昭公(元年~三十二年)
宋皇瑗之子麇,有友曰田丙,而奪其兄阝般邑以與之。酁般慍而行,告桓司馬之臣子儀克。子儀克適宋,告夫人曰:“麇將納桓氏。”公問諸子仲。初,仲將以杞姒之子非我為子。曰:“必立伯也,是良材。”子仲怒,弗從,故對曰:“右師則老矣,不識麇也。”公執之。皇瑗奔晉,召之。
宋國皇瑗の兒子麇に、田丙と曰う朋友あり。彼の兄酁般の城邑を奪走して田丙に給えた。酁般が怒を含みて離去し、桓司馬の家臣子儀克に告げた。子儀克が宋に至り、夫人に告げて曰わく、「麇は將に桓氏を接納せん」。哀公が子仲に向かい詢問した。当初、仲が杞姒の兒子非我を以て後嗣と為さんと欲して曰わく、「必ず伯を立てよ。これは良材なり」。子仲が發怒し、聽從せず。ゆえに回答して曰わく、「右師は已に老いたり。麇を了解せず」。哀公が彼を捉えた。皇瑗が晋國に逃奔し、又彼を召して歸らせた。
◇哀公十八年
◇哀公十八年
【傳】十八年春,宋殺皇瑗。公聞其情,復皇氏之族,使皇緩為右師。
【伝】十八年春、宋國が皇瑗を殺した。哀公が實情を聞き、皇氏の族人を恢復し、皇緩をして右師を為らせた。
巴人伐楚,圍鄾。初,右司馬子國之卜也,觀瞻曰:“如志。”故命之。及巴師至,將卜帥。王曰:“寧如志,何卜焉?”使帥師而行。請承,王曰:“寢尹、工尹,勤先君者也。”三月,楚公孫寧、吳由於、薳固敗巴師於鄾,故封子國於析。君子曰:“惠王知志。《夏書》曰‘官占,唯能蔽志,昆命於元龜。’其是之謂乎!《志》曰:‘聖人不煩卜筮。’惠王其有焉!”夏,衛石圃逐其君起,起奔齊。衛侯輒自齊復歸,逐石圃,而復石魋與大叔遺。
巴人が楚を伐ち、鄾を包圍した。当初、右司馬子國が占卜し、觀瞻が曰わく、「願の如くあらん」。ゆえに彼を任命した。巴軍が到るに及び、將に主將を占卜せんとす。楚王が曰わく、「已に願の如し。何で必ずしも再び卜せん」。彼をして軍を率いて出發せしめた。副手を請うに、楚王が曰わく、「寢尹・工尹は皆先君のため勤勞の人なり」。三月、楚國公孫寧・吳由于・䓕固が鄾で巴軍を敗り、ゆえに析を子國に封給した。君子が曰わく、「惠王は志向を知れり。《夏書》に曰く、『官占はただ能く志向を斷定して、然る後に乃ち元龜に命ず』。説くは即ちこれか!《志》に曰く、『聖人は卜筮を煩勞せず』。惠王はおそらくこの如き德行あらん!」。夏、衛國石圃がその國君起を驅逐し、起が齊國に逃奔した。衛侯輒が齊國より再び歸り、石圃を驅逐し、石魋と太叔遺を恢復した。
◇哀公十九年
◇哀公十九年
【傳】十九年春,越人侵楚,以誤吳也。夏,楚公子慶、公孫寬追越師,至冥,不及,乃還。
【伝】十九年春、越人が楚國を侵犯し、以て呉國を迷惑せしめた。夏、楚國公子慶・公孫寬が越軍を追趕し、冥に至るも趕上せず、ここに返回した。
秋,楚沈諸梁伐東夷,三夷男女及楚師盟於敖。
秋、楚國沈諸梁が東夷を伐ち、三夷の男女が楚軍と敖で盟約を訂立した。
冬,叔青如京師,敬王崩故也。
冬、叔青が京師に至ったは敬王が崩逝せばなり。
◇哀公二十年
◇哀公二十年
【傳】二十年春,齊人來徵會。夏,會於廩丘。為鄭故,謀伐晉。鄭人辭諸侯,秋,師還。
【伝】二十年春、齊人が前來して會盟を征召した。夏、廩丘で會見した。鄭國の故を以て、晋を伐つを謀劃した。鄭人が諸侯に向かい推辭し、秋、軍隊が歸った。
吳公子慶忌驟諫吳子,曰:“不改,必亡。”弗聽。出居於艾,遂適楚。聞越將伐吳,冬,請歸平越,遂歸。欲除不忠者以說于越,吳人殺之。
