Libo

説卦伝

明 · 释智旭 · 第17巻 / 18

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

昔者聖人之作易也,幽贊於神明而生蓍,參天兩地而倚數,觀變於陰陽而立卦,發揮於剛柔而生爻,和順於道德而理於義,窮理盡性以至於命。夫因蓍有數,因數立卦,因卦有爻,此人所共知也;藉此以和順道德,窮理盡性,此人所未必知也。且蓍之生也,實由聖人幽贊於神明而生之;數之倚也,實參兩於天地;卦之立也,實觀變於陰陽;爻之生也,實發揮於剛柔:此尤人所不知也。惟其蓍從聖人幽贊生,乃至爻從發揮剛柔生,故即此可以和順道德,使進修之義條理有章。既得進修之義,則理可窮,性可盡,而天命自我立矣。作易之旨顧不深與?

昔者聖人の《易》を作れるや、幽に神明を賛して蓍を生じ、参兩して以て数を倚え、変を観て以て卦を立て、揮を発して以て爻を生じ、和順して道徳に於て、理義に於て条り、理を窮め性を尽くして、以て命に至らしむ。蕅益の解説:蓍草有るに因って初めて数有り、数有るに因って初めて卦を立て、卦有るに因って初めて爻有る。此れ人人の知る所なり。而して此の一套を借りて道徳に和順し、理を窮め性を尽くすは、則ち未必人人の知る所ならず。至って蓍草の生長は、実は聖人の暗中に神明を賛助して初めて生出したる者なり。数の確立は、実は天地を参合したる者なり。卦の設立は、実は陰陽の変化を観察して来たる者なり。爻の産生は、実は剛柔を発揮して来たる者なり——此れ則ち更に人の知らざる所なり。正に蓍草は聖人の幽賛神明より生じ、乃至爻は剛柔を発揮するより生ずるがゆえに、之に就いて便ち道徳に和順し、進徳修業の義理をして条理有らしめ得る。すでに進徳修業の義理を得れば、則ち理は窮究し得、性は窮尽し得、而して天命は則ち我自己より確立する。《易》を作るの宗旨は、豈に還って深遠ならざらんや。

昔者聖人之作易也,將以順性命之理,是以立天之道曰陰與陽,立地之道曰柔與剛,立人之道曰仁與義。兼三才而兩之,故易六畫而成卦;分陰分陽,迭用柔剛,故易六位而成章。天地定位,山澤通氣,雷風相薄,水火不相射,八卦相錯。數往者順,知來者逆,是故易,逆數也。

昔者聖人の《易》を作れるや、将に以て性命の理に順わんとす。是を以て立て天の道を陰と陽と曰い、立て地の道を柔と剛と曰い、立て人の道を仁と義と曰う。三才を兼ねて之を両にす。故に《易》は六画にして卦を成す。陰陽を分ち、迭かに柔剛を用い。故に《易》は六位にして章を成す。天地は位を定め、山沢は気を通じ、雷風は相薄し、水火は射たざる相えず。八卦は相錯す。往を数る者は順、来を知る者は逆。是の故に《易》は逆数なり。

吾人自無始以來,迷性命而順生死,所以從一生二,從二生四,乃至萬有之不同。今聖人作易,將以逆生死流,而順性命之理,是以即彼自心妄現之天,立其道曰陰與陽,可見天不偏於陽,還具易之全理,所謂隨緣不變也;即彼自心妄現之地,立其道曰柔與剛,可見地不偏於柔,亦具易之全理,亦隨緣不變也;即彼自心妄計之人,立其道曰仁與義,仁則同地,義則同天,

智旭はここで仏法会通に転入する。彼はいう。我らは无始以来性と命に迷失して、生死の流に順って下に走る。だから一より二を生じ、二より四を生じ、一直到万有の種種の差別に至る。今聖人は《易》を作るに、まさに生死の流に逆らいて性命の理に順わんと欲す。だから、我らの自心より虚妄に顕現し出でた「天」に就いて、それの為に一個の道を確立して「陰と陽」と曰う——これによって天は偏って陽のみにあらず、それは依然として易の全部の道理を具足することを見る。此れ則ち「随縁不変」なり。自心より虚妄に顕現し出でた「地」に就いて、それの為に一個の道を確立して「柔と剛」と曰う——これによって地は偏って柔のみにあらず、亦た易の全部の道理を具足して、同様に随縁不変なり。自心より虚妄に計執し出でた「人」に就いて、それの為に一個の道を確立して「仁と義」と曰う——仁は地に同じく、義は天に同じく、

可見人非天地所生,亦具易之全理,而隨緣常不變也。天具地人之兩,地具天人之兩,人具天地之兩,故易書中以六畫成卦而表示之。於陰陽中又分陰陽,於柔剛中互用柔剛,故易書中以六位成章而昭顯之也。何謂六位成章?謂天地以定其位,則凡陽皆屬天,凡陰皆屬地矣。然山澤未始不通氣,雷風未始不相薄,水火相反,而又未始相射也。是以八卦相錯,

