第八 合を論ず
孔子曰:干,陽也;坤,陰也。陰陽合德,五行之本,受生於天,則受成於地;稟氣於陽,定形於陰。體無偏立,故各有合。總而言之,干為陽,屬天;支為地,屬陰。別而言之,干自有陰陽:甲陽,乙陰,丙陽,丁陰,戊陽,己陰,庚陽,辛陰,壬陽,癸陰。支亦自有陰陽:子陽,丑陰,寅陽,卯陰,辰陽,巳陰,午陽,未陰,申陽,酉陰,戌陽,亥陰。各象天地,而自相配合,有夫婦之道。
孔子にいう、乾は陽に属し、坤は陰に属す。陰と陽の徳性が会合するは、五行の根本である。天において生を受ければ、すなわち地において成を受けるを要し、陽において気を禀受し、陰において形を定む。いかなる事物の本体も一方に偏して独立しえない。だから各々配合あり。総じていえば、天干は陽に属して天に配し、地支は地に属して陰に属す。分かちていえば、天干自身もまた陰陽に分かれる。甲陽・乙陰・丙陽・丁陰・戊陽・己陰・庚陽・辛陰・壬陽・癸陰。地支自身もまた陰陽に分かれる。子陽・丑陰・寅陽・卯陰・辰陽・巳陰・午陽・未陰・申陽・酉陰・戌陽・亥陰。それらは各自天地に取象し、また彼此配合して、夫婦結合の道理を具有す。
干合者:己為甲妻,故甲與己合;辛為丙妻,故丙與辛合;癸為戊妻,故癸與戊合;乙為庚妻,故乙與庚合;丁為壬妻,故壬與丁合。季氏《陰陽說》曰:木八畏庚九,故以妹乙妻庚,庚氣在秋,和以木氣,是以薺麥當秋而生,所謂妻來之義。火七畏壬六,故以妹丁妻壬,壬得火熱氣,故款冬當冬而華。金九畏丙七,故以妹辛妻丙,丙得金氣,故首夏靡草薺麥死,故夏至之後,三庚為伏,以畏火也。土五畏甲八,故以妹己妻甲,土帶陰陽,合以雌嫁木,故能生物也。水六畏土五,故以妹癸妻戊。五行相和,是其合也。
まず「干合」を言う。すなわち十天干が両両相合する五対である。己は甲の妻子である。だから甲と己と合す。辛は丙の妻子である。だから丙と辛と合す。癸は戊の妻子である。だから癸と戊と合す。乙は庚の妻子である。だから乙と庚と合す。丁は壬の妻子である。だから壬と丁と合す。規律は陽干がそれより下に六位を数る陰干と相配する。すなわち我を克する者は夫、我の克する者は妻である。季氏《陰陽説》は物候をもってこの五合を解釈す。木の成数は八、成数九の庚金を畏れる。だから妹の乙を庚に嫁がす。庚の気は秋に当値し、木気を掺和し入る。因って薺菜と麦はかえって秋に萌生する。これがいわゆる「妻子は娘家の気を帯びて来たる」の意である。火の成数は七、成数六の壬水を畏れる。だから妹の丁を壬に嫁がす。壬は因って火の熱気を得る。因って款冬花は能く冬に開放す。金の成数は九、成数七の丙火を畏れる。だから妹の辛を丙に嫁がす。丙は因って金気を得る。因って初夏の時に靡草と薺麦はかえって枯死する。またこれがため、夏至の後に数えて第三の庚日に入伏するは、すなわち金が火を畏れるがゆえである。土の成数は五、成数八の甲木を畏れる。だから妹の己を甲に嫁がす。土は陰陽両性を兼帯し、配合上は雌性の己を木に嫁がす。因って万物を生長しうる。水の成数は六、成数五の戊土を畏れる。だから妹の癸を戊に嫁がす。五行の気はここに由りて調和する。これがすなわち「合」である。
支合者,日月行次之所合也。正月,日月會於諏訾之次,諏訾,亥也,一名豕韋,斗建在寅,故寅與亥合。二月,日月會於降婁之次,降婁,戌也,斗建在卯,故卯與戌合。三月,日月會於大梁之次,大梁,酉也,斗建在辰,故辰與酉合。四月,日月會於實沈之次,實沈,申也,斗建在巳,故巳與申合。五月,日月會於鶉首之次,鶉首,未也,斗建在午,故午與未合。六月,日月會於鶉火之次,鶉火,午也,斗建在未,故未與午合。
さらに「支合」(六合)を言う。それは日月が毎月交会する十二星次より来る。正月、日月は諏訾の次に交会し、諏訾は亥に対応する(またの名は豕韋)。しかしてこの月は斗柄が寅を指す。だから寅と亥と相合す。二月、日月は降婁の次に交会し、降婁は戌に対応し、斗柄は卯を指す。だから卯と戌と相合す。三月、日月は大梁の次に交会し、大梁は酉に対応し、斗柄は辰を指す。だから辰と酉と相合す。四月、日月は実沈の次に交会し、実沈は申に対応し、斗柄は巳を指す。だから巳と申と相合す。五月、日月は鶉首の次に交会し、鶉首は未に対応し、斗柄は午を指す。だから午と未と相合す。六月、日月は鶉火の次に交会し、鶉火は午に対応し、斗柄は未を指す。だから未と午と相合す。見えるに六合の来歴は、すなわち月建の支とその月の日月合朔の在る星次の支とが相配するものである。
七月,日月會於鶉尾之次,鶉尾,巳也,斗建在申,故申與巳合。八月,日月會於壽星之次,壽星,辰也,斗建在酉,故酉與辰合。九月,日月會於大火之次,大火,卯也,斗建在戌,故戌與卯合。十月,日月會於析木之次,析木,寅也,斗建在亥,故亥與寅合。十一月,日月會於星紀之次,星紀,丑也,斗建在子,故子與丑合。十二月,日月會於玄枵之次,玄枵,子也,一名天黿,斗建在丑,故丑與子合。
七月、日月は鶉尾の次に交会し、鶉尾は巳に対応し、斗柄は申を指す。だから申と巳と相合す。八月、日月は寿星の次に交会し、寿星は辰に対応し、斗柄は酉を指す。だから酉と辰と相合す。九月、日月は大火の次に交会し、大火は卯に対応し、斗柄は戌を指す。だから戌と卯と相合す。十月、日月は析木の次に交会し、析木は寅に対応し、斗柄は亥を指す。だから亥と寅と相合す。十一月、日月は星紀の次に交会し、星紀は丑に対応し、斗柄は子を指す。だから子と丑と相合す。十二月、日月は玄枵の次に交会し、玄枵は子に対応する(またの名は天黿)。斗柄は丑を指す。だから丑と子と相合す。このように十二支は両両に子丑・寅亥・卯戌・辰酉・巳申・午未の共に六対に配成し、合して「六合」と称す。
玄枵者,玄,黑也;枵,秏也。陰氣盛,故萬物始動,猶未出生,天下空虛,謂之曰秏。星紀者,紀,統也,領萬物所終始也。析木者,萬物始萌,分別水木也。大火者,東方木也,心宿在卯,火出木心也。壽星者,萬物始達,各任其命也。鶉尾者,南方朱雀之宿,以軫尾也。
以下に十二星次の名義を解釈す。「玄枵」――玄は黑色、枵は耗損である。この時陰気は正に盛んで、万物はすでに萌動を始めたといえどもまだ出生せず、天下は一片空虚。だから耗と作す。「星紀」――紀は統領で、それは万物の終結と開始を統領す。「析木」――万物は萌芽を始め、水と木はここに分判開く。「大火」――東方の木に属し、心宿は卯の位置に在り、火は木の中心より生出す(心宿は古く大火と称す)。「寿星」――万物は通達を始め、各々自己の天命を承受す。「鶉尾」――南方朱雀の七宿に属し、軫宿を以て鳥の尾部と為す。