呉公子慶忌が屢々呉子に勸諫して曰わく、「改めざれば、必ず滅亡せん」。聽かず。艾に出居し、ここに楚國に至った。越國が將に呉を伐たんと聞き、冬、歸りて越と講和するを請い、ここに國に歸った。不忠の人を除掉して以て越國を取悅せんと欲し、呉人が彼を殺した。
十一月,越圍吳。趙孟降於喪食。楚隆曰:“三年之喪,親暱之極也。主又降之,無乃有故乎!”趙孟曰:“黃池之役,先主與吳王有質,曰:‘好惡同之。’今越圍吳,嗣子不廢舊業而敵之,非晉之所能及也,吾是以為降。”楚隆曰:“若使吳王知之,若何?”趙孟曰:“可乎?”隆曰:“請嘗之。”乃往。先造于越軍,曰:“吳犯間上國多矣,聞君親討焉,諸夏之人莫不欣喜,唯恐君志之不從。請入視之。”許之。告於吳王曰:“寡君之老無恤,使陪臣隆敢展謝其不共。黃池之役,君之先臣志父得承齊盟,曰:‘好惡同之。’今君在難,無恤不敢憚勞。非晉國之所能及也,使陪臣敢展布之。”王拜稽首曰:“寡人不佞,不能事越,以為大夫憂,拜命之辱。”與之一簞珠,使問趙孟,曰:“句踐將生憂寡人,寡人死之不得矣。”王曰:“溺人必笑,吾將有問也,史黯何以得為君子?”對曰:“黯也進不見惡,退無謗言。”王曰:“宜哉。”
十一月、越國が吳國を包圍した。趙孟が喪食を更に低く降した。楚隆が曰わく、「三年之喪は親昵の極致なり。主が又降等す。ただ怕れて故あらんか!」。趙孟が曰わく、「黃池のあの一戰に、先主が呉王と誓約ありて曰く、『好惡相同す』。今越國が吳國を包圍す。嗣子は舊業を廢棄せずして往きて敵に抗するは晋國の能くする所にあらず。我はこれにより降等す」。楚隆が曰わく、「もし呉王に知らしめば、如何」。趙孟が曰わく、「可や」。隆が曰わく、「試みるを請います」。ここに前往した。先に越軍に至りて曰わく、「吳國が上國を侵犯離間すること已に多次なり。君が親しく討伐するを聞き、諸夏の人に高興せざるなし。ただ怕れて君の志向が實現する能わざらん。我をして入りて看るを許すを請います」。答應した。呉王に告げて曰わく、「寡君の老臣無恤が陪臣隆を遣わして謹んでここに不共を致歉せしむ。黃池のあの一戰に、君の先臣志父が齊盟に參與するを得て曰く、『好惡相同す』。今君は危難の中に在り。無恤は敢えて勞苦を怕れず。晋國の能くする所にあらざれば、陪臣を遣わして謹んでここに陳告せしむ」。呉王が拜して叩頭して曰わく、「寡人は不才にして、越國に事奉する能わず。大夫の憂慮と成れり。命令の屈辱に拜謝す」。彼に一簞の珠を給し、彼をして趙孟に問候せしめて曰わく、「句踐は將に寡人を活きて折磨せん。寡人は死を求めても能わず」。呉王が曰わく、「快く淹死せんとする人は必ずなお笑う。我に話ありて問わん。史黯は何を憑って能く君子を為さん」。對えて曰わく、「黯は進用せられて厭惡を見ず、退居するに謗言なし」。呉王が曰わく、「應當この如し」。
◇哀公二十一年
◇哀公二十一年
【傳】二十一年夏五月,越人始來。
【伝】二十一年夏五月、越人が始めて前來した。
秋八月,公及齊侯、邾子盟於顧。齊有責稽首,因歌之曰:“魯人之皋,數年不覺,使我高蹈。唯其儒書。以為二國憂。”
秋八月、哀公が齊侯・邾子と顧で盟約を訂立した。齊國の或る人が叩頭の事を責備し、ここに歌を唱して曰わく、「魯人の過錯、幾年も覺悟せず。逼りて我らを遠來せしむ。ただ彼らの儒書に因りて、兩國の憂慮と成れり」。
是行也,公先至於陽穀。齊閭丘息曰:“君辱舉玉趾,以在寡君之軍。群臣將傳遽以告寡君,比其復也,君無乃勤。為僕人之未次,請除館於舟道。”辭曰:“敢勤僕人?”