これによって人は併せて天地の生じ出す所にあらざるを見、人もまた易の全部の道理を具足して、随縁して恒常不変なり。天の中に地と人の此の両者を具備し、地の中に天と人の此の両者を具備し、人の中に天と地の此の両者を具備するがゆえに、易書は六画成卦を以て之を表示す。陰陽の中に於て又陰陽を分出し、柔剛の中に於て交替して柔剛を用うるがゆえに、易書は六位成章を以て之を昭示す。何をか「六位成章」と謂うや。則ち天地一旦上下の位を確定すれば、則ち凡そ陽に属する者は皆天に帰し、凡そ陰に属する者は皆地に帰すと言うなり。然るに山と沢は嘗て気息相通せずならず、雷と風は嘗て互相激蕩せずならず、水火は性質相反して又嘗て互相厭棄せず——此れ正に「随縁不変、不変随縁」の卦位の上に落實したる様子なり。此に因りて八卦は交錯並列し、

而世間文章成矣。即此八卦相錯之文章,若從其從一生二、從二生四、從四生八之往事者,則是順生死流;若知其八止是四,四止是二,二止是一,一本無一之來事者,則是逆生死流。逆生死流,則是順性命理,是故作易之本意,其妙在逆數也。謂起震至乾,乾惟一陽,即表反本還源之象耳。

世間の文彩は則ち成就す。則ち此の八卦交錯の文彩の上に於て。若し「一より二を生じ、二より四を生じ、四より八を生ず」の此れら已往の事に順って之を看れば、則ち生死の流に順うなり。若し八は不過四、四は不過二、二は不過一、而して「一」は本來一個の実在の「一」なきを知る——此のように未来の事を看れば、則ち生死の流に逆らうなり。生死の流に逆らうは、亦すなわち性命の理に順うなり。故に《易》を作るの本意は、妙処は正に「逆数」の二字に在り。いわゆる逆数とは、震卦より数え起こして一直到乾卦に数るを指し、而して乾は只純一の陽のみ、正に返本還源の象を表示す。

雷以動之,風以散之,雨以潤之,日以晅之,艮以止之,兌以說之,乾以君之,坤以藏之。先以定動,猶如雷;後以慧拔,猶如風;法性之水如雨,智慧之照如日;妙三昧為艮止,妙總持為兌悅;果上智德為乾君,果上斷德為坤藏。

雷を以て之を動かし、風を以て之を散じ、雨を以て之を潤し、日以て之を晅し、艮を以て之を止め、兌を以て之を説ばせ、乾を以て之を君とし、坤を以て之を蔵す。蕅益は仏法を以て一々対応する。先ず禅定を以て煩悩を撼動するは、雷の鼓動に譬え、随後に智慧を以て之を抜除するは、風の吹散に譬う。法性の水は雨の滋潤に譬え、智慧の照耀は日の晒暖に譬う。微妙の「三昧」、即ち心が一境に専注する定境は、即ち艮の止なり。微妙の「總持」、即ち能く一切の善法を持して失わざるは、即ち兌の悦なり。果地の上の智徳は即ち乾の統領なり、果地の上の断徳は即ち坤の収蔵なり。

帝出乎震,齊乎巽,相見乎離,致役乎坤,說言乎兌,戰乎乾,勞乎坎,成言乎艮。帝者,吾人一念之天君也。不憤不啟,不悱不發,故出乎震;既發出生死心,須入法門以齊其三業;三業既齊,須以智慧之明見一切法;既有智慧,須加躬行;智行兩備,則得法喜樂,又可說法度人;說法則降魔為戰;戰勝,則賞賜田宅,乃至解髻珠以勞之;既得授記,則成道而登涅槃山矣。

帝は震より出で、巽に於て斉く、離に於て相見え、坤に於て役を致し、兌に於て説言し、乾に於て戦い、坎に於て労し、艮に於て言を成す。蕅益は仏法を以て解説する。此の「帝」は、即ち我ら心中の一念の天君なり。孔子は「不憤不啓、不悱不発」と言い、人は先ず発憤するを要す。故に「出乎震」という。すでに生死を出離するの心を発起すれば、則ち法門に進入して身・口・意の三業を斉整するを要す。三業すでに斉整せば、則ち智慧の光明を用いて一切法を照見するを要す。すでに智慧有れば、還って親身踐行を加えるを要す。智と行の両様ともに具備すれば、則ち法喜の楽を得て、又可以て法を説いて人を度す。法を説けば則ち魔軍を降伏するを要す。此れ即ち「戦」なり。戦勝の後、仏は便ち田宅を賞賜し、乃至髻中の宝珠を解き發して以て彼を慰労す。此れ《法華経》の譬喻なり。すでに仏の授記を蒙れば、則ち道を成じて涅槃の山に登るなり。

萬物出乎震,震,東方也。齊乎巽,巽,東南也,齊也者,言萬物之潔齊也。離也者,明也,萬物皆相見,南方之卦也,聖人南面而聽天下,饗明而治,蓋取諸此也。坤也者,地也,萬物皆致養焉,故曰致役乎坤。兌,正秋也,萬物之所說也,故曰說言乎兌。戰乎乾,乾,西北之卦也,言陰陽相薄也。坎者,水也,正北方之卦也,勞卦也,萬物之所歸也,故曰勞乎坎。艮,東北之卦也,萬物之所成終而所成始也,故曰成言乎艮。

