成公(元年~十八年)
◇成公九年
◇成公九年
【經】九年春王正月,杞伯來逆叔姬之喪以歸。公會晉侯、齊侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、莒子、杞伯,同盟於蒲。公至自會。二月伯姬歸於宋。夏,季孫行父如宋致女。晉人來媵。秋七月丙子,齊侯無野卒。晉人執鄭伯。晉欒書帥師伐鄭。冬十有一月,葬齊頃公。楚公子嬰齊帥師伐莒。庚申,莒潰。楚人入鄆。
【経】九年春、周天子の暦の正月、杞伯が叔姫の喪柩を迎えて帰った。成公は晋侯・斉侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯・莒子・杞伯と会合し、蒲でともに盟を結んだ。成公は会から帰った。二月、伯姫が宋に嫁いだ。夏、季孫行父が宋に送嫁に行った。晋人が媵妾を陪送しに来た。秋七月丙子、斉侯無野が死去した。晋人が鄭伯を執えた。晋の欒書が軍を率いて鄭を攻めた。冬十一月、斉頃公を葬った。楚の公子嬰斉が軍を率いて莒を攻めた。庚申、莒国が潰散した。楚人が鄆に入った。
秦人、白狄伐晉。鄭人圍許。城中城。
秦人・白狄が晋を攻めた。鄭人が許を包囲した。中城を修築した。
【傳】九年春,杞桓公來逆叔姬之喪,請之也。杞叔姬卒,為杞故也。逆叔姬,為我也。
【伝】九年春、杞桓公が叔姫の喪柩を迎えに来たのは、請うてこうしたのである。杞叔姫が死去したのは、杞国のためである。叔姫を迎えたのは、わが国のためである。
為歸汶陽之田故,諸侯貳於晉。晉人懼,會於蒲,以尋馬陵之盟。季文子謂範文子曰:“德則不競,尋盟何為?”範文子曰:“勤以撫之,寬以待之,堅強以御之,明神以要之,柔服而伐貳,德之次也。”是行也,將始會吳,吳人不至。
汶水以北の田を返還した故に、諸侯は晋に二心を抱いた。晋人は懼れ、蒲で会見し、馬陵の盟を重温した。季文子は范文子に言った、「徳はすでに争い勝てない。盟を重温して何をなす」と。范文子は言った、「勤労をもって安んじ、寛厚をもって対し、堅強をもって御し、神明をもって要する。服従する者を撫し、二心ある者を伐つ。これは次等の徳です」と。この度の出行で、呉と会見を始めようとしたが、呉人は来なかった。
二月,伯姬歸於宋。
二月、伯姫が宋に嫁いだ。
楚人以重賂求鄭,鄭伯會楚公子成於鄧。
楚人は重礼をもって鄭を求め、鄭伯は楚の公子成と鄧で会見した。
夏,季文子如宋致女,覆命,公享之。賦《韓奕》之五章,穆姜出於房,再拜,曰:“大夫勤辱,不忘先君以及嗣君,施及未亡人。先君猶有望也!敢拜大夫之重勤。”又賦《綠衣》之卒章而入。
夏、季文子が宋に送嫁に行き、帰って復命すると、成公は享礼を設けて招待した。《韓奕》の第五章を賦すると、穆姜が房から出てきて再拜し、言った、「大夫は勤労を辱められ、先君および嗣君を忘れず、未亡人にまで施してくださる。先君もまたこの望みがあったでしょう!敢えて大夫の倍の勤労を拜謝します」と。さらに《緑衣》の末章を賦してから入った。
晉人來媵,禮也。
晋人が媵妾を陪送しに来た。これは礼に合う。
秋,鄭伯如晉。晉人討其貳於楚也,執諸銅鞮。
秋、鄭伯は晋に行った。晋人は彼の楚への二心を討ち、銅鞮で彼を執えた。
欒書伐鄭,鄭人使伯蠲行成,晉人殺之,非禮也。兵交,使在其間可也。楚子重侵陳以救鄭。
欒書が鄭を攻め、鄭人は伯蠲を遣わして和を求めたが、晋人は彼を殺した。これは礼に合わない。交兵の時、使者は中間にあってよい。楚の子重が陳を侵伐して鄭を救った。
晉侯觀于軍府,見鍾儀,問之曰:“南冠而縶者,誰也?”有司對曰:“鄭人所獻楚囚也。”使稅之,召而吊之。再拜稽首。問其族,對曰:“泠人也。”
晋侯は軍府を巡視し、鍾儀を見て問うた、「南冠を戴いて拘系されている者は誰か」と。関係の官员は答えた、「鄭人が献じた楚の俘虜です」と。彼を解かせ、召して慰問した。鍾儀は再拜稽首した。その族氏を問うと、答えて言った、「楽官です」と。
