Libo

五行大義 序

隋 · 萧吉 · 第1巻 / 11

作盤ガイド: 暦注(黄暦), 万年暦

上儀同三司・城陽郡開国公 蕭吉 撰

綜合類典籍

通読するより工具書として引くほうが実用的である。他の門類で分からない暦法術語に出会ったら、たいていここで出所をたどれる。

上儀同三司・城陽郡開国公 蕭吉 撰

夫五行者,蓋造化之根源,人倫之資始。萬品稟其變易,百靈因其感通。本乎陰陽,散乎精像,周竟天地,布極幽明。子午卯酉為經緯,八風六律為綱紀。故天有五度以垂象,地有五材以資用,人有五常以表德。萬有森羅,以五為度,過其五者,數則變焉。實資五氣,均和四序,孕育百品,陶鑄萬物。善則五德順行,三靈炳曜;惡則九功不革,六沴互興。原始要終,靡究萌兆。

五行は天地造化の根源であり、人倫秩序の最初のよりどころである。万物はみな五行の気を受けて生滅変化し、諸々の神霊も五行の気によって人と感応し相通じる。それは陰陽二気に本を発し、さまざまな精妙な形象に散布し、天地全体に遍く満ち、幽冥と人間界にまで達する。子・午・卯・酉の四正の位はその経緯の座標であり、八方の風と六律の音階はその綱紀の条理である。だから天には五星が垂れて天象を示し、地には金・木・水・火・土の五材があって人の用に供され、人の身には仁・義・礼・智・信の「五常」があって徳行を表す。万物は紛紜として羅列され、みな五を度量の単位とし、いったん五という数を超えれば、数はまた新たに変化して約に帰する。天地はまさに五行の気によって春夏秋冬の四季を調え、諸々の生命を孕み育て、万物を陶冶鋳造する。政教が清明であれば、五行の徳は順次運行し、日・月・星の「三霊」は光明に輝く。政教が衰敗すれば、水・火・金・木・土・穀の「九功」は修まらず、六つの失调した気(「六沴」)が交々発作する。しかしその始まりを遡り、その終わりを推し求めようとしても、人はいつも最初の萌芽の兆しを見极めることができない。

是以聖人體於未肇,故設言以筌象,立象以顯事。事既懸有,可以象知。象則有滋,滋故生數。數則可紀,象則可形。可形可紀,故其理可假而知。可假而知,則龜筮是也。龜則為象,故以日為五行之元;筮則為數,故以辰為五行之主。

それゆえ聖人は物事がまだ起こらないうちにすでにそれを体察し、そこで言辞を設けて物象を捉え――ちょうど竹の筌をもって魚を捕るように――また物象を立てて事理を明らかにした。事がすでに世に実在する以上、物象を通じてそれを認知することができる。物象はひとたび生じれば滋衍し、滋衍すれば数目が生まれ、数があれば記録でき、象があれば描摹できる。形を描き数を記録できれば、事物の理はこれらの道具を借りて認知される。借りて認知するための道具とは、亀卜と蓍筮である。亀卜が呈するのは「象」である。だから十天干の「日」をもって五行の元始とする。蓍筮が推演するのは「数」である。だから十二地支の「辰」をもって五行の主宰とする。

若夫參辰伏見,日月盈虧,雷動虹出,雲行雨施,此天之象也。二十八舍,內外諸官,七曜三光,星分歲次,此天之數也。山川水陸,高下平汙,嶽鎭河通,風回露蒸,此地之象也。八極四海,三江五湖,九州島百郡,千里萬頃,此地之數也。禮以節事,樂以和心,爵表章旗,刑用革善,此人之象也。百官以治,萬人以立,四教修文,七德閱武,此人之數也。因夫象數,故識五行之始末;藉斯龜筮,乃辨陰陽之吉凶。是以事假象知,物從數立。

参星と辰星が入れ替わりに隠れ現れ、日月に円缺の盈虚があり、雷が震い虹蜺が現れ、雲気が流行し雨が降る――これらは天が呈する「象」である。二十八宿の星舍、紫微垣の内外の衆星官、日月と金木水火土の五星を合わせた「七曜」、日月星の「三光」、そして列宿の分野と歳星の値する年次――これらは天の計量できる「数」である。山嶺と河川、陸地と水沢、あるいは高くあるいは低く、あるいは平坦あるいは低窪し、五岳が一方を鎮め、江河が遠近を貫き、風が回旋し露気が蒸騰する――これらは大地の「象」である。八方の極遠の地と四海、三条の大江と五つの大湖、九州と百の郡、千里の方圆と万頃の田畝――これらは大地の「数」である。礼をもって人事を節制し、楽をもって人心を調和させ、爵位と旗章をもって尊卑を明らかにし、刑罰をもって人を改め善に向かわせる――これらは人事の「象」である。百官を立てて天下を治め、万民を聚めて国を立て、四教をもって文治を修め、七徳をもって武功を閲する――これらは人事の「数」である。象と数があるからこそ五行の来龙去脉を認識でき、亀卜蓍筮に拠るからこそ陰陽の吉凶を分弁できる。だから言うのである、事は物象を借りてこそ認知され、万物は数目に依ってこそ成立する、と。

吉每尋閱墳索,研窮經典,自羲農以來,迄於周漢,莫不以五行為政治之本,以蓍龜為善惡之先。所以《傳》云:天生五材,廢一不可。《尙書》曰:商王受命,狎侮五常,殄棄三政。故知得之者昌,失之者滅。

私、蕭吉は常に《三墳》《八索》の類の上古の典冊を繙き、歴代の経典を深究してきたが、伏羲・神農以来、周代・漢代に至るまで、五行を政治の根本とし、蓍草と亀甲の占いを善悪を判別する第一の拠り所としない朝代はなかった。だから《左伝》にいう、天は五つの材質を生み、そのどれ一つを廃してもならない、と。《尚書》にいう、商の王・紂は天命を受けた後、五常の道を軽慢に侮り、三つの政事を絶滅し捨て去った(「受」は紂王の名である)、と。これによって知られる、五行の道を掌握する国は昌盛し、それに背く国は敗亡する、と。

昔中原喪亂,晉氏南遷,根本之書不足,枝條之學斯盛。虛談巧筆,競功於一時;碩學經邦,棄之於萬古。末代踵習,風軌遂成。雖復占候之術尚行,皆從左道之說;卜筮之法恆在,爻象之理莫分。《月令》靡依,時制必爽。失之毫髮,千里必差。水旱興而不辨其由,妖祥作而莫知其趣。非因形像,罕徵窮者。觀其謬惑,嘆其學人,皆信其末而忘本,並舉其麤而漏細。

昔、中原に戦乱があり、晋の王室が南に遷ってから、根本を探る著作は日に稀となり、枝葉末節を追う学問がかえって盛んになった。空洞な清談と巧飾の文筆が、競って一時の声名を博し、国を治め邦を安んじうる博学の士は、万世に棄てられた。後世の人々がこれに倣い、ついに風気を成した。占候の術はなお流行していたが、多くは傍門左道の説に依り従い、卜筮の法は存続していたが、爻象の理を弁じ明らかにしうる者はいなかった。推算が《月令》に拠らなければ、節候時制は必ず誤る。初めに毫厘の差があれば、結論は千里の謬となる。水災旱災が起きてもその缘由を言えず、灾異祥瑞が現れてもその旨趣を解さない。具体の形象によって印证しなければ、窮め尽くせる者は稀である。このような謬误迷惑を見て、私はこれらの学者のために嘆息する。彼らはみな末梢を信じて根本を忘れ、粗疏なところを掴んで精微を漏らしているのだ。

古人有云:登山始見天高,臨壑方覺地厚。不聞先聖之道,無以知學者之大,況乃五行幽邃,安可斐然。今故博採經緯,搜窮簡牒,略談大義。凡二十四段,別而分之,合四十段。二十四者,節數之氣總;四十者,五行之成數。始自釋名,終於蟲鳥。凡配五行,皆在茲義。庶幾使斯道不墜,知其始焉。若能治心靜志,研其微者,豈直怡神養性,保德全身,亦可弼諧庶政,利安萬有,斯故至人之所達也。昔人感物制經,吉今因事述義,異時而作,共軌殊途。嘆味道之不齊,求利物之一致。倚焉來哲,補其闕焉。

