宣公
(經九四)夏,季孫行父如宋致女。
(経九四)夏、季孫行父が宋国に行って女子を致送した。
(傳)未有言致女者,此其言致女何?錄伯姬也。
(伝)かつて「致女」と書いたことはないのに、ここではなぜ「致女」と書いたのか?伯姫を記録したのである。
(經九使)晉人來媵。
(経九五)晋国人が来て媵嫁した。
(傳)媵不書,此何以書?錄伯姬也。
(伝)媵嫁は例によって記さないのに、ここではなぜ記したのか?伯姫を記録したのである。
(經九六)秋,七月丙子,齊侯無野卒。
(経九六)秋七月丙子、斉侯無野が卒した。
(經九七)晉人執鄭伯。
(経九七)晋国人が鄭伯を捉えた。
(經九八)晉欒書帥師伐鄭。
(経九八)晋国の欒書が軍を率いて鄭を攻めた。
(經九九)冬,十有一月,葬齊頃公。
(経九九)冬十一月、斉頃公を葬った。
(經九十)楚公子嬰齊帥師伐莒;庚申,莒潰。
(経九十)楚国の公子嬰斉が軍を率いて莒を攻めた。庚申、莒は潰敗した(人民が逃げ散った)。
(經九十一)楚人入運。(經九十二)秦人、白狄伐晉。
(経九十一)楚国人が運に入った。(経九十二)秦国人・白狄が晋を攻めた。
(經九十三)鄭人圍許。
(経九十三)鄭国人が許を包囲した。
(經九十四)城中城。
(経九十四)中城を築いた。
成公(經十一)十年
成公(経十一)十年
春,衛侯之弟黑背率師侵鄭。
春、衛侯の弟黒背が軍を率いて鄭に侵入した。
(經十二)夏,四月,五卜郊,不從,乃不郊。
(経十二)夏四月、五度郊祭を占ったがいずれも従わなかったので、郊祭を行わなかった。
(傳)其言乃不郊何?不免牲,故言乃不郊也。
(伝)「乃不郊」と書くのは何の意味か?祭牲を免じなかったので、「乃不郊」と書いたのである。
(經十三)五月,公會晉侯、齊侯、宋公、衛侯、曹伯伐鄭。
(経十三)五月、成公は晋侯・斉侯・宋公・衛侯・曹伯と会して鄭を攻めた。
(經十四)齊人來媵。
(経十四)斉国人が来て媵嫁した。
(傳)媵不書,此何以書?錄伯姬也。三國來媵非禮也,曷為皆以錄伯姬之辭言之?婦人以眾多為侈也。
(伝)媵嫁は例によって記さないのに、ここではなぜ記したのか?伯姫を記録したのである。三国が来て媵嫁するのは礼に合わないが、なぜいずれも伯姫を記録する措辞で言うのか?婦人は人数が多いのをもって奢侈とするからである。
(經十五)丙午,晉侯獳卒。
(経十五)丙午、晋侯獳が卒した。
(經十六)秋,七月。
(経十六)秋七月。
(經十七)公如晉。
(経十七)成公は晋国に行った。
成公(經十一一)十有一年
成公(経十一一)十有一年
春,王三月,公至自晉。
春、周暦の三月、成公は晋国から帰った。
(經十一二)晉侯使郄州來聘。己丑,及郄州盟。
(経十一二)晋侯は郤州を遣わして聘問した。己丑、郤州と会盟した。
(經十一三)夏,季孫行父如晉。
(経十一三)夏、季孫行父が晋国に行った。
(經十一四)秋,叔孫僑如如齊。
(経十一四)秋、叔孫僑如が斉国に行った。
(經十一五)冬,十月。
(経十一五)冬十月。
成公(經十二二)十有二年
成公(経十二二)十有二年
春,周公出奔晉。
春、周公が晋に出奔した。
(傳)周公者何?天子之三公也。王者無外,此其言出何?自其私土而出也。
(伝)周公とは何者か?天子の三公である。王者には「外」がないのに、ここで「出」と書くのはなぜか?彼自身の私邑から出たからである。
(經十二二)夏,公會晉侯、衛侯於沙澤。
(経十二二)夏、成公は沙沢で晋侯・衛侯と会見した。
(經十二三)秋,晉人敗狄於交剛。
(経十二三)秋、晋国人が交剛で狄を破った。
(經十二四)冬,十月。
(経十二四)冬十月。
成公(經十三一)十有三年
成公(経十三一)十有三年
春,晉侯使郄錡來乞師。
春、晋侯は郤錡を遣わして軍を請求した。
(經十三二)三月,公如京師。
(経十三二)三月、成公は京師に行った。
(經十三三)夏,五月,公自京師,遂會晉侯、齊侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、邾婁人、滕人伐秦。
(経十三三)夏五月、成公は京師から出発し、続いて晋侯・斉侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯・邾婁人・滕人と会して秦を攻めた。
