赦免せんか!』とも謀らず。今晋に在る。晋人はまさに彼に県を給し、もって叔向に比擬せん。彼もし楚を害するを謀れば、あに禍患ならざらんや」と。子木は懼れ、王に告げ、その禄爵を増して彼を帰らせた。声子は椒鳴を遣わして迎えさせた。
許靈公如楚,請伐鄭,曰:“師不興,孤不歸矣!”八月,卒於楚。楚子曰:“不伐鄭,何以求諸侯?”冬十月,楚子伐鄭。鄭人將御之,子產曰:“晉、楚將平,諸侯將和,楚王是故昧於一來。不如使逞而歸,乃易成也。夫小人之性,釁於勇,嗇於禍,以足其性而求名焉者,非國家之利也。若何從之?”子展說,不禦寇。十二月乙酉,入南里,墮其城。涉於樂氏,門於師之梁。縣門發,獲九人焉。涉入氾而歸,而後葬許靈公。
許霊公は楚に至り、鄭を攻めるを請うて言った、「軍隊を發動せずば、孤は帰らない!」八月、楚で死去した。楚子は言った、「鄭を攻めずば、何をもって諸侯を求めん」と。冬十月、楚子は鄭を攻めた。鄭人はまさに抵御せんとし、子産は言った、「晋・楚はまさに講和し、諸侯はまさに和睦せん。楚王はこれによって冒昧に来るこの一度。彼をして得逞して帰らしむるに如かず。乃ち成功し易し。小人の本性は、勇において釁を尋ね、禍において吝嗇し、もって本性を滿足し名を求めるは、国家の利益にあらず。どうして彼らに従わん」と。子展は喜び、寇を抵御せず。十二月乙酉、南里に入り、その城を拆毀した。樂氏で渡河し、師之梁を攻めた。懸門は放下し、九人を俘獲した。渡河して泛に入りて然る後帰った。然る後許霊公を葬った。
衛人歸衛姬於晉,乃釋衛侯。君子是以知平公之失政也。
衛人は衛姬を晋に送り、こうして衛侯を釋放した。君子はこれによって平公が政事を失ったを知る。
晉韓宣子聘於周。王使請事。對曰:“晉士起將歸時事於宰旅,無他事矣。”
晋の韓宣子は周に聘問した。天子は人を遣わして何事かを問わせた。答えて言った、「晋の士起はまさに宰旅に四時の貢事を交納せん。別の事なし」と。
王聞之曰:“韓氏其昌阜於晉乎!辭不失舊。”
天子は聞いて言った、「韓氏はおそらく晋において昌盛せんか!言辞は旧典を失わず」と。
齊人城郟之歲,其夏,齊烏餘以廩丘奔晉,襲衛羊角,取之;遂襲我高魚。
斉人が郟城を修築したあの年、その年夏、斉の烏余は廪丘を帯びて晋に奔り、衛の羊角を襲撃して、それを取得した。こうしてわが国の高魚を襲撃した。
有大雨,自其竇入,介於其庫,以登其城,克而取之。又取邑於宋。於是範宣子卒,諸侯弗能治也,及趙文子為政,乃卒治之。文子言於晉侯曰:“晉為盟主。
大雨あり、城牆の水道より入り、府庫裏で甲を着て、城に登り、攻克して取得した。また宋より城邑を取得した。当時范宣子が死去し、諸侯は治理する能わず。趙文子が執政するに及び、やっと終に治理した。文子は晋侯に言った、「晋は盟主を為る。
諸侯或相侵也,則討而使歸其地。今烏餘之邑,皆討類也,而貪之,是無以為盟主也。請歸之!”公曰:“諾。孰可使也?”對曰:“胥梁帶能無用師。”晉侯使往。
諸侯に互相に侵伐するあれば、即ち討伐してかつ土地を帰還せしむ。今烏余の城邑は、皆討伐すべきの類であるに、かえってこれを貪图す。このようでは盟主を為る法なし。帰還するを請います!」公は言った、「好し。誰を派遣すべきか」と。答えて言った、「胥梁帶は軍隊を用いずする能し」と。晋侯は彼を遣わした。
◇襄公二十七年
◇襄公二十七年