古人が言った、高山に登ってこそ天の高さが分かり、深谷の辺に立ってこそ地の厚さを覚える、と。先聖の道を聞いたことのない者は、求学の事がどれほど広大かを知る由もない。まして五行の理はかくも幽深なのだから、どうして一時の文采だけで軽々しく敷衍できようか。だから私は今、経書と緯書を広く採録し、諸々の典冊を捜し尽くして、その大義を簡要に述べる。全書は二十四段とし、逐段に再び細分して合わせて四十段とする。二十四を取ったのは、一年の節気の数の総計であるからであり、四十を取ったのは、五行の成数(六・七・八・九・十)を加えた数であるからである。全書は名称の解釈から始まり、禽鳥虫豸の論で終わる。凡そ五行に配当される内容はすべてこの義理のうちに収めた。願わくはこの学問を墜廃せしめず、その本原の在処を人に知らしめたい。もし心神を收攝し意志を澄静にして、その精微を研究できるならば、精神性情を怡養し徳と身を保全するだけではなく、さらに諸々の政務を輔佐協理し、天下の万物を利し安んじることができる。これは本来、至人の到達しうる境界である。前人は外物に感じて経典を制作し、私、蕭吉は今、具体の事理によって大義を闡述する。時代は異なり、歩んだ道筋は別であるが、帰趨は一致している。衆人のこの道を体味する深浅が揃わないのを嘆くが、求めるところは同じく万物を利するという一事である。これを後世の賢哲に託し、私の缺漏を補足してもらうことにしよう。

五行大義 巻第一

第一 名を釈す(ここに二段に分かれる:一は五行の名を釈し、二は支干の名を論ず)

第一 五行の名を釈す

夫萬物自有體質,聖人象類而制其名,故曰:名以定體。無名乃天地之始,有名則萬物之母。以其因功涉用,故立稱謂。《禮》云:子生三月,咳而名之。及其未生,本無名字。五行為萬物之先,形用資於造化,豈不先立其名,然後明其體用。

万物はもとよりそれぞれの形体と質地を備えており、聖人はその類別に従って象を取り、それらに名称を制定した。だから言う、名称は形体を確定するためのものだ、と。《老子》にいう、無名は天地の始まり、有名は万物の母である、と。まさに事物の功能に憑りその用途に及ぼうとするがゆえに、称谓を立てなければならないのだ。《礼記・内則》にいう、子が生まれて三か月満つれば、父は彼を逗引して笑わせ、名を与える、と。彼がまだ生まれない時、もとより名はなかった。五行は万物の先導であり、その形体と功用はいずれも天地造化に資を取る。どうして先ずその名称を確立し、それからその体質と功用を闡明せずにいられようか。

《春秋元命苞》曰:木者,觸也,觸地而生。許愼云:木者,冒也,言冒地而出,字從於中下,象其根也。其時春。《禮記》曰:春之為言蠢也,產萬物者也。其位在東方。《尸子》云:東者,動也,震氣故動。《白虎通》云:火之為言化也,陽氣用事,萬物變化也。許愼曰:火者,炎上也,其字炎而上,象形者也。其時夏。《尚書大傳》云:何以謂之夏?夏,假也。假者,方呼萬物而養之。《釋名》曰:夏假者,寬假萬物,使生長也。其位南方。《尙書大傳》云:南,任也,物之方任也。

緯書《春秋元命苞》にいう、木とは「触」であり、地を触れて生じ出る、と。許慎《説文解字》にいう、木とは「冒」であり、地を冲冒して钻り出ることをいう。この字の書き方は、中間の一竪が下に伸びて、その根鬚を象る。以上はいずれも漢人が慣用した「声訓」、すなわち同音または近音の字をもって本字の表す物候を点明する法である。木の対応する季節は春である。《礼記・郷飲酒義》にいう、春という詞は「蠢」であり、蠢動して万物を生産する、と。木の対応する方位は東である。《尸子》にいう、東とは「動」であり、東方は震卦に属し、震の気は動を主とする。だから動という。《白虎通》にいう、火という詞は「化」であり、この時陽気が当令して事を行い、万物はこれに従って変化する、と。許慎《説文解字》にいう、火とは「炎上」であり、字形は火炎が上に向かって昇騰する状をなし、象形字に属する、と。火の対応する季節は夏である。《尚書大伝》にいう、なぜこの季節を夏というのか。夏とは「假」である。いわゆる假は、万物を呼び寄せてこれを養育していることをいう。《釈名》にいう、夏が假に訓じられるのは、寛假・寛容して万物をそのままに思う存分生長させることをいう、と。火の対応する方位は南である。《尚書大伝》にいう、南とは「任」であり、万物がまさに生長の責を担っていることをいう、と。

《元命苞》云:土之為言吐也,含吐氣精,以生於物。許愼云:土者,吐生者也。王肅云:土者,地之別號,以為五行也。許愼云:其字,二以象地之下與地之中,以一直畫,象物初出地也。其時季夏。季,老也,萬物於此成就方老,王於四時之季,故曰老也。其位處內。內,通也。《禮斗威儀》云:得皇極之正氣,含黃中之德,能苞萬物。

《春秋元命苞》にいう、土という詞は「吐」であり、精気を含蓄し吐き出して、万物を生養する、と。許慎にいう、土とは万物を吐生するものである、と。王肅にいう、土は大地のもう一つの称号で、五行の一つに列せられる、と。許慎はまたいう、「土」字の書き方は、上下の二横が地面の下と地層の中を象り、中間の一竪が万物のまさに土を破って出ようとするを象る、と。土の対応する季節は季夏(六月)である。「季」とは老であり、万物はこの時に至って初めて成就し老熟に趨く。土はまた春夏秋冬の毎季の末月に当たって旺する。だからこれを「老」という。土の処する方位は中央の内にある。「内」には通達の義がある。《礼斗威儀》にいう、土は皇極の中正の気を得て、中央に居る黄色の徳性を蕴含し、よって万物を包容できる、と。

許慎云:金者,禁也,陰氣始起,萬物禁止也。土生於金,字從土,左右注,象金在土中之形也。其時秋也。《禮記》云:秋之為言愁也,愁之以時察守義者也。《尸子》云:秋,肅也,萬物莫不肅敬恭莊,禮之主也。《說文》曰:天地反物為秋。其位西方。《尚書大傳》云:西,鮮也。鮮,訊也。訊者,始入之貌也。

許慎にいう、金とは「禁」であり、この時陰気がまさに興り始め、万物は禁止されて再生長しない、と。土は金を生ずることができる。だから「金」字は「土」に従い、左右に各々一点を加えて、金塊が土中に埋蔵される形を象る。金の対応する季節は秋である。《礼記・郷飲酒義》にいう、秋という詞は「愁」であり、粛殺の時令をもって人を憂懼警醒させる。これはまさに義理を堅守する季節である、と。《尸子》にいう、秋とは「粛」であり、万物はみな粛敬恭荘で、礼の主宰である、と。《説文》にいう、天地の気が反転し万物が生から殺に転ずるを、秋という、と。金の対応する方位は西である。《尚書大伝》にいう、西とは「鮮」であり、鮮とは「訊」であり、訊はまさに收敛され入蔵される貌である、と。

《釋名》《廣雅》《白虎通》皆曰:水,準也,平準萬物。《元命苞》曰:水之為言演也,陰化淖濡,流施潛行也。故立字,兩人交,一以中出者為水。一者,數之始;兩人,譬男女,陰陽交以起一也。水者,五行始焉,元氣之湊液也。《管子》云:水者,地之血氣,筋脈之通流者,故曰水。許慎云:其字象泉並流,中有微陽之氣。其時冬。《尸子》云:冬,終也,萬物至此終藏也。《禮記》云:冬之為言中也。中者,藏也。其位北方。《尸子》云:北,伏也,萬物至冬皆伏,貴賤若一也。五行之時及方位,故分而釋之。

《釈名》《広雅》《白虎通》はいずれもいう、水とは「準」であり、万物を平準に衡量できる(水面が平を取るが如く)、と。《春秋元命苞》にいう、水という詞は「演」であり、陰気が湿潤泥濘の気を化生して、流布施捨し地下に潜行する、と。だから字を造る時、二つの「人」が相交わり一竪が中間から穿ち出る形を取って「水」字とした。一は数目の始まり、二人は男女を譬え、すなわち陰陽が交合して「一」を生ずる。水は五行の起始であり、元気が凝聚して成った液体である。《管子》にいう、水は大地の血気であり、その筋脈の中に流通するものである。だから水という、と。許慎にいう、「水」字は泉流の並行を象り、中間の那一筆は微弱な陽気を含む、と。水の対応する季節は冬である。《尸子》にいう、冬とは「終」であり、万物はここに至って終結して收藏される、と。《礼記》にいう、冬という詞は「中」であり、中とは内に收藏することをいう、と。水の対応する方位は北である。《尸子》にいう、北とは「伏」であり、万物は冬に至ってみな潜伏し、貴賤を問わず皆同じ姿である、と。以上は五行それぞれに対応する時令と方位である。だから分かれて逐一に解釈を加えたのである。

第二 支干の名を論ず

支干者,因五行而立之。昔軒轅之時,大撓之所制也。蔡邕《月令章句》云:大撓採五行之情,占斗機所建也。始作甲乙以名日,謂之干;作子丑以名月,謂之支。有事於天,則用日;有事於地,則用辰。陰陽之別,故有支干名也。

