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抱朴子内篇 · 第11巻

东晋 · 葛洪 · 第11巻 / 14

中經曰:鉤吻狼毒,太陰之精氣,主殺,故入口令人死。御覽九百九十。

《中經》說く、鉤吻狼毒、是れ太陰之精氣、主殺す、故に口に入りて人をして死せしむ。《御覽》卷九百九十。

○抱朴子內篇序

○抱朴子內篇序

洪體乏超逸晉書作進趣。之才,偶好無為之業。假令奮翅則能凌厲玄霄,騁足則能追風躡景,猶故晉書無此字。欲戢勁翮於鷦鷯晉書作鴳。之群,藏逸跡於跛驢之伍,豈況大塊稟我以尋常之短羽,造化假我於晉書作以。至駑之蹇足,以晉書無此字。自卜者審,不能者止。晉書有又字。豈敢力蒼蠅而慕沖天之舉,策跛鱉而追飛兔之軌,飾嫫母之陋醜晉書作篤陋,求媒揚晉書作陽。之美談,推沙礫之賤質,索千金於和肆哉!夫以晉書無此字。焦僥之步,而企及夸父之蹤,近才所以躓閡藏本作閔,晉書作礙。也。以晉書無此字。要離之羸,而強赴扛鼎之契,原校或作勢,晉書作勢。秦人所以斷筋也。是以望絕於榮華之途,而志安乎窮否晉書作圮。之域。藜藿有八珍之甘,而晉書無此字。蓬蓽有藻梲之樂也。故權貴之家,雖咫尺弗從也。知道之士,雖艱遠必造也。

我が體超逸(《晉書》進趣と作す)の才乏しく、偶く無爲の業を好む。假令翅を奮へば則ち能く玄霄を凌厲し、足を騁すれば則ち能く風を追ひ景を蹑む、還た勁翮を鷦鷯(《晉書》鴳と作す)の群に收め、逸迹を跛驢の伍に藏めんと欲す、何況大塊我に尋常の短羽を禀け、造化我に(《晉書》以と作す)至駑の蹇足を借せば、自ら卜度の審愼、能わざれば則ち止む。(《晉書》又の字有り。)豈に敢へて蒼蠅に力を用ゐて衝天の擧を慕ひ、跛鱉に鞭策して飛兔の軌を追ひ、嫫母の陋丑(《晉書》篤陋と作す)を修飾し、媒揚(《晉書》陽と作す)の美談を求め、沙礫の賤質を推して、和氏之肆に千金を索めんや。焦僥の步を拿げて、而も夸父の蹤に企及せんとす、是れ近才の踬閡(藏本閔と作す、《晉書》礙と作す)する所以。要離の羸を拿げて、而も扛鼎の契(原校或は勢と作す、《晉書》勢と作す)に強赴する、是れ秦人の筋を斷つ所以。故に榮華之途に望みを絕ち、而も志窮否(《晉書》圮と作す)之域に安んず。藜藿八珍の甘有り、蓬蓽藻棁の樂有り。故に權貴之家、雖も咫尺なるも亦從はず。知之の士、雖も艱遠なるも亦必ず造訪す。

考覽奇書,既不少矣,率多隱語,難可卒解。自非至精,不能尋究,自非篤勤,不能悉見也。道士淵晉書作宏。博洽聞者寡,而意斷妄說者眾。至於時有好事者,欲有所修為,倉卒不知所從,而意之所疑,又無可晉書作足。諮問。晉書無此字。今為此書,粗舉長生之理,甚至妙者,不得宣之於翰墨。蓋粗言較略,以示一隅。冀悱憤之徒省之,可以思過半矣,豈為暗塞必能窮微暢遠乎!聊論其所先舉原校:先舉一本作“先覺者”。晉書作“先覺者”。耳。

奇書を考覽す、已に少なからざるも、大都隱語、倉促に解し難し。若不是至精、能く尋究せず。若不是篤勤、能く全部見ず。道士淵(《晉書》宏と作す)博洽聞の少く、而も意斷妄說の多し。至於時或好事有る、修爲する所有らんと欲す、倉促何處よりかを知らず、而も意疑う所有り、又以て咨問す可き(《晉書》足と作す)無し。今此の書を做り、粗く長生の理を擧げ、彼ら至妙の、翰墨に宣するを得ず。大概粗言大較、以て一隅を示す。悱憤之徒の省看を希望し、以て半ばを思過す可し、豈に是れ暗塞必ず能く微を窮め遠を暢げんや。聊か其の先に擧ぐる所を論ず(原校、先擧一本「先覺者」と作す。《晉書》「先覺者」と作す)のみ。

世儒徒知服膺周孔,桎梏皆死,晉書無此四字。莫信神仙之事,謂為妖妄之說,見餘此書,晉書無“事”至“此”共十字。不特大笑之。晉書作“不但大而笑之”。又將謗毀真正,故不以合於此下舊衍“世字”,今校刪。餘所箸子書之數,而別為此一部,名曰內篇,凡二十卷,與外篇各起次第也。晉書“故不”至“第也”作“故予所著子,言黃白之事,名曰內篇,其餘駁難通釋,名曰外篇,大凡內外一百一十六篇”,蓋史家刪改之耳。雖不足以藏晉書“以藏”作“藏諸”名山石室,晉書無此二字。且欲緘之金匱,以示識者。晉書止此,無下三十一字。其不可與言者,不令見也。貴使來世好長生者,有以釋其惑,豈求信於不信者乎!謹序。藏本作葛洪稚川謹序。後人所增。

世儒徒に周公孔子を服膺するを知り、桎梏皆死す(《晉書》此の四字無し)、神仙の事を信ぜず、是れ妖妄之說と說く、我が此の書を見て(《晉書》「事」より「此」に至る共に十字無し)、不特大笑す(《晉書》「不但大而笑之」と作す)。又將に眞正を謗毀せんとす、故に以て我が著する所の子書の數裏に合せず(此の下舊「世」の字を衍す、今校删す)、而も別外此の一部を做り、名づけて內篇と曰す、凡そ二十卷、外篇與各々次第を起す。(《晉書》「故不」より「第也」に至る「故予所著子、言黃白之事、名曰內篇、其餘駁難通釋、名曰外篇、大凡內外一百一十六篇」と作す、蓋し是れ史家の删改。)雖も以て名山石室に藏するに足らず(《晉書》「以藏」を「藏諸」と作す)、且つ金匱に緘めんと欲し、以て識者に看せしめん。(《晉書》此に止まる、下の三十一字無し。)彼らの與言す可からざる、之を見しめず。貴在來世長生を好む人をして、以て疑惑を解釋する有らしめんと、豈に信ぜざる人に信を求めんや。謹んで序す。(藏本葛洪稚川謹序と作す。是れ後人の增す所。)

○抱朴子外篇自敘

○抱朴子外篇自叙

抱朴子者,姓葛,名洪,字稚川,丹陽句容人也。其先葛天氏,蓋古之有天下者也,後降為列國,因以為姓焉。洪曩祖為荊州刺史,王莽之篡,君恥事國賊,棄官而歸,與東郡太守翟義共起兵,將以誅莽,為莽所敗,遇赦免禍,遂稱疾自絕於世。莽以君宗強,慮終有變,乃徙君於琅邪。君之子浦廬,起兵以佐光武,有大功。光武踐祚,以廬為車騎,又遷驃騎大將軍,封下邳僮縣侯,食邑五千戶。開國初,侯之弟文,隨侯征討,屢有大捷。侯比上書為文藏本作文為,從舊寫本乙轉。訟功,而官以文私從兄行,無軍名,遂不為論。侯曰:弟與我同冒矢石,瘡痍周身,傷失右眼,不得尺寸之報,吾乃重金累紫,何心以安?乃自表乞轉封於弟。書至上請報。漢朝欲成君高義,故特聽焉。文辭不獲已受爵,即第為驃騎營立宅舍於博望裡,於今基兆石礎存焉。又分割租秩,以供奉吏士,給如二君焉。驃騎殷勤止之而不從。驃騎曰:此更煩役國人,何以為讓?乃託他行,遂南渡江,而家於句容。子弟躬耕,以典籍自娛。文累使奉迎驃騎,驃騎終不還。又令人守護博望宅舍,以冀驃騎之反,至於累世無居之者。

