成公(元年~十八年)
趙旃將新軍,郤至佐之。郤毅御戎,欒針為右。孟獻子曰:“晉帥乘和,師必有大功。”五月丁亥,晉師以諸侯之師及秦師戰於麻隧。秦師敗績,獲秦成差及不更女父。曹宣公卒於師。師遂濟涇,及侯麗而還。迓晉侯於新楚。
趙旃が新軍を率い、郤至が輔佐した。郤毅が戎車を御し、欒鍼が車右となった。孟献子は言った、「晋の帥と車乘が和睦すれば、軍は必ず大功がある」と。五月丁亥、晋軍は諸侯の軍を率いて秦軍と麻隧で交戦した。秦軍は大敗し、秦の成差と不更女父を俘獲した。曹宣公は軍中で死去した。軍はこうして涇水を渡り、侯麗に至って帰った。新楚で晋侯を迎えた。
成肅公卒於瑕。
成粛公は瑕で死去した。
六月丁卯夜,鄭公子班自訾求入於大宮,不能,殺子印、子羽。反軍於市,己巳,予駟帥國人盟於大宮,遂從而盡焚之,殺子如、子駹、孫叔、孫知。
六月丁卯の夜、鄭の公子班は訾から太宮に入ることを請い、叶わず、子印・子羽を殺した。返って市に駐軍した。己巳、子駟は国人を率いて太宮で盟を結んだ。底本の「予駟」は即ち子駟。こうして追いつき彼らをすべて焼き、子如・子駹・孫叔・孫知を殺した。
曹人使公子負芻守,使公子欣時逆曹伯之喪。秋,負芻殺其大子而自立也。
曹人は公子負芻を留守させ、公子欣時を遣わして曹伯の喪柩を迎えさせた。秋、負芻は太子を殺して自立した。
諸侯乃請討之,晉人以其役之勞,請俟他年。冬,葬曹宣公。既葬,子臧將亡,國人皆將從之。成公乃懼,告罪,且請焉,乃反,而致其邑。
諸侯はこうして討伐を請うたが、晋人は彼らがこの度の軍役の労苦であったため、他年を待つことを請うた。冬、曹宣公を葬った。葬り終え、子臧はまさに逃亡しようとし、国人は皆彼に従おうとした。成公はこうして懼れ、罪を認め、かつ彼に留まることを請い、やっと帰り、自らの城邑を返還した。
◇成公十四年
◇成公十四年
【經】十有四年春王正月,莒子朱卒。夏,衛孫林父自晉歸於衛。秋,叔孫僑如如齊逆女。鄭公子喜帥師伐許。九月,僑如以夫人婦姜氏至自齊。冬十月庚寅,衛侯臧卒。秦伯卒。
【経】十四年春、周天子の暦の正月、莒子朱が死去した。夏、衛の孫林父が晋から衛に帰った。秋、叔孫僑如が斉に夫人を迎えに行った。鄭の公子喜が軍を率いて許を攻めた。九月、僑如は夫人婦姜氏を連れて斉から帰った。冬十月庚寅、衛侯臧が死去した。秦伯が死去した。
【傳】十四年春,衛侯如晉,晉侯強見孫林父焉,定公不可。夏,衛侯既歸,晉侯使郤犨送孫林父而見之。衛侯欲辭,定姜曰:“不可。是先君宗卿之嗣也,大國又以為請,不許,將亡。雖惡之,不猶愈於亡乎?君其忍之!安民而宥宗卿,不亦可乎?”衛侯見而復之。
【伝】十四年春、衛侯は晋に行き、晋侯は彼に孫林父に見えることを強いたが、定公は同意しなかった。夏、衛侯はすでに帰り、晋侯は郤犨を遣わして孫林父を送って彼に見えさせた。衛侯は辞退しようとしたが、定姜は言った、「いけません。これは先君の宗卿の後嗣で、大国もまたこれをもって請います。許さなければ、まさに亡びようとしています。たとえ彼を悪んでも、返さないことが亡びるよりまさりますか。君王の忍耐を請います!百姓を安んじかつ宗卿を寛宥するは、また可ではありませんか」と。衛侯は接見し彼を復職させた。
衛侯饗苦成叔,甯惠子相。苦成叔傲。寧子曰:“苦成家其亡乎!古之為享食也,以觀威儀、省禍福也。故《詩》曰:‘兕觥其觩,旨酒思柔,彼交匪傲,萬福來求。’今夫子傲,取禍之道也。”
衛侯は饗礼を設けて苦成叔を招待し、寧恵子が相礼した。苦成叔は傲慢であった。寧子は言った、「苦成のこの家はおそらく亡びるだろう!古に享食を設けるは、威儀を観察し禍福を省察するため。だから《詩》に言う、『兕觥は曲がり、美酒は柔らか、相交り傲慢ならず、万福来たり求めん』と。今この傲慢は、禍を取る道です」と。
秋,宣伯如齊逆女。稱族,尊君命也。
秋、宣伯は斉に夫人を迎えに行った。族氏を記したのは、国君の命令を尊重するためである。