公曰:“能樂乎?”對曰:“先父之職官也,敢有二事?”使與之琴,操南音。
晋侯は言った、「楽を奏でられるか」と。答えて言った、「先父の職官です。敢えて二の事がありましょうか」と。琴を与えると、南方の音調を弾奏した。
公曰:“君王何如?”對曰:“非小人之所得知也。”固問之,對曰:“其為大子也,師保奉之,以朝於嬰齊而夕於側也。不知其他。”公語範文子,文子曰:“楚囚,君子也。言稱先職,不背本也。樂操土風,不忘舊也。稱大子,抑無私也。名其二卿,尊君也。不背本,仁也。不忘舊,信也。無私,忠也。尊君。敏也。仁以接事,信以守之,忠以成之,敏以行之。事雖大,必濟。君盍歸之,使合晉、楚之成。”公從之,重為之禮,使歸求成。
晋侯は言った、「君王はどうか」と。答えて言った、「小人の知るところではありません」と。再三問うと、答えて言った、「彼が太子の時、師保が彼に事え、朝は嬰斉に教えを請い、夜は側に教えを請いました。その他は知りません」と。晋侯は范文子に告げた。文子は言った、「楚の俘虜は君子です。話に先人の職事を称すのは、根本を背かないこと。音楽に郷土の音を弾くのは、故旧を忘れないこと。太子を称すのは、私心を抑えること。二卿の名を称すのは、国君を尊ぶこと。根本を背かないは仁、故旧を忘れないは信、私心なきは忠、国君を尊ぶは敏。仁をもって事に接し、信をもって守り、忠をもって成し、敏をもって行う。事はたとえ大きくても必ず成ります。君王はどうして彼を帰して、晋・楚の講和を成させないのですか」と。晋侯は従い、隆盛に礼を設けて彼を帰して和を求めさせた。
冬十一月,楚子重自陳伐莒,圍渠丘。渠丘城惡,眾潰,奔莒。戊申,楚入渠丘。莒人囚楚公子平,楚人曰:“勿殺!吾歸而俘。”莒人殺之。楚師圍莒。
冬十一月、楚の子重は陳から莒を攻め、渠丘を包囲した。渠丘の城が壊れ、衆は潰散して莒に奔った。戊申、楚人は渠丘に入った。莒人は楚の公子平を囚えた。楚人は言った、「殺すな!われわれはあなたたちの俘虜を返そう」と。莒人は彼を殺した。楚軍は莒を包囲した。
莒城亦惡,庚申,莒潰。楚遂入鄆,莒無備故也。
莒城も壊れ、庚申、莒国は潰散した。楚人はこうして鄆に入った。莒国に備えがなかったからである。
君子曰:“恃陋而不備,罪之大者也;備豫不虞,善之大者也。莒恃其陋,而不修城郭,浹辰之間,而楚克其三都,無備也夫!《詩》曰:‘雖有絲、麻,無棄菅、蒯;雖有姬、姜,無棄蕉萃。凡百君子,莫不代匱。’言備之不可以已也。”
君子は言った、「簡陋を恃んで備えないは、罪の中で最大。あらかじめ意外に備えるは、善の中で最大。莒国は簡陋を恃み、城郭を修めず、十二日の間に楚がその三都邑を攻克した。備えがなかったのだ!《詩》に言う、『糸・麻あれども、菅・蒯を棄てるなかれ。姫・姜あれども、憔悴の人を棄てるなかれ。およそ君子、匱乏に遭わざるはなし』と。備えは止めてはならないと言うのです」と。
秦人、白狄伐晉,諸侯貳故也。
秦人・白狄が晋を攻めたのは、諸侯に二心があったからである。
鄭人圍許,示晉不急君也。是則公孫申謀之,曰:“我出師以圍許,為將改立君者,而紓晉使,晉必歸君。”
鄭人が許を包囲したのは、晋に国君を急いで帰さないと示すためである。これは公孫申の計謀で、言った、「われわれが軍を出して許を包囲し、まさに別の国君を立てようとするかのごとく装い、かつ晋への使者を暫く緩めれば、晋は必ず国君を返すでしょう」と。
城中城,書,時也。
中城を修築したこと、《春秋》に記したのは、時令に合ったからである。
十二月,楚子使公子辰如晉,報鍾儀之使,請修好結成。
十二月、楚子は公子辰を遣わして晋に行かせ、鍾儀の出使に報い、修好して和約を結ぶことを請うた。