鶉火者,陽氣盛大,火星昬中在七星朱鳥之處也。鶉首者,南方之宿,其形象鳥,以井為冠,以柳為口也。實沈者,陰氣沉重,降實於物也。大梁者,強也,白露巳降,萬物堅強也。降婁者,降,下也;婁,曲也,陰氣上侵,萬物萎曲也。諏訾者,陰盛陽伏,萬物愁哀也。
「鶉火」――この時陽気は盛大にして、黄昏の時に大火星は正に南中の天に当たり、位置は朱鳥の七星宿の一帯に在る。「鶉首」――南方の宿に属し、形状は鳥に似て、井宿を以て鳥の冠と為し、柳宿を以て鳥の口と為す。「実沈」――陰気は沈重にして、下降して万物の中に充実す。「大梁」――梁はすなわち強で、白露はすでに降下し、万物の質地は堅強なり。「降婁」――降は下降、婁は弯曲で、陰気は上に向かって侵逼し、万物は枯萎弯曲す。「諏訾」――陰気は盛んで陽気は潜伏し、万物は一片愁苦悲哀の象。これらの名義はみな毎一つの星次の値する月份の物候より説を立てたものである。
凡陰陽相配,善惡理均,凶不全凶,吉不獨吉。吉終則凶,凶終則吉。故合不專合,復有離義。就支干配日辰,乃有五合、五離。五合者,《河圖》云:甲寅乙卯天地合,丙寅丁卯日月合,戊寅己卯人民合,庚寅辛卯金石合,壬寅癸卯江河合。五離者:甲申乙酉天地離,甲申丁酉日月離,戊申己酉人民離,庚申辛酉金石離,壬申癸酉江河離。
大凡陰陽の相配は、善と悪の道理は均衡する。凶は全然凶ならず、吉もまた孤零零として吉のみならず。吉は尽きれば凶に転じ、凶は尽きれば吉に転ず。だから「合」は合あるのみにあらず、同時に「離」の意味をも含有す。干支を具体の日辰に配せば、便ち五合と五離あり。五合は、《河図》にいう、甲寅・乙卯は天地合、丙寅・丁卯は日月合、戊寅・己卯は人民合、庚寅・辛卯は金石合、壬寅・癸卯は江河合、と。五離は則ち、甲申・乙酉は天地離、丙申・丁酉は日月離(底本は「丙申」を誤って「甲申」と作る)、戊申・己酉は人民離、庚申・辛酉は金石離、壬申・癸酉は江河離、と。
寅卯,陽之所升,能生萬物,日常出之,月滿又出,東方少陽生長之處,物所欣會,故以為合。申酉,陰之所湊,肅殺之方,日月皆沒於其所,西方少陰衰老之處,物之所惡,故以為離。甲乙日干之首,卦屬乾坤,故比天地;丙丁陽光之盛,故方日月;戊己居中,能成萬物,故類人民;庚辛體自金石,壬癸居然江河。凡為萬事,吉則從合,凶則從離;遇合則休,遇離則否。選日定時,卜筮之用,彌所用也。
寅卯と申酉をもって合離を分かつ所以は、寅卯は陽気上昇の地で、能く万物を生長し、太陽は常にここより升起し、月亮の円満なる時もまたここより出づ。東方は少陽生長の処で、万物はここに欣然として会聚す。だからそれを取って「合」と為す。申酉は陰気聚集の地で、粛殺の方に属し、日月はみなここに沈没す。西方は少陰衰老の処で、万物はここに悪しみ安んぜず。だからそれを取って「離」と為す。五組の名目の来歴に至っては、甲乙は十日の干の開頭で、納甲において乾坤の両卦に分属する。だから天地に比す。丙丁は陽光最も盛んの干。だから日月に比す。戊己は中央に居り、能く万物を成就す。だから人民に比す。庚辛の本体はすなわち金と石。壬癸は自然すなわち江と河。凡そ諸種の事を弁ずるに、吉事はすなわち「合」日に依从し、凶事はすなわち「離」日に依从する。合日に遇えば則ち美善、離日に遇えば則ち不通。吉日を選択し時辰を確定するにも、卜筮して占断するにも、この一組は用いること極めて多し。
第九 扶抑を論ず
扶者,以輔助為義;抑者,以止退立名。五行既成,盛衰有時,尊卑代易,故有相扶抑之義。其相遇也,母得子為扶,子遇母為抑。子有孝養順助之理,所以為扶;母有尊嚴訓制之道,所以為抑。相扶者:木扶水,水扶金,金扶土,土扶火,火扶木,此皆母得子。相抑者:木抑火,火抑土,土抑金,金抑水,水抑木,此皆子遇母也。
「扶」は輔佐幇助を以て含義と為し、「抑」は阻止して退かしめるを以て名を立つ。五行はすでに生成すれば、すなわち盛あり衰あり、各々その時あり、尊卑の地位は交替変換し、因って互相扶助・互相抑制の関係を産生す。両行が相遇する時、母親が自己の児子に遇上するを、「扶」と呼ぶ。児子が自己の母親に遇上するを、「抑」と呼ぶ。児子には孝養順従して長輩を幇助する道理あり。だから扶と為す。母親には尊厳訓導して管束約束する一面あり。だから抑と為す。相扶に属するは、木は水を扶し、水は金を扶し、金は土を扶し、土は火を扶し、火は木を扶す。――これらはみな母親が児子に遇う(水生木、木はすなわち水の子、余はこれに倣う)。相抑に属するは、木は火を抑し、火は土を抑し、土は金を抑し、金は水を抑し、水は木を抑す。――これらはみな児子が母親に遇う。
柳世隆《龜經》云:扶者壽,抑者否;扶者起,抑者止;扶者仰,抑者俛;扶者進,抑者退;扶者行,抑者停;扶者吉,抑者凶。就此又須消息。凡父母有氣為真,父母無氣為宗廟鬼神;有氣為兒子福助,無氣為財帛功德。所以扶者為善,抑者為惡。生王之時,則為有氣;死沒之時,則是無氣。有氣無氣,復有二種:若遇合德,雖抑非害;若逢刑剋,為凶更重之。
柳世隆《亀経》にいう、扶を得れば則ち長寿、抑に遭えば則ち閉塞。扶を得れば則ち興起、抑に遭えば則ち停滞。扶を得れば則ち頭を昂げ、抑に遭えば則ち頭を低くす。扶を得れば則ち前進、抑に遭えば則ち後退。扶を得れば則ち通行、抑に遭えば則ち停住。扶を得れば吉を為し、抑に遭えば凶を為す、と。ただしこの上になお斟酌変通を要す。凡そ父母爻に気ある者は、すなわち真の父母である。父母爻に気なき者は、則ち転じて宗廟鬼神と看作す。子孫爻に気ある者は、児子の帯びて来たる福助である。気なき者は、則ち転じて財帛功徳と看作す。因って扶は善を為し抑は悪を為す。長生帝旺の時に処するをすなわち「有気」と呼び、死絶の時に処するをすなわち「無気」と呼ぶ。有気無気はなお各々二種の情形に分かれる。もし同時に合と徳とに遇上すれば、抑されども傷害を構成せず。もしまた刑と克とに碰上すれば、凶険はさらに加重する。
問曰:母之於子,訓制之道,謂之為凶,此未可解。尊嚴訓制,教以義方,欲其成人,何為反惡?答曰:前解巳有二種。若遇一德合,雖抑非害;有氣為真父母,此是欲其成人。雖然,當訓之時,於子交不遂心,亦是留礙;況逢刑剋。舜之至孝,尚大杖則逃;王祥扣冰,孟宗泣筍,此豈是義方之教?無氣為鬼神者,鬼神之來,多欲為祟,禱請祈求,及可致福,非否抑而何?
