昭公(元年~三十二年)
孔子在陳,聞火,曰:“其桓、僖乎!”劉氏、范氏世為婚姻,萇弘事劉文公,故周與范氏。趙鞅以為討。六月癸卯,周人殺萇弘。
孔子が陳に在り、火災を聞き、曰わく、「おそらく桓宮・僖宮か!」。劉氏・范氏が世代に通婚し、萇弘が劉文公に事奉し、ゆえに周が范氏に親附した。趙鞅がこれにより討問した。六月癸卯、周人が萇弘を殺した。
秋,季孫有疾,命正常曰:“無死。南孺子之子,男也,則以告而立之。女也,則肥也可。”季孫卒,康子即位。既葬,康子在朝。南氏生男,正常載以如朝,告曰:“夫子有遺言,命其圉臣曰:‘南氏生男,則以告於君與大夫而立之。’今生矣,男也,敢告。”遂奔衛。康子請退。公使共劉視之,則或殺之矣,乃討之。召正常,正常不反。
秋、季孫に病ありて、正常に命令して曰わく、「殉死する勿れ。南孺子の兒子は、男ならば、即ち報告して彼を立てよ。女ならば、然らば肥が即ち可」。季孫が卒し、康子が即位した。已に下葬し、康子が朝に在り。南氏が男孩を生み、正常が車を以て載せて朝上に至り、報告して曰わく、「夫子に遺言ありて、その圉臣に命令して曰く、『南氏が男孩を生めば、即ち君と大夫に報告して彼を立てよ』。今生めり。男なり。敢えて報告す」。ここに衛に逃奔した。康子が退位を請うた。公が共劉を遣わして看るに、兒子は已に殺されており、ここに追究した。正常を召すに、正常が歸らず。
冬十月,晉趙鞅圍朝歌,師於其南。荀寅伐其郛,使其徒自北門入,己犯師而出。癸丑,奔邯鄲。十一月,趙鞅殺士皋夷,惡范氏也。
冬十月、晋趙鞅が朝歌を包圍し、軍隊がその南面に在り。荀寅が外城を攻打し、その徒衆に北門より進入せしめ、自ら晋師を衝破して出た。癸丑、邯鄲に逃奔した。十一月、趙鞅が士皋夷を殺掉したは范氏を憎惡せばなり。
◇哀公四年
◇哀公四年
【經】四年春王二月庚戌,盜殺蔡侯申。蔡公孫辰出奔吳。葬秦惠公。宋人執小邾子。夏,蔡殺其大夫公孫姓、公孫霍。晉人執戎蠻子赤歸於楚。城西郛。
【経】四年春、周天子の暦の二月庚戌、盜賊が蔡侯申を殺掉した。蔡公孫辰が呉に出奔した。秦惠公を葬った。宋人が小邾子を捉えた。夏、蔡がその大夫公孫姓・公孫霍を殺した。晋人が戎蠻子赤を捉えて楚に送った。西邊外城を修築した。
六月辛丑,亳社災。秋八月甲寅,滕子結卒。冬十有二月,葬蔡昭公。葬滕頃公。
六月辛丑、亳社が失火した。秋八月甲寅、滕子結が卒した。冬十二月、蔡昭公を葬った。滕頃公を葬った。
【傳】四年春,蔡昭侯將如吳,諸大夫恐其又遷也,承,公孫翩逐而射之,入於家人而卒。以兩矢門之。眾莫敢進。文之鍇後至,曰:“如牆而進,多而殺二人。”鍇執弓而先,翩射之,中肘。鍇遂殺之。故逐公孫辰,而殺公孫姓、公孫盱。
【伝】四年春、蔡昭侯が將に呉に至らんとし、諸大夫が彼の又遷徙せんを怕れ、機に趁り、公孫翩が追著して彼を射、彼が民家に進入して然る後に卒した。兩支の箭を以て門を守った。衆人が敢えて進まず。文之鍇が後に至りて曰わく、「牆の如く進め。最多兩個人を殺掉せん」。鍇が弓を持ちて前に在り、翩が彼を射て肘に中った。鍇はここに翩を殺した。ゆえに公孫辰を趕走し、公孫姓・公孫盱を殺掉した。
夏,楚人既克夷虎,乃謀北方。左司馬眅、申公壽餘、葉公諸梁致蔡於負函,致方城之外於繒關,曰:“吳將溯江入郢,將奔命焉。”為一昔之期,襲梁及霍。單浮餘圍蠻氏,蠻氏潰。蠻子赤奔晉陰地。司馬起豐、析與狄戎,以臨上雒。左師軍於菟和,右師軍於倉野,使謂陰地之命大夫士蔑曰:“晉、楚有盟,好惡同之。若將不廢,寡君之願也。不然,將通於少習以聽命。”士蔑請諸趙孟。
夏、楚人が已に夷虎に戰勝し、ここに北方を謀劃した。左司馬眅・申公壽余・葉公諸梁が負函で蔡人を集合し、繒關で方城之外の人を集合して曰わく、「呉は將に江を逆して郢に入らん。將に奔走して命を聽かん」。一個夜裏の期限を約定し、梁と霍を襲擊した。單浮余が蠻氏を包圍し、蠻氏が潰散した。蠻子赤が晋の陰地に逃奔した。司馬が豐・析と狄戎を發動し、上雒に逼近した。左師が菟和に駐し、右師が倉野に駐し、人を遣わして陰地の命大夫士蔑に對して曰わく、「晋・楚に盟約ありて、好惡相同す。もし廢棄せざれば、是れ寡君の願望なり。然らざれば、將に少習を打通して以て命を聽かん」。士蔑が趙孟に請示した。
