Libo

昭公(元年~三十二年)

春秋 · 左丘明(旧题) · 第54巻 / 56

【經】九年春王二月,葬杞僖公。宋皇瑗帥師取鄭師於雍丘。夏,楚人伐陳。

【経】九年春、周天子の暦の二月、杞僖公を安葬した。宋國皇瑗が軍を率い雍丘で鄭軍を殲滅した。夏、楚人が陳を伐った。

秋,宋公伐鄭。冬十月。

秋、宋公が鄭を伐った。冬十月。

【傳】九年春,齊侯使公孟綽辭師於吳。吳子曰:“昔歲寡人聞命。今又革之,不知所從,將進受命於君。”

【伝】九年春、齊侯が公孟綽を遣わして呉に向かい出兵を推辭せしめた。呉子が曰わく、「往年寡人は命令を聞けり。今また改變す。どの一句に聽從するを知らず。將に前に往きて君に向かい命令を接受せん」。

鄭武子剩之嬖許瑕求邑,無以與之。請外取,許之。故圍宋雍丘。宋皇瑗圍鄭師,每日遷舍,壘合,鄭師哭。子姚救之,大敗。二月甲戌,宋取鄭師於雍丘,使有能者無死,以郟張與鄭羅歸。

鄭國武子剩の寵臣許瑕が城邑を求取するに、彼に給う可きなく。外より奪取するを請い、答應した。ゆえに宋國雍丘を包圍した。宋國皇瑗が鄭軍を包圍し、每日營壘を遷移し、堡壘が合圍し、鄭軍が哭泣した。子姚が救援するも大いに敗れた。二月甲戌、宋が雍丘で鄭軍を殲滅し、有才能を死なせず、郟張と鄭羅を帶びて歸った。

夏,楚人伐陳,陳即吳故也。

夏、楚人が陳を伐ったは陳が呉に親近する故なり。

宋公伐鄭。

宋公が鄭を伐った。

秋,吳城邗,溝通江、淮。

秋、呉が邗で城を築き、江・淮を溝通した。

晉趙鞅卜救鄭,遇水適火,占諸史趙、史墨、史龜。史龜曰:“是謂瀋陽,可以興兵。利以伐姜,不利子商。伐齊則可,敵宋不吉。”史墨曰:“盈,水名也。子,水位也。名位敵,不可幹也。炎帝為火師,姜姓其後也。水勝火,伐姜則可。”史趙曰:“是謂如川之滿,不可遊也。鄭方有罪,不可救也。救鄭則不吉,不知其他。”陽虎以《周易》筮之,遇《泰》ⅱⅰ之《需》ⅴⅰ,曰:“宋方吉,不可與也。微子啟,帝乙之元子也。宋、鄭,甥舅也。祉,祿也。若帝乙之元子歸妹,而有吉祿,我安得吉焉?”乃止。

晋國趙鞅が鄭を救うを占卜し、水適火に遇い、史趙・史墨・史龜に向かい占問した。史龜が曰わく、「これを沈陽と曰い、兵を起す可し。姜を伐つに利し、子商に利あらず。齊を伐てば可なり。宋と敵と為るは吉利ならず」。史墨が曰わく、「盈は水名なり。子は水位なり。名と位と相當す。干犯すべからず。炎帝が火師を為し、姜姓はその後代なり。水が火に勝つ。姜を伐てば即ち可」。史趙が曰わく、「これを河水の滿溢の如くと曰い、游すべからず。鄭は正に罪あり。救う可からず。鄭を救えば即ち吉利ならず。その他は知らず」。陽虎が《周易》を以て占筮し、《泰》之《需》に遇いて曰わく、「宋は正に吉利にして、それと對作すべからず。微子啟は帝乙の長子なり。宋・鄭は甥舅なり。祉は祿なり。もし帝乙の長子が妹を嫁して吉祿有れば、我らはどこに吉を得ん」。ここに停下した。

冬,吳子使來亻敬師伐齊。

冬、呉子が人を遣わして來りて師を儆して齊を伐たせた。

◇哀公十年

◇哀公十年

【經】十年春王二月,邾子益來奔。公會吳伐齊。三月戊戌,齊侯陽生卒。

【経】十年春、周天子の暦の二月、邾子益が前來して投奔した。哀公が呉と會合して齊を伐った。三月戊戌、齊侯陽生が去世した。

夏,宋人伐鄭。晉趙鞅帥師侵齊。五月,公至自伐齊。葬齊悼公。衛公孟彄自齊歸於衛。薛伯夷卒。秋,葬薛惠公。冬,楚公子結帥師伐陳。吳救陳。

夏、宋人が鄭を伐った。晋國趙鞅が軍を率いて齊を侵した。五月、哀公が齊を伐ってより歸った。齊悼公を安葬した。衛國公孟彄が齊より衛に歸った。薛伯夷が去世した。秋、薛惠公を安葬した。冬、楚國公子結が軍を率いて陳を伐った。呉が陳を救援した。