或る人問う、母親が児子に対する訓導管束を、しかれどもそれを凶と称するは、これは通じない。尊厳の訓導・正道をもって教誨するは、もともと彼を成人せしめんと欲するに、なにゆえかえって悪事とならん。回答にいう、前面ですでに二種の情形を分かてり。もし徳と合とに遇えば、抑されども害を為さず。父母爻に気あれば、すなわち真の父母で、これは正に児子を成全せんとする。話はこのごとしといえども、父母の訓誡する時、児子のこの辺においては畢竟心に合わず、また一種の阻滞と算す。況んやまた刑克に碰上するをや。虞舜のあの至孝にして、父の大杖をもって打つに遇えばなお避く。王祥は氷に臥して鯉を求め、孟宗は竹に哭して筍を得。これらはどうしてただ「義方をもって教う」のみならんや。父母爻に気なければ便ち鬼神と看作すに至っては、鬼神は一たび来れば多半作祟せんと欲し、祷告祈求してこそ転じて福を致しうるを要す。これは正に一種の圧抑にあらずや。
問曰:解雲有氣為父母,無氣為鬼神者,此亦有疑。夫鬼神雖居幽微,猶是有物,精靈感通,禍福斯應;若云無者,宗廟享祀,何所依憑?答曰:所言有無者,正論生死。生則形存為有,死則氣散為無,不語幽微,何足疑也。
また問う、解釈に気あればすなわち父母、気なければすなわち鬼神とは、ここにも疑問あり。鬼神は幽隠微妙の中に処すといえども、畢竟なお存在の物で、精霊は能く人と感応相通じ、禍福はこれに隨って応験す。もしそれを「無」というならば、宗廟裏の祭祀はまた何に依憑するか。回答にいう、ここの言う所の有と無とは、講ずるは正に生と死である。生きていれば形体はなお存す。だから有と呼ぶ。死せば気はすでに消散す。だから無と呼ぶ。幽冥世界の存在するや否やを談論するにあらず。何の疑うべきあらんや、と。
問曰:若如此解,死則為無,無何所慮,而能為抑?答曰:鬼神雖無形質可見,而有善惡可求,故能為抑。問曰:若能為抑,便是有義。答曰:就抑則有,語形則無,今解無也。就氣而論,非是全無,但無王相之氣,而有死沒之氣。王相氣來則吉,死沒氣來則凶。所言無氣者,無王相氣耳。
さらに問う、このように解釈すれば、死はすなわち無で、すなわち無なればなお憂慮すべき何ぞあらん、それはまたどうして圧抑を造成しえようか。回答にいう、鬼神は形質の見ゆるなきといえども、しかして善悪の推求すべきあり。だから圧抑を造成しうる。又問う、すなわち圧抑を造成しうるならば、則ちそれは「有」を説明する。回答にいう、それが能く圧抑作用を起こすに就いていえば有なり、それが形体に就いていえば無なり。ここに言うは正に形体上の無である。もし「気」の上より講ずれば、また全然なきにあらず、ただ王相の気なきのみで、しかして死絶の気あるのみ。王相の気の来臨すれば則ち吉、死絶の気の来臨すれば則ち凶。いわゆる「無気」とは、指すはただ王相の気なきのみである、と。
第十 相克を論ず
五行雖為君臣父子,生王不同,逐忌相剋。克者,制罰為義,以其力強能制弱。故木克土,土克水,水克火,火克金,金克木。《白虎通》云:木克土者,專勝散;土克水者,實勝虛;水克火者,眾勝寡;火克金者,精勝堅;金克木者,剛勝柔。
五行の間は君臣父子の関係を結成すといえども、各自の長生・帝旺の時節は相同じからず。そこで彼此忌諱して相克あり。「克」は制服懲罰を以て含義と為す。力量の強い者は能く弱い者を制服するがゆえである。だから木は土を克し、土は水を克し、水は火を克し、火は金を克し、金は木を克す。《白虎通》はこの五種の克の機理を解釈していう、木は能く土を克するは、専一が散漫に勝つ。土は能く水を克するは、充実が空虚に勝つ。水は能く火を克するは、多数が少数に勝つ。火は能く金を克するは、精微が堅硬に勝つ。金は能く木を克するは、剛硬が柔軟に勝つ、と。
《春秋繁露》云:木者,農也,農人不順如叛,司徒誅其率正矣,故金勝木。火者,本朝有讒邪,熒惑其君,法則誅之,故水勝火。土者,君大奢侈,過度失禮,民叛之窮,故木勝土。金者,司徒弱,不能使眾,則司馬誅之,故火勝金。水者,執法阿黨不平,則司寇誅之,故土勝水。
《春秋繁露》は則ち官職をもって相克を講ず。木は農事に対応し、農人はもし順服せず甚だしきは叛乱すれば、教化を掌る司徒は出面して誅治し、彼らを糾正す。だから金は木に勝つ。火は朝廷に対応し、朝中にもし讒佞邪悪の人あって君主を迷惑せば、則ち法に依りて彼らを誅除す。だから水は火に勝つ。土は君主に対応し、君主はもし奢侈に過ぎて法度を逾越し礼制を失えば、百姓は叛離して彼を窮境に陥れしむ。だから木は土に勝つ。金は司徒に対応し、司徒はもし軟弱にして衆人を駆使しえざれば、軍を掌る司馬は出面して誅治す。だから火は金に勝つ。水は法を執る官に対応し、執法者はもし偏袒し党を結び、事を処するに公ならざれば、司寇は出面して誅治す。だから土は水に勝つ。
勝者為君,為夫,為官,為吏,為鬼;負者為臣,為妻,為財。君以威嚴尊高,夫以德義隆重,官以能有賞伐,吏以刑法裁斷,鬼以克殺病喪,併為勝者也。臣以畏伏其上,妻以敬從其夫,財以休彼制用,併為負者。凡上克下為順,下克上為剝。喻如君有刑臣之法,臣無犯君之義;父有訓子之道,子無教父之方也。所以上之克下,順理而行;下之克上,乖理而克。
克の関係の中にあって、勝を得るの一方は君主・丈夫・官長・吏員・鬼祟を象徴し、敗を落したるの一方は臣下・妻子・財物を象徴す。君主は威厳に憑って尊高にし、丈夫は徳義に憑って隆重にし、官長は能く賞罰を施行し、吏員は刑法に依りて裁断し、鬼祟は能く克殺と病喪を帯来す。――これらはみな勝を得るの一方に属す。臣下は畏懼して上級に伏従し、妻子は恭敬して丈夫に順従し、財物は他人の支配取用に任す。――これらはみな敗を落したるの一方に属す。凡そ上の下を克するは「順」と為し、下の上を克するは「剥」と為す。譬えて君主に臣下を懲治する法度あるも、臣下に君主を冒犯する道理なし。父に児子を訓導する方法あるも、児子に父を教訓する道理なし。だから上の下を克するは理に順って行い、下の上を克するは則ち理に違って克する。