抱朴子、姓は葛、名は洪、字は稚川、丹陽句容人。其の先人葛天氏、蓋し是れ古時天下有る、後來列國に降り、因此以て姓と爲す。洪の曩祖荊州刺史を做し、王莽位を篡し、君國賊に事奉するを恥ぢ、官を棄てて歸り、東郡太守翟義與共同に兵を起し、將に莽を誅せんとす、莽の敗る所と爲り、赦に遇い禍を免れ、於是疾を稱して自ら世に絕す。莽君宗強なるを因りて、終に變有らんことを擔心し、則ち君を琅邪に遷す。君の兒子浦廬、兵を起して光武を輔佐し、大功有り。光武祚を踐み、廬を以て車騎と爲し、又驃騎大將軍に遷し、下邳僮縣侯に封じ、食邑五千戶。開國初、侯の弟文、侯に隨ひて征討し、屢々大捷有り。侯屢々上書して文の爲に(藏本「文爲」と作す、舊寫本に從りて乙轉す)功を訟ぐ、而も官文私かに兄に從ひ行くを因りて、軍名無し、於是論を爲さず。侯說く、弟我與同じく矢石を冒し、瘡痍周身、右眼を傷失せども、尺寸の報を得ず、我卻れて重金累紫、何の心を以て安んぜんと。則ち自ら表して弟に轉封することを乞求す。書上に到りて報を請ふ。漢朝君の高義を成さんと想ひ、故に特に聽く。文辭獲ず已に爵を受け、即ち第驃騎營と爲りて博望里に在りて宅舍を立つ、今に至るまで基兆石礎還た在り。又租秩を分割し、以て吏士を供奉し、二君のごとく給す。驃騎殷勤に彼を止めて從はず。驃騎說く、此れ更に國人を煩役す、何を以て讓らんと。則ち他の出行に托し、於是南に江を渡り、而も家句容に在り。子弟躬耕し、典籍を以て自娛す。文累次人を遣はして驃騎を奉迎す、驃騎終に還らず。又人をして博望宅舍を守護せしめ、驃騎の返回を希望す、累世住する無きに至る。

洪祖父學無不涉,究測精微,文藝之高,一時莫倫,有經國之藏本作史,從舊寫本改。才。仕吳,歷宰海鹽臨安山陰三縣,入為吏部侍郎、御史中丞、廬陵太守、吏部尚書、太子少傅、中書、大鴻臚、侍中、光祿勳、輔吳將軍,封吳壽縣侯。洪父以孝友聞,行為士表,方冊所載,罔不窮覽。仕吳五官郎、中正,建城南昌二縣令,中書郎、廷尉平、中護軍、拜會稽太守未辭,而晉軍順流,西境不守。博簡秉文經武之才,朝野之論,僉然推君,於是轉為五郡赴警。大都督給親兵五千,總統徵軍,戍遏疆場。天之所壞,人不能支,故主欽若,九有同賓。藏本作實,從舊寫本改。君以故官赴除郎中,稍遷至大中大夫,歷位大中正、肥鄉令,藏本無正字,肥作肐,從舊寫本補改。縣戶二萬,舉州最治,德化尤異,恩洽刑清,野有頌聲,路無奸跡,不佃公田,越界如市,秋毫之贈,不入於門,紙筆之用,皆出私財,刑厝而禁止,不言而化行。以疾去官,發詔見用為吳王郎中令,正色弼違,進可替不,舉善彈枉,軍國肅雍。遷邵陵太守,卒於官。

洪の祖父學涉らざる無し、精微を究測し、文藝の高、一時倫比無し、經國(藏本史と作す、舊寫本に從りて改む)の才有り。吳に在りて官を做し、海鹽・臨安・山陰三縣を歷宰し、入りて吏部侍郎・御史中丞・廬陵太守・吏部尚書・太子少傅・中書・大鴻臚・侍中・光祿勳・輔吳將軍と爲し、吳壽縣侯に封ず。洪の父孝友を以て聞え、行爲是れ士の表、方册の載する所、窮覽せざる無し。吳に在りて五官郎・中正・建城・南昌二縣令・中書郎・廷尉平・中護軍を做り、會稽太守を拜して尚ほ未だ辭せず、而も晉軍流に順ひ、西境守られず。博文經武の才を秉り、朝野の論、僉然として君を推し、於是轉じて五郡警に赴く。大都督親兵五千を給し、總統して軍を征し、疆場を戍遏す。天の壞る所、人能く支へず、故主欽若し、九有同じく賓す(藏本實と作す、舊寫本に從りて改む)。君故官を以て郎中を除すに赴き、稍大中大夫に遷り、大中正・肥鄉令を歷位し(藏本正の字無し、肥を肐と作す、舊寫本に從りて補改す)。縣戶二萬、州を擧げて最も治り、德化尤異し、恩洽して刑淸し、野頌聲有り、路奸迹無し、公田を佃せず、界を越ゆること市のごとく、秋毫の贈、門に入らず、紙筆の用、皆私財に出で、刑措いて禁止し、言せずして化行わる。疾を因りて官を去り、詔を發して吳王郎中令に見用せられ、色を正しくして違を弼し、可を進め不を替へ、善を擧げ枉を彈ず、軍國肅雍す。邵陵太守に遷り、官に在りて卒す。

洪者,君之第三子也。生晚,為二親所嬌饒,不早見督以書史。年十有三,而慈父見背,夙失庭訓,飢塞困瘁,躬執耕穡,承星履草,密勿疇襲。又累遭兵火,先人典籍蕩盡,農隙之暇無所讀。乃負笈徒步行借,又卒於一家,少得全部之書。益破功日伐薪賣之,以給紙筆,就營田園處,以柴火寫書。坐此之故,不得早涉藝文。常乏紙,每所寫,反覆有字,人鮮能讀也。年十六,始讀孝經論語詩易。貧乏無以遠尋師友,孤陋寡聞,明淺思短,大義多所不通。但貪廣覽,於眾書乃無不闇誦精持,曾所披涉,自正經諸史百家之言,下至短雜文章,近萬卷。既性暗善忘,又少文,意志不專,所識者甚薄,亦不免惑。而著述時猶得有所引用,竟不成純儒,不中為傳授之師。其河洛圖緯,一視便止,不得留意也。不喜星書、及算術、九宮、三棋、太一、飛符之屬,了不從焉,由其苦人而少氣味也。晚學風角、望氣、三元、遁甲、六壬、太一之法,粗知其旨,又不研精。亦計此輩率是為人用之事,同出身情,無急以此自勞役,不如省子書之有益,遂又廢焉。案別錄藝文志,眾有萬三千二百九十九卷,而魏代以來,群文滋長,倍於往者,乃自知所未見之多也。江表書籍,通同不具。昔欲藏本作故,從舊寫本改。詣京師,索奇異,而正值大亂,半道而還,每自藏本作具,從舊寫本改。嘆恨。今齒近不惑,素志衰頹,但含損之又損,為乎無為,偶耕藪澤,苟存性命耳。博涉之業,於是日沮矣。

洪、是れ君の第三子。生れること晚く、二親の嬌饒する所と爲り、書史を以て督せられず早し。年十有三にして、而も慈父見背き、夙く庭訓を失ひ、饑寒困瘁し、親ら耕穡を執り、星を承け草を履み、密勿として疇畝に在り。又累々兵火に遭ひ、先人典籍蕩盡し、農隙の暇讀む所無し。則ち笈を負ひて徒步して往きて借り、又一家に卒し、少く全部の書を得ず。更加に功を破して日に薪を伐りて之を賣り、以て紙筆を供給し、則ち田園を營る處に在りて、柴火を以て書を寫す。此の緣故に坐りて、早く藝文に涉るを得ず。常に紙を乏し、每に寫する所、反覆字有り、人少く能く讀む。年十六、纔かに《孝經》《論語》《詩》《易》を讀む。貧乏遠く師友を尋ぬるに從無し、孤陋寡聞、明淺く思短く、大義多く通ぜざる所。只だ廣覽を貪り、衆書に於て乃ち暗誦精持せざる無し、曾て披涉せし、自ら正經諸史百家之言より、下って短雜文章に至るまで、近く萬卷。既に性暗く善く忘れ、又文少く、意志專ならず、識る所甚だ薄く、亦惑を免れず。而も著述の時還た引用する所有るを得、竟に純儒と成らず、傳授の師を做るに中らず。彼ら河洛圖緯、一看すれば便ち止まり、留意するを得ず。星書・及び算術・九宮・三棋・太一・飛符の類を喜ばず、完全に從はず、彼ら人を苦しめて氣味少なきに由る。晚く風角・望氣・三元・遁甲・六壬・太一の法を學び、粗く其の旨を知るも、又研精せず。亦此の類大都人の爲に用るの事を估計し、出身の情に同じく、必ずしも急に此らを拿げて自ら勞役せず、子書を省するに如かず益有り、於是又之を廢す。《別錄》《藝文志》に按ずるに、衆萬三千二百九十九卷有り、而も魏代以來、群文滋長し、往者に倍す、纔かに自ら見ざる所の多きを知る。江表書籍、通じて同じく具ならず。昔京師に到らんと想ひ(藏本故と作す、舊寫本に從りて改む)、奇異を索めんとす、而も正に大亂に値ひ、半道にして還る、每に自ら歎恨す(藏本具と作す、舊寫本に從りて改む)。今年齒不惑に近く、素志衰頹し、只だ損して之を又損することを含み、無爲に爲す、偶く藪澤を耕し、苟くも性命を存するのみ。博涉の業、於是日に沮げたり。