八月,鄭子罕伐許,敗焉。戊戌,鄭伯復伐許。庚子,入其郛。許人平以叔申之封。
八月、鄭の子罕が許を攻め、戦敗した。戊戌、鄭伯は再び許を攻めた。庚子、外城に入った。許人は叔申の封地をもって講和した。
九月,僑如以夫人婦姜氏至自齊。舍族,尊夫人也。故君子曰:“《春秋》之稱,微而顯,志而晦,婉而成章,盡而不汙,懲惡而勸善。非聖人誰能修之?”衛侯有疾,使孔成子、甯惠子立敬姒之子衎以為大子。冬十月,衛定公卒。
九月、僑如は夫人婦姜氏を連れて斉から帰った。族氏を記さないのは、夫人を尊重するためである。だから君子は言った、「《春秋》の称谓は、隠微にして顕明、記載にして含蓄、委婉にして成章、詳尽にして歪曲せず、悪行を懲戒し善行を勧勉する。聖人でなければ誰がこれを修訂できよう」と。衛侯は病があり、孔成子・寧恵子に敬姒の子衎を太子に立てさせた。冬十月、衛定公が死去した。
夫人姜氏既哭而息,見大子之不哀也,不內酌飲。嘆曰:“是夫也,將不唯衛國之敗,其必始於未亡人!烏呼!天禍衛國也夫!吾不獲鱄也使主社稷。”大夫聞之,無不聳懼。孫文子自是不敢舍其重器於衛,盡置諸戚,而甚善晉大夫。
夫人姜氏は哭き終えて休み、太子が悲哀でないのを見て、水飲を進めなかった。嘆息して言った、「この人は、衛国を敗壊するだけでなく、必ず未亡人から始めるだろう!ああ!天は衛国に禍を降すのか!私は鱄を得て社稷を主持させることができなかった」と。大夫はこれを聞いて、驚懼せぬ者はなかった。孫文子はこれより貴重な器物を衛都に置くことを敢えてせず、すべて戚に置き、かつ晋の大夫と甚だ結びついた。
◇成公十五年
◇成公十五年
【經】十有五年春王二月,葬衛定公。三月乙巳,仲嬰齊卒。癸丑,公會晉侯、衛侯、鄭伯、曹伯、宋世子成、齊國佐,邾人同盟於戚。晉侯執曹伯歸於京師。公至自會。夏六月,宋公固卒。楚子伐鄭。秋八月庚辰,葬宋共公。宋華元出奔晉。宋華元自晉歸於宋。宋殺其大夫山。宋魚石出奔楚。冬十有一月,叔孫僑如會晉士燮、齊高無咎、宋華元、衛孫林父、鄭公子、邾人會吳於鍾離。
【経】十五年春、周天子の暦の二月、衛定公を葬った。三月乙巳、仲嬰斉が死去した。癸丑、成公は晋侯・衛侯・鄭伯・曹伯・宋世子成・斉の国佐・邾人と戚でともに盟を結んだ。晋侯は曹伯を執えて京師に送った。成公は会から帰った。夏六月、宋公固が死去した。楚子が鄭を攻めた。秋八月庚辰、宋共公を葬った。宋の華元が晋に出奔した。宋の華元が晋から宋に帰った。宋はその大夫山を殺した。宋の魚石が楚に出奔した。冬十一月、叔孫僑如は晋の士燮・斉の高無咎・宋の華元・衛の孫林父・鄭の公子𩔖・邾人と会合し、鍾離で呉に会見した。
許遷於葉。
許は葉に遷った。
【傳】十五年春,會於戚,討曹成公也。執而歸諸京師。書曰:“晉侯執曹伯。”不及其民也。凡君不道於其民,諸侯討而執之,則曰某人執某侯。不然,則否。
【伝】十五年春、戚で会見したのは、曹成公を討つためである。執えて京師に送った。《春秋》に記して「晋侯執曹伯」と。彼の罪が百姓に延及しなかったからである。およそ国君が百姓に無道で、諸侯が討ちこれを執えれば、某人執某侯と言う。そうでなければこのように書かない。
諸侯將見子臧於王而立之,子臧辭曰:“《前志》有之,曰:‘聖達節,次守節,下失節。’為君,非吾節也。雖不能聖,敢失守乎?”遂逃,奔宋。
諸侯は子臧を天子に進見させて立てようとしたが、子臧は推辞して言った、「《前志》にこの言があります。『聖人は節義に通達し、次は節義を守り、下等は節義を失う』と。国君を為すは、私の節ではありません。たとえ聖人になれなくとも、敢えて守ることを失いましょうか」と。こうして逃げ走り、宋に向かった。
夏六月,宋共公卒。
夏六月、宋共公が死去した。
