Libo

成公(元年~十八年)

春秋 · 左丘明(旧题) · 第26巻 / 56

◇成公四年

◇成公四年

【經】四年春,宋公使華元來聘。三月壬申,鄭伯堅卒。杞伯來朝。夏四月甲寅,臧孫許卒。公如晉。葬鄭襄公。秋,公至自晉。冬,城鄆。鄭伯伐許。

【経】四年春、宋公は華元を遣わして聘問させた。三月壬申、鄭伯堅が死去した。杞伯が朝見に来た。夏四月甲寅、臧孫許が死去した。成公は晋に行った。鄭襄公を葬った。秋、成公は晋から帰った。冬、鄆城を修築した。鄭伯が許を攻めた。

【傳】四年春,宋華元來聘,通嗣君也。

【伝】四年春、宋の華元が聘問に来た。新たに即位した国君に好を通じるためである。

杞伯來朝,歸叔姬故也。

杞伯が朝見に来たのは、叔姫を送り返したゆえである。

夏,公如晉,晉侯見公,不敬。季文子曰:“晉侯必不免。《詩》曰:‘敬之敬之!天惟顯思,命不易哉!’夫晉侯之命在諸侯矣,可不敬乎?”秋,公至自晉,欲求成於楚而叛晉,季文子曰:“不可。晉雖無道,未可叛也。國大臣睦,而邇於我,諸侯聽焉,未可以貳。史佚之《志》有之,曰:‘非我族類,其心必異。’楚雖大,非吾族也,其肯字我乎?”公乃止。

夏、成公は晋に行き、晋侯は成公を接見したが、恭敬でなかった。季文子は言った、「晋侯は必ず禍を免れられないでしょう。《詩》に言う、『敬なるかな敬なるかな!天は明らかにし、命は易からず』と。晋侯の命は諸侯の手にあり、敬まないことができますか」と。秋、成公は晋から帰り、楚と和を求めて晋に背こうとした。季文子は言った、「いけません。晋は無道といえども背いてはなりません。国は大きく大臣は和睦し、またわれわれに近く、諸侯は聴従しています。二心を持ってはなりません。史佚の《志》にこの言があります。『われわれの族類でなければ、その心は必ず異なる』と。楚は大きいといえどもわれわれの族ではなく、どうしてわれわれを愛しましょうか」と。成公はこうして止めた。

冬十一月,鄭公孫申帥師疆許田,許人敗諸展陂。鄭伯伐許,取任、泠敦之田。

冬十一月、鄭の公孫申が軍を率いて許田の疆界を划定した。許人が展陂で彼らを破った。鄭伯は許を攻め、任・泠敦の田を得た。

晉欒書將中軍,荀首佐之,士燮佐上軍,以救許伐鄭,取氾、祭。楚子反救鄭,鄭伯與許男訟焉。皇戌攝鄭伯之辭,子反不能決也,曰:“君若辱在寡君,寡君與其二三臣共聽兩君之所欲,成其可知也。不然,側不足以知二國之成。”

晋の欒書が中軍を率い、荀首が輔佐し、士燮が上軍を輔佐して、許を救い鄭を攻めに来て、泛・祭を取った。楚の子反が鄭を救い、鄭伯と許男が彼のもとで争訟した。皇戌が鄭伯の言を代述し、子反は決断できず言った、「君王がもし屈んで寡君のもとに至れば、寡君と数臣がともに二国君の願いを聴き、調停すれば知ることができます。さもなければ、側は両国の是非を知るに足りません」と。

晉趙嬰通於趙莊姬。

晋の趙嬰が趙荘姫と私通した。

◇成公五年

◇成公五年

【經】五年春王正月,杞叔姬來歸。仲孫蔑如宋。夏,叔孫僑如會晉荀首於谷。梁山崩。秋,大水。冬十有一月己酉,天王崩。十有二月己丑,公會晉侯、齊侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、邾子、杞伯同盟於蟲牢。

【経】五年春、周天子の暦の正月、杞叔姫が帰った。仲孫蔑が宋に行った。夏、叔孫僑如が穀で晋の荀首に会見した。梁山が崩れた。秋、大水があった。冬十一月己酉、天子が死去した。十二月己丑、成公は晋侯・斉侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯・邾子・杞伯と虫牢でともに盟を結んだ。

