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漸卦(艮下巽上)

宋 · 李光 · 第16巻 / 17

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

艮下巽上。漸:女歸吉,利貞。女子之嫁也,猶士之仕也,皆惡不由其道也。漸之辭專以女歸為吉,女之適人,必待求而後行,納采問名,匪媒不得,漸之義莫大乎此。利貞者,所利在正也。貞者,靜而正也。女能以正行,未有不以漸者;能以漸固吉矣,然亦有漸而不正者,蓋長女少男,疑於不正,異乎咸之相感恱,故既吉又戒以利貞也。

漸卦の下體は艮、上體は巽なり。卦辞に言う。「漸、女子嫁して吉を獲、正しきを守るに利有り。」女子の出嫁は、猶お士人の出仕の如く、皆正道に循はずして行ふを惡む。漸卦の卦辞は專ら女子の嫁するを以て吉と爲す、女子の人に適ぐは、必ず對方の來聘を待ちて而る後に成行し、先行に納采・問名の禮有り、媒妁無くば成婚する能はざるを以てなり。循序漸進の意義は此より大なる無し。「利貞」と曰うは、利の在る所は正しきを守るに在るを言うなり。「貞」は即ち安靜にして正に合するなり。女子能く正道に依りて行へば、循序漸進せざる者無し。能く循序漸進すれば本より已に吉利なれど、然れども亦た循序漸進すと雖も而も正に合せざる有り、此の一卦は長女上に在り少男下に在れば、人をして不正を疑心せしめ易く、『咸卦』の少男少女の彼此感悅すると不同なれば、だから「吉」と曰ふの後に、又た「利貞」を用ゐて以て告誡を加ふ。

彖曰:漸之進也,女歸吉也。進得位,往有功也。進以正,可以正也。其位剛得中也。止而巽,動不窮也。進固多門矣:有挾術而進者,有阿其好而進者,有以邪塗進者,有假隱遁為徑而進者,莫若以漸而進為得其正,如女之歸人則吉也。進得位往有功也、進以正可以正也、其位剛得中也、止而巽動不窮也,皆進之善者也。進而得位,則可以行其志而可以大有為矣,故往有功也。未有枉尺而可以直尋者,枉道而可以事人者,亦未有身之不正而可正人者,故士之進身,其始不可不正也。進以正然後可以正,蓋一正君而國定矣。

『彖傳』に言う。「漸は循序にして進めば、だから女子嫁して吉を獲るなり。前進して正位を得れば、往けば功を建つる能はし。正道を以て前進せば、便ち以て他人を匡正す可し。九五の位は陽剛にして中に居る。內に止まり外に巽順すれば、行動便ち困窮せざらん。」身を進めて仕を求むるは本より門路多し。權術を挾持して進む者有り、君主の嗜好に迎合して進む者有り、邪路を走りて進む者有り、又た隱居を假借して終南捷徑を作して以て進む者有り。皆循序漸進に如く最も正に合する無し、譬えば女子の禮に依りて人に嫁げば便ち吉祥を得るが如し。所謂「進みて位を得、往きて功有り」「進みて正を以てすれば、以て正す可し」「其の位剛にして中を得」「止まりて巽れば、動きて窮まらず」と言ふは、皆身を進むる中の善者を説くなり。前進して應有の職位を得れば、便ち以て己が志向を施行して大有為す可し、だから往けば功を建つる能はしと曰う。從來一尺を屈曲して而も能く八尺を伸直する者無し、又た正道を歪曲して而も能く真に君主に事奉する者無し、更に自身正ならずして而も能く別人を匡正する者無し。だから士人身を進むるは、一開頭より便ち正ならざる可からず。正道を以て身を進めて、然る後に乃ち能く他人を匡正し、ただ君心一たび正しければ、國家自然安定す。

進為於世,固不可不剛健,然剛健不可過也,不可不及也。漸之六爻皆得其正,謂二四之陰而六居之,三五之陽而九居之,初上二爻雖無應而皆得陰陽之正也。九五履至尊而得中正之位,為漸之主,故云其位剛得中也。止而巽動不窮者,艮止而巽動,止者靜而動者順,以此為進,雖渉險蹈艱,何往而不利哉?

世上に於て作為有らんとするは、固より剛健ならざる可からず、然れども剛健は過ぐる可からず、亦た及ばざる可からず。漸卦の六爻は皆其の正を得るを以てし、第二・第四は陰位にして陰爻之に居り、第三・第五は陽位にして陽爻之に居ると謂ふなり。初爻與上爻は正應無しと雖も、然れども亦た皆陰陽の正位に合す。九五は至尊に登臨して中正の位に居り、漸卦の主爻なり、だから『彖傳』に「其の位剛にして中を得たり」と言う。所謂「止まりて巽順し、動きて窮まらず」――下卦の艮は靜止にして、上卦の巽は順動なり。止まる一方は安靜にして、動く一方は柔順なり。此の如きの態度を以て進取せば、縦い險阻を涉歷し艱難を踏盡すとも、又た何の處か往き得ざる有らんや。

曰:山上有木,漸。君子以居賢徳善俗。山之有木,長養而成就之,自青蔥以至合抱,必有其漸。君子以祿位處賢有徳之士,與夫化導天下之俗,使入於禮義,亦必皆有其漸而不可遽也。堯之用舜,猶歴試諸艱,以見賢徳之不可驟進也;善人為百年,可以勝殘去殺,以見風俗之不可頓革也。

『象傳』に言う。「山上に木長ずるは、これ即ち漸卦なり。君子は之に取法して、因りて賢德の士を安置し、民間の風俗を改善せん。」山上に樹木生長す、徐〻に養育して以て材を成すを得、青葱の細苗より合抱の大樹に長じ到るまで、必ず其の漸進の過程有らん。君子は祿位を用ゐて賢能有德の士を安置し、及び天下の風俗を教化引導し、人心をして禮義に歸せしむるも、亦た必ず皆循序漸進して、急遽に成を求め可からざるなり。堯の舜を任用するや、尚且つ種〻の艱難の事を以て反復して彼を考驗す、賢德の人は驟かに提拔する能はざるを見るべし。孔子に善人相繼いで國を治むる百年にして、乃ち以て殘暴に戰勝し刑殺を廢除す可しと言ふは、風俗は一朝にして改易する能はざるを見るべし。

初六:鴻漸于干,小子厲,有言,無咎。曰:小子之厲,義無咎也。漸之六爻皆以鴻為。鴻,水鳥也,能知進退者,陵陸非其所安也,江湖之上是其所棲息也。乾,水涯也,將離乎陵陸而近水涯,雖其進有漸,然猶未免矰繳之患,故其勢不得不危懼也。小子,未有所識之稱,非小人也。六以柔弱而處卦下,有小子之象,若隨之六二係小子,能隨人而巳,豈能達乎進退之幾?故危懼而不自安也。居漸之初,宜棲息以俟時可也,眾雖有言,在已無愆,何足哉?度之於義,無可咎者,故象曰小子之厲,義無咎也。

初六の爻辞に言う。「鴻雁漸〻として水邊に飛落す、年幼の人危險有り、責難を招來する有れど、然れども過錯無し。」『象傳』に言う。「小子の厲は、義理の上に於て言へば過錯無きなり。」漸卦の六爻は皆鴻雁を拿りて象と爲す。鴻は水鳥にして、進退の節を懂得する能くする者なり。丘陵高地は其の安身する所に非ず、江湖水面こそ其の栖息する所なり。「乾」は水邊を指し、鴻雁は將に丘陵を離れて水涯に接近せんとす、其の前進は循序なると雖も、然れどもなほ射獵繳絲の患を免れ難し、形勢上心に危懼を懷かざるを得ず。「小子」は未だ事理に通達せざるの年輕人に對する稱呼にして、並び小人を指すに非ず。初六は柔弱の質を以て全卦の最下に居り、小子の象有り。譬えば『隨卦』の六二に「小子に繫ぐ」と言うが如く、ただ別人に隨從する能くするのみ、豈に進退の幾微に通達せんや。だから危懼して自安する能はず。漸進の開端に處りて、本應に心を安くして栖息して以て時機を等待すべし。衆人に責難の話有りと雖も、己が身に於ては並び過失無し、又た何の憂慮か有らんや。道理を拿りて衡量すれば、責怪す可き何も無し、だから『象傳』に「小子の厲、義咎無きなり」と曰う。

六二:鴻漸于盤,飲食衎衎,吉。曰:飲食衎衎,不素飽也。盤,石之盤旋於水中者,比之於乾,則離乎陵陸逺矣,故飲食衎衎,和樂而無意外之患,猶賢者進而得祿位也。二處人臣中正之位,上有剛健之主為已正應,故身安而爵祿可保也。象言飲食衎衎不素飽者,人臣遭時遇主,進而得正,履而得中,必將有以濟天下,故食人之祿則懐人之憂,衣人之衣則思人之患,豈竊位素餐以飽其身、肥其家而巳?此又聖人致其戒慎之意也。

六二の爻辞に言う。「鴻雁漸〻として水中の磐石に飛落し、飲食和樂にして、吉祥なり。」『象傳』に言う。「飲食和樂は、並び徒に飯を食ふに非ず。」「盤」は水中に盤踞するの大石なり。水邊と相比較すれば、磐石は丘陵高地を離るること已に遠し、だから能く飲食和樂にして安然として意外の患無し、譬えば賢者の身を進めて俸祿官位を得るが如し。六二は身人臣中正の位に處り、上に剛健の君主有りて之と正に相應ず、だから身家安穩にして爵祿保つ可し。『象傳』に「飲食衎衎、素飽ならざるなり」と言う。臣子として好時世に遇ひ、好君主に逢へば、身を進めて其の正を得、位に居りて其の中を得れば、便ち定めて作為有りて以て天下を救濟せざる可からず。だから人家の俸祿を食へば便ち人家の爲に憂を分かち、人家の衣服を穿てば便ち人家の爲に禍患を想到せざる可からず、怎んぞ官位を竊據し俸祿を白食し、ただ己が飽食・自家富足を求めるのみに止まるを以てせんや。これ又た聖人の反復して其の戒慎の意を致すの處なり。

九三:鴻漸于陸,夫征不復,婦孕不育,凶,利御冦。曰:夫征不復,離群醜也;婦孕不育,失其道也;利用御冦,順相保也。鴻隨陽往來。《爾雅》曰:髙厚曰陸。陸非鴻之所宜安也,漸進於陸,雖若可安,然非其所樂也,故以夫之征而不復、婦之孕而不育也。九三陽剛不能漸進,徵者未有不思復,孕者未有不思育,然失於急躁,不能待時而動,則二者皆不其志,不其志,凶可知矣。利用御冦者,四三相比,同心不違,故利用御冦,如蒙之上九不利為冦、利御冦,蓋為冦則眾之所違,御冦則眾之所助,與此體異而義同也。

