Libo

第十四 雑配を論ず・第二 声音を配することを論ず

隋 · 萧吉 · 第5巻 / 11

作盤ガイド: 暦注(黄暦), 万年暦

子產曰:章為五聲。蔡伯喈云:通於耳者為聲。青作角聲,白作商聲,黑作羽聲,赤作徵聲,黃作宮聲。《律曆志》云:角者,觸也,陽氣蠢動,萬物觸地而生也;徵者,祉也,萬物大盛蕃祉也;宮者,中也,居中央,暢四方,唱始施生,為四聲之經;商者,章也,物成章明也;羽者,宇也,物藏聚萃,宇覆之也。

鄭国の大夫子産にいう、五行の気は外に顕発すれば便ち「五声」と成る。すなわち宮・商・角・徵・羽のこの五個の音階である。東漢の蔡邕(字は伯喈)は解釈す、能く耳中に通じて人に聴かるるを、すなわち「声」と呼ぶ、と。五声と五色とは一一に対応す。青色は角声に配し、白色は商声に配し、黒色は羽声に配し、赤色は徵声に配し、黄色は宮声に配す。《漢書・律暦志》は同音相訓の弁法を用いてこの五個の名目の由来を講ず。「角」とはすなわち「触」である。春は陽気が萌動し、万物は地面を頂開して钻り出づ。だから角と呼ぶ。「徵」とはすなわち「祉」で、福盛の意である。夏は万物が極盛にして繁茂す。だから徵と呼ぶ。「宮」とはすなわち「中」で、それは中央に居りて四方に暢通し、率先して調を起こし生機を発動す。其余四声の依拠する所の骨干で、だから四声の綱紀と称す。「商」とはすなわち「章」で、秋は万物成熟して紋理彰明す。だから商と呼ぶ。「羽」とはすなわち「宇」で、冬は万物収蔵聚積し、屋宇のごとくそれらを覆蓋す。だから羽と呼ぶ。

《樂緯》云:春氣和,則角聲調;夏氣和,則徵聲調;季夏氣和,則宮聲調;秋氣和,則商聲調;冬氣和,則羽聲調。《樂記》曰:宮為君,故宮亂則荒,其君驕;商為臣,商亂則陂,其臣壞;徵為事,徵亂則哀,其事勤;羽為物,羽亂則危,其財匱;角為民,角亂則憂,其民怨。五者不亂,則天下和平,無弊敗之音。《素問》云:木音角,在聲為呼;火音徵,在聲為笑;土音宮,在聲為歌;金音商,在聲為哭;水音羽,在聲為呻。

緯書《楽緯》は五声を四時に配して、音准を以て節気を験証す。春は木気が調和すれば、角声はすなわち准ず。夏は火気が調和すれば、徵声はすなわち准ず。季夏六月は土気が調和すれば、宮声はすなわち准ず。秋は金気が調和すれば、商声はすなわち准ず。冬は水気が調和すれば、羽声はすなわち准ず。《礼記・楽記》は則ち五声を人事に配して、楽音の失序を以て政治を占験す。宮は君主を代表し、宮音が乱れれば楽調は荒散して、君主の驕縦を説明す。商は臣子を代表し、商音が乱れれば楽調は偏欹して、臣下の敗壊を説明す。徵は政事を代表し、徵音が乱れれば楽調は哀傷して、徭役の煩苦を説明す。羽は財物を代表し、羽音が乱れれば楽調は危迫して、府庫の空虚を説明す。角は百姓を代表し、角音が乱れれば楽調は憂愁して、民に怨気あるを説明す。五者ともに乱れざれば、天下は自然に和平にして、また敗壊の音を聴くことなし。《黄帝内経・素問》はまた五音を人の発声の形態に配す。木の音は角で、人声に見えればすなわち呼喊。火の音は徵で、人声に見えればすなわち歓笑。土の音は宮で、人声に見えればすなわち歌唱。金の音は商で、人声に見えればすなわち哭泣。水の音は羽で、人声に見えればすなわち呻吟。

《樂記》曰:樂者,音之所由生,其本在人心之感於物。是故哀心感者,其聲噍以殺;樂心感者,其聲嘽以緩;喜心感者,其聲發以散;怒心感者,其聲粗以厲;貞心感者,其聲直以廉;愛心感者,其聲和以婉。六者非性也,感於物而後動。審聲以知音,審音以知樂,審樂以知政,而治道備矣。故《詩序》曰:聲成文謂之音。治世之音安以樂,其政和;亂世之音怨以怒,其政乖;亡國之音哀以思,其民困。

《礼記・楽記》にいう、楽は音より生出するに、しかして音の根源は人心が外物に触動せらるるに在り。だから、心の哀傷に触動せられたる者の発する声音は急促して衰微し、快楽に触動せられたるは、声音は寛舒して和緩し、喜悦に触動せられたるは、声音は昂揚して発散し、憤怒に触動せられたるは、声音は粗重して厳厲し、端正の心に触動せられたるは、声音は剛直して棱角あり、愛意に触動せられたるは、声音は柔和して婉転す。この六種の声音は人性中にもとより有する定形にあらず。みな心が外物に感発せられて後に動き起こる。因って、声の清濁高下を辨別すれば能く音を懂り、音の組合を辨別すれば能く楽を懂り、楽の気象を辨別すれば能く政治を懂る。治国の道はここに由りて完備す。だから《毛詩序》にいう、声は一定の條理に按って組織して文采と成り、こそ音と呼ぶ。太平の世の音は安詳にして歓愉なるは、その政治の平和なるがゆえ。乱世の音は怨恨にして憤怒なるは、その政治の乖違なるがゆえ。亡国の音は哀傷にして愁思なるは、その百姓の困苦なるがゆえ、と。

《大戴禮·觀人篇》云:誠在其中,必見諸外,以其見占其隱,以其細占其大,聲象其實。氣初生物,物生有聲,聲有剛柔清濁,好惡咸發於聲。故心氣譁誕者,其聲流散;心氣順信者,其聲順節;心氣鄙戾者,其聲腥丑;心氣寬柔者,其聲溫和。故聖人聽其聲,觀其色,知其善惡。夫獨發者謂之聲,合和者謂之音。《毛詩序》云:聲成文謂之音。故因五聲而有八音。

《大戴礼記》の《観人》篇(今本は《文王官人》と作る)にいう、真実の物は心裏に存在すれば、必ず外面に顕露し出づ。だって以て顕露するに憑りて隠藏するを推測し、細微に憑りて重大を推測しうる。――声音は正に内心の実況の写照である。気は最初に万物を化生し、万物はすなわち生じれば便ち声を帯びる。声に剛あり柔あり、清あり濁あり。人の好悪もまた全く声の裏より透出す。因って心気が浮夸虚诞の人は、声音は散漫して収まらず。心気が和順誠信の人は、声音は節度に合す。心気が鄙陋暴戾の人は、声音は粗悪にして聴き難し。心気が寛和柔順の人は、声音は温潤平和。だから聖人は彼の説話する声を聴き、彼の臉上の色を看れば、能く彼の善か悪かを知る。単独に発し出すを「声」と呼び、衆声が配合協調し起こるを「音」と呼ぶ。《毛詩序》に「声は條理に按って文を成してこそ音と呼ぶ」といい、正にこの意である。また正に宮商角徵羽の五声あるがゆえに、さらに進んで「八音」を配出す。

《樂緯》云:物以三成,以五立,三與五如八,故音以八。八音:金、石、絲、竹、土、木、匏、革,以發宮、商、角、徵、羽也。金為鍾,石為磬,絲為弦,竹為管,土為壎,木為柷圄,匏為笙,革為鼓。鼓主震,笙主巽,柷圄主干,壎主艮,管主坎,弦主離,磬主坤,鍾主兌。

《楽緯》は「八音」の数の来歴を解釈す。万物は「三」に憑りて成る。たとえば天・地・人の三才のごとし。「五」に憑りて立つ。たとえば五行のごとし。三に五を加えて八を得。だから楽器の門類を八種に定む。八音は金・石・絲・竹・土・木・匏・革の八類の制器の材質を指し、それらを用いて宮・商・角・徵・羽の五声を奏出す。具体的に言えば、金類は鐘、石類は磬、絲類は琴瑟の一類の弦楽、竹類は管簫、土類は陶塤、木類は柷・敔(文中は「柷圄」と作る)、匏類は笙、革類は鼓。八音はまた各々一卦に配す。鼓は震に配し、笙は巽に配し、柷敔は乾に配し、塤は艮に配し、管は坎に配し、弦は離に配し、磬は坤に配し、鐘は兌に配す。――これはすなわち楽器・方位と八節とを貫通して一組の体系と為す。

《樂緯·汁圖徵篇》云:坎主冬至,宮者,君之象,人有君然後萬物成,氣有黃鍾之宮然後萬物調,所以始正天下也。能與天地同儀、神明合德者,則七始八終,各得其宜,而天子穆穆,四方取始,故樂用管。艮主立春,陽氣始出,言雷動百里,聖人授民田亦不過百畝,此天地之分。黃鍾之度九,而調八音,故聖人以九頃成八家。上農夫食九口,中者七口,下者五口,是為富者不足以奢,貧者無飢餒之憂,三年餘一年之蓄,九年餘三年之蓄,此黃鍾之所成,以消息之和,故樂用壎。

《楽緯・汁図徵》篇は八卦に按って八箇の節気を分主し、逐一にその節令の用うる楽器およびその中の治国の義を説明す。坎卦は冬至を主る。宮は君主の象徴で、君主あらんて後万物はこそ成就を得る。同じく音律中に「黄鐘」のこの宮音あって基准を作れば、こそ衆律は調准を得る。だから黄鐘の宮は天下を端正する起点という。君主はもし天地と同一法度・神明と同一徳行しえれば、則ち「七始八終」――七音が調を起こし八風が成を終えるのこの一整套の楽制――はすなわち各々その宜を得、天子の儀容は庄穆にして、四方はみな彼を以て準則と為す。冬至の楽は竹管を用いる。艮卦は立春を主る。陽気は剛に土を出で、雷声は百里を動かしうるも、聖人の百姓に授ける田は不過百亩。これは天地の划定する分限に取法する。黄鐘の律は長さ九寸、九を以て度として八音を調協す。だから聖人は九頃の田を八家に分与し、八家は各々百亩を得、余下の百亩を公田と為す。上等農夫の収成は九口の人を養いうる。中の等は七口を養い、下の等は五口を養う。このようにして富は奢侈に至らず、窮は挨餓に致らず、三年耕せば一年の儲備を余し、九年耕せば三年の儲備を余す。これらはみな黄鐘の数の成就する所で、以て陰陽の消長を調和す。だから立春の楽は陶塤を用いる。

震主春分,天地陰陽分均,故聖王法承天以立五均。五均者,六律調五聲之均也。音至眾也,聲不過五;物至蕃也,均不過五。為富者慮貧,強者不侵弱,智者不詐愚,市無二價,萬物同均,四時當得,公家有餘,恩及天下,與天地同徳,故樂用鼓。巽主立夏,自萬物長短各有差,故聖王法承天以法授事焉,尊卑各有等,於士則義讓有禮,君臣有差,上下皆次,治道行,故樂用笙。

震卦は春分を主る。この日は昼夜均分にして陰陽相等し。だから聖王は上天を効法して「五均」の制を設立す。「均」はもともと調律に用いる准器で、「五均」とはすなわち六律を用いて五声を校定するのあの一組の標準である。政治に引申せば、すなわち官府が物価を平抑し貧富を均斉する制度である。音色は千変万化すれども、帰根到底は五声を出でず。物類は極めて繁多なれども、帰根到底は五均を出でず。そこで富人は窮人のために着想し、強は弱を欺凌せず、聡明は愚鈍を欺詐せず、市面上は同じ物に両価を出さず、万物は各々その平を得、四時は各々その宜を得、公家に余財あり、恩沢は天下に遍及す。これはすなわち天地の徳行と相同じ。春分の楽は鼓を用いる。巽卦は立夏を主る。万物は長ってこの時に至り、高下長短は各々差別あり。だから聖王は上天を効法して、才能に按って職事を授予し、尊卑をして各々等級あらしめ、士人の間は謙譲有礼を講じ、君臣に分際あり、上下に次第あり、治国の道はここに由りて推行す。立夏の楽は笙を用いる。