「支干」(すなわち後世のいう干支)は五行に依拠して設立され、伝えるところでは上古の黄帝軒轅氏の時、臣の大撓が作ったという。蔡邕《月令章句》にいう、大撓は五行の情状を採り、また北斗の斗柄(斗機)の指し建てる方位を観測して、そこで初めて甲・乙という字の組を造り出して日を標記し、「干」と称し、子・丑という字の組を造り出して月を標記し、「支」と称した、と。凡そ天に関わる事には「日」、すなわち十天干を用い、地に関わる事には「辰」、すなわち十二地支を用いる。天は陽に属し地は陰に属し、二者に陰陽の別がある。だから「支」「干」二つの名目を分立したのである。

而名有總別,先論總名,次言別號。總名支干者,干字乃有三種不同:一作干,二作簳,三作干字。今解簳字者,此支簳既相配成用,如樹木之有支條莖簳,共為樹體,所以雲簳。又作干者,幹濟為義;支者,支任為義。以此日辰,任濟萬事,故云支干。又作干字者,亦是簳義,如物之在竿上,能豎立顯然,故亦云竿也。世書從易,故多干也。

名称には総名と別名の分があり、まず総名を言い、次にそれぞれの別号を言う。総名「支干」について言えば、「干」字には歴来三種の異なる書き方がある。一は「干」と書き、二は「簳」(矢の杆・主茎)と書き、三は「竿」と書く。まず「簳」を解すれば、地支と主簳は必ず互いに配合してこそ用を成し、ちょうど一本の木に旁出の枝条と中間の茎簳とがあって、合わせて初めて全体の木を構成する。だから「簳」と書く。「干」と書くのは「干済」――練達して事を成す意を取り、「支」は「支任」――支え担当する意を取る。これらの日辰をもって世間の万事を担当し成就するから、「支干」という。「竿」と書くのは依然「簳」の意である。ちょうど物が竹竿の上に架けられて、竪立し顕豁に見えるように、だから「竿」ともいう。世俗は字を書くのに省便を図る。だから多く「干」と書く。

次別號者。《詩緯推度災》云:甲者,押也,春則開也,冬則闔也。鄭玄注《禮記·月令》云:甲者,抽也。乙者,軋也。春時萬物皆解,孚甲自抽軋而出也。丙者,柄也,物之生長,各執其柄。鄭玄云:丙者,炳也。夏時萬物強大,炳然著見也。

次に各字の別号を言う。緯書《詩緯・推度灾》にいう、甲とは「押」(閘門)であり、春に開き冬に閉じる、と。鄭玄が《礼記・月令》に注していう、甲とは「抽」、乙とは「轧」であり、春に万物の外殻がみな裂け開き、種子の甲殻が自ら抽拔・軋転して地面を钻り出る、と。丙とは「柄」であり、万物が生長して各自その柄を把える、と。鄭玄にいう、丙とは「炳」であり、夏に万物が強壮高大になり、明らかに顕著に呈する、と。これらの解釈はいずれも同音近音の字をもってその干の表す物候を点出するもので、漢人の「声訓」の法に属する。

丁者,亭也。亭,猶止也,物之生長,將應止也。戊者,買也,生長既極,極則應成買易前體也。己者,紀也,物既始成,有條紀也。鄭玄云:戊之言茂也,己之言起也,謂萬物皆枝葉茂盛,其含秀者抑屈而起也。庚者,更也。辛者,新也。謂萬物成代,改更復新也。鄭玄云:謂萬物皆肅然改更,秀實新成也。壬者,任也。癸者,揆也。陰任於陽,揆然萌牙於物也。鄭玄云:時維藏,萬物懷任於下,揆然萌牙也。

丁とは「亭」である。亭は停止に似て、万物は生長してこの一歩に至り、まさに停止しようとする。戊とは「買(貿)」であり、生長がすでに極点に達し、極点に達すれば成就して先の形体を貿換すべきである。己とは「紀」であり、万物がすでに初步的に成形すれば、条理綱紀がある。鄭玄にいう、戊が言うのは「茂」、己が言うのは「起」であり、万物の枝葉がみな茂盛し、そのうち秀穂を含んだものがまず圧屈されて後に挺起する意である、と。庚とは「更」、辛とは「新」であり、万物が代々交替し改換更新することをいう。鄭玄にいう、万物がみな粛然と改換し、穂を抽き実を結び新たに成就することをいう、と。壬とは「任(妊)」、癸とは「揆(測度)」であり、陰気が陽気の中に懐妊し、萌芽がすでに物のうちに孕育されていることを隠約に測度できる。鄭玄にいう、この時節はまさに收藏を主とし、万物が地下に懐妊し、芽苗を隠然と揆度できる、と。

子者,孳也,陽氣既動,萬物孳萌。《三禮義宗》云:陽氣至,孳養生。丑者,紐也。紐者,繫也,續萌而繫長也。故曰:孳萌於子,紐牙於丑。《三禮義宗》云:言居終始之際,故以紐結為名。寅者,移也,亦云引也,物牙稍吐,引而申之,移出於地也。《淮南子》云:寅,螾動生也。《三禮義宗》云:寅者,引也,肆建之義也。卯者,冒也,物生長大,覆冒於地也。《淮南子》云:丣,茂也。茂,然也。《三禮義宗》云:丣,茂也。陽氣至此,物生滋茂。

子とは「孳」であり、陽気がすでに萌動し、万物が孳生萌発し始める。《三礼義宗》にいう、陽気が到来し、孳養して生機を出す、と。丑とは「紐」である。紐とは系結であり、すでに萌えた芽を接続して系連し、生長を続けさせる。だからいう、孳は子に萌え、纽は丑に牙する、と。

辰者,震也,震動奮迅,去其故體也。《三禮義宗》云:此月之時,物盡震動而長。巳者,巳也,故體洗去,於是巳竟也。《三禮義宗》云:巳,起也。物至此時,皆畢盡而起。午者,仵也,亦云萼也。仲夏之月,萬物盛大,枝柯萼佈於午。《淮南子》云:午者,忤也。《三禮義宗》云:仵,長也,大也,明物皆長大也。未者,昧也,陰氣已長,萬物稍衰,體薆昧也,故曰:薆昧於未。《淮南子》云:未,味也。《三禮義宗》云:時物向成,皆有氣味。

寅とは「演」であり、演は延展の意であり、万物の生機がこの時に延び広がる。《三礼義宗》にいう、この月に陽気が地中を演じて通達する、と。卯とは「茂」であり、万物がこの時に繁茂する。《三礼義宗》にいう、卯とは「冒」であり、万物が地を冒して出る、と。辰とは「震」であり、震動奮起し、旧有の形体を脱ぎ去る。《三礼義宗》にいう、この月に万物は震動しないものなく生長する、と。巳とは「已」であり、旧形体を洗脱し尽くして、ここに至って完結する。《三礼義宗》にいう、巳とは「起」であり、万物はこの時に至って旧形態を使い尽くして重新に興起する、と。午とは「仵」(抵牾)であり、あるいは「萼」ともいう。仲夏五月、万物は盛大にして、枝条と花萼が午月に布展する。《淮南子》にいう、午とは「忤」であり、陰気と陽気が相抵し始める、と。《三礼義宗》にいう、仵は長・大であり、万物がすでに長大したことを表明する、と。未とは「昧」であり、陰気がすでに滋長し、万物は稍々衰退して形体が隠蔽昏昧となる。だから「薆昧は未に在り」という。《淮南子》にいう、未とは「味」である、と。《三礼義宗》にいう、この時万物は成熟に趨き、みな気味を具える、と。

申者,伸。伸,猶引也,長也,衰老引長。《淮南子》云:申,呻也。《三禮義宗》云:申者,身也,物皆身體成就也。酉者,老也,亦云熟也,萬物老極而成熟也。《淮南子》云:酉,飽也。《三禮義宗》云:酉,猶也。猶,倫之義也。此時物皆縮小而成也。戌者,滅也,殺也,九月殺極,物皆滅也。《三禮義宗》云:此時物衰滅也。亥者,核也,閡也,十月閉藏,萬物皆入核閡。《三禮義宗》云:亥,劾也,言陰氣劾殺萬物也。

申とは「伸」である。伸は牽引・生長に似て、万物が衰老の中にあってなお引き延ばされていることを指す。《淮南子》にいう、申とは「呻」である、と。《三礼義宗》にいう、申とは「身」であり、万物の身体がみな成就した、と。酉とは「老」であり、あるいは「熟」ともいい、万物が衰老の極に達して成熟する。《淮南子》にいう、酉とは「飽」である、と。《三礼義宗》にいう、酉とは「猶」であり、猶は倫次条理の意であり、この時万物がみな収縮し小さくなって成を告げる、と。戌とは「滅」であり、「殺」であり、九月に粛殺が極まり、万物はみな消滅に帰する。《三礼義宗》にいう、この時万物は衰敗し消滅する、と。亥とは「核」であり、「閡(閉塞)」であり、十月に閉蔵し、万物はみな果核に収められ封閉される。《三礼義宗》にいう、亥とは「劾(弾治)」であり、陰気が万物を弾治誅殺することをいう、と。