【經】二十有七春,齊侯使慶封聘。夏,叔孫豹會晉趙武、楚屈建、蔡公孫歸生、衛石惡、陳孔奐、鄭良霄、許人、曹人於宋。衛殺其大夫寧喜。衛侯之弟鱄出奔晉。秋七月辛巳,豹及諸侯之大夫盟於宋。冬十有二月乙卯朔,日有食之。
【経】二十七年春、斉侯は慶封を遣わして聘問させた。底本の「二十有七」の下は「年」を缺く。夏、叔孫豹は晋の趙武・楚の屈建・蔡の公孫歸生・衛の石惡・陳の孔奐・鄭の良霄・許人・曹人と宋で会合した。衛はその大夫寧喜を殺した。衛侯の弟鱄は晋に出奔した。秋七月辛巳、豹は諸侯の大夫と宋で盟約を結んだ。冬十二月乙卯の朔日、日食があった。
【傳】二十七年春,胥梁帶使諸喪邑者具具車徒以受地,必周。使烏余車徒以受封,烏餘以眾出。使諸侯偽效烏餘之封者,而遂執之,盡獲之。皆取其邑而歸諸侯,諸侯是以睦於晉。
【伝】二十七年春、胥梁帶は各々城邑を喪失せるに車徒を備えて土地を受けんことを令し、必ず周密たらしめた。烏余の車徒をして封地を受けに来らせるに、烏余は衆を帯びて出た。諸侯をして仮に烏余に封地を呈献する人を装わせ、こうして彼を執え、全部俘獲した。皆城邑を取り還して諸侯に帰し、諸侯はこれによって晋と和睦した。
齊慶封來聘,其車美。孟孫謂叔孫曰:“慶季之車,不亦美乎?”叔孫曰:“豹聞之:‘服美不稱,必以惡終。’美車何為?”叔孫與慶封食,不敬。為賦《相鼠》,亦不知也。衛寧喜專,公患之。公孫免餘請殺之。公曰:“微寧子不及此,吾與之言矣。事未可知,只成惡名,止也。”對曰:“臣殺之,君勿與知。”
斉の慶封が聘問に来て、その車子は華美であった。孟孫は叔孫に言った、「慶季の車子は、また華美ではないか」と。叔孫は言った、「豹が聞くに、『服飾が華美にして徳と稱せざれば、必ず惡終す』と。華美の車子を何にせん」と。叔孫は慶封に飯を給し、恭敬せず。これのために《相鼠》を賦するも、また知らず。衛の寧喜は專断し、公は憂患した。公孫免余は彼を殺すを請うた。公は言った、「寧子なくばこの歩に至らず。我は彼と話した。事はなお知るべからず。ただ惡名を成就するのみ。止めよ」と。答えて言った、「臣は彼を殺す。君王は参与して知るなかれ」と。
乃與公孫無地、公孫臣謀,使攻寧氏。弗克,皆死。公曰:“臣也無罪,父子死餘矣!”夏,免餘復攻寧氏,殺寧喜及右宰谷,屍諸朝。石惡將會宋之盟,受命而出。衣其屍,枕之股而哭之。欲斂以亡,懼不免,且曰:“受命矣。”乃行。
こうして公孫無地・公孫臣と謀劃し、彼らを遣わして寧氏を攻めさせた。攻克せず、皆死んだ。公は言った、「臣は罪なし。父子は我のために死した!」夏、免余は再び寧氏を攻め、寧喜および右宰穀を殺し、尸を朝廷に陳した。石惡はまさに宋の盟会に参加せんとして、命令を受けて出た。彼に上衣を着せ、頭を大腿に枕して哭いた。入殮して然る後逃亡せんと欲したが、免れざるを怕れ、かつ言った、「すでに命令を受けた」と。こうして行った。
子鮮曰:“逐我者出,納我者死,賞罰無章,何以沮勸?君失其信,而國無刑。不亦難乎!且鱄實使之。”遂出奔晉。公使止之,不可。及河,又使止之。
子鮮は言った、「我を驅逐するは出て、我を接納するは死した。賞罰に章程なく、何をもって惡を止め善を勸めん。君王は信用を失い、国家に刑罰なし。また困難ではないか!しかも実は鱄が彼をしてこのようにならしめた」と。こうして晋に出奔した。公は人を遣わして拦えたが、不可。黄河に至り、また人を遣わして拦えた。
止使者而盟於河,托於木門,不鄉衛國而坐。木門大夫勸之仕,不可,曰:“仕而廢其事,罪也。從之,昭吾所以出也。將準愬乎?吾不可以立於人之朝矣。”