離主夏至,陽始下陰,又成物,故聖王法承天以法授衣服制度,所以明禮義,顯貴賤,明燭其徳,率之以度,則女功有差,男行有禮,故樂用弦。坤主立秋,陽氣方入,陰氣用事,昆蟲首穴欲蟄,故聖王法之,授宮室度量,又章制有宜,大小有法,貴賤有差,上下有順,故樂用磬。

離卦は夏至を主る。この日は陽気は極点に升りて下降を始め、初生の陰気と交合して万物を成す。だから聖王は上天を効法して、衣服の制度を頒定し、それを以て礼義を彰明し貴賤を区別し、人の徳行をして燭火のごとく分明に照らさしめ、併せて尺度を以て約束を加う。この如くすれば、女子の紡織の功に等差あり、男子の挙止に礼節あり。夏至の楽は琴瑟の一類の絲弦を用いる。坤卦は立秋を主る。陽気は収斂して内に入るを始め、陰気は当令し、昆虫は頭を洞穴に朝向し蟄蔵を準備す。だから聖王はこの種の帰蔵の象に取法して、宮室の規格と度量を頒定し、章程制度をして各々その宜を得しめ、房屋の大小に法度あり、貴賤に差別あり、上下に秩序あり。立秋の楽は石磬を用いる。

兌主秋分,天地萬物人功皆以定,故聖王法承天以定爵祿。爵祿者不過其能。宮為君,商為臣。商,章也,言臣章明君之功徳。尊卑有位,位有物,物有宜,功成者爵賞,功敗者刑罰,故樂用鍾。干主立冬,陰陽終而復始,萬物死而復甦,故聖王法承天以制刑法,誅一動千,殺一感萬,使死者不恨,生者不怨,故樂用柷梧。

兌卦は秋分を主る。天地間の万物と人の功業は此に到ってすでに定局す。だから聖王は上天を効法して爵位俸禄を核定し、爵を授くるに本人の才能を超出せず。宮は君、商は臣。「商」とはすなわち「章」で、意は臣子は君主の功徳を彰明するを要す。このようにして尊卑は各々その位あり、位上に各々相称の儀物あり、儀物に各々その宜あり。成功するは爵を授け賞を行い、失敗するは法に依りて処罰す。秋分の楽は鐘を用いる。乾卦は立冬を主る。陰陽は一輪終結してまた重新に開始し、万物は死するを似るも能く復蘇す。だから聖王は上天を効法して刑法を制定し、一人を誅殺して千人を警動しうるに到り、一人を処死して万人を震撼しうるに到るを致し、処死せられたる人は恨を含まず、活下来の人は埋怨せず。立冬の楽は柷・敔を用いる(文中は「柷梧」と作る。楽を起こすと楽を止めるの二種の木製楽器)。

《國語》曰:瓦絲琴瑟尚宮,鍾金尚羽,石尚角,匏竹尚徵,革木尚商。呂以和樂,律以平聲,金石以動之,絲竹以行之,歌以詠之,匏以宣之,瓦以贊之,革木以節之。物得其常曰樂,所奪曰擊,相保曰和,細大不踰曰平。瓦絲皆大也,故尚宮,子母相應之道;鍾金尚羽,亦然;石尚角者,石,金也,與角為牝杜相和之義;匏,土也,竹,木也,尚徵,亦子母相應也;革木俱角,尚商,亦以牝杜相和也。

《国語・周語》は周景王が楽官の伶州鳩に楽を問うを記して、各類楽器の崇尙する音を講ず。陶塤と琴瑟は宮音を崇尙し、鐘等の金属楽器は羽音を崇尙し、石磬は角音を崇尙し、笙と竹管は徵音を崇尙し、鼓と柷敔は商音を崇尙す。六呂は以て楽調を協和し、六律は以て声高を校平す。金石の器は頭を起こし発動し、絲竹の器は承接し推行し、人声は歌唱を以て咏嘆し、匏笙は以て宣暢し、陶器は以て輔助し、革木は以て節拍を打つ。万物が各々その常態を得るを「楽」と呼び、侵奪せられ秩序を失うを「撃」と呼び、彼此相保するを「和」と呼び、細声大声ともに分を越えざるを「平」と呼ぶ。蕭吉は続けてこれらの配法の五行の道理を解釈す。陶と絲の声はみな大声に属す。だから宮音を崇尙す。これは母子相応の理である。金鐘の羽音を崇尙するもまた同じ道理。石磬の角を崇尙するは、石は金に帰し、金と角の属する木とは雌雄相配・剛柔相済の義なるがゆえ。匏は土に属し竹は木に属するに、しかして火に属する徵を崇尙するも、また母子相応である。革と木はみな角木に帰属するに、しかれども金に属する商を崇尙するは、同じく雌雄相和の義を取る。

宮聲和以舒,其和博以柔,動脾;商聲散以明,其和溫以虛,動肺;角聲防以約,其和靜以清,動肝;徵聲敗以疾,其和平以均,動心;羽聲疾以虛,其和短以散,動腎。《黃帝兵決》云:兩敵相當,使人去敵營一百二十步,以管注耳聽之。聞隆隆如車、如雷、如鼓聲者,宮也,其將寬和有信。

五声は各々音色あり、また各々一箇の臓器を牽動す。宮声は平和にして舒展し、その和音は広博柔緩にして、脾を牽動す。商声は疏散にして明朗、和音は温潤中虚にして、肺を牽動す。角声は収束して節制あり、和音は安静清越にして、肝を牽動す。徵声は促迫して急速、和音は平正均勻にして、心を牽動す。羽声は疾利にして虚渺、和音は短促発散にして、腎を牽動す。《黄帝兵訣》はこの組の声を聴く法を軍事上に用いる。両軍が対塁する時、人を遣わして敵営より一百二十歩の処に走り至り、竹管を用いて耳朵に貼住して地声を聴かしむ。もし隆隆の響きを聴かば、車行のごとく・雷鳴のごとく・擂鼓のごとく、あれは宮音で、相手方の主将は寛厚平和にして信用を講ずるを説明す。

聞金石相和,轟轟擊攻,如鍾磬霹靂聲者,商也,其將威怒好殺,宜數忿之。聞如奔馬炎炮掣裂聲者,征也,其將猛烈勇敢,難與爭鋒。聞肅肅習習,如動樹木,如人呼愁愁聲者,角也,其將仁恕不可欺。聞滔滔如流水揚波,激氣相笑聲者,羽也,其將貪冒多姧謀。審此五音,以知敵性。候風之聲,亦皆如之。此並論音聲之狀,故以備釋。

もし金石の交鳴・轟轟の撞撃を聴かば、鐘磬の斉響のごとく・霹靂の炸裂のごとく、あれは商音で、相手方の主将は威猛易怒にして殺を嗜み、宜しく屢々彼を激怒せしめてその失措を致すべし。もし奔馬の疾馳のごとき・烈火の爆裂撕开のごときを聴かば、あれは徵音で、相手方の主将は猛烈勇敢にして、彼と正面に争鋒すべからず。もし粛粛習習を聴かば、風の樹木を吹動するごとく・人の愁嘆の声を発するごとく、あれは角音で、相手方の主将は仁厚寛恕にして、欺詐の術を以て彼に対付すべからず。もし滔滔として流水の波を揚げ、気息の激蕩して相与に調笑するがごときを聴かば、あれは羽音で、相手方の主将は貪婪冒進にして奸謀多し。この五種の声音を審察すれば、すなわち敵方主将の性情を推知しうる。同じ弁法を用いて風声を聴候して占断するも、道理もみなこの類に照らして推す。以上はみな声音の諸種の形態を講ず。だからここに詳しく解説を加える。

第十四 雑配を論ず・第三 気味を配することを論ず

子產云:氣為五味。鄭玄云:通口者為五味,通鼻者為五臭。《禮記·月令》云:春之日,其味酸,其臭羶,木之臭味也。《說文》云:羶者,羊臭。春物氣與羊相類。木所以酸者,象東方萬物之生。酸者,鑽也,言萬物鑽地而出生,五味得酸乃達也。《元命苞》云:酸之言端也,氣始生,專心自端也。

子産にいう、五行の気は口舌上に落ちて「五味」と成る。すなわち酸・苦・甘・辛・鹹。東漢の鄭玄はさらに進んで区別す。口裏に通ずるは五味で、鼻中に通ずるは「五臭」。すなわち膻・焦・香・腥・朽の五種の気息である。《礼記・月令》にいう、春の当令する味は酸、気は膻。これは木の臭味である。《説文解字》は「膻」を解釈してすなわち羊の身上の気味とし、春は万物の気と羊気とが同類なるがゆえに(羊は五行において火に属すに、その気は木に近し。故に春は膻に配す)。木の酸に配する所以は、東方の万物初生に取象す。「酸」と「钻」とは同音にして相訓す。言うは万物が土層を钻破して生ずるに、五味の中にもまた酸あらざれば味道を通達せしめえざるを要す。緯書《春秋元命苞》は則ちいう、「酸」とはすなわち「端」で、気は剛に萌生を始むる時、専一その心にして自ら端正を守る。だから酸と呼ぶ、と。

《禮記》云:夏之日,其味苦,其臭焦。火所以苦者,南方主長養也。苦者,所以長養之,五味須苦乃以養之。《元命苞》云:苦者,勤苦乃能養也。《方言》:苦,快也。臭焦者,陽氣蒸動,燎火之氣也。許慎云:焦者,火燒物有焦燃之氣,夏氣同也。《禮記》云:季夏之日,其味甘,其臭香。土味所以甘者,中央中和也,甘美也。《元命苞》云:甘者,食常言安其味也。甘味為五味之主,猶土之和成於四行也。臭香者,土之氣香為主也。許慎云:土得其中和之氣,故香也。

《礼記・月令》にいう、夏の当令する味は苦、気は焦。火の苦に配する所以は、南方は生長養育を主管するに、「苦」は正に辛勤養育の義あり。五味中に必ず苦あらざれば養の作用を起こしえざるを要す。《春秋元命苞》にいう、いわゆる苦とは、すなわち苦に肯んじるを要してこそ養い成しうる、と。揚雄《方言》はまた「苦」を記載してある方言の裏に「快」(暢快)に訓作す。見えるにこの字の義は単一ならず。気の焦に配するは、陽気が蒸騰鼓動して、正に烈火の燎焼する気息のごときがゆえ。許慎は解釈す、「焦」とはすなわち火が物を焼く時のあの焦糊の味で、夏の気はそれと相同じ、と。《礼記・月令》にまたいう、季夏(六月、土王の月)の当令する味は甘、気は香。土味の甘に配する所以は、それは中央に居りて性は中和にして、甘とはすなわち甘美和順であるがゆえ。《春秋元命苞》にいう、「甘」とは日常の飲食の裏に人をして安適を覚えしむるあの種の味道を指す、と。甘は五味の主脳で、正に土が中に居りて調和して其余の四行を成就するがごとし。気の香に配するは、土気は芳香を以て主と為すがゆえ。許慎にいう、土は中和の気を禀受す。だから香気を発出す、と。