【傳】五年春,原、屏放諸齊。嬰曰:“我在,故欒氏不作。我亡,吾二昆其憂哉!且人各有能有不能,舍我何害?”弗聽。嬰夢天使謂己:“祭餘,餘福女。”使問諸士貞伯,貞伯曰:“不識也。”既而告其人曰:“神福仁而禍淫,淫而無罰,福也。祭,其得亡乎?”祭之,之明日而亡。孟獻子如宋,報華元也。

【伝】五年春、原・屏が趙嬰を斉に放逐した。嬰は言った、「私がいるから欒氏は乱をなさない。私が逃亡すれば、わが二兄はおそらく憂えるでしょう!しかも人には各々能と不能があり、私を留めて何の害がありましょうか」と。聴かなかった。嬰は夢に天使が自分に「私を祭れ、私が福を賜わん」と言うのを見た。人を遣わして士貞伯に問うと、貞伯は言った、「知らない」と。後に彼に告げた者は言った、「神は仁に福を賜い、淫に禍を降す。淫なのに罰がなければ、それが福です。祭れば、おそらく逃亡を得るでしょう」と。祭り、翌日逃亡した。孟献子が宋に行ったのは、華元への返報である。

孟獻子如宋,報華元也。

孟献子が宋に行ったのは、華元への返報である。

夏,晉荀首如齊逆女,故宣伯餫諸谷。

夏、晋の荀首が斉に夫人を迎えに行ったので、宣伯は穀で食物を饋送した。

梁山崩,晉侯以傳召伯宗。伯宗闢重,曰:“闢傳!”重人曰:“待我,不如捷之速也。”問其所,曰:“絳人也。”問絳事焉,曰:“梁山崩,將召伯宗謀之。”問:“將若之何?”曰:“山有朽壤而崩,可若何?國主山川。故山崩川竭,君為之不舉,降服,乘縵,徹樂,出次,祝幣,史辭以禮焉。其如此而已,雖伯宗若之何?”伯宗請見之,不可。遂以告而從之。

梁山が崩れ、晋侯は伝車をもって伯宗を召した。伯宗は載重車に避けさせて言った、「伝車を避けよ!」と。重車を駆る者は言った、「私が避けるのを待つより、近道を行くほうが速い」と。彼にどこの人か問うと、「絳人」と。絳の事を問うと、「梁山が崩れ、伯宗を召して相談しようとしています」と。問う、「どうするか」と。言った、「山に腐朽した土壌があって崩れる。どうしようがありましょうか。国は山川を主とします。だから山が崩れ河川が涸れれば、国君はこれがために膳を減らし服色を降げ、文飾なき車に乗り、音楽を撤し、正寝を離れ、祭品を陳列し、史官が辞を述べて礼敬します。これに過ぎません。たとえ伯宗でもまたどうできましょうか」と。伯宗は彼を引見させようと請うたが、同意しなかった。こうして彼の言のとおり報告し照らし行った。

許靈公愬鄭伯於楚。六月,鄭悼公如楚,訟,不勝。楚人執皇戌及子國。故鄭伯歸,使公子偃請成於晉。秋八月,鄭伯及晉趙同盟於垂棘。

許霊公が楚に鄭伯を訴えた。六月、鄭悼公が楚に行って争訟したが、勝たなかった。楚人は皇戌と子国を執えた。それで鄭伯は帰り、公子偃を遣わして晋に和を求めた。秋八月、鄭伯は晋の趙氏と垂棘で盟を結んだ。

宋公子圍龜為質於楚而還,華元享之。請鼓譟以出,鼓譟以復入,曰:“習功華氏。”宋公殺之。

宋の公子圍亀は楚で人質となってから帰った。華元は享礼を設けて彼を招待した。彼は鼓を撃ち誼譁して出て、また鼓を撃ち誼譁して入ることを請い、言った、「華氏を攻める演習です」と。宋公は彼を殺した。

冬,同盟於蟲牢,鄭服也。諸侯謀復會,宋公使向為人辭以子靈之難。

冬、虫牢でともに盟を結んだのは、鄭が帰服したからである。諸侯は再び会見することを商量し、宋公は向為人を遣わして子霊の患難をもって辞退した。

十一月己酉,定王崩。

十一月己酉、定王が死去した。

◇成公六年

◇成公六年

【經】六年春王正月,公至自會。二月辛巳,立武宮。取鄟。衛孫良夫帥師侵宋。夏六月,邾子來朝。公孫嬰齊如晉。壬申,鄭伯費卒。秋,仲孫蔑、叔孫僑如帥師侵宋。楚公子嬰齊帥師伐鄭。冬,季孫行父如晉。晉欒書帥師救鄭。