【傳】十年春,邾隱公來奔。齊甥也,故遂奔齊。

【伝】十年春、邾隱公が前來して投奔した。是れ齊國の外甥なり。ゆえに続いて齊國に逃奔した。

公會吳子、邾子、郯子伐齊南鄙,師於鄎。齊人弒悼公,赴於師。吳子三日哭于軍門之外。徐承帥舟師,將自海入齊,齊人敗之,吳師乃還。

哀公が呉子・邾子・郯子と會合して齊國南部邊境を伐ち、軍隊が鄎に駐した。齊人が悼公を弑し、軍に向かい訃告を發した。呉子が軍門外で三日を哭いた。徐承が舟師を率領し、將に海路より齊に入らんとしたが、齊人が彼らを打敗し、呉軍はここに返回した。

夏,趙鞅帥師伐齊,大夫請卜之。趙孟曰:“吾卜於此起兵,事不再令,卜不襲吉,行也。”於是乎取犁及轅,毀高唐之郭,侵及賴而還。

夏、趙鞅が軍を率いて齊を伐ち、大夫が占卜を請うた。趙孟が曰わく、「我はこの事のため兵を起すに已に占卜せり。事は命令を重複せず、占卜は吉を重叠に求めず。出發せよ」。ここに犁と轅を取得し、高唐の外城を毀壞し、賴に侵して然る後に返回した。

秋,吳子使來復亻敬師。

秋、呉子が人を遣わして再び來りて師を儆せしめた。

冬,楚子期伐陳。吳延州來季子救陳,謂子期曰:“二君不務德,而力爭諸侯,民何罪焉?我請退,以為子名,務德而安民。”乃還。

冬、楚國子期が陳を伐った。呉國延州來季子が陳を救い、子期に對して曰わく、「兩位の國君が德に致力せずして、卻って力を用いて諸侯を爭奪す。百姓に何の罪かあらん。我は退下するを請い、あなたの名聲を成全し、德に致力して百姓を安定せしめん」。ここに歸った。

◇哀公十一年

◇哀公十一年

【經】十有一年春,齊國書帥師伐我。夏,陳轅頗出奔鄭。五月,公會吳伐齊。甲戌,齊國書帥師及吳戰於艾陵,齊師敗績,獲齊國書。秋七月辛酉,滕子虞母卒。冬十有一月,葬滕隱公。衛世叔齊出奔宋。

【経】十一年春、齊國國書が軍を率いて我を伐った。夏、陳國轅頗が鄭國に出奔した。五月、哀公が呉と會合して齊を伐った。甲戌、齊國國書が軍を率い呉と艾陵で交戰し、齊軍が大いに敗れ、齊國國書を擒獲した。秋七月辛酉、滕子虞母が去世した。冬十一月、滕隱公を安葬した。衛國世叔齊が宋國に出奔した。

【傳】十一年春,齊為鄎故,國書、高無丕帥師伐我,及清。季孫謂其宰冉求曰:“齊師在清,必魯故也。若之何?”求曰:“一子守,二子從公御諸竟。”

【伝】十一年春、齊國が鄎の故を以て、國書・高無丕が軍を率いて我を伐ち、淸に到達した。季孫がその家宰冉求に對して曰わく、「齊軍が淸に在り。必ず魯國のためなり。どうせん」。求が曰わく、「一位が留守し、兩位が公に跟從して邊境で抵御せよ」。

季孫曰:“不能。”求曰:“居封疆之間。”季孫告二子,二子不可。求曰:“若不可,則君無出。一子帥師,背城而戰。不屬者,非魯人也。魯之群室,眾於齊之兵車。一室敵車,優矣。子何患焉?二子之不欲戰也宜,政在季氏。當子之身,齊人伐魯而不能戰,子之恥也。大不列於諸侯矣。”季孫使從於朝,俟於黨氏之溝。武叔呼而問戰焉,對曰:“君子有遠慮,小人何知?”懿子強問之,對曰:“小人慮材而言,量力而共者也。”武叔曰:“是謂我不成丈夫也。”退而蒐乘,孟孺子洩帥右師,顏羽御,邴洩為右。冉求帥左師,管周父御,樊遲為右。季孫曰:“須也弱。”有子曰:“就用命焉。”季氏之甲七千,冉有以武城人三百為己徒卒。老幼守宮,次於雩門之外。五日,右師從之。公叔務人見保者而泣,曰:“事充政重,上不能謀,士不能死,何以治民?吾既言之矣,敢不勉乎!”師及齊師戰於郊,齊師自稷曲,師不逾溝。樊遲曰:“非不能也,不信子也。

