閔公
(經十七四)九月,公至自會。
(経十七四)九月、僖公は会から帰った。
(經十七五)十有二月乙亥,齊侯小白卒。
(経十七五)十二月乙亥、斉侯小白が卒した。
僖公(經十八一)十有八年
僖公(経十八一)十有八年
春,王正月,宋公會曹伯、衛人、邾婁人伐齊。
春、周暦の正月、宋公が曹伯・衛人・邾婁人と会して斉を伐った。
(經十八二)夏,師救齊。五月戊寅,宋師及齊師戰於甗,齊師敗績。
(経十八二)夏、我が軍が斉を救った。五月戊寅、宋の軍隊と斉の軍隊が甗で戦い、斉の軍隊は大敗した。
(傳)戰不言伐,此其言伐何?宋公與伐而不與戰,故言伐。《春秋》伐者為客,伐者為主。曷為不使齊主之?與襄公之徵齊也。曷為與襄公之徵齊?桓公死,豎刁、易牙爭權不葬,為是故伐之也。
(伝)戦には「伐」と言わないのに、ここで「伐」と言うのはなぜか。宋公は伐つには与ったが戦には与らなかったから、「伐」と言うのである。《春秋》は伐つ者を客とし、伐たれる者を主とする。なぜ斉を主としないのか。襄公が斉を征することを与したのである。なぜ襄公の斉を征するのを与するのか。桓公が死に、竪刁・易牙が権を争って葬らなかった。この故をもってこれを伐ったのである。
(經十八三)狄救齊。
(経十八三)狄が斉を救った。
(經十八四)秋,八月丁亥,葬齊桓公。
(経十八四)秋の八月丁亥、斉桓公を葬った。
(經十八五)冬,邢人、狄人伐衛。
(経十八五)冬、邢人・狄人が衛を伐った。
僖公(經十九一)十有九年
僖公(経十九一)十有九年
春,王三月,宋人執滕子嬰齊。
春、周暦の三月、宋人が滕子嬰斉を捕らえた。
(經十九二)夏,六月,宋人、曹人、邾婁人盟於曹南。鄫子會盟於邾婁。
(経十九二)夏の六月、宋人・曹人・邾婁人が曹南で盟した。鄫子は邾婁に行って盟に加わった。
(傳)其言會盟何?後會也。
(伝)なぜ「会盟」と言うのか。後れて会したからである。
(經十九三)己酉,邾婁人執鄫子用之。
(経十九三)己酉、邾婁人が鄫子を捕らえてこれを用いた。
(傳)惡乎用之?用之社也。其用之社奈何?蓋叩其鼻以血社也。
(伝)どこに用いたのか。社に用いたのである。どのように社に用いたのか。おそらくその鼻を叩き、血をもって社を祭ったのである。
(經十九四)秋,宋人圍曹。
(経十九四)秋、宋人が曹を囲んだ。
(經十九五)衛人伐邢。
(経十九五)衛人が邢を伐った。
(經十九六)冬,公會陳人、蔡人、楚人、鄭人盟於齊。梁亡。
(経十九六)冬、僖公は陳人・蔡人・楚人・鄭人と会して斉で盟した。梁が亡びた。
(傳)此未有伐者,其言梁亡何?自亡也。其自亡奈何?魚爛而亡也。
(伝)これには伐つ者がいないのに、なぜ「梁亡」と言うのか。自ら亡びたのである。どのように自ら亡びたのか。魚が腹から爛れるようにして亡びたのである。
僖公(經二十一)二十年
僖公(経二十一)二十年
春,新作南門。
春、南門を新たに作った。
(傳)何以書?譏。何譏爾?門有古常也。
(伝)なぜ書くのか。譏りである。何を譏るのか。門には古来の常制があるのである。
(經二十二)夏,郜子來朝。
(経二十二)夏、郜子が来て朝見した。
(傳)郜子者何?失地之君也。何以不名?兄弟辭也。
(伝)郜子とは何人か。地を失った君である。なぜ名を称さないのか。兄弟の辞である。
(經二十三)五月乙巳,西宮災。
(経二十三)五月乙巳、西宮に災いがあった。
(傳)西宮者何?小寢也。小寢則曷為謂之西宮?有西宮則有東宮矣。魯子曰:「以有西宮,亦知諸侯之有三宮也。」西宮災,何以書?記災也。
(伝)西宮とは何か。小寝である。小寝ならば、なぜこれを西宮と謂うのか。西宮あれば東宮がある。魯子が言った。「西宮があることにより、諸侯に三宮あることをも知るのである。」西宮に災いがあったのを、なぜ書くのか。災いを記したのである。
