『周易尚氏学』序言(于省吾)
第八論 彖・象が経に連なるのは誰に始まるか
易経易学典籍
術数への応用を目指すなら、まず六十四卦の卦爻辞と《説卦伝》の取象に親しむ。義理を目指すなら《繋辞伝》から入るのがよい。
易卦起源於原始宗教中巫術占驗方法之一的八索之占。古也稱繩為索,八索即八條繩子。金川彝族所保持的原始式八索之占,繫用牛毛繩八條,擲諸地上以占吉凶。《易·繫辭》稱庖犧氏(即伏義氏)始作八卦,乃指八索之占言之。八索這一名稱,最早見於《左傳》、《國語》。八索之占是八卦的前身,八卦是八索之占的繼續和發展。近年來的學者們,都說八卦與伏義氏完全無涉,這就未免「數典忘祖」,截斷了易卦的來源。(詳拙著《伏羲氏與八卦的關係》)
『周易』の卦の源は、原始宗教における呪術的占法の一つ「八索之占」(八本の縄による占い)にある。古人は縄を「索」と呼び、「八索」とは八本の縄のことである。四川・金川一帯の彝族には今もこの原始的な占いが残っており、牛毛の縄八本を地面に投げ、落ちた形で吉凶を判断する。『易・繋辞』が庖犠氏(すなわち伏羲氏)が初めて八卦を作ったというのは、まさにこの縄を投げる占いを指す。「八索」という名称が最も早く見えるのは『左伝』と『国語』の二書である。したがって八索之占は八卦の前身であり、八卦は八索之占を継承し発展させた成果である。近年の学者は八卦と伏羲氏が全く無関係だと一概に断定するが、これはいわば「数典忘祖」――古い典故を引きながら自分の由来を忘れ、易卦の源を真っ二つに断ち切るに等しい。(詳しい論証は私の書いた『伏羲氏与八卦的関係』を参照されたい。)
原始宗教的八索之占,到了階級社會的西周就發展為八卦;到了戰國時人所作的《易傳》,又以卦爻辭為基礎,進一步作哲學理論的推闡。《易·繫辭傳》說:「剛柔相摩,八卦相蕩」;「日新之謂盛德,生生之謂易」;「易之為書也不可遠,為道也屢遷,變動不居,周流六虛,上下無常,剛柔相易,不可為典要,唯變所適」;「易窮則變,變則通,通則久」。由此可見,作者認為宇宙間的萬事萬物都處於不斷運動、變化和矛盾交互的過程中,誠然具有辯證法的因素。但是,總的說來,還脫離不了否泰、剝復和消息盈虛之說。例如《蠱·彖傳》所說的「終則有始」,《繫辭傳》所說的「原始反終」,仍然是循環論者的論調。
原始宗教の八索之占は、階級社会に入った西周で八卦へと発展し、さらに戦国の人々が著した『易伝』では卦辞・爻辞を基礎として哲学理論の高みへ押し上げられた。『易・繋辞伝』には、剛爻と柔爻が互いに切摩し、八卦が彼此に蕩き合う、日々新たな気象を呈するのを「盛徳」といい、生生してやまないのを「易」という、『易』という書は片時も離れてはならず、その説く道はたびたび移り、変動してとどまらず、六つの爻位の間を周流し、上下に定所なく、剛柔が互いに入れ替わり、死んだ準則として立てることはできず、ただ変化に従って順応するのみである、『易』の道は窮まれば変じ、変じれば通じ、通じれば久しい、とある。これを見ると、著者は宇宙の万事万物が絶えず運動・変化し、矛盾が交錯する過程にあると認めており、たしかに弁証法の要素を含んでいる。ただし全体としては、「否」と「泰」の相反、「剥」と「復」の相承、陰陽の「消息盈虚」という枠組みを抜け出せていない――『否』『泰』『剥』『復』はいずれも六十四卦の卦名で、古人はこれで気運の塞がりと通達、剥落と回復を表した。例えば『蠱・彖伝』の「終わりあれば始まりあり」、『繋辞伝』の「原初に反りて終わる」は、結局のところ循環論の言い方である。
左昭二年傳敘韓宣子適魯,「見《易象》與《魯春秋》」。其稱《易》為《易象》,足徵《易》之為書是以象為主的。《易·繫辭傳》也說:「是故易者象也,象也者像也。」因為辭由象生,故《易》無象外之辭。《周易》的每一卦辭和每一爻辭,往往在幾句話裡有幾種不同的內容,假若不依象以釋辭,則奇奇怪怪,迷離惝恍,既不知其辭之所本,更不知其義之所由生。但是,《說卦傳》所敘的象頗為簡略,遠遠概括不了易卦中各種各樣的象。於是主漢易以說象者,對於不解之象,則以「卦變」、「爻變」為釋,故尚先生敘清儒解《易》說:「……而以漢人為依歸是矣。乃於漢人之曲說,亦靡不依據以為護符。至求象不得,亦使卦再三變以成其象,奉虞氏為不刊法則,而易學遂故步自封矣。」(見《焦氏易詁凡例》)
『左伝』昭公二年に、韓宣子が魯に赴き「『易象』と『魯春秋』を見た」と記す。『易』をそのまま『易象』と呼んだことは、『易』という書が「象」を主体とすることを証明して余りある。『易・繋辞伝』にも、『易』とは象であり、象とは取像・比喩である、とある。卦爻辞が卦象から生じる以上、『周易』には象を離れて空に語られた言葉は一句もない。『周易』の各卦辞・各爻辞は、わずか数句の中に幾重もの異なる内容を含むことが多く、卦象に依って文辞を解さなければ、奇々怪々で朧げなものに感じられ、言葉の根拠がどこにあるのか、意味がどこから生じたのかも分からない。しかし『説卦伝』に記された卦象はあまりに簡略で、易卦の様々な象をとても網羅できない。そこで漢代易学に基づき象を説く人々は、解せない象に出会うと「卦変」「爻変」を持ち出してごまかした。だから尚先生は清代の学者の『易』解を次のように評した。「彼らは漢人に帰依した。それ自体は悪くないが、漢人の曲解まで一切合切取り上げて護符とした。象を求めても得られなくなると、一つの卦を何度も変えさせてようやく所望の象をこしらえ、虞翻のやり方を変更不可能な定則と崇めたので、易学はその場で自足してしまった。」(『焦氏易詁・凡例』に見える)
魏晉以前之說《易》者都主象,自王輔嗣掃象不談,專以承乘比應為解,歷唐至宋,便極盛一時。尚先生說:「王輔嗣深知其謬,而不能求得其象,乃倡為得意忘象之說,以掩其短,此端一開,程伊川遂謂得其義則象數在其中,本未顛倒。」(見《焦氏易詁凡例》)這是說程氏不能依象數以解卦爻辭,全憑主觀臆想以為之說,反而說象數在臆想之中,這樣倒末為本,是極其荒謬的。
魏晋以前に『易』を説いた人は皆「象」を主とした。王弼(字は輔嗣)が象を一切掃き捨てて語らず、専ら爻位の間の「承・乗・比・応」で解釈してから、この路線は唐を経て宋に入り、一時は絶頂に達した。尚先生は言う。「王弼は漢人の曲解に欠陥があると内心よく知っていたが、自ら真の卦象を求め得ず、そこで『得意忘象』という標語を掲げて弱点を覆い隠した。この口が開くと、程頤(伊川)は義理さえ捉えれば象数は自ずからその中にあると言い、本末を完全に転倒させた。」(『焦氏易詁・凡例』に見える)これはつまり、程頤には象数に依って卦爻辞を解く力がなく、すべて主観的な臆想で説を立て、その上象数は自分の臆想の中にあると逆に主張するということであり、枝葉を根本と取り違える実に荒唐無稽な話であった。
先生鑽研《焦氏易林》十餘年,著《焦氏易林注》十六卷,參考各家詁訓,反覆推勘,積疑生悟,因而在《易林》中發現了久已失傳而與《周易》有關的內外卦象、互象、對象、正反象、半象、大象等凡百二十餘象的應用規律。驗之於《左傳》、《國語》的占象而合,驗之於《逸周書·時訓》的準象而合,驗之於《周易》卦象也都基本上相合。先生以《易林》逸象與《周易》交融互證,分條加以闡發,著《焦氏易詁》十一卷。今就此書節錄三條於下:
尚先生は前漢・焦延寿の『焦氏易林』を十数年研究し、『焦氏易林注』十六巻を著した。歴代諸家の訓釈を参照し、推求と校勘を繰り返し、疑問が積もってかえって豁然と悟るに至り、『易林』の中に久しく失われながらも『周易』と直接関係する取象の条例を発見した。上下二体の「内外卦象」、二三四爻と三四五爻からなる「互象」、六爻の陰陽が全て反転する「対象」、正・反両方向から取る「正反象」、半分の卦体だけを取る「半象」、そして六爻全体を一つの八卦として見る「大象」で、前後合わせて百二十余りの象の使用法則である。これらの象を『左伝』『国語』の占例と照合すれば合致し、『逸周書・時訓』が依拠する物候の取象と照合しても合致し、さらに『周易』自体の卦象と照合しても基本的に吻合した。先生は『易林』に保存されたこれらの「逸象」を『周易』と相互に印证して条分けて闡明し、『焦氏易詁』十一巻を著した。ここにこの書から三条を抜粋する。