《禮記》云:秋之日,其臭腥,其味辛。西方殺氣腥也。許慎云:未熟之氣腥也,西方金之氣象此。味辛者,物得辛乃萎殺也。亦云:故新之辛也,故物皆盡,新物已成,故云新。《元命苞》云:陰害故辛,殺義故辛刺,陰氣使其然也。《禮記》云:冬之日,其味醎,其臭朽。朽者,水之氣也,若有若無,言氣微也。亦云:水者受垢濁,故其臭腐朽也。許慎云:朽爛之氣,北方氣同此。其味醎者,北方物醎,所以堅之也,猶五味得醎乃堅也。許慎云:醎者,銜也。《元命苞》云:醎者,鎌。鎌,清也。至寒之氣,故使其清而醎。

《礼記・月令》にいう、秋の当令する気は腥、味は辛。西方の粛殺の気は発して腥味と為る。許慎にいう、腥は食物の未熟の時の気味で、西方の金気は正にこの様子に似る、と。味の辛に配するは、万物が辛味に遇えば萎縮凋殺するがゆえ。別に一種の講法は「辛」を「新」と読作す。旧物は秋に到って全部凋尽し、新物はこれに隨って成熟す。だから「新」と呼ぶ。《春秋元命苞》にいう、陰気は物を傷るを始む。だから味は辛。辛味に粛殺の義あり。だから口を刺す。これは陰気がそれをこのようせしめる、と。《礼記・月令》にまたいう、冬の当令する味は鹹、気は朽。「朽」は水の気息で、あるがごとき無きがごとく、その気の微弱を形容す。あるいはいう、水は污垢濁物を承受す。だから気味は腐朽す、と。許慎にいう、朽は腐爛の気で、北方の気はこれと相同じ、と。味の鹹に配するは、北方の物は味が鹹にして、鹹は能く物を堅実せしむ。正に五味中に鹹を得てこそその体を堅定しうるがごとし。許慎はまた同音を用いて訓釈す。「鹹」とはすなわち「銜」(含銜収束)である。《春秋元命苞》は則ちいう、「鹹」は「鎌」で、鎌は清冷の義。極寒の気は水をして清冽ならしむ。だから味は鹹、と。

鄭玄云:五味酰酸,酒苦,蜜甘,姜辛,鹽醎。《黃帝甲乙經》言:谷則米甘,麻酸,大豆醎,麥苦,黍辛,一雲稻米辛;菓則棗甘,李酸,栗醎,杏苦,桃辛;菜則葵甘,韮酸,藿醎,薤苦,蔥辛;畜則牛甘,犬酸,彘醎,羊苦,雞辛。《本草》云:石則玉甘,金辛,雄黃苦,會青酸,赤石脂醎;草則茯苓甘,桂心辛,天門冬苦,五味子酸,玄參醎;蟲則蜚零甘,蚿辛,蛇蚺苦,伊威酸,蜥蜴醎。藥食之物例多,且舉大略配五味如此,皆是五行氣所生,氣有偏,故其味則別。

鄭玄は日常の調味品を挙げて例と為す。醋は酸、酒は苦、蜜は甘、姜は辛、塩は鹹。《黄帝甲乙経》(すなわち皇甫謐《鍼灸甲乙経》)は類に按って列挙す。穀物の中、稷米は甘、麻は酸、大豆は鹹、麦は苦、黍は辛。別の一説は稲米は辛に属す。果品の中、棗は甘、李は酸、栗は鹹、杏は苦、桃は辛。蔬菜の中、葵は甘、韭は酸、豆葉は鹹、薤は苦、葱は辛。家畜の中、牛は甘、犬は酸、猪は鹹、羊は苦、鶏は辛。《神農本草経》はさらに薬物に按って三類に分かち列挙す。鉱石類は、玉は甘、金は辛、雄黄は苦、曾青(文中は「会青」と作る)は酸、赤石脂は鹹。草木類は、茯苓は甘、桂心は辛、天門冬は苦、五味子は酸、玄参は鹹。虫類は、蜚零は甘、馬陸の一類(原書の虫名の第二字は罕見の異体で、字書に失載)は辛、蚺蛇は苦、伊威(一種の潮虫)は酸、蜥蜴は鹹。薬に入り食に入りうる物はあまりに多し。ここはただその大略を挙げて五味に配す。凡そこれはみな五行の気の生ずる所に由り、ある物は禀気に偏勝する所有れば、味道もまたこれに隨って分別す。

總而言之,五穀則芒以配木,散以配火,房以配金,莢以配水,萃以配土。芒,大小麥之屬;散,糜黍之屬;房,胡麻之屬;莢,大小豆之屬;萃,稷粟之屬。芒者,取其鋒芒纖長,象木生出地,如鋒芒也。散,舒也,象火氣溫暖,物舒散也。房,方也,象金裁割,體方正也。莢,狹也,象水流長而狹也。萃,聚也,象萬物皆聚於土,乃為用也。

総じて言えば、五穀は果実の形態に按って五行に配しうる。芒を帯びるは木に配し、松散のは火に配し、房を成すは金に配し、荚を結ぶは水に配し、穂を聚めるは土に配す。芒を帯びるとは大麦小麦の一類を指し、松散とは糜子黍子の一類を指し、房を成すとは胡麻(芝麻)の一類を指し、荚を結ぶとは大豆小豆の一類を指し、穂を聚めるとは稷と粟の一類を指す。取象の理由は、「芒」はその鋒芒の細長を取り、草木の土を破り出ずる時の尖芒に似る。故に木に属す。「散」とはすなわち舒展で、火気の温暖にして物を舒散せしむるに似る。故に火に属す。「房」とはすなわち方で、金の能く裁割し、その体方正なるに似る。故に金に属す。「荚」とはすなわち狭で、水流の細長にして狭きに似る。故に水に属す。「萃」とはすなわち聚で、万物の聚まり土に帰してこそ人の用いる所と為るに似る。故に土に属す。

五菓則子以配木,核以配火,皮以配金,殼以配水,房以配土。子,棃之屬;核,桃李之屬;皮,柑橘之屬;殼,胡桃栗之屬;房,蒲陶之屬。子取其含潤,如木生光潤,子實茂盛。核取其在肉內不堪食,如火陰在內,無所堪容。皮取其厚急,如金氣衰老,物至西方而急縮也。殼取其肉在內堪食,如水陽在內,堪能容納也。房取其結聚如土,物皆聚也。此則總論谷菓,以配五味,則略如前釋。

五果は同じく構造に按って五行に配す。子多きは木に配し、核あるは火に配し、皮重なるは金に配し、殻を帯びるは水に配し、房を成し串を成すは土に配す。子多きはたとえば梨(原書の果名の第二字は罕見の異体で、字書に失載)のごとく、核あるは桃李のごとく、皮重なるは柑橘のごとく、殻を帯びるは胡桃と栗のごとく、房を成すは葡萄(文中は「蒲陶」と作る)のごとし。取象の理由は、子多き果実は汁潤を含着し、草木の生発する時の光潤にして子実の繁盛なるに似る。故に木に属す。核あるは果核が果肉の裏に裹まれて食べえず、火の卦象の外陽内陰・裏面空虚にして容受する所なきに似る。故に火に属す。柑橘の皮は厚くして緊縮し、金気の衰老階段に到り、万物は西方に行きて急劇に収縮するに似る。故に金に属す。胡桃板栗は殻が外に在りて食べうる肉は内に在り、水の卦象の外陰内陽・内裏は能く容納するに似る。故に水に属す。葡萄は一串串に結して一処に聚まり、万物の聚まり土に帰するに似る。故に土に属す。以上は穀と果とがいかに五味に配属するかを通論する。大略は前に釈ししがごとし。

《月令》云:春食麥與羊,麥有孚甲,故屬木;羊火畜,春氣猶寒,以此安性。夏食菽與雞,菽有孚甲而堅,合於水;雞屬木畜,故為熱時所食。中央食稷與牛,稷是谷之長,牛是土畜,以其甘和,故象於時。秋食麻與犬,麻屬金,犬亦金畜,故從秋也。冬食黍與豕,黍舒散屬火,豕水畜,兼其水火,以為冬食。

《礼記・月令》は四時の主食と主肉を規定し、鄭玄は逐條に理由を講ず。春は麦と羊肉を食う。麦粒は外に硬殻(孚甲)ありて能く殻を裂き出づ。だから木に属す。羊は火性の家畜で、春は余寒まだ尽きず、火性の羊肉を食えば以て体性を安養しうる。夏は豆と鶏肉を食う。豆にもまた荚殻ありて質地堅実にして、水の堅斂と相合す。鶏は木性の家畜で、だから炎熱の時にそれを食う。季夏の土王の時は稷と牛肉を食う。稷は百穀の長で、牛は土性の家畜で、ともに甘和を以て性と為す。正にこの時の象に合す。秋は麻と狗肉を食う。麻は金に属し、狗もまた金性の家畜で、だから秋に順って食す。冬は黍と猪肉を食う。黍性は舒散して火に属し、猪は水性の家畜で、水火兼備し、以て冬の飲食と為す。

此之五食,義有不同。春猶寒,食溫;夏方熱,食寒。此意可解者。甘味和,故隨時適用,此亦可解。秋冬兩食,此應宜熱,所以不熱,其故何也?若依蔡邕解,直云食味相宜,則無復疑;若依鄭解,則誠未盡。今廣鄭言:少陽、太陽,其氣舒散;少陰、太陰,其氣斂閉。故河上公解《老子》言:躁氣在上,陽氣伏於下,所以故寒;靜氣在上,陰氣伏於下,所以故熱。人體陰陽,義亦如是。春夏舒散,陽氣開發,宜以溫食,用和陰氣;秋冬閉斂,陽氣在內,宜用寒食,以調陽氣。冬兼水火,又異於秋,正以藏閉之時,事甚於秋,故均以水火也。

この五種の時令飲食は、取義は各々相同じからず。春はなお冷えるがゆえに温性を食い、夏は正に熱するがゆえに寒性を食う。この両條は理解し易し。甘味は平和にして、随時取用しうる。この一條もまた講じて通ず。しかれども秋冬の両季は理に按れば熱性を食うべきに、なにゆえかえって熱食を用いざるか。もし蔡邕の解釈に照らせば、ただ「食味は時令と相宜なり」と言って便ち罷み、倒れても追問するを要せず。もし鄭玄の解釈に照らせば、言うに透徹せざるを得ず。今、鄭玄のために話を補足す。少陽(春)と太陽(夏)の気は外に向かって舒散し、少陰(秋)と太陰(冬)の気は内に向かって斂閉す。だから河上公の《老子》注にいう、浮躁の気が上面に浮かぶ時、陽気は実は下に潜伏す。因って地面はかえって寒し。沈静の気が上に在る時、陰気は下に潜伏す。因って地下はかえって熱し、と。人身の陰陽もまた同一の道理。春夏の気は外に散じ、陽は表に浮かぶ。宜しく温食を食して体内の陰気を調和すべし。秋冬の気は内に斂じ、陽気は裏面に蔵す。宜しく寒食を食して内伏の陽気を調剤すべし。冬は水と火の両性の物を兼用するは、また秋と同じからず。正に冬は封蔵閉固の時にして、内伏の程度は秋よりさらに甚し。だから水火併用して以てその均平を求む。

今又取《甲乙》以並鄭義,微有乖張。《甲乙》以羊麥俱苦,皆是火味;鄭玄雲羊火畜同,以麥屬木,此是取其孚甲之形,用溫還同。《甲乙》以菽醎雞辛;鄭玄雲菽合水同,雞屬木異,此取其將旦而鳴,近寅木故,又振羽翼,有陽性也,則是酉鳥屬金為實。《甲乙》以麻犬俱酸;鄭以麻犬俱金,酸是木味,用調金氣,以少陽之氣味調少陰之氣,理則可通,金還調金,恐乖和適。《甲乙》以黍辛彘醎;鄭玄雲彘合水同,黍屬火異,此言黍色赤性熱,故以為火。