九三の爻辞に言う。「鴻雁漸〻として高平の地に飛到し、夫遠征して再び返らず、婦人懷孕して而も孩子を養活する能はず、凶險有り、盜寇を抵御するに利有り。」『象傳』に言う。「夫征して復たずは、同類を脫離するなり。婦孕みて育せずは、其の正道を失ふなり。用ゐて寇を御ぐに利ありは、上下順從して互に保全するなり。」鴻雁は陽氣に隨ひて往來遷徙す。『爾雅』に言う。地勢高くして厚きを「陸」と曰ふと。高平の地は鴻雁の宜しく安身するの所在に非ず。漸〻として陸上に進むは、看れば以て安居す可きに似たれど、實は並び其の喜歡する所に非ず、だから象を取りて夫の遠征して返らず、婦人の懷孕して育さずと爲す。九三は陽剛太盛にして、能く循序漸進する能はず。出征の人は家に歸るを想はざる無く、懷孕の人は養育せんと想はざる無し、ただ急躁に失して時機を待ちて動く能はざるを因りて、結果兩者皆其の心願を遂げる能はず。心願遂げずれば、凶險は想ひて知る可し。「盜寇を抵御するに利有り」と曰うは、九三與六四相鄰比して同心にして相違背せざるを以てなり、だから共に寇を御ぐに宜し。『蒙卦』の上九に「寇を爲すに利あらず、寇を御ぐに利あり」と言うが如く、寇を爲せば便ち衆人に背棄せられ、寇を御げば便ち衆人の相助を得――兩卦の卦體不同なれど而も義理は一樣なり。

曰夫征不復離群醜也,九三以剛陽獨進於上,離乎群眾,故往而不能反也。婦孕不育失其道也,婦以貞順為徳,生育為功,孕而不育,不能保養其子,皆欲速之咎也。利用御冦順相保者,天下之理,逆則相違,順則相保。三雖失於剛暴,言能順於義理,則可用以御冦也。黥、彭之流,逆則為敵,順則為用,卒滅項氏者,能順以相保也。

『象傳』に「夫征して復たずは群醜を離るるなり」と言う。九三は剛陽の質を以て獨り上に向ひて冒進し、群衆を脫離す、だから往きて而も返る能はざるなり。「婦孕みて育さずは其の道を失ふなり」と言う。婦人は貞靜柔順を以て德と為し、子女を生育するを以て功と為す。孕みて而も養活する能はざれば、己が孩子を保育する能はず、此れらは皆快を求めて急ぎ過ぐるの過失なり。「用ゐて寇を御ぐに利あり、順にして相保たるなり」と言う。天下の道理は、相逆すれば便ち彼此背離し、相順すれば便ち彼此保全す。九三は剛猛暴躁に失すると雖も、然れどもただ能く義理に順從せば、便ち以て彼を用ゐて外寇を抵御す可し。黥布・彭越の此の一類の人の如し、彼と爲に敵すれば便ち勁敵なり、其の性に順ひて而も任用を加へれば便ち助力と成る。最終に項羽を消滅せしは、正に漢高祖の能く其の性に順ひて之と相保せるを以てなり。

六四:鴻漸于木,或得其桷,無咎。曰:或得其桷,順以巽也。木比之陵陸,益非鴻之所安,此漸卦以鴻君子之進退,當以其漸而不可亟也。江湖,鴻之所樂處也;陵也、陸也、木也,雖愈進而愈非所安,此知幾之士所以難進易退,以避矰繳之患也。鴻漸于木,雖非所安,或得其桷,若可以棲而無患,故無咎也。桷,木枝之大者。曰或得其桷順以巽者,鴻未有棲於木者,或得其桷,非其常也。四體在巽,巽為木,三附於四,桷之也。君子立人之朝,履富貴之危機,能以巽順承上而接下,可以少安,然終非其處也,仲尼於此爻寓戒深矣。

六四の爻辞に言う。「鴻雁漸〻として樹木に飛上り、或いは一根の平直の枝幹を尋得して、過錯無し。」『象傳』に言う。「或いは其の桷を得るは、柔順にして卑巽なるを以てなり。」樹木は丘陵高地と相比べて、益〻鴻の安んずる所に非ず。漸卦は正に鴻雁を用ゐて君子の進退を比喻す、應に循序にして而も急躁す可からざるなり。江湖は鴻雁の樂意に栖止するの處所なり。丘陵・高地・樹木は、愈〻上に往けば愈〻其の安適なる所に非ず――此れ正に幾微に通達するの士人の進取に難く退避に易き所以、用ゐて射獵繳絲の患を躲開するの道理なり。鴻雁は樹木に飛上るは、安身の地に非ずと雖も、若し碰巧に一根の平直の枝幹を得れば、似たり以て栖息して患無き可し、だから過錯無し。「桷」は樹枝の中の粗大平直なる一根なり。『象傳』に「或いは其の桷を得る、順にして巽なり」と言う。鴻雁は本より樹上に栖する者無し、偶〻平直の枝幹を得るも、亦た常態に非ず。六四の體は巽に在り、巽の取象は木と爲し、九三は六四の下に附著す、正に「桷」の形象なり。君子は人主の朝廷に立身し、富貴の此の危險の機括の上に踏みて、能く謙順の道を以て上に君主を承け、下に同列に接すれば、以て些か安穩を得る可し、然れども終に久留の處に非ず。孔子の此の一爻の裡に寄寓する所の告誡は甚だ深し。

九五:鴻漸于陵,婦三不孕,終莫之勝,吉。曰:終莫之勝吉,得所願也。九五君位,其進益髙,故以鴻漸于陵。大阜為陵,同人九三曰升其髙陵,言其所處最髙而不可陵也。五與二得君臣中正之位,三以陽剛而乘於二,四以大臣而比於五,二五雖應而未能遽合也,故三不孕。君臣以中正相與,茍志同道合,其孰能間之?故曰終莫之勝吉也。

九五の爻辞に言う。「鴻雁漸〻として高陵に飛到し、婦人三年孕まず、然れども終に彼らに勝つ能くする無し、吉祥なり。」『象傳』に言う。「終に之に勝つ莫くして吉は、願を得て償ふを得るを言うなり。」九五は君位にして、鴻雁の進む所の處益〻高し、だから象を取りて「鴻漸〻として陵に於り」と爲す。大きの土山を「陵」と曰ふ、『同人』の九三に「其の高陵に升る」と言うは、處する所最高にして人の凌駕する能くする者無きを言うなり。九五與六二は各々君臣中正の位を得る。九三は陽剛を以て六二に凌乘し、六四は大臣の位を以て九五に親比す。二與五は相應ずと雖も、然れども一時能く順利に結合する能はず、だから三年孕まざるの象有り。君臣は中正の道を以て相交はり、ただ志同道合せば、誰か彼らを離間する能はせんや。だから「終に之に勝つ莫し、吉」と曰う。

夫君臣之交,患在不正,故近不必比而逺不必乖,特在情志之間合與不合耳。言終莫之勝吉得所願者,小人之害君子,或能阨之於始;君子之進,固自有機,時茍當進,小人雖廣設坑穽,比力合謀,莫能陷害之。小人不能陷害,則君子之道亨,而平昔之志願矣。

それ君臣の交はりは、患は正ならざるに在り、だから相距る近きは未だ必ずしも親密ならず、相隔たる遠きは未だ必ずしも乖離ならず、特に情志の間の合か不合かに在るのみ。『象傳』に「終に之に勝つ莫くして吉は、願を得る所なり」と言う。小人の君子を陷害するは、或いは能く開始の時に於て彼を困阻するを得るも、然れども君子の進用は自から時機有り、時勢若し應に進用せらるべく當れば、小人は縱い廣く陷阱を設け合力同謀すとも、亦た能く彼に加害する能はず。小人は加害する能はざれば、則ち君子の道は通行して阻礙無く、平生の志願も亦た得償せらるるなり。

上九:鴻漸于陸,其羽可用為儀,吉。曰:其羽可用為儀吉,不可亂也。上九,大臣之處乎髙位而不任事者,特其形容可為朝廷羽儀耳。鴻飛,弋者何慕?既出乎事外,小人莫得而害之,故吉也。上與三皆稱陸,人臣致身於極髙之位,能自卑巽,下與三同,蓋盡乎屈伸之理,所以吉也。曰其羽可用為儀吉不可亂者,其形容既足以儀表天下,則朝廷之上,百執之眾,尊卑有別,上下有等,雖群而不黨,故曰不可。

上九の爻辞に言う。「鴻雁漸〻として高陸に飛到し、其の羽毛は以て儀飾と爲す可し、吉祥なり。」『象傳』に言う。「其の羽以て儀と爲す可くして吉は、朝廷の秩序紊亂す可からざるを言うなり。」上九は高位に身居して而も實際の職事を擔はざるの大臣にして、ただ其の儀容風采は以て朝廷の表率を充當す可きのみ。鴻雁は冥冥の中に高飛すれば、射獵の人は又た何の指望する可き有らんや。彼は既に事外に置身せば、小人は便ち加害するに從る無し、だから吉祥なり。上九與九三は皆「陸」と稱すは、人臣の己を極高の位に置きて、而も能く己を卑下に居し謙遜自處し、九三と一樣、屈伸の道理に透徹したりと謂ふ可きを以てなり、だから吉祥なり。『象傳』に「其の羽以て儀と爲す可くして吉、亂る可からざるなり」と言う。其の儀容は既に以て天下の表率と爲すに足れば、則ち朝廷の上・百官衆吏の間に、尊卑分別有り上下等級有り、群に合すと雖も而も黨を結ばず、だから「亂る可からず」と曰う。

歸妹卦(兌下震上)

兌下震上。歸妹:征凶,無攸利。聖人於夫婦之際,毎存終始之義,始之不慎而能克終者鮮矣。女少而說,男之所以動也;說不以正,動不以禮,則華落色衰,復相棄背,故征凶無攸利也。征凶者,以媚說而往則凶也;無攸利者,無所往而利也。漸之所以吉者,艮止巽順,以男能下女也;歸妹征凶者,兌說震動,六爻皆不當其位也。咸之相感,必繼以恆,蓋男下女則陰陽之義明,女從男則尊卑之位定,所以存鑑戒也。