一、乾日:《易林》「乾之泰云,白日皎皎,泰下乾,乾為日,互震為白,故曰皎皎。又泰之恆云,踰日歷月,恆互兌為月,乾為日,故曰踰日歷月,是《易林》顯以乾為日也。後思易乾九三云,君子終日乾乾,乾為日,三居卦末,故日終日。大畜九三云,日閒輿衛,日亦指乾。」(卷一)
第一条、「乾は日の象」(書中の「干」は「乾」のこと)。『易林』の乾之泰の条に「白日皎皎」とある。泰卦の下体は乾で、乾は「日」の象を取り、二三四爻が互い出して震となり、震は「白」の象を取るので「皎皎」という。また泰之恒の条に「踰日暦月」とある。恒卦の互体に兌があり、兌は「月」、乾は「日」の象を取るので「踰日暦月」という。これは『易林』が明らかに乾を日としていることである。後に『周易』を振り返ると、乾卦の九三に「君子終日乾乾」とあり、乾はすなわち日で、九三は下体の末の爻にあるから「終日」という。『大畜』の九三に「日閑輿衛」とあるが、この「日」も同じく乾を指す――『大畜』は上艮下乾で、乾はまさに下体にある。乾が日の象であることは『説卦』には載らず、『焦氏易林』から掬い上げた逸象である。(『焦氏易詁』巻一に見える)
二、兌月:「《易林》復之臨云,月出平地,坤為地,兌為月,在下故曰平地。又晉之小過云,月出阜東,小過民為阜,互兌為月,震為東,故月出阜東。……後思易小畜之月幾望,中孚、歸妹之月幾望,恆彖之日月得天久照,蓋皆以兌為月,故《易林》用之,邵子亦用之也。」(卷一)
第二条、「兌は月の象」。『易林』の復之臨の条に「月出平地」とある。臨卦は下兌上坤で、坤は「地」、兌は「月」の象を取り、兌は下体にあるから「平地」という。また晋之小過の条に「月出阜東」とある。小過の下体は艮(原文の「民」は「艮」の誤字)で、艮は「阜」すなわち土山の象を取り、三四五爻が互い出して兌となり、兌は「月」、上体の震は「東」の象を取るので「月出阜東」という。……後に再び『周易』を考えると、『小畜』上九の「月幾望」、『中孚』六四・『帰妹』六五の「月幾望」、『恒・彖伝』の「日月は天を得て久しく照らす」は、いずれもおそらく兌を月としている。『説卦』は坎を月としか言わず、兌を月とするのはまさに『易林』が伝える漢代の逸象であり、だから『易林』は全編これを用い、宋代の邵雍もこれに沿ったのである。(『焦氏易詁』巻一に見える)
三、坤水:《易林》「乾之觀云,江河淮海,天之奧府。按觀下重坤,故曰江河淮海,又坤之升云,憑河登山,升上坤,坤水,故曰憑河。又訟之泰,弱水之西,坤水、坤柔,故曰弱水。」(卷一)「凡易言利往、利涉者,義無不通。特坤水象至東漢失傳,必以坎為大川,遂爾歧誤,而解益之大川尤扞格難通。」(卷五「益、利有攸往利涉大川解」。按「川」字原本誤作「利」)
第三条、「坤は水の象」。『易林』の乾之観の条に「江河淮海、天の奥府」とある。観卦の下体は坤、二三四爻も互い坤となり、重なって二つの坤となる。坤は「水」の象を取るので江・河・淮・海の四瀆を挙げる。また坤之升の条に「凭河登山」とある。升卦の上体は坤で、坤は水だから「凭河」、すなわち徒渉して河を渡るという。また訟之泰の条に「弱水之西」とある。坤は水の象を取ると同時に「柔」の象も取るので、水にして柔弱、ゆえに「弱水」という。(『焦氏易詁』巻一に見える)尚先生はまた言う。「『易』に『利往』『利渉大川』と言う箇所は、坤を水として解けばどこも通じないところがない。ただ坤が水の象であることが東漢に失伝し、後人が一律に坎を大川としたためにあちこちで誤りが生じ、中でも『益』卦の『利渉大川』の解は特に齟齬して通じ難い。」(巻五『益・利有攸往利渉大川解』に見える。按:「川」の字は原刻本では「利」と誤作)
以上所引三條,用《易林》乾日、兌月、坤水之象,與《周易》相證發,六通四辟,若合符契。學者只知離為日,坎為月為水,則多與卦象不相應。先生以《焦氏易詁》為基礎(讀本書者,須參閱《焦氏易林注》、《焦氏易詁》、《左傳國語易象釋》三書),對於歷來的易象和易解,廣搜博採,評判其得失,取長舍短;同時,又結合其師吳摯甫《易說》的「陽遇陰則通、遇陽則阻」的原理(見本書「說例」)而加以發展,謂「易之道如電然,同性則相違,異性則相感」(見《易詁》「同人、利涉大川解」),著《周易尚氏學》二十卷。
以上に引いた三条は、『易林』に保存された乾が日、兌が月、坤が水という三つの逸象を用いて『周易』と相互に印证・闡発したもので、四方八方どこに向かっても通じ、符節が合わさるように寸分の隙もない。「逸象」とは、『説卦伝』に著録されていないが漢代の易家の手で実際に通行していた卦象のことである。学者が『説卦』に載る離が日、坎が月・水だけを知っていれば、経文の卦象と合わないことがしばしば起こる。尚先生は『焦氏易詁』を基礎として(本書を読む者は必ず『焦氏易林注』『焦氏易詁』『左伝国語易象釈』の三書を参照しなければならない)、従来の易象と諸家の易解を広く蒐めて採択し、その得失を評判して長所を取り短所を捨てた。同時に、師・呉汝綸(摯甫)の『易説』にある「陽爻が進んで陰に遇えば通じ、陽に遇えば阻まれる」という原理(本書「説例」に見える)を吸収して発展させ、「『易』の道は電のようなもので、同性なら相い背き、異性なら相い感じる」(『易詁』「同人・利渉大川解」に見える)と提唱し、『周易尚氏学』二十巻を著した。
於是久已晦盲的易象,始昭然若揭,可謂發幽闡微,集象學之大成。《焦氏易林注》仵墉敘引王晉卿說:「此書將二千年易家之盲詞囈說,一一駁倒,使西漢易學復明於世,孟子所謂其功不在禹下。」又引陳散原說:「讀尚氏《焦氏易詁》,嘆為千古絕作。以今世竟有此人著此絕無僅有之書,本朝諸儒見之當有愧色。」
こうして久しく晦冥に沈んでいた易象は初めて昭然と姿を現し、幽微を発掘し精微を闡明して象学の大成を集めたと言える。『焦氏易林注』に仵墉が撰した序は王晋卿の言を引く。「この書は二千年の易家の妄言・寝言を一つ一つ駁倒し、西漢の易学を再び世に明らかにした。まさに孟子のいう『その功は禹に劣らない』である。」また陳三立(散原)の言を引く。「尚氏の『焦氏易詁』を読んで、千古の絶作と嘆ず。当今の世にこのような人物があってこのような比類なき書を著したのだから、本朝の諸儒が見れば愧色を覚えるはずである。」
以上所述,主要是說明先生對易象的卓越發明。但是,本書也還存在著某些缺點和錯誤,例如:一、關《周易》作者的問題,先生對於書卦者以及卦爻辭、《易傳》的作者,多因襲舊說。在本書「總論」中「第三論古易之類別」說:「伏義既畫卦,必更有書以申明其義。……後人謂黃帝始造字,伏義祇畫卦無文字者,謬也」;「第四論周易誰作」說:「……故夫《周易》卦爻辭,純為文王一人所作,其欲加入周公者,毫無根據,不可信也」;「第六論十翼誰作」說:「…… 故《十翼》非孔子不能為,不敢為,而紀錄《十翼》者,則孔子之門人也」。像以上各種肯定的說法,都脫離不了舊有圈套。先生對於近年來學者們的若干新說,一概置之不理。縱然他們對於舊解有著一筆抹殺的過分主張,未可盡信,可是,伏羲氏既畫卦又重卦,以及文王作卦爻辭,孔子作《十翼》等傳統說法,畢竟是靠不住的。