今、さらに《甲乙経》の説法を取って鄭玄の説と合わせ看れば、両家は略々出入りあり。《甲乙経》は羊と麦とみな苦に属し、みな火味と認む。鄭玄は羊は火畜という。この一点は相同じ。ただ彼は麦を木に帰入す。それは麦粒の外殻の开裂する形態を取って象を取る。温性に就いていえばなお《甲乙経》と一致す。《甲乙経》は豆の味は鹹・鶏の味は辛という。鄭玄は豆は水に合すという。これと相同じ。鶏は木に属すというは則ち同じからず。――鄭玄の理由は、鶏はまさに天亮せんとする時に打鳴し、寅時に近づき木に属し、しかもそれは翅膀を振動して、陽性を帯びる。実は鶏は酉位に対応して金に属してこそ本相である。《甲乙経》は麻と狗とはみな酸に属すという。鄭玄は麻と狗とはみな金に属すという。酸はもともと木味で、それを以て金気を調剤するは、少陽の味を以て少陰の気を調するに等しく、道理はなお講じて通ず。もし鄭玄のあのように金を以てさらに金を調せば、おそらく調和の宜を失わん。《甲乙経》は黍の味は辛・猪の味は鹹という。鄭玄は猪は水に合すという。これと相同じ。黍は火に属すというは則ち同じからず。――彼の理由は、黍は色は赤にして性は熱す。だから火と判す。

若依鄭意,以如前解;若以《甲乙》、《明堂月令》之意,夏食合冷者,欲令調炎暑鬱毒之氣;冬食亦寒者,去藏中伏熱;春寒用溫,二意不殊;秋以少陽和於少陰,為有殺氣,故以生味相補。鄭全乖越。《周禮·天官》云:凡和,春多酸,夏多苦,秋多辛,冬多醎,調以滑甘。解有兩家:一雲宜從時氣,春食須多酸,夏食須多苦;一雲多者,過也,春食過酸,宜減其醎味,夏食過苦,宜減其酸味,是以後句雲調以滑甘。

もし鄭玄の意に照らせば、解釈はすなわち上文に述べたるがごとし。もし《甲乙経》と《明堂月令》の意に照らせば、則ち別に一組あり。夏は冷たきを食うべきは、酷暑の鬱積したる毒熱の気を調伏せんと欲するを要す。冬もまた寒を食うは、体内に蔵伏する暗熱を去掉せんと欲するを要す。春は天寒にして温食を用うるは、両家の看法は並びに分歧なし。秋は少陽の味を以て少陰の気を調和するは、秋に粛殺の気あるがゆえに、生発の味を用いてそれを補済するを要す。相形すれば、鄭玄の説はすなわちこれと全然背離す。《周礼・天官・食医》にいう、凡そ飲食を調和するに、春は酸を多くし、夏は苦を多くし、秋は辛を多くし、冬は鹹を多くし、再用して滑と甘を以て調剤す、と。この言葉に両種の解釈あり。一説は応に時令の気に順从すべしとし、春は酸を多く食い、夏は苦を多く食うべし。別の一説は「多」は「過」の意として、春は酸を食い過ぎたれば、すなわち鹹味を減少すべく、夏は苦を食い過ぎたれば、すなわち酸味を減少すべし。だから後の一句はこそ「滑甘を以て調す」というを要す。

今依前解,四時之味,各隨時氣所當,故逐時醎苦酸辛,養體之宜。土既居中,總戴四財,是以四時味兼,須甘味以調之。又云:會膳食之所宜,牛宜稌,稌,稻也;羊宜黍,豕宜稷,犬宜梁,鳥宜麥,魚宜菰,菰,雕胡也。凡君子之食,恆放焉。凡藥,酸養骨,苦養氣,甘養肉,辛養筋,醎養脈,此並相扶之義。

ここには前の一種の解釈を採用す。四時の味は各々当令の気に隨って定まる。だから季節に按って分別して鹹・苦・酸・辛を多くするは、身を養うの宜しき所である。土は中央に居り、其余四方の才用を総管す。因って四時の味の裏はみな一分の土味を帯び、甘を用いて調和するを要す。《周礼》にまたいう、肉食と穀食をして搭配して宜しからしめよ――牛肉は稲に配し(「稌」はすなわち稲)、羊肉は黍に配し、猪肉は稷に配し、狗肉は粱に配し、禽肉は麦に配し、魚は菰米に配す(「菰」はすなわち雕胡米)。凡そ君子の飲食は、みな常にこの配法に照らす。薬性に至っては、《周礼》にいう、酸味は骨を養い、苦味は気を養い、甘味は肉を養い、辛味は筋を養い、鹹味は血脉を養う、と。――これらの講ずるはみな五味と形体の各部とが相扶助するの道理である。

《河圖》云:人食無極醎,使腎氣盛,心氣衰,令人發狂,喜衂、吐血,心神不定;無極辛,使肺氣盛,肝氣衰,令人懦怯悲愁,目盲、髮白;無極甘,使脾氣盛,腎氣衰,令人痴淫洩精,腰背痛,利膿血;無極苦,使心氣盛,肺氣衰,令人果敢輕死,欬逆、胸滿;無極酸,使肝氣盛,脾氣衰,令人谷不消化,喑聾症固。此五藏相制克之義。

緯書《河図》は一味を過度に食うの害処を講ず。鹹を食するに節制なければ、腎気は過盛にして心気は衰敗す(水は火を克す)。人をして癲狂せしめ、常に鼻血を流し吐血し、心神定まらず。辛を食するに節制なければ、肺気は過盛にして肝気は衰敗す(金は木を克す)。人をして懦弱怯懦・悲傷憂愁せしめ、眼睛は失明し頭髪は白変す。甘を食するに節制なければ、脾気は過盛にして腎気は衰敗す(土は水を克す)。人をして痴迷淫縦・精気外泄せしめ、腰背は疼痛し、下痢膿血す。苦を食するに節制なければ、心気は過盛にして肺気は衰敗す(火は金を克す)。人をして任性冒険・軽く死に赴かしめ、咳嗽気逆・胸中脹満す。酸を食するに節制なければ、肝気は過盛にして脾気は衰敗す(木は土を克す)。人をして飲食消化せず、喑啞耳聾・痼疾を結成せしむ。これらはみな五臓が五行の相克に依りて互相制約するの道理である。

《黃帝養生經》云:酸入肝,辛葎任,苦入心,甘入脾,醎入腎。病在筋,無食酸;病在氣,無食辛;病在骨,無食醎;病在血,無食苦;病在肉,無食甘。口嗜而飲食之,不可多也,必自賊也,故名五賊。又云:肝病禁辛,心病禁醎,脾病禁酸,肺病禁苦,腎病禁甘,此皆所惡之味,故禁。

《黄帝養生経》にいう、酸は肝に入り、辛は肺に入り、苦は心に入り、甘は脾に入り、鹹は腎に入る(その中「辛」の下の一句、底本は「辛葎任」と作るが、文字すでに訛れ、五味帰経に按って「辛入肺」と作すべし)。因って病が筋に在る者は酸を食う勿れ、病が気に在る者は辛を食う勿れ、病が骨に在る者は鹹を食う勿れ、病が血に在る者は苦を食う勿れ、病が肉に在る者は甘を食う勿れ。嘴上に或る一味を貪りて勁く食うは、以てすべからざるなり。必ず自らその身を傷る。だからこの五味を「五賊」と呼ぶ。書中にまたいう、肝病は辛を忌み、心病は鹹を忌み、脾病は酸を忌み、肺病は苦を忌み、腎病は甘を忌む、と。――これらはみなその臓の悪惡する所の味で(相克の序に依りて、辛金は肝木を克し、鹹水は心火を克し、酸木は脾土を克し、苦火は肺金を克し、甘土は腎水を克す)、だから禁ずるを要す。

又云:肺病宜食糯米飯、牛肉、棗、葵;心病宜食麥、羊肉、杏、薤;腎病宜食大豆、黃黍、彘肉、藿;肝病宜食麻、犬肉、李、韭;脾病宜食雞肉、桃、黍、蔥。此五宜食者,肝心腎三藏實,故各以其本味補之;脾肺虛,故以其子母相養者也。《春秋潛潭巴》云:五味生五藏者,醎生肝,酸生心,苦生脾,甘生肺,辛生腎。

《黄帝養生経》はまた五臓に病ある時に相宜の食物を開出す。肺病は糯米饭・牛肉・棗・葵菜を食うに宜し。心病は麦・羊肉・杏・薤を食うに宜し。腎病は大豆・黄黍・猪肉・豆葉を食うに宜し。肝病は麻・狗肉・李・韭を食うに宜し。脾病は鶏肉・桃・黍・葱を食うに宜し。この五組の配法の道理は、肝・心・腎の三臓の病は実証に属するがゆえに、各々本臓の主る所の味を用いてそれを補う。脾・肺の病は虚証に属するがゆえに、改用して母子相生の味を以てそれを涵養す。緯書《春秋潜潭巴》は別に一組の「五味は五臓を生ず」の説法あり。鹹は肝を生じ、酸は心を生じ、苦は脾を生じ、甘は肺を生じ、辛は腎を生ず。――これは相生の序に按って(水生木・木生火・火生土・土生金・金生水)味と臓とを対える。

《養生經》云:肝色青,宜食醎,稻米、牛肉、棗;心色亦,宜食酢,犬肉、李;肺色白,宜食甘,麥、羊肉、杏;脾色黃,宜食苦,大豆、豕肉、粟;腎色黑,宜食辛,黍、雞肉。此五食皆以所生能養其子也。又云:五味之入口也,各有所走,各有所病。酸走筋,多食之令人癃;醎走血,多食之令人渴;辛走氣,多食之令人洞心;苦走骨,多食之令人攣;甘走皮,多食之令人噁心。

《養生経》はまた五色に依りて味を配し食単を開く。肝の色は青、鹹味の稲米・牛肉・棗を食うに宜し。心の色は赤(底本は「赤」を訛って「亦」と作る)、酸の醋・狗肉・李を食うに宜し。肺の色は白、甘の麦・羊肉・杏を食うに宜し。脾の色は黄、苦の大豆・猪肉・粟を食うに宜し。腎の色は黒、辛の黍・鶏肉を食うに宜し。この五組の配法はみな「生ずる所の味を以てその子を養う」の義を取る。すなわち我を生ずる者の味を用いて本臓を滋养す。書中にまたいう、五味は口に入った後、各々趨走する所の部位あり、また各々致す所の病害あり。酸は筋に趨走し、食い多すれば人をして小便通ぜざらしむ。鹹は血に趨走し、食い多すれば人をして口渇せしむ。辛は気に趨走し、食い多すれば人をして心中空虚にして慌たざらしむ。苦は骨に趨走し、食い多すれば人をして筋脉拘攣せしむ。甘は皮肤に趨走し、食い多すれば人をして悪心せしむ。

辛散,酸收,甘緩,苦堅,醎濡。五穀為養,五菓為助,五畜為益,氣味合而服之,隨四時五藏所宜也。又云:人黃色宜甘,青色宜酸,黑色宜醎,赤色宜苦,白色宜辛,此皆依本體所宜。《家語》曰:食水者善遊能寒,食土者無心不息,食木者多力不治,食草者善走而愚,食桑者有緒為蛾,食肉者勇敢,食氣者神明而壽,食穀者惠巧,不食者不死而神。此皆氣味之類,故附而述之。五味所解,例多不舉,語經所明可解者如此。