楚將北師。子囊曰:“新與晉盟而背之,無乃不可乎?”子反曰:“敵利則進,何盟之有?”申叔時老矣,在申,聞之,曰:“子反必不免。信以守禮,禮以庇身,信禮之亡,欲免得乎?”楚子侵鄭,及暴隧,遂侵衛,及首止。鄭子罕侵楚,取新石。欒武子欲報楚,韓獻子曰:“無庸,使重其罪,民將叛之。無民,孰戰?”秋八月,葬宋共公。於是華元為右師,魚石為左師,蕩澤為司馬,華喜為司徒,公孫師為司城,向為人為大司寇,鱗朱為少司寇,向帶為大宰,魚府為少宰。
楚は北に出兵しようとした。子囊は言った、「新たに晋と盟を結んだのに背棄するは、おそらく不可でしょう」と。子反は言った、「敵に利あれば進む。何の盟があろう」と。申叔時はすでに年老いて申にいたが、聞いて言った、「子反は必ず免れない。信用は礼を守るため、礼は身を庇うため。信用と礼が亡びて、禍を免れようとすることができますか」と。楚子は鄭を侵伐し、暴隧に至り、続けて衛を侵伐し、首止に至った。鄭の子罕は楚を侵伐し、新石を取った。欒武子は楚に報復しようとしたが、韓献子は言った、「用いません。彼らに罪を加重させれば、百姓は背くでしょう。百姓なくして、誰と交戦しましょう」と。秋八月、宋共公を葬った。この時華元は右師、魚石は左師、蕩沢は司馬、華喜は司徒、公孫師は司城、向為人は大司寇、鱗朱は少司寇、向帯は太宰、魚府は少宰であった。
蕩澤弱公室,殺公子肥。華元曰:“我為右師,君臣之訓,師所司也。今公室卑而不能正,吾罪大矣。不能治官,敢賴寵乎?”乃出奔晉。
蕩沢は公室を削弱し、公子肥を殺した。華元は言った、「私が右師を為し、君臣の教訓は師の掌るところ。今公室が卑微なのに正すことができず、私の罪は大きい。官職を治めることができず、敢えて寵信に倚りましょうか」と。こうして晋に出奔した。
二華,戴族也;司城,莊族也;六官者,皆桓族也。魚石將止華元,魚府曰:“右師反,必討,是無桓氏也。”魚石曰:“右師苟獲反,雖許之討,必不敢。
二華氏は戴族、司城は荘族、六位の官員は皆桓族。魚石は華元を遮り止めようとしたが、魚府は言った、「右師が帰れば、必ず討伐し、これでは桓氏がなくなります」と。魚石は言った、「右師がもし帰ることができれば、たとえ討伐を許しても、必ず敢えてしないでしょう。
且多大功,國人與之,不反,懼桓氏之無祀於宋也。右師討,猶有戌在,桓氏雖亡,必偏。”魚石自止華元於河上。請討,許之,乃反。使華喜、公孫師帥國人攻蕩氏,殺子山。書曰:“宋殺大夫山。”言背其族也。
(魚石は続けて言う:)しかも功が大きく、国人が親附する。帰らなければ、桓氏が宋で祭祀がなくなることを恐れます。右師が討伐しても、なお戌が在り、桓氏はたとえ亡びても、必ず一部に過ぎないでしょう」と。魚石は自ら黄河の辺に至り華元を遮り止めた。華元は討伐を請い、許されて、やっと帰った。華喜・公孫師に国人を率いて蕩氏を攻めさせ、子山を殺した。《春秋》に記して「宋殺大夫山」と。彼が自らの族を背棄したと言うのだ。
魚石、向為人、鱗朱、向帶、魚府出舍於睢上。華元使止之,不可。冬十月,華元自止之,不可。乃反。魚府曰:“今不從,不得入矣。右師視速而言疾,有異志焉。若不我納,今將馳矣。”登丘而望之,則馳。聘而從之,則決睢澨,閉門登陴矣。左師、二司寇、二宰遂出奔楚。華元使向戌為左師,老佐為司馬,樂裔為司寇,以靖國人。
魚石・向為人・鱗朱・向帯・魚府は城を出て睢水の辺に住んだ。華元は人を遣わして彼らを止めたが、同意しなかった。冬十月、華元は自ら行って止めたが、同意しなかった。こうして帰った。魚府は言った、「今従わなければ、城に入ることができません。右師は目光が迅速で話が急、別の打算があります。もしわれわれを接納しなければ、今まさに車を馳せようとしています」と。丘に登って眺めると、果たして車を馳せていた。車を駆って追うと、華元はすでに睢水の堤防を掘き開き、城門を閉じて城の女牆に登っていた。左師・二司寇・二宰はこうして楚に出奔した。華元は向戌を左師とし、老佐を司馬とし、楽裔を司寇として、国人を安んじた。