この一次の出行に、哀公が先に陽穀に到った。齊國閭丘息が曰わく、「君の玉趾を勞するを蒙り、來りて寡君の軍隊を慰問す。群臣は將に驛傳を以て寡君に報告せん。回報に及ぶまで、君はただ怕れて已に勞頓せん。僕人がまだ館舍を安排せざるを以て、舟道で館舍を清除するを請います」。推辭して曰わく、「怎で敢えて僕人を勞せむや」。
◇哀公二十二年
◇哀公二十二年
【傳】二十二年夏四月,邾隱公自齊奔越,曰:“吳為無道,執父立子。”
【伝】二十二年夏四月、邾隱公が齊國より越國に逃奔して曰わく、「呉國は無道にして、父を捉えて兒子を立てり」。
越人歸之,大子革奔越。
越人が彼を送り歸らせ、太子革が越國に逃奔した。
冬十一月丁卯,越滅吳。請使吳王居甬東,辭曰:“孤老矣,焉能事君?”乃縊。越人以歸。
冬十一月丁卯、越國が吳國を滅亡した。呉王をして甬東に住まわせんを請うに、推辭して曰わく、「孤は已に老いたり。どこに還能く君に事奉せん」。ここに自縊した。越人がその尸体を帶ち歸った。
◇哀公二十三年
◇哀公二十三年
【傳】二十三年春,宋景曹卒。季康子使冉有吊,且送葬,曰:“敝邑有社稷之事,使肥與有職競焉,是以不得助執紼,使求從輿人。曰:‘以肥之得備彌甥也,有不腆先人之產馬,使求薦諸夫人之宰,其可以稱旌繁乎?’”夏六月,晉荀瑤伐齊。高無丕帥師御之。知伯視齊師,馬駭,遂驅之,曰:“齊人知餘旗,其謂餘畏而反也。”乃壘而還。將戰,長武子請卜。知伯曰:“君告於天子,而卜之以守龜於宗祧,吉矣,吾又何卜焉?且齊人取我英丘,君命瑤,非敢耀武也,治英丘也。以辭伐罪足矣,何必卜?”壬辰,戰於犁丘。齊師敗績,知伯親禽顏庚。
【伝】二十三年春、宋景曹が去世した。季康子が冉有を遣わして弔唁し、かつ葬を送らせて曰わく、「敝邑に社稷の事ありて、肥をしても職務ありて競りて奔走せしめ、ゆえに紼を助くる能わず。求を遣わして輿人に跟隨せしむ。曰く、『肥が遠房の外甥に忝るを得るを以て、豐厚ならざる先人の産馬あり。求を遣わして夫人の家宰に進献せしむ。おそらく旌繁と相稱す可きか』」。夏六月、晋國荀瑤が齊を伐った。高無丕が軍を率いて抵御した。知伯が齊軍を察看するに、馬が驚を受け、即ち馬を驅りて上前して曰わく、「齊人は我が旗幟を認識す。怕れて我が畏懼して返回するを説かん」。ここに壘營して還った。將に交戰せんとし、長武子が占卜を請求した。知伯が曰わく、「國君は已に天子に報告し、又宗廟で守龜を以て占卜し、已に吉利せり。我は又何で必ずしも再び卜せん。況んや齊人が我らの英丘を奪取せり。國君が瑤に命令し、敢えて武力を炫耀せざるは英丘を治理するためなり。文辭を以て有罪を討伐すれば即ち足れり。何で必ずしも占卜せん」。壬辰、犁丘で交戰した。齊軍が大いに敗れ、知伯が親しく顏庚を擒獲した。
秋八月,叔青如越,始使越也。越諸鞅來聘,報叔青也。
秋八月、叔青が越國に至ったは始めて越國に出使すればなり。越國諸鞅が前來して聘問し、叔青に回報した。
◇哀公二十四年
◇哀公二十四年
【傳】二十四年夏四月,晉侯將伐齊,使來乞師,曰:“昔臧文仲以楚師伐齊,取谷。宣叔以晉師伐齊,取汶陽。寡君欲徼福於周公,願乞靈於臧氏。”臧石帥師會之,取廩丘。軍吏令繕,將進。萊章曰:“君卑政暴,往歲克敵,今又勝都。天奉多矣,又焉能進?是躗言也。役將班矣!”晉師乃還。餼臧石牛,大史謝之,曰:“以寡君之在行,牢禮不度,敢展謝之。”
【伝】二十四年夏四月、晋侯が將に齊を伐たんとし、人を遣わして來りて出兵を請い、曰わく、「昔臧文仲が楚軍を以て齊を伐ち、穀を取得せり。宣叔が晋軍を以て齊を伐ち、汶陽を取得せり。寡君は周公に向かい福を求め、臧氏に向かい靈を借らんを希う」。臧石が軍を率いて會合し、廩丘を取得した。軍吏が令を下して兵器を修繕し、將に前進せんとした。萊章が曰わく、「國君は地位低くして政事は暴虐なり。往年に敵人に戰勝し、今又都邑に勝過す。上天の給うは已に多し。又どこに能く再び前進せん。これは躗言なり。戰事は將に結束せん!」。晋軍はここに退還した。活牛を以て臧石を犒勞し、太史が致歉して曰わく、「寡君が行軍中に在るを以て、牢禮が規格に足らず。謹んでここに致歉す」。
邾子又無道,越人執之以歸,而立公子何。何亦無道。
邾子が又無道にして、越人が彼を捉えて帶ち歸り、公子何を立てた。何もまた無道なり。