趙孟曰:“晉國未寧,安能惡於楚,必速與之。”士蔑乃致九州之戎。將裂田以與蠻子而城之,且將為之卜。蠻子聽卜,遂執之,與其五大夫,以畀楚師於三戶。
趙孟が曰わく、「晋國はまだ安寧せず。どこに能く楚と怨を結ばん。必ず速く彼に給え」。士蔑がここに九州の戎を召集した。將に田を劃して蠻子に給し城を築き、かつ將に彼のため占卜せんとした。蠻子が來りて卜を聽くに、ここに彼とその五位の大夫を捉え、三戶で楚師に交した。
司馬致邑,立宗焉,以誘其遺民,而盡俘以歸。
司馬が城邑を設置し、宗廟を建立し、以てその遺民を引誘し、全部俘虜して帶ち歸った。
秋七月,齊陳乞、弦施、衛寧跪救范氏。庚午,圍五鹿。九月,趙鞅圍邯鄲。
秋七月、齊陳乞・弦施・衛寧跪が范氏を救援した。庚午、五鹿を包圍した。九月、趙鞅が邯鄲を包圍した。
冬十一月,邯鄲降。荀寅奔鮮虞,趙稷奔臨。十二月,弦施逆之,遂墮臨。國夏伐晉,取邢、任、欒、鄗、逆畤、陰人、盂、壺口。會鮮虞,納荀寅於柏人。
冬十一月、邯鄲が投降した。荀寅が鮮虞に逃奔し、趙稷が臨に逃奔した。十二月、弦施が彼を迎接し、ここに臨を拆毀した。國夏が晋を伐ち、邢・任・欒・鄗・逆畤・陰人・盂・壺口を取得した。鮮虞と會合し、荀寅を柏人に送入した。
◇哀公五年
◇哀公五年
【經】五年春,城毗。夏,齊侯伐宋。晉趙鞅帥師伐衛。秋九月癸酉,齊侯杵臼卒。冬,叔還如齊。閏月,葬齊景公。
【経】五年春、毗を修築した。夏、齊侯が宋を伐った。晋趙鞅が師を率いて衛を伐った。秋九月癸酉、齊侯杵臼が卒した。冬、叔還が齊に至った。閏月、齊景公を葬った。
【傳】五年春,晉圍柏人,荀寅、士吉射奔齊。初,范氏之臣王生惡張柳朔,言諸昭子,使為柏人。昭子曰:“夫非而仇乎?”對曰:“私仇不及公,好不廢過,惡不去善,義之經也。臣敢違之?”及范氏出,張柳朔謂其子:“爾從主,勉之!我將止死,王生授我矣。吾不可以僣之。”遂死於柏人。
【伝】五年春、晋が柏人を包圍し、荀寅・士吉射が齊に逃奔した。当初、范氏の臣王生が張柳朔を惡み、昭子に告げて彼を柏人の宰と為さしめた。昭子が曰わく、「彼はあなたの仇人にあらずや」。對えて曰わく、「私仇は公事に涉及せず、喜好は過失を廢棄せず、厭惡は善を除去せず。是れ義の經常なり。臣は敢えて違背せんや」。范氏が國を出でるに及び、張柳朔がその兒子に對して曰わく、「あなたは主上に從い、努力せよ!我は將に留下して死せん。王生がこれを我に交せり。我は辜負すべからず」。ここに柏人で死んだ。
夏,趙鞅伐衛,范氏之故也,遂圍中牟。
夏、趙鞅が衛を伐ったは范氏の故を以てなり。ここに中牟を包圍した。
齊燕姬生子,不成而死,諸子鬻姒之子荼嬖。諸大夫恐其為大子也,言於公曰:“君之齒長矣,未有大子,若之何?”公曰:“二三子間於憂虞,則有疾疢。
齊燕姬が兒子を生むも、成年せずして死し、諸子の中に鬻姒の兒子荼が寵を受けた。諸大夫が彼の太子と立てられんを怕れ、公に對して曰わく、「君の年齒は長れども、まだ太子なし。どうせん」。公が曰わく、「あなたら几位が憂慮の裏に夾まれば、即ち疾病あらん。
亦姑謀樂,何憂於無君?”公疾,使國惠子、高昭子立荼,置群公子於萊。秋,齊景公卒。冬十月,公子嘉、公子駒、公子黔奔衛,公子鉏、公子陽生來奔。萊人歌之曰:“景公死乎不與埋,三軍之事乎不與謀。師乎師乎,何黨之乎?”鄭駟秦富而侈,嬖大夫也,而常陳卿之車服於其庭。鄭人惡而殺之。子思曰:“《詩》曰:‘不解於位,民之攸塈。’不守其位,而能久者鮮矣。《商頌》曰:‘不僣不濫,不敢怠皇,命以多福。’”