【経】六年春、周天子の暦の正月、成公は会から帰った。二月辛巳、武宮を立てた。鄟を取った。衛の孫良夫が軍を率いて宋を侵伐した。夏六月、邾子が朝見に来た。公孫嬰斉が晋に行った。壬申、鄭伯費が死去した。秋、仲孫蔑・叔孫僑如が軍を率いて宋を侵伐した。楚の公子嬰斉が軍を率いて鄭を攻めた。冬、季孫行父が晋に行った。晋の欒書が軍を率いて鄭を救った。

【傳】六年春,鄭伯如晉拜成,子游相,授玉於東楹之東。士貞伯曰:“鄭伯其死乎?自棄也已!視流而行速,不安其位,宜不能久。”

【伝】六年春、鄭伯が晋に行って講和を拜謝し、子游が相礼し、東楹の東で玉を授けた。士貞伯は言った、「鄭伯はおそらく死ぬだろうか?自らを棄てている!目光が流れ歩行が速く、自らの位に安んじない。長久できないだろう」と。

二月,季文子以鞍之功立武宮,非禮也。聽於人以救其難,不可以立武。立武由己,非由人也。

二月、季文子は鞍の功によって武宮を立てた。これは礼に合わない。人に命を聴いて自らの患難を救うのに、武を立てるべきではない。武を立てるは自らによるのであって、人によるのではない。

取鄟,言易也。

鄟を取ったとは、易しかったことを言う。

三月,晉伯宗、夏陽說,衛孫良夫、寧相,鄭人,伊、洛之戎,陸渾蠻氏侵宋,以其辭會也。師於針,衛人不保。說欲襲衛,曰:“雖不可入,多俘而歸,有罪不及死。”伯宗曰:“不可。衛唯信晉,故師在其郊而不設備。若襲之,是棄信也。雖多衛俘,而晉無信,何以求諸侯?”乃止,師還,衛人登陴。

三月、晋の伯宗・夏陽説、衛の孫良夫・寧相、鄭人、伊・洛の戎、陸渾の蛮氏が宋を侵伐した。それが会見を辞退したからである。軍は針に駐屯し、衛人は防備を設けなかった。衛を襲撃しようと言う者がいて、言った、「たとえ入れなくても、俘虜を多く連れて帰れば、罪あっても死に至らないでしょう」と。伯宗は言った、「いけない。衛はただ晋を信じているので、軍が郊外にいるのに防備を設けない。もし襲撃すれば、信用を棄てることだ。たとえ衛の俘虜を多く得ても、晋に信用がなければ、何をもって諸侯を求めよう」と。こうして止めた。軍が帰ると、衛人は城の女牆に登った。

晉人謀去故絳。諸大夫皆曰:“必居郇瑕氏之地,沃饒而近盬,國利君樂,不可失也。”韓獻子將新中軍,且為僕大夫。公揖而入。獻子從。公立於寢庭,謂獻子曰:“何如?”對曰:“不可。郇瑕氏土薄水淺,其惡易覯。易覯則民愁,民愁則墊隘,於是乎有沉溺重膇之疾。不如新田,土厚水深,居之不疾,有汾、澮以流其惡,且民從教,十世之利也。夫山、澤、林、盬,國之寶也。國饒,則民驕佚。近寶,公室乃貧,不可謂樂。”公說,從之。夏四月丁丑,晉遷於新田。

晋人は旧絳を離れることを商量した。大夫たちは皆言った、「必ず郇瑕氏の地に住みなさい。肥沃で富饒で、また塩池に近い。国に利あり国君に楽あり、失うべからず」と。韓献子は新中軍を率い、かつ僕大夫を務めた。晋侯は揖をして入った。献子が従った。晋侯は寝庭に立ち、献子に言った、「どうか」と。答えて言った、「いけません。郇瑕氏は土薄く水浅く、汚穢が積聚しやすい。積聚しやすければ百姓が愁苦し、百姓が愁苦すれば瘦弱困頓し、ここに沉溺・脚腫の疾が起こります。新田に如きません。土厚く水深く、そこに住めば疾せず、汾水・澮水が汚穢を流し去り、かつ百姓は教化に従い、十世の利益です。山・沢・林・塩は国の宝です。国が富饒すれば百姓は驕縦安逸します。宝に近づけば公室はかえって貧窮し、楽しみと言うべきではありません」と。晋侯は喜び、従った。夏四月丁丑、晋は新田に遷都した。