洪之為人也,(有脫文)而呆野,性鈍口訥,形貌醜陋,而終不辯自矜飾也。冠履垢弊,衣或襤縷,而或不恥焉。俗之服用,俄而屢改。或忽廣領而大帶,或促身本作身促,從意林乙轉。而修袖,或長裾曳地,或短不蔽腳。洪期於守常,不隨世變,言則率實,杜絕嘲戲,不得其人,終日默然。故邦人鹹稱之為抱朴之士,是以洪著書,因以自號焉。洪稟性尪羸,兼之多疾,貧無車馬,不堪徒行,行亦性所不好。又患弊俗,捨本逐末,交遊過差,故遂撫筆閒居,守靜蓽門,而無趨從之所。藏本作趨所之從,今從舊寫本改。至於權豪之徒,雖在密跡,而莫或相識焉。衣不闢寒,室不免漏,食不充虛,名不出戶,不能憂也。貧無僮僕,籬落頓決,荊棘叢於庭宇,蓬莠塞乎階溜,披榛出門,排草入室,論者以為意遠忽近,而不恕藏本作怒,從舊寫本改。其乏役也。不曉謁有脫文。以故初不修見官長,至於吊大喪,省困疾,乃心欲自勉強,令無不必至,而居疾少健,恆復不周,每見譏責於論者,洪引咎而不恤也。意苟無餘,而病使心違,顧不媿己而已,亦何理於人之不見亮乎?唯明鑑之士,乃恕其信抱朴,非以養高也。

洪の爲人、(脫文有り)而も呆野、性鈍く口訥く、形貌醜陋、而も終に辯じて自ら矜飾せず。冠履垢弊し、衣或は襤縷、而も或は之を恥ぢず。俗の服用、俄にして屢々改まる。或は忽然廣領にして大帶し、或は身を促して(本身促と作す、《意林》に從りて乙轉す)而も袖を修め、或は長裾地を曳き、或は短く脚を蔽はず。洪常を守るを期し、世變に隨はず、言うれば則ち實に率ゐ、嘲戲を杜絕し、其の人を得ず、終日默然たり。故に邦人皆彼を稱して抱朴之士と爲す、故に洪書を著し、因此自ら號す。洪禀性尪羸し、兼ねて疾多く、貧して車馬無く、徒行に堪えず、行くも亦是れ性の好まざる所。又弊俗を患ふ、本を舍てて末を逐ひ、交游過差す、故に於是筆を撫して閑居し、靜を守りて蓽門に在り、而も趨從の所無し(藏本趨所之從と作す、今舊寫本に從りて改む)。至於權豪之徒、雖も密邇に在るも、而も或は相識らず。衣寒を辟けず、室漏を免れず、食虛を充たず、名戸を出でず、以て憂ふる能わず。貧しく僮僕無く、籬落頓決し、荆棘庭宇に叢がり、蓬莠階溜に塞がり、榛を披きて門を出で、草を排して室に入る、論者以て意遠を忽せ近せしと爲り、而も彼の役乏しきを恕さず(藏本怒と作す、舊寫本に從りて改む)。謁を曉らず(脫文有り)。因此初め官長に見るを修めず、至於大喪を吊ひ、困疾を省す、乃ち心自ら勉强せんと欲し、必ず至らざる無きを讓れども、而も疾に居りて健少なく、恒に復た周ならず、每に論者の譏責する所と爲る、洪咎を引きて恤れず。意餘有るに若からざるも、而も病心をして違はしむ、只だ己に愧ざるを求めるのみ、又人の見諒せざるに何の理有らん。只有明鑒之士、纔かに彼を恕し、信じて抱朴す、以て高を養ふに用ゐざる。

世人多慕豫親之好,推暗室藏本作至,從舊寫本改。之密,洪以為知人甚未易,上聖之所難,浮雜之交,口合神疕,舊寫本作離。無益有損,雖不能如朱公叔一切絕之,且必須清澄詳悉,乃處意焉。又為此見憎者甚眾而不改也。馳逐苟達,側立勢門者,又共疾洪之異於己而見疵毀,謂洪為泬物輕俗。而洪之為人,信心而行,譭譽皆置於不聞。藏本置作之,舊寫本作譭譽之皆如不聞,今從盧本。至患近人,或恃其所長而輕人所短。洪忝為儒者之末,每與人言,常度其所知而論之,不強引之以造彼所不聞也。及與學士有所辯識,每舉綱領,若值惜短,難解心義。藏本作家,從舊寫本改。但粗說意之與向,使足以發寤而已,不致苦理,使彼率不得自還也。彼靜心者存舊寫本存字空白,疑是衍文。詳而思之,則多自覺而得之者焉。度不可藏本無不字,從舊寫本補。與言者,雖或有問,常辭以不知,以免辭費之過也。

世人多く豫親の好を慕ひ、暗室(藏本至と作す、舊寫本に從りて改む)の密を推す、洪以て人を知る甚だ容易ならず、是れ上聖の難とする所、浮雜の交、口合し神疕り(舊寫本離と作す)、益無く損有り、雖も能く朱公叔のごとく一切絕掉する能わざるも、且つ必ず淸澄詳悉して、纔かに意を處さん。又此れ爲めに憎む人多くして而も改めず。馳逐して苟に達し、側立して勢門の、又共同に洪の己に異なりて疵毀せらるるを疾み、洪を說く是れ泬物俗を輕んずと。而も洪の爲人、心を信じて行ひ、毀譽皆聞かざるに置く(藏本置を之と作す、舊寫本毀譽之皆如不聞と作す、今盧本に從ふ)。至患人に近き、或は其の長じる所を仗りて人の短かき所を輕んず。洪忝くも儒者の末と爲り、每に人與言へば、常に其の知る所を度量して論じ、彼を強引して其の聞かざる所に到らしめず。以及學士與辯識する所有れば、每に綱領を擧げ、若し短きを惜むに値へば、心義を解し難し(藏本家と作す、舊寫本に從りて改む)。只だ粗く意の與向を說き、足以寤を發さしむるのみ、苦理を致さず、彼をして大都自ら還るを得ざらしむ。彼ら靜心の人存し(舊寫本存の字空白、疑はく是れ衍文)詳にして思へば、則ち多く自ら覺悟して得。度量言ふ可からざる(藏本不の字無し、舊寫本に從りて補す)與、雖も或は問有るも、常に知らずを以て辭し、以て辭費の過を免れん。

洪性深不好乾煩官長,自少及長,曾救知己之抑者數人,不得已藏本無已字,從舊寫本補。有言於在位者。然其人皆不知洪之恤也,不忍見其陷於非理,密自營之耳。其餘雖親至者,在事秉勢,與洪無惜者,終不以片言半字少累之也。至於糧用窮匱,急合湯藥,則喚求朋類,或見濟,亦不讓也。受人之施,必皆久久漸有以報之,不令覺也。非類則不妄受其饋致焉。洪所食有旬日之儲,則分以濟人之乏,若殊自不足,亦不割己也。不為皎皎之細行,不治察察之小廉。村裡凡人之謂舊寫本謂字空白,疑有誤。良守善者,用舊寫本用字空白,疑有誤。時或齎酒餚候洪,雖非儔匹,亦不拒也。後有以答之,亦不登時也。洪嘗謂史雲不食於昆弟,華生治潔於暱客,蓋邀名之偽行,非廊廟之遠量也。洪尤疾無義之人,不勤農桑之本業,而慕非義之奸利。持鄉論者,則賣選舉以取謝。有威勢者,則解符疏以索財。或有有字當誤,舊寫本空白。罪人之賂,或當作而。枉有理之家,或為逋逃之藪,而饗亡命之人,疑作入。或挾使民丁以妨本作妨以,從下文乙轉。公役,或強收錢物以求貴价,或占錮市肆,奪百姓之利,或割人田地,劫孤弱之業,愡恫官府之閒,以窺掊克之益,內以誇妻妾,外以釣名位,其如此者,不與交焉。由是俗人憎洪疾己,自然疏絕。故巷無車馬之跡,堂無異志之賓,庭可設雀羅,而几筵積塵焉。