も姑く歡樂を謀求せよ。何で必ずしも君なきを憂慮せん」。公が病を患い、國惠子・高昭子に荼を立てしめ、群公子を萊に安置した。秋、齊景公が卒した。冬十月、公子嘉・公子駒・公子黔が衛に逃奔し、公子鉏・公子陽生が來奔した。萊人が歌を唱して曰わく、「景公が死してや埋に參與せず、三軍の事や謀に參與せず。衆人や衆人、將にどの邊に投向せん」。鄭駟秦が富有にして侈靡し、嬖大夫なれども、卻って常常に庭裏に卿の車服を陳列した。鄭人が厭惡して彼を殺した。子思が曰わく、「《詩經》に曰く、『位子上に懈殆せざれば、民はこれにより安息す』。その位を守らずして、能く長久するは少し。《商頌》に曰く、『僭越せず濫施せず、敢えて怠惰遑暇せず、これを以て多福を承受す』」。
◇哀公六年
◇哀公六年
【經】六年春,城邾瑕。晉趙鞅帥師伐鮮虞。吳伐陳。夏,齊國夏及高張來奔。叔還公吳於柤。秋七月庚寅,楚子軫卒。齊陽生入齊。齊陳乞弒其君荼。
【経】六年春、邾瑕を修築した。晋趙鞅が師を率いて鮮虞を伐った。呉が陳を伐った。夏、齊國夏と高張が來奔した。叔還が柤で呉と會合した。秋七月庚寅、楚子軫が卒した。齊陽生が齊に入った。齊陳乞がその君荼を弑した。
冬,仲孫何忌帥師伐邾。宋向巢帥師伐曹。
冬、仲孫何忌が師を率いて邾を伐った。宋向巢が師を率いて曹を伐った。
【傳】六年春,晉伐鮮虞,治范氏之亂也。
【伝】六年春、晋が鮮虞を伐ったは范氏の亂を懲治するなり。
吳伐陳,復修舊怨也。楚子曰:“吾先君與陳有盟,不可以不救。”乃救陳,師於城父。
呉が陳を伐ち、再び舊怨を重修した。楚子が曰わく、「我が先君は陳と盟あり。救わざる可からず」。ここに陳を救い、軍隊が城父に駐した。
齊陳乞偽事高、國者,每朝必驂乘焉。所從必言諸大夫,曰:“彼皆偃蹇,將棄子之命。皆曰:‘高、國得君,必逼我,盍去諸?’固將謀子,子早圖之。
齊陳乞が高氏・國氏に事奉するを假裝し、上朝するごとに必ず驂乘を為した。跟從する所は必ず諸大夫の壞話を説いて曰わく、「彼らは皆傲慢にして、將にあなたの命令を拋棄せんとす。皆曰く、『高氏・國氏が君を得れば、必ず我らを逼迫せん。何で彼らを除掉せざるか』。彼らは本より將にあなたに對付するを謀劃せん。あなたは早く考慮せよ。
圖之,莫如盡滅之。需,事之下也。”及朝,則曰:“彼虎狼也,見我在子之側,殺我無日矣。請就之位。”又謂諸大夫曰:“二子者禍矣!恃得君而欲謀二三子,曰:‘國之多難,貴寵之由,盡去之而後君定。’既成謀矣,盍及其未作也,先諸?作而後悔,亦無及也。”大夫從之。
考慮すれば、彼らを全部消滅するに如かず。遲疑は事の下策なり」。上朝するに及べば、即ち曰わく、「彼らは虎狼なり。我があなたの身邊に在るを見れば、我を殺すに幾日ならじ。我をして彼らの位子上に至らしむるを請う」。又諸大夫に對して曰わく、「この兩位に禍あり!君を得るを仗恃してあなたら几位に對付するを想うて曰く、『國家の多難は貴寵により。全部除掉して然る後に君が乃ち安定せん』。已に謀劃完成せり。何で彼らのまだ手を動かさざるに趁みて、先に動かざるか。手を動かして後に再び後悔するも、及ばざるなり」。大夫が聽き從った。
夏六月戊辰,陳乞、鮑牧及諸大夫,以甲入於公宮。昭子聞之,與惠子乘如公,戰於莊,敗。國人追之,國夏奔莒,遂及高張、晏圉、弦施來奔。
夏六月戊辰、陳乞・鮑牧と諸大夫が甲を帶びて公宮に入った。昭子が聞き、惠子と車を乘りて公の所に至り、莊で作戰し、戰敗した。國人が追趕し、國夏が莒に逃奔し、隨後に高張・晏圉・弦施と來奔した。
秋七月,楚子在城父,將救陳。卜戰,不吉;卜退,不吉。王曰:“然則死也!再敗楚師,不如死。棄盟逃仇,亦不如死。死一也,其死仇乎!”命公子申為王,不可;則命公子結,亦不可;則命公子啟,五辭而後許。將戰,王有疾。
秋七月、楚子が城父に在り、將に陳を救わんとした。作戰を占卜すれば吉利ならず、撤退を占卜すれば吉利ならず。王が曰わく、「然らば即ち死なり!再び楚師を戰敗せしむるは死に如かず。盟約を拋棄し仇敵を逃避するも、また死に如かず。死は一樣なり。なお仇敵の所で死せん」。公子申を任命して王と為すに答應せず、即ち公子結を任命するも、また答應せず、即ち公子啟を任命するに、五次推辭して然る後に答應した。將に作戰せんとして、王に病あり。