歸妹卦の下體は兌、上體は震なり。卦辞に言う。「歸妹、往けば凶有り、利益する所無し。」聖人は夫婦の際に於て、毎に終始の義を存す。始めを愼まずして能く終を克くする者鮮し。女子年少にして心に喜悅を生ずるは、男子の之が爲に情を動かすの緣由なり。喜悅正より出でず行動禮に合せざれば、花殘し色衰ふるに及びて、便ち彼此背棄すらん、だから「征凶、攸に利あらざるなり」と曰う。「征凶」は悅び取りて好むに憑りて往けば必ず凶險有るを言うなり。「无攸利」は何れの處に往くを論ぜず好處を得ざるを言うなり。『漸卦』の吉利なる所以は、下に艮止して上に巽順し、男子能く己を屈して女子の下に居ればなり。『歸妹』の征凶なる所以は、下に兌悅して上に震動し、六爻又た皆其の位に當らざればなり。『咸卦』は男女相感ずるを講じ、後面必ず『恒卦』を以て接ぐ。男子己を屈して女子の下に在れば、陰陽交感の義便ち明白なり。女子は男子に順從すれば、尊卑の名分便ち確定す――聖人の此の如く安排するは、正に鑑戒を留下せんが爲なり。

彖曰:歸妹,天地之大義也。天地不交而萬物不興,歸妹,人之終始也。說以動,所歸妹也;征凶,位不當也;無攸利,柔乘剛也。乾健而坤順,陽尊而陰卑,此天地之大義也。然乾下坤上而為泰,乾上坤下而為否,若嚴其分位,則天地不交而萬物不興矣。歸妹以少女在下而長男處上為正,故其事可常而有終始也。女說而男動,陰陽感悅,所以成歸妹;若老婦士夫,則可丑矣。雖然,女子處幽閒之中,非有求焉則不往也;若說以動,則有不待媒妁之言者,故陰陽之位不可不當也,不當則所往皆凶矣。

『彖傳』に言う。「女を嫁がすは、天地間の大道理なり。天地交合せざれば、萬物興起する能はず。女を嫁がすは、人倫の終結與開始に關係す。喜悅に因りて行動せば、嫁がす所は少女なり。往けば凶有るは、位置當らざるなり。利益無きは、柔爻の剛爻に凌乘するなり。」乾は剛健にして坤は柔順、陽は尊貴にして陰は卑下、これ天地間の大義なり。然るに乾下に在り坤上に在れば却って『泰卦』と成り、乾上に在り坤下に在れば却って『否卦』と成る。若し一味に尊卑分位を死守せば、天地便ち交合せず、萬物も亦た興起する能はざらん。歸妹卦は少女下に居り長男上に居るを以て正と爲し、だから此の事は以て長久にして始終有らん。女子喜悅し男子行動し、陰陽彼此感悅し、因りて嫁娶を成就す。若し老婦の少夫に配するは、則ち羞づ可きなり。然りと雖も、女子は深閨の中に安處し、來聘する者有るに非ざれば便ち往かざるなり。若しただ一時の喜悅に憑りて行動せば、便ち媒妁の言を待たずして私に相結合するの事有らん、だから陰陽の位次は正當ならざる能はず。位次當らざれば、往く所は皆凶險有らん。

女處乎下,男位乎上,內外上下各當其位,以往則無不吉也。今二四陰爻而九居之,三五陽爻而六居之,無一當其位者,故以往則凶也。無攸利柔乘剛也,剛者,柔之所承也,而反乘之;乘者,婦陵其夫之象也。卦體兌本在下,於理為順,而爻六皆乘九,是以陰而乘陽,失尊卑之序,內無柔順之道,外失陽剛之徳,則害於而家,凶於而國,何所利哉?夫成家之道,必資於婦順,故婦順備而後內和理,內和理而後家可長久也。

女子は下位に處り、男子は上位に居り、內外上下各々其の位に當れば、此の如く往けば吉利ならざる無し。今歸妹卦は第二・第四は本より陰位にして而も陽爻之に居り、第三・第五は本より陽位にして而も陰爻之に居り、一爻として位に當る無し、だから往けば便ち凶險有らん。「攸に利あらず、柔剛に乘るなり」。剛爻は本より柔爻の應に承奉すべき所にして、今却って其の上に凌駕す。所謂「乘」は、正に妻子の丈夫を欺凌するの象徵なり。卦體に就きて言へば、兌は本より下に在り、道理に按ずれば柔順なるも、然るに爻位の上に陰爻は皆陽爻に凌乘す、これ陰を以て陽に陵するにして、尊卑の次序を失ふなり。內に於て柔順の道無く、外に於て陽剛の德を失へば、則ち汝が家を危害し汝が國を禍亂して、又た何の好處か有らん。家を成すの道は必ず婦人の柔順に依靠せざる可からず、だから婦順具備して然る後に家內和睦して條理有り、家內和睦して條理有りて然る後に家道乃ち能く長久ならん。

恆之六五曰:恆其徳貞,婦人吉,夫子凶。曰:婦人之吉,從一而終也;夫子制義,從婦凶也。恆者,夫婦之正也,故其戒如此。然則陰之乘陽、柔之乘剛,豈非逆徳也哉?世之悍婦,以制夫為能,使不得措其手足,是猶強臣擅命,威福自專,反制其君也。漢成帝制於趙氏,唐髙宗制於武氏,中宗制於韋氏,卒至滅身亡國,何所利哉?況以帝女之尊而下嫁諸侯,車服不繫其夫,勢固足以陵其夫矣,故聖人于歸妹為戒。

『恒卦』の六五の爻辞に言う。「其の德を恒にして貞にせば、婦人は吉利にして、男子は却って凶有り。」『象傳』に言う。「婦人の吉なる所以は、一より終るに從ふを以てなり。男子は事理を裁斷すべく、一味に婦人に順從せば便ち凶有るなり。」『恒』の講ずる所は正に夫婦の常道なり、だから其の告誡此の如し。既に此の如くなれば、則ち陰の陽に凌乘し、柔の剛に凌乘するは、豈に違逆の德ならざらんや。世上の凶悍の婦人は、丈夫を制服するを以て能事と爲し、丈夫をして手足措く處無からしむ、これ譬えば強橫の臣子の擅自に號令を發し威福を專擅し、反つて其の君主を鉗制するに同じ。漢成帝は趙飛燕姉妹に受制し、唐高宗は武后に受制し、唐中宗は韋后に受制し、終に身死し國亡びたり、何の好處か有らん。況んや帝王の女の尊貴を以て諸侯に下嫁するに、車馬服飾は丈夫に隸屬せず、其の勢い本より以て丈夫に凌駕するに足る、だから聖人は『歸妹』の一卦の中に特に鑑戒を立下せり。

曰:澤上有雷,歸妹。君子以永終知敝。澤之氣能升而為雲,雷震而澤隨,此陰陽相感之義,有歸妹之象焉。男女以動悅相感,或失於不正,故昏禮將合二姓之好,必納采問名,敬慎重正,而後親之,如此然後家可長久也。聖人見微知著,見其動而說,知其不能終也;若恆以巽而動,則知其能久;漸以止而動,則知其終吉也。是道也,雖君臣朋友之間,莫不皆然,豈特夫婦哉?

『象傳』に言う。「澤の上に雷聲響くは、これ即ち歸妹卦なり。君子は之に取法して、因りて婚姻をして善終せしめ、并せて其の中の敗壞し得べきの處を豫知す。」澤中の水氣は能く上升して雲と爲り、雷一たび震動すれば澤水便ち之に隨ひて相應ず、これ陰陽互相感應の意思にして、其の中に女を嫁がすの象を含む。男女は一方の行動・一方の喜悅に因りて彼此感應し、往〻にして正ならざるに失す、だから婚禮は兩姓の好を締結するに於て、必ず納采・問名の禮を行ひ、恭敬愼重にして鄭重其の事と爲し、然る後に乃ち迎娶す。此の如くして家道乃ち能く長久ならん。聖人は微を見て著を知る。『歸妹』は動に因りて悅ぶを見れば、便ち其の善終する能はざるを知り、『恒卦』は柔順して然る後に行動するを見れば、便ち其の能く長久なるを知り、『漸卦』は內に止まりて然る後に行動するを見れば、便ち其の終に吉利に歸するを知る。此の道理は、縦い君臣・朋友の間に於ても亦た此の如くならざる無し、豈に止まりて夫婦のみならんや。

初九:歸妹以娣,跛能履,征吉。曰:歸妹以娣,以恆也;跛能履吉,相承也。古者諸侯一娶九女,嫡夫人及左右媵皆以侄娣從。歸妹以娣,女歸於人而以娣從也。九居於初,女之賢者始進而能謙,無妬忌之行,猶跛之能履,勉強而行,歩驟馳騁不敢自恣也。歸妹而能以娣往,為永終長久之道,尊卑相承,故無往而不吉也,此歸妹之善者也。

初九の爻辞に言う。「女を嫁がして妹妹をして陪嫁せしめ、跛脚の人も亦た能く行走し、往けば吉利なり。」『象傳』に言う。「歸妹娣を以てすは、常道を守るなり。跛にして能く履みて吉は、上下彼此承奉するなり。」古の諸侯は一たび娶れば九女なり、嫡夫人及び左右の兩位の媵妾は皆各々侄女・妹妹を帶びて隨嫁す。所謂「歸妹娣を以てす」は、即ち女子の別人家に嫁ぐに而も妹妹に由りて陪嫁するなり。陽爻は初位に居り、女子の中の賢德なる一個を象徵し、始めて門に入るや便ち能く謙讓して、嫉妒の行爲無し、譬えば跛脚の人の能く走路するも、勉力して行きて、快步慢步と論ぜず皆放肆を敢えてせざるが如し。女を嫁がして而も能く妹妹に陪嫁して同往せしむるは、これ婚姻をして善始善終し長久維持するの道なり、尊卑上下彼此承奉し、だから往かざるにして吉ならざる無し、これ『歸妹』卦の中の最好の一爻なり。

九二:眇能視,利幽人之貞。曰:利幽人之貞,未變常也。履之六三以陰柔而據陽位,故如眇者之能視,不足以有明也;跛者之能履,不足以與行也,故如履虎尾,咥人凶。歸妹初九、九二以陽剛而寓於陰位,此婦人之貞吉也。二又居中履正,有常貞之徳,退處乎不競之地,雖若無所能為,如眇之能視,異乎摘埴索塗、行而已,故利幽人之貞。九二得中正之位,上有六五為之正應,此又夫弱而婦強者,能自謙遜,乃不失婦人之常道也。