洪性深く官長を煩擾するを好まず、少より長に及ぶまで、曾て知己の抑せらるる數人を救ひ、不得已(藏本已の字無し、舊寫本に從りて補す)在位に言有り。然れども彼らの人皆洪の彼らを恤ふるを知らず、彼らの非理に陷るを見るに忍びず、密かに自ら營るのみ。其餘雖も親至の、事に在り勢を秉り、洪與惜む無き、終に片言半字を以て稍彼らを累さず。至於糧用窮匱し、急に湯藥を合すれば、則ち朋類を喚求し、或は濟を見るも、亦讓らず。人家の施を受ければ、必ず皆久久漸々用うる有りて以て報ゆ、覺えしめず。類に非ざれば則ち其の饋致を妄受せず。洪の喫する所旬日の儲有れば、則ち分かちて來りて人の乏しきを濟ふ、若し自ら殊に足らざれば、亦己を割かず。皎皎の細行を做さず、察察の小廉を治めず。村里凡人の謂う所(舊寫本謂の字空白、疑はく誤有り)の良守善の、用(舊寫本用の字空白、疑はく誤有り)時或は酒肴を帶て洪を候す、雖も不是儔匹、亦拒まず。後來以て答ふる有り、亦登時ならず。洪曾て說く史雲昆弟の處に在りて喫わず、華生昵客に對して潔を治む、蓋し是れ名を邀ふるの僞行、不是廊廟の遠量と。洪尤も義無きの人を疾み、農桑の本業を勤めず、而も義ならざるの奸利を慕ふ。鄕論を持する、則ち選擧を賣りて以て謝を取る。威勢有る、則ち符疏を解して以て財を索む。或は(有の字當に誤、舊寫本空白)罪人の賂有り、或は(當に而と作るべし)理有るの家を枉げ、或は逋逃の藪を做し、而も亡命の人を饗し(疑はく入と作す)、或は民丁を挾使して以て公役を妨げ(本妨以と作す、下文に從りて乙轉す)、或は錢物を強收して以て貴價を求め、或は市肆を占錮して、百姓の利を奪ひ、或は人の田地を割き、孤弱の業を劫し、官府の閒に憁恫して、以て掊克の益を窺ふ、內以て妻妾を誇り、外以て名位を釣る、此のごときの、交らず與。此れに由りて俗人洪を憎み己を疾み、自然疏絕す。故に巷車馬の迹無く、堂異志の賓無く、庭雀羅を設く可し、而も几筵塵を積む。

洪自有識以逮。將老,口不及人之非,不說人之私,乃自然也。雖僕豎有其所短所羞之事,不以戲之也。未嘗論評人物之優劣,不喜訶譴人交舊寫本作又人。之好惡。或為尊長所逼問,辭不獲已,其論人也,則獨舉彼體中之勝事而已。其論文也,則撮其所得之佳者,而不指摘其病累。故無譭譽之怨。貴人時或問官吏民甲乙何如。其清高閒舊寫本作賢。能者,洪指說其快事;其貪暴暗塞者,對以偶不識悉。洪由此頗見譏責,以顧護太多,不能明辯臧否,使皂白區分,而洪終不敢改也。每見世人有好論人物者,比方倫匹,未必當允,而褒貶與奪,或失準格。見譽者自謂已分,未必信德也;見侵者則恨之入骨,劇於血讎。洪益以為戒,遂不復言及士人矣。雖門宗子弟,其稱兩皆以付邦族,不為輕乎當作平,舊寫本作評。其價數也。或以譏洪。洪答曰:我身在我者也,法當易知。設令有人問我,使自比古人,及同時令我自求輩,則我實不能自知可與誰為匹也,況非我安可為取而。評定之耶?漢末俗弊,朋黨分部,許子將之徒,以口舌取戒,爭訟論議,門宗成讎。故汝南人士無復定價,而有月旦之評。魏武帝深亦疾之,欲取其首,爾乃奔波亡走,殆至屠滅。前鑑不遠,可以得師矣。且人之未易知也,雖父兄不必儘子弟也。同乎我者遽是乎?異於我者遽非乎?或有始無卒,唐堯公旦仲尼季札,皆有不全得之恨,無以近人信其嘍嘍管見熒舊寫本作螢。燭之明,而輕評人藏本作人評,從舊寫本乙轉。物,是皆賣賣字疑舊寫本空白。彼上聖大賢乎?

洪識有るより將に老んとするに至るまで、口人の非に及ばず、人の私を說かず、乃ち是れ自然。雖も僕豎短き所羞づる所の事有るも、以て彼を戲れず。未だ嘗て人物の優劣を論評せず、人の交の好惡を訶譴するを喜ばず(舊寫本又人と作す)。或は尊長の逼問する所と爲り、辭獲ず已、人を論ずるの時、則ち獨り其の體中の勝事を擧ぐるのみ。文を論ずるの時、則ち其の得る所の佳處を撮みて、而も病累を指摘せず。故に毀譽の怨無し。貴人時或は官吏民甲乙如何を問ふ。彼ら淸高閑(舊寫本賢と作す)能の、洪其の快事を指說す。彼ら貪暴暗塞の、以て偶に識悉せずを對ふ。洪此れに由りて頗る譏責せられ、以て顧護太多、能く臧否を明辯せず、皂白を區分せしめずと爲す、而も洪終に敢へて改めず。每に世人の人物を論ずるを好むを見、倫匹を比方す、未だ必ず當允ならず、而も褒貶與奪、或は準格を失ふ。譽せられしは自ら以て已分と爲し、未だ必ず信德ならず。侵せられしは則ち之を恨むこと骨に入る、劇烈血仇に過ぎる。洪更加に以て戒と爲し、於是再び士人に言及せず。雖も門宗子弟、彼を稱して兩都以て邦族に付す、輕乎(當に平と作るべし、舊寫本評と作す)彼の價數を做さず。或は因此洪を譏る。洪答へて說く、我が身我に在り、法當に知り易し。假如人我に問ふ有り、己をして古人に比せしめ、以及同時我をして自ら輩を求めしむれば、則ち我實に能く自ら誰と匹と爲す可きを知らず、何況不是我怎んぞ以て取りて評定す可けんや。漢末俗弊れ、朋黨部を分かち、許子將の徒、口舌を以て戒を取り、爭訟論議し、門宗仇と成る。故に汝南人士再び定價有らず、而も月旦の評有り。魏武帝深く亦此を疾み、其の首を取らんと想ひ、於是纔かに奔波亡走し、殆ど屠滅に至る。前鑒遠からず、以て師を得る可し。且つ人未だ知り易からず、雖も父兄必ずしも子弟を盡く知らず。我に同じき則ち便ち是れ是か。我に異なる則ち便ち是れ非か。或は始有りて卒無し、唐堯・公旦・仲尼・季札、皆全く得ざるの恨有り、近人を以て彼の嘍嘍管見熒(舊寫本螢と作す)燭の明を信ずるに從無し、而も輕く人を評し(藏本人評と作す、舊寫本に從りて乙轉す)物する、此ら皆是れ彼の上聖大賢を賣るか。

昔大安中,石冰作亂,六州之地,柯振葉藏本作鎮業,從舊寫本改。靡,違正黨逆,義軍大都督邀洪為將兵都尉,累見敦迫。既桑梓恐虜,禍深憂大,古人有急疾之義。又畏軍法,不敢任志。遂募合數百人,與諸軍旅進。曾攻賊之別將,破之日,錢帛山積,珍玩蔽地。諸軍莫不放兵收拾財物,繼轂連擔。洪獨約令所領,不得妄離行陣。士有摭得眾者,洪即斬之以徇。於是無敢委杖。而果有伏賊數百,出傷諸軍。諸軍悉發,無部隊,皆人馬負重,無復戰心,遂致驚亂,死傷狼藉,殆欲不振。獨洪軍整齊轂張,無所損傷,以救諸軍之大崩,洪有力焉。後別戰,斬賊小帥,多獲甲首,而獻捷幕府。於是大都督加洪伏波將軍。例給布百匹,諸將多封閉之,或送還家。而洪分賜將士,及施知故之貧者。餘之十匹,又徑以市肉酤酒,以饗將吏。於時竊擅一日之美談焉。

昔大安中、石冰亂を作し、六州之地、柯振りて葉靡す(藏本鎮業と作す、舊寫本に從りて改む)、正を違へて逆に黨す、義軍大都督洪を邀へて將兵都尉を做らしめ、累々敦迫せらる。既に桑梓虜せらるるを恐れ、禍深く憂大なり、古人急疾の義有り。又軍法を畏れ、敢へて志を任せず。於是數百人を募合し、諸軍旅與進む。曾て賊の別將を攻め、破るの日、錢帛山のごとく堆積し、珍玩地を蔽ふ。諸軍兵を放ちて財物を收拾せざる無し、轂を繼ぎ擔を連ぬ。洪獨り領する所を約束し、妄りに行陣を離るるを得ず。士卒摭りて衆物を得る有れば、洪則ち斬りて以て徇す。於是敢へて委杖する無し。而も果然伏賊數百有り、出でて諸軍を傷つく。諸軍全部發し、部隊無く、皆人馬重を負ひ、再び戰心有らず、於是驚亂を致し、死傷狼藉し、殆ど振はんと欲せず。獨り洪軍整齊轂張し、損傷する所無し、以て諸軍の大崩を救ふ、洪力有り。後來別に戰ひ、賊の小帥を斬り、甲首を多獲し、而も捷を幕府に獻ず。於是大都督洪を加へて伏波將軍と爲す。例布百匹を給し、諸將多く封閉し、或は家に送還す。而も洪將士に分賜し、以及知故の貧者に施給す。餘る十匹、又徑直以て肉を買ひ酒を沽り、以て將吏を饗す。當時竊かに擅り一日の美談と爲す。