◇成公十年
◇成公十年
【經】十年春,衛侯之弟黑背帥師侵鄭。夏四月,五卜郊,不從,乃不郊。
【経】十年春、衛侯の弟黒背が軍を率いて鄭を侵伐した。夏四月、郊祭のために五度卜したが、皆従わず、こうして郊祭を行わなかった。
五月,公會晉侯、齊侯、宋公、衛侯、曹伯伐鄭。齊人來媵。丙午,晉侯獳卒。
五月、成公は晋侯・斉侯・宋公・衛侯・曹伯と会合して鄭を攻めた。斉人が媵妾を陪送しに来た。丙午、晋侯獳が死去した。
秋七月,公如晉。冬十月。
秋七月、成公は晋に行った。冬十月。
【傳】十年春,晉侯使糴伐如楚,報大宰子商之使也。
【伝】十年春、晋侯は糴茷を遣わして楚に行かせた。太宰子商の出使に報いるためである。
衛子叔黑背侵鄭,晉命也。
衛の子叔黒背が鄭を侵伐したのは、晋の命令である。
鄭公子班聞叔申之謀。三月,子如立公子繻。夏四月,鄭人殺繻,立髡頑。
鄭の公子班は叔申の計謀を聞き知った。三月、子如は公子繻を立てた。夏四月、鄭人は繻を殺し、髡頑を立てた。
子如奔許。欒武子曰:“鄭人立君,我執一人焉,何益?不如伐鄭而歸其君,以求成焉。”晉侯有疾。五月,晉立大子州蒲以為君,而會諸侯伐鄭。鄭子罕賂以襄鍾,子然盟於修澤,子駟為質。辛巳,鄭伯歸。
子如は許に逃げ奔った。欒武子は言った、「鄭人が国君を立てたのに、われわれが一人を執えて何の益があろう。鄭を攻めてその国君を返し、和を求めるに如かず」と。晋侯は病があった。五月、晋は太子州蒲を君に立て、諸侯と会合して鄭を攻めた。鄭の子罕は襄公の鍾をもって賂を行い、子然は修沢で盟を結び、子駟が人質となった。辛巳、鄭伯は帰った。
晉侯夢大厲,被髮及地,搏膺而踴,曰:“殺餘孫,不義。餘得請於帝矣!”壞大門及寢門而入。公懼,入於室。又壞戶。公覺,召桑田巫。巫言如夢。公曰:“何如?曰:“不食新矣。”公疾病,求醫於秦。秦伯使醫緩為之。未至,公夢疾為二豎子,曰:“彼,良醫也。懼傷我,焉逃之?”其一曰:“居肓之上,膏之下,若我何?”醫至,曰:“疾不可為也。在肓之上,膏之下,攻之不可,達之不及,藥不至焉,不可為也。”公曰:“良醫也。”厚為之禮而歸之。六月丙午,晉侯欲麥,使甸人獻麥,饋人為之。召桑田巫,示而殺之。將食,張,如廁,陷而卒。小臣有晨夢負公以登天,及日中,負晉侯出諸廁,遂以為殉。
晋侯は夢に大悪鬼を見た。髪は地に披き、胸を捶き足を踏み鳴らして言った、「我が子孫を殺したは不義。私はすでに天帝に請い許された!」大門と寝門を壊して入った。晋侯は懼れて内室に入った。また戸を壊した。晋侯は覚め、桑田の巫を召した。巫の言うことは夢と同じであった。晋侯は言った、「どうか」と。巫は言った、「新麦を食べられないでしょう」と。晋侯は病が重くなり、秦に医を求めた。秦伯は医緩を遣わして治させた。至らないうちに、晋侯は夢に疾病が二つの小人となり、言った、「あの人は良い医だ。われわれを傷つけるのを恐れる。どこに逃げよう」と。その一つは言った、「肓の上・膏の下に居れば、われわれをどうできよう」と。医が至り、言った、「病は治せません。肓の上・膏の下にあり、灸は可ならず、針刺は及ばず、薬は至らず。治せません」と。晋侯は言った、「良い医だ」と。厚く礼をして帰した。六月丙午、晋侯は麦を食べたいと思い、甸人に麦を献じさせ、食人に作らせた。桑田の巫を召し、見せてから殺した。まさに食べようとして、腹が脹り、厠に行き、墜ち込んで死んだ。ある小臣が朝に晋侯を背負って天に登る夢を見て、正午に至り、晋侯を背負って厠から出た。こうして彼を殉葬させた。
鄭伯討立君者,戊申,殺叔申、叔禽。君子曰:“忠為令德,非其人猶不可,況不令乎?”秋,公如晉。晉人止公,使送葬。於是糴伐未反。
鄭伯は君を立てた者を討ち、戊申、叔申・叔禽を殺した。君子は言った、「忠は美徳だが、対象が正しくなければ尚不可。ましてその身が善くないをや」と。秋、成公は晋に行った。晋人は成公を扣留し、葬を送らせた。この時糴茷はまだ帰っていなかった。