季孫が曰わく、「不能」。求が曰わく、「即ち封疆の間に在れ」。季孫が二人に告ぐるに、二人が答應せず。求が曰わく、「もし行かざれば、然らば國君は出でる勿れ。一位が軍を率い、城を背負いて戰え。隸屬せざるは即ち魯人にあらず。魯國の群室は齊國の兵車より多し。一家が一輛車に對付すれば、即ち餘あり。あなたは何を擔心せん。二人が打ちたがらざるは應當なり。政事は季氏に在り。あなたのこの一身に在りて、齊人が魯を伐てども能く打たざるは、あなたの恥辱なり。大大に諸侯に列する能わざらん」。季孫が彼をして上朝に跟從せしめ、黨氏之溝で等候した。武叔が呼喚して戰事を問うに、回答して曰わく、「君子は長遠の考慮あり。小人は何を知らん」。懿子が硬に問うに、回答して曰わく、「小人は才干を估量して乃ち說話し、力量を衡量して乃ち役に供する人なり」。武叔が曰わく、「これは我を丈夫と成らざるを説くなり」。退きて兵車を檢閱した。孟孺子泄が右師を率領し、顏羽が駕車し、邴泄が車右を為した。冉求が左師を率領し、管周父が駕車し、樊遲が車右を為した。季孫が曰わく、「須はなお弱し」。有子が曰わく、「即ち能く命を聽くを用いよ」。季氏の甲士七千に、冉有が武城人三百を以て自らの徒卒と為した。老幼が宮室を守衛し、雩門之外に駐紮した。五日後、右師が跟上した。公叔務人が城を守る人を見て哭泣して曰わく、「徭役多く賦稅重く、上に在る者は能く謀劃せず、士は能く死せず。何を憑って百姓を治理せん。我は已に説けり。敢えて勉力せざらんや!」。軍隊が齊軍と郊で交戰した。齊軍が稷曲より來るに、我が軍は溝を越えず。樊遲が曰わく、「能ならざるにあらず。あなたを相信せざるなり。

請三刻而逾之。”如之,眾從之。師入齊軍,右師奔,齊人從之,陳瓘、陳莊涉泗。孟之側後入以為殿,抽矢策其馬,曰:“馬不進也。”林不狃之伍曰:“走乎?”不狃曰:“誰不如?”曰:“然則止乎?”不狃曰:“惡賢?”徐步而死。

(樊遲が続いて説く:)三次鼓を撃って然る後に越えるを約定せんを請います」。この如く為すに、衆人が跟著した。軍隊が齊軍に攻入し、右師が奔逃し、齊人が追趕し、陳瓘・陳莊が泗水を渡った。孟之側が最後に入りて殿後を為し、箭を抽出して馬を打ちて曰わく、「馬が前進を肯んぜず」。林不狃のあの伍の人が曰わく、「跑るか」。不狃が曰わく、「誰が人に比べ及ばざらん」。曰わく、「然らば停下するか」。不狃が曰わく、「どこに賢と算せん」。慢慢に走りて死んだ。

師獲甲首八十,齊人不能師。宵,諜曰:“齊人遁。”冉有請從之三,季孫弗許。

軍隊が甲首八十を獲得し、齊人は軍を成す能わず。夜に、探子が曰わく、「齊人は逃げり」。冉有が三次追撃を請うたが、季孫が許さず。

孟孺子語人曰:“我不如顏羽,而賢於邴洩。子羽銳敏,我不欲戰而能默。洩曰:‘驅之。’”公為與其嬖僮汪錡乘,皆死,皆殯。孔子曰:“能執干戈以衛社稷,可無殤也。”冉有用矛於齊師,故能入其軍。孔子曰:“義也。”

孟孺子が人に對して曰わく、「我は顏羽に如かず、卻って邴泄より賢なり。子羽は鋭敏にして、我は打ちたがらざれども能く說話せざらず。泄が曰く、『馬を驅りて衝せ』」。公為がその寵愛の童子汪錡と同乘し、皆死し、皆殯に入れた。孔子が曰わく、「能く干戈を執りて社稷を保衛すれば、殤と為さずして可」。冉有が矛を以て齊軍に對付し、ゆえに能く齊軍に攻入せり。孔子が曰わく、「これは義なり」。

夏,陳轅頗出奔鄭。初,轅頗為司徒,賦封田以嫁公女。有餘,以為己大器。

夏、陳國轅頗が鄭國に出奔した。当初、轅頗が司徒を為し、封地田畝に向かい賦を征して以て公女を嫁せしめた。剩餘ありて、自ら大器を做った。

國人逐之,故出。道渴,其族轅咺進稻醴、梁糗、腶脯焉。喜曰:“何其給也?”對曰:“器成而具。”曰:“何不吾諫?”對曰:“懼先行。”

國人が彼を驅逐し、ゆえに出奔した。路上で口渴し、その族人轅咺が稻醴・梁糗・腶脯を送上した。高興して曰わく、「何でこの如く豐足か」。對えて曰わく、「器具を做成する時に即ち準備せり」。曰わく、「何で我を勸諫せざるか」。對えて曰わく、「先に趕走せられんを怕れき」。

為郊戰故,公會吳子伐齊。五月,克博,壬申,至於嬴。中軍從王,胥門巢將上軍,王子姑曹將下軍,展如將右軍。齊國書將中軍,高無丕將上軍,宗樓將下軍。陳僖子謂其弟書:“爾死,我必得志。”宗子陽與閭丘明相厲也。桑掩胥御國子,公孫夏曰:“二子必死。”將戰,公孫夏命其徒歌《虞殯》。陳子行命其徒具含玉。公孫揮命其徒曰:“人尋約,吳發短。”東郭書曰:“三戰必死,於此三矣。”使問弦多以琴,曰:“吾不復見子矣。”陳書曰:“此行也,吾聞鼓而已,不聞金矣。”