以上の記述は主に尚先生の易象における卓越した発明を顕彰するものである。しかしこの書にはなお幾つかの欠点と誤りがある。例を挙げる。第一に、『周易』の作者の問題。先生は卦を画した人および卦爻辞・『易伝』の作者について多く旧説に沿っている。本書「総論」の「第三論古易之类別」に、「伏羲は既に卦を画いたのだから、必ず別に文字をもって卦義を申明したはずである。……後人が黄帝が初めて文字を造り、伏羲は卦を画しただけで文字がなかったというのは誤りである」とあり、「第四論周易誰作」に、「ゆえに『周易』の卦爻辞は純粋に文王一人の作であり、周公を加えようとする説は根拠が全くなく、信じられない」とあり、「第六論十翼誰作」に、「ゆえに『十翼』は孔子でなければ作ることも敢えてすることもできず、『十翼』を記録した者は孔子の門人である」とある。(『十翼』とは『彖』上下・『象』上下・『繋辞』上下・『文言』『説卦』『序卦』『雑卦』の十篇の解経の伝を指す。)このようなきっぱりとした断語はいずれも旧来の枠組みを抜け出せない――旧説とは『漢書・芸文志』の「人は三聖を更え、世は三古を歴る」という筋である。先生は近年の学者が提起した新説を一切省みない。たしかにそれらの新説には旧解を一筆で抹殺する行き過ぎた主張があり、全信はできないが、伏羲が画卦しかつ重卦した、文王が卦爻辞を作った、孔子が『十翼』を作ったという伝統的な説も、結局のところ頼りにできない――それらはみな漢人の追述に出るのであり、先秦の典籍に確かな傍証はないからである。
二、震象為丘 《說文》謂「四方高中央下為丘」,《淮南子·墜形》的「和丘」,高注謂「四方而高曰丘」。按震作◇,象四方高中央下之形。丘字卜辭作◇,金文作◇,以卦畫有橫無豎驗之,則古文字的丘字正與震象相符洽。《易林》革之頤說:「尼父孔丘」;(尚先生謂反震為孔),頤下震為丘,故曰「尼父孔丘」;又屯之噬嗑說:「營邱(同丘)是適」,噬嗑下震為丘(尚先生謂「震往故日適」),故曰「營邱是適」。這都是《易林》以震為丘之證。
第二に、震が「丘」の象を取る問題。『説文解字』は「四方が高く中央が低いのを丘という」と言い、『淮南子・墜形』の「和丘」に対する高誘の注も「四方にして高きを丘という」と言う。考えるに震卦の卦画(原書にはここに卦形が刻まれているが、電子本では◇で代える)はまさに四方が高く中央が低い形を象っている。「丘」の字の甲骨卜辞・金文での書法は、卦画には横画のみで縦画がないという点で照らし合わせると、古文字の「丘」はまさに震の卦形と符合する。『易林』革之頤の条に「尼父孔丘」とある(尚先生は倒した震が「孔」の象を取ると考える)。頤卦の下体は震で、震は丘だから「尼父孔丘」という。また屯之噬嗑の条に「営邱是適」(「邱」は「丘」と同じ)とある。噬嗑の下体は震で、震は丘、尚先生は震は往くを主るので「適」というと解し、ゆえに「営邱是適」と講ずる。これらは皆『易林』が震を丘とする証拠である。
以震為丘,於《周易》中之言丘者無一不合。賁卦作◇,六五:「賁于丘園」,丘園指「上互」為震言之;頤卦作◇,六二:「拂經於丘」,丘指內卦為震言之;渙卦作◇,六四:「渙有丘」,丘指渙「下互」為震言之。丘與◆古通用。古人多居丘。《說文》謂「◆、大丘也」,又謂「四邑為丘,丘謂之◆」。升卦作◇,九三:「升◆邑」,馬注謂「◆、丘也」。丘邑指「上互」為震言之。總之,《周易》中言丘者三見,言◆者一見,都取象於震。而先生有的謂艮為山以當丘,有的訓丘為空,又以巽為◆,既不能一以貫之,又均背於易象。此外,鼎卦作◇,《乾鑿度》謂「鼎象以器」。毛奇齡《仲氏易》說:「鼎有足有腹有耳有鉉,而卦文俱象之。下畫偶似足,二三四畫奇皆中實,似腹,五畫偶似耳,上畫奇似鉉。」按毛解甚確,而先生於本書從端木國瑚之說,謂「鼎之象不在鼎,而在伏象屯」,舍鼎形之實象而信伏象,未免疏失。
震を丘として講ずれば、『周易』の中で「丘」と言う箇所に合致しないところは一つもない。『賁』六五「賁于丘園」の丘園は三四五爻が互い出す震を指し、『頤』六二「拂経于丘」の丘は下体が震であることを指し、『涣』六四「涣有丘」の丘は二三四爻が互い出す震を指す。「丘」と「虗」(「虚」の古字、字形は「虎」の下半の「儿」を除いて「丘」に換えたもので、電子本では◆で代える)は古く通用し、古人は多く丘に集住した。『説文』は「虗は大丘なり」と言い、また「四邑を丘とし、丘を虗と謂う」と言う。『升』九三「升虚邑」は、馬融の注に「虗は丘なり」とあり、この丘邑は三四五爻が互い出す震を指す。要するに『周易』で「丘」と言う三箇所、「虗」と言う一箇所は、皆震に象を取る。ところが尚先生はある所で艮が山で山をもって丘に当てると言い、ある所で丘を空と訓じ、また巽を虗とし、一貫することができず、しかも皆易象に背く。さらに『乾鑿度』は「鼎は器物に象を取る」と言う。毛奇齢の『仲氏易』は、「鼎には足・腹・耳・鉉があり、卦画は一々これを象っている。最下の一画は偶画で鼎足に似、二・三・四画は皆奇画で中実して鼎腹に似、第五画は偶画で鼎耳に似、最上の一画は奇画で耳を貫く鼎鉉に似る」と言う。毛氏のこの解はきわめて妥当だが、先生は本書で端木国瑚の説を採り、「鼎の象は鼎自身にあらず、その伏象『屯』にある」として、鼎形という現成の実象を捨てて伏象を信じたのは、疎失と言わざるを得ない。
三、訓詁和史實 《說卦傳》以坎為月,先生據《易林》逸象以兌為月,用以解易,無一不通。但是,為什麼以兌為月,則未加說明。按《說文》:「月、闕也」,《釋名·釋天》:「月、闕也,滿則闕也」,是月、闕迭韻,以音為訓。再就形言之,古文字月作◇或◇,正像月闕形。兌上偶畫中闕,故以兌為月(其它卦象,與文字形或音有關係者,在此不加詳論)。
第三に、訓詁と史実の問題。『説卦伝』は坎を月とし、尚先生は『易林』の逸象に基づいて兌を月と改め、これで『易』を解いて通じないところは一つもない。しかしなぜ兌が月の象を取れるのかについては説明を加えていない。按するに『説文解字』は「月は阙(欠損)なり」と言い、『釈名・釈天』は「月は阙なり、満ちれば阙けるなり」と言う。これは「月」と「阙」が畳韻字で、音をもって訓としたものである。さらに字形から言えば、古文字の「月」はまさに月が欠けた形を象っている。兌卦の最上一画は偶画で中央が断れて缺口があるので、月の象を取る(ほかの卦象で文字の形体や音と関係するものは、ここでは詳論しない)。
小過六二:「過其祖,遇其妣」,先生誤從《爾雅·釋親》「母曰妣」以為之解。按妣為祖母,《詩·斯干》的「似續妣祖」,《豐年》的「烝畀祖妣」,均以祖與妣對稱。《周禮·大司樂》「以享先妣」與「以享先祖」,相偶為文。卜辭和金文均稱祖母為妣,從無以妣為母者。以妣為母,始見於戰國末期的典籍,與易辭不符。否九五:「其亡其亡,繫于苞桑」,陸續訓苞桑為叢桑,甚是。不言繫於桑而言繫於叢桑,自繫就鞏固為言。而先生謂「桑而叢生,其柔可知,繫於柔木,其危可知」,未能允當。
『小過』六二「過其祖、遇其妣」について、先生は誤って『爾雅・釈親』の「母を妣という」に従って解した。按するに「妣」は祖母である。『詩・斯干』の「似続妣祖」、『豊年』の「烝畀祖妣」は、いずれも「祖」と「妣」を対に挙げ、『周礼・大司楽』の「以享先妣」と「以享先祖」も対を成す文である。甲骨卜辞と金文は一律に祖母を「妣」と称し、「妣」を母とする例はかつてない。妣を母とする用法は戦国末期の典籍に初めて現れ、『易』辞の時代と合わない。『否』九五「其亡其亡、繋于苞桑」は、三国の陸績(原文「陸続」)が「苞桑」を叢生の桑と訓じたのが正しい。一本の桑に繋ぐと言わず叢生の桑に繋ぐと言うのは、もとよりその牢固さについて言うのである。ところが先生は「桑が叢生するのは柔弱が分かる、柔らかい木に繋ぐのは危険が分かる」と言い、妥当とは言い難い。なお『小過』六二「過其祖、遇其妣」はもともと祖・妣を対に挙げており、これも「妣」を祖母と訓ずべきことの反証となる。
坎六四:「樽酒簋貳用缶,納約自牖」,約為勺的借字,即酌酒之斗。《考工記》鄭注謂「勺、故書或作約」,是其證。《詩·采蘋》:「於以奠之,宗室牖下」,是古奠祭於牖下之證。「納勺自牖」,是說祭時自牖納勺於樽以挹酒。而先生引《周禮·司約》的「治神之約」以為之解,乖於本義。《晉卦辭》:「康侯用錫馬蕃庶」,康侯即《書·康誥》的康叔封,金文作「康侯豐」。而先生誤謂「康侯略如大侯,為諸侯之美稱」。益六四:「利用為依遷國」,依應讀作殷,即《書序》所說的「成周既成,遷殷頑民」。而先生誤據《說文》訓依為倚。升六四:「王用享于歧山」,先生謂「紂能囚文王,何不可到岐山」。其實,紂何曾到過岐山?歸妹六五:「帝乙歸妹」,先生謂「帝乙、湯也」。其實,帝乙謂紂父,太乙何曾有帝乙之稱?