万物は震より出づ。震は東方なり。巽に於て斉く。巽は東南なり。斉とは、言うに彼の斉潔なり。離也者は明なり。万物は皆相見え、南方の卦なり。聖人は南面して天下を聴し、明に向かって治む。蓋し諸此を取る。坤也者は地なり。万物は皆養を致す。故に「致役乎坤」と曰う。兌は正秋なり。万物の説する所なり。故に「説言乎兌」と曰う。「戦乎乾」。乾は西北の卦なり。言うに陰陽相薄するなり。坎也者は水なり。正北方の卦なり。労卦なり。万物の帰する所なり。故に「労乎坎」と曰う。艮は東北の卦なり。万物の成終りて成始める所なり。故に「成言乎艮」と曰う。(「饗明而治」は通行本は「向明而治」と作る。底本かくのごとし。今そのまま写す。)

萬物皆出乎震,況為聖為賢、成佛作祖,獨不出乎震邪?萬物皆齊乎巽,而三業可弗齊邪?萬物皆相見乎離,而智慧可弗明邪?萬物皆養於坤,而躬行可弗履踐實地邪?萬物皆說乎兌,而可無法喜以自娛、可無法音以令他喜悅邪?陰陽相薄,即表魔佛攸分;萬物所歸,正是勞賞有功之意。自既成終,則能成物之始,自覺覺他之謂也。約觀心者,一念發心為帝,一切諸心心所隨之,乃至三千性相、百界千如,無不隨現前一念之心而出入也。

万物は皆震方より生出す。況んや聖を成し賢を成し、仏を成じ祖を作すは、豈に単に震方より出でざらんや。万物は皆巽方に於て斉潔斉整す。然らば身口意の三業は斉整せざる可けんや。万物は皆離方に於て互相見る。然らば智慧は明亮せざる可けんや。万物は皆坤地に於て養育を得る。然らば親身踐行は脚踏实地せざる可けんや。万物は皆兌方に於て欣悦す。然らば法喜有りて以て自娯し、法音有りて以て他人をして歡喜せしむるなかる可けんや。「陰陽相薄」は、正に魔と仏とが此に於て道を分かつを表示す。「万物所帰」は、正に功有る者に慰労賞賜するの意なり。自己すでに終結を成就せば、則ち他物の開始を成就し得る。此れ即ち自覚して又他を覚るなり。若し「観心」の此の一層に就いて言えば、一念の発心は則ち「帝」なり。一切の心王心所は皆之に随って転じ、乃至天台宗の講ずる三千性相・百界千如は、當下現前の一念の心に随って出入せざるなし。

神也者,妙萬物而為言者也。動萬物者莫疾乎雷,撓萬物者莫疾乎風,燥萬物者莫熯乎火,說萬物者莫說乎澤,潤萬物者莫潤乎水,終萬物始萬物者莫盛乎艮。故水火相逮,雷風不相悖,山澤通氣,然後能變化,既成萬物也。夫神不即萬物,亦不離萬物,故曰妙萬物也。一念菩提心,能動無邊生死大海,震之象也;三觀破惑無不遍,巽之象也;慧火乾枯惑業苦水,離之象也;法喜辨才自利利他,兌之象也;法性理水潤澤一切,坎之象也;首楞嚴三昧究竟堅固,艮之象也。凡此皆乾坤之妙用也,即八卦而非八卦,故曰神也。

いわゆる「神」とは、其の万物を妙化する此の一点に就いて言うなり。万物を動かすは雷より疾きは莫く、万物を撓するは風より疾きは莫く、万物を燥かすは火より熯(か)れるは莫く、万物を説ばするは沢より説ぶは莫く、万物を潤するは水より潤すは莫く、万物を終始するは艮より盛なるは莫し。故に水火は相逮し、雷風は相悖らず、山沢は気を通じて、然る後に能く変化して、すでに万物を成す。蕅益は仏法を以て解説する。神は既に則ち万物にあらず、亦た万物を離れず。故に之を「妙万物」と言う。一念の菩提心は能く無辺の生死大海を撼動す。此れ震の象なり。「三観」、即ち空観・假観・中観は、迷惑を破るに遍からざるなし。此れ巽の象なり。智慧の火は惑・業・苦の三重の苦水を烘乾す。此れ離の象なり。法喜と弁才は自利利他す。此れ兌の象なり。法性の理水は一切を滋潤す。此れ坎の象なり。「首楞厳三昧」の究竟堅固は、此れ艮の象なり。凡そ此の種種は皆乾坤の妙用なり。則ち八卦の上に於て而又八卦に非ず。故に之を「神」と謂う。

乾,健也;坤,順也;震,動也;巽,入也;坎,陷也;離,麗也;艮,止也;兌,說也。健則可以體道,順則可以致道,動則可以趨道,入則可以造道,陷則可以養道,麗則可以不違乎道,止則可以安道,說則可以行道,此八卦之德也。乾為馬,坤為牛,震為龍,巽為雞,坎為豕,離為雉,艮為狗,兌為羊。讀此方知蠢動含靈皆有佛性。雖一物各象一卦,而卦卦各有太極全德,則馬牛等亦各有太極全德矣。