公子荊之母嬖,將以為夫人,使宗人釁夏獻其禮。對曰:“無之。”公怒曰:“女為宗司,立夫人,國之大禮也,何故無之?”對曰:“周公及武公娶於薛,孝、惠娶於商,自桓以下娶於齊,此禮也則有。若以妾為夫人,則固無其禮也。”
公子荆の母が寵を得て、將に夫人に立てられんとし、宗人釁夏をして禮儀を呈上せしめた。對えて曰わく、「この如き禮なし」。哀公が發怒して曰わく、「あなたは宗司を為るに、夫人を立つるは國家の大禮なり。何で無しと説くか」。對えて曰わく、「周公と武公は薛に娶り、孝公・惠公は商に娶り、桓公より以下は齊に娶りき。この如き禮は有るなり。もし妾を以て夫人に立てば、本よりあの如き禮なし」。
公卒立之,而以荊為大子。國人始惡之。
哀公が終に彼女を立て、又荆を太子に立てた。國人が始めて彼を厭惡した。
閏月,公如越,得大子適郢,將妻公,而多與之地。公孫有山使告於季孫,季孫懼,使因大宰嚭而納賂焉,乃止。
閏月、哀公が越國に至り、太子適郢の歡心を得、越王が女兒を哀公に嫁せんと欲し、幷に多く土地を給えんとした。公孫有山が人を遣わして季孫に告げ、季孫が害怕し、人を遣わして太宰嚭を通じて賄賂を送上し、ここに作罷した。
◇哀公二十五年
◇哀公二十五年
【傳】二十五年夏五月庚辰,衛侯出奔宋。衛侯為靈臺於藉圃,與諸大夫飲酒焉。褚師聲子襪而登席,公怒,辭曰:“臣有疾,異於人。若見之,君將之,是以不敢。”公愈怒,大夫辭之,不可。褚師出,公戟其手,曰:“必斷而足。”聞之,褚師與司寇亥乘,曰:“今日幸而後亡。”公之入也,奪南氏邑,而奪司寇亥政。公使侍人納公文懿子之車於池。
【伝】二十五年夏五月庚辰、衛侯が宋に出奔した。衛侯が藉圃で靈臺を建て、諸大夫とそこで酒を飲んだ。褚師聲子が襪子を穿著して席に登り、衛侯が發怒した。彼が解釋して曰わく、「臣に病ありて、他人と一樣ならず。もし見れば、君は將に嘔吐せん。ゆえに敢えて脫がず」。衛侯が更加に發怒した。大夫が彼のため解釋するも許さず。褚師が出で、衛侯が手を戟形に撑えて曰わく、「必ずあなたの脚を砍斷せん」。褚師が聞き、司寇亥と一起に車に乘りて曰わく、「今日僥倖に能く逃走せん」。衛侯が國に歸る時、南氏の城邑を奪い、又司寇亥の政事を奪った。衛侯が侍人をして公文懿子の車子を池裏に推進せしめた。
初,衛人翦夏丁氏,以其帑賜彭封彌子。彌子飲公酒,納夏戊之女,嬖,以為夫人。其弟期,大叔疾之從孫甥也,少畜於公,以為司徒。夫人寵衰,期得罪。
当初、衛人が夏丁氏を翦滅し、その妻子財物を彭封彌子に賜えた。彌子が哀公に酒を請い、夏戊の女兒を進献し、寵を得、夫人に立てられた。その弟期は太叔疾の從孫甥にして、小時に哀公の所で養われ、彼を用いて司徒と為した。夫人の寵愛が衰減し、期が罪を得た。
公使三匠久。公使優狡盟拳彌,而甚近信之。故褚師比、公孫彌牟、公文要、司寇亥、司徒期因三匠與拳彌以作亂,皆執利兵,無者執斤。使拳彌入於公宮,而自大子疾之宮噪以攻公。鄄子士請御之。彌援其手,曰:“子則勇矣,將若君何?不見先君乎?君何所不逞欲?且君嘗在外矣,豈必不反?當今不可,眾怒難犯,休而易間也。”乃出。將適蒲,彌曰:“晉無信,不可。”將適鄄,彌曰:“齊、晉爭我,不可。”將適泠,彌曰:“魯不足與,請適城鉏以鉤越,越有君。”乃適城鋤。彌曰:“衛盜不可知也,請速,自我始。”乃載寶以歸。
哀公が三種の工匠を役使すること久し。哀公が優狡をして拳彌と結盟せしめ、又甚だ親近信任した。ゆえに褚師比・公孫彌牟・公文要・司寇亥・司徒期が三種の工匠と拳彌を借りて亂を作し、皆利兵器を持ち、なきは斧斤を拿った。拳彌をして公宮に進入せしめ、而して太子疾の宮裏より鼓噪して哀公を攻打した。鄄子士が抵御を請求した。彌がその手を拉住して曰わく、「あなたは倒是勇敢なり。將に國君をどうせん。先君を見ざるか。國君は何處か欲望を滿足する能わざらん。況んや國君はかつて外に在りき。あえて必ず歸來せざらんや。今は行かず。衆怒は犯し難く、事が平息して乃ち離間し易し」。ここに出奔した。將に蒲に往かんとし、彌が曰わく、「晋國に信用なし。不可なり」。將に鄄に往かんとし、彌が曰わく、「齊・晋が我らを爭奪す。不可なり」。將に泠に往かんとし、彌が曰わく、「魯國は結交するに足らず。城鉏に往きて以て越國を聯絡せんを請います。越國に賢君あり」。ここに城鋤に往った。彌が曰わく、「衛國の盜賊は測る可からず。快くせんを請います。我より開始せん」。ここに寶物を裝上して歸った。
