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宣公

战国 · 公羊高 · 第27巻 / 44

(經十五九)宋華元出奔晉。

(経十五九)宋国の華元が晋に出奔した。

(經十五十)宋華元自晉歸於宋。

(経十五十)宋国の華元が晋から宋に帰った。

(經十五十一)宋殺其大夫山。

(経十五十一)宋国がその大夫山を殺した。

(經十五十二)宋魚石出奔楚。

(経十五十二)宋国の魚石が楚に出奔した。

(經十五十三)冬,十有一月,叔孫僑如會晉士燮、齊高無咎、宋華元、衛孫林父、鄭公子鰍、邾婁人會吳於鍾離。

(経十五十三)冬十一月、叔孫僑如は晋国の士燮・斉国の高無咎・宋国の華元・衛国の孫林父・鄭国の公子鰌・邾婁人と会し、鍾離で呉と会見した。

(傳)曷為殊會吳?外吳也。曷為外也?《春秋》內其國而外諸夏,內諸夏而外夷狄。王者欲一乎天下,曷為以外內之辭言之?言自近者始也。

(伝)なぜわざわざ呉と会見すると書いたのか?呉を外と見なしたのである。なぜ外と見なしたのか?『春秋』は本国を内とし諸夏を外とし、諸夏を内として夷狄を外とする。王者が天下を統一しようとするのに、なぜなお内外の措辞で言うのか?近いところから始めるべきことを言っているのである。

(經十五十四)許遷於葉。

(経十五十四)許が葉に遷った。

成公(經十六一)十有六年

成公(経十六一)十有六年

春,王正月,雨木冰。

春、周暦の正月、雨が降り、木に氷が結んだ。

(傳)雨木冰者何?雨而木冰也。何以書?記異也。

(伝)「雨木氷」とは何か?雨が降って木に氷が結んだのである。なぜ記したのか?異常を記したのである。

(經十六二)夏,四月辛未,滕子卒。

(経十六二)夏四月辛未、滕子が卒した。

(經十六三)鄭公子喜帥師侵宋。

(経十六三)鄭国の公子喜が軍を率いて宋に侵入した。

(經十六四)六月丙寅朔,日有食之。

(経十六四)六月丙寅朔、日食があった。

(經十六五)晉侯使欒黶來乞師。

(経十六五)晋侯は欒黶を遣わして軍を請求した。

(經十六六)甲午晦。

(経十六六)甲午、天色が暗くなった。

(傳)晦者何?冥也。何以書?記異也。

(伝)「晦」とは何か?暗いことである。なぜ記したのか?異常を記したのである。

(經十六九)晉侯及楚子、鄭伯戰於鄢陵,楚子、鄭師敗績。

(経十六九)晋侯が楚子・鄭伯と鄢陵で戦い、楚子・鄭国の軍は大敗した。

(傳)敗者稱師,楚何以不稱師?王痍也。王痍者何?傷乎矢也。然則何以不言師敗績?末言爾。

(伝)敗れたのは「師」と称するのに、楚はなぜ「師」と称しないのか?王が傷を負ったからである。王が傷を負ったとは何か?矢に射られたのである。ではなぜ軍の大敗と書かないのか?言うに足りないからである。

(經十六十)楚殺其大夫公子側。

(経十六十)楚国がその大夫公子側を殺した。

(經十六十一)秋,公會晉侯、齊侯、衛侯、宋華元、邾婁人於沙隨。不見公,公至自會。

(経十六十一)秋、成公は晋侯・斉侯・衛侯・宋国の華元・邾婁人と沙随で会した。成公は会見されず、成公は会盟から帰った。

(傳)不見公者何?公不見見也。公不見見,大夫執。何以致會?不恥也。曷為不恥?公幼也。

(伝)「不見公」とは何か?成公が接見されなかったのである。成公が接見されず、大夫が捉えられた。なぜなお会盟から帰ったと書くのか?恥としなかったのである。なぜ恥としなかったのか?成公が幼かったからである。

(經十六十二)公會尹子、晉侯、齊國佐、邾婁人伐鄭。

(経十六十二)成公は尹子・晋侯・斉国の国佐・邾婁人と会して鄭を攻めた。

(經十六十三)曹伯歸自京師。

(経十六十三)曹伯が京師から帰った。

(傳)執而歸者名,曹伯何以不名?而不言復歸於曹何?易也。其易奈何?公子喜時在內也。公子喜時在內,則何以易?公子喜時者仁人也。內平其國而待之,外治諸京師而免之。其言自京師何?言甚易也,舍是無難矣!