冬,葬晉景公。公送葬,諸侯莫在。魯人辱之,故不書,諱之也。
冬、晋景公を葬った。成公は葬を送ったが、諸侯は在場しなかった。魯人はこれを辱としたので、《春秋》に記さない。諱するのだ。
◇成公十一年
◇成公十一年
【經】十有一年春王三月,公至自晉。晉侯使郤犨來聘,己丑,及郤犨盟。
【経】十一年春、周天子の暦の三月、成公は晋から帰った。晋侯は郤犨を遣わして聘問させ、己丑、郤犨と盟を結んだ。
夏,季孫行父如晉。秋,叔孫僑如如齊。冬十月。
夏、季孫行父が晋に行った。秋、叔孫僑如が斉に行った。冬十月。
【傳】十一年春,王三月,公至自晉。晉人以公為貳於楚,故止公。公請受盟,而後使歸。
【伝】十一年春、周天子の暦の三月、成公は晋から帰った。晋人は成公が楚に二心ありとし、だから彼を扣留した。成公は盟を受けることを請い、その後で彼を帰した。
郤犨來聘,且蒞盟。
郤犨が聘問に来て、かつ盟に臨んだ。
聲伯之母不聘,穆姜曰:“吾不以妾為姒。”生聲伯而出之,嫁於齊管於奚。
声伯の母は聘礼を行わなかった。穆姜は言った、「私は妾を妯娌としない」と。声伯を生んでから彼女を休し、斉の管于奚に嫁がせた。
生二子而寡,以歸聲伯。聲伯以其外弟為大夫,而嫁其外妹於施孝叔。郤犨來聘,求婦於聲伯。聲伯奪施氏婦以與之。婦人曰:“鳥獸猶不失儷,子將若何?”曰:“吾不能死亡。”婦人遂行,生二子於郤氏。郤氏亡,晉人歸之施氏,施氏逆諸河,沉其二子。婦人怒曰:“己不能庇其伉儷而亡之,又不能字人之孤而殺之,將何以終?”遂誓施氏。
二子を生んでから寡居し、声伯のもとに帰った。声伯はその外弟を大夫とし、外妹を施孝叔に嫁がせた。郤犨が聘問に来て、声伯に婦を求めた。声伯は施氏の婦人を奪って彼に与えた。婦人は言った、「鳥獣尚且配偶を失わない。あなたはどうするのですか」と。言った、「私はこのため死ぬことはできない」と。婦人はこうして行き、郤氏で二子を生んだ。郤氏が亡びると、晋人は彼女を施氏に返した。施氏は黄河の辺で迎え、彼女の二子を河に沈めた。婦人は怒って言った、「自ら配偶を庇うことができずして彼女を失わせ、また人の孤児を愛せず殺す。何をもって善終しましょうか」と。こうして施氏に誓って絶えた。
夏,季文子如晉報聘,且蒞盟也。
夏、季文子は晋に行って聘問に報い、かつ盟に臨んだ。
周公楚惡惠、襄之逼也,且與伯與爭政,不勝,怒而出。及陽樊,王使劉子復之,盟於鄄而入。三日,復出奔晉。
周公楚は恵王・襄王の族人の逼迫を憎悪し、また伯輿と執政を争い、勝てず、怒って出走した。陽樊に至ると、天子は劉子を遣わして彼を帰らせ、鄄で盟を結んでから城に入った。三日、また晋に出奔した。
秋,宣伯聘於齊,以修前好。
秋、宣伯は斉に聘問し、従前の友好を重修しに来た。
晉郤至與周爭鄇田,王命劉康公、單襄公訟諸晉。郤至曰:“溫,吾故也,故不敢失。”劉子、單子曰:“昔周克商,使諸侯撫封,蘇忿生以溫為司寇,與檀伯達封於河。蘇氏即狄,又不能於狄而奔衛。襄王勞文公而賜之溫,狐氏、陽氏先處之,而後及子。若治其故,則王官之邑也,子安得之?”晉侯使郤至勿敢爭。
晋の郤至は周室と鄇田を争った。天子は劉康公・単襄公に命じて晋に争訟させた。郤至は言った、「温はわれわれの旧有なので、敢えて失いません」と。劉子・単子は言った、「昔周が商を克した時、諸侯に封疆を安んじさせ、蘇忿生が温をもって司寇となり、檀伯達とともに黄河の辺に封じられた。蘇氏は狄人に親しみ、また狄人と相処することができず衛に奔った。襄王は文公を慰労し、温を彼に賜った。狐氏・陽氏が先にそこに住み、その後にやっとあなたに及んだ。もし旧有を追究すれば、それは王官の城邑であり、あなたがどうして得られよう」と。晋侯は郤至に争うことを敢えてさせなかった。