薬性に就いていえば、辛は能く発散し、酸は能く収斂し、甘は能く和緩し、苦は能く堅燥し、鹹は能く濡潤す。五穀は以て根本を滋养し、五果は以て輔助し、五畜は以て増益し、気と味を搭配して服食し、四時と五臓の各自宜しき所に隨って調整す。書中にまたいう、人の面色の黄を発するは甘に宜しく、青を発するは酸に宜しく、黒を発するは鹹に宜しく、赤を発するは苦に宜しく、白を発するは辛に宜し。これはみな本人の体質の宜しき所に依って定む。《孔子家語》にいう、水を以て食と為す者(魚鳖のごとき)は善く游びて寒に耐え、土を以て食と為す者(蚯蚓のごとき)は心なくして停息せず、木を以て食と為す者(蠹虫のごとき)は力大にして馴れ難し、草を以て食と為す者(麋鹿のごとき)は善く走りて愚鈍、桑葉を以て食と為す者(蚕)は能く絲を吐きて繭を作りて化して蛾と為り、肉を食する猛獣は勇敢にして、風を餐じ気を飲むは神明にして長寿、五穀を食う人は聡慧巧妙にして、何をも食わざる者(仙人)は死せずして神に通ず、と。これらはみな気味の一類の道理に属す。だから附帯してここに記す。五味の講じうる條例はなお多し。一一に列挙しえず。経伝の載する所の解しうるに就きて、大略は上のごとし。

第十四 雑配を論ず・第四 蔵府を配することを論ず

藏府者,由五行六氣而成也。藏則有五,稟自五行,為五性;府則有六,因乎六氣,是曰六情。情性及氣,別於後解,今論藏府所配合義。五藏者:肝、心、脾、肺、腎也;六府者:大腸、小腸、膽、胃、三焦、膀胱也。肝以配木,心以配火,脾以配土,肺以配金,腎以配水。膀胱為陽,小腸為陰,膽為風,大腸為雨,三焦為晦,胃為明。故杜子《春秋》醫和云:陰淫寒疾,陽淫熱疾,風淫末疾。末,四支也。雨淫腹疾,晦淫惑疾,明淫心疾。

人の臓腑は、五行と六気とが配合して成る所のものである。臓は五つあり、五行より禀受して、人の「五性」を構成す。腑は六つあり、六気より来て、「六情」と称す。情・性と気の分別は後の《情性を論ず》の一篇に留めて再び講ず。ここはただ臓腑の配属の義を論ず。五臓は肝・心・脾・肺・腎。六腑は大腸・小腸・胆・胃・三焦・膀胱。五臓は五行に配す。肝は木に配し、心は火に配し、脾は土に配し、肺は金に配し、腎は水に配す。六腑は則ち六気に配す。膀胱は陽(暑)に属し、小腸は陰(寒)に属し、胆は風に属し、大腸は雨に属し、三焦は晦に属し、胃は明に属す。だから杜預注本《春秋左伝》の昭公元年に載せる秦の名医医和が晋侯のために病を診していうに、陰気は太过すれば寒病を生じ、陽気は太过すれば熱病を生じ、風気は太过すれば四肢の病を生ず――「末」とはすなわち四肢――雨気は太过すれば腹病を生じ、晦気は太过すれば神志昏惑の病を生じ、明気は太过すれば心病を生ず、と。

夫藏者,以其藏於形體之內,故稱為藏;亦能藏受五氣,故名為藏。府者,以其傳流受納,謂之曰府。《白虎通》云:肝之為言扞也;肺之為言費也,情動得序也;心之為言任也,任於思也;腎之為言寫也,以竅寫;脾之為言辨也,所以積精稟氣。《元命苞》云:脾者,弁也,心得之而貴,肝得之而興,肺得之而大,腎得之以化。

いわゆる「臓」とは、それが形体の内に蔵るるがゆえに蔵と称す。またそれが能く五行の気を収蔵承受するがゆえに、名づけて蔵と為す。いわゆる「腑」とは、それが伝送流通し承受容納して、府庫のごときがゆえに、府と呼ぶ。《白虎通》は同音相訓の弁法を用いて五臓の名を解釈す。「肝」とはすなわち「扞」で、捍衛の義を取る。「肺」とはすなわち「費」で、発散の義を取り、情感が発動して能くその條理を得る。「心」とはすなわち「任」で、思慮の職を担任す。「腎」とはすなわち「写」で、すなわち下竅より瀉出す。「脾」とはすなわち「辨」で、以て精微を積聚し気血を禀受す。《春秋元命苞》にいう、「脾」とはすなわち「弁」(首要)で、心はそれを得て尊貴に、肝はそれを得て興盛に、肺はそれを得て壮大に、腎はそれを得てこそ運化しうる――意は脾土が中に居りて、其余の四臓に化生の資養を提供する。

肝仁,肺義,心禮,腎智,脾信。肝所以仁者何?肝,木之精,仁者好生,東方者,陽也,萬物始生,故肝象木,色青而有柔。肺所以義者何?肺,金之精,義者能斷,西方殺,成萬物,故肺象金,色白而有剛。心所以禮者何?心者,火之精,南方尊陽在上,卑陰在下,禮有尊卑,故心象火,色赤而光。

五臓はまた各々一種の「五常」の徳に配す。肝は仁を主り、肺は義を主り、心は礼を主り、腎は智を主り、脾は信を主る。《白虎通》は逐條に問を設けて答を作す。肝はなにゆえ仁を主るか。肝は木の精華なれば、仁者は生養を好む。東方は陽に属し、万物はここに生長を始む。だから肝は木に取象し、顔色は青にして質地は柔軟。肺はなにゆえ義を主るか。肺は金の精華なれば、義者は能く決断す。西方は粛殺を主りて万物を成熟せしむ。だから肺は金に取象し、顔色は白にして質地は剛硬。心はなにゆえ礼を主るか。心は火の精華なれば、南方の位は尊貴の陽が上に在り卑下の陰が下に在り、しかして礼は正に尊卑を分別する。だから心は火に取象し、顔色は赤にして光明を帯びる。

腎所以智者何?腎水之精,智者進而不止,無所疑惑,水亦進而不惑,故腎象水,色黑。水陰,故腎雙。脾所以信者何?脾,土之精,土主信,任養萬物為之象,生物無所私,信之至也,故脾象土,色黃。翼奉云:肝性靜,甲己主之;心性躁,丙辛主之;脾性力,戊癸主之;肺性堅,乙庚主之;腎性敬,丁壬主之。

腎はなにゆえ智を主るか。腎は水の精華なれば、智慧ある人は進取して停歇せず心中疑惑なし。水もまた一路向前に流れて迷惑せず。だから腎は水に取象し、顔色は黒。水は陰に属し、陰数は偶。だから腎は左右一対に生成す。脾はなにゆえ信を主るか。脾は土の精華なれば、土は信を主り、それは万物を養育する職責を担負し、万物を生養して毫も偏私なし。これは信の極処である。だから脾は土に取象し、顔色は黄。西漢の翼奉はまた天干に按って五臓に性情を配す。肝性は沈静にして、甲・己の両干の主る所。心性は急躁にして、丙・辛の主る所。脾性は有力にして、戊・癸の主る所。肺性は堅勁にして、乙・庚の主る所。腎性は恭敬にして、丁・壬の主る所。――これは天干の「五合化気」(甲己合して土を化し、乙庚合して金を化し、丙辛合して水を化し、丁壬合して木を化し、戊癸合して火を化す)の弁法を用いて臓に配する。

許慎《五經異義》:《尚書》夏侯、歐陽說云,肝木,心火,脾土,肺金,腎水,此與前同。古文《尚晝》說云,脾木,肺火,心土,肝金,此四藏不同。案《禮記·月令》云:春祭以脾,夏祭以肺,季夏祭以心,秋祭以肝,冬祭以腎,皆五時自相得,則古《尚書》是也。

許慎《五経異義》の裏に両派の同じからざる説法を記す。今文《尚書》の夏侯氏・欧陽氏の一派にいう、肝は木に属し、心は火に属し、脾は土に属し、肺は金に属し、腎は水に属す。――これは上文の講ずる所と相同じ。古文《尚書》の一派(底本は「尚書」を誤刻して「尚昼」と作る)は則ちいう、脾は木に属し、肺は火に属し、心は土に属し、肝は金に属す。――この四臓の配法は今文家と同じからず。《礼記・月令》の記する所を査すれば、春の祭祀は脾を用い、夏は肺を用い、季夏は心を用い、秋は肝を用い、冬は腎を用う。恰好五時と一一に相応す。これに照らして看れば、古文《尚書》の一派の配法こそ正しきである。

鄭玄駁曰:此文異事乖,未察其本意。《月令》五祭,皆言先,無言後者。凡言先,有後之辭。春祀戶,其祭也先脾後腎;夏祀竃,其祭也先肺後心肝;季夏祀中溜,其祭也先心後肺;秋祀門,其祭也先肝後心肺;冬祀行,其祭也先腎後脾。凡此之義,以四時之位、五藏之上下次之耳。冬位在後,而腎在下;夏位在前,而肺在上;春位小前,故祭先脾;秋位小卻,故祭先肝。肝腎脾俱在鬲下,肺心俱在鬲上,祭者必三,故有先後焉。此義不與行氣同也。

鄭玄は反駁していう、これは両桩の同じからざる事を混り合わせて講じ、《月令》の本意を看清さざるなり。《月令》の記する五時の祭は、みなただ「先用某臓」と言うのみで、従来「後用某臓」と言わず。凡そ「先」と言えば、すなわちなお「后」あるを隠含す。春は戸神を祭り、先に脾して後に腎す。夏は竈神を祭り、先に肺して後に心・肝す。季夏は中霤(室中の土神)を祭り、先に心して後に肺す。秋は門神を祭り、先に肝して後に心・肺す。冬は行神(道路の神)を祭り、先に腎して後に脾す。これらの次序の道理は、ただ四時の方位と五臓の体内における上下の位置に按って排列するのみである。冬位は後に在りて腎の位置は下に在り、夏位は前に在りて肺の位置は上に在る。春位は略々前に靠り、だから先に脾を用いる。秋位は略々後に靠り、だから先に肝を用いる。肝・腎・脾はみな膈膜の下に在り、肺・心はみな膈膜の上に在る。毎次の祭祀は必ず三臓を用う。だからこそ先後を分出す。この組の次序は五行が気に配するの道理と並びに一回事にあらず。

《八十一問》云:五藏俱等,心肺獨在鬲上何?對曰:心主氣,肺主血,血行脈中,氣行脈外,相隨上下,故曰營衛,故令心肺在鬲上也。《甲乙經》云:黃帝問岐伯曰,人有五藏,藏有五變。肝為牡藏,其色青,其時春,其日甲乙;心為牡藏,其色赤,其時夏,其日丙丁;脾為牝藏,其色黃,其時季夏,其日戊己;肺為牝藏,其色白,其時秋,其日庚辛;腎為牝藏,其色黑,其時冬,其日壬癸。

《八十一難経》は問を設く。五臓の地位は相等しきに、なにゆえ単単心・肺のみ膈膜の上に居るか。回答にいう、心は気を主り、肺は血を主る。血は脉管の中に運行し、気は脉管の外に運行し、二者は相随って上下周流し、合わせて「営衛」と呼ぶ(営は血を指し衛は気を指す)。だから心肺をして同じく膈上に処せしめて以て統摂に便す。《甲乙経》は記載す、黄帝は岐伯に問う、人に五臓あり、臓に各々五種の変化の対応あり、と。岐伯答えていう、肝は「牡臓」すなわち陽臓で、色は青、春令に当たり、値日の天干は甲乙。心もまた牡臓で、色は赤、夏令に当たり、値日は丙丁。脾は「牝臓」すなわち陰臓で、色は黄、季夏に当たり、値日は戊己。肺は牝臓で、色は白、秋令に当たり、値日は庚辛。腎は牝臓で、色は黒、冬令に当たり、値日は壬癸、と。

《素問》曰:肝者,魂之所居,陰中之小陽,故通春氣;心者,生之本,神之所處,為陽中之大陽,故通夏氣;脾者,倉廩之本,名曰興化,能化糟粕,轉味出入,至陰之類,故通土氣;肺者,氣之本,魄之所處,陽中之少陰,故通秋氣;腎者主蟄,封藏之本,精之所處,陰中之太陰,故通冬氣。又云:春無食肝,夏無食心,季夏無食脾,秋無食肺,冬無食腎。