(經二十四)鄭人入滑。
(経二十四)鄭人が滑に入った。
(經二十五)秋,齊人、狄人盟於邢。
(経二十五)秋、斉人・狄人が邢で盟した。
(經二十六)冬,楚人伐隨。
(経二十六)冬、楚人が随を伐った。
僖公(經二一一)二十有一年
僖公(経二一一)二十有一年
春,狄侵衛。宋人、齊人、楚人盟於鹿上。
春、狄が衛に侵入した。宋人・斉人・楚人が鹿上で盟した。
(經二一二)夏,大旱。
(経二一二)夏、大いに旱した。
(傳)何以書?記災也。
(伝)なぜ書くのか。災いを記したのである。
(經二一三)秋,宋公、楚子、陳侯、蔡侯、鄭伯、許男、曹伯會於霍,執宋公以伐宋。
(経二一三)秋、宋公・楚子・陳侯・蔡侯・鄭伯・許男・曹伯が霍で会し、宋公を捕らえて宋を伐った。
(傳)孰執之?楚子執之。曷為不言楚子執之?不與夷狄之執中國也。
(伝)誰が捕らえたのか。楚子が捕らえたのである。なぜ楚子が捕らえたと言わないのか。夷狄が中国の人を執ることを与しないのである。
(經二一四)冬,公伐邾婁。
(経二一四)冬、僖公が邾婁を伐った。
(經二一五)楚人使宜申來獻捷。
(経二一五)楚人が宜申を遣わして戦利品を献じに来させた。
(傳)此楚子也,其稱人何?貶。曷為貶?為執宋公貶。曷為為執宋公貶?宋公與楚子期以乘車之會,公子目夷諫曰:「楚,夷國也,強而無義,請君以兵車之會往。」宋公曰:「不可。吾與之約以乘車之會,自我為之,自我墮之,曰不可。」終以乘車之會往,楚人果伏兵車,執宋公以伐宋。宋公謂公子目夷曰:「子歸守國矣。國,子之國也。吾不從子之言,以至乎此。」公子目夷復曰:「君雖不言國,國固臣之國也。」於是歸設守械而守國。楚人謂宋人曰:「子不與我國,吾將殺子君矣。」宋人應之曰:「吾賴社稷之神靈,吾國已有君矣。」楚人知雖殺宋公,猶不得宋國,於是釋宋公。宋公釋乎執,走之衛。公子目夷復曰:「國為君守之,君曷為不入?」然後逆襄公歸。惡乎捷?捷乎宋。曷為不言捷乎宋?為襄公諱也。此圍辭也,曷為不言其圍?為公子目夷諱也。
(伝)この人は楚子なのに、なぜ「人」と称するのか。貶めたのである。なぜ貶めるのか。宋公を捕らえたために貶めるのである。なぜ宋公を捕らえたために貶めるのか。宋公は楚子と乗車の会を約した。公子目夷が諫めて言った。「楚は夷の国で、強くして義なし。どうか君王は兵車の会をもってお行きください。」宋公は言った。「不可である。吾は彼と乗車の会を約した。自らこれを為し、自らこれを堕すのは、不可と言う。」ついに乗車の会をもって行き、楚人は果たして兵車を伏せ、宋公を捕らえて宋を伐った。宋公は公子目夷に謂うた。「そなたは帰って国を守れ。国はそなたの国である。吾はそなたの言に従わず、この地に至った。」公子目夷は復して曰く。「君王は国と言わなくとも、国はもともと臣の国です。」こうして帰って守械を設けて国を守った。楚人は宋人に謂うた。「そなたたちが国を我らに与えなければ、そなたたちの君を殺す。」宋人はこれに応えて曰く。「吾らは社稷の神霊に恃み、わが国はすでに君がある。」楚人は宋公を殺しても宋を得られないことを知り、こうして宋公を放した。宋公は捕らえられたことから解かれて衛に走った。公子目夷はまた言った。「国は君王のために守ったのです。君王はなぜお入りにならないのですか。」それから襄公を迎えて帰らせた。戦利品はどこから来たのか。宋から来たのである。なぜ宋からの戦利品と書かないのか。襄公のために諱んだのである。これはもともと囲の辞なのに、なぜ囲と書かないのか。公子目夷のために諱んだのである。
(經二一六)十有二月癸丑,公會諸侯盟於薄。釋宋公。
(経二一六)十二月癸丑、僖公は諸侯に会して薄で盟した。宋公を釈放した。