郊戰の故を以て、哀公が呉子と會合して齊を伐った。五月、博を攻克し、壬申、嬴に到達した。中軍が呉王に跟從し、胥門巢が上軍を率領し、王子姑曹が下軍を率領し、展如が右軍を率領した。齊國國書が中軍を率領し、高無丕が上軍を率領し、宗樓が下軍を率領した。陳僖子がその弟書に對して曰わく、「あなたが死せば、我は必ず志を得ん」。宗子陽と閭丘明が互相勉勵した。桑掩胥が國子のため駕車し、公孫夏が曰わく、「この兩位は必ず死せん」。將に交戰せんとし、公孫夏が部下に《虞殯》を唱せしめた。陳子行が部下に含玉を準備せしめた。公孫揮が部下に命令して曰わく、「每人八尺繩子。呉人は頭髮短し」。東郭書が曰わく、「三戰は必ず死せん。ここに在るは第三次なり」。人を遣わして琴を弦多に送りて曰わく、「我は再びあなたを見ず」。陳書が曰わく、「この一次の出行は、我はただ鼓を聽き、再び金を聽かざらん」。

甲戌,戰於艾陵,展如敗高子,國子敗胥門巢。王卒助之,大敗齊師。獲國書、公孫夏、閭丘明、陳書、東郭書,革車八百乘,甲首三千,以獻於公。將戰,吳子呼叔孫,曰:“而事何也?”對曰:“從司馬。”王賜之甲、劍、鈹,曰:“奉爾君事,敬無廢命。”叔孫未能對,衛賜進,曰:“州仇奉甲從君。”而拜。

甲戌、艾陵で交戰した。展如が高子を敗り、國子が胥門巢を敗った。呉王の直屬部隊が幫助し、大いに齊軍を敗った。國書・公孫夏・閭丘明・陳書・東郭書を擒獲し、革車八百乘・甲首三千を哀公に献じた。將に交戰せんとし、呉子が叔孫を呼喚して曰わく、「あなたは何の職を司るか」。回答して曰わく、「司馬に跟從す」。呉王が彼に甲・劍・鈹を賜して曰わく、「あなたの國君の事を奉行し、敬慎して命令を廢棄する勿れ」。叔孫がまだ回答する能わざるに、衛賜が上前して曰わく、「州仇が甲を奉じて君に跟從す」。ここに下拜した。

公使大史固歸國子之元,置之新篋,褽之以玄纁,加組帶焉。置書於其上,曰:“天若不識不衷,何以使下國?”吳將伐齊,越子率其眾以朝焉,王及列士,皆有饋賂。吳人皆喜,惟子胥懼,曰:“是豢吳也夫!”諫曰:“越在我,心腹之疾也。壤地同,而有欲於我。夫其柔服,求濟其欲也,不如早從事焉。得志於齊,猶獲石田也,無所用之。越不為沼,吳其泯矣,使醫除疾,而曰:‘必遺類焉’者,未之有也。《盤庚之誥》曰:‘其有顛越不共,則劓殄無遺育,無俾易種於茲邑。’是商所以興也。今君易之,將以求大,不亦難乎?”弗聽,使於齊,屬其子於鮑氏,為王孫氏。反役,王聞之,使賜之屬鏤以死,將死,曰:“樹吾墓檟,檟可材也。吳其亡乎!三年,其始弱矣。盈必毀,天之道也。”

哀公が太史固を遣わして國子の頭顱を送回せしめ、新匣裏に放き、玄纁を以て襯墊し、組帶を加上した。書信をその上に放きて曰わく、「上天がもし不正を辨識せざれば、何以て下國をしてこの如くあらしめん」。呉が將に齊を伐たんとし、越子が部衆を率いて來朝し、呉王と列士に皆饋贈あり。呉人が皆高興するに、ただ子胥のみが恐懼して曰わく、「これは呉國を豢養するなり!」。勸諫して曰わく、「越國は我らに對して心腹之疾なり。土地が相連し、又我らに欲望あり。彼らの柔順服從は欲望を實現せんを求むるなり。早く對付するに如かず。齊で志を得るは石田を獲得するが如く、用處なし。越國が池沼と成らざれば、呉國はおそらく將に滅せん。醫生に病を除かしめて、卻って『必ず種類を留下せよ』と曰うは、かつてあらず。《盤庚之誥》に曰く、『もし顛越不恭あらば、即ち割盡滅絕して餘種を留めず、彼らをしてこの邑裏で種を換えしむる勿れ』。これは商の興起する所以の故なり。今君は反って為し、强大を求取せんと欲するは、また難くないか」。聽かず、彼を齊國に遣わし、兒子を鮑氏に托付し、王孫氏と為った。歸りて復命するに、呉王が聞き、彼に屬鏤を賜して彼を死なしめた。將に死せんとして曰わく、「我が墓上に檟を種れ。檟は成材す可し。呉國はおそらく將に亡ぶか!三年、即ち衰弱を開始せん。盈滿は必ず毀壞す。是れ天の道理なり」。

秋,季孫命修守備,曰:“小勝大,禍也。齊至無日矣。”

秋、季孫が令を下して守備を修繕せしめて曰わく、「小國が大國に戰勝するは禍なり。齊軍の到來は幾日ならじ」。

冬,衛大叔疾出奔宋。初,疾娶於宋子朝,其娣嬖。子朝出。孔文子使疾出其妻而妻之。疾使侍人誘其初妻之娣,置於犁,而為之一宮,如二妻。文子怒,欲攻之。仲尼止之。遂奪其妻。或淫於外州,外州人奪之軒以獻。恥是二者,故出。衛人立遺,使室孔姞。疾臣向魋納美珠焉,與之城鉏。宋公求珠,魋不與,由是得罪。及桓氏出,城鉏人攻大叔疾,衛莊公復之。使處巢,死焉。殯於鄖,葬於少禘。