故《白虎通》云:陽為君,陰為臣。水以太陰之氣,制太陽之火;金以少陰之氣,制少陽之木,喻如失道之君,若殷湯放桀,周武伐紂,此皆誅有罪也。凡卜筮,得其所克者凶,得所受制者吉。五行之道,子能拯父之難,故金往克木,火復其讎;火既消金,水雪其恥。然當衰氣者,反為王者所制,如鼎鑊中水,為火所煎。
だから《白虎通》にいう、陽は君、陰は臣。水は太陰の気を以て太陽の火を制服し、金は少陰の気を以て少陽の木を制服す。これはたとえば無道の君に対付するがごとく、たとえば商湯が夏桀を放逐し、周武王が商紂を討伐したるは、みな有罪の人を誅除するに在り(「下克上」に属して義に合する特例)。凡そ卜筮は、自己の克する所の対象を占得れば凶を為し、自己を克制する対象を占得ればかえって吉を為す。五行の道理は、児子は能く父の危難を解救す。だから金は往きて木を克せば、木の子の火は来たりて父のために報仇す。火は金を消熔せば、金の子の水はまた来たりて父のために雪恥す。然るに気すでに衰弱の一方は、かえって当旺者に制服せらる。たとえば鼎鑊の裏の水の、火に煎熬せらるがごとし。
《白虎通》云:火熱水冷,有溫水,無寒火何?明臣可為君,君不可為臣。火煎水為湯者,不改其形,但變其名也;水滅火為炭者,形名俱盡也。亦如君被廢而不存,臣有罪而退職也。五行相剋,木穿土不毀,火燒金不毀者,皆陽氣仁,好生故也;金伐木犯,水滅火犯者,陰氣貪,好殺故也。至如山崩川竭,木石為災,天火下流,人火上燎,水旱鬲並,風霜為害,此並失政於人,天地作譴。
《白虎通》にいう、火は熱く、水は冷たい。なにゆえ世上に温水はあるに、冷火なきか。これは臣下は上昇して君と為りうるも、君主は下降して臣と為りえないを表明す。火は水を煎じて湯と為しても、水の形体は並び改変せず、ただ名を換えたのみ。水は火を浇び滅して炭と為せば、火の形体と名称はすなわち一同に消失す。これもまたたとえば君主はひとたび廃せられれば便ち存せず、臣子は罪ありても不過免職するのみ。五行の相克において、木は土を穿透して土は毀壊せず、火は金を焼いて金は毀滅せず。これは木と火とが陽気に属し、陽気は仁厚にして生養を喜好するがゆえである。しかるに金は木を砍伐し水は火を浇滅するは、みな侵犯の意を帯びる。これは金と水とが陰気に属し、陰気は貪婪にして殺伐を喜好するがゆえである。山が崩れ地が裂け、河川が涸渇し、木石が灾を成し、天火は上より下に向かい、人火は下より上に蔓延し、水灾旱灾は交替して併作し、風霜は害を成すに至っては、これらはみな人間の政事の失当で、天地の降下する譴責である。
為五行相沴者,乖沴不和之義,以其氣沖相沴,不名克也。沴,亦廢也。於木則南宮極震,於水則三川竭,於火則宮室災,於金則九鼎震,於土則齊楚山崩,木金水火俱沴土者,地動分拆是也。故五行氣沖,而有六沴,大概如斯。
この類の現象を五行の「相沴」と呼ぶ。取るは乖戾不和の意である。それらは気の相冲撞して彼此傷害するがゆえに、「克」とは呼ばない。沴にもまた廃壊の義あり。木の上に表れれば、すなわち南宮極のあのような震動の異象である。水の上には、すなわち三條の大河が同時に枯竭す。火の上には、すなわち宮室の失火。金の上には、すなわち九鼎の震動。土の上には、すなわち斉・楚の一帯の山陵の崩塌。木・金・水・火の四者が同時に沴して土を傷する時は、則ち地震と地面の開裂と出現す。だから五行の気はひとたび相冲すれば、いわゆる「六沴」あり。大致の情形はすなわちこのごとし。
第十一 刑を論ず
夫刑者,殺罰為名,自是刑于不義,非故相刑也。五行各在一方,寒暑推移,應時而動,不失其節,各不犯,各無應獨受刑者。但須用之不嚴而治,不可棄而不用,故皆還相刑。如以金治金,則成其器;以人治人,則成國政。《呂氏春秋》云:刑罰不可偃於國,笞怒不可廢於家。故五刑之屬三千,莫不本乎五行。
いわゆる「刑」とは、誅殺懲罰を以て名を得たるもので、それはもとより不義の者の身上に加うるに、五行が故意に彼此に刑を加えんとするにあらず。五行は各々一方に居り、寒暑の推移に隨い、時令に按って動き、その節度を失わず。もともと彼此冒犯せず、またいずれの一行も理として単独に刑罰を承受すべきなし。ただ刑は厳酷に用いずとも世を治めうれども、棄置して用いざるべからず。だから五行の間はなお旧として互相刑す。これはたとえば金属工具をもって金属を加工してこそ、器物を作り成しうるがごとく、人をもって人を治理してこそ、国政を成就しうるがごとし。《呂氏春秋》にいう、刑罰は国中に廃棄すべからず、鞭笞責怒は家中に取消すべからず、と。だから五刑の下に細分して三千條の罪目あり、一条といえども五行に本づかざるなし。
《周書》曰:因五行相剋而作五刑,墨、劓、剕、宮、大辟是也。火能變金色,故墨以變其肉;金能克木,故剕以去其骨節;木能克土,故劓以去其鼻;土能塞水,故宮以斷其淫泆;水能滅火,故大辟以絕其生命。至於漢文,去其肉刑,代之以鞭笞;其後梟斬流絞之徒,並不越其五數。
《周書》にいう、五行の相克に依りて五刑を制定せり。すなわち墨(字を刺す)・劓(鼻を割く)・剕(足を断つ)・宮(勢を去る)・大辟(死刑)。火は能く金の顔色を改変す。だから墨刑を用いて人の肌肤の顔色を改変す。金は能く木を克す。だから剕刑を用いて人の骨節を去掉す。木は能く土を克す。だから劓刑を用いて人の鼻子を割去す(鼻は面部中央に居りて土に属す)。土は能く水を堵塞す。だから宮刑を用いて人の淫欲を断絶す。水は能く火を滅す。だから大辟を用いて人の生命を断絶す。漢文帝の時に至りて肉刑を廃除し、改用して鞭笞を以て代替す。此后の梟首・斬・流放・絞刑の類も、またみなこの五種の数目を超出せず。
《尚書》云:流宥五刑。又,五流相去各五百里。鞭笞之數,起自於十,積而至百,亦依十干之數。《尚書刑德考》云:大辟象天刑,罰贖之數三千,應天地人。日辰支干之刑,亦有三種,故天地人之刑,其揆一也。
《尚書》にいう、流放を用いて五刑の罪を寛宥す。又いう、五等の流放の地は彼此相距りて各々五百里、と。鞭笞の数目は十より起算し、累積して一百に至る。これもまた十天干の数に依る。《尚書刑徳考》にいう、大辟死刑は上天の刑に取象し、罰金贖罪の條目は共に三千、天・地・人の三才に対応す。日辰干支上の刑もまた三種に分かる。見えるに天の刑・地の刑・人の刑は、道理はもとより同一個である。