《爾雅》歲次云:大歲在寅,名攝提格。《淮南子》注云:格,起也,萬物承陽而起。卯名單閼。單,盡。閼,止也。言陽氣推萬物而起,陰氣盡止也。辰名執徐。執,蟄也。徐,舒也。言伏蟄之物,皆散舒而出也。巳名大荒落。荒,大也。言萬物熾盛而大出,落落而佈散也。午名敦。《淮南子》云:欃槍敦,盛,壯也。言萬物盛壯也。未名協洽。《淮南子》云:協,和也。洽,合也。言陰欲化,萬物和合也。

《爾雅》に太歳紀年の歳名を記していう、太歳が寅に在れば「攝提格」と呼ぶ、と。《淮南子》の注にいう、格とは起であり、万物が陽気を受けて興起する、と。太歳が卯に在れば「単閼」と呼ぶ。単は窮尽、閼は止息であり、陽気が万物を推し興し、陰気がここに窮尽止息することをいう。太歳が辰に在れば「執徐」と呼ぶ。執は蟄伏、徐は舒展であり、蟄伏の生物がみな散じ舒展して出ることをいう。太歳が巳に在れば「大荒落」と呼ぶ。荒は大であり、万物が熾盛にして大量に涌き出て、紛紛と散布することをいう。太歳が午に在れば「敦」と呼ぶ――ここ底本に脱文があり、「敦」字の下に一字が脱落している(通行本ではこの歳名は二字)。《淮南子》にいう、彗星(欃槍)の名を敦といい、敦とは盛・壮であり、万物が盛大強壮であることをいう、と。太歳が未に在れば「協洽」と呼ぶ。《淮南子》にいう、協は和、洽は合であり、陰気がまさに化育を主導しようとして、万物が和洽相合することをいう、と。

申名涒灘。《淮南子》云:涒灘,大修也。言萬物皆修其精氣也。酉名作鄂。《淮南子》云:作鄂,零落也。言萬物皆陊落也。戌名掩茂。掩,蔽也。茂,冒也。言萬物皆蔽冒也。亥名大淵獻。淵,藏。獻,迎也。言萬物終亥,大小深藏窟伏,以迎陽也。子名困敦。困,混也。敦,沌也。言陽氣混沌,萬物牙孽也。丑名赤奮若。奮,起也。若,從也。言陽氣奮迅萬物而起,無不順其性。赤,陽色也。《春秋緯》云:大陰所在之名,與《淮南子》《爾雅》不同。此並支干別名大意,終從氣解,故以具釋之。

太歳が申に在れば「涒灘」と呼ぶ。《淮南子》にいう、涒灘とは大修であり、万物がみな自らの精気を修治することをいう、と。太歳が酉に在れば「作鄂」と呼ぶ。《淮南子》にいう、作鄂とは零落であり、万物がみな墜落することをいう、と。太歳が戌に在れば「掩茂」と呼ぶ。掩は遮蔽、茂は覆冒であり、万物がみな遮蔽覆蓋されることをいう。太歳が亥に在れば「大淵献」と呼ぶ。淵は深藏、献は迎接であり、万物が亥に至って終わりを告げ、大小を問わず深藏して窟伏し、来年の陽気を迎候することをいう。太歳が子に在れば「困敦」と呼ぶ。困は混、敦は沌であり、陽気がなお混沌の中に処し、万物がまさに嫩芽を萌し始めたばかりであることをいう。太歳が丑に在れば「赤奮若」と呼ぶ。奮は興起、若は順従であり、陽気が奮迅に万物を推し興し、順するものなきに至らず、赤は陽気の色であることをいう。《春秋緯》の記す太陰(太歳)の在る歳名は、《淮南子》《爾雅》とともに異なる。以上は干支別名の大意であり、帰根するにすべて陰陽の気の消長から解釈したものである。だからここに併せて詳細に説明する。

第二 体性を弁ず

體者,以形質為名;性者,以功用為義。以五行體性,資益萬物,故合而辨之。木居少陽之位,春氣和煦溫柔,弱火伏其中,故木以溫柔為體,曲直為性。火居大陽之位,炎熾赫烈,故火以明熱為體,炎上為性。土在四時之中,處季夏之末,陽衰陰長,居位之中,總於四行。積塵成實,積則有間,有間故含容;成實故能持。故土以含散持實為體,稼穡為性。金居少陰之位,西方成物之所,物成則凝強,少陰則清冷,故金以強冷為體,從革為性。水以寒虛為體,潤下為性。

「体」は形状質地について立てた名目であり、「性」は功能作用について定めた含義である。五行の体と性は万物を資養し利益することができる。だから合わせて辨析を加える。木は「少陽」の位に処り、春気は和暖温柔で、微弱な火気が木中に潜伏する。だから木は温柔をもって体とし、曲がりも直にもなれることをもって性とする。火は「太陽」の位に処り、炎熱熾烈である。だから火は明亮灼熱をもって体とし、上に向かって燃焼することをもって性とする。土は四季の中に処り、位は季夏六月の末に当たる。この時陽気は衰減し陰気は増長する。それは中央の位に居り、其余の四行を総管する。塵土が堆積すれば実体に凝り、積み上げれば孔隙を留め、孔隙があればゆえに容納でき、実体に凝るがゆえに承載できる。ゆえに土は含容疏散することも持載堅実することもできるをもって体とし、耕種収穫することをもって性とする。金は「少陰」の位に処り、西方は万物の成熟する処であり、物が一たび成熟すれば凝結し堅強となり、少陰の気は清冷である。だから金は堅強寒冷をもって体とし、模範に順従して変革し器を成すことをもって性とする。水は寒冷虚柔をもって体とし、潤沢し下に流れることをもって性とする。

《洪範》云:木曰曲直,火曰炎上,土曰稼穡,金曰從革,水曰潤下。是其性也。《淮南子》云:天地之襲精為陰陽,陰陽之專精為四時,四時之散精為萬物。積陰之寒氣反者為水,積陽之熱氣反者為火。水雖陰物,陽在其內,故水體內明;火雖陽物,陰在其內,故火體內暗。木為少陽,其體亦含陰氣,故內空虛,外有花葉,敷榮可觀。金為少陰,其體剛利,殺性在外,內亦光明可照。土苞四德,故其體能兼虛實。

《尚書・洪範》にいう、木の性質は曲がりも直にもなること、火の性質は上に向かって燃えること、土の性質は耕種収穫すること、金の性質は範に順い変革すること、水の性質は潤沢し下に流れること、と。これが言うのは五行の「性」である。《淮南子・天文訓》にいう、天地の気が重畳積聚して陰陽となり、陰陽の気が専一凝聚して四時となり、四時の気が散布して万物となる。積聚の陰気のうちに寒気が反転して水となり、積聚の陽気のうちに熱気が反転して火となる。水は陰に属するが、陽気はその中に含まれる。だから水体の内部は明澈である。火は陽に属するが、陰気はその中に含まれる。だから火焔の内心はかえって暗く発する。木は少陽であり、その形体も陰気を含む。だから内部は中空で、外に花を開き葉を茂らせ、繁茂して観るべきものがある。金は少陰であり、その形体は剛硬鋭利で、粛殺の性は外に表れ、内裏も光沢あって人を照らしうる。土は其余四行の徳を兼ね包む。だからその形体は虚と実の両面を兼備しうる。

《洪範傳》曰:木曰曲直者,東方。《易》云:地上之木為觀。言春時出地之木,無不曲直,花葉可觀,如人威儀容貌也。許愼云:地上之可觀者,莫過於木,故相字,目傍木也。古之王者,登輿有鸞和之節,降車有佩玉之度,田狩有三驅之制,飲餞有獻酢之禮,無事不巡幸,無奪民時,以春,農之始也,無貪慾奸謀,所以順木氣。木氣順則如其性,茂盛敷實,以為民用,直者中繩,曲者中鉤。若人君失威儀,酖酒淫緃,重徭厚稅,田獵無度,則木失其性,春不滋長,不為民用,橋樑不從其繩墨,故曰木不曲直也。

《洪範五行伝》にいう、いわゆる「木曰く曲直」とは、木は東方に配属する。《周易》に講ずる、地上に木あればすなわち《観》卦の象である――春に土を破って出る樹木は、曲るもの直なるものなきにあらず、花葉は観賞に供せられ、人の威儀容貌に譬うべし、と。許慎にいう、地面上で最も観るに値するものは樹木に如かず。だから「相」字は「目」旁に「木」を加えて書く、と。古代の君王は、車に登れば鸞鈴と和鈴の相応する節度があり、車を下りれば佩玉の鳴り響く規矩があり、田獵には「三面を駆り一面を開く」の制度があり、飲宴餞行には主客献酬の礼節がある。正事なくば出巡せず、百姓の農時を侵奪せず――春は農事の端緒であるからだ――貪欲奸謀を起こさない。こうすれば木気に順応する。木気が順暢なれば、木は本性を保全し、枝葉は茂盛し結実は累々として、百姓の使用に供し、直きものは墨縄に合し、曲るものは円規に合う。もし国君が威儀を喪失し、酒色に沈湎し放縦無度にして、徭役を加重し横征厚税し、田獵に節制なければ、木は本性を喪失する。春に滋長せず、百姓の取用に供せず、橋梁を造る木材も縄墨規矩に合わない。だからこれを「木曲直ならず」という。