九二の爻辞に言う。「一目失明すと雖も而もなほ能く看る、幽靜自守の人の正しきを守るに利有り。」『象傳』に言う。「幽人の貞に利ありは、常道を改變せざるを言うなり。」『履卦』の六三は陰柔の質を以て陽位に占據す、だから獨眼の人の能く看ると雖も而も看ること分明ならず、跛脚の人の能く走ると雖も而も人と同行する能はざるが如く、因りて虎尾を踏みて、虎に咬傷せられて凶有り。『歸妹』の初九與九二は則ち陽剛の質を以て陰位に寄居す、此れ正に婦人の正を守りて吉を得るの象なり。九二は又た中に居りて正を行ひ、恒久貞固の德を具備し、人と相爭はざるの地位に退處し、看れば作為無きに似たれど、其の實は一目失明の人のなほ能く東西を看るに同じく、彼の杖を拿りて地を點し道路を摸索して昏黑の中に盲行するの人と大いに相同じからず、だから幽靜自守の人の正しきを守るに利有り。九二は中正の位を得、上に六五有りて之と正に相應ず、これ又た丈夫柔弱にして妻子強勢なるの情形なり。能く己を謙遜に居せば、始めて妻子たるの常道を失はざるなり。

六三:歸妹以須,反歸以娣。曰:歸妹以須,未當也。歸妹以說而動,常失於不正,而六三復以陰柔而居陽位,故當有待而以娣行,如此乃能合禮而無妄動之失也。須,待也。女子之嫁,固當待父母之命、媒妁之言,而三為說主,以說而動,動不以正,則非女子之行也,故曰未當也。

六三の爻辞に言う。「女を嫁がして而も等待を須とし、回頭して來りてなほ陪嫁の身份を以て出嫁す。」『象傳』に言う。「歸妹須を以てすは、處する所の位置當らざるなり。」歸妹の一卦は喜悅に因りて行動するにして、常に正ならざるに失し、而して六三は復た陰柔の質を以て陽位に居り、だから應に等待有るべく、陪嫁の禮を用ゐて出行して、此の如くして乃ち禮制に合し、輕擧妄動の過失致らざらん。「須」は即ち等待なり。女子の出嫁は、本より應に父母の命令・媒妁の言辭を等待すべし。而して六三は兌悅の體の主爻にして、喜悅に因りて行動し、行動正より出でざれば、便ち女子の操行に合せず、だから『象傳』は它を「未だ當らず」と言うなり。

九四:歸妹愆期,遲歸有時。曰:愆期之志,有待而行也。女之適人,猶士之事君,必有求焉而後往。九以陽剛而寓陰柔之位,上無正應,此賢貞之女屏處幽閒,未遇良匹而不茍然以從人者,雖過期而不悔也。懐才抱義之士,固有不遇明時而老死丘壑者,白駒之詩所為作也。

九四の爻辞に言う。「女を嫁がして婚期を愆過し、遲〻出嫁するは自から其の時候有らん。」『象傳』に言う。「期を愆るの志は、時機を有待して然る後に出行せんとす。」女子の人に嫁ぐは、猶お士人の君主に事奉するが如く、必ず來聘する人有りて然る後に往くなり。九四は陽剛の質を以て陰柔の位に寄居し、上に正應無し、これ譬えば賢良貞靜の女子の深閨に屏居し、未だ好配偶に遇はざれば便ち隨便に人に嫁ぐを肯んぜざるが如し。婚期を過ぐると雖も亦た悔ひざるなり。才華と道義を懷抱するの士人は、本より清明の時世に遇はずして山林に老死する者有り、『詩經・小雅・白駒』は正に此の如きの人の爲に作れるなり。

六五:帝乙歸妹,其君之袂不如其娣之袂良,月幾望,吉。曰:帝乙歸妹,不如其娣之袂良也;其位在中,以貴行也。史謂湯為天乙,又有祖乙。多士稱成湯至於帝乙,罔不明徳恤祀,則帝乙蓋商之賢王,非天乙、祖乙明矣。堯降二女於溈汭,嬪於虞,帝女之尊,下嫁諸侯,其來已久,至帝乙然後制為婚姻之禮,而周因之。以詩考之,天子之女下嫁諸侯,車服不繫其夫,下王后一等,故帝乙歸妹,所以為萬世之法也。漢唐公主下嫁,舅姑率北面於堂下,至於本朝神宗,始復三代之舊,屈帝女之尊而人倫正矣。

六五の爻辞に言う。「帝乙女を嫁がす、正夫人の衣袖は陪嫁妹妹の衣袖に如かずして華美なり、月將に圓ならんとして未だ滿たず、吉祥なり。」『象傳』に言う。「帝乙女を嫁がす、其の君の袂は其の娣の袂の良なるに如かず。其の處する所の位中に居り、尊貴の身を以て出嫁するなり。」史書は商湯を「天乙」と稱し、商代又た「祖乙」有り。『尚書・多士』に成湯より直に帝乙に至るまで、德行を修明し祭祀を謹愼せざる無しと言ふを以て、帝乙は商代の賢王にして、顯然として既に天乙に非ず、亦た祖乙に非ざるを見べし。堯は兩個の女兒を嬀水・汭水の濱に下嫁し、虞舜の妻子と爲せり。帝王の女の尊貴の身を以て諸侯に下嫁するは、由來已に久しく、帝乙に到りて始めて此が爲に婚姻の禮を制定し、周朝之に沿襲せり。『詩經』を用ゐて考察するに、天子の女兒の諸侯に下嫁するは、車馬服飾は丈夫に隸屬せず、ただ王后より一等を低うするのみ、だから「帝乙歸妹」は萬世の法則と成れり。漢・唐の公主の下嫁には、公婆は大抵堂下に於て北に向ひて行禮せざる可からず。本朝神宗に到りて、始めて三代の舊制を恢復し、帝女をして其の尊貴の身を屈降せしめ、是に於て人倫始めて正に歸せり。

詩美后妃服浣濯之衣,無妒忌之行,豈恃容色以爭妍取媚哉?君,嫡夫人也;娣,左右媵也。娣以容色為主,故君之袂不如娣之袂良也。六五與九二為正應,下嫁之象也。女處尊位,履順居中,盡其陰陽交配之宜,斯善之善者,豈特容服之間哉?月者,日之配也;婦者,夫之配也。月受日以為明,至望則體敵矣,體敵,盈之極也,未有盈極而不虧者。今能降尊配卑,不以滿盈自處,如月至幾望而止,婦之謙順,既不抗其夫,又能惠其下,此帝女之尊而能履中道者,故曰其位在中,以貴行也。

『詩經』は后妃の浣濯の衣を服し、妒忌の行爲無きを讚美す、豈に容貌姿色に恃みて以て艷を爭ひ媚を取らんとする者ならんや。「君」は正夫人を指し、「娣」は左右の陪嫁の媵妾を指す。媵妾は容貌姿色を以て長と爲す、だから正夫人の衣袖は却って媵妾の華美に如かず。六五與九二は正に相應じ、正に下嫁の象なり。女子は尊位に身居し、行事柔順にして中に居りて偏らず、陰陽配合の合宜の道を盡くせば、此乃ち好中の好なり、豈に止まりて容貌服飾の間に於て高下を較量せんのみならんや。月は太陽の配偶にして、妻子は丈夫の配偶なり。月は日光を承受して乃ち光明有り、望日に到れば便ち太陽と形體相當す。形體相當すれば、便ち盈滿の極點にして、從來盈滿極點に到りて而も虧損せざる者有らず。今彼女は能く尊貴を屈降して以て卑者に配合し、盈滿を以て自居せず、譬えば月の將に圓ならんとして未だ滿たざる時に到りて便ち止住するが如し。妻子たるの謙遜柔順、既に丈夫と抗衡せず、又た能く下人に恩惠を施す、此れ正に帝王の女の尊貴なると雖も而も能く中道を行ふの表現なり、だから「其の位中に在り、貴を以て行ふなり」と曰う。

上六:女承筐無實,士刲羊無血,無攸利。曰:上六無實,承虛筐也。上六歸妹之終,以柔乘剛而下無其應,女之無所歸者。婦以奉祭祀為職,詩言夫人可以奉祭祀,則不失職矣。女承筐無實,何以達其誠?士刲羊無血,何以薦於幽?如是而家道廢矣,故以士女稱之,見夫婦之道不成也。卦體兌下震上,少女以說而動,動不以正,又六爻位皆不當,故不能永終而有離絶之,何以往而利哉?聖人於終爻致其戒慎之意深矣。

上六の爻辞に言う。「女子の捧ぐる所の竹筐の裡空しくして一物無く、男子羊を宰るも而も血を見ず、利益する所無し。」『象傳』に言う。「上六の所有無きは、虛筐を捧ぐるなり。」上六は歸妹卦の終點に處り、柔爻を以て剛爻に凌乘して而も下に其の正應無し、正に女子の嫁ぐ可き處無きの象なり。婦人は祭祀を奉行するを以て職分と爲し、『詩經』に夫人は以て祭祀を奉行す可しと言ふは、則ち其の失職無きなり。女子の捧ぐる筐の中に祭品無ければ、何を憑りて以て其の誠意を表達せんや。男子羊を宰るに而も血を見ざれば、何を憑りて以て幽冥の中の祖先に進獻せんや。此の如くなれば家道便ち荒廢す、だから爻辞はただ「士」「女」と稱して而も夫婦と稱せず、夫婦の道は並び成立せざるを見るべし。卦體に就きて言へば、兌は下に在り、震は上に在り、少女は喜悅に因りて行動し、行動正より出でず、加ふるに六爻の位次皆當らず、だから能く善始善終する能はずして而も離散斷絕の患有り、往かば何れの處にか尚お利有りと談ずるを得んや。聖人は最末の一爻に於て反復して其の戒慎の意を致す、用心は甚だ深し。

豊卦(離下震上)

離下震上。豐:亨,王假之,勿憂,宜日中。離、震於時為春夏,萬物豐亨之時也。王者之治,自天造草昧以至豐而亨,則太平極盛,周家之業至成王之時是也,故曰豐亨,王假之。詩云假樂,嘉成王也,以言成王能持盈守成,以致太平之功,故嘉之也。文王若日月之照臨,顯於西土而巳;如日之方中,萬物皆照,則在成王之時,故可安亨佚樂而無憂勤之慮也,故曰勿憂,宜日中也。雖然,太平之業豈可恃乎?泰之上六言城復于隍,蓋泰之極無不否者。聖人所憂,不在乎未中,而常在日之既中,能知勿憂為有憂之大,如日之升,如月之常,則可長保其治安矣。