三種者:一,支自相刑;二,支刑在干;三,干刑在支。支自相刑者,子刑在卯,卯刑在子,丑刑在戌,戌刑在未,未刑在丑,寅刑在巳,巳刑在申,申刑在寅,辰午酉亥各自刑。《漢書》翼奉奏事云:木落歸本,故亥卯未木之位,刑在北方:亥自刑,卯刑在子,未刑在丑。水流向末,故申子辰水之位,刑在東方:申刑在寅,子刑在卯,辰自刑。金剛火強,各還其鄉,故巳酉丑金之位,刑在西方:巳刑在申,酉自刑,丑刑在戌。寅午戌火之位,刑在南方:寅刑在巳,午自刑,戌刑在未。
この三種とは、第一、地支の間で互相刑し、第二、地支が天干上に刑し、第三、天干が地支上に刑す。地支の互相刑するは、子は卯を刑し、卯は子を刑す(この一対は互刑にして、「無礼の刑」と称す)。丑は戌を刑し、戌は未を刑し、未は丑を刑す(三支は遞刑にして、「無恩の刑」と称す)。寅は巳を刑し、巳は申を刑し、申は寅を刑す(三支は遞刑にして、「恃勢の刑」と称す)。辰・午・酉・亥の四支は則ち各自自己を刑し、「自刑」と称す。《漢書》の載する所の翼奉の奏章は三刑の推法を解釈していう、樹木は凋落すれば本根に帰せんと欲す。だから亥卯未木の三合の位は、刑は北方に落つ(木の生地の亥の在る所の方位)。亥は自刑、卯の刑は子に在り、未の刑は丑に在り。水は末端に向かって流れんと欲す。だから申子辰水の三合の位は、刑は東方に落つ(水流の往く所)。申の刑は寅に在り、子の刑は卯に在り、辰は自刑。金は剛硬・火は強盛、各々自己の本郷に回到す。だから巳酉丑金の三合の位は、刑は西方に落つ(金の本方)。巳の刑は申に在り、酉は自刑、丑の刑は戌に在り。寅午戌火の三合の位は、刑は南方に落つ(火の本方)。寅の刑は巳に在り、午は自刑、戌の刑は未に在り。「木落して本に帰り、水流れて末に向かい、金火は郷に還る」のこの三句の口訣を掌握すれば、三刑は以て自ら推算しうる。
干刑支者,寅刑在庚,卯刑在辛,辰刑在甲,巳刑在癸,午刑在壬,未刑在乙,申刑在丙,酉刑在丁,戌刑在甲,亥刑在己,子刑在戊,丑刑在乙。支刑干者,甲刑在申,乙刑在酉,丙刑在子,丁刑在亥,戊刑在寅,己刑在卯,庚刑在午,辛刑在巳,壬刑在辰戊,癸刑在丑未。此並以所勝為刑也。
続いては干支の間の刑である(底本のこの両條の標目は前面に列した次序と恰も互いに換わる。読む時は内容に依って準と為す)。地支より天干に刑するは、寅は庚を刑し、卯は辛を刑し、辰は甲を刑し、巳は癸を刑し、午は壬を刑し、未は乙を刑し、申は丙を刑し、酉は丁を刑し、戌は甲を刑し、亥は己を刑し、子は戊を刑し、丑は乙を刑す。天干より地支に刑するは、甲は申を刑し、乙は酉を刑し、丙は子を刑し、丁は亥を刑し、戊は寅を刑し、己は卯を刑し、庚は午を刑し、辛は巳を刑し、壬は辰と戌とを刑し、癸は丑と未とを刑す。この両組はみな「我の能く勝(克)する者」を以て刑を受ける対象と為す。
凡卜筮所用,遇刑非善,然所求之事,非刑不獲。史蘇《龜經》云:當成不成,視兆相刑。又問云:六合是吉,而巳申相剋者何?答曰:金帶水生火中,火為金鬼,水為火鬼,金共水生火中,則是鬼母子身。申是金位,兼復懷水;巳是火位,復有生金,還相讎,故以為刑也。
凡そ卜筮の時、刑に遇うは好事にあらず。然るにある求むる所の事は、刑に遇わざればかえって弁じ成りえず。史蘇《亀経》にいう、本当は成功すべきにして成らざれば、すなわち兆象の上に相刑するや否やを看るべし、と。また或る人問う、巳と申はもとより六合で、吉利に属すべきに、なにゆえそれらはまた相克するか。回答にいう、金は水を帯びて火中に長生す。火は金の鬼(金を克する者)で、水もまた火の鬼である。金と水とが一同に火の裏に長生すれば、則ち鬼・母・子の三者が同じく一身に処するに等し。申は金の本位で、同時にまた水の長生を懐く。巳は火の本位で、裏面にまた金の長生あり。双方は彼此仇を為す。だから既に合すまた刑す、と。
然刑有上下,寅刑在巳者,巳為刑上,寅為刑下,餘例悉爾。故《兵書》云:刑上風來,坐者急起,行者急住。卽此謂也。雲三刑者,如寅刑在巳,巳刑在申,寅日申時,巳上起風,或巳上見妖,謂之三刑也。他亦效此。別有從氣為刑,與德相對者,已從前解,故不重釋。
さらに、刑にもまた上下の分あり。寅の刑は巳に在れば、則ち巳は「刑上」、寅は「刑下」なり。其余の各例はみなこのように照らして分かつ。だから《兵書》にいう、刑上の方位より風の刮り来れば、坐する者は急ぎ身を起こすべく、走路する者は急ぎ停止すべし、と。言う所は正にこれである。いわゆる「三刑」とは、たとえば寅は巳を刑し、巳はまた申を刑すに、寅日の申時に在って、もし巳の方位上に起風し、あるいは巳の方位上に妖異出現せば、すなわちこれを三刑と呼ぶ。其他の情形もまたこの類に照らして推す。また別に一種の卦気に依りて推排し、「徳」と相対する刑あり。前面の徳を論ずる一篇にすでに解説せり。ここには重複せず。
第十二 害を論ず
相害者,逆行相逢於十二辰,兩兩相害,名為六害:戌與酉,亥與申,子與未,丑與午,寅與巳,卯與辰,是六害也,是殺傷之義。今此六害,或是君臣父子,或是夫妻,理不應害。《孝經》云:不愛其親而愛他人者,謂之悖德。既違其慈愛之性,故有怒戮之理。
いわゆる「相害」とは、十二地支が一順一逆に相向かって行き、中途にあって両両相遇し、両支は彼此害を為す。合して「六害」と称す。戌と酉、亥と申、子と未、丑と午、寅と巳、卯と辰。これがすなわち六害で、取るは傷殺の義である。この六対の中、あるはもとより君臣あるいは父子の関係にして、あるはもとより夫妻の関係にして、道理に按れば互いに加害すべからず。《孝経》にいう、自己の双親を愛せずして他人を愛するを、これを背徳を棄てると呼ぶ、と。すなわち慈愛の本性に違背する以上、自然に互いに怨怒残害する道理あり。
五行所惡,其在破沖。今之相害,以與破沖合,故父失其慈,子違其孝,妻不敬順,夫棄和同,併合讎忿,理成相害。至如命待熊蹯,飢探雀,重耳外奔,申生賜盡,河內則夫婦相殘,塞外則君臣殺奪,此豈非害乎。