『坎』六四「樽酒簋貳用缶、納約自牖」の「約」は「勺」の借字で、酒を酌む斗である。『考工記』の鄭玄注に「勺、故書或いは約と作る」とあるのが証拠である。『詩・采蘋』に「于以奠之、宗室牖下」とあり、古人の祭奠は窓の下で行うことの証明である。「納勺自牖」とは、祭祀の時に窓から酒勺を酒樽に差し入れて酒を酌むことである。ところが先生は『周礼・司約』の「神の約を治める」を引いて解とし、本義に乖いた。『晋』卦辞「康侯用錫馬蕃庶」の「康侯」は『尚書・康誥』の康叔封、武王の弟で初めて康に封ぜられた諸侯であり、金文には「康侯豊」と作る。ところが先生は誤って「康侯は大たい大侯に等しく、諸侯の美称」と言う。『益』六四「利用為依遷国」の「依」は「殷」と読むべきで、二字は古音が同じで通借し、『書序』のいう「成周が建てられた後、殷代の頑固な遺民を遷す」のことである。ところが先生は誤って『説文』に拠って「依」を倚と訓じた。『升』六四「王用享于岐山」について、先生は「紂王が文王を囚禁できた以上、岐山に行けないはずがない」と言い、これを紂王が自ら岐山に臨んで祭を受けたと読むに等しい。実際には紂王がいつ岐山に行ったことがあろうか。『帰妹』六五「帝乙帰妹」について、先生は「帝乙は成湯である」と言う。実際には帝乙は紂王の父であり、成湯は太乙と称したのであって、「帝乙」の称号がかつてあろうか。
總起來說,先生的主要成就是通過對《焦氏易林》的多年鑽研,在極為錯綜複雜的情況下,用歸納方法,分析和總結了各種逸象的應用規律,進一步以之詮釋《周易》,基本上都是吻合無間的。因此,《左傳》、《國語》、《易林》和《易卦》的用象,才由前此的對立得到統一。由於《周易》無象外之辭。而先生的絕大發明則在乎象,解決了舊所不解的不可勝數的易象問題,可以說,先生對易象的貢獻是空前的。
要するに、尚先生の主要な成果は、『焦氏易林』への多年の研究を通じ、極めて錯綜複雑な材料の中で帰納の方法を用い、種々の「逸象」――すなわち『説卦伝』に載らず漢代に実際に通行していた卦象――の使用法則を分析・総括し、さらにこれをもって『周易』を詮釈して、基本的に隙間なく吻合させたことにある。だからこそ『左伝』『国語』『易林』と『周易』卦爻辞の用象は、従来の互相牴牾の局面から統一に帰したのである。従来の学者は『左伝』の占例・『易林』の取象と経文が符号しないと思い込んでいたが、今となってはそれらがもともと同一の系統であることが分かった。『周易』に卦象を離れた言葉は一句もなく、先生の最大の発明がまさに象にある以上、従来解き得なかった数え切れない易象の問題を解決したのだから、易象への彼の貢献は空前と言える。
但是,也無可諱言,先生對《周易》的作者,只沿襲傳統舊說;並且,對某些卦象,以及文字、聲韻、訓詁和史實方面,仍有許多可議之處。不過,前者的若干發明是主要的,後者的某些缺點和錯誤是次要的。由於是非得失繫客觀存在,不以個人愛憎為轉移,有關本書的某些缺點和錯誤,與其使讀者勞神筆墨,一一加以指責,不如先事擇要說明之為愈。因此,本文不敢阿其所好,為先生回短護非,遂不自量地舉出一些事例,評論其得失(當然限於篇幅,很不全面)。庶幾瑕不掩瑜,晶光赫露,而先生的苦心孤詣和一繫列的發明,也可以信今而傳後了。一九六三年四月於長春。
しかし忌憚なく言えば、先生の『周易』の作者論は伝統的な旧説を踏襲するだけであり、またある卦象、および文字・声韻・訓詁・史実の面でも、なお少なからず商榷の余地がある――前出の震が丘象を取ること、兌が月象を取る所以、および妣・苞桑・納約・康侯・依・岐山・帝乙の諸条がその例で、それぞれ取象・訓詁・史実の三つの層面に属する。ただし前に述べた諸発明が主要であり、後のこれらの欠点と誤りは次要的である。是非得失は客観的に存在し、個人の好悪によって変わるものではない。本書のある欠点と誤りについて、読者に後日わざわざ筆を執って一々指摘させるより、先に私が要点を選んで説明しておく方がよい。ゆえに本文は一様に迎合せず、先生の短を掩い非を回護するようなことを敢えてせず、自分の力量を顧みずに例を挙げてその得失を論評した(もちろん紙幅の限りがあり、全面的とは言い難い)。願わくはこれで瑕が瑜を掩わず、本書の光彩をいっそう顕わにし、先生の苦心孤詣と一連の発明が今の人々の信を取り後世に伝わることができればと思う。一九六三年四月、長春にて。
『周易尚氏学』自序
易理至明也,而說者多誤。說何以誤?厥有二因。一因易理之失傳。太史公曰:易以道陰陽。陰陽之理,同性相敵,異性相感。《艮》傳云「上下敵應,不相與也」,謂陽應陽、陰應陰為敵也;《中孚》六三云「得敵」,《同人》九三曰「敵剛」,謂陰比陰、陽比陽為敵也。陰遇陰,陽遇陽,既為敵而不相與,則不能為朋友為類明矣。《咸》傳曰「二氣感應以相與」,《恆》曰「剛柔皆應」。夫陰陽相與相應,則必相求而為朋友為類明矣。《復》曰「朋來無咎」,謂陽來也,陰以陽為朋也;《損》曰「一人行則得其友」,謂陽行至上而據二陰也,陽以陰為友也;《頤》六二曰「行失類也」,謂陰不遇陽也。至明白也。
『周易』の道理はもともと極めて明白なのに、解説する人は多く誤る。なぜ誤るのか。その原因は二つある。第一は「易理」の失伝である。太史公(司馬遷)は言った。『易』は陰陽を道うものである。陰陽の道理は、同性なら相い敵対し、異性なら相い感ずる。『艮・彖伝』の「上下敵応、相い与せざるなり」とは、初と四・二と五・三と上という相応の位で陽が陽に応じ、陰が陰に応じるのを「敵」と言うのであり、『中孚』六三の「敵を得たり」、『同人』九三の「敵剛」とは、隣接する二爻が陰に陰が並び、陽に陽が並ぶのを「敵」と言うのである。陰が陰に遇い、陽が陽に遇えば、互いに敵となって相い与せない以上、「朋友」にも「同類」にもなり得ないことは明白である。『咸・彖伝』は「二気感応して以て相い与するなり」と言い、『恒・彖伝』は「剛柔皆応ず」と言う。陰陽が互いに親附し互いに感応するならば、必ず相い求めて朋友となり同類となることもまた明白である。『復』卦辞の「朋来たりて咎なし」は、陽爻が来復することを言い、陰が陽を「朋」としたのである。『損』六三の「一人行けば則ちその友を得」は、一つの陽爻が上位まで上ってその下の二つの陰爻を擁することを言い、陽が陰を「友」としたのである。『頤』六二の「行きて類を失うなり」は、陰爻が進んでも陽に遇えないことを言う。道理は極めて明白である。
乃說者於《坤》上六,謂陰陽相戰爭,相傷而出血矣;於《文言》謂陰陽相忌相疑矣;以陽遇陽為朋,陰遇陰為友為類矣。同性相敵、異性相感之理一失,於是初四、二五、三上陽應陽、陰應陰者謂之失應,人尚知之;至於陽比陽、陰比陰,如夬、垢之三四,如《頤》之六二,說者則茫然。於是全部《易》,如「征凶」、「往吝」、「往不勝」、「壯于趾」、「其行次且」,及「慎所之」等辭,全不知其故矣。又如陽遇重陰、陰遇重陽而當位者,所謂「往吉」、「征吉」、「利涉」、「利往」、「上合志也」,此其義宋蔡淵曾創言之,而未大行。於是全部易爻象若是者,自漢迄清,說者亦莫明其故,而用爻變矣。