事平,洪投戈釋甲,徑詣洛陽,欲廣尋異書,了不論戰功。竊慕魯連不受聊城之金,包胥不納存楚之賞,成功不處之義焉。正遇上國大亂,北道不通,而陳敏又反於江東,歸塗隔塞。會有故人譙國嵇君道,本作居道,從意林及晉書改,下放此。見用為廣州刺史,乃表請洪為參軍,雖非所樂,然利可避地於南,故黽勉就焉。見遣先行催兵,而君道於後遇害,遂停廣州,頻為節將見邀用,皆不就。永惟富貴可以漸得,而不可頓合,其閒屑屑亦足以勞人。且榮位勢利,譬如寄客,既非常物,又其去不可得留也。隆隆者絕,赫赫者滅,有若春華,須臾凋落。得之不喜,失之安悲?悔吝百端,憂懼兢戰,不可勝言,不足為也。且自度性篤懶而才至短,以篤懶而御短才,雖翕肩屈膝,趨走風塵,猶必不辦,大致名位而免患累,況不能乎?未若修松喬之道,在我而已,不由於人焉。將登名山,服食養性,非有廢也。事不兼濟,自非藏本作不,從舊寫本改。絕棄世務,則曷緣修習玄靜哉?且知之誠難,亦不得惜問而與人議也。是以車馬之跡,不經貴勢之域;藏本作貴世之域,從舊寫本改。片字之書,不交在位之家。又士林之中,雖不可出,而見造之賓,意不能拒,妨人所作,不得專一。乃嘆曰,山林之中無道也。而古之修道者,必入山林者,誠欲以違遠讙譁,使心不亂也。今將遂本志,委桑梓,適嵩嶽,以尋方平梁公之軌。先所作子書內外篇,幸已用功夫,聊復撰次,以示將來云爾。

事平らぎ、洪戈を投げ甲を釋き、徑直洛陽に到り、異書を廣く尋ぬるを想ひ、完全に戰功を論ぜず。私かに魯連の聊城の金を受けず、包胥の存楚の賞を納れざる、成功して處らざるの義を慕ふ。正に國大亂に遇ひ、北道通ぜず、而も陳敏又江東に在りて反す、歸途隔塞す。故人譙國嵇君道に遇上す(本居道と作す、《意林》及び《晉書》に從りて改む、下此を放す)廣州刺史に見用せられ、則ち表して洪を請ひて參軍を做らしむ、雖も樂む所に非ざれども、然れども利南に於て地を避る可きに在り、故に黽勉して職に就く。先に行きて兵を催するを遣はされ、而も君道後に在りて害に遇ふ、於是廣州に停まり、頻りに節將の邀用する所と爲るも、皆就かず。永く惟るに富貴以て漸得す可し、而も以て頓合す可からず、其の閒屑屑として亦以て人を勞すに足る。且つ榮位勢利、譬へば寄客、既に不是常物、又其の去る得て留む可からず。隆隆の絕、赫赫の滅、若く春華有り、須臾凋落す。之を得て喜ばず、之を失ひて何ぞ必ず悲まん。悔吝百端、憂懼兢戰し、以て言を勝つ可からず、爲すに足らず。且つ自ら性篤懶にして才至って短きを度量し、篤懶を以て短才を駕馭す、雖も肩を翕め膝を屈し、風塵に趨走すとも、還た必ず辦到らず、大致名位にして患累を免れん、何況能わざるをや。松喬の道を修するに如かず、我に在るのみ、人に由らず。將に名山に登り、服食して性を養ひ、不是廢する所有りと。事能く兼濟せず、若し不是(藏本不と作す、舊寫本に從りて改む)世務を絕棄せば、則ち何處よりか玄靜を修習せん。且つ之を知る誠に難く、亦問を惜んで人與議するを得ず。故に車馬の迹、貴勢之域に經ず(藏本貴世之域と作す、舊寫本に從りて改む)。片字の書、在位之家に交らず。又士林の中、雖も出づ可からざれども、而も造する賓を見れば、意能く拒まず、人の作る所を妨げ、專一を得ず。纔かに歎說す、山林の中竝びに道無し。而も古道を修する、必ず山林に入る、實に是れ喧嘩を違遠して、心をして亂れざらしめんと欲す。今將に本志を遂げ、桑梓を委ね、嵩岳に適き、以て方平・梁公の軌を尋ぬんとす。先の作する所の子書內外篇、幸に已に功夫を用ゐ、聊か再び撰次し、將來に看せんを給ふるのみ。

洪年十五六時,所作詩賦雜文,當時自謂可行於代。本脫於代二字,從意林補。至於弱冠,更詳省之,殊多不稱意,天才未必為增也,直所覽差廣,而覺妍媸之別。於是大有所制,棄十不存一。今除所作子書,但雜尚餘百所卷,猶未盡損益之理,而多慘憤,不遑復料護之。他人文成,便呼快意。餘才鈍思遲,實不能爾。作文章每一更字,輒自轉勝,但患懶,又所作多,不能數省之耳。

洪年十五六の時、作する所の詩賦雜文、當時自ら以て代に行ふ可しと爲す(本「于代」二字を脫す、《意林》に從りて補す)。至於弱冠、再び詳省す、特に多く意に稱はず、天才未だ必ず増加せず、只だ是れ覽る所稍く廣くして、而も妍媸の別を覺ゆ。於是大に制する所有り、十を棄てて一を存せず。今作する所の子書を除き、只だ雜尚ほ餘ること百來卷、尚ほ未だ損益の理を盡さず、而も多く慘憤し、遑あらず再び料護す。他人文成れば、便ち快意と呼ぶ。我才鈍く思遲く、實に能く此のごとくせず。文章を作る每に一字を改めば、自ら則ち轉じて勝る、只だ懶を患へ、又作る所多く、以て數省する能わざるのみ。

洪年二十餘,乃計作細碎小文,妨棄功日,未若立一家之言,乃草創子書。會遇兵亂,流離播越,有所亡失,連在道路,不復投筆十餘年,至建武中乃定,凡著內篇二十卷,外篇五十卷,碑頌詩賦百卷,軍書檄移章表箋記三十卷。又撰俗所不列者為神仙傳十卷,又撰高尚藏本作上,今從舊寫本。不仕者為隱逸傳十卷,又抄五經七史百家之言,兵事方伎短雜奇要三百一十卷,別有目錄。其內篇言神仙方藥鬼怪變化養生延年禳邪卻禍之事,屬道家。其外篇言人閒得失,世事臧否,屬儒家。洪見魏文帝典論藏本作典目,從舊寫本改。自敘,末藏本作未,從舊寫本改。及彈棋擊劍之事,有意於略說所知,而實不數少所便能,不可虛自稱揚,今將具言,所不閒焉。

洪年二十餘、纔かに計算して細碎小文を作り、功日を妨棄す、一家之言を立つるに如かず、纔かに子書を草創す。會兵亂に遇ひ、流離播越し、亡失する所有り、連りて道路に在りて、再び筆を投げざること十餘年、建武中に到りて纔かに定まる、凡そ內篇二十卷・外篇五十卷・碑頌詩賦百卷・軍書檄移章表箋記三十卷を著す。又俗の列さざる所を撰して《神仙傳》十卷と爲し、又高尚(藏本上と作す、今舊寫本に從ふ)仕せざるを撰して《隱逸傳》十卷と爲し、又五經七史百家之言・兵事方伎短雜奇要を鈔すこと三百一十卷、別に目錄有り。內篇神仙方藥鬼怪變化養生延年禳邪卻禍の事を說く、道家に屬す。外篇人間得失・世事臧否を說く、儒家に屬す。洪魏文帝《典論》(藏本典目と作す、舊寫本に從りて改む)の自叙を見、末(藏本未と作す、舊寫本に從りて改む)彈棋擊劍の事に及ぶ、意略く知る所を說く有るに於て、而も實に數少便する所に在らず、以て虛しく自ら稱揚す可からず、今將に具に言ふ、嫻熟せざる所を。

洪體鈍性駑,寡所玩好,自總髮垂髫,有脫句。又擲瓦手搏,不及兒童之群,未曾鬥雞鶩走狗馬。見人博戲,了不目眄,或強牽引觀之,殊不入神,有若晝睡。是以至今不知棋局上有幾道,樗蒲齒名。亦念此輩末伎,亂意思而妨日月,在位有損政事,儒者則廢講誦,凡民則忘稼穡,商人則失貨財。至於勝負未分,交爭都市,心熱於中,顏愁於外,名之為樂,而實煎悴。喪廉恥之操,興爭競之端,相取重貨,密結怨隙。昔宋閔公吳太子致碎首之禍,生叛亂之變,覆滅七國,幾傾天朝,作戒百代,其鑑明矣。每觀戲者,慚恚交集,手足相交,醜詈相加,絕交壞友,往往有焉。怨不在大,亦不在小,多召悔吝,不足為也。仲尼雖有晝寢之戒,以洪較之,洪實未許其賢於晝寢。何者,晝寢但無益,而未有怨恨之憂,鬥訟之變。聖者猶韋編三絕,以勤經業,凡才近人,安得兼修。惟諸戲盡不如示一尺之書,故因本不喜而不為,蓋此俗人所親焉。