五行の最も忌悪するは「破」と「沖」である。今、この六害の成立する所以は、正に害を受けるの一方が加害者の破・沖の支と相合するがゆえである。ひとたびこのようになれば、父親は便ちその慈愛を失い、児子は便ちその孝道に違い、妻子はもはや敬順せず、丈夫は和睦を拋棄し、双方はみな仇怨を結成す。そこで相害を形成す。たとえば楚成王は死に臨んで熊掌を食せんと欲して時辰を拖延し、飢餓の時に鳥雀を掏って飢に充て、晋の公子重耳は出奔して外に在り、太子申生は賜死せられ、河内の地方に夫婦相残の事あり、塞外に君臣の互相殺奪の事あり。――これらはどうして正に「害」にあらざらんや。
辰卯為害者,卯與戌合,戌破於辰,辰土為卯木妻,戌辰為讎。卯與戌合,便是棄辰;與酉合,酉沖破卯,辰為卯妻,酉為卯讎,辰與酉合,酉能克卯,婦奸外夫、殺本夫之象也。巳與申合,申沖於寅,巳為寅子,申能克寅,巳與申合,子有逆行。
辰と卯の相害する所以は、卯は戌と相合するに、戌はまた辰を冲破す。辰土は卯木の妻子(木は土を克し、克さるる者は妻)で、戌と辰とは仇家である。卯はすなわち往きて戌と相合するは、すなわち辰を拋棄するに等し。別の一頭、辰はまた酉と相合するに、酉は正に卯を冲破す。――辰は卯の妻、酉は卯の仇で、妻子はしかれども仇家と相合し、酉は能く卯を克す。これは正に婦人が外夫と私通し、合謀して本夫を殺害するの象である。同じ理に、巳は申と相合するに、申の沖する所は寅である。巳は寅の生ずる所の児子(寅木は巳火を生ず)で、申は能く寅を克すに、巳はしかれども往きて申と相合す。これはすなわち児子が悖逆の事を做出す。
丑午相害者,丑與子合,子沖破午;午與未合,未破於丑,亦是父子相害義也。未子相害者,未與午合,午沖破子,未土為君,子水為臣,午火為子水之財,君以財害臣之象也;子與丑合,丑破於未,丑又是土,子與丑合,欲引外君,共害其主,此則臣有逃亡之象也。申亥相害者,亥與寅合,寅沖於申;申與巳合,巳沖於亥,亦是父子相害義也。
丑と午の相害する所以は、丑は子と相合するに、子は正に午を冲破す。午は未と相合するに、未はまた丑を破る。これもまた父子が互相加害するの意である(午火は丑中の土を生ず。もとより父子)。未と子の相害する所以は、未は午と相合するに、午は子を冲破す。未土は君で、子水は臣(土は水を克す)。午火はまた子水の「財」(水は火を克し、我の克する者は財)である。これは正に君主が財物を借りて臣下に加害するの象である。反対に、子は丑と相合するに、丑はまた未を破る。丑も同じく土に属し、子が往きて丑と相合するは、外より君主を引き入れて、一同に自己の本主に加害せんとするに等しい。これはすなわち臣下に逃亡叛離あるの象である。申と亥の相害する所以は、亥は寅と相合するに、寅は正に申を冲し、申は巳と相合するに、巳はまた亥を冲す。これは同じく父子の互相加害するの意である。
夫相生不必相生,相害不必相害。猶如火能燒物,遂有炎洲之火而不能燒物;水能潤長,洪潦暴至,亦使草樹芸黃。此是相生反相害。相害反相生者,鑽木出火,而雲雨掣電,相因而有,此是相害反相生也。水本害火,膏油漬注,燈火益明,亦是相害反相生也。
実は相生するも必ずしも真に生ずるにあらず、相害するも必ずしも真に害を成すにあらず。譬えて火はもともと物を焼毀しうるといえども、炎洲のあの火は樹木を焼かず。水はもともと滋潤生長しうるといえども、洪水が暴漲する時は、草木を泡して枯黃せしめることもある。これはすなわち本応相生にしてかえって害を成す。反対に、本応相害にして相生を成したる例もまたあり。木を钻れば火を取出しうるに、雲雨の中に閃電が迸発するもまた水火が相因って生ずるなり。これはすなわち相害がかえって相生を成す。水はもともと火を克すれども、膏油を浇注し入れれば、灯火はかえってさらに亮しくなる。これは同じく相害がかえって相生を成す。
陰陽五行,萬物所存,吉凶之應,各以其類言之。或吉中有凶,凶中有吉。凶則視其所救,吉則觀其所害。凶而有救,不至於禍;吉而有害,不及於慶。純凶則禍大,純吉則福深。如丑午相害,以子沖破午,子有王水,此為純凶;未破於丑,丑有欲相之木,能制未土,為有救也。未子相害,午沖破於子,子是王水,水制午火,為凶中有吉;子與丑合,丑土反制子水,卽是吉中有凶。生害之義例皆如斯。
陰陽五行は万物がそれに頼って存在する根本で、吉凶の応験は、各々その類に按って推断するを要す。時に吉中に凶を含み、凶中に吉を含む。凶に遇う時は救助あるや否やを看るを要し、吉に遇う時は妨害あるや否やを看るを要す。凶にして救あれば、灾を成すに至らず。吉にして害あれば、喜慶に足らず。純粋の凶は、禍患すなわち大なり。純粋の吉は、福沢すなわち深し。例を挙げていえば、丑午相害のこの一組は、子が来たりて午を冲破し、しかして子中に当旺の水あり(水は火を克す)。だから午に対しては純凶である。未の丑を破るの一頭に至っては、丑中にまさに旺に転ぜんとする木を含有し(木は土を克す)、能く未土を制する。これを有救と算す。さらに未子相害のこの一組を看る。午は子を冲破し、子中は当旺の水で、水はかえって能く午火を制服す。これはすなわち凶中に吉あり。しかして子が丑と相合する時は、丑土はかえって子水を制服す。これはすなわち吉中に凶あり。相生相害の義例は、みなこのように照らして推求す。
第十三 冲破を論ず
沖破者,以其氣相格對也。沖氣為輕,破氣為重。支干各自相對,故各有沖破也。干沖破者:甲庚沖破,乙辛沖破,丙壬沖破,丁癸沖破,戊壬、甲戌、乙己亦沖破。此皆對沖破,亦本體相剋,彌為重也。
いわゆる「冲破」とは、両方の気が正面に抵格して相対することを指す。その中「冲」の気は較軽く、「破」の気は較重し。天干と地支とは各自みな正相対する両方あり。だから干支ともに冲破あり。天干の冲破は、甲と庚と冲破し、乙と辛と冲破し、丙と壬と冲破し、丁と癸と冲破す。この外、戊と壬、甲と戌、乙と己もまた冲破と算す。これらはすなわち位置上に正相対する冲破であって、本体上もまた互相克制す。だからさらに厳重なり。
支沖破者:子午沖破,丑未沖破,寅申沖破,卯酉沖破,辰戌沖破,巳亥沖破。此亦取相對,其輕重皆以死生言之。四孟有生而無死,直沖而不破;四季有死而無生,直破而無沖;四仲死生俱興,故並有沖破。