宋華元善於令尹子重,又善於欒武子。聞楚人既許晉糴伐成,而使歸覆命矣。
宋の華元は令尹子重と交好し、また欒武子と交好した。楚人がすでに晋の糴茷に講和を許し、かつ彼を帰して復命させたと聞いた。
冬,華元如楚,遂如晉,合晉、楚之成。
冬、華元は楚に行き、続けて晋に行き、晋・楚の講和を促成した。
秦、晉為成,將會於令狐。晉侯先至焉,秦伯不肯涉河,次於王城,使史顆盟晉侯於河東。晉郤犨盟秦伯於河西。範文子曰:“是盟也何益?齊盟,所以質信也。會所,信之始也。始之不從,其何質乎?”秦伯歸而背晉成。
秦・晋は講和し、令狐で会見しようとした。晋侯が先に至ったが、秦伯は河を渡ることを肯んじず、王城に駐屯し、史颗を遣わして河東で晋侯と盟を結ばせた。晋の郤犨は河西で秦伯と盟を結んだ。范文子は言った、「この盟に何の益があるか。盟をともに結ぶは、信用を質証するため。会見の地点は信用の始め。始めに聴従せずして、また何を質証するか」と。秦伯は帰って晋との和約を背いた。
◇成公十二年
◇成公十二年
【經】十有二年春,周公出奔晉。夏,公會晉侯、衛侯於瑣澤。秋,晉人敗狄於交剛。冬十月。
【経】十二年春、周公が晋に出奔した。夏、成公は晋侯・衛侯と瑣沢で会見した。秋、晋人は交剛で狄人を破った。冬十月。
【傳】十二年春,王使以周公之難來告。書曰:“周公出奔晉。”凡自周無出,周公自出故也。
【伝】十二年春、天子は人を遣わして周公の患難を告げに来させた。《春秋》に記して「周公出奔晋」と。およそ周室から出るのは「出」と言わない。周公は自ら出走したからである。
宋華元克合晉、楚之成。夏五月,晉士燮會楚公子罷、許偃。癸亥,盟於宋西門之外,曰:“凡晉、楚無相加戎,好惡同之,同恤菑危,備救兇患。若有害楚,則晉伐之。在晉,楚亦如之。交贄往來,道路無壅,謀其不協,而討不庭。
宋の華元はついに晋・楚の講和を促成した。夏五月、晋の士燮は楚の公子罷・許偃と会見した。癸亥、宋の西門の外で盟を結び、言った、「およそ晋・楚は相い兵を用いず、好悪を同じくし、ともに災危を体恤し、凶患を備え救う。もし楚を害する者あれば、晋は彼を攻める。晋においては、楚もまたこのよう。使者が往来し、道路は壅塞せず、和協せぬを謀り、天子に朝せぬを討つ。
有渝此盟,明神殛之,俾隊其師,無克胙國。”鄭伯如晉聽成,會於瑣澤,成故也。
(盟辞は続く:)この盟に背く者あれば、神明は彼を誅殺し、その軍を墜落させ、国家を享有させじ」と。鄭伯は晋に行って和約を聴き、瑣沢で会見した。講和の故である。
狄人間宋之盟以侵晉,而不設備。秋,晉人敗狄於交剛。
狄人は宋の盟に乗じて晋を侵伐したが、防備を設けなかった。秋、晋人は交剛で狄人を破った。
晉郤至如楚聘,且蒞盟。楚子享之,子反相,為地室而縣焉。郤至將登,金奏作於下,驚而走出。子反曰:“日雲莫矣,寡君須矣,吾子其入也!”賓曰:“君不忘先君之好,施及下臣,貺之以大禮,重之以備樂。如天之福,兩君相見,何以代此。下臣不敢。”子反曰:“如天之福,兩君相見,無亦唯是一矢以相加遺,焉用樂?寡君須矣,吾子其入也!”賓曰:“若讓之以一矢,禍之大者,其何福之為?世之治也,諸侯鬧於天子之事,則相朝也,於是乎有享宴之禮。享以訓共儉,宴以示慈惠。共儉以行禮,而慈惠以佈政。政以禮成,民是以息。百官承事,朝而不夕,此公侯之所以扞城其民也。故《詩》曰:‘赳赳武夫,公侯干城。’及其亂也,諸侯貪冒,侵欲不忌,爭尋常以盡其民,略其武夫,以為己腹心股肱爪牙。故《詩》曰:‘赳赳武夫,公侯腹心。’天下有道,則公侯能為民干城,而制其腹心。亂則反之。今吾子之言,亂之道也,不可以為法。然吾子,主也,至敢不從?”遂入,卒事。歸,以語範文子。文子曰:“無禮必食言,吾死無日矣夫!”冬,楚公子罷如晉聘,且蒞盟。十二月,晉侯及楚公子罷盟於赤棘。