公為支離之卒,因祝史揮以侵衛。衛人病之。懿子知之,見子之,請逐揮。
哀公が支離之卒を編み、祝史揮を借りて衛國を侵伐した。衛人がこれを以て患とした。懿子が知り、往きて子之に見え、揮を驅逐するを請求した。
文子曰:“無罪。”懿子曰:“彼好專利而妄。夫見君之入也,將先道焉。若逐之,必出於南門而適君所。夫越新得諸侯,將必請師焉。”揮在朝,使吏遣諸其室。揮出,信,弗內。五日,乃館諸外裡,遂有寵,使如越請師。
文子が曰わく、「罪なし」。懿子が曰わく、「彼は專權奪利を喜好し又狂妄なり。國君が將に進入せんとするを見れば、必ず先に往きて路を帶びん。もし彼を驅逐せば、彼は必ず南門より出でて國君の所に至らん。越國は新近に諸侯を得て、必ず出兵を請求せん」。揮が朝廷に在り、官吏を遣わして彼を家裏より打發して去らせた。揮が出で、兩夜を過ぎ、再び進入せしめず。五日の後、即ち彼を外里に住まわせ、ここに寵を得、彼を越國に遣わして出兵を請求せしめた。
六月,公至自越。季康子、孟武伯逆於五梧。郭重僕,見二子,曰:“惡言多矣,君請盡之。”公宴於五梧,武伯為祝,惡郭重,曰:“何肥也!”季孫曰:“請飲彘也。以魯國之密邇仇讎,臣是以不獲從君,克免於大行,又謂重也肥。”
六月、哀公が越國より歸った。季康子・孟武伯が五梧で迎接した。郭重が駕車し、二人に見えて曰わく、「壞話は已に多し。國君に盡く説出するを請います」。哀公が五梧で宴を設け、武伯が祝辭を致し、郭重を厭惡して曰わく、「何でこの如く肥か」。季孫が曰わく、「彘に酒を罰するを請います。魯國が仇敵に緊挨着するを以て、臣はこれにより國君に跟隨する能わず、遠行を免るるを得たに、卻って又重の肥を説く」。
公曰:“是食言多矣,能無肥乎?”飲酒不樂,公與大夫始有惡。
哀公が曰わく、「この人は食言すること太に多し。能く肥せざらんや」。酒を飲みて樂しまず、哀公と大夫が始めて惡感を有した。
◇哀公二十六年
◇哀公二十六年
【傳】二十六年夏五月,叔孫舒帥師會越皋如、後庸、宋樂茷,納衛侯。
【伝】二十六年夏五月、叔孫舒が軍を率いて越國皋如・后庸・宋國樂茷と會合し、衛侯を接納した。
文子欲納之,懿子曰:“君愎而虐,少待之,必毒於民,乃睦於子矣。”師侵外州,大獲。出御之,大敗。掘褚師定子之墓,焚之於平莊之上。文子使王孫齊私於皋如,曰:“子將大滅衛乎,抑納君而已乎?”皋如曰:“寡君之命無他,納衛君而已。”文子致眾而問焉,曰:“君以蠻夷伐國,國幾亡矣。請納之。”眾曰:“勿納。”曰:“彌牟亡而有益,請自北門出。”眾曰:“勿出。”重賂越人,申開守陴而納公,公不敢入。師還,立悼公,南氏相之,以城鉏與越人。公曰:“期則為此。”令苟有怨於夫人者,報之。司徒期聘于越。公攻而奪之幣。
文子が彼を接納せんと欲し、懿子が曰わく、「國君は剛愎にして又暴虐なり。稍く待てば、必ず百姓を毒害し、百姓は即ちあなたと親睦せん」。越軍が外州に侵入し、大有俘獲した。衛軍が城を出でて抵御し、大いに敗れた。褚師定子の墓を掘開し、平莊上で焚燒した。文子が王孫齊を遣わして私に皋如に問わせて曰わく、「あなたは衛國を大滅せんと欲するか、それともただ國君を接納する而已か」。皋如が曰わく、「寡君の命令に別なく、ただ衛君を接納する而已」。文子が衆人を召集して詢問して曰わく、「國君が蠻夷を帶びて本國を攻打し、國家は幾ほどく滅亡せり。彼を接納するを請います」。衆人が曰わく、「接納する勿れ」。曰わく、「もし彌牟が逃亡して益あれば、我をして北門より出でしめんを請います」。衆人が曰わく、「出でる勿れ」。重重に越人に賄賂し、大開城門・女牆を守住して哀公を接納するに、哀公は敢えて進入せず。軍隊が歸り、悼公を立て、南氏が彼を輔相し、城鉏を越人に給えた。哀公が曰わく、「是れ期がこの事を做れり」。令を下し、凡そ夫人に怨あるは皆可に報復せよと。司徒期が越國に聘問した。哀公が彼を攻打し、幣帛を奪走した。
期告王,王命取之。期以眾取之。公怒,殺期之甥之為大子者。遂卒于越。
期が越王に報告し、越王がそれを奪取するを命令した。期が衆人を帶びて奪取した。哀公が發怒し、期の外甥の中で太子を做るその人を殺した。ここに越國で死んだ。