《素問》にいう、肝は魂の居る所の地方で、陰中の少陽に属す。だから春気と相通ず。心は生命の根本・神の居処する地方で、陽中の太陽に属す。だから夏気と相通ず。脾は身体の倉庫の根本で、名を「興化」と曰い、能く糟粕を腐熟し滋味を転化し飲食の出入を主管す。至陰の一類に属す。だから土気と相通ず。肺は気の根本・魄の居処する地方で、陽中の少陰に属す。だから秋気と相通ず。腎は蟄蔵を主り、封蔵の根本・精の居処する地方で、陰中の太陰に属す。だから冬気と相通ず。《素問》にまたいう、春は肝を食う勿れ、夏は心を食う勿れ、季夏は脾を食う勿れ、秋は肺を食う勿れ、冬は腎を食う勿れ、と。――当令の臓は本気すでに旺んなれば、宜しく更に同気の物を以て加補すべからざるがゆえである。

《周禮》疾醫掌養萬人之疾病者,以肝為木,心為火,脾為土,肺為金,腎為水,則疾多瘳;反其術,則死。《月令》中溜之禮,以陰陽遂退為次;《白虎通》及《素問》醫治之書,用行實為驗,故其所配是也。《白虎通》又云:木所以浮,金所以沈者何?子生於母義。肝以沈,肺以浮何?有知者尊其母也。一說云:甲木畏金,以乙妻庚,受庚之化,木法其本,直甲故浮,肝法其化,直乙故沈;庚金畏火,以辛妻丙,受丙之化,金法其本,直庚故沈,肺法其化,直辛故浮。

《周礼》中の「疾医」のこの官職は万民の疾病を医治することを掌管す。彼らは肝木・心火・脾土・肺金・腎水の配属に按って施治せば、疾病は大多痊愈しうる。もし反って来て用いれば、病人はすなわち死せん。《月令》の講ずる中霤の礼の次序は、陰陽の進退に按って排したものである。《白虎通》と《素問》は医療実治を講ずる書で、五行の実際の効験を以て検験す。だからそれらの配法はこそ取るべし。《白虎通》にまた問う、木性はもとより浮き金性はもとより沈むに、なにゆえ木に属する肝はかえって下沈し金に属する肺はかえって上浮するか。答えていう、これは子の母に従うの道理で、知覚ある物は自己の母親を尊奉す。別の一種の解釈は干支の相合を用いて講ず。甲木は金を畏れ、そこで妹の乙を庚に嫁がし、乙は庚の化育を接受す。木はもし本干の甲に依れば、その性は上浮するに、しかして肝は化する所の乙に依る。だから下沈す。庚金は火を畏れ、そこで妹の辛を丙に嫁がし、辛は丙の化育を接受す。金はもし本干の庚に依れば、その性は下沈するに、しかして肺は化する所の辛に依る。だから上浮す。

河上公注《老子》云:肝藏魂,肺藏魄,心藏神,腎藏精,脾藏志,五藏盡傷,則五神去矣。道經義云:魂居肝,魄在肺,神處心,精藏腎,志托脾。此與《素問》同。魂為木氣,神為火氣,志為土氣,魄為金氣,精為水氣。魂通於目,神通於舌,志通於口,魄通於鼻,精通於耳。

河上公の《老子》注にいう、肝は魂を蔵し、肺は魄を蔵し、心は神を蔵し、腎は精を蔵し、脾は志を蔵す。五臓は全く損傷せられれば、この五種の神もまた身を離れて去る。道教の経義もまたいう、魂は肝に居り、魄は肺に在り、神は心に処し、精は腎に蔵れ、志は脾に托す。――これは《素問》の講ずる所と一致す。五行の属性に按って分かてば、魂は木気、神は火気、志は土気、魄は金気、精は水気。それらはまた各々一箇の孔竅に通ず。魂は眼に通じ、神は舌に通じ、志は口に通じ、魄は鼻に通じ、精は耳に通ず。

《甲乙經》云:鼻為肺之官,目為肝之官,口唇為脾之官,舌為心之官,耳為腎之官。故肺病喘息鼻張,肝病目閉眥青,脾病口唇黃干,心病舌卷短、顏赤,腎病權與顏黑黃、耳聾。此名五官,相書亦名五候,以鼻人中為一官,主心,餘並同。候者,以五藏善惡色出五官,可占候吉凶也。鼻人中,猶是口之分也。

《甲乙経》にいう、鼻は肺の外の官竅、眼は肝の官竅、口唇は脾の官竅、舌は心の官竅、耳は腎の官竅、と。だから肺に病あれば則ち气喘し鼻翼は張大し、肝に病あれば則ち眼睛は睜け難く眼角は青を発し、脾に病あれば則ち口唇は枯黄乾燥し、心に病あれば則ち舌頭は巻縮して短かく変じ面色は赤を発し、腎に病あれば則ち顴骨(文中の「権」はすなわち顴)と面色は黒黄を発し耳朵は聡を失う。この五処を「五官」と呼び、相術書の裏にもまた「五候」と呼ぶ。ただ鼻下の人中を別に立てて一官と為し心を主るのみで、其余はみな相同じ。いわゆる「候」とは、五臓の好壊が気色を以てこの五処に顕現し、以て吉凶を占測しうるをいう。人中はもともと口の一部分と算する。だから両種の分法は並びに矛盾せず。

《孝經援神契》云:肝仁,故目視;肺義,故鼻候;心禮,故耳司;腎信,故竅寫;脾智,故口誨。《元命苞》曰:目,肝使,肝氣仁而外照。《管子》曰:脾發為鼻,肝發為目,腎發為耳,肺發為口,心發為下竅。道家《太平經》云:肝神不在,目無光明;心神不在,唇青白;肺神不在,鼻不通;腎神不在,耳聾;脾神不在,舌不知甘味。又一說云:目主肝,耳主腎,鼻主心,舌主脾,口主肺。肝腎二藏,諸經並同。

《孝経援神契》にいう、肝は仁を主る。だから眼は能く看る。肺は義を主る。だから鼻は能く辨察す。心は礼を主る。だから耳は能く聴を司る。腎は信を主る。だから下竅は能く排泄す。脾は智を主る。だから口は能く教誨す。――それは五常を五臓に配する次序が《白虎通》と略々同じからざるを把える。《春秋元命苞》にいう、眼睛は肝の派出したる使者で、肝気は仁厚にして能く外物を照見す。《管子》は別に一組あり、脾は外に発して鼻と為り、肝は外に発して眼と為り、腎は外に発して耳と為り、肺は外に発して口と為り、心は外に発して下竅と為す。道家《太平経》は則ち神の去留より論を立つ。肝神在らざれば、眼睛は光彩なし。心神在らざれば、嘴唇は青白を発す。肺神在らざれば、鼻子は気を通ぜず。腎神在らざれば、耳朵は聾を発す。脾神在らざれば、舌頭は甜味を嘗め出さず。この外また一説あり、眼は肝を主り、耳は腎を主り、鼻は心を主り、舌は脾を主り、口は肺を主る。その中、肝・腎の両臓の主る所の官竅は、各家の経書はみな一致する。

肝主目者,肝,木藏也,木是陽,東方顯明之地,眼目亦光顯照了,故通乎目。道家《太式經》云:天曰洞視,主目,目主肝。天,陽也;肝亦陽;目精明,亦陽。目光顯見,兼有常法,如日陽精無缺而明也。腎主耳者,腎,水藏,水,陰也,北方陰暗之地,耳能聽聲,聲是陰微之象,故通乎耳。《太式經》曰:地曰洞聽,主耳,耳主腎。地,陰也。耳法虛,則納聲,水主虛,陰主虛,陰主幽。陰聲又非恆,如月盈虛也。

肝はなにゆえ眼を主るか。肝は木臓で、木は陽に属し、東方は顕明の地で、眼睛もまた光亮顕豁にして能く事物を照見す。だから眼と相通ず。道家《太式経》にいう、天を「洞視」と呼び、眼を主り、眼は肝を主る。天は陽に属し、肝もまた陽に属し、眼中の精明は同じく陽に属す。眼光は顕露して見ゆ、しかして恒常の規律あり。たとえば太陽のこの団の陽精が毫も亏缺なくして恒久に明を放つがごとし。腎はなにゆえ耳を主るか。腎は水臓で、水は陰に属し、北方は幽暗の地で、耳朵はただ声を聴くのみ能くし、声は陰微の象に属す。だから耳と相通ず。《太式経》にいう、地を「洞聴」と呼び、耳を主り、耳は腎を主る。地は陰に属す。耳の構造は虚に取法し、中空にしてこそ声音を容納しうる。水は虚を主り、陰もまた虚を主り、陰はまた幽暗を主る。況んや声音は日光のごとく恒定変わらざるにあらず、正に月亮の盈あり虧あるがごとし。

脾心肺三藏及候,各有異說。《甲乙》以鼻應肺,道家以鼻應心,《管子》以鼻應脾。《甲乙》應肺者,鼻以空虛納氣,肺亦虛而受氣故也。道家鼻主心者,陽也。《老子經》云:天以五行,氣從鼻入,藏於心。鼻以空通出入息,高象天,故與天通,而氣藏於心也。《管子》以脾是土,鼻在面之中,故為其候。

脾・心・肺のこの三臓の対応する官竅に至っては、各家の説法は互いに異なる。《甲乙経》は鼻を以て肺に応じ、道家は鼻を以て心に応じ、《管子》は鼻を以て脾に応ず。《甲乙経》の肺に配する所以は、鼻孔は中空にして気息を吸納し、肺もまた中空にして気息を承受す。二者は同理である。道家の鼻は心を主るという所以は、陽の一面を取る。《老子》経中にいう、天は五行の気を以て鼻孔より人身に進入し、心裏に蔵る、と。鼻孔は中空にして呼吸を貫通し、位置もまた高し。天に取象す。だから天と相通じ、しかして吸する所の気は心に帰蔵す。《管子》は則ち脾は土に属し、鼻子は面部の正中に長ず。土は中央に居るがゆえに、鼻子を拿げて以て脾の外候と為す。

《甲乙》以脾應口,道家以肺應口,與《管子》同。《甲乙》以脾應口者,口是出納之門,脾為受盛之所,口能論說,脾能消化,故以相通。道家以肺應口者,肺,金也,金能斷割,口有牙齒,亦能決斷,是金象也。《管子》之意,恐亦然也。

《甲乙経》は口を以て脾に応じ、道家は口を以て肺に応ず。この一点は道家は《管子》と相同じ。《甲乙経》の口は脾に応ずという所以は、口は飲食の出納する門戸で、脾は受納盛貯の処所である。口は能く議論言説し、脾は能く水穀を消化す。功用は相通ず。道家の口は肺に応ずという所以は、肺は金に属し、金は能く截断し、しかして口中に牙歯あり、また能く物を咬断す。正に金の象徴である。《管子》の口を肺に配するは、用意はおそらくもまたここに在る。

《甲乙》以舌應心,道家以舌應脾,《管子》以心應下竅。《甲乙》以舌應心者,凡資身養命,莫過五味;辨了識知,莫過乎心。五味之入,猶舌知之;萬事是非,猶心鑑之。心欲有所陳,舌必言之,故心應以舌。道家以舌應脾者,脾者,陰也。《老子經》云:地飴人以五味,從口入,藏於胃。舌之所納,則有津實。地體既是質實,品味皆地所產,故舌與地通也。《管子》心應下竅者,以心能分別善惡,故通下竅,除滓穢也。