六月,鄭悼公卒。

六月、鄭悼公が死去した。

子叔聲伯如晉。命伐宋。

子叔声伯が晋に行った。宋を攻める命を受けた。

秋,孟獻子、叔孫宣伯侵宋,晉命也。

秋、孟献子・叔孫宣伯が宋を侵伐した。晋の命令である。

楚子重伐鄭,鄭從晉故也。

楚の子重が鄭を攻めたのは、鄭が晋に従ったからである。

冬,季文子如晉,賀遷也。

冬、季文子が晋に行ったのは、遷都を賀するためである。

晉欒書救鄭,與楚師遇於繞角。楚師還,晉師遂侵蔡。楚公子申、公子成以申、息之師救蔡,御諸桑隧。趙同、趙括欲戰,請於武子,武子將許之。知莊子、範文子、韓獻子諫曰:“不可。吾來救鄭,楚師去我,吾遂至於此,是遷戮也。

晋の欒書が鄭を救い、楚軍と繞角で遇った。楚軍が帰ると、晋軍はこうして蔡を侵伐した。楚の公子申・公子成が申・息の軍を率いて蔡を救い、桑隧で抵御した。趙同・趙括は交戦しようとして武子に請い、武子は許そうとした。知荘子・范文子・韓献子が勧諫して言った、「いけません。われわれは鄭を救いに来て、楚軍がわれわれを去ったので、こうしてここに至りました。これは殺戮を他所に遷すことです。

戮而不已,又怒楚師,戰必不克。雖克,不令。成師以出,而敗楚之二縣,何榮之有焉?若不能敗,為辱已甚,不如還也。”乃遂還。

(三位は続けて言う:)殺戮が止まず、また楚軍を激怒させ、交戦しても必ず勝てません。たとえ勝っても、美しくありません。軍を整えて出たのに、ただ楚の二県を破るのみ、何の光栄がありましょうか。もし破ることができなければ、羞辱はすでに太甚です。帰るに如きません」と。こうして帰った。

於是,軍帥之慾戰者眾,或謂欒武子曰:“聖人與眾同欲,是以濟事。子盍從眾?子為大政,將酌於民者也。子之佐十一人,其不欲戰者,三人而已。欲戰者可謂眾矣。《商書》曰:‘三人占,從二人。’眾故也。”武子曰:“善鈞,從眾。夫善,眾之主也。三卿為主,可謂眾矣。從之,不亦可乎?”

当時、軍帥の中で交戦したい者が多く、ある人が欒武子に言った、「聖人は衆人と願いを同じくするので、事を成すことができます。あなたはなぜ衆人に従わないのですか。あなたは大政を為し、百姓を斟酌すべきです。あなたの輔佐は十一人で、交戦したくないのはわずか三人です。交戦したい者は衆と言えます。《商書》に言う、『三人が占えば二人に従う』と。人が衆だからです」と。武子は言った、「善が等しくてこそ、衆人に従う。善は衆人の主導である。三卿が主導なれば、衆と言えます。彼らに従うは、また可なりではないか」と。

◇成公七年

◇成公七年

【經】七年春王正月,鼷鼠食郊牛角,改卜牛。鼷鼠又食其角,乃免牛。吳伐郯。夏五月,曹伯來朝。不郊,猶三望。秋,楚公子嬰齊帥師伐鄭。公會晉侯、齊侯、宋公、衛侯、曹伯、莒子、邾子、杞伯救鄭。八月戊辰,同盟於馬陵。公至自會。吳入州來。冬,大雩。衛孫林父出奔晉。

【経】七年春、周天子の暦の正月、鼷鼠が郊祭の牛の角を咬み、別に卜して牛を選んだ。鼷鼠がまたその角を咬み、こうしてその牛を免じた。呉が郯を攻めた。夏五月、曹伯が朝見に来た。郊祭を行わず、なお三度の望祭を行った。秋、楚の公子嬰斉が軍を率いて鄭を攻めた。成公は晋侯・斉侯・宋公・衛侯・曹伯・莒子・邾子・杞伯と会合して鄭を救った。八月戊辰、馬陵でともに盟を結んだ。成公は会から帰った。呉人が州来に入った。冬、大雩を行った。衛の孫林父が晋に出奔した。

