Libo

宣公

战国 · 公羊高 · 第29巻 / 44

(經五十二)辛未,季孫行父卒。

(経五十二)辛未、季孫行父が卒した。

襄公(經六一)六年

襄公(経六一)六年

春,王三月壬午,杞伯姑容卒。

春、周暦三月壬午、杞伯姑容が薨去した。

(經六二)夏,宋華弱來奔。

(経六二)夏、宋の華弱が奔亡してきた。

(經六三)秋,葬杞桓公。

(経六三)秋、杞桓公を葬った。

(經六四)滕子來朝。

(経六四)滕子が朝見に来た。

(經六五)莒人滅鄫。

(経六五)莒人が鄫を滅ぼした。

(經六六)冬,叔孫豹如邾婁。

(経六六)冬、叔孫豹が邾婁に行った。

(經六七)季孫宿如晉。

(経六七)季孫宿が晋に行った。

(經六八)十有二月,齊侯滅萊。

(経六八)十二月、斉侯が莱を滅ぼした。

(傳)曷為不言萊君出奔?國滅,君死之,正也。

(伝)なぜ莱の国君の出奔を書かないのか。国が滅び、国君がそのために死ぬのは正道だからである。

襄公(經七一)七年

襄公(経七一)七年

春,郯子來朝。

春、郯子が朝見に来た。

(經七二)夏,四月,三卜郊,不從,乃免牲。

(経七二)夏四月、三度郊祭について卜を問うたがいずれも従わず、そこで祭牲を免じた。

(經七三)小邾婁子來朝。

(経七三)小邾婁子が朝見に来た。

(經七四)城費。

(経七四)費を修築した。

(經七五)秋,季孫宿如衛。

(経七五)秋、季孫宿が衛に行った。

(經七六)八月,螽。

(経七六)八月、螽斯が災いをなした。

(經七七)冬,十月,衛侯使孫林父來聘。

(経七七)冬十月、衛侯は孫林父を派遣して聘問させた。

(經七八)壬戌,及孫林父盟。

(経七八)壬戌、孫林父と会盟した。

(經七九)楚公子貞帥師圍陳。

(経七九)楚の公子貞が軍を率いて陳を包囲した。

(經七十)十有二月,公會晉侯、宋公、陳侯、衛侯、曹伯、莒子、邾婁子於鄬。鄭伯髡原如會,未見諸侯;丙戌,卒於操。

(経七十)十二月、襄公は晋侯、宋公、陳侯、衛侯、曹伯、莒子、邾婁子と鄬で会合した。鄭伯髠原は会盟に来たが諸侯に会えず、丙戌、操で薨去した。

(傳)操者何?鄭之邑也。諸侯卒其封內不地,此何以地?隱之也。何隱爾?弒也。孰弒之?其大夫弒之。曷為不言其大夫弒之?為中國諱也。曷為為中國諱?鄭伯將會諸侯於鄬,其大夫諫曰:「中國不足歸也,則不若與楚。」鄭伯曰:「不可。」其大夫曰:「以中國為義,則伐我喪;以中國為強,則不若楚。」於是弒之。鄭伯髡原何以名?傷而反,未至乎舍而卒也。未見諸侯,其言如會何?致其意也。

(伝)操とは何か。鄭の城邑である。諸侯が封疆以内で薨去した場合は例によって場所を記さないのに、ここではなぜ場所を記すのか。これを痛ましく思うからである。何を痛ましく思うのか。殺されたのである。誰が殺したのか。彼の大夫が殺したのである。なぜ彼の大夫が殺したと書かないのか。中原のために諱むからである。なぜ中原のために諱むのか。鄭伯はまさに鄬で諸侯と会おうとし、彼の大夫は諫めて言った、「中原は帰附するに足らない、それなら楚につくに如かない」と。鄭伯は「不可だ」と言った。彼の大夫は言った、「中原を義あるものと見なせば、われらの喪に乗じて攻めてきます。中原を強大と見なせば、楚に及びません」と。そこで彼を殺したのである。鄭伯髠原はなぜ名を称されるのか。傷を負って帰り、宿舎に着く前に死んだからである。諸侯に会えなかったのに、なぜ「如会」と書くのか。彼の意図を書き表すためである。