(伝)捉えられて再び帰る者は名を称するのに、曹伯はなぜ名を称しないのか?また「復帰于曹」と書かないのはなぜか?容易だからである。どのように容易なのか?公子喜時が国内にいた。公子喜時が国内にいると、なぜ容易なのか?公子喜時は仁人である。内は彼の国を安んじて彼を待ち、外は京師で事を処理して彼を免した。「自京師」と書くのは何の意味か?非常に容易で、これ以外には難しさがないことを言うのである!

(經十六十四)九月,晉人執季孫行父,舍之於招丘。

(経十六十四)九月、晋国人は季孫行父を捉え、招丘に置いた。

(傳)執未可言舍之者,此其言舍之何?仁之也,曰在招丘悕矣。執未有言仁之者,此其言仁之何?代公執也,其代公執奈何?前此者晉人來乞師而不與。公會晉侯,將執公,季孫行父曰:「此臣之罪也。」於是執季孫行父。成公將會晉厲公,會不當期,將執公。季孫行父曰:「臣有罪,執其君;子有罪,執其父;此聽失之大者也。今此臣之罪也,舍臣之身而執臣之君,吾恐聽失之為宗廟羞也。」於是執季孫行父。

(伝)人を捉えて「舎之」と書いたことはかつてないのに、ここで「舎之」と書くのはなぜか?彼を憐れみ、招丘でかわいそうだと言ったのである。人を捉えて憐れむと言ったことはかつてないのに、ここでなぜ憐れむと言うのか?成公に代わって捉えられたからである。どのように成公に代わって捉えられたのか?この以前、晋国人が来て軍を請求したが、与えなかった。成公が晋侯と会見したとき、成公を捉えようとしたので、季孫行父は言った、「これは臣の罪です」。そこで季孫行父を捉えた。成公が晋厲公と会見しようとしたとき、会盟が期に合わず、成公を捉えようとした。季孫行父は言った、「臣に罪があればその国君を捉え、子に罪があればその父を捉える、これは訴訟を聴く最大の失です。今これは臣の罪なのに、臣の身を放して臣の国君を捉えるのは、訴訟の失が宗廟に羞恥をもたらすのを恐れます」。そこで季孫行父を捉えた。

(經十六十五)冬,十月乙亥,叔孫僑如出奔齊。

(経十六十五)冬十月乙亥、叔孫僑如が斉に出奔した。

(經十六十六)十有二月乙丑,季孫行父及晉郄州盟於扈。

(経十六十六)十二月乙丑、季孫行父と晋国の郤州が扈で会盟した。

(經十六十七)公至自會。

(経十六十七)成公は会盟から帰った。

(經十六十八)乙酉,刺公子偃。

(経十六十八)乙酉、公子偃を刺し殺した。

成公(經十七一)十有七年

成公(経十七一)十有七年

春,衛北宮結率師侵鄭。

春、衛国の北宮結が軍を率いて鄭に侵入した。

(經十七二)夏,公會尹子、單子、晉侯、齊侯、宋公、衛侯、曹伯、邾婁人伐鄭。六月,乙酉,同盟於柯陵。

(経十七二)夏、成公は尹子・単子・晋侯・斉侯・宋公・衛侯・曹伯・邾婁人と会して鄭を攻めた。六月乙酉、ともに柯陵で会盟した。

(經十七三)秋,公至自會。

(経十七三)秋、成公は会盟から帰った。

(經十七四)齊高無咎出奔莒。

(経十七四)斉国の高無咎が莒に出奔した。

(經十七五)九月辛丑,用郊。

(経十七五)九月辛丑、郊祭を用いた。

(傳)用者何?用者不宜用也。九月非所用郊也。然則郊曷用?郊用正月上辛,或曰用然後郊。

(伝)「用」とは何か?「用」とは用いるべきでないのである。九月は郊祭を行うべき時ではない。では郊祭はいつ用いるべきか?郊祭は正月の上辛を用いる、一説にまず「用」してから郊祭する。