冬、衛國太叔疾が宋國に出奔した。当初、疾が宋子朝の女兒を娶り、その娣が寵を得た。子朝が出奔した。孔文子が疾に妻子を休せしめ、女兒を彼に嫁せしめた。疾が侍人を遣わして原先の妻子の娣を誘出し、犁に安置し、彼女に一座の宮室を給し、兩個の妻子の如くせり。文子が發怒し、彼を攻打せんと欲した。仲尼が勸止した。ここに女兒を奪回した。又或る人が外州で淫亂し、外州人がその車子を奪走して献上した。この兩件の事を以て恥とし、ゆえに出奔した。衛人が遺を立て、彼をして孔姞を娶らしめた。疾が向魋の家臣を為し、美珠を進献し、彼に城鉏を給えた。宋公が珠を求むるに、魋が與えず、これにより罪を得た。桓氏が出奔するに及び、城鉏人が太叔疾を攻打し、衛莊公が彼を歸らしめた。彼をして巢に住まわせ、そこで死んだ。靈柩が鄖に停し、少禘に葬った。

初,晉悼公子憖亡在衛,使其女僕而田。大叔懿子止而飲之酒,遂聘之,生悼子。悼子即位,故夏戊為大夫。悼子亡,衛人翦夏戊。孔文子之將攻大叔也,訪於仲尼。仲尼曰:“胡簋之事,則嘗學之矣。甲兵之事,未之聞也。”退,命駕而行,曰:“鳥則擇木,木豈能擇鳥?”文子遽止之,曰:“圉豈敢度其私,訪衛國之難也。”將止。魯人以幣召之,乃歸。

当初、晋悼公の兒子慭が衛に逃亡し、その女兒をして駕車して打獵せしめた。太叔懿子が攔住して彼女を酒に請い、ここに聘娶し、悼子を生下した。悼子が即位し、ゆえに夏戊が大夫を為した。悼子が逃亡し、衛人が夏戊を翦滅した。孔文子が將に太叔を攻打せんとし、仲尼に向かい詢問した。仲尼が曰わく、「胡簋祭祀の事は、かつて學びき。甲兵の事は、かつて聞かず」。退きて、人に車を駕せて走らんを命じて曰わく、「鳥は樹木を選擇す。樹木はどこに能く鳥を選擇せん」。文子が急忙に攔住して曰わく、「圉はどこに敢えて自らの私利を謀らん。是れ衛國の禍難を詢問するなり」。將に留下せんとす。魯人が幣を以て彼を召し、ここに國に歸った。

季孫欲以田賦,使冉有訪諸仲尼。仲尼曰:“丘不識也。”三發,卒曰:“子為國老,待子而行,若之何子之不言也?”仲尼不對。而私於冉有曰:“君子之行也,度於禮,施取其厚,事舉其中,斂從其薄。如是則以丘亦足矣。若不度於禮,而貪冒無厭,則雖以田賦,將又不足。且子季孫若欲行而法,則周公之典在。若欲苟而行,又何訪焉?”弗聽。

季孫が田賦を用いんと欲し、冉有を遣わして仲尼に向かい詢問せしめた。仲尼が曰わく、「丘は懂得せず」。三次問うて、終に曰わく、「あなたは國老なり。あなたの話を待ちて然る後に實行するに、あなたは何で說話せざるか」。仲尼が回答せず。私に冉有に對して曰わく、「君子の行事は禮を以て衡量す。施與はその厚を取り、做事はその適中を取り、征收はその薄に從う。この如くすれば、丘賦を以てすれば即ち足らん。もし禮を以て衡量せず、貪得無厭なれば、則ちたとえ田賦を用いるとも、還將に足らざらん。況んや季孫がもし法に依りて行事せんと欲せば、周公の典章がなお在り。もし苟且に行事せんと欲せば、又必ずしも何で詢問せん」。聽かず。

◇哀公十二年

◇哀公十二年

【經】十有二年春,用田賦。夏五月甲辰,孟子卒。公會吳於皋阜。秋,公會衛侯、宋皇瑗於鄖。宋向巢帥師伐鄭。冬十有二月,螽。

【経】十二年春、田賦を用いた。夏五月甲辰、孟子が去世した。哀公が皋阜で呉と會見した。秋、哀公が鄖で衛侯・宋國皇瑗と會見した。宋國向巢が軍を率いて鄭を伐った。冬十二月、蝗蟲あり。

【傳】十二年春,王正月,用田賦。

【伝】十二年春、周天子の暦の正月、田賦を用いた。

夏五月,昭夫人孟子卒。昭公娶於吳,故不書姓。死不赴,故不稱夫人。不反哭,故言不葬小君。孔子與吊,適季氏。季氏不絻,放絰而拜。

夏五月、昭夫人孟子が去世した。昭公が呉に娶れば、ゆえに姓を記載せず。死して訃告を發せず、ゆえに夫人と稱せず。哭吊に返回せず、ゆえに小君を安葬と曰わず。孔子が吊唁に參與し、季氏の所に至った。季氏が絻を穿さず、孔子が絰を放下して拜した。