乾は健なり、坤は順なり、震は動なり、巽は入なり、坎は陥なり、離は麗なり、艮は止なり、兌は説なり。蕅益の解説:剛健なれば則ち道を体認し得、柔順なれば則ち道を求得し得、奮動なれば則ち道に趨向し得、深入なれば則ち道に造到し得、能く其の中に陥入すれば則ち道を涵養し得、能く附麗すれば則ち道に違背せずし得、能く止まれば則ち道に安住し得、能く喜悦すれば則ち道を推行し得。此れ則ち八卦の卦徳なり。乾は馬と為り、坤は牛と為り、震は龍と為り、巽は鶏と為り、坎は豕と為り、離は雉と為り、艮は狗と為り、兌は羊と為り。彼は解説していう。此に読み至って初めて一切の蠢動含霊に皆仏性有るを知る。雖も毎一種の動物各々一卦を象徴すると雖も、可なり卦卦皆各々太極の全徳を具有せば、則ち馬・牛の此れらの動物も亦各々太極の全徳を具有するなり。

乾為首,坤為腹,震為足,巽為股,坎為耳,離為目,艮為手,兌為口。若約我一身言之,則八體各象一卦。然卦卦有太極全德,則體體亦各有太極全德矣。又體體各有太極全德,則亦各有八卦全能也。又馬牛等各有首腹及與口等,則馬牛等各具八卦全能尤可知也。

乾は首と為り、坤は腹と為り、震は足と為り、巽は股と為り、坎は耳と為り、離は目と為り、艮は手と為り、兌は口と為り。蕅益の解説:若し我が此の一個の身体に就いて言えば、八個の部位は各々一卦を象徴す。然るに卦卦皆太極全徳有れば、則ち毎一個の部位も亦各々太極全徳有り。既に毎個の部位皆各々太極全徳有れば、則ち亦各々八卦の全部の功能有り。再び言えば、馬・牛の此れらの動物も亦各々首有り、腹有り以至口有れば、則ち馬牛も亦各々八卦の全部の功能を具足するは、更に推知すべきなり。此れ正に彼の一貫して主張する所の「法法互具」なり。

乾,天也,故稱乎父;坤,地也,故稱乎母。震一索而得男,故謂之長男;巽一索而得女,故謂之長女;坎再索而得男,故謂之中男;離再索而得女,故謂之中女;艮三索而得男,故謂之少男;兌三索而得女,故謂之少女。只此眾物各體之八卦,即是天地男女之八卦,可見小中現大,大中現小,法法平等,法法互具,真華嚴事事無礙法界也。佛法釋者:方便為父,智度為母;三觀皆能破一切法為長男,三止皆能息一切法為長女;三觀皆能統一切法為中男,三止皆能統一切法為中女;三觀皆能達一切法為少男,三止皆能停一切法為少女。

乾は天なり。故に之を父と称す。坤は地なり。故に之を母と称す。震は一索して男を得る。故に之を長男と謂う。巽は一索して女を得る。故に之を長女と謂う。坎は再索して男を得る。故に之を中男と謂う。離は再索して女を得る。故に之を中女と謂う。艮は三索して男を得る。故に之を少男と謂う。兌は三索して女を得る。故に之を少女と謂う。蕅益の解説:則ち此れらの動物・身体の各々配する所の八卦は、同時に則ち天地父母男女の八卦なり。これによって小中に能く大を現じ、大中に能く小を現じ、法法平等・法法互具して、真に《華厳経》のいう所の「事事無碍法界」なるを見る。若し仏法を以て解釈すれば、善巧方便は父なり、般若智度は母なり。空・假・中の三観は皆能く一切法を破除す。長男に配す。空・假・中の三止は皆能く一切法を息滅す。長女に配す。三観は皆能く一切法を統攝す。中男に配す。三止は皆能く一切法を統攝す。中女に配す。三観は皆能く一切法を通達す。少男に配す。三止は皆能く一切法を停息す。少女に配す。

乾為天,為圜,為君,為父,為玉,為金,為寒,為冰,為大赤,為良馬,為老馬,為瘠馬,為駁馬,為木果。坤為地,為母,為布,為釜,為吝嗇,為均,為子母牛,為大輿,為文,為眾,為柄,其於地也為黑。震為雷,為龍,為玄黃,為(敷-文),為大塗,為長子,為決躁,為蒼筤竹,為萑葦,其於馬也為善鳴,為馵足,為作足,為的顙,其於稼也為反生,其究為健,為蕃鮮。

乾は天と為り、圜と為り、君と為り、父と為り、玉と為り、金と為り、寒と為り、氷と為り、大赤と為り、良馬と為り、老馬と為り、瘠馬と為り、駮馬と為り、木果と為る。坤は地と為り、母と為り、布と為り、釜と為り、吝嗇と為り、均と為り、子母牛と為り、大輿と為り、文と為り、衆と為り、柄と為り。其の地に於ては黒と為る。震は雷と為り、龍と為り、玄黄と為り、旉と為り(底本は「敷-文」で此の字を記述す。即ち「旉」、花開の意)、大塗と為り、長子と為り、決躁と為り、蒼筤竹と為り、萑葦と為り。其の馬に於ては、善鳴と為り、馵足と為り、作足と為り、的顙と為る。其の稼に於ては、反生と為る。其の究は健と為り、蕃鮮と為る。

巽為木,為風,為長女,為繩直,為工,為白,為長,為高,為進退,為不果,為臭,其於人也為寡髮,為廣顙,為多白眼,為近利市三倍,其究為躁卦。坎為水,為溝瀆,為隱伏,為矯輮,為弓輪,其於人也為加憂,為心病,為耳痛,為血卦,為赤,其於馬也為美脊,為亟心,為下首,為薄蹄,為曳,其於輿也為多眚,為通,為月,為盜,其於木也為堅多心。