【傳】七年春,吳伐郯,郯成。季文子曰:“中國不振旅,蠻夷入伐,而莫之或恤,無吊者也夫!《詩》曰:‘不弔昊天,亂靡有定。’其此之謂乎!有上不弔,其誰不受亂?吾亡無日矣!”君子曰:“如懼如是,斯不亡矣。”

【伝】七年春、呉が郯を攻め、郯は講和した。季文子は言った、「中原の諸夏が軍隊を整えず、蛮夷が入って攻めるのに、憂恤する者がいない。弔問すべき人がいないのですね!《詩》に言う、『弔問せざる昊天、乱に安定なし』と。これを言うのですね!上に在って弔問せざれば、誰が乱を受けずにいられましょうか。われわれの亡びるは幾日もありません!」君子は言った、「このように畏れれば、亡びないでしょう」と。

鄭子良相成公以如晉,見,且拜師。

鄭の子良が成公のために相礼して晋に行き、進見し、かつ出兵を拜謝した。

夏,曹宣公來朝。

夏、曹宣公が朝見に来た。

秋,楚子重伐鄭,師於汜。諸侯救鄭。鄭共仲、侯羽軍楚師,囚鄖公鍾儀,獻諸晉。

秋、楚の子重が鄭を攻め、泛に駐軍した。諸侯が鄭を救った。鄭の共仲・侯羽が楚軍を包囲し、鄖公鍾儀を囚えて晋に献じた。

八月,同盟於馬陵,尋蟲牢之盟,且莒服故也。

八月、馬陵でともに盟を結んだ。虫牢の盟を重温し、かつ莒が帰服したからである。

晉人以鍾儀歸,囚諸軍府。

晋人は鍾儀を連れて帰り、軍府に囚えた。

楚圍宋之役,師還,子重請取於申、呂以為賞田,王許之。申公巫臣曰:“不可。此申、呂所以邑也,是以為賦,以御北方。若取之,是無申、呂也。晉、鄭必至於漢。”王乃止。子重是以怨巫臣。子反欲取夏姬,巫臣止之,遂取以行,子反亦怨之。及共王即位,子重、子反殺巫臣之族子閻、子蕩及清尹弗忌及襄老之子黑要,而分其室。子重取子閻之室,使沈尹與王子罷分子蕩之室,子反取黑要與清尹之室。巫臣自晉遺二子書,曰:“爾以讒慝貪婪事君,而多殺不辜。餘必使爾罷於奔命以死。”

楚が宋を包囲した役で、軍が帰ると、子重は申・呂の一部を賞田とすることを請い、楚王は許した。申公巫臣は言った、「いけません。これは申・呂が城邑と為る所以の凭借で、これに依って軍賦を出し、北方を抵御します。もし取れば、申・呂はなくなります。晋・鄭は必ず漢水に至るでしょう」と。楚王はこうして止めた。子重はこれによって巫臣を怨恨した。子反が夏姫を娶ろうとしたのを巫臣が止め、後に彼女を連れて行ったので、子反も彼を怨恨した。共王が即位するに及び、子重・子反は巫臣の族の子閻・子蕩と清尹弗忌および襄老の子黒要を殺し、かつその家室を瓜分した。子重は子閻の家室を取り、沈尹と王子罷に子蕩の家室を分けさせ、子反は黒要と清尹の家室を取った。巫臣は晋からこの二人に書を送り、言った、「あなたたちは讒邪貪婪をもって国君に事え、また無辜を多く殺した。私は必ずあなたたちを奔命に疲れさせて死なせる」と。

巫臣請使於吳,晉侯許之。吳子壽夢說之。乃通吳於晉。以兩之一卒適吳,舍偏兩之一焉。與其射御,教吳乘車,教之戰陳,教之叛楚。置其子狐庸焉,使為行人於吳。吳始伐楚,伐巢、伐徐。子重奔命。馬陵之會,吳入州來。子重自鄭奔命。子重、子反於是乎一歲七奔命。蠻夷屬於楚者,吳盡取之,是以始大,通吳於上國。