豊卦の下體は離、上體は震なり。卦辞に言う。「豊は亨通し、君王は此の境地に達到し、憂慮するを要せず、太陽の正午に當たるが如くに宜し。」離與震は時令の上に於て春夏に屬し、正に萬物豊盛亨通の時なり。王者の治世は、天地初開・草創蒙昧より一直に豊盛亨通に至るまでは、便ち太平の極盛なり。周朝の基業は成王の時に到りて正に此の如し、だから「豊亨、王之に假る」と曰う。『詩經・大雅・假樂』の一篇は成王を讚美するにして、彼の能く盈滿を保持し成業を守住し、因りて太平の功を成就するを言ふ、だから彼を嘉許す。文王の德澤は日月の照臨に同じく、然れどもただ西方の一隅に顯耀するのみ。太陽の正に中天に當たり、萬物照を受けざる無きが如くせんと欲せば、成王の時に到るを要す、だから以て安享逸樂して而も憂勞の顧慮無き可し、因此に「憂ふる勿かれ、日中に宜し」と曰う。然りと雖も、太平の事業は豈に以て依恃す可けんや。『泰卦』の上六に「城牆傾覆して城壕の裡に回復す」と言う、泰は極處に到りて否に轉ぜざる無きを見るべし。聖人の憂慮する所は、太陽のなほ正午に到らざるに在らずして、而も常に太陽の已に正午を過ぐるの時に在り。能く「憂慮するを要せず」を懂得するは正に最大の憂慮なり、旭日東升・明月長明の如く戒慎已まざれば、乃ち以て長く治世の安定を保つ可し。

彖曰:豐,大也。明以動,故豐。王假之,尚大也。勿憂宜日中,宜照天下也。日中則昃,月盈則食,天地盈虛,與時消息,而況於人乎?況於鬼神乎?豐固不止於大,聖人以一言斷之曰大,蓋豐之時,物得極其大也。日以晅之,雷以動之,長養成就,物之所以能大也。王者之治,能體乎離震之法,明以動,故能假乎至治,然則豐亨之道,豈非聖王之所尚乎?故曰王假之,尚大也。

『彖傳』に言う。「豊は即ち大なり。光明有りて而も又た能く行動すれば、だから能く盛大なり。君王此の境地に達到するは、盛大を崇尚するなり。憂慮するを要せずして日中に宜しきは、應に天下を普照すべきを言うなり。太陽は正午に到れば便ち偏斜し、月は圓滿すれば便ち虧蝕す。天地の盈滿與空虛は、なほ尚且つ時令に隨ひて消長す、況んや人をや、況んや鬼神をや。」「豊」の含義は本より「大」のみに止まらず、聖人は一個の字を用ゐて之を「大」と斷定するは、豊の時に處れば、萬物皆其の盛大を極盡する能はればなり。太陽は來りて之を晒暖し、雷霆は來りて之を鼓動し、長養成就す、これ即ち萬物の盛大なり得る所以の緣由なり。王者の天下を治理するに、能く離與震の法則を體察し、既に光明にして又た能く行動すれば、だから能く極治に達到す。此の如く看れば、豊亨の道は豈に正に聖王の推崇する所ならざらんや。だから「王之に假る、大を尚ぶなり」と曰う。

勿憂宜日中,宜照天下也。聖人之道,如日之中,容光所及,無不徧也。蓋日之始出,則其明未盛;日之將昃,則其光巳虧,皆不能徧天下也。然則聖人可以自暇自者,其惟日中乎?日中者,治安極盛,是聖人畏無難之時也。日之中猶月之望也,既中無不昃,既望無不虧,食,虧也。天地盈虛,四時是也,其盈其虛,因時而消息之,如復卦陽息而陰消,至姤卦陽消而陰息,天地不能違也,而況於人與鬼神乎?雖然,人有盛衰,鬼神亦有盛衰乎?聖人通幽明之故,知鬼神之情狀,乾卦言天地人及鬼神,皆合而論之,其好惡一也。怪神之事,孔子不以語學者,後世猶不免依託以亂天下,況可明告之乎?此非通乎性命之理、數之妙者,曷足以究此哉?

「憂慮するを要せずして日中に宜しきは、應に天下を普照すべきを言うなり」。聖人の道は、日の中に在るが如く、容光の及ぶ所、遍からざる無し。蓋し日の始めて出づれば、則ち其の明未だ盛ならず。日の將に昃れんとすれば、則ち光輝已に虧損せり、皆能く天下を遍照する能はず。此の如く言へば、聖人の以て稍稍自寬自逸す可きは、蓋しただ日中の時のみか。所謂日中は、即ち治世安定して極盛に到るにして、而して此れ正に聖人の「天下難無き」を畏懼するの時なり。太陽の正午は、猶お月の望日の如くなり。已に正午に到りて偏斜せざる無く、已に望日に到りて虧損せざる無し、「食」は即ち虧なり。天地の盈滿與空虛は、四時の更替即ち明證なり。其の盈・其の虛は皆時令に隨ひて消長す。『復卦』は陽氣生長して陰氣消退するが如く、『姤卦』に到れば則ち陽氣消退して陰氣生長す、天地も亦た違背する能はず、況んや人與鬼神をや。然りと雖も、人に盛衰有れば、鬼神も亦た盛衰有らんか。聖人は幽明の緣故に通曉し、鬼神の情實狀貌を知る。『乾卦・文言』は天・地・人及び鬼神に講及して、皆合せて一つにして立論す、それらの好惡は一致するなり。怪異鬼神の事は、孔子は之を拿りて學生に對して講せず、後世なほ尚且つこれを假託して以て天下を惑亂するの人有るを免れず、況んや明白に彼らに告げるをや。これ通達性命の理・精於象數の妙なるの人に非ざれば、何れの處にか能く窮究し盡くすを得んや。

曰:雷電皆至,豐。君子以折獄致刑。雷之威怒,電之照耀,二者相因而至,此物豐之時也。當豐盛之時,非有以警懼察治之,則物繁事彩,奸偽日滋,有不可勝治者矣。君子體此象以折獄致刑,既明且威,人之情偽有不能遁也。豐與噬嗑皆有雷電之,而爻有升降,故其用不同:噬嗑震下離上,此制法者,故明罰勅法,王者之事也;豐離下震上,此行法者,故折獄致刑,有司之職也。

『象傳』に言う。「雷與電一同に至るは、これ即ち豊卦なり。君子は之に取法して、因りて訟案を判決し刑罰を施行す。」雷の威怒・電の照耀、兩者相因りて至る、此れ正に萬物豊盛の時節なり。豊盛の時に處りて、若し人を警懼せしめ省察整治を加ふるの物無ければ、則ち物類繁多・事務紛雜にして、姦邪虛僞は一天天に滋長し、便ち治理し盡くさざるの禍患有らん。君子は此の一卦の象を體察して以て訟案を判決し刑罰を施行す、既に明察にして又た威嚴有れば、人々の真情假意は便ち隱遁するに從る無し。『豊』與『噬嗑』は皆雷電の象有り、ただ爻位に上下升降の不同有り、だから功用別有り。『噬嗑』は震下に在り離上に在り、彼は法度を制定するにして、だから「罰を明らかにし法を勅る」と曰う、これ王者の職事なり。『豊』は離下に在り震上に在り、彼は法度を執行するにして、だから「獄を折り刑を致す」と曰う、これ有司の職分なり。

初九:遇其配主,雖旬無咎,往有尚。曰:雖旬無咎,過旬。初正應在四,以陽敵陽,非其應也,特所配之主耳。剛陽相配,明動相資,力敵而勢均,兩貴不足相使,然得無咎者,初能下之,往而有所尚也,尚者,能尊尚之也。曰雖旬無咎過旬災也,二剛相遇,未有兩存而無傷者,初能推四以為配主而往歸之,則無患矣。若恃其智力,各務盛強,過其分量,不顧滿盈之戒,則禍災之至,何所逃乎?此昧乎處豐亨之道也,故曰雖旬無咎,過旬災也。

初九の爻辞に言う。「己と相配するの主人に遇上り、彼此均等なると雖も亦た過錯無し、往けば推崇を受けん。」『象傳』に言う。「旬なると雖も咎無し、旬を過ぐれば災有り。」初九の正應は九四に在り、然るに陽を以て陽に對すれば、本より正應を成さず、不過彼此相配の主人のみなり。兩個の剛陽互相匹配し、光明與行動互相憑藉し、力量相當にして勢位均等、兩個の尊貴の人は誰も彼を使喚し動かす能はず。然れども能く過錯無き所以は、初九の能く其の下に屈居し、往きて歸附して推崇する所有るを以てなり――「尚」は即ち能く對方を尊崇するなり。『象傳』に「旬なると雖も咎無し、旬を過ぐれば災なり」と言う。兩個の剛強の人相遇へば、兩相並存して而も損傷を受けざる者鮮し。初九は能く九四を推擧して以て相配の主と爲して往きて彼に歸附せば、便ち禍患無し。假如各々己が智力に倚仗し、一味に強を爭ひ勝を好み、己が分量を超過し、盈滿損を招くの告誡を顧みざれば、則ち災禍來臨の時に還た何れの處にか逃れんや。これ即ち豊亨の世に處るの道理を明白ならざるなり、だから「旬なると雖も咎無し、旬を過ぐれば災なり」と曰う。

六二:豐其蔀,日中見斗,往得疑疾,有孚發若,吉。曰:有孚發若,信以發志也。豐之時,如大明中天以徧照天下,今但豐其蔀而已,幽闇之甚,至日中見斗,陰侵陽之也。六二居中處正,人臣之盛位,又卦體為離而處震下,為掩覆之,陽不足而陰道行。斗運四時,人所取正,以六二中正之臣而遇六五柔闇之主,可以自守而不可以有為,往則為主所疑,而眾且疾之矣。能以忠信自處,發其疑疾,如成王之悔悟,則國家安全而保其終吉矣。發者,發其蒙蔽,非忠信誠實,豈能感發之?周公其人也。

六二の爻辞に言う。「遮蔽すること十分嚴密にして、正午の時分に却って北斗を見、往けば猜疑忌恨を招來し、ただ誠信有りて以て君心を感發せば、吉祥なり。」『象傳』に言う。「孚有りて發若は、誠信を用ゐて以て君主の心志を感發するなり。」豊の時に處りて、本應に太陽の空に當たりて天下を普照するが如くすべきに、今却ってただ遮蔽物を加厚するのみ、幽暗して正午に北斗を見るの地步に到るは、これ陰氣の陽氣を侵犯するの徵象なり。六二は中に居りて正を得、人臣の顯要の位に處り、而して卦體は離に屬して而も又た震の下に處り、掩蔽せらるるの形象と成れり、陽德足らずして陰道盛行す。北斗は運轉して以て四時を定め、人々の取正する標準なり。六二の如き中正の臣子を以てして而も六五の柔弱昏暗の君主に遇上れば、ただ自守する能くするのみにして而も作為有る能はず。一たび往けば便ち君主に猜疑せられ、衆人も亦た來りて忌恨す。若し能く忠信を以て自處し、君主の疑忌の心を化解開き、周成王の終に悔悟せるに同じくせば、則ち國家安全にして、亦た能く最後の吉祥を保住す可し。所謂「發」は、即ち君主の蒙蔽を啓發するなり。若し忠信誠實に非ざれば、怎んぞ能く彼を感動啓發せんや。周公は正に此の如きの人なり。

九三:豐其沛,日中見沬,折其右肱,無咎。曰:豐其沛,不可大事也;折其右肱,終不可用也。沛,先儒皆以為斾,王弼直云幡幔,所以御盛光,程氏亦云古文作斾字。今以廣韻玉篇考其意義,作滂沛則其理不通。蓋豐之時,當顯設幡飾以稱其豐大,而九三正應在上六,以陽剛而敵陰柔,不能發揮其光明,反幛蔽之,是猶日中盛明之時而處乎重幃之內,所見者闇昧,如人慾擊搏運動而折其右肱,何所施乎?