(經七十一)陳侯逃歸。

(経七十一)陳侯が逃げ帰った。

襄公(經八一)八年

襄公(経八一)八年

春,王正月,公如晉。

春、周暦正月、襄公は晋に行った。

(經八二)夏,葬鄭僖公。

(経八二)夏、鄭僖公を葬った。

(傳)賊未討,何以書葬?為中國諱也。

(伝)賊がまだ討たれていないのに、なぜ葬りを記すのか。中原のために諱むからである。

(經八三)鄭人侵蔡,獲蔡公子燮。

(経八三)鄭人が蔡に侵入し、蔡の公子燮を捕らえた。

(傳)此侵也,其言獲何?侵而言獲者,適得之也。

(伝)これは侵入であるのに、なぜ「獲」と書くのか。侵入して「獲」と書くのは、たまたま捕らえたのである。

(經八四)季孫宿會晉侯、鄭伯、齊人、宋人、衛人、邾婁人於刑丘。公至自晉。

(経八四)季孫宿は晋侯、鄭伯、斉人、宋人、衛人、邾婁人と刑丘で会合した。襄公は晋から帰った。

(經八五)莒人伐我東鄙。

(経八五)莒人がわが魯の東部の辺境を攻めた。

(經八六)秋,九月,大雩。

(経八六)秋九月、大雩を行った。

(經八七)冬,楚公子貞帥師伐鄭。

(経八七)冬、楚の公子貞が軍を率いて鄭を攻めた。

(經八八)晉侯使士丐來聘。

(経八八)晋侯は士丐を派遣して聘問させた。

襄公(經九一)九年

襄公(経九一)九年

春,宋火。

春、宋で火災があった。

(傳)曷為或言災?或言火?大者曰災,小者曰火。然則內何以不言火?內不言火者,甚之也。何以書?記災也。外災不書,此何以書?為王者之後記災也。

(伝)なぜ「災」と書く場合と「火」と書く場合があるのか。大きいのを災といい、小さいのを火という。では魯の内部ではなぜ「火」と書かないのか。内部に「火」と書かないのは、それを重く見るためである。なぜ記すのか。災害を記すのである。外部の災害は例によって記さないのに、ここではなぜ記すのか。宋は王者の末裔だから、そのために災害を記すのである。

(經九二)夏,季孫宿如晉。

(経九二)夏、季孫宿が晋に行った。

(經九三)五月辛酉,夫人姜氏薨。

(経九三)五月辛酉、夫人姜氏が薨去した。

(經九四)秋,八月癸未,葬我小君繆姜。

(経九四)秋八月癸未、わが魯の小君繆姜を葬った。

(經九五)冬,公會晉侯、宋公、衛侯、曹伯、莒子、邾婁子、滕子、薛伯、杞伯、小邾婁子、齊世子光伐鄭。十有二月己亥,同盟於戲。

(経九五)冬、襄公は晋侯、宋公、衛侯、曹伯、莒子、邾婁子、滕子、薛伯、杞伯、小邾婁子、斉の世子光と会して鄭を攻めた。十二月己亥、ともに戯で会盟した。

(經九六)楚子伐鄭。

(経九六)楚子が鄭を攻めた。

襄公(經十一)十年

襄公(経十一)十年

春,公會晉侯、宋公、衛侯、曹伯、莒子、邾婁子、滕子、薛伯、杞伯、小邾婁子、齊世子光會吳於柤。

春、襄公は晋侯、宋公、衛侯、曹伯、莒子、邾婁子、滕子、薛伯、杞伯、小邾婁子、斉の世子光と会し、柤で呉と会見した。

(經十二)夏,五月甲午,遂滅偪陽。公至自會。

(経十二)夏五月甲午、続いて偪陽を滅ぼした。襄公は会盟から帰った。

(經十三)楚公子貞、鄭公孫輒帥師伐宋。

(経十三)楚の公子貞、鄭の公孫輒が軍を率いて宋を攻めた。

(經十四)晉師伐秦。

(経十四)晋軍が秦を攻めた。

(經十五)秋,莒人伐我東鄙。公會晉侯、宋公、衛侯、曹伯、莒子、邾婁子、齊世子光、滕子、薛伯、杞伯、小邾婁子伐鄭。

(経十五)秋、莒人がわが魯の東部の辺境を攻めた。襄公は晋侯、宋公、衛侯、曹伯、莒子、邾婁子、斉の世子光、滕子、薛伯、杞伯、小邾婁子と会して鄭を攻めた。

(經十六)冬,盜殺鄭公子斐、公子發、公孫輒。戍鄭虎牢。

(経十六)冬、盗賊が鄭の公子斐、公子発、公孫輒を殺した。鄭の虎牢を戍守した。

(傳)孰戍之?諸侯戍之。曷為不言諸侯戍之?離至不可得而序,故言我也。諸侯已取之矣,曷為系之鄭?諸侯莫之主有,故反系之鄭。

(伝)誰が戍守に行ったのか。諸侯が戍守に行ったのである。なぜ諸侯の戍守と書かないのか。別々に到着して順序よく書けなかったので、魯と書いたのである。諸侯がすでに奪い取ったのに、なぜ鄭に係属させるのか。諸侯には主として占有する者がいなかったので、かえって鄭に係属させたのである。

(經十七)楚公子貞帥師救鄭。

(経十七)楚の公子貞が軍を率いて鄭を救った。

(經十八)公至自伐鄭。

(経十八)襄公は鄭討伐の軍から帰った。

襄公(經十一一)十有一年

襄公(経十一一)十有一年

春,王正月,作三軍。

春、周暦正月、三軍を設置した。

(傳)三軍者何?三卿也。作三軍,何以書?譏。何譏爾?古者上卿、下卿,上士、下士。

(伝)三軍とは何か。三人の卿である。三軍を設置したことをなぜ記すのか。譏刺するためである。何を譏刺するのか。古くは上卿・下卿、上士・下士しかなかったのである。

(經十一二)夏,四月,四卜郊,不從,乃不郊。

(経十一二)夏四月、四度郊祭について卜を問うたがいずれも従わず、そこで郊祭を行わなかった。

(經十一三)鄭公孫舍之帥師侵宋。

(経十一三)鄭の公孫舎之が軍を率いて宋に侵入した。

(經十一四)公會晉侯、宋公、衛侯、曹伯、齊世子光、莒子、邾婁子、滕子、薛伯、杞伯、小邾婁子伐鄭。

(経十一四)襄公は晋侯、宋公、衛侯、曹伯、斉の世子光、莒子、邾婁子、滕子、薛伯、杞伯、小邾婁子と会して鄭を攻めた。

(經十一五)秋,七月己未,同盟於京城北。

(経十一五)秋七月己未、ともに京城の北で会盟した。

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