晋の郤至は楚に聘問し、かつ盟に臨んだ。楚子は享礼を設けて招待し、子反が相礼し、地室を掘って楽器を懸けた。郤至がまさに堂に登らんとすると、金石の楽が下で奏起し、驚いて走り出た。子反は言った、「天はすでに晩い。寡君が待っています。あなたはやはり入りなさい!」賓は言った、「君王は先君の友好を忘れず、下臣に施し、大礼を賜い、さらに齐备の音楽を加えました。もし天が福を賜い、二国君が相見れば、何をもってこれに代えましょうか。下臣は敢えてしません」と。子反は言った、「もし天が福を賜い、二国君が相見るも、ただ一矢をもって相贈るに過ぎない。どうして音楽を用いる必要があろう。寡君が待っています。あなたはやはり入りなさい!」賓は言った、「もし一矢をもって相譲るは、禍患の中で最大です。何の福をなしましょうか。天下が治まる時は、諸侯は天子の事を成し、こうして相朝見し、ここに享宴の礼があります。底本の「鬧」は即ち間。享は恭倹を訓導するため、宴は慈恵を示すため。恭倹は礼を行うため、慈恵は政を布くため。政事は礼をもって成り、百姓はこれによって安息します。百官は職事を承け、朝に朝見して晩に再び朝せない。これは公侯が百姓を扞衛する所以です。だから《詩》に言う、『赳赳たる武夫、公侯の干城なり』と。乱の時に及ぶと、諸侯は貪冒し、侵奪の欲望に忌憚なく、尺寸の地のために争い百姓を尽くし、あの武夫を奪い取って、自らの腹心股肱爪牙とします。だから《詩》に言う、『赳赳たる武夫、公侯の腹心なり』と。天下に道あれば、公侯は百姓の干城と為ることができ、かつその腹心を節制します。乱れれば反対です。今あなたの言は乱の道理です。法則とすべからず。しかしあなたは主人です。至は敢えて聴かざりえましょうか」と。こうして入り、事を終えた。帰って范文子に告げた。文子は言った、「礼なければ必ず言が算せず、われわれの死は幾日もない!」冬、楚の公子罷が晋に聘問し、かつ盟に臨んだ。十二月、晋侯は楚の公子罷と赤棘で盟を結んだ。
◇成公十三年
◇成公十三年
【經】十有三年春,晉侯使郤錡來乞師。三月,公如京師。夏五月,公自京師,遂會晉侯、齊侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、邾人、滕人伐秦。曹伯盧卒於師。秋七月,公至自伐秦。冬,葬曹宣公。
【経】十三年春、晋侯は郤錡を遣わして出兵を請わせた。三月、成公は京師に行った。夏五月、成公は京師から発し、こうして晋侯・斉侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯・邾人・滕人と会合して秦を攻めた。曹伯盧が軍中で死去した。秋七月、成公は秦を攻めたところから帰った。冬、曹宣公を葬った。
【傳】十三年春,晉侯使郤錡來乞師,將事不敬。孟獻子曰:“郤氏其亡乎!禮,身之幹也。敬,身之基也。郤子無基。且先君之嗣卿也,受命以求師,將社稷是衛,而惰,棄君命也。不亡何為?”三月,公如京師。宣伯欲賜,請先使,王以行人之禮禮焉。孟獻子從。王以為介,而重賄之。
【伝】十三年春、晋侯は郤錡を遣わして出兵を請わせたが、事を行うに恭敬でなかった。孟献子は言った、「郤氏はおそらく亡びるだろう!礼は身の軀幹、敬は身の根基。郤子に根基がない。しかも先君の嗣卿で、命を受けて兵を求めに来たは、社稷を衛護することなのに、怠惰とは、国君の命令を棄てることだ。亡びずして何をなす」と。三月、成公は京師に行った。宣伯は賞賜を得ようとして先に出使することを請い、天子は行人の礼をもって接待した。孟献子が従った。天子は彼を副使とし、厚く財貨を贈った。