巫臣は呉に出使することを請い、晋侯は許した。呉子寿夢は彼を喜んだ。こうして呉と晋を往来させた。両偏の中の一卒を連れて呉に行き、偏両の中の一偏を留めた。彼に射御する者を与え、呉人に戦車に乗ることを教え、戦陣を教え、楚に背くことを教えた。子の狐庸をそこに置き、呉で行人とさせた。呉は始めて楚を攻め、巢を攻め、徐を攻めた。子重は奔走して救急した。馬陵の会で、呉人は州来に入った。子重は鄭から奔走して救急した。子重・子反はこれによって一年に七度奔走して救急した。楚に属する蛮夷を、呉はすべて取った。これによって始めて強大となり、中原の上国と往来した。

衛定公惡孫林父。冬,孫林父出奔晉。衛侯如晉,晉反戚焉。

衛定公は孫林父を憎悪した。冬、孫林父は晋に出奔した。衛侯が晋に行くと、晋は戚を彼に返還した。

◇成公八年

◇成公八年

【經】八年春,晉侯使韓穿來言汶陽之田,歸之於齊。晉欒書帥師侵蔡。公孫嬰齊如莒。宋公使華元來聘。夏,宋公使公孫壽來納幣。晉殺其大夫趙同、趙括。秋七月,天子使召伯來賜公命。冬十月癸卯,杞叔姬卒。晉侯使士燮來聘。

【経】八年春、晋侯は韓穿を遣わして汶水以北の田を談じ、これを斉に返還させた。晋の欒書が軍を率いて蔡を侵伐した。公孫嬰斉が莒に行った。宋公は華元を遣わして聘問させた。夏、宋公は公孫寿を遣わして聘礼を送らせた。晋はその大夫趙同・趙括を殺した。秋七月、天子は召伯を遣わして成公に命服を賜わせた。冬十月癸卯、杞叔姫が死去した。晋侯は士燮を遣わして聘問させた。

叔孫僑如會晉士燮、齊人、邾人代郯。衛人來媵。

叔孫僑如は晋の士燮・斉人・邾人と会合して郯を攻めた。底本の「代郯」は即ち伐郯。衛人が媵妾を陪送しに来た。

【傳】八年春,晉侯使韓穿來言汶陽之田,歸之於齊。季文子餞之,私焉,曰:“大國制義以為盟主,是以諸侯懷德畏討,無有貳心。謂汶陽之田,敝邑之舊也,而用師於齊,使歸諸敝邑。今有二命曰:‘歸諸齊。’信以行義,義以成命,小國所望而懷也。信不可知,義無所立,四方諸侯,其誰不解體?《詩》曰:‘女也不爽,士貳其行。士也罔極,二三其德。’七年之中,一與一奪,二三孰甚焉!士之二三,猶喪妃耦,而況霸主?霸主將德是以,而二三之,其何以長有諸侯乎?《詩》曰:‘猶之未遠,是用大簡。’行父懼晉之不遠猶而失諸侯也,是以敢私言之。”

【伝】八年春、晋侯は韓穿を遣わして汶水以北の田を談じ、これを斉に返還させた。季文子は彼のために餞行し、私に言った、「大国は義を裁制して盟主と為る。だから諸侯は徳を感念し討伐を恐れ、二心がありません。汶水以北の田は敝邑の旧有と言い、斉に兵を用い、敝邑に返還させました。今また第二の命令があり、『斉に返還せよ』と。信用は義を行うため、義は命令を成すためのもので、小国の望み感念するところです。信用は知るべからず、義は落ち着くところなく、四方の諸侯、誰が人心離散せずにいられましょうか。《詩》に言う、『女子に差失なし、男子は行いを弐にす。男子は準則なく、その徳は反復す』と。七年の中に、一度与え一度奪い、反復してこれより甚だしきがありますか。士人が反復しても尚且配偶を失う。まして霸主をや。霸主は徳に依るべきなのに、反復しては、何をもって長く諸侯を保有しましょうか。《詩》に言う、『謀ること尚遠からず、これによって大いに勧諫す』と。行父は晋の謀ることが遠からずして諸侯を失うことを恐れ、だから敢えて私にこれを言います」と。

晉欒書侵蔡,遂侵楚,獲申驪。楚師之還也,晉侵沈,獲沈子揖初,從知、範、韓也。君子曰:“從善如流,宜哉!《詩》曰:‘愷悌君子,遐不作人。’求善也夫!作人,斯有功績矣。”是行也,鄭伯將會晉師,門於許東門,大獲焉。