地支の冲破は、子と午と冲破し、丑と未と冲破し、寅と申と冲破し、卯と酉と冲破し、辰と戌と冲破し、巳と亥と冲破す。これもまた正相対する両支を取るに、しかしてそれらの孰れが軽く孰れが重きは、支中の蔵する生気・死気を用いて判断するを要す。寅申巳亥のこの四つの「孟」支は長生の気あるのみにして死気なし。だから冲あるのみにして破なし。辰未戌丑のこの四つの「季」支は死気あるのみにして生気なし。だから破あるのみにして冲なし。子午卯酉のこの四つの「仲」支は死気生気ともに具わる。だから冲と破と兼ね有す。
四孟有生無死,直有沖無破者,寅有生火,巳有生金,申有生水,亥有生木也。四仲死生俱有者,卯有王木死水,午有王火死木,酉有王金死火,子有王水死金。四季有死而無生者,辰有死水,未有死木,戌有死火,丑有死金。死氣則重,故能破;生氣則輕,故相沖。
四孟支は生気あるのみにして死気なく、だからただ冲して破せざるは、寅中に火の長生あり、巳中に金の長生あり、申中に水の長生あり、亥中に木の長生あるがゆえである。四仲支は死気生気ともに具わるは、卯中に当旺の木と死了せる水あり、午中に当旺の火と死了せる木あり、酉中に当旺の金と死了せる火あり、子中に当旺の水と死了せる金あるがゆえである。四季支は死気あるのみにして生気なきは、辰中に死水あり、未中に死木あり、戌中に死火あり、丑中に死金あるがゆえである。死気は沈重なり。だから能く「破」す。生気は軽揚なり。だからただ「冲」するのみ。
又復甲往向庚為衡,庚往向甲為破,以強者制弱也。其沖破,皆以對位抗沖最為不善。又,互向對沖之地,我當在庚,令敵居甲,以強制弱故也。問曰:沴氣是相沖而為,今解沖破而不喚為沴,此未可解。答曰:五行相沴,因事變重,非是常然,有罰則見,無災則止。今之所解,直是支干之位常自格對,剛柔相沖,非問變異,寜得稱爾矣。
また、甲が往きて庚を冲するを「衡」(相持して抗衡す)と呼び、庚が来たりて甲を冲してこそ「破」と呼ぶ。強者のみ能く弱者を制服するがゆえである(庚金は甲木を克す)。凡そ冲破は、両方が正对の位に処して抗冲するを最も不利と為す。さらに一層の用法あり。双方が互いに对冲の地に処する時は、応に設法して自己を庚の一边に立たせ、敵人を甲の一边に処せしむべし。このようこそ以て強をもって弱を制する。或る人問う、前面に「沴気」もまた相冲に由りて造成せらるといえり。今、冲破を解釈するにしかれどもそれを沖と呼ばず。これは通ぜず。回答にいう、五行の相沴は、具体の事変が厳重なるに因りて出現するに、並びに常態にあらず。天罰あればすなわち顕現し、灾祸なければ則ち止息す。ここに解釈する所は、不過干支の方位がもともと彼此正対し、剛柔が相冲するのみで、灾異変故と関わらず。どうして沴と呼ぶことができようか、と。
五行大義 巻第三
第十四 雑配を論ず(ここに六段に分かれる:一は五色を配することを論じ、二は声音を配することを論じ、三は気味を配することを論じ、四は蔵府を配することを論じ、五は五常を配することを論じ、六は五事を配することを論ず)
第一 五色を配することを論ず
《左氏傳》子產曰:發為五色。蔡伯喈云:通眼者為五色。《黃帝素問》曰:草性有五,章為五色者。東方木為蒼色,萬物發生,夷柔之色也。南方火為赤色,以象盛陽炎焰之狀也。中央土黃色,黃者,地之色也,故曰天玄而地黃。西方金色白,秋為殺氣,白露為霜,白者,喪之象也。北方水色黑,遠望黯然,陰闇之象也,溟海淼邈,玄闇無窮,水為太陰之物,故陰闇也。《孝經援神契》言:土之精黃,木之精青,火之精赤,金之精白,水之精黑。
《左伝》は子産の話を記載していう、五行の気は発露し出でて五種の顔色と成る、と。蔡邕(伯喈)にいう、能く眼睛に看られるはすなわち五色である。《黄帝素問》にいう、草木の性に五類あり、顕現せばすなわち五色である。東方は木に属し、色は蒼青と為る。それは万物の萌発して生長し、平和柔順の顔色である。南方は火に属し、色は赤紅と為る。以て盛陽火焰の様子を象徴する。中央は土に属し、色は黄と為る。黄は大地の顔色で、だから《周易》に「天は玄にして地は黄」という。西方は金に属し、色は白と為る。秋は粛殺の気で、白露は凝結して霜と為り、白は正に丧事の象徴である。北方は水に属し、色は黒と為る。遠望すれば一片黯然として、陰暗の象徴である。滄海は浩渺として辺なく、幽黑深暗にして窮尽なし。水は太陰の物で、だから陰暗の色を呈す。《孝経援神契》にいう、土の精気は黄、木の精気は青、火の精気は赤、金の精気は白、水の精気は黒、と。
《春秋考異郵》云:北狄之氣生幽都,色黑,如群畜穹閭。南夷之氣生交趾,色赤,聚隅,如旛旗鳥類。東夷之氣生萊柞,色蒼,搔撽佈散,如林木。西夷之氣生沙丘,色白,鋒積,如刀刃之浮。中央土會色黃,如城郭之形,黃氣四塞,土精舒。此五者為正色,其變色亦五。穎子嚴《春秋釋例》曰:經有赤狄、白狄,然則東青、北黑、中黃,皆正色也。
《春秋考異郵》にいう、北狄の雲気は幽都に生じ、顔色は黒く、形状は成羣の牲畜と穹廬帳幕に似る。南夷の雲気は交趾に生じ、顔色は紅く、天辺の一角に聚攏し、形状は旌旗と飛鳥の類に似る。東夷の雲気は莱柞に生じ、顔色は青く、紛擾散布して、形状は樹林に似る。西夷の雲気は沙丘に生じ、顔色は白く、鋒芒堆積して、形状は刀刃の空中に浮かぶに似る。中央の土気が会聚する処は顔色は黄く、形状は城郭に似て、黄気は四方に充塞する。それは土の精気の舒展し開くである。この五種は正色で、これと相対する「変色」(間色)にもまた五種あり。穎子嚴《春秋釋例》にいう、経文の裏に「赤狄」「白狄」の称呼あり。見えるに東方の青・北方の黒・中央の黄も、またみな正色である、と。
土戊畏於木,故以妹己妻甲,以黃入於青,故東方閒色綠也。《詩》云:綠兮衣兮。刺閒色亂正色也。金庚畏於火,故以妹辛妻於丙,以白入於赤,故南方閒色紅。《論語·鄉黨》曰:紅紫不以為褻服。木甲畏於金,故以妹乙妻庚,以青入於白,故西方閒色縹也。火丙畏於水,故以妹丁妻壬,以赤入於黑,故北方閒色紫也。孔子曰:惡紫之奪朱也。水壬畏於土,故以妹癸妻戊,以黑入於黃,故中央閒色驪黃。