庚寅,昭王攻大冥,卒於城父。子閭退,曰:“君王舍其子而讓,群臣敢忘君乎?從君之命,順也。立君之子,亦順也。二順不可失也。”與子西、子期謀,潛師閉塗,逆越女之子章,立之而後還。
庚寅、昭王が大冥を攻打し、城父で死んだ。子閭が退きて曰わく、「君王がその兒子を舍棄して禪讓せり。群臣は敢えて君を忘れんや。君の命令に跟從するは順なり。君の兒子を立つるも、また順なり。兩樣の順は失う可からず」。子西・子期と謀劃し、軍隊を隱蔽し道路を封閉し、越女の兒子章を迎接し、彼を立てて然る後に歸った。
是歲也,有云如眾赤鳥,夾日以飛,三日。楚子使問諸周大史。周大史曰:“其當王身乎!若禜之,可移於令尹、司馬。”王曰:“除腹心之疾,而置諸股肱,何益?不穀不有大過,天其夭諸?有罪受罰,又焉移之?”遂弗禜。
この年、雲ありて許多の赤鳥の如く、日を夾みて飛び、三日なり。楚子が人を遣わして周太史に詢問せしめた。周太史が曰わく、「おそらく王の身上に應せんか!もし禜祭を行えば、令尹・司馬に轉移す可し」。王が曰わく、「腹心の病害を除去して、卻って股肱上に放つは、何の益處かあらん。不穀がもし大過なくば、天はあえて我を夭折せんや。罪あれば懲罰を接受し、又どこに轉移せん」。ここに禜祭を行わず。
初,昭王有疾。卜曰:“河為祟。”王弗祭。大夫請祭諸郊,王曰:“三代命祀,祭不越望。江、漢、雎、漳,楚之望也。禍福之至,不是過也。不穀雖不德,河非所獲罪也。”遂弗祭。孔子曰:“楚昭王知大道矣!其不失國也,宜哉!《夏書》曰:‘惟彼陶唐,帥彼天常,有此冀方。今失其行,亂其紀綱,乃滅而亡。’又曰:‘允出茲在茲。’由己率常可矣。”
当初、昭王に病あり。占卜して曰わく、「河神が作祟す」。王が祭祀せず。大夫が郊で祭祀するを請うに、王が曰わく、「三代の規定する祭祀は、祭は望を越えず。江・漢・雎・漳は楚の望なり。禍福の到來はこれらを超過せず。不穀は德なき雖も、河は我の獲罪する所にあらず」。ここに祭祀せず。孔子が曰わく、「楚昭王は大道を知れり!彼が國を失去せざるは應なり!《夏書》に曰く、『あの陶唐は、あの天の常道に遵循し、この冀方を據有せり。今その行為を失去し、紀綱を擾亂し、ここに滅亡せり』。又曰く、『誠信はこれより出でれば即ちこれに在り』。自ら常道に遵循すれば即ち可なり」。
八月,齊邴意茲來奔。
八月、齊邴意兹が來奔した。
陳僖子使召公子陽生。陽生駕而見南郭且於,曰:“嘗獻馬於季孫,不入於上乘,故又獻此,請與子乘之。”出萊門而告之故。闞止知之,先待諸外。公子曰:“事未可知,反,與壬也處。”戒之,遂行。逮夜,至於齊,國人知之。僖子使子士之母養之,與饋者皆入。
陳僖子が人を遣わして公子陽生を召した。陽生が車を駕して南郭且于に見えに往きて曰わく、「かつて季孫に馬を献ずるも、上乘に進入する能わず。ゆえに又この匹を献ず。あなたと一起に乘るを請う」。萊門を出でて乃ち故を告げた。闞止が知り、先に外で等待した。公子が曰わく、「事はなお知る可からず。歸りて壬と相處せよ」。彼に告誡し、ここに出發した。夜に趕到し、齊に到達し、國人が知った。僖子が子士の母に彼を養わせ、食物を送る人と一起に進入した。
冬十月丁卯,立之。將盟,鮑子醉而往。其臣差車鮑點曰:“此誰之命也?”陳子曰:“受命於鮑子。”遂誣鮑子曰:“子之命也。”鮑子曰:“女忘君之為孺子牛而折其齒乎?而背之也!”悼公稽首,曰:“吾子奉義而行者也。若我可,不必亡一大夫。若我不可,不必亡一公子。義則進,否則退,敢不唯子是從?廢興無以亂,則所願也。”鮑子曰:“誰非君之子?”乃受盟。使胡姬以安孺子如賴。去鬻姒,殺王甲,拘江說,囚王豹於句竇之丘。