(經十七六)晉侯使荀罃來乞師。

(経十七六)晋侯は荀䓨を遣わして軍を請求した。

(經十七七)冬,公會單子、晉侯、宋公、衛侯、曹伯、齊人、邾婁人伐鄭。十有一月,公至自伐鄭。

(経十七七)冬、成公は単子・晋侯・宋公・衛侯・曹伯・斉国人・邾婁人と会して鄭を攻めた。十一月、成公は鄭を伐つ軍から帰った。

(經十七八)壬申,公孫嬰齊卒於狸軫。

(経十七八)壬申、公孫嬰斉が貍軫で卒した。

(傳)非此月日也,曷為以此月日卒之?待君命然後卒大夫。曷為待君命然後卒大夫?前此者嬰齊走之晉,公會晉侯,將執公。嬰齊為公請,公許之反為大夫,歸。至於狸軫而卒。無君命不敢卒大夫,公至,曰:「吾固許之反為大夫。」然後卒之。

(伝)この月日ではないのに、なぜこの月日で彼の逝去を記したのか?国君の命令を待ってから大夫の逝去を記したのである。なぜ国君の命令を待ってから大夫の逝去を記したのか?この以前、嬰斉が晋に走り、成公は晋侯と会見し、成公を捉えようとした。嬰斉が成公のために請い、成公は彼を帰らせて大夫とすることを許したので、彼は帰った。貍軫に至って卒した。国君の命令がなければ敢えて大夫の逝去を記さないが、成公が到着して言った、「私はもともと彼を帰らせて大夫とすることを許した」。それからようやく彼の逝去を記したのである。

(經十七九)十有二月丁巳朔,日有食之。

(経十七九)十二月丁巳朔、日食があった。

(經十七十)邾婁子貜且卒。

(経十七十)邾婁子貜且が卒した。

(經十七十一)晉殺其大夫郄錡、郄州、郄至。

(経十七十一)晋国がその大夫郤錡・郤州・郤至を殺した。

(經十七十二)楚人滅舒庸。

(経十七十二)楚国人が舒庸を滅ぼした。

成公(經十八一)十有八年

成公(経十八一)十有八年

春,王正月,晉殺其大夫胥童。庚申,晉弒其君州蒲。

春、周暦の正月、晋国がその大夫胥童を殺した。庚申、晋国がその国君州蒲を殺した。

(經十八二)齊殺其大夫國佐。

(経十八二)斉国がその大夫国佐を殺した。

(經十八三)公如晉。

(経十八三)成公は晋国に行った。

(經十八四)夏,楚子、鄭伯伐宋。

(経十八四)夏、楚子・鄭伯が宋を攻めた。

(經十八五)宋魚石復入於彭城。

(経十八五)宋国の魚石が再び彭城に入った。

(經十六六)公至自晉。

(経十六六)成公は晋国から帰った。

(經十八七)晉侯使士丐來聘。

(経十八七)晋侯は士丐を遣わして聘問した。

(經十八八)秋,杞伯來朝。八月,邾婁子來朝。

(経十八八)秋、杞伯が来て朝見した。八月、邾婁子が来て朝見した。

(經十八九)築鹿囿。

(経十八九)鹿囿を築いた。

(傳)何以書?譏。何譏爾?有囿矣,又為也。

(伝)なぜ記したのか?譏刺である。何を譏刺したのか?すでに囿があるのに、また築いたのである。

(經十八十)己丑,公薨於路寢。

(経十八十)己丑、成公が路寝で卒した。

(經十八十一)冬,楚人、鄭人侵宋。

(経十八十一)冬、楚国人・鄭国人が宋に侵入した。

(經十八十二)晉侯使士彭來乞師。

(経十八十二)晋侯は士彭を遣わして軍を請求した。

(經十八十三)十有二月,仲孫蔑會晉侯、宋公、衛侯、邾婁子、齊崔杼同盟於虛朾。

(経十八十三)十二月、仲孫蔑は晋侯・宋公・衛侯・邾婁子・斉国の崔杼と会して虚朾で会盟した。

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