晉三郤害伯宗,譖而殺之,及欒弗忌。伯州犁奔楚。韓獻子曰:“郤氏其不免乎!善人,天地之紀也,而驟絕之,不亡何待?”初,伯宗每朝,其妻必戒之曰:“‘盜憎主人,民惡其上。’子好直言,必及於難。”
晋の三郤氏は伯宗を陥れ、誣して彼を殺し、および欒弗忌を殺した。伯州犁は楚に逃げ奔った。韓献子は言った、「郤氏はおそらく免れないだろう!善人は天地の紀綱なのに、屡々滅絶する。亡びずして何を待つか」と。初め、伯宗は朝するたびに、その妻は必ず誡めて言った、「『盗賊は主人を憎み、百姓は上に在る者を悪む』と。あなたは直言を好むから、必ず患難に遭うでしょう」と。
十一月,會吳於鍾離,始通吳也。
十一月、鍾離で呉に会見したのは、始めて呉と往来するためである。
許靈公畏逼於鄭,請遷於楚。辛丑,楚公子申遷許於葉。
許霊公は鄭の逼迫を懼れ、楚に遷ることを請うた。辛丑、楚の公子申は許を葉に遷した。
◇成公十六年
◇成公十六年
【經】十有六年春王正月,雨,木冰。夏四月辛未,滕子卒。鄭公子喜帥師侵宋。六月丙寅朔,日有食之。晉侯使欒黶來乞師。甲午晦,晉侯及楚子、鄭伯戰於鄢陵。楚子、鄭師敗績。楚殺其大夫公子側。秋,公會晉侯、齊侯、衛侯、宋華元、邾人於沙隨,不見公。公至自會。公會尹子、晉侯、齊國佐、邾人伐鄭。
【経】十六年春、周天子の暦の正月、雨が降り木に氷が結した。夏四月辛未、滕子が死去した。鄭の公子喜が軍を率いて宋を侵伐した。六月丙寅の朔、日食があった。晋侯は欒黶を遣わして出兵を請わせた。甲午の月末、晋侯は楚子・鄭伯と鄢陵で交戦した。楚子・鄭軍は大敗した。楚はその大夫公子側を殺した。秋、成公は晋侯・斉侯・衛侯・宋の華元・邾人と沙随で会見したが、成公に見えなかった。成公は会から帰った。成公は尹子・晋侯・斉の国佐・邾人と会合して鄭を攻めた。
曹伯歸自京師。九月,晉人執季孫行父,舍之於苕丘。冬十月乙亥,叔孫僑如出奔齊。十有二月乙丑,季孫行父及晉郤犨盟於扈。公至自會。乙酉,刺公子偃。
曹伯は京師から帰った。九月、晋人は季孫行父を執え、苕丘に置いた。冬十月乙亥、叔孫僑如が斉に出奔した。十二月乙丑、季孫行父は晋の郤犨と扈で盟を結んだ。成公は会から帰った。乙酉、公子偃を刺し殺した。
【傳】十六年春,楚子自武城使公子成以汝陰之田求成於鄭。鄭叛晉,子駟從楚子盟於武城。
【伝】十六年春、楚子は武城から公子成を遣わし、汝陰の田をもって鄭に和を求めさせた。鄭は晋に背き、子駟は楚子に従い武城で盟を結んだ。
夏四月,滕文公卒。
夏四月、滕文公が死去した。
鄭子罕伐宋,宋將鉏、樂懼敗諸汋陂。退,舍於夫渠,不儆,鄭人覆之,敗諸汋陵,獲將鉏、樂懼。宋恃勝也。
鄭の子罕が宋を攻め、宋の将鉏・楽懼が汋陂で彼らを破った。宋軍が退き、夫渠に宿り、警戒せず、鄭人は伏兵を設け、汋陵で彼らを破り、将鉏・楽懼を俘獲した。宋が勝利を恃んだからである。
衛侯伐鄭,至於鳴雁,為晉故也。
衛侯は鄭を攻め、鳴雁に至った。晋のためである。
晉侯將伐鄭,範文子曰:“若逞吾願,諸侯皆叛,晉可以逞。若唯鄭叛,晉國之憂,可立俟也。”欒武子曰:“不可以當吾世而失諸侯,必伐鄭。”乃興師。
晋侯は鄭を攻めようとした。范文子は言った、「もしわが願いを満たすなら、諸侯が皆背いてこそ、晋は緩められる。もし鄭のみが背けば、晋の憂患は立って待つべし」と。欒武子は言った、「われわれの世で諸侯を失ってはならない。必ず鄭を攻める」と。こうして兵を起こした。
欒書將中軍,士燮佐之。郤錡將上軍,荀偃佐之。韓厥將下軍,郤至佐新軍,荀罃居守。郤犨如衛,遂如齊,皆乞師焉。欒黶來乞師,孟獻子曰:“有勝矣。”
欒書が中軍を率い、士燮が輔佐した。郤錡が上軍を率い、荀偃が輔佐した。韓厥が下軍を率い、郤至が新軍を輔佐し、荀䓨が留守を務めた。郤犨は衛に行き、続けて斉に行き、皆出兵を請うた。欒黶が出兵を請いに来ると、孟献子は言った、「勝算がある」と。