洪體鈍く性駑く、玩好する所少なし、總髮垂髫より、(脫句有り。)又瓦を擲ち手搏す、兒童の群に及ばず、未だ嘗て雞を鬪はし鶩を走らせ狗馬せず。人の博戲を見るも、完全不目眄し、或は強ひて牽引して觀看せしむるも、殊に神に入らず、晝睡するに若し。故に今に至るまで棋局上幾道か・樗蒲の齒名を知らず。亦此の類末伎を念ふ、意思を亂りて日月を妨げ、在位あれば政事を損し、儒者あれば則ち講誦を廢し、凡民あれば則ち稼穡を忘れ、商人あれば則ち貨財を失ふ。至於勝負未だ分かれず、都市に交爭し、中に心熱し、外に顏愁ふ、之を樂と名づくるも、而も實に煎悴す。廉恥の操を喪び、爭競の端を興し、相ひ重貨を取り、密かに怨隙を結ぶ。昔宋閔公・吳太子碎首の禍を致し、叛亂の變を生じ、七國を覆滅し、幾んど天朝を傾け、百代に戒を作す、其の鑒明白なり。每に戲る人を觀れば、慚恚交々集まり、手足相ひ交はり、丑詈相ひ加へ、交を絕ち友を壞る、往々有り。怨大に在らず、亦小に在らず、多く悔吝を召し、爲すに足らず。仲尼雖も晝寢の戒有るも、洪を以て較べれば、洪實に未だ之を晝寢に賢なりと許さず。何爲れぞ、晝寢只だ益無きのみ、而も未だ怨恨の憂・鬪訟の變有らず。聖者還た韋編三絕し、以て經業を勤む、凡才近人、怎んぞ兼修するを得ん。想來諸戲皆一尺の書を出示するに如かず、故に本喜ばずして爲さざるを因る、蓋し是れ俗人の親しむ所。

少嘗學射,但力少不能挽強,若顏高之弓耳。意為射既在六藝,又可以禦寇闢劫,及取鳥獸,是以習之。昔在軍旅,曾手射追騎,應弦而倒,殺二賊一馬,遂以得免死。又曾受刀楯及單刀雙戟,皆有口訣要術,以待取人,乃有秘法,其巧入神。若以此道與不曉者對,便可以當全獨勝,所向無前矣。晚又學七尺杖術,可以入白刃,取大戟。然亦是不急之末學,知之譬如麟角鳳距,何必用之?過藏本脫過字,從舊寫本補。此已往,未之或知。

少時曾て射を學ぶ、只だ是れ力少く能く強を挽かず、顏高の弓に像るのみ。意射既に六藝に在り、又以て寇を禦ぎ劫を辟け、以及鳥獸を取る可しと爲し、故に之を習ふ。昔軍旅に在りて、曾て手追騎を射り、弦に應じて倒れ、二賊一馬を殺し、於是因此死を免るるを得。又曾て刀盾及び單刀雙戟を受け、皆口訣要術有り、以て人を取るを待つ、乃ち祕法有り、其の巧神に入る。若し此の道を以て曉らざる人與對すれば、便ち以て全獨勝に當たり、向かう所前無し。晚く又七尺杖術を學び、以て白刃に進入し、大戟を取る可し。然れども亦是れ急ならざるの末學、之を知ること譬へば麟角鳳距、何ぞ必ず之を用ゐん。此(藏本過の字を脫す、舊寫本に從りて補す)より以往、未だ之れ或は知る。

洪少有定志,決不出身。每覽巢許子州北人石戶二姜兩袁法真子龍之傳,嘗廢書前席,慕其為人。念精治五經,著一部子書,令後世知其為文儒而已。後州郡及車騎大將軍闢,皆不就。薦名琅邪王丞相府。昔起義兵,賊平之後,了不修名,詣府論功,主者永無賞報之冀。晉王應天順人,撥亂反正,結皇綱於垂絕,修宗廟之廢祀,念先朝之滯賞,並無報以勸來。洪隨例就彼。庚寅詔書,賜爵關中侯,食句容之邑二百戶。竊謂藏本作詔,從舊寫本改。討賊以救桑梓,勞不足錄,金紫之命,非其始願,本欲遠慕魯連,近引田疇,上書固辭,以遂微志。適有大例,同不見許。昔仲由讓應受之賜,而沮為善。醜虜未夷,天下多事,國家方欲明賞必罰,以彰憲典,小子豈敢苟潔區區之懦志,而距弘通之大制,故遂息意而恭承詔命焉。

洪少くして定志有り、決して出身せず。每に巢・許・子州・北人・石戸・二姜・兩袁・法眞・子龍の傳を覽れば、曾て書を廢して前席し、彼らの爲人を慕ふ。念精治五經し、一部の子書を著して、後世をして彼を是れ文儒と知らしめんのみ。後來州郡及び車騎大將軍辟す、皆就かず。名を薦めて琅邪王丞相府に到る。昔義兵を起し、賊平ぎし之後、完全不名を修め、府に到りて功を論ず、主者永く賞報の冀無し。晉王天に應じ人に順ひ、亂を撥きて正に反し、垂絕の處に在りて皇綱を結び、宗廟の廢祀を修し、先朝の滯賞を念ふ、竝びに報を以て勸を來たらざる無し。洪例に隨ひて彼に就く。庚寅詔書、關中侯の爵を賜り、句容の邑二百戶を食す。私かに以て(藏本詔と作す、舊寫本に從りて改む)賊を討ちて以て桑梓を救ふ、勞錄するに足らず、金紫の命、不是始願、本想遠く魯連を慕ひ、近く田疇を引き、上書して固辭し、以て微志を遂げんとす。適に大例有り、同じく許さるるを見ず。昔仲由應に受くべきの賜を讓りて、而も善を爲すを沮ぐ。丑虜未だ夷らざる、天下事多し、國家正に賞を明かにし罰を必ならしめんと想ひ、以て憲典を彰かにせん、小子豈に敢へて苟くも區區の懦志を潔め、而も弘通の大制を拒まんや、故に於是意を息めて恭んで詔命を承く。

洪既著自敘之篇。或人難曰:昔王充年在耳順,道窮望絕,懼身名之偕滅,故自紀終篇。先生以始立之盛,值乎有道之運,方將解申公之束帛,登穆藏本作枚,從舊寫本改。生之蒲輪,耀藻九五,絕聲昆吾,何憾芬芳之不揚,而務老生之彼務。洪答曰:夫二儀彌邈,而人居若寓,以朝菌之耀秀,不移晷而殄瘁,類春華之暫榮,未改旬而凋墜,雖飛飆之經霄,激電之乍照,未必速也。夫期頤猶奔星之騰煙,藏本作炯,從舊寫本改。黃髮如激箭之過隙,況或未萌藏本作明,從舊寫本改。而殞籜,逆秋而零瘁者哉?故項子有含穗之嘆,揚烏有夙折之哀。歷覽遠古逸倫之士,或以文藝而龍躍,或以武功而虎踞,高勳著於盟府,德音被乎管絃,形器雖沈鑠於淵壤,美談飄颻而日載,故雖千百代,猶穆如也。餘以庸陋,沈抑婆娑,用不合時,行舛於世,發音則響與俗乖,抗足則跡與眾迕,內無金張之援,外乏彈冠之友,循塗雖坦,而足無騏驎,六虛雖曠,而翼非大鵬,上不能鷹揚匡國,下無以顯親垂名,美不寄於良史,聲不附乎鍾鼎。故因著述之餘,而為自敘之篇,雖無補於窮達,亦賴將來之有述焉。

洪既に自叙の篇を著す。或は有人難して說く、昔王充年耳順に在り、道窮く望絕え、身名偕に滅せんを懼れ、故に自紀して終篇せり。先生始立の盛を以て、有道の運に値ひ、方に將に申公の束帛を解き、穆(《藏本枚と作す、舊寫本に從りて改む》)生の蒲輪に登り、九五に藻を耀はし、聲昆吾に絕えんとす、何の憾か芬芳揚らざる有らん、而も老生の彼らの務を務むと。洪答へて說く、二儀彌邈として、而も人居像寓す、朝菌の耀秀を拿げ、晷を移さずして殄瘁し、春華の暫榮に類して、旬を改めずして凋墜す、雖も飛飆霄を經て、激電乍か照すとも、未だ必ず更に快ならず。期頤還た奔星騰烟に像り(藏本炯と作す、舊寫本に從りて改む)、黃髮激箭の隙を過ぐに像る、何況或は未だ萌(藏本明と作す、舊寫本に從りて改む)せずして籜を殞し、秋に逆らひて零瘁するをや。故に項子含穗の歎有り、揚烏夙折の哀有り。歷覽遠古逸倫之士、或は文藝を以て龍躍し、或は武功を以て虎踞し、高勳盟府に著り、德音管弦に被る、形器雖も淵壤に沉鑠すとも、美談飄䬏して日に載る、故に雖も千百代、還た穆如なり。我庸陋を以て、沉抑婆娑し、用時に合せず、行世に舛し、音を發すれば則ち響俗與乖り、足を抗げば則ち迹衆與迕し、內金張の援無く、外彈冠の友乏し、途坦なるを循すとも、而も足騏𬴊無し、六虚曠なるも、而も翼大鹏に非ず、上能く鷹揚して國を匡せず、下親を顯し名を垂るるに從無し、美良史に寄せず、聲鐘鼎に附せず。故に著述の餘に因りて、而も自叙の篇を做す、雖も窮達に補無きも、亦將來述する所有るを賴む。