九三の爻辞に言う。「幡幔張ること甚だ大にして、正午の時分に却って小星を見、其の右臂を折斷す、過錯無し。」『象傳』に言う。「其の沛を豊ならしむは、以て大事を做す可からざるなり。其の右肱を折るは、終に用ふ可からざるなり。」「沛」の字は、先代の儒者は皆即ち「斾」(旗幡)と爲す。王弼は直に帷幔と言ひ、用ゐて強光を遮擋す。程頤も亦た古文は「斾」の字と寫すと曰ふ。今『廣韵』『玉篇』を拿りて其の義訓を考察するに、若し「滂沛」と解せば、道理は便ち講通せざるなり。蓋し豊盛の時に處りては、應に旗幡帷飾を張設して以て其の盛大を稱顯すべし。而して九三の正應は上六に在り、陽剛を以て陰柔に對し、能く己が光明を發揮する能はず、反つて遮蔽せられて住す、これ譬えば正午陽光最盛の時に而も身重重の帷幕の內に處り、見る所一片昏暗なるが如し。又た人の奮力搏擊せんと欲して而も右臂を折斷せるに似たり、還た何か施展する能くせんや。

然得無咎者,九三以陽剛能為之才而不遇其時,其不幸也,乃所以為大幸歟?古者明智之士遇時昏亂,壊徳行或自托於瘖盲跛蹇,然後能免於禍,此折右肱所以得無咎也。人臣遇暗主,若恃其剛健,欲大有為,功成之後,鮮克自全者,唐徳宗之於陸贄是也;折其右肱者,示不可復用,如司空圖是也。九三剛健,有可當大事之才,折其右肱,終不可用,則其時可知矣。

然るに終に過錯無きを得るは、九三は陽剛能幹の才具有りて而も其の時に遇はず、其の不幸なり、乃ち以て大幸と爲さんとする所以か。古の明智の士は昏亂の時世に遇へば、寧ろ己が德行聲名を敗壞し、或いは喑啞・失明・跛足を假託して、然る後に乃ち禍患を免るを得。これ即ち「右臂を折斷して」却って以て過錯無きを得るの緣故なり。臣子たる昏暗の君主に碰上れば、若し己が剛健に倚仗して大有爲せんと欲すれば、功成の後に到りて、己を保全する能くする者鮮し、唐德宗の陸贄に對待するや即ち此の如し。所謂「其の右肱を折る」は、己が已に堪へて再び用ゐられざるを表示自己するにして、唐末の司空圖の如し。九三は本より剛健の才にして、大事を擔當するの能力を具備すれど、然れども右臂を折斷し終身任用せられざるを要す、彼の時代の情形も亦た想ひて知る可し。

九四:豐其蔀,日中見斗,遇其夷主,吉。曰:豐其蔀,位不當也;日中見斗,幽不明也;遇其夷主,吉行也。當豐亨盛大之時,雖有明主,鮮有不湛於宴安者,故六二之正、九四之剛,皆不得行其志,以不遇明主,故其皆曰豐其蔀、日中見斗也。日之中而見斗焉,闇之甚也。上有昏暗之主,有志莫伸,則下求於等夷之人,同心協徳,自相賓主,則吉無不利矣。

九四の爻辞に言う。「遮蔽すること十分嚴密にして、正午の時分に却って北斗を見、己と地位相當の主人に遇上れば、吉祥なり。」『象傳』に言う。「其の蔀を豊ならしむは、位置當らざるなり。日中に斗を見るは、幽暗にして光明ならざるなり。其の夷主に遇ふは、往けば即ち吉利なり。」正に豊盛盛大の時に當りて、縦い英明の君主有りとも、安樂に沉溺せざる者鮮し。だから六二の中正・九四の剛強も、皆能く己が志向を施行する能はず。英明の君主に遇はざるを因りて、だから此の兩爻の爻辞は皆「其の蔀を豊ならし、日中に斗を見る」と言う。太陽は正に中天に當たるに而も北斗を見るは、昏暗の甚だしきなり。上に昏暗の君主有りて、志向伸展するに從る無し、是に於て轉じて下に向ひて地位相當の同道を尋求し、同心同德にして彼此賓主を以て相待せば、則ち吉祥にして利ならざる所無し。

四與初為應,故初以四為配主,而四以初為夷主,爻有上下,位有尊卑,故所稱輕重不同,其實一也。使上有剛明之君,攬英傑以為已用,則皆立乎人之朝矣,豈止自相求而已?曰豐其蔀位不當也,以九居四,位非中正而在近君之位,故不當也。日中見斗幽不明也,日中當徧照天下,而幽暗如暮夜,此忠邪莫辨、白黑不分之,賢人君子當遐舉逺引之時也。故曰遇其夷主吉行也,以吉而行,從容而行,行則吉也。

四與初は本より相對應す、だから初は四を以て「配主」と爲し、而して四は初を以て「夷主」と爲す。爻に上下の別有り、位に尊卑の分有り、だから稱呼する所の輕重同じからず、其の實は一回事なり。假使上に剛健英明の君主有りて、英傑を網羅して以て己に用ゐらしめれば、則ち彼らは皆君王の朝廷に立身せまし、何ぞ至りてただ彼此相求むるのみならんや。『象傳』に「其の蔀を豊ならしむ、位當らざるなり」と言う。陽爻を以て第四位に居るは、既に中に居らず又た正に當らず、而も又た君主に接近するの位置に處り、だから位置當らずと曰う。「日中に斗を見る、幽にして明ならざるなり」と言う。太陽は正午に當りて本應に天下を普照すべきに、今却って昏暗して傍晚黑夜の如くなれば、此れ正に忠姦辨へ難く黑白分かれざるの時にして、亦た正に賢人君子の應に高飛遠引し退隱して世を避くべきの時なり。だから「其の夷主に遇ふ、吉行なり」と曰う。吉の把握を懷きて行き、從容不迫にして行けば、一たび行動すれば即ち吉利なり。

六五:來章,有慶譽,吉。曰:六五之吉,有慶也。人主當天下豐大之時,能屈已招來賢徳之士以文太平,庶可保其治安,則在我者必其福慶,而民譽歸之,吉無不利矣。五與二俱陰非應,然離下震上,震動而離明,明動相資,又皆居君臣中正之位。離為文章,其性炎上,茍能說而納之,則將洋洋然動其心而來矣。上有用賢之美,野無遺棄之才,邦家之慶孰大於此?聖人從而贊之曰六五之吉有慶也,以見所以得吉者,以有此用賢之慶也。

六五の爻辞に言う。「文采有るの賢才を招来し、福慶と美譽有り、吉祥なり。」『象傳』に言う。「六五の吉祥なるは、福慶有るを以てなり。」君主は正に天下豊盛盛大の時に當りて、能く己を屈して人に下り、賢德の士を招来して以て太平を潤色せば、庶幾く以て治世の安定を保住す可し。則ち己が此の一邊に於て必ず福慶を得、而して百姓の贊譽も亦た皆彼に歸向し、吉祥にして利ならざる所無し。六五與六二は皆陰爻にして、本より相應せず。然れども卦體は離下に在り震上に在り、震は行動を主りて離は光明を主る、光明與行動は互相憑藉し、しかも兩爻又た皆君臣の中正の位に居る。離は文章を象徵し、其の性質は上方に向ひて升騰す。君主若し能く欣悅して接納せば、賢者は便ち心情舒暢にして欣然而來らん。朝廷の上に賢才を任用するの美事有り、草野の間に遺棄せられざるの人才無ければ、國家の福慶は又た此より大なる有らんや。聖人因りて讚嘆して「六五之吉、慶有るなり」と曰うは、以て其の吉を獲る所以は、正に此の賢才を任用するの福慶有るを以てなるを表明す。

上六:豐其屋,蔀其家,窺其戶,閴其無人,三不覿,凶。曰:豐其屋,天際翔也;窺其戶,閴其無人,自藏也。士方居窮隱約,消聲滅跡,自樂於閒曠可也;若夫身處大位,當豐亨之時,不能躬吐握之勤以延見多士,而深自閉匿,豐其屋、蔀其家而已,則將鬼瞰其室矣,故窺其戶,閴其無人,三不覿,其凶可知。上六,大臣之不任事者,雖不任事而位則穹矣,國之存亡、民之利害,安得恝然忘情哉?