使者を拦えて黄河辺で盟約を結び、木門に寄居し、衛に面向して坐せず。木門の大夫は彼に官を為るを勸めたが、不可で、言った、「官を為して職事を廢棄するは、罪。職事に従えば、即ち我の出た故を顯明す。まさに誰に控訴せん。我は他人の朝廷に立つべからず」と。底本の「准」は即ち誰。
終身不仕。公喪之,如稅服,終身。
終身官を為らず。公は彼のために喪を服し、税服のごとく、終身に至るまで。
公與免餘邑六十,辭曰:“唯卿備百邑,臣六十矣。下有上祿,亂也,臣弗敢聞。且寧子唯多邑,故死。臣懼死之速及也。”公固與之,受其半。以為少師。
公は免余に六十邑を給した。推辞して言った、「ただ卿のみ百邑を備有す。臣はすでに六十である。下級に上級の禄あるは、乱。臣は敢えて聞かず。しかも寧子はただ城邑の多きによって、だから死した。臣は死の来ること速きを怕れます」と。公は堅く彼に給し、半分を受けた。少師を為った。
公使為卿,辭曰:“大叔儀不貳,能贊大事。君其命之!”乃使文子為卿。
公は彼に卿を為らせんとし、推辞して言った、「大叔儀は二心なく、大事を贊助する能し。君王はなお彼に命じよ!」こうして文子に卿を為らせた。
宋向戌善於趙文子,又善於令尹子木,欲弭諸侯之兵以為名。如晉,告趙孟。
宋の向戌は趙文子と相好し、また令尹子木と相好して、諸侯の兵を停息して名を求めんと欲した。晋に至り、趙孟に告げた。
趙孟謀於諸大夫,韓宣子曰:“兵,民之殘也,財用之蠹,小國之大災也。將或弭之,雖曰不可,必將許之。弗許,楚將許之,以召諸侯,則我失為盟主矣。”
趙孟は諸大夫と謀劃し、韓宣子は言った、「兵は、百姓を殘害する、是れ財用の蠹虫、小国の大災。まさに人のこれを停息せんとするあらん。たとえ不可と言うとも、必ずまさに許さん。許さずば、楚はまさに許して、もって諸侯を召集し、われわれは即ち盟主を為るを失わん」と。
晉人許之。如楚,楚亦許之。如齊,齊人難之。陳文子曰:“晉、楚許之,我焉得已。且人曰弭兵,而我弗許,則固攜吾民矣!將焉用之?”齊人許之。告於秦,秦亦許之。皆告於小國,為會於宋。
晋人は許した。楚に至り、楚もまた許した。斉に至り、斉人は難を感じた。陳文子は言った、「晋・楚は許した。われわれはどうして停止できよう。しかも人は兵事を停息すると言うに、われわれが許さざれば、即ちもとよりわれわれの百姓を離散せん!まさにどこに用いん」と。斉人は許した。秦に告げると、秦もまた許した。皆小国に告げ、宋で会見した。
五月甲辰,晉趙武至於宋。丙午,鄭良霄至。六月丁未朔,宋人享趙文子,叔向為介。司馬置折俎,禮也。仲尼使舉是禮也,以為多文辭。戊申,叔孫豹、齊慶封、陳須無、衛石惡至。甲寅,晉荀盈從趙武至。丙辰,邾悼公至。壬戌,楚公子黑肱先至,成言於晉。丁卯,宋向戌如陳,從子木成言於楚。戊辰,滕成公至。子木謂向戌:“請晉、楚之從交相見也。”庚午,向戌復於趙孟。趙孟曰:“晉、楚、齊、秦,匹也。晉之不能於齊,猶楚之不能於秦也。楚君若能使秦君辱於敝邑,寡君敢不固請於齊?”壬申,左師復言於子木。子木使馹謁諸王,王曰:“釋齊、秦,他國請相見也。”秋七月戊寅,左師至。是夜也,趙孟及子皙盟,以齊言。庚辰,子木至自陳。陳孔奐、蔡公孫歸生至。曹、許之大夫皆至。