(傳)執未有言釋之者,此其言釋之何?公與為爾也。公與為爾奈何?公與議爾也。
(伝)人を執って未だかつて「釈」と言ったことがないのに、ここで「釈」と言うのはなぜか。僖公がこの事に与ったからである。僖公はどのように与ったのか。僖公は議に与ったのである。
僖公(經二二一)二十有二年
僖公(経二二一)二十有二年
春,公伐邾婁,取須朐。
春、僖公が邾婁を伐ち、須朐を取った。
(經二二二)夏,宋公、衛侯、許男、滕子伐鄭。
(経二二二)夏、宋公・衛侯・許男・滕子が鄭を伐った。
(經二二三)秋,八月丁未,及邾婁人戰於升陘。
(経二二三)秋の八月丁未、邾婁人と升陘で戦った。
(經二二四)冬,十有一月己巳朔,宋公及楚人戰於泓,宋師敗績。
(経二二四)冬の十一月己巳朔、宋公と楚人が泓で戦い、宋の軍隊は大敗した。
(傳)偏戰者日爾,此其言朔何?《春秋》辭繁而不殺者,正也。何正爾?宋公與楚人期,戰於泓之陽。楚人濟泓而來。有司復曰:「請迨其未畢濟而系之。」宋公曰:「不可。吾聞之也:君子不厄人。吾雖喪國之餘,寡人不忍行也。」既濟,未畢陳,有司復曰:「請迨其未畢陳而擊之。」宋公曰:「不可。吾聞之也:君子不鼓不成列。」已陳,然後襄公鼓之,宋師大敗。故君子大其不鼓不成列,臨大事而不忘大禮,有君而無臣,以為雖文王之戰,亦不過此也。
(伝)約期の戦いは日を記すだけなのに、ここでなぜ「朔」と言うのか。《春秋》の辞が繁くして省かないのは、正とするものである。どこが正なのか。宋公は楚人と約して、泓水の北岸で戦うこととした。楚人は泓を済って来た。有司が復して曰く。「彼らが済り終わらないうちに遮ってください。」宋公は言った。「不可である。吾は聞いた。君子は人を窮地に追い込まない。吾は亡国の余とはいえ、寡人は忍びて行えない。」すでに済り終わり、まだ陣を列ね終わらないとき、有司が復して曰く。「彼らが陣を列ね終わらないうちに撃ってください。」宋公は言った。「不可である。吾は聞いた。君子は列を成さない者に鼓を進めない。」すでに陣を列ね、それから襄公は鼓を鳴らし、宋師は大敗した。故に君子は彼が列を成さない者に鼓を進めなかったことを大いにし、大事に臨んで大礼を忘れず、このような君がありながらこのような臣がなかった。これをもって文王の戦と雖も、これに過ぎないとしたのである。
僖公(經二三一)二十有三年
僖公(経二三一)二十有三年
春,齊侯伐宋圍緡。
春、斉侯が宋を伐ち、緡を囲んだ。
(傳)邑不言圍,此其言圍何?疾重故也。
(伝)邑については例により「囲」と言わないのに、ここで「囲」と言うのはなぜか。彼が事を重くしすぎたことを疾む故である。
(經二三二)夏,五月庚寅,宋公慈父卒。
(経二三二)夏の五月庚寅、宋公慈父が卒した。
(傳)何以不書葬?盈乎諱也。
(伝)なぜ葬を書かないのか。諱がすでに盈ちているのである。
(經二三三)秋,楚人伐陳。
(経二三三)秋、楚人が陳を伐った。
(經二三四)冬,十有一月,杞子卒。
(経二三四)冬の十一月、杞子が卒した。
僖公(經二四一)二十有四年
僖公(経二四一)二十有四年
春,王正月。
春、周暦の正月。
(經二四二)夏,狄伐鄭。
(経二四二)夏、狄が鄭を伐った。
(經二四三)秋,七月。
(経二四三)秋の七月。
(經二四四)冬,天王出居於鄭。
(経二四四)冬、天子が出て、鄭に居った。
(傳)王者無外,此其言出何?不能乎母也。魯子曰:「是王也,不能乎母者,其諸此之謂與?」
(伝)王者には「外」がないのに、ここで「出」と言うのはなぜか。母に対することができなかったからである。魯子が言った。「この王は、母に対することができなかったとは、おそらくこれを謂うのではないか。」
(經二四五)晉侯夷吾卒。
(経二四五)晋侯夷吾が卒した。