冬十月丁卯、彼を立てた。將に結盟せんとし、鮑子が醉って前往した。その臣差車鮑點が曰わく、「これは誰の命令ぞ」。陳子が曰わく、「鮑子より命令を接受せり」。ここに鮑子を誣稱して曰わく、「是れあなたの命令なり」。鮑子が曰わく、「あなたは君が孺子のため牛を當りて卻って牙齒を折れたを忘れたか。卻って彼を背叛す!」。悼公が叩頭して曰わく、「吾子は義を奉じて行事する人なり。もし我が可ならば、必ず一位の大夫を死掉する要なし。もし我が可ならざれば、必ず一位の公子を死掉する要なし。義に合えば即ち進み、否なれば即ち退く。敢えてあなたのみに聽從せざらんや。廢立がこれにより亂を作さざれば、即ち願う所なり」。鮑子が曰わく、「誰が君の兒子にあらざらん」。ここに盟約を接受した。胡姬をして安孺子を帶びて賴に至らしめた。鬻姒を去掉し、王甲を殺掉し、江說を拘囚し、王豹を句竇之丘に囚禁した。
公使朱毛告於陳子,曰:“微子則不及此。然君異於器,不可以二。器二不匱,君二多難,敢布諸大夫。”僖子不對而泣,曰:“君舉不信群臣乎?以齊國之困,困又有憂。少君不可以訪,是以求長君,庶亦能容群臣乎!不然,夫孺子何罪?”毛覆命,公悔之。毛曰:“君大訪於陳子,而圖其小可也。”使毛遷孺子於駘,不至,殺諸野幕之下,葬諸殳冒淳。
公が朱毛を遣わして陳子に告げて曰わく、「あなたなくばこの歩に到らざりき。しかし君と器物は同じからず。二個ある可からず。器物が二個は匱乏せず、君が二個は即ち多難なり。敢えて大夫に陳說す」。僖子が回答せずして哭泣して曰わく、「君は全く群臣を信任せざるか。齊國の困頓に因りて、困頓裏に又憂あり。年少の君は諮詢すべからず。ゆえに長君を求む。或いはも能く群臣を容納せんか!然らざれば、あの孺子に何の罪かあらん」。毛が回報し、公が後悔した。毛が曰わく、「君は陳子に大事を諮詢し、あの小事を謀劃すれば即ち可」。毛を遣わして孺子を駘に遷さんとするに、まだ至らず、野地の帳幕の下で殺掉し、殳冒淳に葬った。
◇哀公七年
◇哀公七年
【經】七年春,宋皇瑗帥師侵鄭。晉魏曼多帥師侵衛。夏,公會吳於鄫。
【経】七年春、宋皇瑗が師を率いて鄭を侵襲した。晋魏曼多が師を率いて衛を侵襲した。夏、公が鄫で呉と會見した。
秋,公伐邾。八月己酉,入邾,以邾子益來。宋人圍曹。冬,鄭駟弘帥師救曹。
秋、公が邾を伐った。八月己酉、邾に入り、邾子益を帶びて歸った。宋人が曹を包圍した。冬、鄭駟弘が師を率いて曹を救った。
【傳】七年春,宋師侵鄭,鄭叛晉故也。
【伝】七年春、宋師が鄭を侵襲したは鄭が晋を背叛せばなり。
晉師侵衛,衛不服也。
晋師が衛を侵襲したは衛が歸服せざればなり。
夏,公會吳於鄫。吳來徵百牢,子服景伯對曰:“先王未之有也。”吳人曰:“宋百牢我,魯不可以後宋。且魯牢晉大夫過十,吳王百牢,不亦可乎?”景伯曰:“晉範鞅貪而棄禮,以大國懼敝邑,故敝邑十一牢之。君若以禮命於諸侯,則有數矣。若亦棄禮,則有淫者矣。周之王也,制禮,上物不過十二,以為天之大數也。今棄周禮,而曰必百牢,亦唯執事。”吳人弗聽。景伯曰:“吳將亡矣!棄天而背本。不與,必棄疾於我。”乃與之。
夏、公が鄫で呉と會見した。呉が來りて一百太牢を征取し、子服景伯が回答して曰わく、「先王に過あらず」。呉人が曰わく、「宋は一百太牢を以て我を待てり。魯は宋の後に落つる可からず。況んや魯は十以上の太牢を以て晋大夫を待てり。呉王は一百太牢を用いるは、また可ならずや」。景伯が曰わく、「晋范鞅が貪婪にして禮を拋棄し、大國を以て敝邑を恐嚇せり。ゆえに敝邑は十一太牢を用いき。君がもし禮を以て諸侯に命令せば、即ち定數あらん。もしも禮を拋棄せば、則ち過度のあらん。周が王と稱し、禮を制定し、上等の物は十二を超過せず、それを以て天の大數と為せり。今周禮を拋棄して、卻って必ず一百太牢と曰うは、亦ただ執事に聽くのみ」。呉人が聽かず。景伯が曰わく、「呉は將に滅亡せん!天を拋棄して根本に背離す。與えざれば、必ず病害を我らに丢せん」。ここに與えた。
大宰嚭召季康子,康子使子貢辭。大宰嚭曰:“國君道長,而大夫不出門,此何禮也?”對曰:“豈以為禮?畏大國也。大國不以禮命於諸侯,苟不以禮,豈可量也?寡君既共命焉,其老豈敢棄其國?大伯端委以治周禮,仲雍嗣之,斷髮文身,臝以為飾,豈禮也哉?有由然也。”反自鄫,以吳為無能為也。