公及諸侯朝王,遂從劉康公、成肅公會晉侯伐秦。成子受脤於社,不敬。劉子曰:“吾聞之,民受天地之中以生,所謂命也。是以有動作禮義威儀之則,以定命也。能者養以之福,不能者敗以取禍。是故君子勤禮,小人盡力,勤禮莫如致敬,盡力莫如敦篤。敬在養神,篤在守業。國之大事,在祀與戎,祀有執膰,戎有受脤,神之大節也。今成子惰,棄其命矣,其不反乎?”夏四月戊午,晉侯使呂相絕秦,曰:“昔逮我獻公,及穆公相好,戮力同心,申之以盟誓,重之以昏姻。天禍晉國,文公如齊,惠公如秦。無祿,獻公即世,穆公不忘舊德,俾我惠公用能奉祀於晉。又不能成大勳,而為韓之師。亦悔於厥心,用集我文公,是穆之成也。文公躬擐甲冑,跋履山川,逾越險阻,征東之諸侯,虞、夏、商、周之胤,而朝諸秦,則亦既報舊德矣。鄭人怒君之疆埸,我文公帥諸侯及秦圍鄭。秦大夫不詢於我寡君,擅及鄭盟。諸侯疾之,將致命於秦。
成公は諸侯とともに天子に朝見し、こうして劉康公・成粛公に従い晋侯と会合して秦を攻めた。成子は社で祭肉を受けたが、恭敬でなかった。劉子は言った、「私が聞くに、人は天地の中和の気を禀受して生まれ、これを命と言う。それゆえ動作礼義威儀の法則があり、命を安んじる。能くする者はこれを養って福を得、能くせぬ者はこれを敗って禍を取る。だから君子は礼に勤しみ、小人は力を尽くす。礼に勤しむは敬を致すに如くはなく、力を尽くすは敦厚篤実に如くはない。敬は神を奉養するに在り、篤は本業を守るに在り。国家の大事は祭祀と軍事に在り、祭祀には祭肉の頒布あり、軍事には祭肉の授受あり。神に事える大節である。今成子は怠惰で、その命を棄てた。おそらく帰らないだろう」と。夏四月戊午、晋侯は呂相を遣わして秦と絶交させ、言わせた、「昔わが献公から穆公と相好し、力を合わせ心を同じくし、盟誓をもって申明し、婚姻をもって加重した。天が晋に禍を降し、文公は斉に行き、恵公は秦に行った。不幸、献公が死去し、穆公は旧徳を忘れず、わが恵公をして晋で奉祀せしめた。また大功を成すことができず、韓の出兵があった。後に心に悔い、これによってわが文公を成した。これは穆公の成全である。文公は自ら甲冑を身に着け、山川を跋涉し、険阻を越え、東方の諸侯、虞・夏・商・周の後裔を征召して秦に朝見せしめた。すなわちすでに旧徳に報いた。鄭人が君王の辺疆を怒らせると、わが文公は諸侯を率い秦とともに鄭を包囲した。秦の大夫はわが寡君に問わず、擅自に鄭と盟を結んだ。諸侯は憎悪し、秦に対し命を賭けようとした。
文公恐懼,綏靜諸侯,秦師克還無害,則是我有大造於西也。無祿,文公即世,穆為不弔,蔑死我君,寡我襄公,迭我淆地,奸絕我好,伐我保城,殄滅我費滑,散離我兄弟,撓亂我同盟,傾覆我國家。我襄公未忘君之舊勳,而懼社稷之隕,是以有殽之師。猶願赦罪於穆公,穆公弗聽,而即楚謀我。天誘其衷,成王殞命,穆公是以不克逞志於我。穆、襄即世,康、靈即位。康公,我之自出,又欲闕翦我公室,傾覆我社稷,帥我蝥賊,以來蕩搖我邊疆。我是以有令狐之役。康猶不悛,入我河曲,伐我涑川,俘我王官,翦我羈馬,我是以有河曲之戰。東道之不通,則是康公絕我好也。
(呂相は続けて言う:)文公は恐懼して諸侯を安んじ、秦軍が害を受けず帰ることができた。これはわれわれが西方に大いに功労あることである。不幸、文公が死去し、穆公は善く弔問せず、わが亡き国君を蔑視し、わが襄公を欺寡し、突然わが殽地を侵犯した。底本の「淆」は即ち殽。わが友好を断絶し、わが城堡を攻打し、わが費滑を滅絶し、わが兄弟を離散し、わが同盟を扰乱し、わが国家を傾覆した。わが襄公は君王の旧日の功労を忘れなかったが、社稷の隕落を恐れ、これによって殽の役があった。なお穆公に罪を請うことを願ったが、穆公は聴かず、かえって楚に親しんでわれわれを謀った。天がその心意を導き、成王が命を喪い、穆公はこれによってわれわれに志を逞しゅうできなかった。穆公・襄公が死去し、康公・霊公が即位した。康公はわれわれから出た者で、またわが公室を亏缺翦除し、わが社稷を傾覆し、わが蟊賊を率いて、わが辺疆を動揺させようとした。われわれはこれによって令狐の役があった。康公は尚改悔せず、わが河曲に入り、わが涑川を攻め、わが王官を俘掠し、わが羈馬を翦除した。われわれはこれによって河曲の交戦があった。東の道路が通ぜぬは、康公がわが友好を断絶したからである。