五月甲辰、晋の趙武は宋に到達した。丙午、鄭の良霄が到達した。六月丁未の朔日、宋人は趙文子を宴享し、叔向は副手を為った。司馬は折俎を設置した。これは礼に合う。仲尼は人にこの礼を記下させ、文辞の多きを以てした。戊申、叔孫豹・斉の慶封・陳須無・衛の石惡が到達した。甲寅、晋の荀盈は趙武に従いて到達した。丙辰、邾悼公が到達した。壬戌、楚の公子黑肱は先に至り、晋と談定した。丁卯、宋の向戌は陳に至り、子木に従いて楚と談定した。戊辰、滕成公が到達した。子木は向戌に言った、「晋・楚の各々の与国に互相に朝見するを請います」と。庚午、向戌は趙孟に回報した。趙孟は言った、「晋・楚・斉・秦は匹敵する。晋は斉を役使する能わざるは、楚が秦を役使する能わざるがごとし。楚君もし秦君をして辱くも敝邑に臨ましむる能わば、寡君は敢えて斉に堅く請わざらんや」と。壬申、左師は再び子木に言った。子木は驛車を遣わして王に請示し、王は言った、「斉・秦を放開し、その他の国は互相に朝見するを請え」と。秋七月戊寅、左師が到達した。この日の夜、趙孟は子皙と盟約を結び、言辞を統一した。庚辰、子木は陳より到達した。陳の孔奐・蔡の公孫歸生が到達した。曹・許の大夫は皆至った。
以藩為軍,晉、楚各處其偏。伯夙謂趙孟曰:“楚氛甚惡,懼難。”趙孟曰:“吾左還,入於宋,若我何?”辛巳,將盟於宋西門之外,楚人衷甲。伯州犁曰:“合諸侯之師,以為不信,無乃不可乎?夫諸侯望信於楚,是以來服。若不信,是棄其所以服諸侯也。”固請釋甲。子木曰:“晉、楚無信久矣,事利而已。苟得志焉,焉用有信?”大宰退,告人曰:“令尹將死矣,不及三年。求逞志而棄信,志將逞乎?志以發言,言以出信,信以立志,參以定之。信亡,何以及三?”趙孟患楚衷甲,以告叔向。
藩籬をもって軍営を為し、晋・楚は各々一辺に処った。伯夙は趙孟に言った、「楚の気氛は甚だ壞れたり。難あらんを怕れます」と。趙孟は言った、「我は左に轉彎し、宋に入れば、我をどうせん」と。辛巳、まさに宋の西門外で盟約を結ばんとして、楚人は衣の裏に甲を穿いた。伯州犁は言った、「諸侯の軍隊を会合して、かえって不信の事を為す。おそらく不可でしょうか?諸侯は楚に信用を期望し、これによって前に歸服す。もし守信せざれば、是れ諸侯を歸服せしむるに用うる所を拋棄す」と。堅く甲を脱ぐを請うた。子木は言った、「晋・楚は信用なきことすでに久し。ただ事の利あるを見るのみ。もし志を得れば、どうして信用あるを用いん」と。太宰は退き、人に告げて言った、「令尹はまさに死せん。三年に至らず。志を逞するを求めてかえって信用を拋棄す。志はなお得逞する能くせんや。志はもって言を發し、言はもって信用を出し、信用はもって志を立つ。三者はもって安定す。信用が亡ぶれば、何をもって三年に至らん」と。趙孟は楚人の衣の裏に甲を穿くを憂患し、叔向に告げた。
叔向曰:“何害也?匹夫一為不信,猶不可,單斃其死。若合諸侯之卿,以為不信,必不捷矣。食言者不病,非子之患也。夫以信召人,而以僣濟之。必莫之與也,安能害我?且吾因宋以守病,則夫能致死,與宋致死,雖倍楚可也。子何懼焉?又不及是。曰弭兵以召諸侯,而稱兵以害我,吾庸多矣,非所患也。”
叔向は言った、「何の妨害があらん。匹夫は一度不守信するも、なお不可。独自に斃命す。もし諸侯の卿を会合してかえって不守信の事を為さば、必ず成功しない。話して算数せざる人は人を困病せず。あなたの憂患にあらず。信用をもって人を召して、かえって僭越をもって成就すれば、必ず人の親附するなし。どうしてわれわれを害せん。しかもわれわれは宋に倚りて困病を守り、あの人は致死力する能く、宋と致死力すれば、たとえ楚に加倍するとも可。あなたは何を怕れん。またこの歩に至らず。兵事を停息するを言いて諸侯を召集し、かえって兵を動かしてわれわれを害するは、われわれの功労は即ち多し。憂患する所にあらず」と。