巽は木と為り、風と為り、長女と為り、繩直と為り、工と為り、白と為り、長と為り、高と為り、進退と為り、不果と為り、臭と為る。其の人に於ては、寡髮と為り、広顙と為り、白眼多きと為り、近利市三倍と為る。其の究は躁卦と為る。坎は水と為り、溝瀆と為り、隱伏と為り、矯輮と為り、弓輪と為る。其の人に於ては、加憂と為り、心病と為り、耳痛と為り、血卦と為り、赤と為る。其の馬に於ては、美脊と為り、亟心と為り、下首と為り、薄蹄と為り、曳と為る。其の輿に於ては、多眚と為り、通と為り、月と為り、盗と為る。其の木に於ては、堅多心と為る。

離為火,為日,為電,為中女,為甲胃,為戈兵,其於人也為大腹,為乾卦,為鱉,為蟹,為(嬴女+蟲),為蚌,為龜,其於木也為科上槁。艮為山,為徑路,為小石,為門闕,為果蓏,為閽寺,為指,為狗,為鼠,為黔喙之屬,其於木也為堅多節。兌為澤,為少女,為巫,為口舌,為毀折,為附決,其於地也為剛滷,為妾,為羊。

離は火と為り、日と為り、電と為り、中女と為り、甲胃と為り(底本は「甲胃」と作る。通行本は「甲冑」)、戈兵と為る。其の人に於ては、大腹と為り、乾卦と為り、鼈と為り、蟹と為り、蠃と為り、蚌と為り、龜と為る。其の木に於ては、科上槁と為る。(「蠃」の字は底本が「嬴女+虫」で字形を記述す。)艮は山と為り、径路と為り、小石と為り、門闕と為り、果蓏と為り、閽寺と為り、指と為り、狗と為り、鼠と為り、黔喙の属と為る。其の木に於ては、堅多節と為る。兌は沢と為り、少女と為り、巫と為り、口舌と為り、毁折と為り、附決と為る。其の地に於ては、剛鹵と為り、妾と為り、羊と為る。

此廣八卦一章,尤見易理之鋪天匝地,不間精粗,不分貴賤,不論有情無情。禪門所謂青青翠竹,總是真如;鬱鬱黃花,無非般若。又云牆壁瓦礫皆是如來清淨法身。又云:成佛作祖,猶帶汙名;戴角披毛,推居上位。皆是此意。前云乾健也,坤順也,乃至兌說也,而此健等八德則能具造十界。且如健之善者,則為天為君;其不善者,則為瘠為駁。順之善者,則為地為母;其不善者,則為吝為黑。

智旭の解説:此の一章は広く八卦の象徴する事物を列して、尤も易理の铺天盖地を見出す。精粗を隔てず、貴賤を分かたず、有情無情を論ぜず。禅門のいう「青青の翠竹は総て真如、鬱鬱の黄花は般若に非ざるなし」、又「墙壁瓦礫は皆是れ如来清浄法身」、又「仏を成じ祖を作すも猶汚名を帯び、角を戴き毛を披くも上位に推居す」は、皆此の意を講ずるなり。前面に既に乾は健・坤は順、乃至兌は悦と言ったが、而して此の健等の八種の卦徳は能く具足して十法界を造出し得る。譬えば「健」の善の一面は、則ち天と為り君と為る。其の不善の一面は、則ち瘠馬と為り駮馬と為る。「順」の善の一面は、則ち地と為り母と為る。其の不善の一面は、則ち吝嗇と為り黒色と為る。

下之六卦無不皆然。可見不變之理常自隨緣,習相遠也;然瘠駁等仍是健德,吝黑等乃是順德,可見隨緣之習理元不變,性相近也。若以不變之體,隨隨緣之用,則世間但有天圜乃至木果等可指陳耳,安得別有所謂乾?故大佛頂經云無是見者。若以隨緣之用,歸不變之體,則惟是一乾健之德耳,豈更有天圜乃至木果之差別哉?

底下の六卦も亦た此のごとくならざるなし。これによって「不変」の理は常に自ら随縁するを見る。此れ則ち孔子のいう「習相遠」なり。然るに瘠馬・駮馬の類は依然として「健」の徳なり、吝嗇・黒色の類は依然として「順」の徳なり。これによって随縁して成じたる習気は、其の理は元來不変なるを見る。此れ則ち「性相近」なり。若し不変の本体を取って随縁の作用に順随せば、則ち世間には只天・圓乃至木果の此れらの具体的事物の指し点出し得るのみ。どこに別に一個のいわゆる「乾」有らんや。故に《大仏頂首楞厳経》は「無是見者」と言う——一個の指認し得べき「見」を見出だし得ず。反対に、若し随縁の作用を取って不変の本体に帰還せば、則ち只一個の乾健の徳のみ。どこに還って天・圓乃至木果の種種の差別有らんや。

故大佛頂經云無非見者。於此會得,方知孔子道脈,除顏子一人之外,斷斷無有能會悟者,故再嘆曰今也則亡。○此中具有依正因果、善惡無記、煩惱業苦等一切諸法,而文章錯綜變化,使後世儒者無處可討線索,真大聖人手筆,非子夏所能措一字也。歐陽腐儒乃疑非聖人所作,陋矣陋矣。