戊寅,晉師起。
戊寅、晋軍が出発した。
鄭人聞有晉師,使告於楚,姚句耳與往。楚子救鄭,司馬將中軍,令尹將左,右尹子辛將右。過申,子反入見申叔時,曰:“師其何如?”對曰:“德、刑、詳、義、禮、信,戰之器也。德以施惠,刑以正邪,詳以事神,義以建利,禮以順時,信以守物。民生厚而德正,用利而事節,時順而物成。上下和睦,周旋不逆,求無不具,各知其極。故《詩》曰:‘立我烝民,莫匪爾極。’是以神降之福,時無災害,民生敦龐,和同以聽,莫不盡力以從上命,致死以補其闕。此戰之所由克也。今楚內棄其民,而外絕其好,瀆齊盟,而食話言,奸時以動,而疲民以逞。民不知信,進退罪也。人恤所厎,其誰致死?子其勉之!吾不復見子矣。”
鄭人は晋軍あるを聞き、人を遣わして楚に告げ、姚句耳がともに往った。楚子は鄭を救い、司馬が中軍を率い、令尹が左軍を率い、右尹子辛が右軍を率いた。申を過ぐると、子反は入って申叔時に見え、言った、「軍はどうでしょう」と。答えて言った、「徳・刑・祥・義・礼・信は、交戦の器具です。徳は恩惠を施すため、刑は邪僻を正すため、祥は神に事えるため、義は利益を建てるため、礼は時令に順うため、信は事物を守るため。民生が丰厚なれば徳行が端正し、器用が便利なれば事に節あり、時令が順なれば万物が成る。上下が和睦し、周旋が悖逆せず、需用に備わらざるなく、各々準則を知る。だから《詩》に言う、『我が衆民を安んじ、汝の準則ならざるなし』と。これによって神は福を降し、時令に災害なく、民生は敦厚充実し、和同して聴従し、上命に力を尽くして従わぬなく、死をもって欠を補う。これが交戦して勝てる所以です。今楚は内に百姓を棄て、外に友好を絶ち、共同の盟を瀆し、言が算せず、時令に背いて出し、百姓を疲弊させて逞快する。百姓は信用を知らず、進退は皆罪です。人々は皆自らの帰する所を憂え、誰が死を致そうか。あなたは努力しなさい!私はもうあなたに会いません」と。
姚句耳先歸,子駟問焉,對曰:“其行速,過險而不整。速則失志,不整喪列。
姚句耳が先に帰り、子駟が彼に問うと、答えて言った、「彼らは行くこと速く、険地を過ぐるに整斉せず。速ければ思慮を失い、整斉せざれば行列を喪う。
志失列喪,將何以戰?楚懼不可用也。”
(姚句耳は続けて言う:)思慮を失い行列を喪えば、何をもって交戦しましょうか。楚はおそらく用いられません」と。
五月,晉師濟河。聞楚師將至,範文子欲反,曰:“我偽逃楚,可以紓憂。
五月、晋軍は河を渡った。楚軍がまさに至ると聞き、范文子は返そうとして言った、「われわれが楚を逃れ避けるふりをすれば、憂患を緩められます。
夫合諸侯,非吾所能也,以遺能者。我若群臣輯睦以事君,多矣。”武子曰:“不可。”
(范文子は続けて言う:)諸侯を会合するは、私の能くするところではなく、能くする者に留めます。われわれが群臣として和睦して国君に事えれば、足ります」と。武子は言った、「いけない」と。
六月,晉、楚遇於鄢陵。範文子不欲戰,郤至曰:“韓之戰,惠公不振旅。
六月、晋・楚は鄢陵で遇った。范文子は交戦を欲しなかった。郤至は言った、「韓の交戦に、恵公は軍を整えて帰ることができず。
箕之役,先軫不反命,邲之師,荀伯不復從。皆晉之恥也。子亦見先君之事矣。
(郤至は続けて言う:)箕の役に、先軫は帰って復命することができず、邲の一軍は、荀伯は再び従うことができなかった。皆晋の恥です。あなたも先君の事を見ています。
今我闢楚,又益恥也。”文子曰:“吾先君之亟戰也,有故。秦、狄、齊、楚皆強,不盡力,子孫將弱。今三強服矣,敵楚而已。唯聖人能外內無患,自非聖人,外寧必有內憂。盍釋楚以為外懼乎?”甲午晦,楚晨壓晉軍而陳。軍吏患之。範匄趨進,曰:“塞井夷灶,陳于軍中,而疏行首。晉、楚唯天所授,何患焉?”文子執戈逐之,曰:“國之存亡,天也。童子何知焉?”欒書曰:“楚師輕窕,固壘而待之,三日必退。退而擊之,必獲勝焉。”郤至曰:“楚有六間,不可失也:其二卿相惡;王卒以舊;鄭陳而不整;蠻軍而不陳;陳不違晦;在陳而囂,合而加囂,各顧其後,莫有鬥心。舊不必良,以犯天忌。我必克之。”