季武子使謂叔孫以公命,曰:“視邾、滕。”既而齊人請邾,宋人請滕,皆不與盟。叔孫曰:“邾、滕,人之私也;我,列國也,何故視之?宋、衛,吾匹也。”乃盟。故不書其族,言違命也。
季武子は人を遣わして襄公の命令をもって叔孫に告げさせて言わせた、「邾・滕に比照せよ」と。続いて斉人は邾を屬国と為すを請い、宋人は滕を屬国と為すを請い、皆盟約に参加せず。叔孫は言った、「邾・滕は他人の私屬。われわれは列国である。なぜ彼らに比照せん。宋・衛はわれわれの匹敵」と。こうして盟約を結んだ。だから《春秋》にその族氏を記さざるは、命令に違背したを言う。
晉、楚爭先。晉人曰:“晉固為諸侯盟主,未有先晉者也。”楚人曰:“子言晉、楚匹也,若晉常先,是楚弱也。且晉、楚狎主諸侯之盟也久矣!豈專在晉?”叔向謂趙孟曰:“諸侯歸晉之德只,非歸其屍盟也。子務德,無爭先!且諸侯盟,小國固必有屍盟者。楚為晉細,不亦可乎?”乃先楚人。書先晉,晉有信也。
晋・楚は先に立つを争った。晋人は言った、「晋はもとより諸侯の盟主。晋より先なるはなし」と。楚人は言った、「あなたは晋・楚匹敵と言う。もし晋が常に先に在れば、是れ楚の弱。しかも晋・楚は交替して諸侯の盟約を主持すことすでに久し!あに専ら晋に在らんや」と。叔向は趙孟に言った、「諸侯の歸向するはただ晋の徳である。それが盟約を主持するに歸向せず。あなたは徳を致力し、先を争うなかれ!しかも諸侯が盟約を結ぶに、小国はもとより必ず盟約を主持するあり。楚が晋のために細事を為すは、また可ではないか」と。こうして楚人を先にさせた。《春秋》に晋を先に記すは、晋に信用あるを言う。
壬午,宋公兼享晉、楚之大夫,趙孟為客。子木與之言,弗能對。使叔向侍言焉,子木亦不能對也。
壬午、宋公は併せて晋・楚の大夫を宴享し、趙孟は客人を為った。子木は彼と話すも、對答する能わず。叔向をして伴い話させるに、子木もまた對答する能わず。
乙酉,宋公及諸侯之大夫盟於蒙門之外。子木問於趙孟曰:“範武子之德何如?”對曰:“夫人之家事治,言於晉國無隱情。其祝史陳信於鬼神,無愧辭。”
乙酉、宋公は諸侯の大夫と蒙門外で盟約を結んだ。子木は趙孟に問うて言った、「范武子の徳はどうか」と。答えて言った、「あの人は家事を治理するを善くし、晋に対して話して隱瞞なし。その祝史は鬼神に陳說するに誠信あり。慚愧の話なし。
子木歸,以語王。王曰:“尚矣哉!能歆神人,宜其光輔五君以為盟主也。”子木又語王曰:“宜晉之伯也!有叔向以佐其卿,楚無以當之,不可與爭。”晉荀寅遂如楚蒞盟。
子木は帰り、王に告げた。王は言った、「高尚なるかな!能く神と人を喜悅せしむ。宜しく五位の国君を光輔して盟主を為るべし」と。子木はまた王に言った、「晋が霸主を為るは是れ應該である!叔向あってその卿を輔佐す。楚に抵当する能くするなし。彼と争うべからず」と。晋の荀寅はこうして楚に至りて盟約に参加した。