晋の欒書が蔡を侵伐し、続けて楚を侵伐し、申驪を俘獲した。楚軍が帰る時、晋は沈を侵伐し、沈子揖初を俘獲した。知・范・韓の意見に従ったのだ。君子は言った、「善に従うこと流るるが如し、当然である!《詩》に言う、『和楽平易の君子、どうして人材を造就せざらん』と。これは善を求めることです!人材を造就すれば、功績があります」と。この度の出行で、鄭伯は晋軍に会見しようとして、許の東門を攻め、大いに俘獲があった。

聲伯如莒,逆也。

声伯が莒に行ったのは、夫人を迎えるためである。

宋華元來聘,聘共姬也。

宋の華元が聘問に来たのは、共姫のために聘を行うためである。

夏,宋公使公孫壽來納幣,禮也。

夏、宋公は公孫寿を遣わして聘礼を送らせた。これは礼に合う。

晉趙莊姬為趙嬰之亡故,譖之於晉侯,曰:“原、屏將為亂。”欒、郤為徵。

晋の趙荘姫は趙嬰が逃亡した故によって、晋侯に彼らを誣告して言った、「原・屏はまさに乱をなさんとしています」と。欒氏・郤氏が証人となった。

六月,晉討趙同、趙括。武從姬氏畜於公宮。以其田與祁奚。韓厥言於晉侯曰:“成季之勳,宣孟之忠,而無後,為善者其懼矣。三代之令王,皆數百年保天之祿。夫豈無闢王,賴前哲以免也。《周書》曰:‘不敢侮鰥寡。’所以明德也。”

六月、晋は趙同・趙括を討った。趙武は姫氏に従って公宮で養われた。彼らの田を祁奚に与えた。韓厥は晋侯に言った、「成季の功勲、宣孟の忠誠が、後嗣なく、善をなす者はおそらく懼れるでしょう。三代の好君王は皆数百年天の福禄を保有しました。邪僻の王がなかったのではなく、前代の哲人に恃って亡びを免れたのです。《周書》に言う、『鰥寡を欺侮する敢えてせず』と。これは徳を明らかにするためです」と。

乃立武,而反其田焉。

こうして趙武を立て、かつその田を返還した。

秋,召桓公來賜公命。

秋、召桓公が来て成公に命服を賜った。

晉侯使申公巫臣如吳,假道於莒。與渠丘公立於池上,曰:“城已惡!”莒子曰:“闢陋在夷,其孰以我為虞?”對曰:“夫狡焉思啟封疆以利社稷者,何國蔑有?唯然,故多大國矣,唯或思或縱也。勇夫重閉,況國乎?”冬,杞叔姬卒。來歸自杞,故書。

晋侯は申公巫臣を遣わして呉に行かせ、莒に道を借りた。渠丘公とともに護城河の上に立ち、言った、「城はすでに壊れています!」莒子は言った、「僻陋にして夷地に在り、誰がわれわれを図謀の対象としましょうか」と。答えて言った、「狡猾に封疆を辟いて社稷に利あらんと思う者は、どの国にもあります。まさにこれがため、大国が多いのです。ただ戒備するものと放縦するものがあるを見るのみです。勇夫でも尚戸を重ねて閉じる。まして国家をや」と。冬、杞叔姫が死去した。杞から帰った者なので、《春秋》に記す。

晉士燮來聘,言伐郯也,以其事吳故。公賂之,請緩師,文子不可,曰:“君命無貳,失信不立。禮無加貨,事無二成。君後諸侯,是寡君不得事君也。

晋の士燮が聘問に来て、郯を攻めることを談じた。それが呉に事えたからである。成公は彼に財貨を与え、出兵の延期を請うたが、文子は同意せず言った、「国君の命令に二心なく、信用を失えば立身できません。礼に額外の財貨なく、事に二つの成功なし。君王が諸侯に後れれば、寡君は君王に事えることができません。

燮將復之。”季孫懼,使宣伯帥師會伐郯。

(士燮は続けて言う:)燮はこのように復命します」と。季孫は懼れ、宣伯を遣わして軍を率いて会合して郯を攻めさせた。

衛人來媵共姬,禮也。凡諸侯嫁女,同姓媵之,異姓則否。

衛人が共姫のために媵妾を陪送しに来た。これは礼に合う。およそ諸侯が女を嫁がせるには、同姓が媵妾を陪送し、異姓はそうしない。

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