大宰嚭が季康子を召し、康子が子貢を遣わして推辭せしめた。大宰嚭が曰わく、「國君は道路上に久し。大夫は卻って門を出でず。これは何の禮ぞ」。對えて曰わく、「どこにそれを以て禮と為さん。是れ大國を害怕すればなり。大國が禮を以て諸侯に命令せず、假如に禮を用いざれば、どこに估量す可きかあらん。寡君は已に命令に供給せり。その老臣は何で敢えてその國を拋棄せん。大伯は端委を穿著して以て周禮を治理し、仲雍が繼承し、髮を剪り文身し、裸を以て裝飾と為せり。どこに禮かあらん。是れ來由有るなり」。鄫より返回し、以て呉は作為ある能わざるとす。
季康子欲伐邾,乃饗大夫以謀之。子服景伯曰:“小所以事大,信也。大所以保小,仁也。背大國,不信。伐小國,不仁。民保於城,城保於德,失二德者,危,將焉保?”孟孫曰:“二三子以為何如?惡賢而逆之?”對曰:“禹合諸侯於塗山,執玉帛者萬國。今其存者,無數十焉。唯大不字小,小不事大也。知必危,何故不言?魯德如邾,而以眾加之,可乎?”不樂而出。
季康子が邾を伐たんと欲し、ここに大夫を宴饗して以て謀劃した。子服景伯が曰わく、「小國の大國に事奉する所以は信なり。大國の小國を保護する所以は仁なり。大國を背棄するは不信、小國を攻打するは不仁なり。民は城に靠りて保全し、城は德に靠りて保全す。この兩樣の德を失掉するは危險にして、將に何を靠って保全せん」。孟孫が曰わく、「あなたら几位は如何と以為す。賢者を憎惡して卻って彼に迎合するか」。對えて曰わく、「禹が塗山で諸侯を會合するに、玉帛を執る者萬國あり。今なお存在するは幾十に至らず。ただ大なるが小なるを撫愛せず、小なるが大なるに事奉せざるを以てなり。必ず危險を知れば、何で説かざるか。魯の德は邾の如きに、卻って衆を以てそれを壓するは可や」。高興せずして出た。
秋,伐邾,及範門,猶聞鐘聲。大夫諫,不聽,茅成子請告於吳,不許,曰:“魯擊柝聞於邾,吳二千里,不三月不至,何及於我?且國內豈不足?”成子以茅叛,師遂入邾,處其公宮,眾師晝掠,邾眾保於繹。師宵掠,以邾子益來,獻於亳社,囚諸負瑕。負瑕故有繹。邾茅夷鴻以束帛乘韋,自請救於吳,曰:“魯弱晉而遠吳,馮恃其眾,而背君之盟,闢君之執事,以陵我小國。邾非敢自愛也,懼君威之不立。君威之不立,小國之憂也。若夏盟於鄫衍,秋而背之,成求而不違,四方諸侯,其何以事君?且魯賦八百乘,君之貳也。邾賦六百乘,君之私也。以私奉貳,唯君圖之。”吳子從之。
秋、邾を伐ち、范門に至り、なお鐘聲を聞き得た。大夫が進諫するも聽かず。茅成子が呉に告げるを請うたが許さず、曰わく、「魯が柝を敲く聲は邾が聞き得るに、呉は二千里ありて、三個月なくして到らず。どこに我らに趕上せん。況んや國內にあえて足らざらんや」。成子が茅を帶びて叛變し、軍隊はここに邾に入り、公宮に住み、衆軍が白天に掠奪し、邾の衆人が繹に守した。軍隊が夜裏に掠奪し、邾子益を帶びて歸り、亳社に献じ、負瑕に囚禁した。負瑕はこれにより繹人あり。邾茅夷鴻が束帛と四張の熟韋を用い、自ら呉に向かい救を求めて曰わく、「魯は晋を弱し呉を遠しと以為し、その衆を仗恃し、君の盟約を背棄し、君の執事を鄙視し、來りて我ら小國を侵陵せり。邾は敢えて自愛せず、君の威の樹立する能わざるを怕れん。君の威が樹立する能わざれば、是れ小國の憂なり。もし夏に鄫衍で結盟し、秋に即ち背棄せば、求取すれば即ち得て違背せざれば、四方諸侯は將に何を憑って君に事奉せん。況んや魯の軍賦は八百乘にして、是れ君の副貳なり。邾の軍賦は六百乘にして、是れ君の私屬なり。私屬を以て副貳を奉養するは、君に考慮を請う」。呉子が聽き從った。
宋人圍曹。鄭桓子思曰:“宋人有曹,鄭之患也。不可以不救。”冬,鄭師救曹,侵宋。
宋人が曹を包圍した。鄭桓子思が曰わく、「宋人が曹を占有するは鄭の禍患なり。救わざる可からず」。冬、鄭師が曹を救い、宋を侵襲した。
初,曹人或夢眾君子立於社宮,而謀亡曹,曹叔振鐸請待公孫強,許之。旦而求之曹,無之。戒其子曰:“我死,爾聞公孫強為政,必去之。”及曹伯陽即位,好田弋。曹鄙人公孫強好弋,獲白雁,獻之,且言田弋之說,說之。因訪政事,大說之。有寵,使為司城以聽政。夢者之子乃行。強言霸說於曹伯,曹伯從之,乃背晉而奸宋。宋人伐之,晉人不救。築五邑於其郊,曰黍丘、揖丘、大城、鍾、邗。