鄭伯享趙孟於垂隴,子展、伯有、子西、子產、子大叔、二子石從。趙孟曰:“七子從君,以寵武也。請皆賦以卒君貺,武亦以觀七子之志。”子展賦《草蟲》,趙孟曰:“善哉!民之主也。抑武也不足以當之。”伯有賦《鶉之賁賁》,趙孟曰:“床第之言不逾閾,況在野乎?非使人之所得聞也。”子西賦《黍苗》之四章,趙孟曰:“寡君在,武何能焉?”子產賦《隰桑》,趙孟曰:“武請受其卒章。”子大叔賦《野有蔓草》,趙孟曰:“吾子之惠也。”印段賦《蟋蟀》,趙孟曰:“善哉!保家之主也,吾有望矣!”公孫段賦《桑扈》,趙孟曰:“‘匪交匪敖’,福將焉往?若保是言也,欲辭福祿,得乎?”卒享。文子告叔向曰:“伯有將為戮矣!詩以言志,志誣其上,而公怨之,以為賓榮,其能久乎?幸而後亡。”叔向曰:“然。已侈!所謂不及五稔者,夫子之謂矣。”文子曰:“其餘皆數世之主也。子展其後亡者也,在上不忘降。印氏其次也,樂而不荒。樂以安民,不淫以使之,後亡,不亦可乎?”宋左師請賞,曰:“請免死之邑。”公與之邑六十。以示子罕,子罕曰:“凡諸侯小國,晉、楚所以兵威之。畏而後上下慈和,慈和而後能安靖其國家,以事大國,所以存也。無威則驕,驕則亂生,亂生必滅,所以亡也。天生五材,民並用之,廢一不可,誰能去兵?兵之設久矣,所以威不軌而昭文德也。聖人以興,亂人以廢,廢興存亡昏明之術,皆兵之由也。而子求去之,不亦誣乎?以誣道蔽諸侯,罪莫大焉。縱無大討,而又求賞,無厭之甚也!”削而投之。左師辭邑。向氏欲攻司城,左師曰:“我將亡,夫子存我,德莫大焉,又可攻乎?”君子曰:“‘彼己之子,邦之司直。’樂喜之謂乎?‘何以恤我,我其收之。’向戌之謂乎?”齊崔杼生成及強而寡。娶東郭姜,生明。
鄭伯は垂隴で趙孟を宴享し、子展・伯有・子西・子産・子大叔・両位の子石が従った。趙孟は言った、「七位は国君に従う。是れ武を寵幸す。皆詩を賦して君王の賞賜を完成し、武もまたもって七位の心志を観察せんことを請います」と。子展は《草蟲》を賦し、趙孟は言った、「好し!是れ百姓の主人。ただ武は承当に足らず」と。伯有は《鶉之賁賁》を賦し、趙孟は言った、「床第の話は門檻を越えず。まして野外においてや。使者の聞くべき所にあらず」と。子西は《黍苗》第四章を賦し、趙孟は言った、「寡君が在る。武は何を為す能くせん」と。子産は《隰桑》を賦し、趙孟は言った、「武はその卒章を接受せんを請います」と。子大叔は《野有蔓草》を賦し、趙孟は言った、「是れ吾子の恩恵」と。印段は《蟋蟀》を賦し、趙孟は言った、「好し!是れ家を保つ主人。我に期望あり!」公孫段は《桑扈》を賦し、趙孟は言った、「『交結せず驕傲せず』、福はまさにどこに至らん。もしこの話を保有せば、福祿を推辞せんと欲するも、能くせんや」と。宴享は結束した。文子は叔向に告げて言った、「伯有はまさに殺されん!詩はもって心志を表達す。心志は上級を誣蔑し、また公開に怨恨し、もって賓客に榮耀を給う。能く長久せんや。僥倖して然る後乃ち滅亡す」と。叔向は言った、「是のごとし。すでに奢侈せり!謂う所の五年に至らざるは、夫子を言う」と。文子は言った、「その余は皆幾世を維持する能くする主人。子展は最後に滅亡する。上に在りて降抑を忘れず。印氏はその次。快楽にして荒廢せず。快楽はもって百姓を安定し、過分に彼らを役使せず。後れて滅亡するは、また可ではないか」と。宋の左師は賞賜を請いて言った、「免死の城邑を給るを請います」と。公は彼に六十邑を給した。子罕に見せると、子罕は言った、「およそ諸侯の小国は、晋・楚は兵を用いて威懾す。畏懼して然る後上下は慈愛和睦し、慈愛和睦して然る後能く国家を安定し、もって大国に事え、だから存在する能し。威なくば即ち驕傲し、驕傲すれば即ち乱を生じ、乱生じれば必ず滅亡す。だから滅亡す。天は五材を生じ、百姓は皆これを使用す。一樣を廢掉するは不可。誰が能く兵を去らん。兵の設置はすでに久し。もって不軌を威懾し文徳を顯明す。