公會吳於橐皋。吳子使大宰嚭請尋盟。公不欲,使子貢對曰:“盟所以周信也,故心以制之,玉帛以奉之,言以結之,明神以要之。寡君以為苟有盟焉,弗可改也已。若猶可改,日盟何益?今吾子曰:‘必尋盟。’若可尋也,亦可寒也。”

哀公が橐皋で呉と會見した。呉子が太宰嚭を遣わして盟約を重温するを請いしめた。哀公が願わず、子貢を遣わして回答して曰わしめ、「盟約は以て信用を鞏固するなり。ゆえに心を以て制約し、玉帛を以て奉持し、言語を以て締結し、明神に請いりて約束す。寡君はただ盟約あれば、即ち再び改む可からずと以為す。もしなお改む可ければ、日日に結盟して何の益處かあらん。今あなたが曰く、『必ず盟約を重温せよ』。もし重温す可ければ、またそれを寒冷せしむるも可なり」。

乃不尋盟。

ここに再び盟約を重温せず。

吳徵會於衛。初,衛人殺吳行人且姚而懼,謀於行人子羽。子羽曰:“吳方無道,無乃辱吾君,不如止也。”子木曰:“吳方無道,國無道,必棄疾於人。

呉が衛に向かい會盟を征召した。当初、衛人が呉國の行人且姚を殺して害怕し、行人子羽と謀劃した。子羽が曰わく、「呉は正に無道にして、ただ怕れて我らの國君を羞辱せん。往かざるに如かず」。子木が曰わく、「呉は正に無道なり。國家が無道なれば、必ず災禍を他人に加えん。

吳雖無道,猶足以患衛。往也。長木之斃,無不摽也。國狗之瘈,無不噬也。而況大國乎?”秋,衛侯會吳於鄖。公及衛侯、宋皇瑗盟,而卒辭吳盟。吳人藩衛侯之舍。

(子木が続いて説く:)呉國は無道なる雖も、なお足りて衛を禍害す。往け。大樹が倒下すれば、打たれざるなし。瘋狗が發狂すれば、咬まざるなし。況んや大國をや」。秋、衛侯が鄖で呉と會見した。哀公が衛侯・宋國皇瑗と盟約を訂立し、終に呉との結盟を推辭した。呉人が衛侯の館舍を圍った。

子服景伯謂子貢曰:“夫諸侯之會,事既畢矣,侯伯致禮,地主歸餼,以相辭也。

子服景伯が子貢に對して曰わく、「諸侯の會盟は事が已に完畢せば、侯伯が禮を致し、地主が餼を送回して以て互相辭別す。

今吳不行禮於衛,而藩其君舍以難之,子盍見大宰?”乃請束錦以行。語及衛故,大宰嚭曰:“寡君願事衛君,衛君之來也緩,寡君懼,故將止之。”子貢曰:“衛君之來,必謀於其眾。其眾或欲或否,是以緩來。其欲來者,子之黨也。其不欲來者,子之仇也。若執衛君,是墮黨而崇仇也。夫墮子者得其志矣!且合諸侯而執衛君,誰敢不懼?墮黨崇仇,而懼諸侯,或者難以霸乎!”大宰嚭說,乃舍衛侯。衛侯歸,效夷言。子之尚幼,曰:“君必不免,其死於夷乎!執焉,而又說其言,從之固矣。”

(景伯が続いて説く:)今呉國が衛に禮を行わずして、卻ってその館舍を圍みて以て彼を難ず。あなたは何で往きて太宰に見えざるか」。ここに束錦を帶びて前往するを請うた。衛國の事に談じて、太宰嚭が曰わく、「寡君は衛君に事奉せんを願うに、衛君の來ること慢く、寡君は害怕し、ゆえに將に彼を留下せんとす」。子貢が曰わく、「衛君の前來は必ず衆人と謀劃せり。衆人に或は往かんと欲し或は欲せず。ゆえに來ること慢し。前に來るを欲するはあなたの黨羽なり。前に來るを欲せざるはあなたの仇人なり。もし衛君を捉えれば、是れ黨羽を毀壞して仇人を抬高す。あなたを毀壞する人が志を得ん!況んや諸侯を會合して卻って衛君を捉えるは、誰が敢えて懼れざらん。黨を毀し仇を抬き、又諸侯を懼れしむるは、ただ怕れて稱霸し難からんか!」。太宰嚭が高興し、ここに衛侯を放した。衛侯が歸り、學びて夷人の話を説いた。子之がなお小さく、曰わく、「君は必ず禍を免れざらん。おそらく夷人の所で死せんか!捉えられて、卻って彼らの話を喜ぶ。彼らに跟隨するは一定なり」。

冬十二月,螽。季孫問諸仲尼,仲尼曰:“丘聞之,火伏而後蜇者畢。今火猶西流,司歷過也。”

冬十二月、蝗蟲あり。季孫が仲尼に向かい詢問し、仲尼が曰わく、「丘は聞くに、大火星が隱沒して後に蟄蟲が乃ち完畢す。今大火星がなお西流す。是れ司曆の過錯なり」。

宋鄭之間有隙地焉,曰彌作、頃丘、玉暢、巖、戈、鍚。子產與宋人為成,曰:“勿有是。”及宋平、元之族自蕭奔鄭,鄭人為之城巖、戈、鍚。九月,宋向巢伐鄭,取鍚,殺元公之孫,遂圍巖。十二月,鄭罕達救巖。丙申,圍宋師。