(郤至は続けて言う:)今われわれが楚を避ければ、また恥を増します」と。文子は言った、「わが先君が屡々交戦したのは、故がある。秦・狄・斉・楚は皆強く、力を尽くさなければ、子孫は弱くなったでしょう。今三つの強国はすでに服し、敵は楚のみ残る。聖人のみが内外に憂患なくできる。自ら聖人でなければ、外が安寧すれば必ず内憂あり。どうして楚を放って外部の戒懼としないのか」と。甲午の月末、楚軍は朝に晋軍に迫り陣を列した。軍吏は憂えた。范匄が歩を進めて言った、「井を填め竈を平げ、軍中で陣を列し、行列の前鋒を疎にせよ。晋・楚はただ天が誰に授けるかを見るのみ。何を憂える」と。文子は戈を執って彼を逐い、言った、「国家の存亡は天に在り。小児が何を知る」と。欒書は言った、「楚軍は軽佻。営塁を固めて待てば、三日で必ず退く。退いてから撃てば、必ず勝つ」と。郤至は言った、「楚に六つの間隙あり、失うべからず。二卿が相憎悪し、楚王の直属部隊は旧人を用い、鄭軍は陣を列しても整斉せず、蛮人は軍を成しても陣を列せず、陣を列するに月末を避けず、陣中で誼譁し、会合の後はさらに誼譁し、各々後を顧みて斗心なし。旧人は必ずしも精良でなく、また天の忌諱に犯る。われわれは必ず勝てます」と。
楚子登巢車以望晉軍,子重使大宰伯州犁侍於王后。王曰:“騁而左右,何也?”曰:“召軍吏也。”“皆聚于軍中矣!”曰:“合謀也。”“張幕矣。”
楚子は巢車に登って晋軍を眺め、子重は太宰伯州犁に楚王の後に侍立させた。楚王は言った、「左右に馳騁するは、何をなすか」と。「軍吏を召集します」。「皆軍中に集まった!」「ともに謀っています」。「帳幕を張った」。
曰:“虔卜於先君也。”“徹幕矣!”曰:“將發命也。”“甚囂,且塵上矣!”曰:“將塞井夷灶而為行也。”“皆乘矣,左右執兵而下矣!”曰:“聽誓也。”
(伯州犁は続けて言う:)「先君のもとで虔に卜します」。「帳幕を撤した!」「命令を発布しようとしています」。「甚だ誼譁し、かつ塵が揚がった!」「井を填め竈を平げて行列を列べようとしています」。「皆車に登り、左右は兵器を執ってまた降りた!」「誓辞を聴いています」。
“戰乎?”曰:“未可知也。”“乘而左右皆下矣!”曰:“戰禱也。”伯州犁以公卒告王。苗賁皇在晉侯之側,亦以王卒告。皆曰:“國士在,且厚,不可當也。”苗賁皇言於晉侯曰:“楚之良,在其中軍王族而已。請分良以擊其左右,而三軍萃於王卒,必大敗之。”公筮之,史曰:“吉。其卦遇《復》ⅱⅲ,曰:‘南國戚,射其元王中厥目。’國戚王傷,不敗何待?”公從之。有淖於前,乃皆左右相違於淖。步毅御晉厲公,欒針為右。彭名御楚共王,潘黨為右。石首御鄭成公,唐苟為右。欒、範以其族夾公行,陷於淖。欒書將載晉侯,針曰:“書退!國有大任,焉得專之?且侵官,冒也;失官,慢也;離局,奸也。有三罪焉,不可犯也。”乃掀公以出於淖。
「交戦するか」「まだ知るべからず」。「車に登り、左右はまた皆降りた!」「戦前の祈祷です」。伯州犁は晋侯の直属部隊を楚王に告げた。苗賁皇は晋侯の辺にいて、楚王の直属部隊を晋侯に告げた。衆人は皆言った、「国士が彼らに在り、かつ人が厚い。当たるべからず」と。苗賁皇は晋侯に言った、「楚の精鋭は、ただ中軍の王族のみ。精鋭を分かちてその左右を撃ち、三軍を集めて楚王の直属部隊に当たれば、必ず大いに彼らを破ります」と。晋侯はこれがために筮し、史官は言った、「吉。卦は《復》に遇い、言う、『南国に憂戚あり、その元首の王を射て、その目に中る』と。国に憂戚あり王に傷あれば、敗れずして何を待つか」と。晋侯は従った。前に泥沼があり、こうして皆左右から泥沼を避けた。歩毅が晋厲公の御を務め、欒鍼が車右となった。彭名が楚共王の御を務め、潘黨が車右となった。石首が鄭成公の御を務め、唐苟が車右となった。欒氏・范氏は族人を連れて晋侯を夾護して前行したが、泥沼に陥った。欒書は晋侯を自らの車に登らせようとしたが、鍼は言った、「書は退け!国家に大任あり、どうして専擅できよう。しかも官を侵犯するは冒犯、官を棄つるは怠慢、崗位を離れるは奸邪。三つの罪あり、触れるべからず」と。こうして晋侯の車を掀き上げて泥沼を脱した。