○校刊抱朴子內篇序

○抱朴子內篇の校刊序

道家宗旨,清淨沖虛而已。其弊或流為權謀,或流為放誕,無所謂金丹仙藥、黃白玄素、吐納導引、禁祝符■之術也。秦漢方士,絕不附會老子。即依託黃帝,亦非道家之說。漢書藝文志以黃帝諸篇,分屬道家神仙,蓋本七略。七略又本於別錄。劉子政固誦習鴻寶,篤信神仙者,而典校秘書,仍別方技於諸子之外,不相殽也。

道家の宗旨、不過淸淨冲虛のみ。其の流弊、或は權謀に流入り、或は放誕に流入り、竝びに謂う所の金丹仙藥・黃白(金銀を燒煉す)・玄素(房中)・吐納導引・禁祝符(底本此の字殘缺)此の類の術無し。秦漢の方士、絕て老子を以て附會せず。卽便黄帝に依托すとも、亦不是道家の說法。《漢書・藝文志》黄帝諸篇を以て分別道家・神仙家に屬す、蓋し《七略》に本づく。《七略》又《別錄》に本づく。劉子政固より《鴻寶》を誦習し・神仙を篤信すと雖も、然れども其の祕書を典校する時、仍然方技を以て諸子の外に別す、相混雜せず。

東漢之季,桓帝好神仙,祠老子。張陵之子衡,使人為祭酒,主以老子五千文都習。神仙之附會道家,實昉於此。抱朴子內篇,古之神仙家言也。雖自以內篇屬之道家,然所舉仙經神符,多至二百八十二種,絕無道家諸子。且謂老子泛論較略,莊子文子關尹喜之徒,祖述黃老,永無至言,去神仙千億裡。尋其旨趣,與道家判然不同。又後世學仙者,奉魏伯陽為正宗。是書偶及伯陽內篇之名,並無一語稱述,惟神仙傳中言參同契假爻象以說作丹之意而已。是稚川之學,匪特與道家異,並與後世神仙家無幾微之合。

東漢末年、桓帝神仙を好み、老子を祠祀す。張陵の兒子張衡、人をして祭酒を做らしめ、老子五千文を以て遍く習誦するを主持す。神仙の道家に附會する、實に是れ此より始まる。《抱朴子內篇》是れ古神仙家の言論。雖も葛洪自ら內篇を道家に屬す、然れども其の擧ぐる所の仙經神符多く二百八十二種に到る、絕て道家諸子無し。且つ其の說く老子の泛論比較的簡略、莊子・文子・關尹喜の徒黃老を祖述し、永遠に至言無し、神仙を離るること千億里。其の旨趣を尋ぬれば、道家與判然として同じからず。又、後世仙を學ぶ人魏伯陽を奉じて正宗と爲す。此の書偶々伯陽《內篇》の名目に及ぶ、竝びに一句稱述する無し、只だ《神仙傳》中に於て說く《參同契》爻象を假借して以て丹を作るの意を講ずのみ。稚川の學問を見る可し、不但道家與同じからず、并且後世神仙家與亦絲毫相合する無し。

餘嘗謂漢之仙術,元與黃老分途。魏晉之世,玄言日盛,經術多歧。道家自詭於儒,神仙遂溷於道。然第假借其名,不易其實也。迨及宋元,乃緣參同爐火而言內丹,煉養陰陽,混合元氣,斥服食胎息為小道,金石符祝為旁門,黃白玄素為邪術,惟以性命交修,為谷神不死,羽化登真之訣。其說旁涉禪宗,兼附易理,襲微重妙,且欲並儒釋而一之。自是而漢晉相傳神仙之說,盡變無餘,名實交溷矣。然則葛氏之書,墨守師傳,不矜妙悟。譬之儒者說經,其神仙家之漢學乎!

我曾て說く、漢代の仙術、原來黃老與途を分かつ。魏晉之世、玄言一天一天盛んなり、經術多く分歧す。道家自ら詭稱して儒に近しと、神仙於是道に混進す。然れども此れ只だ假借彼の名稱、竝びに其の實質を改めず。及び宋元、纔かに《參同契》の爐火に緣りて以て內丹を說き、陰陽を煉養し、元氣を混合し、服食・胎息を以て小道と斥け、金石・符祝を以て旁門と斥け、黃白・玄素を以て邪術と斥け、只だ性命交修を拿げて以て谷神不死・羽化登眞の口訣と爲す。彼の套說法旁ら禪宗に涉り、兼ねて易理に附し、微言を襲取し・奧妙を推重し、并且儒釋一竝びを合して一と爲さんと欲す。自此以後、漢晉相傳の神仙之說全部變盡し、名實與交相混雜せり。則ち葛氏の書師傳を墨守し、妙悟を矜持せず、以て儒者の經を說くに比ぶ、豈に正是れ神仙家の漢學ならずや。

孫伯淵漕司,篤好古義,兼綜九流,以明刻抱朴子及天一閣鈔本錯亂脫誤,手自校讎,復屬餘與顧澗●各以家藏諸本,參證他書,覆校數過,伯淵敘錄篇目,將以刊行。餘因舉神仙與道家者流,古今分合之故,論次為序,覽者或有考焉。嘉慶十七年七月甲戌桐城方維甸撰。

孫伯淵漕司古義を篤好し、兼ねて九流を綜へ、明刻《抱朴子》及び天一閣鈔本の錯亂脫誤を因りて、親ら校讐し、又我與顧澗(底本此の字殘缺)を囑托して各々家藏諸本を拿げ、他書を參證し、數過を覆校す。伯淵篇目を叙錄し、將に刊行せんとす。我因此神仙與道家者流古今分合の緣故を擧出し、論次して序を寫成す、閱覽の人或は考ふ可き有らん。嘉慶十七年七月甲戌、桐城方維甸撰。

按:明刻抱朴子於內篇之後,附入別旨一篇,專論吐納導引,與內篇本意不合,辭義亦甚淺近,不似晉人手筆。考之稚川自敘,本無此書。隋唐諸志,皆不著錄。惟宋史藝文志道家有抱朴子別旨二卷。注云,不知作者。亦不謂為稚川所著也。晚出之書,元不可信。且今本五百六十餘言,不盈一卷,並非宋元舊本。故削去之,不復附於篇末雲。維甸又跋。

按、明刻《抱朴子》內篇の後に於て《別旨》一篇を附入し、專ら吐納導引を論ず、內篇本意與合せず、辭義亦甚だ淺近、晉人の手筆に像らず。稚川自叙を考へば、本來此の部書無し。隋唐諸志皆著錄せず。只有《宋史・藝文志》道家《抱朴子別旨》二卷有り。注說く作者を知らずと。亦稚川の著する所と說かず。晚く出づるの書、原來信ず可からず。且つ今本五百六十餘字、一卷に滿たず、竝びに不是宋元舊本。故に之を削去し、再び篇末に附せず。維甸又跋す。

○抱朴子內篇目錄

○抱朴子內篇目錄

暢玄卷第一,論仙卷第二,對俗卷第三,金丹卷第四,至理卷第五,微旨卷第六,塞難卷第七,釋滯卷第八,道意卷第九,明本卷第十,仙藥卷第十一,辨問卷第十二,極言卷第十三,勤求卷第十四,雜應卷第十五,黃白卷第十六,登涉卷第十七,地真卷第十八,遐覽卷第十九,袪惑卷第二十。

暢玄卷第一、論仙卷第二、對俗卷第三、金丹卷第四、至理卷第五、微旨卷第六、塞難卷第七、釋滯卷第八、道意卷第九、明本卷第十、仙藥卷第十一、辨問卷第十二、極言卷第十三、勤求卷第十四、雜應卷第十五、黃白卷第十六、登涉卷第十七、地眞卷第十八、遐覽卷第十九、袪惑卷第二十。

右目錄依道藏本定。按抱朴子內篇敘云,別為此一部名曰內篇,凡二十卷,與外篇各起次第也。又外篇自敘云,凡著內篇二十卷,外篇五十卷。又云,其內篇言神仙方藥、鬼怪變化、養生延年、禳邪卻禍之事,屬道家。其外篇言人閒得失、世事臧否、屬儒家。隋書經籍志內篇亦屬道家,與外篇分行。道藏雖並收外篇,原未合為一部。觀其內篇之後,外篇之前,以抱朴子別旨一種閒隔之,可曉然矣。明人刻此書,從道藏取出,而不知其為三種,遂總名曰抱朴子,非也。今校刊內篇二十卷,不連外篇,以復葛氏之舊,兼正明人之誤。舊唐書經籍志及各家書目俱為二十卷。隋志二十一卷,音一卷者,或加序目及音為二十二卷也。音久不傳。道藏序在第一卷前,故不復列數雲。或疑別旨既自為一種,何以不見於自敘。考道藏所收,又有抱朴子養生論及稚川真人較證術一卷,抱朴子神仙金汋經三卷,葛稚川金木萬靈論,俱不見於自敘。然則別旨,正同斯例,蓋皆非稚川所撰也。嘉慶十六年十月五松居士孫星衍敘錄。