宋・鄭の間に空隙の地ありて、彌作・頃丘・玉暢・巖・戈・鍚と叫做す。子産が宋人と講和して曰わく、「これらを據有する勿れ」。宋平公・元公の族人が蕭より鄭國に逃奔するに及び、鄭人が彼らのため巖・戈・鍚に城を築いた。九月、宋國向巢が鄭を伐ち、鍚を取得し、元公の孫子を殺し、ここに巖を包圍した。十二月、鄭國罕達が巖を救った。丙申、宋軍を包圍した。

◇哀公十三年

◇哀公十三年

【經】十有三年春,鄭罕達帥師取宋師於巖。夏,許男成卒。公會晉侯及吳子於黃池。楚公子申帥師伐陳。于越入吳。秋,公至自會。晉魏曼多帥師侵衛。

【経】十三年春、鄭國罕達が軍を率い巖で宋軍を殲滅した。夏、許男成が去世した。哀公が黃池で晋侯と呉子に會見した。楚國公子申が軍を率いて陳を伐った。于越が呉に攻入した。秋、哀公が會盟より歸った。晋國魏曼多が軍を率いて衛を侵した。

葬許元公。九月,螽。冬十有一月,有星孛於東方。盜殺陳夏區夫。十有二月,螽。

許元公を安葬した。九月、蝗蟲あり。冬十一月、星孛が東方に出現した。盜賊が陳國夏區夫を殺した。十二月、蝗蟲あり。

【傳】十三年春,宋向魋救其師。鄭子剩使徇曰:“得桓魋者有賞。”魋也逃歸,遂取宋師於巖,獲成讙、郜延。以六邑為虛。

【伝】十三年春、宋國向魋がその軍隊を救援した。鄭國子剩が人を遣わして巡行して曰わしめ、「桓魋を得る者に賞あらん」。魋が逃げ歸り、ここに巖で宋軍を殲滅し、成讙・郜延を擒獲した。六邑を以て廢墟と為した。

夏,公會單平公、晉定公、吳夫差於黃池。

夏、哀公が黃池で單平公・晋定公・呉夫差に會見した。

六月丙子,越子伐吳,為二隧。疇無餘、謳陽自南方,先及郊。吳大子友、王子地、王孫彌庸、壽於姚自泓上觀之。彌庸見姑蔑之旗,曰:“吾父之旗也。

六月丙子、越子が呉を伐ち、兩路に分けた。疇無余・謳陽が南方より來り、先に郊外に至った。呉太子友・王子地・王孫彌庸・壽于姚が泓上より觀望した。彌庸が姑蔑の旗幟を見て曰わく、「是れ我が父の旗なり。

不可以見仇而弗殺也。”大子曰:“戰而不克,將亡國。請待之。”彌庸不可,屬徒五千,王子地助之。乙酉,戰,彌庸獲疇無餘,地獲謳陽。越子至,王子地守。丙戌,復戰,大敗吳師。獲大子友、王孫彌庸、壽於姚。丁亥,入吳。吳人告敗於王,王惡其聞也,自剄七人於幕下。

(彌庸が続いて説く:)仇人を見て卻って殺さざる可からず」。太子が曰わく、「打ちて勝たざれば、將に國を亡ぼさん。等待するを請います」。彌庸が聽かず、徒衆五千を集合し、王子地が彼を幫助した。乙酉に交戰し、彌庸が疇無余を擒獲し、地が謳陽を擒獲した。越子が到達し、王子地が留守した。丙戌に再び戰い、大いに呉軍を敗った。太子友・王孫彌庸・壽于姚を擒獲した。丁亥、呉都に入った。呉人が呉王に戰敗を報告するに、呉王が他人に聞かせるを討厭し、帳下で自ら七個人を殺した。

秋七月辛丑,盟,吳、晉爭先。吳人曰:“於周室,我為長。”晉人曰:“於姬姓,我為伯。”趙鞅呼司馬寅曰:“日旰矣,大事未成,二臣之罪也。建鼓整列,二臣死之,長幼必可知也。”對曰:“請姑視之。”反,曰:“肉食者無墨。今吳王有墨,國勝乎?大子死乎?且夷德輕,不忍久,請少待之。”乃先晉人。吳人將以公見晉侯,子服景伯對使者曰:“王合諸侯,則伯帥侯牧以見於王。伯合諸侯,則侯帥子男以見於伯。自王以下,朝聘玉帛不同。故敝邑之職貢於吳,有豐於晉,無不及焉,以為伯也。今諸侯會,而君將以寡君見晉君,則晉成為伯矣,敝邑將改職貢。魯賦於吳八百乘,若為子男,則將半邾以屬於吳,而如邾以事晉。且執事以伯召諸侯,而以侯終之,何利之有焉?”吳人乃止。既而悔之,將囚景伯,景伯曰:“何也立後於魯矣。將以二乘與六人從,遲速唯命。”