宋景公無子,取公孫周之子得與啟,畜諸公宮,未有立焉。於是皇緩為右師,皇非我為大司馬,皇懷為司徒,靈不緩為左師,樂茷為司城,樂朱鉏為大司寇。六卿三族降聽政,因大尹以達。大尹常不告,而以其欲稱君命以令。國人惡之。司城欲去大尹,左師曰:“縱之,使盈其罪。重而無基,能無敝乎?”冬十月,公遊於空澤。辛巳,卒於連中。大尹興空澤之士千甲,奉公自空桐入,如沃宮。使召六子,曰:“聞下有師,君請六子畫。”六子至,以甲劫之,曰:“君有疾病,請二三子盟。”乃盟於少寢之庭,曰:“無為公室不利。”大尹立啟,奉喪殯於大宮。三日,而後國人知之。司城茷使宣言於國曰:“大尹惑蠱其君而專其利,今君無疾而死,死又匿之,是無他矣,大尹之罪也。”得夢啟北首而寢於盧門之外,己為鳥而集於其上,咮加於南門,尾加於桐門。曰:“餘夢美,必立。”大尹謀曰:“我不在盟,無乃逐我,復盟之乎?”使祝為載書,六子在唐盂。將盟之。祝襄以載書告皇非我,皇非我因子潞、門尹得、左師謀曰:“民與我,逐之乎?”皆歸授甲,使徇於國曰:“大尹惑蠱其君,以陵虐公室。與我者,救君者也。”眾曰:“與之。”大尹徇曰:“戴氏、皇氏將不利公室,與我者,無憂不富。”眾曰:“無別。”戴氏、皇氏欲伐公,樂得曰:“不可。彼以陵公有罪,我伐公,則甚焉。”使國人施於大尹,大尹奉啟以奔楚,乃立得。司城為上卿,盟曰:“三族共政,無相害也。”
宋景公に兒子なく、公孫周の兒子得と啟を公宮で養い、まだ誰を立てず。當時皇緩が右師を為し、皇非我が大司馬を為し、皇懷が司徒を為し、靈不緩が左師を為し、樂茷が司城を為し、樂朱鉏が大司寇を為した。六卿三族が共同に政を聽き、大尹を通じて國君に上達した。大尹は常に禀告せずして、卻って自らの欲望に按って君命を假稱して以て令を發した。國人が彼を厭惡した。司城が大尹を去掉せんと欲し、左師が曰わく、「彼を放任して、その罪惡を滿盈せしめよ。權勢重くして根基なければ、能く敗壞せざらんや」。冬十月、景公が空澤で游玩した。辛巳、連中で死んだ。大尹が空澤の甲士一千人を發動し、景公を奉じて空桐より城に入り、沃宮に到った。人を遣わして六卿を召して曰わしめ、「都城の下に軍隊ありと聞く。國君が六位に謀劃するを請う」。六卿が到れば、甲士を以て彼らを脅迫して曰わく、「國君に病あり。幾位に盟約を訂立するを請う」。ここに少寢の庭中で結盟して曰わく、「公室に不利の事を為す勿れ」。大尹が啟を立て、靈柩を大宮に停放した。三日の後に國人が乃ち知った。司城茷が人を遣わして國中に宣揚して曰わしめ、「大尹がその國君を蠱惑して其利を專有し、今國君は疾病なくして死し、死して又隱瞞す。別の故なく、是れ大尹の罪なり」。得が啟が頭を北に向けて盧門之外に睡り、自己が鳥と變成して彼の身上に停り、喙が南門に夠り、尾が桐門に夠るを夢見た。曰わく、「我が夢は好し。必ず立つる能し」。大尹が謀劃して曰わく、「我は盟約の中に在らず。ただ怕れて我を驅逐せん。再び彼らと結盟せんか」。祝をして載書を作らせ、六卿が唐盂に在り。將に結盟せんとす。祝襄が載書を皇非我に告げた。皇非我が子潞・門尹得・左師に因りて謀劃して曰わく、「百姓は我らに向く。彼を驅逐せんか」。皆歸りて甲胄を發放し、人を遣わして國中に巡行して曰わしめ、「大尹がその國君を蠱惑し、欺陵虐害して公室を害す。我らに跟うは國君を救う人なり」。衆人が曰わく、「彼に跟え」。大尹が巡行して曰わく、「戴氏・皇氏は將に公室に不利せん。我に跟うは富まざるを擔心する勿れ」。衆人が曰わく、「分別なし」。戴氏・皇氏が啟を攻打せんと欲し、樂得が曰わく、「不可なり。彼は公を欺陵するを以て罪あり。我らが公を攻打せば、更に過分なり」。國人をして大尹に罪を問わしめ、大尹が啟を奉じて楚國に逃奔し、ここに得を立てた。司城が上卿を為し、盟約に曰わく、「三族が共同に執政し、互相傷害する勿れ」。
衛出公自城鉏使以弓問子贛,且曰:“吾其入乎?”子贛稽首受弓,對曰:“臣不識也。”私於使者曰:“昔成公孫於陳,甯武子、孫莊子為宛濮之盟而君入。獻公孫於衛齊,子鮮、子展為夷儀之盟而君入。今君再在孫矣,內不聞獻之親,外不聞成之卿,則賜不識所由入也。《詩》曰:‘無競惟人,四方其順之。’若得其人,四方以為主,而國於何有?”