以上目錄《道藏》本に依りて定む。按《抱朴子內篇叙》說く、別外此の一部を做りて名づけて內篇と曰す、共に二十卷、外篇與各自次第を起す。又《外篇自叙》說く、一共內篇二十卷・外篇五十卷を著す。又說く、內篇神仙方藥・鬼怪變化・養生延年・禳邪卻禍の事を講ず、道家に屬す。外篇人間得失・世事臧否を講ず、儒家に屬す。《隋書・經籍志》內篇亦道家に屬し、外篇與分行す。《道藏》雖も一竝びに外篇を收めたるも、原來合成して一部と爲さず。其の內篇の後・外篇の前に在りて、《抱朴子別旨》一種を以て間隔して開くを看れば、則ち以て明白す可し。明人此の書を刻する、《道藏》より取出すも、而も知らず是れ三種、於是總名を《抱朴子》と曰す、此れ是れ不對。今內篇二十卷を校刊し、外篇に連ねず、以て葛氏の舊第を恢復し、兼ねて明人の誤を糾正す。舊《唐書・經籍志》及び各家書目皆二十卷と作す。《隋志》二十一卷・音一卷、或は是れ序目及び音を加上して以て二十二卷と成す。音久しく已に傳はらず。《道藏》序第一卷の前に在り、故に再び別列せず。或は疑ふ《別旨》既に自ら一種と成る、何の故に自叙に見えざる。考へる《道藏》の收する所、又有《抱朴子養生論》及び《稚川眞人校證術》一卷・《抱朴子神仙金汋經》三卷・《葛稚川金木萬靈論》、皆自叙に見えず。則ち《別旨》正に此の例に同じ、蓋し皆非稚川の撰する所。嘉慶十六年十月、五松居士孫星衍叙錄。

○校刊抱朴子內篇序

○抱朴子內篇の校刊序

道家宗旨,清淨沖虛而已。其弊或流為權謀,或流為放誕,無所謂金丹仙藥、黃白玄素、吐納導引、禁咒符籙之術也。秦漢方士,絕不附會老子。即依託黃帝,亦非道家之說。漢書藝文志以黃帝諸篇,分屬道家神仙,蓋本七略。七略又本於別錄。劉子政固誦習鴻寶,篤信神仙者,而典校秘書,仍別方技於諸子之外,不相殽也。

道家の宗旨、不過淸淨冲虛のみ。其の流弊、或は權謀に流入り、或は放誕に流入り、竝びに謂う所の金丹仙藥・黃白(金銀を燒煉す)・玄素(房中)・吐納導引・禁咒符籙此の類の術無し。秦漢の方士、絕て老子を以て附會せず。卽便黄帝に依托すとも、亦不是道家の說法。《漢書・藝文志》黄帝諸篇を以て分別道家・神仙家に屬す、蓋し《七略》に本づく。《七略》又《別錄》に本づく。劉子政固より《鴻寶》を誦習し・神仙を篤信すと雖も、然れども其の祕書を典校する時、仍然方技を以て諸子の外に別す、相混雜せず。

東漢之季,桓帝好神仙,祠老子。張陵之子衡,使人為祭酒,主以老子五千文都習。神仙之附會道家,實昉於此。抱朴子內篇,古之神仙家言也。雖自以內篇屬之道家,然所舉仙經神符,多至二百八十二種,絕無道家諸子。且謂老子泛論較略,莊子文子關尹喜之徒,祖述黃老,永無至言,去神仙千億裡。尋其旨趣,與道家判然不同。又後世學仙者,奉魏伯陽為正宗。是書偶及伯陽內篇之名,並無一語稱述,惟神仙傳中言參同契假爻象以說作丹之意而已。是稚川之學,匪特與道家異,並與後世神仙家無幾微之合。

東漢末年、桓帝神仙を好み、老子を祠祀す。張陵の兒子張衡、人をして祭酒を做らしめ、老子五千文を以て遍く習誦するを主持す。神仙の道家に附會する、實に是れ此より始まる。《抱朴子內篇》是れ古神仙家の言論。雖も葛洪自ら內篇を道家に屬す、然れども其の擧ぐる所の仙經神符多く二百八十二種に到る、絕て道家諸子無し。且つ其の說く老子の泛論比較的簡略、莊子・文子・關尹喜の徒黃老を祖述し、永遠に至言無し、神仙を離るること千億里。其の旨趣を尋ぬれば、道家與判然として同じからず。又、後世仙を學ぶ人魏伯陽を奉じて正宗と爲す。此の書偶々伯陽《內篇》の名目に及ぶ、竝びに一句稱述する無し、只だ《神仙傳》中に於て說く《參同契》爻象を假借して以て丹を作るの意を講ずのみ。稚川の學問を見る可し、不但道家與同じからず、并且後世神仙家與亦絲毫相合する無し。

餘嘗謂漢之仙術,元與黃老分途。魏晉之世,玄言日盛,經術多歧。道家自詭於儒,神仙遂溷於道。然第假借其名,不易其實也。迨及宋元,乃緣參同爐火而言內丹,釒柬養陰陽,混合元氣,斥服食胎息為小道,金石符祝為旁門,黃白玄素為邪術,惟以性命交修,為谷神不死,羽化登真之訣。其說旁涉禪宗,兼附易理,襲微重妙,且欲並儒釋而一之。自是而漢晉相傳神仙之說,盡變無餘,名實交溷矣。然則葛氏之書,墨守師傳,不矜妙悟。譬之儒者說經,其神仙家之漢學乎!

我曾て說く、漢代の仙術、原來黃老與途を分かつ。魏晉之世、玄言一天一天盛んなり、經術多く分歧す。道家自ら詭稱して儒に近しと、神仙於是道に混進す。然れども此れ只だ假借彼の名稱、竝びに其の實質を改めず。及び宋元、纔かに《參同契》の爐火に緣りて以て內丹を說き、陰陽を煉(底本「钅柬」是れ「金」旁與「柬」の拆開)養し、元氣を混合し、服食・胎息を以て小道と斥け、金石・符祝を以て旁門と斥け、黃白・玄素を以て邪術と斥け、只だ性命交修を拿げて以て谷神不死・羽化登眞の口訣と爲す。彼の套說法旁ら禪宗に涉り、兼ねて易理に附し、微言を襲取し・奧妙を推重し、并且儒釋一竝びを合して一と爲さんと欲す。自此以後、漢晉相傳の神仙之說全部變盡し、名實與交相混雜せり。則ち葛氏の書師傳を墨守し、妙悟を矜持せず、以て儒者の經を說くに比ぶ、豈に正是れ神仙家の漢學ならずや。

孫伯淵漕司,篤好古義,兼綜九流,以明刻抱朴子及天一閣鈔本錯亂脫誤,手自校讎,復屬餘與顧澗●各以家藏諸本,參證他書,覆校數過,伯淵敘錄篇目,將以刊行。餘因舉神仙與道家者流,古今分合之故,論次為序,覽者或有考焉。嘉慶十七年七月甲戌桐城方維甸撰。

孫伯淵漕司古義を篤好し、兼ねて九流を綜へ、明刻《抱朴子》及び天一閣鈔本の錯亂脫誤を因りて、親ら校讐し、又我與顧澗(底本此の字殘缺)を囑托して各々家藏諸本を拿げ、他書を參證し、數過を覆校す。伯淵篇目を叙錄し、將に刊行せんとす。我因此神仙與道家者流古今分合の緣故を擧出し、論次して序を寫成す、閱覽の人或は考ふ可き有らん。嘉慶十七年七月甲戌、桐城方維甸撰。

按:明刻抱朴子於內篇之後,附入別旨一篇,專論吐納導引,與內篇本意不合,辭義亦甚淺近,不似晉人手筆。考之稚川自敘,本無此書。隋唐諸志,皆不著錄。惟宋史藝文志道家有抱朴子別旨二卷。注云,不知作者。亦不謂為稚川所著也。晚出之書,元不可信。且今本五百六十餘言,不盈一卷,並非宋元舊本。故削去之,不復附於篇末雲。維甸又跋。

按、明刻《抱朴子》內篇の後に於て《別旨》一篇を附入し、專ら吐納導引を論ず、內篇本意與合せず、辭義亦甚だ淺近、晉人の手筆に像らず。稚川自叙を考へば、本來此の部書無し。隋唐諸志皆著錄せず。只有《宋史・藝文志》道家《抱朴子別旨》二卷有り。注說く作者を知らずと。亦稚川の著する所と說かず。晚く出づるの書、原來信ず可からず。且つ今本五百六十餘字、一卷に滿たず、竝びに不是宋元舊本。故に之を削去し、再び篇末に附せず。維甸又跋す。

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