《甲乙経》は舌を以て心に応じ、道家は舌を以て脾に応じ、《管子》は則ち下竅を以て心に応ず。《甲乙経》の舌は心に応ずという所以は、身体を供養し性命を維持するは五味より要紧なるなきがゆえに、しかして辨別認知の能力は心より要紧なるなし。五味が口に入るは全く舌頭を靠って分辨し、万事の是非は全く心を靠って鑑別す。心裏に陳説せんと欲する有れば、必ず舌頭に由りて講出すを得。だから心と舌とは相応ず。道家の舌は脾に応ずという所以は、脾は陰に属すがゆえ。《老子》経中にいう、地は五味を以て人に喂养し、口より進入し、胃裏に蔵る、と。舌の承納する所の物は津液実質を帯び、しかして地体はもとより質実なり。各種の滋味はまたみな地裏の産する所。だから舌と地と相通ず。《管子》の心は下竅に応ずというは、心は能く善悪を分辨するがゆえに、下に谷道に通じて、以て渣滓汚穢を排除す。

五藏候在五官,口舌二官共在一處,餘不共者。口是脾候,脾,土也;舌是心候,心,火也。共處者,土寄治於火鄉也。舌在口內者,火於五行不常見也,須之則有,不用則隱,如舌在口內,開口卽見,閉口則藏。又,心為身之主,貴故在內也。土王四季,故曰四合也。《甲乙》、《素問》是診候之書,故從行實而辨;《道經》、《管子》各以一家之趣。

五臓の徴候は五官の上に顕現す。その中、口と舌の両官は同じく一処に在り、其余の各官はみな相重叠せず。口は脾の外候で、脾は土に属す。舌は心の外候で、心は火に属す。二者の同じく一室に処する所以は、土の「火郷に寄治す」がゆえである。――五行の寄王の法に按れば、土に自己の専位なく、火に隨って南方に寄旺す。だから脾の官竅と心の官竅とは合して一つとなる。舌の口内に蔵るる所以は、火は五行中に常に形を顕さざるがゆえである。それを要すればそれはすなわち在り、用いざれば隠伏す。正に舌頭の口中に在りて、口を張れば便ち見え、口を閉じれば蔵るるがごとし。さらに、心は一身の主で、位は尊し。だから内に居る。土は四季の末に旺んず。だからそれを「四合」といい、四方にみなそれの一份あり。《甲乙経》《素問》は診断治療を講ずる書で、だから臨床の実効に按って分辨す。《道経》と《管子》は則ち各々自家の旨趣に按って説を立つ。必ずしも一致を強求するを要せず。

六府者,《河圖》云:肺合大腸,大腸為傳道之府;心合小腸,小腸為受盛之府;肝合膽,膽為中精之府;脾合胃,胃為五穀之府;腎合膀胱,膀胱為津液之府;三焦孤立,為中瀆之府。《甲乙》、《素問》說同。大腸為傳道之府者,肺通於鼻,鼻出入氣,大腸傳道五穀氣之道,故為其府。小腸為受盛之府者,心通於舌,舌進五味,小腸納之,故為受盛之府也。膽為中精府者,肝通於目,目是精明之物,又精神之主,故曰為中精府也。胃為五穀府者,脾通於口,口入五穀而胃受之,故為其府。

さらに六腑と五臓の表裏配合を言う。《河図》にいう、肺と大腸と相配す。大腸は「伝道の腑」で、伝送輸導を主る。心と小腸と相配す。小腸は「受盛の腑」で、承受盛納を主る。肝と胆と相配す。胆は「中精の腑」で、精明の気を蔵す。脾と胃と相配す。胃は「五穀の腑」で、飲食を容納す。腎と膀胱と相配す。膀胱は「津液の腑」。ただ三焦のみ相配する臓なく、孤零零として独立し、「中瀆の腑」と称し、たとえば人身中の溝渠水道のごとし。《甲乙経》と《素問》の説法はこれと相同じ。以下に逐條に理由を講ず。大腸の伝道の腑と称する所以は、肺は鼻に通じ、鼻は気の出入を主り、しかして大腸は正に五穀の気を伝送する通道で、だって肺の腑と配作す。小腸の受盛の腑と称する所以は、心は舌に通じ、舌は五味を進納し、五味は下行して小腸に由りて承受せらる。だから受盛の腑と呼ぶ。胆の中精の腑と称する所以は、肝は眼に通じ、眼は精明の物で、また精神の主宰で、だって胆は中精を蔵すという。胃の五穀の腑と称する所以は、脾は口に通じ、口は五穀を納入して胃に由りて承受消化せらる。だから脾の腑と配作す。

膀胱為津液之府者,腎是水藏,膀胱空虛受水,水清氣則為津液,濁氣則為涕唾,故以為其府。三焦為中瀆府者,五藏各合一府,三焦獨無所合,故曰孤立,處五藏之中,通上下行氣,故為中瀆府也。五藏而有六府,亦如六氣因五行生也,又如五性生六情也。

膀胱の津液の腑と称する所以は、腎は水臓で、膀胱は中空にして能く水液を容受す。水中の清の部分は化して津液と為り、濁の部分は化して涕唾と為る。だから腎の腑と配作す。三焦の中瀆の腑と称する所以は、五臓は各々一腑に配するに、独り三焦のみ配すべき臓なく、だってそれを「孤立」という。それは五臓の間に処し、上下貫通して以て気機を運行し、開通せる溝渠のごとし。だから中瀆の腑と呼ぶ。五臓にして六腑を配出すに、数目は必ずしも相等しからず。これは正に六気の五行に依りて生ずるがごとく、また五性の能く六情を生出するがごとし。

《素問》云:皮應大腸,其榮毛,主心;脈應小腸,其榮色,主腎;筋應膽,其榮爪,主肺;肉應胃,其榮唇,主肝;腠理毫毛應三焦膀胱,其榮髮,主脾。皮應大腸,其榮毛,主心者,心是身之君,皮是身之城郭,毛是身之羽衛,大腸是氣之道路也,故並相通。心是火藏,大腸是金府,故以配焉,丙辛之所主也。

《素問》はさらに六腑を形体の各部に配す。皮は大腸に応じ、その栄華は毫毛に顕れ、主る所は心。脉は小腸に応じ、その栄華は気色に顕れ、主る所は腎。筋は胆に応じ、その栄華は指甲に顕れ、主る所は肺。肉は胃に応じ、その栄華は口唇に顕れ、主る所は肝。腠理毫毛は三焦と膀胱に応じ、その栄華は頭髪に顕れ、主る所は脾。蕭吉は逐條に理由を講ず。皮は大腸に応じ・栄は毛に在り・心を主る。心は一身の君、皮は一身の城牆、毛は一身の羽林衛士、大腸は気行の道路で、四者は彼此相通ず。心は火臓で、天干は丙に配す。大腸は金腑で、天干は辛に配す。丙辛は相合す。だからそれらを一組に配成す。

脈應小腸,其榮色,主腎者,腎,水也,脈是血之溝渠,通流水,氣色是人之光采,血氣若盛,則容色壯悅,血氣若衰,則容顏枯悴。腎為水藏,小腸既受盛容著水氣,又是火府,故以配之,丁壬所主也。筋應膽,其榮爪,主肺者,筋是皮內之剛強也,爪是皮外之剛利也。肺是金藏,膽有剛精之性,又是木府,故以相配,乙庚所主也。

脉は小腸に応じ・栄は気色に在り・腎を主る。腎は水に属し、しかして脉は血液の流行する溝渠で、通流する所は正に水液である。気色は則ち人の光采で、血気充盛すれば容色は壮健悦沢し、血気衰敗すれば容顔は枯槁憔悴す。腎は水臓で、天干は壬に配す。小腸はすでに水気を承受盛貯し、本身はまた火腑で、天干は丁に配す。丁壬は相合す。だから一組に配成す。筋は胆に応じ・栄は指甲に在り・肺を主る。筋は皮肉の内の剛強の物で、指甲は皮肤の外の剛利の物である。肺は金臓で、天干は庚に配す。胆は剛勁精明の性あり、また木腑で、天干は乙に配す。乙庚は相合す。だから一組に配成す。

肉應胃,其榮唇,主肝者,胃能消化五穀精氣為肉,五穀從口而入,故榮潤在唇。肝是木之藏,仁而能生,胃是土府,故以相配,甲己所主也。腠理毫毛應三焦膀胱,其榮髮,主脾者,毫毛因藉津潤,腠理本自開通。脾,受資味之所,因資味而得津潤開通,因津潤開通而生毛髮。書云:髮是血之餘。脾是土之藏,三焦、膀胱併為水之府,故以相配,戊癸所主也。

肉は胃に応じ・栄は口唇に在り・肝を主る。胃は能く五穀の精気を消化して肌肉と成すに、しかして五穀は口より進入す。だからそれの栄潤は嘴唇の上に顕現す。肝は木臓で、天干は甲に配し、性は仁にして能く生養す。胃は土腑で、天干は己に配す。甲己は相合す。だから一組に配成す。腠理毫毛は三焦膀胱に応じ・栄は頭髪に在り・脾を主る。毫毛は津液の滋潤を靠要し、腠理はもとより開通する。脾は飲食滋味を承受する所在で、飲食の味を靠って津潤と開通を得、また津潤開通を靠って毛髪を生出す。古書にいう、頭髪は血の余気、と。脾は土臓で、天干は戊に配す。三焦と膀胱はみな水腑で、天干は癸に配す。戊癸は相合す。だから一組に配成す。

脾配二府,餘四藏各配一府者,脾是土藏,土為君道,君卽陽也,陽數一,故藏不二也;三焦、膀胱並是水府,水為臣道,臣卽陰也,陰數偶,故府有二也。《管子》曰:脾生骨,腎生筋,肺生革,心生肉,肝生爪髮。《元命苞》云:肝生筋。脾生骨者,脾,土也,土能生木,骨是身之本,如木立於地上能成屋室,故脾生之。

なにゆえ脾の一臓は両箇の腑を配し、其余の四臓は各々一腑を配するか。脾は土臓で、土は君道を象徴し、君はすなわち陽で、陽数は一(奇数)。だから臓のこの辺は両箇ありえないがゆえ。三焦と膀胱はみな水腑で、水は臣道を象徴し、臣はすなわち陰で、陰数は偶。だから腑のこの辺は両箇ありうるがゆえ。《管子》は別に一組の「五臓の生ずる所」の説法あり。脾は骨を生じ、腎は筋を生じ、肺は革(皮)を生じ、心は肉を生じ、肝は爪と髪を生ず。《春秋元命苞》は則ち肝は筋を生ずという。蕭吉は逐條にその理を疏通す。脾の骨を生ずるは、脾は土に属し、土は能く木を生じ、しかして骨は身体の支柱で、たとえば木料が地上に立ってこそ屋宇を架起しうるがごときがゆえに、脾に由りて生ずる所と為す。

腎生筋者,筋是骨之經絡,脈以流注,筋以相連節,並通血氣,腎水故生之。肺生革者,肺,金也,金能裁斷,革亦限斷,故肺生之。心生肉者,心,火也,肉是身之土地,故心生之。肝生爪髮者,肝,木也,爪是骨之餘,髮是血之餘,皆水木之氣,故肝生之。《元命苞》云以肝生筋,亦木氣之義,筋有枝條,象於木也。

腎の筋を生ずるは、筋は骨骼の経絡なれば。脉はそれを靠って流注し、筋は各処の関節を連綴し、一併に血気を貫通す。腎は水に属して流通を主る。だから腎に由りて生ずる所と為す。肺の革を生ずるは、肺は金に属し、金は能く裁断し、しかして皮革にもまた界限断割の義あるがゆえに、肺に由りて生ずる所と為す。心の肉を生ずるは、心は火に属し、肌肉はたとえば身体の土地のごとく、火は能く土を生ずるがゆえに、心に由りて生ずる所と為す。肝の爪髪を生ずるは、肝は木に属すれば。指甲は骨の余気、頭髪は血の余気で、みな水木の気に属す。だから肝に由りて生ずる所と為す。《春秋元命苞》の肝は筋を生ずというも、同じく木気の義を取る。――筋は樹木のごとく枝條脉络を分出すがゆえ。