火曰炎上。炎上者,南方,揚光輝在盛夏,氣極上,故曰炎上。王者嚮明而治,蓋取其象。古者明王南面聽政,攬海內雄俊,積之於朝,以助明也;退邪佞之人臣,投之於野,以通壅塞。任得其人,則天下大治,垂拱無為。《易》以離為火,為明;重離,重明,則君臣俱明也。明則順火氣,火氣順則如其性,如其性則能成熟,順人士之用,用之則起,舍之則止。若人君不明,遠賢良,進讒佞,棄法律,疎骨肉,殺忠諫,赦罪人,廢適立庶,以妾為妻,則火失其性,不用則起,隨風斜行,焚宗廟宮室,燎於民居,故曰火不炎上。

いわゆる「火曰く炎上」とは、火は南方に配属し、盛夏の時節にその光輝を揚げ、火気は極力上昇する。だから「炎上」という。君王が光明に面して天下を治めるのは、まさにこの物象に取法する。古の賢明な君王は南面して朝で政を聴き、海内の英傑を朝廷に攬れ入れて、自らの明察を輔佐せしめ、邪佞の臣を斥退して山野に放逐し、壅塞せる言路を疏通した。用人が当を得れば天下は大いに治まり、君王は衣を垂れ手を拱いて無為にして成す。《周易》は離卦をもって火を象り光明を象る。《離》卦は上下ともに離で、「重明」の象であり、君と臣がともに清明であることを意味する。政治が清明なれば火気に順応し、火気が順暢なれば火は本性を保全する。本性を保全すれば食物を烹熟し、人々の使用に順応する。それを用いれば燃え起り、棄置すれば熄滅する。もし国君が昏昧にして、賢良を疎遠し、讒佞を進用し、法律を廃棄し、骨肉至親を疎遠し、忠言を進める人を殺害し、有罪の徒を赦免し、嫡子を廃黜して庶子を立て、妾を抬挙して正妻とすれば、火は本性を喪失する。それを用いる者なくして自ら燃え起り、風に随い斜に蔓延し、宗廟宮室を焚毀し、百姓の住処に延焼する。だからこれを「火炎上せず」という。

土爰稼穡。稼穡者,種曰稼,斂曰穡。土為地道,萬物貫穿而生,故曰稼穡。土居中,以主四季,成四時。中央,為內事宮室夫婦親屬之象。古者天子至於士人,宮室寢處,皆有高卑節度。與其過也,寧儉。禹卑宮室,孔子善之。后夫人左右妾媵有差,九族有序,骨肉有恩,為百姓之所軌則也。如此順中和之氣,則土得其性;得其性,則百穀實而稼穡成。如人君縱意廣宮室臺榭,鏤雕五色,罷盡人力,親疎無別,妻妾過度,則土失其性;土失其性,則氣亂,稼穡不成,故五穀不登,風霧為害,故曰土不稼穡。

いわゆる「土曰く稼穡」とは、播種することを「稼」といい、収斂することを「穡」という。土は大地の道を代表し、万物はそれを穿透して生長して出る。だから稼穡を主るという。土は中央に居り、四季の末月を主管し、一年の四時を成就する。中央はまた宮室の内の家事を象徴し、夫婦と親属の関係を象徴する。古は上は天子より下は士人に至るまで、宮室の居処に高低尊卑の規格があった。奢侈過度するよりは、むしろ倹朴である方がよい。大禹は自ら陋い宮室に住し、孔子は彼を称賛した。王后夫人および左右の妾媵は各々等第があり、九族の親疎に序があり、骨肉の間に恩情があり、百姓の効法する準則となった。こうすれば中和の気に順応し、土は本性を保全する。本性を保全すれば、百穀は充実飽満し、稼穂は成を収める。もし国君が恣意に宮室台榭を拡建し、彫鏤彩絵して五色で装飾し、民力を耗尽し、親疎を分かたず、妻妾を過多に制を逾えれば、土は本性を喪失する。土が性を失えば土気は紊乱し、庄稼は種収せず成せず、因って五穀は歉収し、風災霧害が相継ぎ発生する。だからこれを「土稼穡せず」という。

金曰從革。從革者,革,更也,從範而更,形革成器也。西方物既成,殺氣之盛,故秋氣起而鷹隼擊,春氣動而鷹隼化,此殺生之二端。是以白露為霜,霜者,殺伐之表。王者教兵,集戎事以誅不義,禁暴亂以安百姓。古之人君,安不忘危,以戒不虞,故曰:天下雖安,忘戰者危;國邑雖強,盒摒必亡。殺伐必應義,應義則金氣順,金氣順則如其性,如其性者,工冶鑄作,革形成器。如人君樂侵凌,好攻戰,貪色賂,輕百姓之命,人民騷動,則金失其性,冶鑄不化,凝滯渠堅,不成者眾。秋時萬物皆熟,百穀已熟,若逆金氣,則萬物不成,故曰金不從革。

いわゆる「金曰く従革」とは、「革」は変更である。金は鋳范に順従して変更し、形体を改換して器物を鋳成する。西方は万物がすでに成った地であり、粛殺の気が最も盛んである。だから秋気が一たび起これば、鷹隼は獲物を搏撃し、春気が一たび動けば、鷹隼はまた鳩鳥に化する――これは殺と生の両端である。ゆえに白露が凝結して霜となり、霜はまさに殺伐の気の表徴である。君王は軍隊を訓練し、武事を集結して不義を討伐し、暴乱を禁止して百姓を安んずる。古代の君主は安に居り危を忘れず、意外に備えた。だからいう、天下は安しといえども、戦備を忘れれば危うし。城邑は強盛なりといえども、戦を好めば必ず亡ぶ(この句は底本に「盒摒必亡」とあり、字に訛誤がある)、と。殺伐は必ず道義に合致せねばならない。道義に合致すれば金気は順暢し、金気が順暢なれば金は本性を保全する。本性を保全すれば、工匠が冶煉鋳造して、形を改め器を成すことができる。もし国君が他国を欺凌するを好み、干戈を動するを好み、女色賄賂に貪恋し、百姓の性命を軽賤し、民衆を騒動不安ならしめれば、金は本性を喪失する。冶煉する時熔け開かず、凝滞堅硬で、器を鋳成しないものが多い。秋に万物はみな成熟し、百穀の収成は望みあるのに、金気に違逆すれば、万物は成就できない。だからこれを「金従革せず」という。

水曰潤下。潤下者,水流溼,就汙下也。北方至陰,宗廟祭祀之象。冬,陽之所始,陰之所終,終始者,綱紀時也。死者魂氣上天為神,魄氣下降為鬼,精氣散在於外而不反,故為之宗廟,以收散也。《易》曰:渙,亨,王假有廟。此之謂也。夫聖人之德,又何以加於孝乎。故天子親耕,以供粢盛;王后親蠶,以供祭服,敬之至也。敬之至,則鬼神報之以介福。此順水氣,水氣順,則如其性;如其性,則源泉通流,以利民用。若人君廢祭祀,慢鬼神,逆天時,則水失其性,水暴出,漂溢沒溺,壞城邑,為人之害,故曰水不潤下也。

いわゆる「水曰く潤下」とは、水は潮湿の処に向かって流れ、低窪の地に趨く。北方は至陰の地であり、宗廟祭祀の事を象徴する。冬季は陽気がまさに萌生し始め、陰気が終結に至る時であり、一終一始、まさに時序を統紀する関節である。人が死んだ後、魂気は天に上昇して神となり、魄気は地に下降して鬼となり、精気は散逸して外に出て再び帰らない。だから死者のために宗廟を建立し、これらの散逸の気を收攝するのに用いる。《周易・渙卦》の卦辞にいう、「渙、亨、王假に廟あり」――君王が宗廟に至りて渙散せる人心と神気を聚合する。言うところはまさにこの理である。聖人の徳行、孝を超えるものがあろうか。だから天子は自ら籍田を耕して祭祀用の黍稷に供し、王后は自ら蚕を養って祭祀用の礼服に供する。これは恭敬の極である。恭敬が極に至れば、鬼神は大福をもって彼に報答する。これが水気に順応する。水気が順暢なれば水は本性を保全し、本性を保全すれば源泉は暢通して流れ、百姓の取用に利する。もし国君が祭祀を廃棄し、鬼神を怠慢し、天時に違逆すれば、水は本性を喪失する。暴漲して出で、漫溢淹没し、城邑を冲壊し、人間の災害となる。だからこれを「水潤下せず」という。