上六の爻辞に言う。「房屋を造ること高大にして、家門を遮ること嚴密にし、門縫より張望すれば、寂靜として一人も無く、三年も人影を見ず、凶有り。」『象傳』に言う。「其の屋を豊ならしむは、高きこと天際に翔るが如くなり。其の戶を窺ふに、閴として其の人無きは、自ら己を藏して了ふなり。」士人は困窮隱約の時に、聲を斂め跡を消し、閒適空曠の中に自ら其の樂を得るは、彼は可なり。高位に身居し、正に豊盛亨通の時に當りて、然れども能く周公の如く吐哺握髮して勤めて衆多の賢士を接見する如くせず、反つて深く己を封閉隱藏し、ただ屋宇を擴大し門戶を遮蔽するを知るのみなれば、則ち鬼神は便ち其の家室を窺伺せんとす。だから門縫より張望せば、寂靜にして人無く、三年人影を見ず、彼の凶險は想ひて知る可きなり。上六は實際の職事を擔はざるの大臣なり。事を任ぜずと雖も、位置は却って極めて崇高なり、國家の存亡・百姓の利害、怎んぞ漠然として之を置き、毫も動心せざるを得んや。

豐其屋,謂壯大其所居也;蔀其家,謂屛蔽其所藏也,此大臣之營私自奉者,古之愚人莫不皆然。觀周公作鴟鴞之詩曰:迨天之未陰雨,徹彼桑土,綢繆牖戶。予手拮据,予所捋荼,予所蓄租,予口卒瘏,曰予未有室家。勤勞如此,豈自營也哉?六居卦終,震動之極,失處豐之義,其荒虛閴寂,卒為狐兎之場,若鳥失其巢,去人逺矣。本乎絶物,乃以自絶;本乎多藏,反致空閴,禍災之至,咸其自取焉爾,故曰豐其屋,天際翔也;窺其戶,閴其無人,自藏也。閴其無人,陸氏以為家空人亡,如漢梁冀之徒是已。

「其の屋を豊ならしむ」は、其の居る所を壯大にするを言うなり。「其の家を蔀す」は、其の藏する所を屏蔽するを言うなり――これ大臣の私を營り自奉するの寫照にして、古來愚昧の人は皆此の如くならざる莫し。周公の作れる『詩經・豳風・鴟鴞』を觀るに言う。「天の未だ陰雨せざるに趁りて、彼の桑樹の根皮を剝取し、窗戸門洞を纏縛して好しとす。我が手は已に僵硬せり、我は白茅を采來り、我は草料を積蓄し、我が嘴は皆磨破せり、ただ我が未だ己が家を築成せざるを以てのみ」と。此の如きの辛勞は、豈に己が爲に經營する者ならんや。上六は陰爻を以て全卦の末に居り、震動の極點に處り、豊に處るの道を失ふ。其の居る所は荒蕪空寂にして、終に狐狸野兔の出沒するの場所と變じ、譬えば鳥の巢を失ひて人煙より愈〻遠ざかるが如し。本意は外物を斷絕せんと欲するに、結果却って己を斷絕す。本意は多く積藏せんと欲するに、結果却って空寂無人に落着す。災禍の到來は、全て自ら招致するなり。だから「其の屋を豊ならしむ、天際に翔るなり。其の戶を窺ふ、閴として其の人無し、自藏なり」と曰う。「閴として其の人無し」は、陸德明は家室空虛・人丁滅亡と爲す、漢代の梁冀の彼の一類の人の如し。

旅卦(艮下離上)

艮下離上。旅:小亨,旅貞吉。彖曰:旅,小亨,柔得中乎外而順乎剛,止而麗乎明,是以小亨,旅貞吉也。旅之時義大矣哉!旅者,聖賢當屯否之世,道不行而為棲棲為旅人之時也,雖處之有道,但得小亨而已。旅貞吉者,能守正則吉也。王弼以為不足全夫貞吉之道,惟足以為旅之貞吉,故重言旅貞吉也。

旅卦の下體は艮、上體は離なり。卦辞に言う。「旅、小さく亨通し、行旅の中に正しきを守れば則ち吉なり。」『彖傳』に言う。「旅の小さく亨通する所以は、柔爻が外卦に於て中を得て而も剛爻に順從し、內に止まりて外に光明に附麗す、是を以て小さく亨通し、旅正を守りて吉を獲るなり。旅卦の時與義は真に大なる哉!」所謂「旅」は、聖賢の身艱屯否塞の時世に處り、道は推行する能はざれば、是に於て奔走して定まらず旅客の一般なるの處境なり。縦い之を處するに道有りとも、亦たただ小小の亨通を得るのみ。「旅貞吉」と曰うは、能く正を守れば便ち吉利なるを言うなり。王弼はこれなほ以て盡く貞吉の道と稱するに足らず、ただ行旅の中の貞吉と稱するに足るのみと爲し、だから卦辞は「旅」の字の後に又た重ねて一度「旅貞吉」と説くなり。

麗乎外而得中則亨,止乎下而得正則吉,故彖曰柔得中乎外而順乎剛,止而麗乎明,是以小亨,旅貞吉也。六上居於五,又處二剛之間,此在旅之卦體在外,故言柔得中乎外。下艮而止,上明而麗,止而有所附麗,此處旅之善者。以孔子之聖,歴聘諸侯,然時君不能鈞用,而卒老於行,以至伐樹削跡,阨於宋衛陳蔡之間,七日不火食者,以時無剛明之君為之依歸也,況其下者乎?為旅之道,有時有義,得其時義,則其道可行,窮斯通,困斯濟矣。然則處旅之時豈易哉?故其時義為大也。

外卦に附麗して中位を得れば便ち亨通し、下體に止息して其の正を得れば便ち吉利なり、だから『彖傳』に「柔中を外に得て剛に順ひ、止まりて明に麗る、是を以て小亨、旅貞吉なり」と曰う。陰爻は上行して第五位に居り、又た兩個の剛爻の間に夾在す。これ旅卦の裡に於ては、卦體は外卦に處る、だから「柔中を外に得」と曰う。下卦は艮にして止を知り、上卦は離にして光明に附麗し、能く止まりて而も又た依附する所有り、これ旅に處るの道の中の最好の情形なり。孔子の如き聖人を以てするも、諸侯を遍訪して仕を求むるも、然れども當時の國君は能く彼を重用する能はず、終に道路奔波の中に老去し、宋國に於て桓魋の樹を伐るに遭ひ、衛國に於て足跡を削去せられ、宋・衛・陳・蔡の間に困厄して、七日熟食を食ふを得ざるに至る――これ當時に剛健英明の君主無くして以て依歸す可き無きを以てなり、況んや才德彼の下に在る者をや。旅に處るの道は、時機與義理を講究す。能く其の時を得其の義に合せば、則ち道は以て推行す可し、困窮の中も亦た能く通達し、艱難の中も亦た能く濟渡す。此の如く看れば、羈旅の時に處るは豈に容易ならんや。だから其の時與義の大たるを曰うなり。

曰:山上有火,旅。君子以明慎用刑而不留獄。山上有火,明之至也,然炎炎不已,或至燎原而玉石俱焚,君子體此以用刑,則當明慎也。明者,辨析其理而不敢輕也;慎者,哀矜其情而不敢易也。火在山上,因風而行,其勢必速,非久居也,君子體此以斷獄,則知囹圄之間、重棘之內,或有受其枉者,斷決以時而無淹延,此聖人著此以為司獄之戒也。

『象傳』に言う。「山上に火燃ゆるは、これ即ち旅卦なり。君子は之に取法して、因りて明察愼重に刑を用ゐて、案件を拖延積壓せず。」山上に火燃ゆるは、光明の極處に到るなり。然れども炎炎として已まざれば、或いは燎原の大火に蔓延して美玉と頑石を一同に燒毀するに至らん。君子は此の一卦の象を體察して以て刑を用ゐれば、便ち應に既に明察にして又た愼重たるべし。所謂「明」は、案情の道理を辨析して而も輕率を敢えてせざるなり。所謂「愼」は、犯人の情狀を哀憐して而も輕忽を敢えてせざるなり。火の山上に在るは、風勢を借りて蔓延し、來勢必ず迅速にして、久しく一處に留まらざるなり。君子は此の點を體察して以て案件を斷ずれば、便ち牢獄の中・重重の棘牆の內に、或いは冤枉を蒙受するの人有らんを知り、應に及時に判決して而も拖延を加へざるべし。これ聖人の此の一卦の象を寫下して、用ゐて刑獄を掌管する者の鑑戒と爲すなり。

初六:旅,斯其所取災。曰:旅,志窮災也。當旅之時,以陰柔而處厎下,此小人之寓旅困者也。猶屑屑也。古者豪傑之士處貧賤羇旅之間,如劉毅、馬周、李白、郭元振之徒,豪氣蓋世,夫豈若是屑屑然?則在旅而斯,其取災之道也。曰旅志窮災者,在羇旅之始,不能擴其志氣,變而易通,乃計較錐刀於僕御之間,則孰與任其腹心者?意外之患,乃其自取焉耳。

初六の爻辞に言う。「行旅の人は猥瑣にして計較す、これ即ち彼の自ら災禍を取るの緣由なり。」『象傳』に言う。「旅の中に志向窮蹙すれば、だから災を招くなり。」正に羈旅の時に當りて、陰柔の質を以て最下位に處るは、これ小人の身を旅途に寄せ困頓に陷るの狀なり。「瑣瑣」は即ち斤〻計較して猥瑣不堪なるの意思なり。古の豪傑の士は貧賤羈旅の中に身處し、東晉の劉毅・唐代の馬周・李白・郭元振の此れらの人の如く、豪氣は當世を壓倒す、豈に此の如く猥瑣ならんや。だから身旅途に在りて而も此の如く計較するは、正に自ら災禍を取るの道なり。『象傳』に「旅は、志窮すれば災なり」と言う。羈旅の初めに於て能く己が志氣を開濶し、隨機應變して以て通達を求めず、反つて僕役車夫の間に於て錐刀の末の小利を計較せば、則ち誰かなほ肯んじて心腹の事を彼に託付せんや。意外の禍患は、正に彼自ら招來する所なり。

六二:旅即次,懐其資,得童僕貞。曰:得童僕貞,終無尤也。旅也,寓也,為客之道也,非可安居者也。六二以柔得中正而上承二剛,雖無正應,可以就而安之,故能懐其資而無誨盜之失,得童僕之貞而內外之助,在旅如此,雖動而居外,夫何尤怨之有?