聖人はこれによって興起し、乱人はこれによって廢棄す。廢興存亡昏明の方法は、皆兵より来る。あなたはかえってこれを去らんを求む。また誣妄ではないか。誣妄の道理をもって諸侯を蒙蔽するは、罪過はこれより大ききはなし。たとえ大討伐なくとも、また賞賜を求むるは、貪婪の至極!」簡を削りて投げた。左師は城邑を推辞した。向氏は司城を攻めんと欲し、左師は言った、「我はまさに滅亡せんとするに、夫子は我を保存す。徳はこれより大ききはなし。また攻めるべからんや」と。君子は言った、「『あの人は、邦国の正直を主持する』とは、楽喜を言うのであろうか。『何をもって我を体恤せん、我はこれを收取せん』とは、向戌を言うのであろうか」と。斉の崔杼は成および彊を生みて妻を喪った。東郭姜を娶り、明を生んだ。
東郭姜以孤入,曰棠無咎,與東郭偃相崔氏。崔成有疾,而廢之,而立明。成請老於崔,崔子許之。偃與無咎弗予,曰:“崔,宗邑也,必在宗主。”成與強怒,將殺之。告慶封曰:“夫子之身亦子所知也,唯無咎與偃是從,父兄莫得進矣。大恐害夫子,敢以告。”慶封曰:“子姑退,吾圖之。”告盧蒲弊。盧蒲弊曰:“彼,君之仇也。天或者將棄彼矣。
東郭姜は孤儿を帯びて入り、棠無咎と言い、東郭偃とともに崔氏を輔佐した。崔成は病あり、彼を廢掉し、明を立てた。成は崔地で養老するを請い、崔子は許した。偃と無咎は給さずして言った、「崔は宗邑。必ず宗主に在るべし」と。成と彊は怒り、まさに彼らを殺さんとした。慶封に告げて言った、「夫子の處境はまたあなたの知る所。ただ無咎と偃に従い、父兄は進言する能わず。甚だ夫子を妨害するを怕れ、敢えて告げに来た」と。慶封は言った、「あなたはしばらく退下せよ。我は謀劃す」と。盧蒲弊に告げた。盧蒲弊は言った、「彼は君王の仇人。上天はあるいはまさに彼を拋棄せん。
彼實家亂,子何病焉!崔之薄,慶之厚也。”他日又告。慶封曰:“苟利夫子,必去之!難,吾助女。”
彼は実は家に乱ある。あなたは何を憂患せん!崔氏が薄ければ、即ち慶氏は厚し」と。後のある日また告げた。慶封は言った、「もし夫子に利あれば、必ず彼らを去らん!難あれば、我はあなたを幫助す」と。
九月庚辰,崔成、崔強殺東郭偃、棠無咎於崔氏之朝。崔子怒而出,其眾皆逃,求人使駕,不得。使圉人駕,寺人御而出。且曰:“崔氏有福,止餘猶可。”
九月庚辰、崔成・崔彊は崔氏の朝廷で東郭偃・棠無咎を殺した。崔子は怒りて出ると、その衆は皆逃走し、人を找して車を駕せしめんとするも、找えず。圉人に車を駕せしめ、寺人が駕して出た。かつ言った、「崔氏に福あれば、ただ我を留むるもなお可」と。
遂見慶封。慶封曰:“崔、慶一也。是何敢然?請為子討之。”使盧蒲弊帥甲以攻崔氏。崔氏堞其宮而守之,弗克。使國人助之,遂滅崔氏,殺成與強,而盡俘其家。其妻縊。弊覆命於崔子,且御而歸之。至,則無歸矣,乃縊。崔明夜闢諸大墓。辛巳,崔明來奔,慶封當國。
こうして慶封に見えた。慶封は言った、「崔・慶は一家。これらの人はどうして敢えてこのようか。あなたのために討伐せんを請います」と。盧蒲弊を遣わして甲士を率いて崔氏を攻めさせた。崔氏は宮牆を加高して守衛し、攻克せず。国人に幫助せしめ、こうして崔氏を滅亡し、成と彊を殺し、その家を全部俘虜した。その妻は縊った。弊は崔子に復命し、かつ車を駕して彼を送り帰した。至り、すでに歸るべき処なし。こうして縊った。崔明は夜に大墓に躲れた。辛巳、崔明は奔り来た。慶封は国事を主持した。