ところが『易』を解く人々は、『坤』上六の「龍野に戦う、其の血玄黄」について、陰陽が互いに殺し合い打ち傷つけて血を流したと言い、『文言』では陰陽が互いに忌み疑ったと言い、逆に陽が陽に遇うのを「朋」、陰が陰に遇うのを「友」・「同類」とした。「同性相敵・異性感応」という根本の道理が失われるや、初と四・二と五・三と上の相応の位で陽対陽・陰対陰となる「失応」はまだ知られていたが、隣接二爻の陽に陽・陰に陰が並ぶ場合――例えば『夬』『垢』両卦の三・四爻、例えば『頤』卦の六二――については、解説者は皆茫然としていた。その結果、『周易』全部の中の「征凶」(往けば凶)、「往吝」(往けば恨みあり)、「往不勝」、「壮于趾」(足指に傷)、「其行次且」(歩行が且趄して進まず)、「慎所之」(往く所を慎め)の類の断語が、ことごとくその所以を解されなかった。また陽爻の前に二重の陰があり、陰爻の前に二重の陽があって爻位が相当する場合、爻辞はしばしば「往吉」「征吉」「利渉」「利往」「上と志を合わすなり」と言う。この義は宋の蔡淵が初めて唱えたが、広く行われなかった。そこで『易』全部のうちこの類の爻象は、漢から清に至るまで解説者は誰もその故を明らかにできず、「爻変」を持ち出してごまかすほかなかった。
又如陽爻,下乘重陰者亦多吉,與前臨重陰同也。《蹇》九三日「內喜之也」,說甚明也,乃亦失傳。於是《頤》上九之「利涉」,《蒙》上九、《漸》九三之「利禦寇」,皆不知所謂矣。有此一因,於是易解之誤者,十而四五。其次則象學失傳。《說卦》乃自古相傳之卦象,祗說其綱領,以為萬象之引伸,並示其推廣之義。如干為馬,坤、震、坎亦可為馬;乾為龍,震亦可為龍;巽為木,艮、坎亦可為木。非謂甲卦象此物,乙卦即不許再象也,視其義何如耳。
また陽爻の下に二重の陰爻を乗せている場合も、多くは吉であり、道理は前に述べた陽爻が重陰に臨む場合と同じである。『蹇』九三の『小象』に「内これを喜ぶなり」(下体の陰爻がそれを歓迎する)とあるのは、説明は十分に明白だが、この義もまた失伝した。そこで『頤』上九の「利渉大川」、『蒙』上九と『漸』九三の「利禦寇」が、誰にもその所以然を説明できなくなった。この第一の原因があるために、『易』の解釈で誤ったものは十に四五を占める。次に第二の原因は「象学」の失伝である。『説卦伝』に載るのは古来相伝えられた卦象で、ただその綱領を挙げて万象を引申する根拠とし、あわせて推し広げる道筋を示したものである。例えば乾は馬だが、坤・震・坎もまた馬の象を取り得る。乾は龍だが、震もまた龍の象を取り得る。巽は木だが、艮・坎もまた木の象を取り得る。甲の卦がすでにこの物を象徴したから乙の卦はもう象徴してはならないというのではなく、ただその文義がどうかによるだけである。
至文王時,又曆數千年,其所演易象,必益廣益精,故《周易》所用象,往往與《說卦》不同。《說卦》以坎為月,經則多以兌為月,月生西,坎、兌皆位西也;《說卦》以離為龜,經則以艮為龜,離為龜取其外堅,艮亦外堅也。此推而益廣也。且有與《說卦》相反者:《說卦》以兌為少女,以艮為少男,而經則以兌為老婦,以艮為祖、為丈夫;《說卦》以震為長男,巽為長女,經則以震為小子,巽為少女(女妻即少女)。蓋以甲乙言,先生者長,後生者少;而以一人言,則初生者少,行至上而老也。此演而益精也。自東漢迄清,於此等義例,都未能明,見經所用象為《說卦》所無,則用卦變、爻變或爻辰以求之,謬法流傳,二千年如一日。加此一因,於是易解之誤者,十而七八矣。
文王が『易』を演じた時には、伏羲の画卦からまた数千年を経ており、彼が推衍した易象は必ずやより広博でより精密だったはずで、だから『周易』経文に用いられた象はしばしば『説卦伝』に載るものと異なる。『説卦』は坎を月とするが、経文は多くの場合兌を月とする――月は西に生まれ、坎と兌は方位上ともに西に居る。『説卦』は離を亀とするが、経文は艮を亀とする――離が亀の象を取るのは外殻が堅いことを取ったのであり、艮もまた外爻が陽で外殻が堅い。これは『説卦』の綱領を外に向かって推し広げたものである。『説卦』と正反対のものさえある。『説卦』は兌を少女・艮を少男とするが、経文は兌を老婦・艮を祖父・丈夫とし、『説卦』は震を長男・巽を長女とするが、経文は震を小子・巽を少女とする(爻辞の「女妻」はすなわち少女)。これは甲乙二人で比べれば先に生まれた方が長で後に生まれた方が少だが、一人の身で言えば初爻の時が最も幼く、上爻まで行けば老いたことになるからである。これは『説卦』の義例を細部まで推し精めたものである。東漢から清に至るまで、学者はこうした義例をいずれも明らかにできず、経文に用いられた象が『説卦』にないのを見ると、「卦変」「爻変」あるいは鄭玄の「爻辰」を持ち出して合わせようとし、誤った方法が輪転して伝わり、二千年一日のごとしだった。この第二の原因を加えると、『易』の解釈で誤ったものは十に七八にもなる。
以二千年相承之易說,今忽謂其誤;以一人之是,謂千百人皆非,毋乃駭眾。然而易象固在也,易理固存也。本易理以詁易辭,如磁鐵之吸引;由易辭以準易象,如規鑿之相投,固不誣也。以為之者少,旁無師友之助;以違之者眾,更無聲氣之同。然而我見固如斯也,我說無一創也。以我之說,仍以《周易》所言之理,推而正說者之誤,俾卦爻辭復其本有之易理也。其先儒舊說與易理合者,如許慎、荀爽、九家之詁「龍戰」,如《子夏傳》、荀爽之詁「得敵」,靡不因也;其與易理盩者,雖千百人皆如此言,而必反之,如虞翻以陽遇陽為朋、陰遇陰為類等是也。
二千年にわたり相承えられた易説に、今私が忽然と誤りだと言う。たった一人の見解をもって千百人を皆間違いと断ずるのは、いかにも世を驚かすことだろう。しかし卦象はもともとそこに在り、易理はもともとそこに存する。易理に依って卦爻辞を詁めれば、磁石が鉄を引くように自然に相い就き、卦爻辞から立ち戻って卦象を印证すれば、円規が円に合いほぞ頭が卯に入るように寸分の隙もない。この話は決して虚妄ではない。この道に賛同する者が少なく、私の傍らには師友の助けがなく、これに背く者が多く、声気を同じくする仲間もない。しかし私の見解はもとよりこのようであり、しかも私の説には杜撰が一条もない。私のしたことは、やはり『周易』自体の説く道理を推衍して解説者の誤りを正し、卦爻辞に本来備わる易理を回復させることにほかならない。前代の儒者の旧説で易理に合うもの――例えば許慎・荀爽・「九家易」の『坤』上六「龍戦」の訓釈、例えば『子夏易伝』と荀爽の『中孚』「得敵」の訓釈――はすべて因襲する。易理に背くものは、たとえ千百人が皆このように言っても必ずこれに反論する――例えば虞翻が陽遇陽を「朋」とし陰遇陰を「類」としたのがこの類である。
至於卦象之誤者,非我能創造新象,仍《周易》原有之象,說者失之。今證以《左傳》《國語》、周公《時訓》與卦氣圖,證以《焦氏易林》、郭璞《洞林》,迴環互證而得其象也。及其既得而求其本,仍在《周易》,如坤之為水為魚,震之為輹等象是也。然而我之說,不敢必謂其是也,更不敢自匿其非也,故名曰《周易尚氏學》,以質世之治易者。經者天下之公物,非一人所得私;理者天地之自然,非偏執所能改。倘學易之君子,見是編而揚搉其是非,糾正其疏漏,則日夜所祈禱者也。
卦象の誤った箇所については、私が新しい象を造り出せるわけではなく、やはり『周易』本来の象を、解説者が失っていただけのものである。今、『左伝』『国語』の占例、周公の作と伝えられる『時訓』と卦気図、『焦氏易林』と東晋・郭璞の占筮実録『洞林』をもって、回環互いに印证してこれらの象を取り戻した。取り戻してからその根を求めれば、根はやはり『周易』自体にある――例えば坤が「水」の象・「魚」の象を取り、震が「輹」(車軸の下の伏兎)の象を取るのがこれである。『説卦伝』は坤を地・母と言うだけで水象・魚象はないが、『剥』六五に「貫魚」とあり、その卦の下体はまさに坤で、魚象はもともと『周易』自身に出たものを『易林』が保存したにすぎないことが分かる。ただし私の説が必ず正しいと断言する勇気はなく、ましてや自らその誤りを隠匿する勇気もない。だから名づけて『周易尚氏学』とし、世の『易』を治める人に質すのである。経は天下の公器であって、一人が私有できるものではない。理は天地の自然であって、偏執で改変できるものではない。もし『易』を学ぶ君子がこの編を見て、その是非を量り、その疎漏を是正してくれれば、それこそ私が日夜祈っていることである。