六二の爻辞に言う。「旅客は客舍に住み入り、盤纏を懷藏し、童僕の忠貞を得たり。」『象傳』に言う。「童僕の忠貞を得れば、終に怨尤有らざらん。」所謂「旅」は、即ち寄寓にして、客を爲すの處境にして、本より以て安居す可きに非ず。六二は陰柔の質を以て而も中を得正を得、上に向ひて兩個の剛爻を承奉す。正應無しと雖も、亦た以て就近に依靠して安頓する可し、だから能く資財を懷藏して而も炫富して盜を招くに至らず、又た童僕の忠貞を得て而も內外皆相助する人有り。羈旅の中に於て能く此の如くに做到せば、行動は外に在ると雖も、又た何の怨尤か有らんや。

九三:旅焚其次,其童僕貞厲。曰:旅焚其次,亦以傷矣;以旅與下,其義也。九三處艮之上,有峻極之勢,無柔順謙虛之徳,為旅若此,宜眾人之所不與也,故焚其次而其童僕之正危莫甚焉。二以柔順中正而安,三以髙亢自尊而厲,在旅而遇焚如之阨,非止失其所止而已,其勢必至於傷。夫初六之固足以取災,而當羇旅之際,輕財妄施以致空殫,亦失為旅之道,故剛柔皆欲適中,今二者舉過之,故曰旅焚其次,亦以傷矣;以旅與下,其義也。

九三の爻辞に言う。「旅客の客舍は燒毀せられ、童僕の忠貞をも失ひ、守持して往けば危厲有り。」『象傳』に言う。「旅に於て其の次を焚かるは、亦た以て傷損たるに足るなり。旅を以て下に與するは、理應に彼らを失ふなり。」九三は艮卦の頂端に處り、高峻險絕の勢有りて、然れども柔順謙虛の德行無し。客を作して而も此の如しは、自然衆人の肯んじて親附せざる所なり、だから客舍焚燒せられ、而して童僕の忠貞も亦た危殆極點に到る。六二は柔順中正に憑りて安寧を得、九三は高亢自大に因りて危厲に遭ふ。身羈旅に在りて而も焚毀の困厄に遇上るは、獨り安身の所を失ふのみならず、勢い必ず傷損を受くるを要す。初六の如き鄙吝は固より以て災を招くに足ると雖も、然るに身羈旅の中に在りて、輕率に財を散じ妄りに施して以て囊中洗しきが如くなれば、同じく旅に處るの道を失ふ有り。だから剛與柔は皆適中を要す。今此の兩爻は皆極端に走れり、だから「旅に於て其の次を焚く、亦た以て傷なり。旅を以て下に與す、其の義喪ぶなり」と曰う。

九四:旅于處,得其資斧,我心不快。曰:旅于處,未得位也;得其資斧,心未快也。九四以陽剛而自托於陰柔,蓋處旅之善者。士欲行其志而已,得其資斧豈足以行其志哉?旅于處,得其資斧,徒能安其居,得其資財器用而已。懐與安實敗名,旅非豪傑之所能安也。劉備、孔明不肯留吳,關羽不肯留魏,豈乏其資斧哉?使韓信無蕭何之薦,亦非漢祖所能覊縻之也。況乎聖如仲尼、賢如孟軻者,儻不處以卿相之位,使得盡行其所志,豈區區利祿所能豢養之哉?

九四の爻辞に言う。「旅客は安身の處を得、又た盤纏と利斧を得たれど、然れども我が心裡は並び痛快ならず。」『象傳』に言う。「旅に於て處有りは、なほ應有の職位を得ざるなり。其の資斧を得るは、心なほ快ならざるなり。」九四は陽剛の質を以て陰柔の位に寄托す、本より旅に處るの道の中の較べて好き者と算す可し。士人の求むる所は不過己が志向を施行するのみ、些かの盤纏斧具を得れば、何ぞ足りて志向を施行せんや。「旅に於て處有り、其の資斧を得」は、不過能く住所を安頓し、些かの資財器具を得るのみなり。安逸を貪戀するは實に名節を敗壞すること有り、羈旅の生涯は本より豪傑の士の其の中に安んずる能くする所に非ず。劉備・諸葛亮は東吳に留まるを肯んぜず、關羽は曹魏に留まるを肯んぜず、豈に盤纏を缺少するならんや。假使韓信に蕭何の薦擧無かりせば、亦た漢高祖の羈縻して留め得る所に非ざりき。況んや孔子の如き聖人・孟子の如き賢人をや、倘若卿相の位を用ゐて彼らを安置し、彼らをして盡情に己が抱負を施行せしめざれば、區々の利祿は豈に豢養して留め得んや。

六五:射雉一矢亡,終以譽命。曰:終以譽命,上逮也。旅之六五雖非君位,而有文明之徳,方以直道遇物,發無不中,此聖賢之處乎羇旅者,如射雉而以一矢殪之也。雉為文明之物,矢者器也,君子藏器於身,待時而動,動而不括矣,此處旅之最善者,譽命之來,何可御也?孔子之至是必聞其政,以溫良恭儉譲而得之。

六五の爻辞に言う。「野鶏を射るに一矢を失ふと雖も、最終に美譽と爵命を得たり。」『象傳』に言う。「終に美譽と爵命を以てすは、上位に在る者の彼を延攬し到れりを以てなり。」旅卦の六五は君位に非ずと雖も、然れども文明の德性を具備し、正に正直の道を以て外物に對待し、發出するや中らざる無し。これ聖賢の身羈旅の中に處るの寫照にして、譬えば野鶏を射て而も一矢にして之を射倒すが如し。野鶏は文采鮮明の禽鳥にして、箭は器具なり。君子は器具を身の上に藏して、時機を待ちて然る後に行動し、一たび動けば阻礙無し。これ旅に處るの道の中の最好の一爻にして、美譽與爵命の到來は、豈に擋住し得んや。孔子は一國に到る每に、必ず能く其の處の政事に與聞す、正に溫和・善良・恭敬・儉朴・謙讓の德行に憑りて得來するなり。

象言終以譽命上逮者,言為上之所逮,聖賢之寓旅困,在上者能居已而訪逮之也。易之上逮,即詩之逮下也,君能逮下以成其政,臣能歸美以報其上,故上下交譽之也。旅之上九方以髙亢自居,而此云上逮者,蓋旅人之有譽命,必有上之人能寵遇之,非必上九也,六爻取義各有所在,言豈一端而已?

『象傳』に「終に譽命を以てすは上逮なり」と言うは、上に在るの人に延及せらるるを言うなり。聖賢の羈旅の困に寄身するは、全く上に在るの人の肯んじて身段を放下して彼を尋訪延攬するに賴るなり。『周易』の言ふ所の「上逮」は、即ち『詩經』の言ふ所の「逮下」なり。君主は能く恩澤を施して下人に及ぼし、從りて其の政事を成就す。臣子は能く美名を君上に歸し、從りて君恩に報答す、だから上下彼此稱譽す。旅卦の上九は正に高亢を以て自居せり、此處に却って「上逮」と言ふは、彼は旅人の能く美譽與爵命を得るは、必ず上に在るの人の肯んじて優禮を以て相待する有るを以てして、必ずしも便ち上九を指すに非ず。六爻は義を取るに各々着落有り、説法は豈に一種のみ有らんや。

上九:鳥焚其巢,旅人先笑後號咷,牛于易,凶。曰:以旅在上,其義焚也;牛于易,終莫之聞也。鳥之巢木,猶人托跡於傳也。夫人之處乎里閭之間也,有長之序,有親戚之恩,患難相救,疾病相扶持也。方在羇旅之時,人情乖睽,惟卑順謙恭乃可自保,而上九以髙亢自居,下乘五六之尊位不遜若此,其能免乎?

上九の爻辞に言う。「鳥の巢は火に燒毀せられ、旅人は先に歡笑し後に號啕大哭し、邊地に於て牛を失ひ、凶有り。」『象傳』に言う。「羈旅の身を以て而も最上に居れば、理に按ずれば應に焚毀せらるべし。邊地に於て牛を失ふは、最後に到るまでも人の告知する無きなり。」鳥の樹上に巢を築くは、猶お人の行蹤を驛舍旅館に寄托するが如し。人は鄉里の間に住すれば、長幼の次序有り、親戚の恩情有り、患難の時は互相救助し、疾病の時は互相扶持す。正に羈旅の時に當りては、人情は乖違疎遠にして、ただ卑順謙恭のみ以て自ら保つ可し。而して上九は却って高亢を以て自居し、下に向ひて六五の尊位に凌乘し、倨傲不遜此の地步に到れば、還た能く幸免し得んや。

巢者,鳥所託以棲息者也。離為火,其於木也為科上槁,今處離上,是巢而遇焚失所棲息之也。上九以陽剛而處眾旅之上,始固足以陵物,而眾為之下,若可喜也;而為旅之道,威權不足,人終不與,將無所容,亦足悲也,故先笑而後號咷。牛之為物,健而順,且有功於稼穡,而之不能敬畏故也。莊子曰:有而為之,其易之者,皥天不宜,況於人乎?

「巢」は鳥の用ゐて以て栖息する所なり。離は八卦の中に於て火と爲し、樹木に就きて言へば中空にして上端枯槁するを象徵す。今上九は離の最上位に處れば、正に鳥巢の火の焚燒に遭ひ、栖息の所を失去するの象なり。上九は陽剛の質を以て衆旅人の上に居り、起初固より以て別人に凌駕するに足り、衆人も亦た其の下に居るを甘んず、看れば喜ぶ可きに似たり。然れども旅に處るの道に按ずれば、彼は既に足够の威權無く、別人は終に肯んじて親附せず、最後に將に容身する處無からんとす、これ以て悲哀たるに足る、だから先に歡笑して而る後に號啕す。牛の此の牲畜は、強健にして而も又た馴順、しかも耕稼に對して功有り。彼は却って牛を失ひ去れり、正に敬愼畏懼を知らざるの緣故に由るなり。『莊子』に言う。據有する所有りて恣意に妄爲し、輕忽怠慢するの人は、昊天に連ねても之を容許せず、況んや人をや。

九三以剛陽居旅而焚其次,其童僕所在外,故厲;上九以剛陽居旅,如鳥焚其巢,牛于易,所在我也,故凶。上九處卦之極,言凶則不止於危而已。言以旅在上其義焚也,為旅而處人之上,其焚巢固宜,非不幸也。牛于易終莫之聞者,人之有過,能虛已聽納,人或告以善道;上九亢陽,有絶物之,使有過咎,人孰告之?故終莫之聞也。

九三は剛陽の質を以て羈旅の中に處りて而も客舍焚せられ、其の喪失する所の童僕はなほ自身の外に在れば、だからただ「厲」と言ふのみ。上九は同じく剛陽を以て旅に處るも、然れども鳥巢の焚せられ、邊地に於て牛を失ふが如く、喪失する所は便ち己が身上に在れば、だから「凶」と曰う。上九は一卦の頂點に處り、「凶」と言へば、便ち獨り危險のみに止まらざるなり。『象傳』に「旅を以て上に在り、其の義焚むべきなり」と言う。羈旅の身を以て而も衆人の上に凌駕すれば、鳥巢の焚せらるるは本より應當にして、何の不幸たるを算せず。「邊地に於て牛を失ふ、終に之に聞く莫し」と言う。人過失有りて、若し能く虚心にして意見を聽取せば、別人はなほ還た善言を以て相告げん。上九は亢極の陽にして、人と隔絕するの心を懷き、縱使過失有りとも、誰かなほ肯んじて彼に告げんや。だから最後に到るまでも一句の規諫を聞く能はざるなり。

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