(傳)其言自京師何?公鑿行也。公鑿行奈何?不敢過天子也。
(伝)「自京師」と書くのは何の意味か?成公が開鑿して出行したのである。どのように開鑿して出行したのか?天子を越えるのを敢えてしなかったのである。
(經十三四)曹伯廬卒於師。
(経十三四)曹伯盧が軍中で卒した。
(經十三五)秋,七月,公至自伐秦。
(経十三五)秋七月、成公は秦を伐つ軍から帰った。
(經十三六)冬,葬曹宣公。
(経十三六)冬、曹宣公を葬った。
成公(經十四一)十有四年
成公(経十四一)十有四年
春,王正月,莒子朱卒。
春、周暦の正月、莒子朱が卒した。
(經十四二)夏,衛孫林父自晉歸於衛。
(経十四二)夏、衛国の孫林父が晋から衛に帰った。
(經十四三)秋,叔孫僑如如齊逆女。
(経十四三)秋、叔孫僑如が斉国に行って女子を迎え娶った。
(經十四四)鄭公子喜率師伐許。
(経十四四)鄭国の公子喜が軍を率いて許を攻めた。
(經十四五)九月,僑如以夫人婦姜氏至自齊。
(経十四五)九月、僑如は夫人婦姜氏を連れて斉国から帰った。
(經十四六)冬,十月庚寅,衛侯臧卒。
(経十四六)冬十月庚寅、衛侯臧が卒した。
(經十四七)秦伯卒。
(経十四七)秦伯が卒した。
成公(經十五一)十有五年
成公(経十五一)十有五年
春,王二月,葬衛定公。
春、周暦の二月、衛定公を葬った。
(經十五二)三月乙巳,仲嬰齊卒。
(経十五二)三月乙巳、仲嬰斉が卒した。
(傳)仲嬰齊者何?公孫嬰齊也。公孫嬰齊,則曷為謂之仲嬰齊?為兄後也。為兄後則曷為謂之仲嬰齊?為人後者為之子也。為人後者為其子,則其稱仲何?孫以王父字為氏也。然則嬰齊孰後?後歸父也。歸父使於晉而未反,何以後之?叔仲惠伯,傅子赤者也,文公死,子幼,公子遂謂叔仲惠伯曰:「君幼,如之何?願與子慮之。」叔仲惠伯曰:「吾子相之,老夫抱之,何幼君之有?」公子遂知其不可與謀,退而殺叔仲惠伯,弒子赤而立宣公。宣公死,成公幼,臧宣叔者相也。君死不哭,聚諸大夫而問焉,曰:「昔者叔仲惠伯之事,孰為之?」諸大夫皆雜然曰:「仲氏也,其然乎?」於是遣歸父之家,然後哭君,歸父使乎晉,還自晉,至檉,聞君薨家遣,墠帷,哭君成踴,反命於介,自是走之齊。魯人徐傷歸父之無後也,於是使嬰齊後之也。
(伝)仲嬰斉とは何者か?公孫嬰斉である。公孫嬰斉であるのに、なぜ仲嬰斉と言うのか?兄の後嗣となったからである。兄の後嗣となったのに、なぜ仲嬰斉と言うのか?人の後嗣となるとはその人の子となることである。人の後嗣となるとはその人の子となるのに、なぜ「仲」と称するのか?孫は祖父の字をもって氏とする。では嬰斉は誰の後嗣となったのか?帰父の後嗣となった。帰父は晋に出使してまだ帰っていないのに、なぜ彼に後を立てたのか?叔仲惠伯は子赤を輔導する者で、文公が亡くなり子が幼かったので、公子遂は叔仲惠伯に言った、「国君が幼いが、どうしましょう?あなたとともに図りたい」。叔仲惠伯は言った、「あなたが彼を輔佐し、老夫が彼を抱えれば、どこに幼君があろうか」。公子遂は彼と図れないことを知り、退いて叔仲惠伯を殺し、子赤を殺して宣公を立てた。宣公が亡くなり成公が幼く、臧宣叔が輔相であった。国君が亡くなったのに哭かず、大夫たちを集めて問うた、「昔の叔仲惠伯のことは、誰がやったのか」。大夫たちは皆言った、「仲氏でしょう」。そこで帰父の家族を追い散らし、それからようやく君を哭いた。帰父は晋に出使していて、晋から帰って柽に至り、国君の逝去と家の追い散らされたことを聞き、そこで地面を掃き平めて帷を設け、君を哭して踊の礼を終え、副使に復命し、ここから斉国に走った。魯国人はだんだん帰父に後嗣がないのを哀れみ、そこで嬰斉に彼の後嗣をさせた。
(經十五三)癸丑,公會晉侯、衛侯、鄭伯、曹伯、宋世子成、齊國佐、邾婁人同盟於戚。
(経十五三)癸丑、成公は晋侯・衛侯・鄭伯・曹伯・宋国の世子成・斉国の国佐・邾婁人とともに戚で会盟した。
(經十五四)晉侯執曹伯歸之於京師。
(経十五四)晋侯は曹伯を捉え、京師に引き渡した。
(經十五五)公至自會。
(経十五五)成公は会盟から帰った。
(經十五六)夏,六月,宋公固卒。
(経十五六)夏六月、宋公固が卒した。
(經十五七)楚子伐鄭。
(経十五七)楚子が鄭を攻めた。
(經十五八)秋,八月庚辰,葬宋共公。
(経十五八)秋八月庚辰、宋共公を葬った。