第三 数を論ず(ここに五段に分かれる:一は大衍に起り易の動静の数を論じ、二は五行および生成の数を論じ、三は支干の数を論じ、四は納音の数を論じ、五は九宮の数を論ず)

第一 大衍に起り易の動静の数を論ず

凡萬物之始,莫不始於無而後有。是故易有大極,是生兩儀,兩儀生四序。四序,生之所生也,有萬物滋繁,然後萬物生成也。皆由陰陽二氣,鼓舞陶鑄,互相交感。故孤陽不能獨生,單陰不能獨成,必須配合以爐冶,爾乃萬物化通。是則天有其象,精氣下流;地道含化,以資形始。陰陽消長,生殺用成。明其道難明,非數不可究,故因子以辨之。數之顯理,猶筌蹄之取魚兔。陽順唱始,陰佐其終,窮奇偶之數,備相成之道,極變化之源者,詳於蓍策之數也。

凡そ万物の開端は、先に「無」ありて後に「有」あるなきはない。だから《周易・繋辞》にいう、易に太極あり、太極は両儀(陰陽)を生じ、両儀はさらに春夏秋冬の四序を生ず、と。四序とは、生ぜられたる者がまた別の物を生ずることで、そこで万物は滋生繁衍し、然る後に万物は生成を告げる。この一切はみな陰陽二気が鼓動陶鋳し互いに交感して来るところである。だから孤立の陽は単独で物を生ぜず、単一の陰は独りで物を成さず、必ず炉の火の冶鋳のごとく配合してこそ、万物は化育貫通しうる。そこで天は諸々の物象を垂示し、精気は下に流布する。大地の道は含容化育し、形体の初成を資助する。陰陽は彼此に消長し、生養と粛殺はここに完成する。この理を闡明するは難く、「数」を借りなければ窮究できない。だから具体の数目を借りてそれを分辨する。数をもって義理を顕示するは、竹筌をもって魚を捕え、兎網をもって兎を捉えるごとく、物を取る工具である。陽気は順行して首に開端を倡し、陰気は輔佐してその終を成す。奇偶の数を窮め、相輔相成の道を具え、変化の根源を追究するに、最も詳備なるは蓍草揲策の数目の中にある。

七八為靜,九六為動。陽動而進,變七之九,象氣息也。明陽道之舒,以象君德,唱始不休,無所屈後,去極一等,而猶進之,故九動也。陰動而退,變八之六,象氣消也。以明臣法有所屈後,唱和而已。蕝霧近君,則靖息以聽命,必須退讓,以明其義,故八靜也。

筮法において、七と八は「静爻」(変わらぬ爻)であり、九と六は「動爻」(変爻)である。陽爻が発動する時は前進であり、七より九に変じ、陽気の生長滋息を象る。これは陽道の舒展を表明し、君主の徳を象徴するのに用いる。首倡して止まず、人後に屈することを肯じず、極を離れて一等に差しかかるのみ(九はすでに十に近い)でなお前進せんとすれば、だから九をもって陽動の数とする。陰爻が発動する時は後退であり、八より六に変じ、陰気の消減を象る。これは臣たるの法に屈退あるべきを表明し、ただ応和するのみである。近侍の臣が君主に接近すれば、安静に屏息して命令を聴候せねばならず、必ず退譲して君臣の義を顕明にする。だから八をもって陰静の数とする。

《易》曰:分二以象兩,掛一以象三,揲之以四,以象四時者。餘手有四七,故名七也;有四八,故名八也。有此,則靜爻之數。夏殷尚質,以用靜爻占之。餘有四九,故名九也;有四六,故名六也。此則動爻之數。周備質文,故兼用動爻。

《周易・繋辞》は揲蓍成卦の法を講ずる。五十根の蓍策を两把に分け、天地両儀を象る。その中から一根を挂け出し、天地人の三才を象る。さらに四根ごとに数え分けて、四時を象る。分けた後に手中に余るものが、四組の七(すなわち二十八)に合すれば、これを七と呼ぶ。四組の八(すなわち三十二)に合すれば、これを八と呼ぶ――この二つの数は静爻の数である。夏・商の両代は質朴を崇め、静爻をもって占断した。余るものが四組の九(三十六)に合すれば、これを九と呼び、四組の六(二十四)に合すれば、これを六と呼ぶ――この二つの数は動爻の数である。周代は質朴と文飾を兼備し、だから静爻動爻を併用した。

凡大衍極天地之數,五十有五也。京房以十日、十二辰、二十八宿,合應五十。其一不用者,天之生氣,將欲以虛求實,故用四十九焉。馬融以易之大極為北辰也,生兩儀,兩儀生日月,日月生四時,四時生五行,五行生十二月,十二月生二十四氣。北辰居位不動,其餘四十九,轉運而用也。

大衍の数は天地の数を窮め、本は五十五である。京房は十天干・十二地支・二十八宿を加えて、正に五十の数に合し、そのうち一根を留めて用いないのは、上天の生生の気を象徴し、虚空をもって実有を求取しようと欲したからである。だから実際に動用するのは四十九根である。馬融は《周易》の太極は北極星であるとし、太極は両儀を生じ、両儀は日月を生じ、日月は四時を生じ、四時は五行を生じ、五行は十二月を生じ、十二月は二十四節気を生ず(一加二・二・四・五・十二・二十四、計五十)、とした。北極星はその位に居りて動かず、其余の四十九項は転動運行して揲蓍の用に供される。

鄭玄曰:貞悔六爻,本有五十。定所用者,四十有九。天地之數,本五十五。天五與地十通,天一與地六通。數之者氣則有並,並則宜減焉。大衍減五,故有五十;其用減一,故四十有九。不併者,不可減也。

鄭玄にいう、内卦(貞)と外卦(悔)は合わせて六爻で、配合すればもともと五十の数があり、動用するのを四十九と定めた、と。天地の数はもともと五十五である。天の五と地の十は同類相通(同じく土)、天の一と地の六は同類相通(同じく水)である。凡そ相通じて合併するものは、気が重畳し、重畳すれば減ずべきである。大衍の数は合併した五を減ずる。だから五十となる。実際に用いる時はさらに一を減ずる。だから四十九である。それらの相合併しない数は、減じることはできない。

今總其數五十者,天一至地十,凡五十五也。此合生成之數。若止言生數,唯十有五,從一至五也。易之所象,爻盡之,有邃,故自天地以下,日月等數,皆為蓍卦所攝,循環變轉,萬世無窮。而五十有五,五本並數。並數者,天之與地共,各有一體,體各有一正應敵對。今盈於五,則是氣之並數,並不再用,是其配義。配則為虛,不當於實;不當於實,故事無所主,所以揲蓍不用。

今、総じてその数を五十というのは、天一から地十まで数えて、加え合わせて五十五、これが生数と成数を合わせた総和だからである。もし生数だけを講すれば、それは十五のみ、すなわち一至五を加えたものである。《周易》の取る象は、六爻ですでに窮まっており、その中の含義は深邃である。だから天地以下、日月など諸々の数目は、みな蓍策と卦爻に統攝され、循環変転して万世に窮まりがない。この五十五のうち、あの「五」はもともと重複相併の数である。いわゆる相併とは、天と地がともにこの数を有することをいう。天地は各々一つの本体を有し、毎一つの本体はまた各々一つの正に相対し彼此に匹敵する相手を有する。今、多く余ったこの五は、まさに二気の重畳の数である。すでに重畳であれば、再び重复して用いない。これがその「相配」の含義である。すでに相配に過ぎなければ、虚位に落ち、実処に落ちない。実処に落ちなければ、事を弁ずるに主宰する所がない。だから揲蓍の時それを用いない。

又虛其一者,掛一象無。無無可象,故有之用極,則無之功見。故曰:尋大業而得吉凶,尋吉凶而得八卦,尋八卦以得四時,尋四時以至兩儀,尋兩儀以至太極。太極者,大殺而極,窮無之致也。遣有以極邃,減多以就少,此之謂也。故曰:太極無所復象,明其空寂,非言象所詮也。

また別に一根を空けて用いない。すなわち揲蓍の時の「挂一」で、「無」を象徴するのに用いる。「無」はそれ自体、取象できる形象がない。だからただ「有」の作用を極処に推してこそ、「無」の功用が顕現する。ゆえにいう、広大な事業に循って吉凶を求め、吉凶に循って八卦を求め、八卦に循って四時を求め、四時に循って上に両儀に遡り、両儀に循って上に太極に遡る、と。いわゆる太極とは、層層に削減して極処に至り、虚無を窮め尽くして到達する境地である。「有」を捨てて最も深きに至り、繁多を減損して簡少に帰す。言うところはまさにこれである。だからいう、太極にはもはや取象すべきものがない。これはそれが空寂無形で、言語と形象の詮釈しうるところではないことを表明する、と。