癸巳,潘尫之黨與養由基蹲甲而射之,徹七札焉。以示王,曰:“君有二臣如此,何憂於戰?”王怒曰:“大辱國。詰朝,爾射,死藝。”呂錡夢射月,中之,退入於泥。占之,曰:“姬姓,日也。異姓,月也,必楚王也。射而中之,退入於泥,亦必死矣。”及戰,射共王,中目。王召養由基,與之兩矢,使射呂錡,中項,伏弢。以一矢覆命。
癸巳、潘尫の子黨と養由基は鎧を重ねて射て、七層を穿った。楚王に見せて言った、「君王にこのような二臣があれば、交戦を何を憂えましょう」と。楚王は怒って言った、「大いに国を辱めた。明日の朝、あなたたちが射れば、技芸に死ぬだろう」と。呂錡は夢に月を射て中り、退いて泥に陥るのを見た。占うと、言った、「姫姓は日。異姓は月。必ず楚王です。射中り、退いて泥に陥るは、必ず死です」と。交戦に及び、共王を射て目に中った。楚王は養由基を召し、二矢を与えて呂錡を射させ、項に中り、弓袋に伏した。残りの一矢をもって復命した。
郤至三遇楚子之卒,見楚子,必下,免冑而趨風。楚子使工尹襄問之以弓,曰:“方事之殷也,有韎韋之跗注,君子也。識見不穀而趨,無乃傷乎?”郤至見客,免冑承命,曰:“君之外臣至,從寡君之戎事,以君之靈,間蒙甲冑,不敢拜命,敢告不寧君命之辱,為事之故,敢肅使者。”三肅使者而退。
郤至は三度楚子の士卒に遇い、楚子を見るたびに必ず車を降り、冑を脱いで風のごとく走った。楚子は工尹襄を遣わし、弓をもって彼を問候させて言った、「事の緊張する時に、浅紅色の熟皮の裹腿を着けた者がいた。君子だ。不穀を見るたびに走る。傷ついたのではないか」と。郤至は来客に見え、冑を脱いで命令を受け、言った、「君王の外臣至は、寡君の軍事に従い、君王の威霊に託り、甲冑を披き戴くに参じ、敢えて命令を拜受せず、敢えて内心の不安を報告します。辱くも君王の命令を承け、軍事の故をもって、敢えて使者に粛拜します」と。使者に三度粛拜して退いた。
晉韓厥從鄭伯,其御杜溷羅曰:“速從之!其御屢顧,不在馬,可及也。”
晋の韓厥は鄭伯を追い、その御者杜溷羅は言った、「速く追いつけ!彼の御者は屡々顧みて馬を御することに専せず。追いつけます」と。
韓厥曰:“不可以再辱國君。”乃止。郤至從鄭伯,其右茀翰胡曰:“諜輅之,餘從之乘而俘以下。”郤至曰:“傷國君有刑。”亦止。石首曰:“衛懿公唯不去其旗,是以敗於熒。”乃內旌於弢中。唐苟謂石首曰:“子在君側,敗者壹大。
韓厥は言った、「国君を再び辱めてはならない」と。こうして止めた。郤至は鄭伯を追い、その車右茀翰胡は言った、「偵察兵を出して迎撃し、私はその車に追いついて彼を捉え下ろします」と。郤至は言った、「国君を傷つけるは刑罰あり」と。も止めた。石首は言った、「衛懿公はただ旗を収めなかったので、熒地で戦敗しました」と。こうして旌旗を弓袋に収めた。唐苟は石首に言った、「あなたは国君の辺に在り、敗れた一方は注意力を大きな目標に注ぎます。
我不如子,子以君免,我請止。”乃死。
(唐苟は続けて言う:)私はあなたに如かず。あなたは国君を連れて禍を免れなさい。私は留まることを請います」と。こうして戦死した。
楚師薄於險,叔山冉謂養由基曰:“雖君有命,為國故,子必射!”乃射。
楚軍は険地に逼せられ、叔山冉は養由基に言った、「たとえ君王の命令があっても、国のために、あなたは必ず射なさい!」こうして射た。
再發,盡殪。叔山冉搏人以投,中車,折軾。晉師乃止。囚楚公子茷。