故に《大仏頂首楞厳経》は又「無非見者」と言う——万象は一としてあの「見」に非ざるなし。此に於て領會し得れば、初めて孔子の道脈は、顔回一人を除いて、断じて別人の會悟し得る無しを知る。故に孔子は顔回死後再三に感嘆して「今也則亡」という。彼は別に一層の按語を加えていう。此の一章の中に、依報正報・因と果・善と悪と無記・煩悩と業と苦等々の一切諸法を含有し、而して文章は錯綜変化して、後世の儒者をして線索の尋ね可きを得せしめず。真に大聖人の手筆で、子夏の流の添える一字も能わざるなり。欧陽修のあの迂腐の儒生は竟に《説卦》が聖人の作に非ずと疑う。浅陋なるかな、浅陋なるかな。

序卦伝

有天地,然後萬物生焉。盈天地之間者唯萬物,故受之以屯。屯者,盈也;屯者,物之始生也。物生必蒙,故受之以蒙。蒙者,蒙也,物之(禾*犀)也。物(禾*犀)不可不養也,故受之以需。需者,飲食之道也。飲食必有訟,故受之以訟。訟必有眾起,故受之以師。師者,眾也。眾必有所比,故受之以比。比者,比也。比必有所畜,故受之以小畜。物畜然後有禮,故受之以履。履而泰然後安,故受之以泰。泰者,通也。

天地有りて然る後に万物生ず。天地の間に盈てる者は唯万物のみ。故に之に受くるに屯を以てす。屯者は盈なり、屯者は物の始めて生ずるなり。物生すれば必ず蒙なり。故に之に受くるに蒙を以てす。蒙者は蒙なり、物の稚なるなり(「稚」の字は底本が「禾*犀」で字形を記述す)。物の稚なるは養わざる可からず。故に之に受くるに需を以てす。需者は飲食の道なり。飲食あれば必ず訟有り。故に之に受くるに訟を以てす。訟あれば必ず衆起こる。故に之に受くるに師を以てす。師者は衆なり。衆あれば必ず比する所有り。故に之に受くるに比を以てす。比者は比なり。比すれば必ず畜する所有り。故に之に受くるに小畜を以てす。物畜して然る後に礼有り。故に之に受くるに履を以てす。履して泰せば然る後に安んず。故に之に受くるに泰を以てす。泰者は通なり。

物不可以終通,故受之以否。物不可以終否,故受之以同人。與人同者,物必歸焉,故受之以大有。有大者不可以盈,故受之以謙。有大而能謙必豫,故受之以豫。豫必有隨,故受之以隨。以喜隨人者必有事,故受之以蠱。蠱者,事也。有事而後可大,故受之以臨。臨者,大也。物大然後可觀,故受之以觀。可觀而後有所合,故受之以噬嗑。嗑者,合也。物不可以苟合而已,故受之以賁。賁者,飾也。致飾然後亨,則盡矣,故受之以剝。剝者,剝也。

物は終に通ずる可からず。故に之に受くるに否を以てす。否者は塞なり。物は終に否(ふさ)ぐ可からず。故に之に受くるに同人を以てす。人と同じくする者は、物必ず帰す。故に之に受くるに大有を以てす。大有する者は盈る可からず。故に之に受くるに謙を以てす。大有して能く謙なるは、必ず豫す。故に之に受くるに豫を以てす。豫あれば必ず随う者有り。故に之に受くるに随を以てす。喜を以て人に随う者は、必ず事有り。故に之に受くるに蠱を以てす。蠱者は事なり。事有りて然る後に大なる可し。故に之に受くるに臨を以てす。臨者は大なり。物大にして然る後に観る可し。故に之に受くるに観を以てす。観る可きにして然る後に合する所有り。故に之に受くるに噬嗑を以てす。嗑者は合なり。物は苟且して合する可からず。故に之に受くるに賁を以てす。賁者は飾なり。飾を致して然る後に亨る。則ち尽す。故に之に受くるに剥を以てす。剥者は剥なり。

物不可以終盡,剝窮上反下,故受之以復。復則不妄矣,故受之以無妄。有無妄然後可畜,故受之以大畜。物畜然後可養,故受之以頤。頤者,養也。不養則不可動,故受之以大過。物不可以終過,故受之以坎。坎者,陷也。陷必有所麗,故受之以離。離者,麗也。

物は終に尽きる可からず。剥は上爻の尽きる所に至れば則ち下爻に返る。故に之に受くるに復を以てす。復すれば則ち妄ならず。故に之に受くるに无妄を以てす。妄なからずんば然る後に畜する可し。故に之に受くるに大畜を以てす。物畜して然る後に養う可し。故に之に受くるに頤を以てす。頤者は養なり。養わざれば則ち動する可からず。故に之に受くるに大過を以てす。物は終に過ぐる可からず。故に之に受くるに坎を以てす。坎者は陥なり。陥れば必ず麗する所有り。故に之に受くるに離を以てす。離者は麗なり。上経三十卦の次序は此に至って止まる。