説例
乾坤二卦為六十四卦之根本。其六爻爻辭,祇以明上下、別貴賤,及卦運之興衰、初終之時位,樹六十四卦之準則。至於有無應與當位不當位之恆例,皆未之及。而六爻之後,復贅以用九、用六數語,皆所以明筮例及用九用六之故。學者須於此先知之。
『乾』『坤』の二卦は六十四卦の根本である。この二卦の六条の爻辞は、ただ爻位の上下を明らかにし、身分の貴賤を区別し、一卦の気運の盛衰と初爻から上爻までの時位の変化を示して、残りの各卦に通例を立てるためのものである。ほかの卦にしばしば見られる「有応無応」(初と四・二と五・三と上が一陰一陽で応じるかどうか)、「当位不当位」(陽が奇位・陰が偶位に居るのが当位)という慣例は、乾・坤の両卦ではいっさい触れていない。そして六爻のあとに「用九」「用六」の数句が付け足されているのは、占筮の体例を説明し、どんな場合に「用九」「用六」の辞を用いるべきかを言い明かすためである。『易』を読む者はまずこの点を知っておかなければならない。
易辭本為占辭,故其語在可解不可解之間。惟其在可解不可解之間,故能隨所感而曲中肆應不窮,所謂仁者見仁、智者見智也。此易理也。易理與義理不同。例如程傳說「黃裳元吉」,雲五尊位,臣居之則羿、莽,女居之則女媧、武氏,故聖人著為大戒。陳義可謂正大矣,而於易理則大背,以易辭並無著戒之意也。此編只明易理,至其用則任人感觸之。
『易』の文辞はもともと占卜の断語だから、その言葉はつねに解する可と解し難きの間にある。まさに解する可と解し難きの間にあるからこそ、占問者のその時々の感応に随って曲折しながら的確に中り、限りない状況に応じることができる。いわゆる「仁者はこれを見て仁と謂い、知者はこれを見て知と謂う」である。これが「易理」である。「易理」と宋儒の言う「義理」は別物である。例を挙げる。程頤の『伊川易伝』は『坤』六五「黄裳元吉」を解して、五は至尊の位であり、臣がこの位に居れば羿・王莽となり、女がこの位に居れば女媧・武氏(則天)となるから、聖人はここに大いなる戒めを立てたのだと言う。この議論は正大と言えないこともないが、易理には大きく背く――爻辞自体に告戒の意味はないからである。本書はただ易理を明らかにするのみで、これを人事にどう応用するかは各人の感触に任せる。
卦名皆因卦象而生。卦名不解,因之卦爻辭亦不解。如睽為反目,謂兩目不相聽,故一目見為此,一目見為彼,三、上爻辭是也。此義不知,遂多誤解。又如節為符節,合以取信,《說文》所謂竹約也,乃說者概釋為樽節、制節,卦義既誤,故卦爻辭甘苦之義均不知。六十四卦如此者甚多。茲編所釋,先及諸卦得名之義,其名有沿革者,亦並考其異同,如睽《歸藏》作瞿,夬《歸藏》作規等是也。
卦名はすべて卦象から生まれる。卦名が通じなければ、卦爻辞も続けて通じない。例えば『睽』の本義は「反目」で、両目がそれぞれ別の方を見て互いに使い合わないことを言う。だから一方の目にはこう見え、他方の目にはそう見える――六三爻辞の「輿を曳くを見、其の牛掣け」と上九爻辞の「豕が塗を負い、鬼一車を載すを見」は、まさに一目の見えるものが互いに異なる写しである。この義を知らなければ多くの誤解が生じる。また例えば『節』の本義は符節で、二半を合わせて信を取るもの、すなわち『説文解字』のいう「竹約」――竹の節、竹製の信物である。ところが解説者は一様に節約・節制と講じ、卦義がすでに誤っているから、爻辞の「甘節」「苦節」の甘苦の別も当然分からなくなる。六十四卦のうちこの種のものは多い。本書の卦の解釈は、まず各卦の名を得た由来を講じ、卦名に沿革の変化があるものはあわせてその異同を考訂する――例えば『睽』は『帰蔵』で「瞿」と作り、『夬』は『帰蔵』で「規」と作る類である。
說易之書,莫古於《左傳》《國語》,其所取象,當然無訛,乃清儒信漢儒而遺左、國。坎變巽,左氏曰「夫從風」,以坎為夫也;曰「震,車也」,曰「車有震武」,以震為車、為武也。震變離,曰「車說其輹」,以震為輹也。尤要者,明夷之謙,即離變艮,左氏曰「當鳥」,是以艮為鳥也,鳥,黔喙也,於是小過飛鳥之象有著。乃後人於此象均不識,依漢儒以震為夫,以乾為武。夫易師莫先於左氏,其可信較漢儒為何如。故茲編所取象,除以易證易外,首本之《左傳》《國語》,以明此最古最確之易象。
『易』を講ずる書で『左伝』『国語』より古いものはなく、それらの用いた卦象は当然ながら誤りがない。ところが清代の学者は漢儒だけを信じて『左伝』『国語』を脇に置いた。『左伝』に坎が巽に変ずる一条があり「夫風に従う」と言うのは、坎を「夫」としているからである。また「震は車なり」と言い、「車に震武あり」と言うのは、震を「車」・「武」としているからである。震が離に変ずる一条に「車その輹を説く」(車が伏兎を脱す)とあるのは、震を「輹」としているからである。最も肝要なのは『明夷』之『謙』の一条、すなわち下体の離が艮に変わるもので、『左伝』は「鳥に当たる」と言う。これは艮を「鳥」としているのであり、艮は『説卦』でまさに「黔喙の属」すなわち尖った嘴の禽鳥である。艮が鳥の象であることがあって初めて、『小過』卦の「飛鳥の音を遺す」の鳥象に落ち着き所がある。後人はこれらの象を一つも識らず、かえって漢儒に倣って震を「夫」・乾を「武」とした。『易』を講ずる師で『左伝』より早い者はなく、その信憑性は漢儒に比べていかほどだろうか。ゆえに本書の取象は、『易』をもって『易』を証するほか、まず『左伝』『国語』に本づけて、この最も古く最も確かな易象を明らかにする。
《時訓》為《逸周書》之專篇,書云周公所作,其氣候皆以卦象為準,故卦氣圖與《時訓》不能相離,其所準易象與《易經》所關最巨。如於屯曰「雁北鄉」,以屯上互艮為雁;於巽曰「鴻雁來」,亦以巽為鴻雁,而漸之六鴻象得解。以艮為蛤、為蜃,艮外堅故與離同象,而易之貝象、龜象得解。以兌為斧,以艮為巢、為鷹,皆賴以解。易而用覆象、半象尤精,如於復曰「麋角解」,震為鹿,艮為角,角覆在地,故日解;於鼎下曰「半夏生」,離為夏,巽為艹,初二半離,故曰半夏,而昔儒無知者(除《易林》外)。茲編所取象,除左、國外,多以《時訓》為本。
『時訓』は『逸周書』の一篇で、書には周公の作とある。七十二候の物候を記して、すべて卦象を準とするので、卦気図と『時訓』は離すことができない。その依拠する易象は『周易』との関係が最も大きい。例えば屯卦の一候に「雁北郷」(雁が北に向かう)と言うのは、屯卦の三四五爻が互い出して艮となり、艮が「雁」の象を取るからである。巽卦の一候に「鴻雁来」と言うのも同じく巽を鴻雁とするからである――この象があって初めて『漸』卦の六爻に連なる六つの「鴻」の字の鴻象が通じる。また艮を蛤・蜃とするのは、艮の上爻が陽で外殻が堅いから、離と同じく甲殻の象を取り得るのであり、『易』の「貝」象・「亀」象がこれで解ける。兌を斧とし、艮を巣・鷹とするのも、皆『時訓』によって初めて解ける。『時訓』は「覆象」(一卦を逆さまに見る)と「半象」(半分の卦体だけを取る)を用いるのが特に精妙である。復卦の一候に「麋角解」(麋鹿が角を脱ぐ)と言うのは、震が鹿で、震を逆さまにすれば艮となり艮が角で、角が逆さに垂れて地に落ちるから「解」という。鼎卦の下の一候に「半夏生」と言うのは、離が夏、巽が草で、初二両爻は半分の離しか成さないから「半夏」という。これらは従前の学者には一人として知る者がなかった(『焦氏易林』を除く)。本書の取象は、『左伝』『国語』のほか、多く『時訓』を本とする。