間色の来歴はなお干合を用いて解釈す。土の戊は木を畏れる。だから妹の己を甲に嫁がす(甲己合)。黄色に青色を掺入す。だから東方の間色は緑。《詩経》に「緑兮衣兮」という。正に間色が正色を僭乱せしを諷刺する。金の庚は火を畏れる。だから妹の辛を丙に嫁がす(丙辛合)。白色に赤色を掺入す。だから南方の間色は紅。《論語・郷黨》にいう、紅色紫色は以て居家の便服と為さず、と。木の甲は金を畏れる。だから妹の乙を庚に嫁がす(乙庚合)。青色に白色を掺入す。だから西方の間色は縹(淡青)。火の丙は水を畏れる。だから妹の丁を壬に嫁がす(丁壬合)。赤色に黒色を掺入す。だから北方の間色は紫。孔子にいう、我は紫が朱色の地位を奪い去るを悪む、と。水の壬は土を畏れる。だから妹の癸を戊に嫁がす(戊癸合)。黒色に黄色を掺入す。だから中央の間色は驪黄(黒黄)。
《五行書》云:甲為青,己為綠,丙為赤,辛為紅,庚為白,乙為縹,壬為黑,丁為紫,戊為黃,癸為驪黃。此皆夫為本色,妻為雜色也。柳世隆云:八卦各有其色,震為青,離為赤,兌為白,坎為黑,此皆當方正色;干為紫,艮為紅,巽為綠,坤為黃,此並閒色也。坤取未土之正色。
《五行書》にいう、甲は青、己は緑。丙は赤、辛は紅。庚は白、乙は縹。壬は黒、丁は紫。戊は黄、癸は驪黄、と。これらはみな丈夫を為す陽干は本行の正色を取り、妻子を為す陰干は掺和した後の雑色を取る。柳世隆にいう、八卦は各々自己の顔色あり、震は青、離は赤、兌は白、坎は黒。この四つの卦はみな在所方位の正色を取る。乾は紫、艮は紅、巽は緑、坤は黄。この四つの卦は取る所はみな間色である。その中、坤の黄なる所以は、未土の正色を取るがゆえである。
《甲乙經》云:青如翠羽,黑如烏羽,赤如雞冠,黃如蟹腹,白如豕膏,此五色為生氣見;青如草滋,黑如水苔,黃如枳實,赤如衃血,白如枯骨,此五色為死氣見。《相經》曰:青氣初來,如麥生;盛王之時,如樹葉青;欲去之時,如水上苔。赤氣初來,如赭柱;盛王之時,如朱丹;欲去之時,如干血。黃氣初來,如蠶吐絲;盛王之時,如博基;欲去之時,如枯葉。白氣初來之時,如璽璧;盛王之時,如粉上光;欲去之時,如鮮錢。黑氣初來之時,如死馬肝;盛王之時,如漆光;欲去之時,如苔垢。
《甲乙経》は望色して生死を断ずるを講じていう、青くして翠鳥の羽毛のごとき、黒くして烏鴉の羽毛のごとき、紅くして鶏冠のごとき、黄くして螃蟹の腹部のごとき、白くして猪の板油のごとき。――この五種の色沢は鮮潤にして、生気顕現の象である。反対に、青くして枯草上の浮滋のごとき、黒くして水中の青苔のごとき、黄くして枳実の果皮のごとき、紅くして凝結した敗血のごとき、白くして干枯した骨頭のごとき。――この五種の色沢は晦暗にして、死気顕現の象である。《相経》は気色の来去を講じていう、青気の剛に来たる時は、麦苗の初生のごとし。盛旺の時は、樹葉のあの青翠のごとし。まさに退去せんとする時は、水面上の浮苔のごとし。赤気の剛に来たる時は、赭色を塗った柱子のごとし。盛旺の時は、朱砂のあの鮮紅のごとし。まさに退去せんとする時は、干涸した血迹のごとし。黄気の剛に来たる時は、蚕の吐出した絲のごとし。盛旺の時は、棋盤上の棋子のあの勻淨のごとし。まさに退去せんとする時は、枯黄の落葉のごとし。白気の剛に来たる時は、玉璽美璧のごとし。盛旺の時は、粉を敷いた後の光沢のごとし。まさに退去せんとする時は、新鋳の銅銭のごとし。黒気の剛に来たる時は、死馬の肝のごとし。盛旺の時は、漆器の光亮のごとし。まさに退去せんとする時は、苔蘚の積み成した污垢のごとし。同一種の顔色にして、初来・正旺・将去の三箇の階段の質感は各々相同じからず。望気者はすなわちこれに拠って吉凶進退を判断す。
《禮記》曰:君子縗絰,則有哀色;端冕,則有敬色;甲冑,則有不可犯之色。《大戴禮》云:孔子曰,君子有三色焉:顯然怡樂,鐘鼓之色;意氣沈靜,憂喪之色;忿然競動,兵革之色。《大戴禮·觀人篇》云:人有五性,喜、怒、欲、懼、憂。喜氣內畜,雖欲隱,陽喜必見,四氣皆然。五氣誠在乎中,發形於外,人情不可隱也。喜色猶然以出,怒色怫然以侮,欲色然以愉,懼色薄然以下,憂悲之色,瞿然以靜。盛智必有難盡之色,盛仁必有可尊之色,盛勇必有難懾之色,盛忠必有可親之色,誠潔必有難汙之色,愨真必有可信之色。其質色皓然,固以安;偽色蔓然,亂以煩。夫喜色則黃,怒色則赤,憂色則青,喪色則白,哀色則黑。此皆五常之色,動於五藏,而見於外,隨其善惡盛衰之應也。君子所觀,故於此釋。
《礼記》にいう、君子は喪服の麻絰を穿上すれば、臉上に哀傷の色あり。端服礼冠を穿上すれば、臉上に恭敬の色あり。鎧甲頭盔を披上すれば、臉上に凛然として侵犯すべからざるの色あり、と。《大戴礼記》にいう、孔子が講ずるに、君子に三種の気色あり。顕豁にして怡然歓楽なるは、鐘鼓の奏楽を聴く時の気色。意気の沈静なるは、憂患丧事に遭遇する時の気色。憤然として奮起争闘するは、戦に臨み兵を用うる時の気色、と。《大戴礼記・文王官人》(ここには《観人篇》と称す)にいう、人に五種の情性あり。すなわち喜・怒・欲・懼・憂。喜気は内に蓄積すれば、たとえ隠藏せんと欲するも、陽に属する喜色は必ず流露し出づ。其余の四種の気もまたこのごとし。五種の気はひとたび真実に心中に存在すれば、すなわち外形に顕れて、人の真情は蔵れない。喜色は舒展して流露し出づ。怒色は拂然として色を作して軽侮の意を帯びる。欲色は(底本ここに脱文あり、形容の字を脱す)歓愉の様子。懼色は迫促して低垂する様子。憂悲の色は則ち驚懼して沈静の様子。智慧極盛の人は、必ず一種の深く測るべからざる気色あり。仁徳極盛の人は、必ず一種の人をして尊敬せしむる気色あり。勇力極盛の人は、必ず一種の震懾し難き気色あり。忠誠極盛の人は、必ず一種の人をして親近せしむる気色あり。真に身を潔くする人は、必ず一種の玷污すべからざる気色あり。朴実真誠の人は、必ず一種の人をして信頼せしむる気色あり。本質の流露する気色は明浄坦然として、因って安定す。偽装し出したる気色は浮蔓不実にして、因って雑乱煩擾す。具体的に言えば、歓喜の色は黄に偏し、憤怒の色は赤に偏し、憂愁の色は青に偏し、居喪の色は白に偏し、哀痛の色は黒に偏す。これらはみな五常の徳の対応する顔色で、まず五臓の中に発動し、再び面部の外に顕現し、人の善悪盛衰の不同に隨って各々応験あり。これは正に君子が人を観る時に察看せんとする所。だからここに解釈を加える。