《河圖》云:仁慈惠施者,肝之精,悲哀過度則傷肝,肝傷則令目視芒芒;禮操列真,心之精,喜怒激切傷心,心傷則疾衂吐逆;和厚篤信者,脾之精,縱逸貪嗜則傷脾,脾傷則畜積不化,致否結之疾;義惠剛斷,肺之精,患憂憤勃則傷肺,肺傷則致欬逆失音;智辨謀略,腎之精,勞欲憤滿則傷腎,腎傷則喪精損命。

《河図》は五臓の精と情志・病変とを連ねて言う。人と為りて仁慈にして施を好むは、肝の精気の致す所。悲哀が度を過ぐればすなわち肝を傷り、肝はひとたび傷られば、眼睛の物を看るは茫然として模糊す。礼を守り操行し、位列真誠なるは、心の精気の致す所。喜怒の激烈に過ぐればすなわち心を傷り、心はひとたび傷られば、すなわち常に鼻血を流し嘔吐気逆す。人と為りて和順敦厚・篤実守信なるは、脾の精気の致す所。放縦安逸・口腹に貪ればすなわち脾を傷り、脾はひとたび傷られば、飲食は積滞して化せず、痞結の病と為る。義を持して恵を施し、剛毅果断なるは、肺の精気の致す所。憂患憤懣勃発すればすなわち肺を傷り、肺はひとたび傷られば、すなわち咳嗽気逆し声音嘶啞す。明智善辨・謀略多きは、腎の精気の致す所。労役縦欲・憤懣満懐すればすなわち腎を傷り、腎はひとたび傷られば、すなわち精気を喪失し寿命を折損す。

此豈直違五常而損年命,亦破六情以亡國家也。至如桀、紂兩帝,並貪縱而喪其邦;梁、竇二臣,亦皆奢逸而傾其家。雖彭子以色延命,齊王因怒袪病,如此異轍,皆有調節之宜。節之則四大獲安,縱之則五藏成患。

これらの危害は五常に違背して寿命を折損するのみならず、なお六情を毀壊して以て亡国敗家に致る。譬えて夏桀・商紂の両帝王は、みな貪婪放縦に因りて邦国を喪失せり。東漢の梁冀・竇憲の両権臣も、またみな奢侈淫逸に因りて家門を傾覆せり。もちろん反例もまたあり。彭祖は房中の術を靠って寿命を延長し、斉王は一場の大怒に因りてかえって痼疾を去掉せり(文摯が故意に斉王を激怒せしめて以てその病を治したる旧事を指す)。これらの看似相反する路数は、帰根到底はみな「調節して宜を得」の四個字を出でず。節制を懂れば、則ち地・水・火・風の四大は安穏なり。一味に放縦すれば、五臓はすなわちみな禍患と成る。

《素問》云:肝者為將軍之官,謀慮出焉;心者為君主之官,神明出焉;脾者倉廩之官,五味出焉;肺者相傅之官,治節出焉;腎者作強之官,伎巧出焉。肝者為將軍之官、謀慮出者,木性仁,仁者必能深思遠慮,恆欲利安萬物;將軍為行兵之主,必以謀慮為先。故兵書曰:兵以仁舉,則無不從;得之以仁分,則無不從悅。又曰:將無謀則士卒憂,將無慮則士卒去。故肝為將軍,出謀慮也。

《素問・霊蘭秘典論》は朝廷の官職を拿げて五臓の職能に比す。肝は将軍の官で、謀慮はそれより産生す。心は君主の官で、神明はそれより産生す。脾は倉廩の官で、五味はそれより産生す。肺は相傅の官で、治理節度はそれより産生す。腎は作強の官で、技巧はそれより産生す。蕭吉は逐條に解説す。肝の将軍の官にして謀慮を出だす所以は、木性は仁を主り、仁者は必ず能く深思遠慮して、総じて万物をして利安寧を得しめんと想い、将軍は兵を統べる主帥で、兵を用うるは必ず謀慮を以て先と為すがゆえ。だから兵書の上にいう、軍隊は仁義の名義を打ちて兵を興せば、服せざる人なし。仁義を用いて所得を分配せば、心説せざる人なし、と。またいう、主将に謀略なければ、士卒はすなわち憂懼し、主将が思慮を加えざれば、士卒はすなわち離散す、と。因って肝を将軍に比し、それより謀慮を発出せしむ。

心為主守之官,神明出者,火,南方陽光輝,人君之象。神為身之君,如君南向以治。《易》以離為火,居太陽之位,人君之象。人之運動、情性之作,莫不由心,故為主守之官,神明所出也。脾為倉廩之官,五味出者,萬物生則出土,死亦歸之,五穀之入,脾以受之,故五味之出,亦由於此也。

心の主守の官にして神明を出だす所以は、火位は南方に在り、陽光は照耀す。正に人君の象である。神は一身の君で、たとえば君主の南に面して天下を治むるがごとし。《周易》は離卦を以て火と為し、太陽の位に居る。もまた人君の象である。人の一切の挙動・情性の発作は、心より起こらざるなし。だからそれを主守の官と称し、神明はここに由りて発出す。脾の倉廩の官にして五味を出だす所以は、万物は生長する時は土裏より長出し、死亡した後もまた土に帰還す。五穀は食い下せば脾に由りて承受運化せらる。だから五味の化生もまたここに出づ。

肺為相傅之官,治節出者,金能裁斷,相傅之任明於治道,上下順教,皆有禮節,肺於五藏,亦治節所生。《樂緯》云:商者,章也,臣章明君德,以齊上下,相傅賢所由也。腎為作強之官,伎巧出者,水性是智,智必多能,故有伎巧,功則自強不息也。

肺の相傅の官にして治節を出だす所以は、金は能く裁断し、しかして宰相太傅の職任は正に治国の道を通暁し、上下をして教令に順从し樣樣礼節に合せしむるに在り。肺は五臓の中に在りても、また治理節度の発源の処である。《楽緯》に「商はすなわち章」という。臣子は君主の徳行を彰明し、以て上下を斉整するを要す。――肺は金に属して商音を主る。だから相傅の一類の賢臣は正にここに由りて来るという。腎の作強の官にして技巧を出だす所以は、水性は智を主り、智慧ある人は必ず多才多能。だから能く技巧を出だす。功を用いて懈らざれば、能く自強息まざるを得。

《八十一問》曰:藏各有一,腎獨兩者何也?左者腎,右者命門,命門者,精神之所會也。《河圖》云:肝心出左,脾肺出右,腎與命門並出尺部,此脈候也。問曰:前解雲腎陰故雙,今言左腎右命門,此豈不自乖張乎?答曰:命門與腎,名異形同,水藏則體質不殊,故雙,主陰數;為名則左右兩別,故各有所主。猶如三焦、膀胱俱是水府,不妨兩號。

《八十一難経》は問う、其余の各臓はみな一箇あるのみにして、独り腎のみ両箇あり。なにゆえぞ。答えていう、左辺のはこそ腎と呼び、右辺のは「命門」と呼ぶ。命門は精と神と会聚する所の地方である。《河図》にいう、肝・心の脉象は左手に出現し、脾・肺は右手に出現し、腎と命門はみな尺部に出現す。――これは脉診の部位に就いていう。そこでまた或る人問う、前面に腎は陰に属し陰数は偶なるがゆえに双を成すと解釈せり。今はしかれども左は腎右は命門という。豈に自家矛盾にあらざらんや。回答は、命門と腎とは名称は同じからずとも形質は相同じ。同じく水臓に属すに就いていえば体質は並びに差別なし。だからそれを双を成すというは、取るは陰数である。名目に就いていえば則ち左右の分あり。だから各々各々の主る所あり。これはたとえば三焦と膀胱とが同じく水腑なるも、また妨げず各々名号あるがごとし。

《老子經》及《素問》云心藏神者,神以神明照了為義,言心能明瞭萬事。神是身之君,象火,已如前解。腎藏精者,精以精靈叡智為稱,亦是精智氣,腎水智巧,故精藏焉。脾藏志者,脾土主總四行,多所趣向,志以心願趣向為目,故藏於脾。肝藏魂者,魂以運動為名,肝是少陽,陽性運動,木性仁,故魂亦主善,故藏於肝焉。肺藏魄者,魄以相著為名,肺為少陰,陰性恬靜,金主殺,魄又主惡,故以藏之。五藏所主,乃以神、精、志、魂、魄五種,就陰陽論,唯有二別,陽曰魂,陰曰魄。

《老子》経と《素問》とはみな心は神を蔵すという。「神」は神明照察して了了分明の義を取る。言うは心は能く万事を明了す。神は一身の君で、火に取象す。前面ですでに解釈せり。腎は精を蔵すという。「精」は精霊叡智の称を取る。すなわち精微の智気である。腎は水に属して智巧を主る。だから精は腎裏に蔵る。脾は志を蔵すという。脾は土に属し、其余の四行を総管し、趨向は繁多にして、しかして「志」は正に心愿趨向を以て名目と為す。だから脾裏に蔵る。肝は魂を蔵すという。「魂」は能く運動するを以て名と為す。肝は少陽に属し、陽性は動を主り、木性は仁を主る。だから魂もまた善を主る。因って肝裏に蔵る。肺は魄を蔵すという。「魄」は形体に附着するを以て名と為す。肺は少陰に属し、陰性は恬静にして、金は粛殺を主り、魄はまた悪を主る。だから肺裏に蔵る。五臓の主る所は、すなわち神・精・志・魂・魄のこの五樣で、合して「五神」と称す。それらはすなわち五臓に隨って五に分かるるに、もしただ陰陽に按って帰併せば、則ち不過両類のみ。陽に属するは一槪に魂と呼び、陰に属するは一槪に魄と呼ぶ。

河上公章句云:五氣清微,為精神、聽明、音聲、五性,其鬼曰魂。魂者,雄也,主出入於鼻,與天通。五味濁溽,為形骸、骨肉、血脈、六情,其鬼曰魄。魄者,雌也,出入於口,與地通。《家語》曰:宰我問孔子曰,聞鬼神之名,而不知其所謂。孔子曰:人生有氣,魂氣者,神之盛也;魄氣者,鬼之盛也。人生有死,死必歸土,此謂之鬼;魂氣歸乎天,此謂之神。合鬼與神而享之,教之至也。骨肉斃乎下,化為野土,其氣發揚乎上,此神之著也。聖人因人物之情,而明命鬼神,以為民則。燔燎羶薌,所以報氣也;薦黍稷,修肺肝,加以鬱暢,所以報魄也。

河上公《老子章句》にいう、五行の気は清軽微妙にして、化して人の精神・聴覚視覚・声音と五性と成る。その神霊を「魂」と呼ぶ。魂は雄(陽)に属し、鼻孔より出入することを主り、天と相通ず。五味は濁重湿潤にして、化して人の形骸・骨肉・血脉と六情と成る。その神霊を「魄」と呼ぶ。魄は雌(陰)に属し、口より出入し、地と相通ず。《孔子家語》は記載す、宰我は孔子に問うていう、常に「鬼神」のこの名称を聞くに、しかれども究竟何を指すか明白せず、と。孔子にいう、人は生きればすなわち気あり。魂気は神の極盛、魄気は鬼の極盛。人生は必ず一死あり、死した後は必ず土に帰す。これをすなわち「鬼」と呼ぶ。魂気は上に天に帰す。これをすなわち「神」と呼ぶ。鬼と神とを合わせて一同に祭享するは、教化の極致である。骨肉は地下に倒斃して、化して野土と為るに、しかしてその気は上に向かって発揚す。これがすなわち神の顕現である。聖人は人情物理に依って、明白に鬼神に名を定め、以て百姓を教導する準則と為す。牲脂を焚焼して香気を上騰せしむるは、以て魂気に報答するを用いる。黍稷を進献し肺肝の牲を整治し、さらに郁鬯香酒を加うるは、以て魄に報答するを用いる。

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