《焦氏易林》,後儒皆知其言易象,然以象學失傳之故,莫有通其義者。如以坤為水,以兌為月,以艮為火,以巽為少妻,以兌為老婦,以正反兌、正反震為爭訟(爭訟即有言),為《說卦》所無,而皆為經中所有。說者因誤解經而失其象,故於《易林》亦不能解。愚求之多年,亦無所入。後讀蒙之節云:「三夫共妻,莫適為雌,子無名氏,翁不可知。」因節中爻震、艮,上坎三男俱備,故曰三夫;祇下兌為女象,故曰三夫共妻。震為子,艮為名、為翁,上坎為隱伏,故曰無,曰不可知,字字皆從易象生。由此以推,凡林詞皆豁然而解。故茲編取象,除《左傳》《國語》卦氣圖外,多本《易林》。
『焦氏易林』は、後代の学者は皆それが易象を言うと知っていたが、象学失伝のためにその意を通じられる者はいなかった。例えば坤を水とし、兌を月とし、艮を火とし、巽を少妻とし、兌を老婦とし、正兌反兌・正震反震の相背するを争訟(「争訟」はすなわち爻辞の「有言」)とする――これらの象は『説卦伝』にはなく、しかし皆『周易』経文に実際にある。解説者は経文を誤解したために連れてこれらの象を失い、だから『易林』も解けないのである。私も多年求めたが、ずっと入り口が見つからなかった。後に「蒙之節」の一条の林辞を読んだ。「三夫妻を共にし、雌たるに適う莫く、子に名氏なく、翁知る可からず。」これでようやく悟った。節卦の中間の爻が互い出して震と艮となり、上体の坎を加えると、震・坎・艮の三つの男卦がそろうから「三夫」と言い、全卦でただ下体の兌だけが女象だから「三夫共妻」と言う。震は子、艮は名・翁(老人)、上体の坎は隠伏で、隠伏なら指し示す実がないから「無」・「不可知」と言う。字字みな易象から生まれている。この道筋で推せば、『易林』の林辞は皆豁然として解ける。ゆえに本書の取象は、『左伝』『国語』と卦気図のほか、多く『易林』を本とする。
易中古文甚多,如場作易,趑趄作次且,趾作止,佚作失等,不可勝數。先儒除晁說之外,知為古文者甚少,於是竟讀易為難易,失為得失。茲編非好異,凡易之古文,必仍其舊例,如「需于血」,即「需於洫」是也。
『周易』に保存された古字は多い。例えば場圃の「場」は「易」と書かれ(『大壮』六五「羊を易に喪う」の「易」がそれである)、「且趄」は「次且」と書かれ、足指の「趾」は「止」と書かれ、散佚の「佚」は「失」と書かれる。この類は数え切れない。前代の学者は宋の晁説之を除けば、これらが古字だと知る者は少なく、ついには「羊を易に喪う」の「易」を難易の易と読み、「佚」を得失の失と読んだ。本書は異説を好むのではなく、『易』の古字はすべてその本来の用法のままに解する。例えば『需』九三「血に需る」は、実は「洫に需る」――「血」は「洫」(溝渠)の古字である。
古書多音同通用,而易尤甚。如盤,作盤,作盤,作般;邅如,作驙如;甲坼,作甲宅;冶容,作野容;刑剭,作形渥,作刑屋;經綸,作經論,作經倫;羸,作虆,作累,作縲,作累之類,皆音同通借,無是非之可言。而世儒必以習見者為非,罕見者為是,似未觀其通。茲編反是。
古書に同音通用の字は多いが、『周易』では特に甚だしい。「盤桓」の「盤」は異文で「磐」・「般」と書かれ、「邅如」は「驙如」と書かれ、「甲坼」は「甲宅」と書かれ、「冶容」は「野容」と書かれ、「刑剭」は「形渥」・「刑屋」と書かれ、「経綸」は「経論」・「経倫」と書かれ、「羸」は「虆」・「累」・「縲」と書かれる類である。通借とは、二字の読音が同じで古人が書く時に随手に入れ替えたもので、字義上の区別はなく、もともとどちらが正でどちらが誤ということは言えない。ところが後世の学者は必ずや見慣れた書き方を誤とし珍しい書き方を正と判定し、通仮の通例を見透していないようである。本書のやり方はこれと逆である。
易用覆象,如大過九五之枯楊用覆巽,豐上六用覆艮,「重門擊柝」以豫上震為覆艮,荀爽及虞翻皆知之,而不能推行。於是困之「有言不信」、蒙之「再三瀆」用覆象者,遂永不得解。豈知左氏明夷之謙曰:「於人為言,敗言為讒。」謙上震,震為言,下艮震覆,故曰敗言;言相反,故曰讒。《易林》本之,凡正反震、正反兌相背者,不曰爭訟,即曰有言。於是困、震之有言皆得解。此似我創言之,然仍左氏及《易林》所已言,我拾其說以證易耳,仍非我說也。
『周易』は「覆象」を用いる。すなわち一つの三画卦を上下逆さまにして象を取る。例えば『大過』九五の「枯楊生華」は巽の覆象を用い、『豊』上六は艮の覆象を用い、『繋辞』の「重門を設け柝を撃つ」が『豫』卦に取るのは、『豫』上体の震を艮の覆象と見たのである。荀爽と虞翻はいずれも覆象の存在を知っていたが、推し広げて用いることができなかった。そこで『困』卦の「有言不信」、『蒙』卦の「再三して瀆す」のように覆象を用いなければ通じない箇所は、永久に解けなくなった。思いもよらぬことに、『左伝』が記す『明夷』之『謙』の一条には早くも「人については言、敗れたる言は讒」とある。『謙』の上体は震で震は「言」、下体は艮で艮はまさに震を逆さまにした覆象だから「敗言」と言い、二つの「言」が方向相反するから「讒」と言う。『焦氏易林』はまさにこの路数を承けて、正震と反震・正兌と反兌が背向相対するものは、「争訟」と言えば「有言」と言う。この一条があれば、『困』卦・『震』卦の「有言」は皆通じる。これは私の新創の説のようだが、実はやはり『左伝』と『易林』がすでに言っていたことで、私は彼らの説を拾い取って『周易』を証したにすぎず、やはり私個人の説ではない。
卦有卦情。中孚之鶴嗚子和,以中爻正反震相對也,故下之震鶴一鳴,三至五即如聲而反,故曰子和(舊解不知子指反震,皆自鳴自和)。又如兌「朋友講習」,以初至五正覆兌相對,若對語然,故曰講習,早商兌。夬四之「聞言不信」,兌為耳,故曰聞;兌為言,乾亦為言,乃兌言向外,與乾言相背,故曰不信。此似我創解,然《左傳》歸妹之睽曰「西鄰責言,不可償也」,歸妹兌為西,震為鄰,故曰西鄰;而震為言,震言外向,與兌言相背,故曰責言,與夬之聞言不信義同也,仍非我說也。
各卦にはそれぞれの「卦情」がある。『中孚』九二の「鳴鶴陰に在り、其の子これに和す」は、中間の爻が互い出して正震と反震が相対するからである。下の震は鶴で、鶴が一声鳴けば、三から五爻までの反震が声に応じて反響する。だから「子和」という(旧注は「子」があの反震を指すことを知らず、実は同じ一羽の鶴が自ら鳴き自ら和したのである)。また『兌』卦の『大象』が「朋友講習」と言うのは、初爻から五爻までの間に正兌と覆兌が相対し、二人が顔を合わせて話すようだから「講習」と言うのであり、九四の「商兌未だ寧ならず」の「商」(商量)もここから来る。『夬』九四の「言を聞きて信ぜず」は、兌は耳だから「聞」と言い、兌は言、乾も言だが、兌の口は外を向いていて乾の言とまさに背向するから「信ぜず」と言う。これは私の新解のようだが、『左伝』が記す『帰妹』之『睽』の一条に「西隣の責言、償う可からず」とある。『帰妹』の下体の兌は西、震は隣だから「西隣」と言い、震は言で震の言は外を向き兌の言と背向相沖するから「責言」と言う。『夬』卦の「言を聞きて信ぜず」の取象の道理と全く同じである。やはり私個人の説ではないことが分かる。
同此一爻,而爻辭吉凶不同。如頤六五曰「居貞吉」,下又曰「不可涉大川」;家人九三曰「嗃嗃悔厲吉」,下又曰「婦子嘻嘻終吝」。先儒無詳其故者。豈知爻有上下,由此爻上取而象吉者,下取或凶;下取而象吉者,上取或凶。如漸九三「婦孕不育凶」,下又曰「利禦寇」是也。易詞如此者不可枚舉,此三爻特其例耳。治易者如明此例,則事半功倍。