有天地,然後有萬物;有萬物,然後有男女;有男女,然後有夫婦;有夫婦,然後有父子;有父子,然後有君臣;有君臣,然後有上下;有上下,然後禮義有所錯。夫婦之道,不可以不久也,故受之以恆。恆者,久也。物不可以久居其所,故受之以遁。遁者,退也。物不可以終遁,故受之以大壯。物不可以終壯,故受之以晉。晉者,進也。進必有所傷,故受之以明夷。夷者,傷也。

以下は下経の次序を講ずる。天地有りて然る後に万物有り、万物有りて然る後に男女有り、男女有りて然る後に夫婦有り、夫婦有りて然る後に父子有り、父子有りて然る後に君臣有り、君臣有りて然る後に上下有り、上下有りて然る後に礼義錯る所有り——「錯」は「措」に通じ、安放の意。夫婦の道は久しからざる可からず。故に《咸》の後に之に受くるに恒を以てす。恒者は久なり。物は久しく其の所に居る可からず。故に之に受くるに遯を以てす。遯者は退なり。物は終に退く可からず。故に之に受くるに大壮を以てす。物は終に壮なる可からず。故に之に受くるに晋を以てす。晋者は進なり。進めば必ず傷うる所有り。故に之に受くるに明夷を以てす。夷者は傷なり。

傷於外者必反其家,故受之以家人。家道窮必乖,故受之以睽。睽者,乖也。乖必有難,故受之以蹇。蹇者,難也。物不可以終難,故受之以解。解者,緩也。緩必有所失,故受之以損。損而不已必益,故受之以益。益而不已必決,故受之以夬。夬者,決也。決必有所遇,故受之以姤。姤者,遇也。物相遇而後聚,故受之以萃。萃者,聚也。

外に於て傷うる者は必ず其の家に反る。故に之に受くるに家人を以てす。家道窮すれば必ず乖る。故に之に受くるに睽を以てす。睽者は乖なり。乖れば必ず難有り。故に之に受くるに蹇を以てす。蹇者は難なり。物は終に難に居る可からず。故に之に受くるに解を以てす。解者は緩なり。緩れば必ず失う所有り。故に之に受くるに損を以てす。損して已まざれば必ず益す。故に之に受くるに益を以てす。益して已まざれば必ず決す。故に之に受くるに夬を以てす。夬者は決なり。決すれば必ず遇う所有り。故に之に受くるに姤を以てす。姤者は遇なり。物は相遇うて然る後に聚まる。故に之に受くるに萃を以てす。萃者は聚なり。

聚而上者謂之升,故受之以升。升而不已必困,故受之以困。困乎上者必反下,故受之以井。井道不可不革,故受之以革。革物者莫若鼎,故受之以鼎。主器者莫若長子,故受之以震。震者,動也。物不可以終動,止之,故受之以艮。艮者,止也。物不可以終止,故受之以漸。漸者,進也。進必有所歸,故受之以歸妹。得其所歸者必大,故受之以禮。禮者,大也。

聚まりて上る者を升と謂う。故に之に受くるに升を以てす。升して已まざれば必ず困む。故に之に受くるに困を以てす。上に困む者は必ず下に反る。故に之に受くるに井を以てす。井道は久しくして革めざる可からず。故に之に受くるに革を以てす。物を革むるは鼎より善きは莫し。故に之に受くるに鼎を以てす。器を主るは長子より善きは莫し。故に之に受くるに震を以てす。震者は動なり。物は終に動く可からず。之を止む。故に之に受くるに艮を以てす。艮者は止なり。物は終に止まる可からず。故に之に受くるに漸を以てす。漸者は進なり。進めば必ず帰する所有り。故に之に受くるに帰妹を以てす。其の帰を得る者は必ず大なり。故に之に受くるに豊を以てす。豊者は大なり。(「故受之以礼、礼者大也」の二つの「礼」の字は底本かくのごとし。まさに「豊」と作るべし。)

窮大者必失其居,故受之以旅。旅而無所容,故受之以巽。巽者,入也。入而後說之,故受之以兌。兌者,說也。說而後散之,故受之以渙。渙者,離也。物不可以終離,故受之以節。節而信之,故受之以中孚。有其信者必行之,故受之以小過。有過物者必濟,故受之以既濟。物不可窮也,故受之以未濟終焉。

大を窮める者は必ず其の居を失う。故に之に受くるに旅を以てす。旅にして容るる所なし。故に之に受くるに巽を以てす。巽者は入なり。入りて然る後に之を説ばしむ。故に之に受くるに兌を以てす。兌者は説なり。説びて然る後に散ず。故に之に受くるに涣を以てす。涣者は離なり。物は終に離る可からず。故に之に受くるに節を以てす。節して之を信ず。故に之に受くるに中孚を以てす。其の信有る者は必ず之を行う。故に之に受くるに小過を以てす。物の過有る者は必ず済す。故に之に受くるに既済を以てす。物は窮まる可からず。故に之に受くるに未済を以て終るなり。

序卦一傳,亦可作世間流轉門說,亦可作功夫還滅門說,亦可作法界緣起門說,亦可作設化利生門說。在儒則內聖外王之學,在釋則自利利他之訣也。

智旭の解説:《序卦伝》この一篇は、世間の生死流転の門径として読むべくもあれば、修行功夫の生死を還滅する門径として読むべくもあり、また法界縁起の門径として読むべくもあり、また聖人の教化を設立し衆生を利益する門径として読むべくもある。儒家より見れば、それは内聖外王の学問である。仏家より見れば、それは自利利他の訣要である。