秋七月辛丑、盟約を訂立し、呉・晋が爭い先を為した。呉人が曰わく、「周室に於ては、我らは長なり」。晋人が曰わく、「姬姓の中に於ては、我らは伯なり」。趙鞅が司馬寅を呼喚して曰わく、「天は晚し。大事はまだ成らず。是れ我ら兩個の臣の罪なり。鼓を立て行列を整え、兩個の臣がこれがため死せば、長幼は必ず知る可し」。回答して曰わく、「姑く往きて看るを請います」。歸りて曰わく、「肉を食する人に氣色の發黑するなし。今呉王に墨色あり。是れ國家が戰勝せられたか。太子が死したか。況んや夷人の德行は輕浮にして持久する能わず。稍く待つを請います」。ここに晋人をして先に歃せしめた。呉人が將に哀公を帶びて晋侯に見えんとし、子服景伯が使者に對して曰わく、「王が諸侯を會合すれば、則ち伯が侯牧を率いて往きて王に見ゆ。伯が諸侯を會合すれば、則ち侯が子男を率いて往きて伯に見ゆ。王より以下、朝聘の玉帛は相同せず。ゆえに敝邑の呉に交納する職貢は晋に比べて更に豐厚なるあり、比べ及ばざるなし。是れ呉を以て伯と為すなり。今諸侯が會合するに、君は卻って將に寡君を帶びて晋君に見えんとす。然らば晋は即ち伯と成り、敝邑は將に職貢を改變せん。魯が呉に八百乘の賦を出すに、もし子男を為せば、將に邾の半に按って呉に屬し、邾の如く晋に事奉せん。況んや執事が伯を以て諸侯を召集して、卻って侯を以て結束するは、何の利かあらん」。呉人はここに停下した。隨後に後悔し、將に景伯を囚禁せんとした。景伯が曰わく、「何は已に魯國で後嗣を立てり。將に兩輛車と六個人を以て跟隨し、快慢はただ命令に聽かん」。

遂囚以還。及戶牖,謂大宰曰:“魯將以十月上辛,有事於上帝先王,季辛而畢。

ここに囚禁して帶ち歸った。戶牖に到達し、太宰に對して曰わく、「魯國は將に十月上辛に上帝先王を祭祀し、季辛に至りて完畢せん。

何世有職焉,自襄以來,未之改也。若不會,祝宗將曰:‘吳實然。’且謂魯不共,而執其賤者七人,何損焉?”大宰嚭言於王曰:“無損於魯,而只為名,不如歸之。”乃歸景伯。

(景伯が続いて説く:)どの一代か職事なからん。襄公より以來、改過するあらず。もし會に赴かざれば、祝宗は將に曰わん、『是れ呉國の成す如くなり』。況んや魯國を不恭敬と曰いて、卻ってただ七個の低賤の人を捉えるは、何の損害かあらん」。太宰嚭が呉王に對して曰わく、「魯に損害なく、ただ不好の名聲を成すのみ。彼を放ち歸らせるに如かず」。ここに景伯を放回した。

吳申叔儀乞糧於公孫有山氏,曰:“佩玉繠兮,餘無所繫之。旨酒一盛兮,餘與褐之父睨之。”對曰:“梁則無矣,粗則有之。若登首山以呼曰:‘庚癸乎!’則諾。”

呉國申叔儀が公孫有山氏に向かい糧を求めて曰わく、「佩玉が下垂するや、我にそれを係る地なし。美酒一杯や、我と褐を穿る老人と斜眼に看る」。對えて曰わく、「細糧は無し。粗糧はなおあり。もし首山に登りて呼喊して曰わば、『庚癸乎!』即ち答應せん」。

王欲伐宋,殺其丈夫而囚其婦人。大宰嚭曰:“可勝也,而弗能居也。”乃歸。

呉王が宋を伐たんと欲し、そこの男人を殺掉して婦女を囚禁せんとした。太宰嚭が曰わく、「戰勝す可きも、居守する能わず」。ここに歸った。

冬,吳及越平。

冬、呉が越と講和した。

◇哀公十四年

◇哀公十四年

【經】十有四年春,西狩獲麟。小邾射以句繹來奔。夏四月,齊陳忄互執其君,置於舒州。庚戌,叔還卒。五月庚申朔,日有食之。陳宗豎出奔楚。宋向魋入於曹以叛。莒子狂卒。六月,宋向魋自曹出奔衛。宋向巢來奔。齊人弒其君壬於舒州。秋,晉趙鞅帥師伐衛。八月辛丑,仲孫何忌卒。冬,陳宗豎自楚復入於陳,陳人殺之。陳轅買出奔楚。有星孛。飢。

【経】十四年春、西邊で打獵して麒麟を獲得した。小邾射が句繹を帶びて前來して投奔した。夏四月、齊國陳恒がその國君を捉え、舒州に安置した。庚戌、叔還が去世した。五月庚申初一、日食あり。陳宗豎が楚國に出奔した。宋國向魋が曹に入りて叛變した。莒子狂が去世した。六月、宋國向魋が曹より衛國に出奔した。宋國向巢が前來して投奔した。齊人が舒州でその國君壬を弑した。秋、晋國趙鞅が軍を率いて衛を伐った。八月辛丑、仲孫何忌が去世した。冬、陳宗豎が楚國より再び陳に入り、陳人が彼を殺した。陳轅買が楚國に出奔した。星孛あり。饑荒あり。

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