衛出公が城鉏より人を遣わして弓を帶びて子贛を問候し、かつ曰わしめ、「我はおそらく國に歸る能わんか」。子贛が叩頭して弓を接受し、對えて曰わく、「臣は知らず」。私に使者に對して曰わく、「昔成公が陳に出奔し、寧武子・孫莊子が宛濮之盟を為して國君が國に歸るを得たり。獻公が衛齊に出奔し、子鮮・子展が夷儀之盟を為して國君が國に歸るを得たり。今國君が再び出奔するに、內に獻公の如き親人あらんを聞かず、外に成公の時の如き卿あらんを聞かず。然らば賜は何を憑って國に歸るを知らん。《詩》に曰く、『强盛はただ人を得るに在り。四方は皆順從せん』。もしあの如き人を得れば、四方が彼を主と奉じ、國を得るに又何の難かあらん」。
◇哀公二十七年
◇哀公二十七年
【傳】二十七年春,越子使後庸來聘,且言邾田,封於駘上。
【伝】二十七年春、越子が后庸を遣わして前來聘問し、かつ邾國の田地に談及し、駘上を以て邊界と為した。
二月,盟於平陽,三子皆從。康子病之,言及子贛,曰:“若在此,吾不及此夫!”武伯曰:“然。何不召?”曰:“固將召之。”文子曰:“他日請念。”
二月、平陽で盟約を訂立し、三子が皆跟從した。康子がこれに對して羞恥を感じ、子贛に談及して曰わく、「もし彼がここに在らば、我はこの歩に落らざらん!」。武伯が曰わく、「是れ然り。何で彼を召さざるか」。曰わく、「本より彼を召さんとす」。文子が曰わく、「以後この話を記住するを請います」。
夏四月己亥,季康子卒。公吊焉,降禮。
夏四月己亥、季康子が去世した。哀公が往きて吊唁し、禮數を降低した。
晉荀瑤帥師伐鄭,次於桐丘。鄭駟弘請救於齊。齊師將興,陳成子屬孤子,三日朝。設乘車兩馬,系五色焉。召顏涿聚之子晉,曰:“隰之役,而父死焉。
晋國荀瑤が軍を率いて鄭を伐ち、桐丘に駐紮した。鄭國駟弘が齊國に向かい救を求めた。齊軍が將に出發せんとし、陳成子が死難者の孤兒を集合し、接連三日に朝見した。一輛の乘車兩匹馬を設置し、五色の絲帶を繫上した。顏涿聚の兒子晋を召來し、曰わく、「隰のあの一戰に、あなたの父はそこで死せり。
以國之多難,未女恤也。今君命女以是邑也,服車而朝,毋廢前勞。”乃救鄭。
(陳成子が続いて説く:)國家に難多きを以て、あなたを撫恤せざりき。今國君がこの座の城邑をあなたに任命す。車に乘りて朝見し、先前の功勞を廢棄する勿れ」。ここに兵を出して鄭を救った。
及留舒,違谷七里,穀人不知。及濮,雨,不涉。子思曰:“大國在敝邑之宇下,是以告急。今師不行,恐無及也。”成子衣制,杖戈,立於阪上,馬不出者,助之鞭之。知伯聞之,乃還,曰:“我卜伐鄭,不卜敵齊。”使謂成子曰:“大夫陳子,陳之自出。陳之不祀,鄭之罪也。故寡君使瑤察陳衷焉。謂大夫其恤陳乎?若利本之顛,瑤何有焉?”成子怒曰:“多陵人者皆不在,知伯其能久乎?”中行文子告成子曰:“有自晉師告寅者,將為輕車千乘,以厭齊師之門,則可盡也。”