同じ一つの爻なのに、爻辞の吉凶の判断が前後で異なることがある。例えば『頤』六五は「貞に居れば吉」と言い、続いて「大川を渉る可からず」と言う。『家人』九三は「家人嗃嗃、悔い厲しければ吉」と言い、続いて「婦子嘻嘻、終りに吝なり」と言う。前代の学者にその故を詳らかにした者はいない。思いもよらぬことに、取象には上に取ると下に取るの区別があるのである。この爻から上を見て象が吉なら、下を見ると凶かもしれず、下を見て吉なら上を見ると凶かもしれない。例えば『漸』九三の「婦孕みて育たず凶」に続いて「寇を禦ぐに利あり」と言うのがこれである。『易』辞でこの種のものは挙げきれず、上に挙げた三条は例にすぎない。『易』を治める者がこの通例を明らかにすれば、事半にして功倍する。
易辭與他經不同。他經上下文多相屬,易則不然,因易辭皆由象生,觀某爻而得甲象,又觀某爻而得乙象,故易辭各有所指,上下句義不必相聯。如損彖曰「利有攸往」,指上九也;下又曰「曷之用,二簋,可用享」,震為簋,坤數二,故曰二簋,則指上下互卦也。又如困「貞大人吉」,以二五皆陽也;「有言不信」,以三至上正反兌相背也。舊解無知者,故於上下旬常強為聯屬,致杈枒不合。茲編遇此,先指明易辭之說何爻何象;至其意義之不相屬者,亦必指明。此自為一義。
『周易』の文辞はほかの経書と異なる。ほかの経書は上下文が多く互いに連属するが、『易』はそうではない。『易』辞は全て卦象から生まれるからである。こちらの爻を見て甲の象を得、あちらの爻を見て乙の象を得るので、一つ一つの句にはそれぞれ指す所があり、上下二句の意味は必ずしも連ならない。例えば『損』卦辞に「往く所有るに利あり」とあるのは上九を指す。続いて「曷ぞ之を用いん、二簋、以て享る可し」とあるのは、震が「簋」の象を取り、坤の数が二だから「二簋」と言うのであり、これは上下二つの互卦について言うのである。また『困』卦辞の「貞なり大人吉」は、二・五両爻がともに陽だからであり、「言有れども信ぜられず」は、三爻から上爻まで正兌反兌が背向相対するからである。旧注はこの道理を知らず、しばしば上下句を強いて連ねて講じたので、枝々にわたりどうにも接ぎ合わない。本書はこの種のところに遇うと、まずその易辞がどの爻・どの象について言うかを指摘する。上下句の意味がもともと連属しないものも、必ず指摘する。これが自ら一つの義例を成す。
卦爻辭往往相反。如履彖曰「不咥人」,爻曰「咥人凶」;無妄彖曰「不利有攸往」,爻曰「往吉」是也。又大象每相反以見義,如同人曰「辨物」,無妄曰「時育萬物」是也。先儒無知其故者。豈知卦有卦義,爻有爻義,象有象義,絕不同也。
卦辞と爻辞はしばしば正反対である。例えば『履』卦辞は「虎の尾を履み、人を咥えず」と言うが、六三爻辞は「虎の尾を履み、人を咥いて凶」と言う。『无妄』卦辞は「其れ正に非ざれば眚あり、往く所有るに利あらず」と言うが、爻辞は往くを吉とする。また『大象伝』はしばしば反対に立義する。『同人』卦辞は人と和同することを説くのに、『大象』は「君子は類族して物を辨ず」と、事物の族類を分別することを言い、『无妄』卦辞は妄動を戒めるのに、『大象』は「先王は茂く時に対して万物を育てたまう」と、天時に順って万物を育てることを言う。前代の学者にその故を知る者はいない。思いもよらぬことに、一卦には一卦の義、一爻には一爻の義、『象伝』には『象伝』の義があり、三者は断じて同じではないのである。
漢儒以象數解易,與春秋士大夫合,最為正軌。乃鄭玄於象之不知者則用爻辰,取象於星宿;虞翻則用爻變,使變出某卦以當其象。若此者亦不敢從也。
漢儒は象数をもって『易』を解し、その路数は春秋時代の士大夫の占法と一致し、もっとも正統である。ところが鄭玄は自分の知らない象に出会うと「爻辰」を持ち出し――六爻を十二辰に配し、二十八宿から象を取り、虞翻は「爻変」を持ち出し――ある爻を変動させて、無理やり別の卦を変出して所要の象に当てはめた。こうしたやり方には、本書も敢えて従わない。
易義有絕不能解者,先儒雖強說之,實皆無當。如同人九四之吉,自象傳不能詳其故,小畜九二同。易義如此者多有。茲編遇之,必詳言其難解之故,偶有揣測,亦不敢自信也。
『易』の義理にはどうしても解けない箇所があり、前代の学者は強いて説を立てたが、実はいずれも的を得ていない。例えば『同人』九四の「其の墉に乗る、攻め克く能わず、吉」がなぜ吉と断ぜられるかは、『象伝』からしてその故を詳らかにできない。『小畜』九二の「牽復して吉」も同じである。『易』にはこの種の通じない箇所が多い。本書はこれらに遇えば、必ずどこが解し難いかを詳しく言う。たまに推測を述べることがあっても、自ら信ずるに足るとは言えない。
吳摯父先生《易說》,於大畜云:凡陽之行,遇陰則通,遇陽則阻,故初、二皆不進,而三利往。於節云:易以陽在前為塞,陰在前為通,初之不出,以九二在前;二則可出而不出,故有失時之凶。此實全易之精髓,為二千年所未發。愚於易理粗有所入,實以此數語為之階,故特揭出,以尊師說。
私の師・呉汝綸(字は摯父)先生の『易説』は、『大畜』についてこう言う。「およそ陽爻が進むとき、前に陰爻に遇えば通じ、陽爻に遇えば阻まれる。だから『大畜』の初九・九二はともに進まず、九三に『往く所有るに利あり』と言う。」『節』卦についてはこう言う。「『易』は陽爻が前にあるのを塞がりとし、陰爻が前にあるのを通りとする。初九が『戸庭を出ず』なのは、九二が前に塞いでいるからであり、九二は出られるのに出ないから、『時を失う』の凶がある。」この数語はまさに全易理の精髄で、二千年の間誰も発明しなかった。私が易理にわずかに入り得たのは、実にこの数語を階梯としたからで、特に掲げ出して師説を尊ぶのである。
眼前事物皆為易理,俯取即是。例如雄雞與雄雞見則死鬥,驢馬尤甚,若有宿仇者,是何也?陽遇陽也。大畜初九曰「有厲利已」,厲,危;已,止也。初有應,但為二三所隔,遇敵故曰有厲,止而不動則災免矣,象曰「不犯災」,正釋厲義也。乃舊解謂厲指四爻。厲若在四,尚何貴此應與乎。不識災即厲,命二變成坎以取災象。豈知大壯初九「壯于趾征凶」,夬初九「壯于前趾往不勝」,壯,傷也,其故皆在陽遇陽。傷之與災,有何別乎。故夫目前易理,望之似淺,推之實深。昧厥目前,易雖一再言之,總不能知。
目の前の尋常な事物は、どれも皆易理であり、身をかがめれば拾える。例えば二羽の雄鶏が顔を合わせれば死ぬまで闘い、驢馬の間ではなおさら激しく、まるで宿敵のようだが、これはなぜか。陽が陽に遇うからである。『大畜』初九は「厲あり、已るに利あり」と言う。「厲」は危険、「已」は止まること。初九はもともと六四に応じているが、九二・九三の二つの陽爻に隔てられ、行く先々で同性の敵に遇うから「厲あり」と言い、止まって動かなければ災いを免れる。『小象』の「災いを犯さざるなり」は、まさに「厲」の字の義を釈している。ところが旧注は「厲」が六四の爻を指すと言う――危険が六四にあるなら、あの相応の爻に何の貴さがあろうか。彼らは「災」がすなわち「厲」だと知らず、九二に坎を変出させて「災」象を取るほかなかった。思いもよらぬことに、『大壮』初九は「趾に壮んなり、征くは凶」と言い、『夬』初九は「前趾に壮んなり、往けども勝たず」と言う。「壮」はすなわち「傷」で、その故はみな陽爻の前にまた陽爻に遇うことにある。「傷」と「災」とに何の区別があろうか。ゆえに目の前の易理は、見れば浅近のようで、推せば実に深遠である。目の前のことに蒙昧として察しなければ、『易』が再三指し示しても、ついに領会できない。