第二 五行および生成の数を論ず

行言五者,明萬物雖多,數不過五。故在天為五星,其神為五帝。孔子曰:昔丘聞諸老聃云,天有五行,木金水火土,其神謂之五帝。在地為五方,其鎭為五嶽。《物理論》云:鎭之以五嶽。在人為五藏,其候五官。《黃帝素問》云:五藏候在五官,眼耳口鼻舌也。五行遞相負載,休王相生,生成萬物,運用不休,故云行也。《春秋繁露》云:天地之氣,列為五行。夫五行者,行也。

「行」があえて「五」の字を標挙するのは、万物は多いといえども、帰納すれば数目は五類を出ないことを説明するためである。だから天においてはそれは五星(歳星・熒惑・鎮星・太白・辰星)に表れ、それらを主宰する神を「五帝」と称する。孔子にいう、昔私は老聃が講ずるを聞いた。天に五行あり、すなわち木・金・水・火・土であり、それらの神を五帝と称する、と。地においてはそれは東南西北中の五方に表れ、各方を鎮守するは五岳である。《物理論》にいう、五岳をもって天下を鎮守する、と。人の身においてはそれは五蔵に表れ、五蔵の徴候は五官に顕現する。《黄帝内経・素問》にいう、五蔵の徴候は五官に表れ、すなわち眼・耳・口・鼻・舌である、と。五行は彼此に承載し、時令に随って輪番に当旺・休廃し、また依次に相生して、万物を生成し、運転使用して永く止まらない。だからこれを「行」と称する。《春秋繁露》にいう、天地の気は排列すればすなわち五行である。いわゆる五行とは、まさに「運行」の義を取るのである、と。

《易上繫》曰:天數五。王曰:謂一三五七九也。韓曰:五奇也。地數五。王曰:謂二四六八十也。韓曰:五偶也。五位相得。王曰:五位,金木水火土也。而各有合。王曰:謂水,在天為一,在地為六,六一合於北;火,在天為七,在地為二,二七合於南;金,在天為九,在地為四,四九合於西;木,在天為三,在地為八,三八合於東;土,在天為五,在地為十,五十合於中。故曰:五位相得而各有合。謝曰:陰陽相應,奇偶相配,各有合也。韓曰:天地之數各有五,五數相配,以合成金木水火土也。

《周易・繋辞上》にいう「天数五」――王弼が注解して、一・三・五・七・九を指すといい、韓康伯は五つの奇数であるという。またいう「地数五」――王弼は二・四・六・八・十を指すといい、韓康伯は五つの偶数であるという。またいう「五位相得」――王弼にいう、五位とは金・木・水・火・土の五つの方位である、と。またいう「而各有合」――王弼にいう、水は天の数において一、地の数において六で、六と一は北方に会合する。火は天において七、地において二で、二と七は南方に会合する。金は天において九、地において四で、四と九は西方に会合する。木は天において三、地において八で、三と八は東方に会合する。土は天において五、地において十で、五と十は中央に会合する。だからいう「五位相得て各々合有り」と。謝氏にいう、陰と陽は互相に呼応し、奇数と偶数は互相に匹配し、各々会合がある、と。韓康伯にいう、天数・地数は各々五つあり、この五対の数は彼此相配して、金木水火土の五行を合成するのに用いる、と。

《尚書·洪範》篇曰:五行,一曰水,二曰火,三曰木,四曰金,五曰土。皆其生數。《禮記·月令》篇云:木數八,火數七,金數九,水數六,土數五。皆其成數,唯土言生數。天以一生水於北方。君子之位,陽氣微動於黃泉之下,始動無二,天數與陽合而為一。水雖陰物,陽在於內,從陽之始,故水數一也。極陽生陰,陰始於午,始亦無二。陰陽二氣,各有其始,正應言一,而云二者,以陽尊故。尊既括始,陰卑贊和,配故能生,而陽數偶陰在火中。火雖陽物,義從陰,配合陰始,故從始立義,故火數二也。

《尚書・洪範》篇にいう、五行、第一を水といい、第二を火といい、第三を木といい、第四を金といい、第五を土という、と。この一至五はみな五行の「生数」である。《礼記・月令》篇にいう、木の数は八、火の数は七、金の数は九、水の数は六、土の数は五、と。これらはみな「成数」で、ただ土のみがなお生数五を講ずる。上天は「一」をもって北方に水を生ず。北方は君子の位で、陽気は黄泉の下に悄悄と萌動する。すでに初動であれば、一であるのみで二ではありえず、天数は陽気と合して一となる。水は陰性の物であるが、陽気はその内部に含まれ、陽の起点に隨従する。だから水の生数は一である。陽は極処に至れば陰を生じ、陰気は午位に起始する。開端として、同じく一であるのみである。陰陽二気は各々起点を有し、理の上ではいずれも一と言うべきである。ここで火の数を二というのは、陽が尊貴だからである。尊者はすでに「始」という一を占め去り、陰は卑位に処してただ旁から赞助し応和するのみである。配偶あるがゆえにこそ物を生じ、そこで陽数は陰数と配されて偶数となる。陰気は火の中に蔵する。火は陽性の物であるが、義を取れば陰に隨従し、陰気の始に配合するのに用いる。だから「始」によって義を立て、ここに火の生数は二である。

《老子》云:天得一以清,地得一以寧。是知皆有一義,唱和同始。是以云:木配陽動,而左長於東方,長則滋繁,滋繁則數增,故木數三也。陰佐陽消,陰道右轉,而居於西,在陽之後,理無等義,故金數四也。陰陽之數,始乎一周,然後陽達於中,總括四行,苞則彌多,故土數五也。此並生數,皆云據始,未明成數。數既未成,亦未能為用。

《老子》にいう、天は「一」を得て清明となり、地は「一」を得て安寧となる、と。これによって知られる、天地はいずれも「一」の意義を含み、一唱一和して起点は同じである、と。だからいう、木は陽気の運動に配合し、左に向かって東方に生長する。生長すれば滋衍繁茂し、滋衍繁茂すれば数目は増加する。ゆえに木の生数は三である。陰気は陽気を輔佐してこれを消退せしめ、陰道は右に旋転して西方に居り、位次は陽の後に在る。理の上で陽と同等たりえない。ゆえに金の生数は四である。陰陽の数が第一輪を走り終えた後、陽気は中央に抵達し、其余四行を総括する。包容が多いほど数目は大きい。ゆえに土の生数は五である。以上はみな生数で、講ずるはいずれも各行の開端であり、まだ成数に渉っていない。数がすでに「成」せずんば、まだ作用を発揮すること能わざるなり。

穎容《春秋釋例》云:五行生數,未能變化,各成其事。水凝而未能流行,火有形而未生炎光,木精破而體剛,金強而斫,土滷而斥。於是天以五臨民,君化之。傳曰:配以五成。所以用五者,天之中數也。於是水得於五,其數六,用能潤下;火得於五,其數七,用能炎上;木得於五,其數八,用能曲直;金得於五,其數九,用能從革;土得於五,其數十,用能稼穡。

穎容《春秋釈例》にいう、五行が生数のみの時は、まだ変化して各自その事を成就できない。水は凝滞して流動できず、火は形体あれど光焔を生ぜず、木は精気が離散して形体は僵硬し、金はただ强硬で斫削に供せられるのみ、土は鹹鹵にして作物を排斥する。そこで上天は「五」という数をもって下民を臨照し、君主はこれに拠って教化を施行する。伝文にいう、五を配してこそ成就しうる、と。五を取る所以は、五は天数中の中数だからである。そこで水は五を得てその数は六となり、ようやく潤沢し下流しうる。火は五を得てその数は七となり、ようやく炎熱し上昇しうる。木は五を得てその数は八となり、ようやく曲がりも直にもなりうる。金は五を得てその数は九となり、ようやく範に順い器を成しうる。土は五を得てその数は十となり、ようやく耕種収穫しうる。これが「生数」に五を加えて「成数」を得る推法である。

鄭玄云:數若止五,則陽無匹偶,陰無配義,故合之而成數也。奇者,陽唱於始,為制為度;偶者,陰之本,得陽乃成。故天以一始生水於北方,地以其六而成之,使其流潤也;地以二生火於南方,天以七而成之,使其光曜也;天以三生木於東方,地以其八而成之,使其舒長盛大也;地以四生金於西方,天以九而成之,使其剛利有文章也;天以五合氣於中央生土,地以十而成之,以備天地之間所有之物也。合之,則地之六為天一匹也,天七為地二偶也,地八為天三匹也,天九為地四偶也,地十為天五匹也。陰陽各有合,然後氣性相得,施化行也。