留舒に到達し、穀に距離七里にして、穀人がまだ知らず。濮に到達し、雨が降り、河を渡らず。子思が曰わく、「大國は即ち敝邑の屋檐下に在り。ゆえに急を告げり。今軍隊が前進せざれば、恐らく及ばざらん」。成子が雨衣を穿著し、戈を拄きて坡上に立ち、馬の肯んじて出でざるあれば、即ち幫けて鞭打した。知伯が聞き、ここに退還して曰わく、「我が占卜せしは鄭を伐つなり。齊と敵と為るを占卜せざりき」。人を遣わして成子に對して曰わしめ、「大夫陳子は陳國より分出せしなり。陳國が祀を絶つのは鄭國の罪過なり。ゆえに寡君が瑤を遣わして陳國の衷曲を察看せしむ。大夫が陳國を體恤するや否やを請問す。もし本根の顛覆を以て利と為せば、瑤に又何かあらん」。成子が發怒して曰わく、「常に他人を欺凌するは皆善終を得ず。知伯はあえて能く長久せんや」。中行文子が成子に告げて曰わく、「或る人が晋軍より來りて寅に告ぐるに、晋軍は將に輕車千乘を以て往きて齊軍の營門を壓迫し、即ち齊軍を消滅し盡くす可し」。
成子曰:“寡君命恆曰:‘無及寡,無畏眾。’雖過千乘,敢闢之乎?將以子之命告寡君。”文子曰:“吾乃今知所以亡。君子之謀也,始衷終皆舉之,而後入焉。今我三不知而入之,不亦難乎?”公患三桓之侈也,欲以諸侯去之。三桓亦患公之妄也,故君臣多間。公遊於陵阪,遇孟武伯於孟氏之衢,曰:“請有問於子,餘及死乎?”對曰:“臣無由知之。”三問,卒辭不對。公欲以越伐魯,而去三桓。秋八月甲戌,公如公孫有陘氏,因孫於邾,乃遂如越。國人施公孫有山氏。
成子が曰わく、「寡君が恒に命令して曰く、『人少なきを欺凌する勿れ、人多きを畏懼する勿れ』。たとえ相手が千乘を超過するも、敢えて躲避せんや。將にあなたの命令を以て寡君に報告せん」。文子が曰わく、「我は今日に至りて乃ち自己の滅亡する所以の故を知れり。君子の謀劃は始・中・終を皆考慮して、然る後に乃ち行動す。今我は三樣を皆知らずして行動するは、また難くないか」。哀公が三桓の奢侈を憂慮し、諸侯を借りて彼らを去掉せんと欲した。三桓もまた哀公の狂妄を憂慮し、ゆえに君臣の間に嫌隙が多し。哀公が陵阪で游玩し、孟氏之衢で孟武伯に遇い、曰わく、「あなたに向かい一件を問うを請う。我は死するまで還將に及ぶか」。對えて曰わく、「臣は知る由なし」。三次問うて、終に推辭して答えず。哀公が越國を借りて魯國を討伐し、三桓を去掉せんと欲した。秋八月甲戌、哀公が公孫有陘氏の所に至り、続いて邾に出奔し、ここに越國に就き往いた。國人が公孫有山氏に罪を問うた。
悼之四年,晉荀瑤帥師圍鄭。未至,鄭駟弘曰:“知伯愎而好勝,早下之,則可行也。”乃先保南里以待之。知伯入南里,門於桔柣之門。鄭人俘酅魁壘,賂之以知政,閉其口而死。將門,知伯謂趙孟:“入之。”對曰:“主在此。”
悼公四年、晋國荀瑤が軍を率いて鄭國を包圍した。まだ到達せざるに、鄭國駟弘が曰わく、「知伯は剛愎にして又勝を好む。早く彼に屈服すれば、即ち彼を退走せしむる可し」。ここに先に南里を守住して等待した。知伯が南里に入り、桔柣之門を攻打した。鄭人が酅魁壘を俘虜し、彼をして國政に參與せしむるを以て誘降するに、彼は口を閉じて死んだ。將に門を攻めんとし、知伯が趙孟に對して曰わく、「進入せよ」。對えて曰わく、「主はここに在り」。
知伯曰:“惡而無勇,何以為子?”對曰:“以能忍恥,庶無害趙宗乎!”知怕不悛,趙襄子由是惎知伯,遂喪之。知伯貪而愎,故韓、魏反而喪之。
知伯が曰わく、「相貌が醜くして又勇氣なし。何を憑って後嗣に立てられしや」。對えて曰わく、「能く恥辱を忍受するを以て、おそらく趙氏の宗族を危害せざる可きか!」。知伯が改めず。趙襄子はこれにより知伯を惎り、終に彼をして滅亡せしめた。知伯は貪婪にして又剛愎なり。ゆえに韓・魏が反って彼を滅亡せしめた。