及君之嗣也,我君景公引領西望曰:‘庶撫我乎!’君亦不惠稱盟,利吾有狄難,入我河縣,焚我箕、郜,芟夷我農功,虔劉我邊陲。我是以有輔氏之聚。
(呂相は続けて言う:)君王が位を継ぐに及び、わが国君景公は頸を伸ばして西を望み、言った、『おそらくわれわれを安んじてくれるだろう!』君王も恵を施して盟を行わず、われわれに狄の患難あるを利用し、わが黄河の辺の県に入り、わが箕・郜を焚燒し、わが農事の収穫を刈り取り、わが辺境を殺害した。われわれはこれによって輔氏の聚集があった。
“君亦悔禍之延,而欲徼福於先君獻、穆,使伯車來,命我景公曰:‘吾與女同好棄惡,復修舊德,以追念前勳,’言誓未就,景公即世,我寡君是以有令狐之會。君又不祥,背棄盟誓。白狄及君同州,君之仇讎,而我之昏姻也。君來賜命曰:‘吾與女伐狄。’寡君不敢顧昏姻,畏君之威,而受命於吏。君有二心於狄,曰:‘晉將伐女。’狄應且憎,是用告我。楚人惡君之二三其德也,亦來告我曰:‘秦背令狐之盟,而來求盟於我:“昭告昊天上帝、秦三公、楚三王曰:‘餘雖與晉出入,餘唯利是視。’不穀惡其無成德,是用宣之,以懲不壹。”諸侯備聞此言,斯是用痛心疾首,暱就寡人。寡人帥以聽命,唯好是求。君若惠顧諸侯,矜哀寡人,而賜之盟,則寡人之願也。其承寧諸侯以退,豈敢徼亂。君若不施大惠,寡人不佞,其不能以諸侯退矣。敢盡布之執事,俾執事實圖利之!”秦桓公既與晉厲公為令狐之盟,而又召狄與楚,欲道以伐晉,諸侯是以睦於晉。晉欒書將中軍,荀庚佐之。士燮將上軍,郤錡佐之。韓厥將下軍,荀罃佐之。
(呂相は続けて言う:)「君王もまた禍患の延長を悔い、先君献公・穆公に福を求めんとして、伯車を遣わして来て、わが景公に命じて言った、『我と汝とともに友好し、仇恨を棄て、改めて旧徳を修明し、従前の功勲を追念しよう』と。誓言はまだ成らないうちに景公が死去し、わが寡君はこれによって令狐の会見があった。君王はまた善くせず、盟誓を背棄した。白狄は君王と同じく一州に在り、君王の仇讐で、しかもわれわれの婚姻です。君王は来て命を賜い言った、『我と汝と狄人を攻めん』と。寡君は婚姻を顧念することを敢えてせず、君王の威を畏れ、吏人から命令を受けました。君王は狄人に二心を抱き、言った、『晋はまさにあなたたちを攻めんとしている』と。狄人は表面は許し心に憎悪し、これによってわれわれに告げました。楚人は君王の徳の反復を悪み、また来てわれわれに告げて言った、『秦は令狐の盟を背棄し、かえってわれわれに盟を求めて言う、明らかに昊天上帝・秦の三公・楚の三王に祷告して言う、私は晋と来往するが、私はただ利益を見るのみ、と。不穀は彼の成徳なきを悪み、これによって宣揚し、不専一を懲戒する』と。諸侯は皆これらの言を聞き、これによって痛心疾首し、寡人に親しみました。寡人は彼らを率いて命令を聴き、ただ友好を求めます。君王がもし諸侯を恵顧し、寡人を憐れみ、盟を賜われば、これが寡人の願いです。諸侯を安定させて退兵することを奉じ、あえて乱を求めましょうか。君王がもし大恵を施さなければ、寡人は不才、諸侯を率いて退くことができません。敢えてすべて執事に陳述し、執事が利害を切実に考慮することを望みます!」秦桓公はすでに晋厲公と令狐の盟を結んでいたのに、また狄人と楚を召し、彼らを導いて晋を攻めようとした。諸侯はこれによって晋と和睦した。晋の欒書が中軍を率い、荀庚が輔佐した。士燮が上軍を率い、郤錡が輔佐した。韓厥が下軍を率い、荀䓨が輔佐した。