鄭玄にいう、数がもし五までであれば、陽に配偶なく、陰も相配する所なし。だから生数と五とを相合させて成数を構成する、と。奇数は陽に属し、開端に首倡して法度を制定する。偶数は陰の根本で、陽を得てこそ成就する。だから天は一をもって北方に水を生じ始め、地は六をもってこれを成全して、水に流動潤沢せしめる。地は二をもって南方に火を生じ、天は七をもってこれを成全して、火に発光照耀せしめる。天は三をもって東方に木を生じ、地は八をもってこれを成全して、木に舒展生長・壮大茂盛せしめる。地は四をもって西方に金を生じ、天は九をもってこれを成全して、金に堅硬鋭利にして紋理光彩あらしめる。天は五をもって中央に気を合して土を生じ、地は十をもってこれを成全して、天地間の一切の事物を斉備するのに用いる。合わせて見れば、地の六は天の一の配偶、天の七は地の二の配偶、地の八は天の三の配偶、天の九は地の四の配偶、地の十は天の五の配偶である。陰陽は各々配合を有し、然る後に気と性が彼此に契合し、化育を施行して運転する。鄭玄のこの言は二条の推算規律を点出した。一は五つの生数一至五に各々中央の土数五を加えれば、順に六至十の成数を得る。二は凡そ天の奇数によって生ぜられたるは、必ず地の偶数をもってこれを成全し、凡そ地の偶数によって生ぜられたるは、必ず天の奇数をもってこれを成全する。一奇一偶が交錯相配して、五行は初めて能く生じ且つ能く成る。

故四時之運,成於五行。土總四行,居時之季,以成之也。《五行傳》及《白虎通》皆云:木非土不生,根核茂榮;火非土不榮,得木著形;金非土不成,入範成名;水非土不停,堤防禁盈。土扶微助衰,應成其道。故五行更互須土,土王四季而居中央,不以名成時,故知同時俱起,但托義相生。傳曰:五行並起,各以名別。

だから四時の運行は五行に依って成就し、土は其余四行を総管して、毎季の末月に居り、それらを成全するのに用いる。《五行伝》と《白虎通》はともにいう、木は土なくんば生長できず、根鬚は土に依ってこそ茂盛開花する。火は土なくんば旺盛できず、木を得てこそ附着成形する。金は土なくんば器を成せず、模範に入ってこそ名を成す。水は土なくんば停蓄できず、堤防に依ってこそ泛濫を約束できる、と。土は微弱を扶助し、衰敗を接済し、理の上でそれらの道を成全すべきである。だから五行の交替運行はすべて土を離れられない。土は四季末月に旺して中央に居るが、自らの名号をもって某一の時令を命名しない。これによって知られる、五行は実は同時に興起するので、ただ「相生」という説を借りて先後を安排するに過ぎない、と。伝文にいう、五行は一斉に興起し、ただ各々名称をもって相区別するのみである、と。

《常從數義》云:北方亥子,水也,生數一;丑,土也,生數五。一與五相得為六,故水成數六也。東方寅卯,木也,生數三;辰,土也,生數五。三與五相得為八,故木成數八也。南方巳午,火也,生數二;未,土也,生數五。二與五相得為七,故火成數七也。西方申酉,金也,生數四;戌,土也,生數五。四與五相得為九,故金成數九也。

《常従》の書が数の義理を論じていう、北方の亥・子は水に属し、生数は一。丑は土に属し、生数は五。一と五が相合して六を得る。だから水の成数は六である。東方の寅・卯は木に属し、生数は三。辰は土に属し、生数は五。三と五が相合して八を得る。だから木の成数は八である。南方の巳・午は火に属し、生数は二。未は土に属し、生数は五。二と五が相合して七を得る。だから火の成数は七である。西方の申・酉は金に属し、生数は四。戌は土に属し、生数は五。四と五が相合して九を得る。だから金の成数は九である。見えるに、毎一方の二支の後にはいずれも一つの土支が随う。まさにこの土の五に依って、生数は成数に推成されたのである。

中央戊己,土也,生數五。又土之位在中,其數本五,兩五相得為十,故土成數十也。此陰陽兩氣各一周也。共一周,則為生數;各一周,則為成數。陽以輕清上為天,陰以重濁下為地。而陽至第五而入中者,其體躁疾,故共一周而入中;陰至第十方入中者,其體遲殿,故各一周而始入耳。然五行皆得中氣而後成,土居中而王四季,並須土以成之也。

中央の戊・己は土に属し、生数は五。また土の方位が中央にあるがゆえに、その数はもともと五であり、二つの五が相合して十を得る。だから土の成数は十である。これは陰陽二気が各々一周を運行した結果である。二気が共同に一周を走り終えて得るのは生数であり、各自が一周を走り終えて得るのは成数である。陽気は軽清にして上昇して天となり、陰気は重濁にして下沉して地となる。陽は第五に走ると中央に入る。これはその性情が躁急迅疾だからで、ただ共に一周を走れば中に入る。陰は第十に走って初めて中央に入る。これはその性情が遅緩落後だからで、各々一周を走って初めて中に入り始める。要するに五行はみな中央の土気を得て後に初めて成就しうる。土は中央に居りて四季末月に当旺し、各行はいずれもそれに依って成全されなければならない。

《洪範》是上古創制之書,故言生數;《禮記·月令》是時候之書,所貴成就事業,故言成數。唯土言生數者,土以能生為貴,且以成四行,足簡之矣,是其能生能成之義也。鄭玄曰:以天地相配,取陰陽之理;《常從》以支干數和合,取日辰為用。兩說雖別,大意還同,終會《易經》天一至地十之義。

《洪範》は上古に典制を初創した書である。だから生数を講ずる。《礼記・月令》は時令物候を記した書で、看重するのは事業の成就である。だから成数を講ずる。その中でただ土のみがなお生数を講ずるのは、土は能生をもって貴しとし、またそれをもって其余四行を成全するためで、生数をもってすでに概括するに足る。これはまさに土が能く生じ且つ能く成る意義を体現する。鄭玄にいう、一つの講法は天数と地数を相配して、陰陽の理を取る。《常従》は干支の数を以て相和合し、日辰を取って実用に供する。両説は分別あれど、大意はなお相同じく、最終的に《易経》「天一至地十」の義理に帰結する、と。

《孝經援神契》言:以一立,以二謀,以三出,以四孳,以五合,以六嬉,以七變,以八舒,以九列,以十鈞。五行以一立水,一為生數,以五配一,水之成數,故言一立而六嬉。嬉是興義。二,是火之生數;七,是火之成數,故言二謀。火以變化為能,故曰七變。謀者,以其為變之始也。三,木之生數;八,木之成數。五行始於東方,故云三出;八而成長,故曰八舒。四,金之生數;九,金之成數。西方成就,故言四滋;品類不同,故稱九列。五是土之生數,十是土之成數。以天之五,合地之十,數義斯畢。所以五言其合,十言其均。均是成備之義。

《孝経援神契》にいう、一を以て立ち、二を以て謀り、三を以て出で、四を以て孳し、五を以て合し、六を以て嬉し、七を以て変じ、八を以て舒し、九を以て列し、十を以て鈞す、と。この十句はまさに五行の生数と成数に対応する。五行は一をもって水を確立し、一は水の生数である。五を以て一に配して、水の成数六を得る。だから「一立」して「六嬉」という――嬉は興盛の義である。二は火の生数、七は火の成数である。だから「二謀」という。火は変化を以て能事とする。だから「七変」という。「謀」と称する所以は、二は変化の開端だからである。三は木の生数、八は木の成数である。五行は東方から起始する。だから「三出」という。八に長じて成材し舒展する。だから「八舒」という。四は金の生数、九は金の成数である。西方は収成を主る。だから「四孳(滋長成就)」という。万物の品類は各々相同じからず。だから「九列(羅列して行を成す)」と称する。五は土の生数、十は土の成数である。天の五を以て地の十に合して、数の義理はここに完備する。だから五が講ずるは「合」であり、十が講ずるは「均」である――均は斉備成就の意である。

《春秋元命苞》云:胎錯儛,連以鈞。一動,合於二,故陰陽受;成於三,故日月星序;張於四,故時起;立於五,故行動;佈於六,故律踴;分於七,故宿改;萌於八,故風布;極於九,故州吐;畢於十,故功成數止。此並經緯共明五行生成之數,不過十也。

《春秋元命苞》にいう、元気は胞胎のごとく交錯舞动し、連綴して均調を成す。一に動有れば、二と相合する。だから陰陽二気は気を受けて生じうる。三に成就すれば、日月星の三光に次序ある所以。四に張布すれば、四時の興起する所以。五に確立すれば、五行の運転する所以。六に布散すれば、六律の躍動して声を成す所以。七に分判すれば、七宿の更替する所以。八に萌発すれば、八方の風の流布する所以。九に極点に至れば、九州の万物を吐生する所以。十に完畢すれば、功業の成を告げ数目がここに止まる所以。以上は経書と緯書が共同に闡明する道理である。五行生成の数は、総じて十を超えない。

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