再び射て、すべて射殺した。叔山冉は人を抓んで投げ出し、車に中り、車軾を折った。晋軍はこうして止まった。楚の公子茷を囚えた。
欒針見子重之旌,請曰:“楚人謂夫旌,子重之麾也。彼其子重也。日臣之使於楚也,子重問晉國之勇。臣對曰:‘好以眾整。’曰:‘又何如?’臣對曰:‘好以暇。’今兩國治戎,行人不使,不可謂整。臨事而食言,不可謂暇。
欒鍼は子重の旌旗を見て請うて言った、「楚人はあの旌旗は子重の麾と言います。あの人が子重です。往日臣は楚に出使し、子重は晋の勇を問いました。臣は答えて、『衆を整えんことを好む』と言いました。『さらにどうか』と言うと、臣は答えて、『従容を好む』と言いました。今両国は兵を交え、行人を遣わさぬは、整えんと言うべからず。事に臨んで言が算せざるは、従容と言うべからず。
請攝飲焉。”公許之。使行人執榼承飲,造於子重,曰:“寡君乏使,使針御持矛。是以不得犒從者,使某攝飲。”子重曰:“夫子嘗與吾言於楚,必是故也,不亦識乎!”受而飲之。免使者而復鼓。
(欒鍼は続けて言う:)人を遣わして酒を代わりに送ることを請います」と。晋侯は許した。行人に酒器を持たせ酒を盛らせ、子重のもとに至らせて言わせた、「寡君は使者に乏しく、鍼をして車上で矛を持たせています。これによって従者を犒うことができず、某を遣わして酒を代わりに送らせます」と。子重は言った、「あの人はかつて楚で私と話した。必ずこの故だ。よく覚えているではないか!」受けて飲んだ。使者を放してから鼓を撃ち直した。
旦而戰,見星未已。子反命軍吏察夷傷,補卒乘,繕甲兵,展車馬,雞鳴而食,唯命是聽。晉人患之。苗賁皇徇曰:“蒐乘補卒,秣馬利兵,修陳固列,蓐食申禱,明日復戰。”乃逸楚囚。王聞之,召子反謀。穀陽豎獻飲於子反,子反醉而不能見。王曰:“天敗楚也夫!餘不可以待。”乃宵遁。晉入楚軍,三日谷。
天亮から交戦し、星が見えてもまだ終わらなかった。子反は軍吏に傷を察し、歩卒車乘を補充し、甲兵を修繕し、車馬を陳列し、鶏鳴に食し、ただ命を聴くことを命じた。晋人は憂えた。苗賁皇は徇行して言った、「車乘を閲し士卒を補い、馬を飼い兵器を磨き、陣列を整え行列を固め、早起きして食し、反復して祈祷し、明日再び戦おう」と。こうして楚の俘虜を放した。楚王は聞き、子反を召して商量した。穀陽竪が子反に酒を献じ、子反は酔って進見できなかった。楚王は言った、「天は楚を敗らせるのか!私は待つべからず」と。こうして夜に逃げ去った。晋人は楚軍に入り、獲た糧を三日食用した。
範文子立於戎馬之前,曰:“君幼,諸臣不佞,何以及此?君其戒之!《周書》曰‘唯命不於常’,有德之謂。”
范文子は晋侯の戎馬の前に立ち、言った、「君王は年幼く、諸臣は不才、どうしてこの歩に至れましたか。君王の警戒を請います!《周書》に言う、『天命は常在せず』と。徳あるを言うのです」と。
楚師還,及瑕,王使謂子反曰:“先大夫之覆師徒者,君不在。子無以為過,不穀之罪也。”子反再拜稽首曰:“君賜臣死,死且不朽。臣之卒實奔,臣之罪也。”子重複謂子反曰:“初隕師徒者,而亦聞之矣!盍圖之?”對曰:“雖微先大夫有之,大夫命側,側敢不義?側亡君師,敢忘其死。”王使止之,弗及而卒。
楚軍が帰り、瑕に至ると、楚王は人を遣わして子反に言わせた、「先大夫が部衆を覆滅させた時、国君は軍に在らず。あなたは自らの過ちと思うな。不穀の罪だ」と。子反は再拜稽首して言った、「君王が臣に死を賜わば、死しても栄です。臣の士卒は実に奔逃しました。臣の罪です」と。子重はまた子反に言った、「初めに部衆を覆滅させた人を、あなたも聞いた!どうして考えないか」と。答えて言った、「たとえ先大夫の事なくとも、大夫が側に命じれば、側は敢えて不義の事をしましょうか。側は国君の軍を喪い、敢えて一死を忘れません」と。楚王は人を遣わして止めたが、彼が死ぬのに間に合わなかった。