当初、曹人の或る者が夢に許多の君子が社宮に立ちて曹を滅亡するを謀劃し、曹叔振鐸が公孫强を等待するを請い、許したるを見た。朝に曹で尋求するに、この人なし。その兒子に告誡して曰わく、「我が死せば、あなたは公孫强が執政するを聞かば、必ず離去せよ」。曹伯陽が即位するに及び、田獵射鳥を喜好した。曹邊境の人公孫强が射鳥を喜好し、白雁を獲得し、献上し、かつ田獵射鳥の説を講じ、曹伯が喜歡した。因りて政事を詢問するに、甚だ喜歡した。寵ありて、彼を司城と為して以て政を聽かしめた。夢を做った人の兒子はここに離去した。强が曹伯に向かい霸業の説を講じ、曹伯が聽き從い、ここに晋を背叛して宋を冒犯した。宋人が彼を伐ち、晋人が救わず。郊區に五個の城邑を修築し、黍丘・揖丘・大城・鍾・邗と叫做した。
◇哀公八年
◇哀公八年
【經】八年春王正月,宋公入曹,以曹伯陽歸。吳伐我。夏,齊人取讙及闡。
【経】八年春、周天子の暦の正月、宋公が曹に入り、曹伯陽を帶びて歸った。呉が我が國を攻打した。夏、齊人が讙和闡を取得した。
歸邾子益於邾。秋七月。冬十有二月癸亥,杞伯過卒。齊人歸讙及闡。
邾子益を邾に送回した。秋七月。冬十二月癸亥、杞伯過が卒した。齊人が讙和闡を歸還した。
【傳】八年春,宋公伐曹,將還,褚師子肥殿。曹人詬之,不行,師待之。
【伝】八年春、宋公が曹を伐ち、將に返回せんとし、褚師子肥が殿後した。曹人が彼を罵るに、軍隊が走らず、全師が等待した。
公聞之,怒,命反之,遂滅曹。執曹伯及司城強以歸,殺之。
公が聞き、發怒し、返回を命令し、ここに曹を滅亡した。曹伯と司城强を捉えて帶ち歸り、彼らを殺掉した。
吳為邾故,將伐魯,問於叔孫輒。叔孫輒對曰:“魯有名而無情,伐之,必得志焉。”退而告公山不狃。公山不狃曰:“非禮也。君子違,不適仇國。未臣而有伐之,奔命焉,死之可也。所託也則隱。且夫人之行也,不以所惡廢鄉。今子以小惡而欲覆宗國,不亦難乎?若使子率,子必辭,王將使我。”子張疾之。
呉が邾の故を以て將に魯を伐たんとし、叔孫輒に向かい詢問した。叔孫輒が回答して曰わく、「魯は名聲あれども實情なし。それを伐てば、必ず能く志を得ん」。退きて公山不狃に告げた。公山不狃が曰わく、「禮に合わず。君子は本國を離るるに、仇國に至らず。まだ臣を為さずして本國を攻打の事ありて、彼らのため奔走聽命するは、これがため死すれば即ち可。托付する所有れば即ち隱瞞せよ。況んや人の出行は厭惡する所に因りて鄉里を廢棄せず。今あなたは小惡に因りて宗國を傾覆せんと欲す。また難くないか。もしあなたをして率領せしめば、あなたは必ず推辭せん。王は將に我を遣わさん」。子張がこれがため痛苦した。
王問於子洩,對曰:“魯雖無與立,必有與斃;諸侯將救之,未可以得志焉。晉與齊、楚輔之,是四仇也。夫魯,齊、晉之唇,唇亡齒寒,君所知也。不救何為?”三月,吳伐我,子洩率,故道險,從武城。初,武城人或有因於吳竟田焉,拘鄫人之漚菅者,曰:“何故使吾水滋?”及吳師至,拘者道之,以伐武城,克之。王犯嘗為之宰,澹臺子羽之父好焉。國人懼,懿子謂景伯:“若之何?”對曰:“吳師來,斯與之戰,何患焉?且召之而至,又何求焉?”吳師克東陽而進,舍於五梧,明日,舍於蠶室。公賓庚、公甲叔子與戰於夷,獲叔子與析朱鉏。
王が子泄に問うに、回答して曰わく、「魯は一起生存の助力なき雖も、必ず一起死する者あらん。諸侯は將に救援せん。なお志を得る可からず。晋と齊・楚がそれを輔助せば、これは四個の仇敵なり。魯は齊・晋の嘴唇なり。唇亡びて齒寒し。是れ君の知る所なり。救わずして何を為さん」。三月、呉が我が國を攻打し、子泄が率領し、ゆえに險路を走り、武城よりした。当初、武城人の或る者が呉境で田を種るを因りて、鄫人の菅草を浸すを捉えて曰わく、「何で我らの水を渾濁せしむるか」。呉師が到達するに及び、捉えられた人が路を帶び、來りて武城を伐ち、攻克した。王犯がかつてそこの宰を為し、澹臺子羽の父が彼と友好せり。國人が恐懼し、懿子が景伯に對して曰わく、「どうせん」。對えて曰わく、「呉師が來れば、即ち彼らと作戰せよ。何を憂患せん。況んや是れ彼らを召來したるに、又何を求めん」。呉師が東陽を攻克して前進し、五梧に住み、翌日、蠶室に住んだ。公賓庚・公甲叔子が夷で交戰し、呉が叔子と析朱鉏を俘獲した。
獻於王,王曰:“此同車,必使能,國未可望也。”明日,舍於庚宗,遂次於泗上。微虎欲宵攻王舍,私屬徒七百人,三踴於幕庭,卒三百人,有若與焉,及稷門之內。或謂季孫曰:“不足以害吳,而多殺國士,不如已也。”乃止之。吳子聞之,一夕三遷。吳人行成,將盟。景伯曰:“楚人圍宋,易子而食,析骸而爨,猶無城下之盟。我未及虧,而有城下之盟,是棄國也。吳輕而遠,不能久,將歸矣請少待之。”弗從。景伯負載,造於萊門,乃請釋子服何於吳,吳人許之。以王子姑曹當之,而後止。吳人盟而還。
王に献じ、王が曰わく、「これは同一輛車の人なり。必ず有才能を使用せば、國家はなお指望すべからず」。翌日、庚宗に住み、ここに泗上に駐した。微虎が夜に王の住處を襲撃せんと欲し、私に徒衆七百人を集合し、帳幕の庭裏で三次跳躍し、三百人を選定す。有若もその中に在り。稷門之內に到達した。或る人が季孫に對して曰わく、「呉を害するに足らず、卻って國士を多殺す。停止するに如かず」。ここに停止した。呉子が聞き、一夜に三次遷徙した。呉人が和を求め、將に結盟せんとした。景伯が曰わく、「楚人が宋を包圍し、兒子を交換して以て食し、骸骨を劈開して以て飯を燒くも、なお城下之盟なし。我らはまだ虧損せざるに、卻って城下之盟あるは國を拋棄するなり。呉は輕率にして又路遠く、持久する能わず。將に歸らん。稍く待つを請います」。聽從せず。景伯が盟書を背負い、萊門に至り、ここに子服何を呉に留むるを請い、呉人が允許した。王子姑曹を以て對等交換し、然る後に停止した。呉人が結盟して然る後に歸った。
齊悼公之來也,季康子以其妹妻之,即位而逆之。季魴侯通焉,女言其情,弗敢與也。齊侯怒,夏五月,齊鮑牧帥師伐我,取讙及闡。
齊悼公が來るとき、季康子がその妹を彼に嫁せしめ、即位して後に來りて迎娶した。季魴侯が彼女と私通し、女子が實情を説出し、敢えて給せず。齊侯が發怒し、夏五月、齊鮑牧が師を率いて我が國を攻打し、讙和闡を取得した。
或譖胡姬於齊侯,曰:“安孺子之黨也。”六月,齊侯殺胡姬。
或る人が齊侯に向かい胡姬を誣陷して曰わく、「是れ安孺子の黨なり」。六月、齊侯が胡姬を殺掉した。
齊侯使如吳請師,將以伐我,乃歸邾子。邾子又無道,吳子使大宰子餘討之,囚諸樓臺,栫之以棘。使諸大夫奉大子革以為政。
齊侯が人を遣わして呉に至り師を出すを請い、將に我が國を攻打せんとし、ここに邾子を送回した。邾子が又無道にして、呉子が大宰子余を遣わして彼を討伐し、樓臺上に囚禁し、荆棘を以て圍った。諸大夫をして太子革に事奉して以て執政せしめた。
秋,及齊平。九月,臧賓如如齊蒞盟,齊閭丘明來蒞盟,且逆季姬以歸,嬖。
秋、齊と講和した。九月、臧賓如が齊國に至りて盟約を蒞臨し、齊國閭丘明が前來して盟約を蒞臨し、かつ季姬を迎接して歸らせ、寵を得た。
鮑牧又謂群公子曰:“使女有馬千乘乎?”公子愬之。公謂鮑子:“或譖子,子姑居於潞以察之。若有之,則分室以行。若無之,則反子之所。”出門,使以三分之一行。半道,使以二乘。及潞,麇之以入,遂殺之。
鮑牧が又群公子に對して曰わく、「あなたらに馬千乘を有せしめんか」。公子が往きて告發した。齊侯が鮑子に對して曰わく、「或る人があなたを讒害せり。あなたは姑く潞に住みて以て察看せよ。もし有れば、即ち家室を分け出して離去せよ。もし無ければ、即ちあなたの住所に歸れ」。門を出で、彼に三分之一を帶びて走らしめた。半路、ただ兩輛車を帶びしめた。潞に到達し、捆りて帶びて城に進入し、ここに彼を殺した。
冬十二月,齊人歸讙及闡,季姬嬖故也。
冬十二月、齊人が讙和闡を歸還したは季姬が寵を得た故なり。
◇哀公九年
◇哀公九年