雑卦伝

剛柔合德,憂樂相關,與求互換,見雜相循,起止盛衰之變態,乃至窮通消長之遞乘,世法佛法無不皆然,自治治人其道咸爾。而錯雜說之,以盡上文九翼中未盡之旨,令人學此易者,磕著砰著,無不在易理中也。筆端真有化工之妙,非大聖不能有此。

智旭は《雑卦伝》の為に総説を作す。剛と柔の徳性は相合し、憂と楽は彼此相関し、「与」と「求」は互換し得、「見」と「雑」は循環相続き、興起と止息・盛大と衰敗の種種の変態、乃至窮困と通達・消退と生長の交替相乗——世間法と仏法は此のごとくならざるなく、己を管くると他を治むるは、道理も亦た皆同じ。孔子がこれらを錯雑に講出するは、前の九篇《易伝》の中に説き尽くさざる意を補足せんと欲し、学《易》の人をしてどこに碰到しどこに撞着するも、皆易理の中に在らしめんが為である。この筆は真に造化の功の妙用有り。大聖人に非ざれば写し出す能わず。

乾剛坤柔,比樂師憂。臨觀之義,或與或求。屯見而不失其居,蒙雜而著。臨有能臨所臨:以卦言之,陽臨陰也;以爻言之,上臨下也。觀有觀示觀瞻:二陽觀示四陰,則陽為能示,陰為所示也;四陰觀瞻二陽,則陰為能瞻,陽為所瞻也。建侯而利居貞,故見而不失其居;包蒙而子克家,故雜而著。

乾は剛、坤は柔。《比》は楽、《師》は憂。《臨》《観》の義は、或いは与、或いは求。《屯》は見えて其の居を失わず。《蒙》は雑にして著る。蕅益の解説:「臨」に能く臨む一方と臨まれる一方有り。卦体に就いて言えば、陽が陰に臨むなり。爻位に就いて言えば、上が下に臨むなり。「観」に「観示」と「観瞻」の両面有り。《観》卦の上面の二陽が下面の四陰に向かって顕示すれば、則ち陽は能く示す所・陰は示される所である。反対に四陰が二陽を仰観すれば、則ち陰は能く瞻る所・陽は瞻られる所である。《屯》卦辞に「利建侯」と言い初九爻辞に「利居貞」と言うがゆえに、「見而不失其居」である。《蒙》卦九二は「包蒙」にして「子克家」なるがゆえに、「雑而著」である。

震,起也;艮,止也。損益,盛衰之始也。大畜,時也;無妄,災也。損下益上為衰之始,損上益下為盛之始。時無實法,而包容萬事萬物,故大畜須約時言,所謂多識前言往行以畜其德,三大阿僧祇劫修行者是也。自恃無妄,則便成災,所謂唯聖罔唸作狂,又復道個如如,早已變了。

震は起なり、艮は止なり。《損》《益》は盛衰の始なり。《大畜》は時なり。《无妄》は災なり。蕅益の解説:《損》は下を減損して上を増益す。此れ衰の始なり。《益》は上を減損して下を増益す。此れ盛の始なり。「時」は本身に一個の実在のものなく、然るに能く万事万物を包容す。故に《大畜》は必ず「時」に就いて講ずる。即ち其の《大象伝》のいう「多識前言往行以畜其徳」、仏法に於ては三大阿僧祇劫の漫长な修行を経歴するなり。至って《无妄》は、自らすでに妄なしと恃めば、則ちかえって災と成る——まさに《尚書》のいう「唯聖罔念作狂」、聖人も一念に隄防を加えざれば狂人に変じ、禅門も亦た言う、纔かに一個の「如如」を道えば、早已変了せりと。

萃聚而升不來也,謙輕而豫怠也。勞謙反得輕安,豫悅反成懈怠,修德者所應知。噬嗑,食也;賁無色也。有間隔而可食,無采色為真賁,故違境不足懼,文采不足眩也。兌見而巽伏也。欲說法者,還須入定;欲達道者,先須求志。

《萃》は聚なり、《升》は上りて来らざるなり。《謙》は軽なり、《豫》は怠なり。蕅益の解説:勤労にして謙退すれば、かえって軽安を得る。安楽にして喜悦すれば、かえって懈怠と変ず——徳を修める者はまさに此の一点を知るべし。《噬嗑》は食なり、《賁》は色無きなり。彼は解説していう。正に中間に間隔の物有るがゆえに、咬み食うべき有り。彩色を施さざるは乃ち真の文飾なり。だから違逆の境遇は畏るるに足らず、外表の文彩も亦た炫目するに足らず。《兌》は見るなり、《巽》は伏するなり。彼は解説していう。法を説かんと欲する者は、還って先ず定に入るを要す。大道に通達せんと欲する者は、先ず志向を立定するを要す。

隨,無故也;蠱,則飭也。隨不宜無事生事,蠱不妨隨壞隨修。剝,爛也;復,反也;晉,(書/一)也;明夷,誅也。爛則必反,(書/一)則必誅,禍兮福所乘,福兮禍所乘,學易者所應觀象玩辭觀變玩占者也。井通而困相遇也。井不動而常通,困雖窮而相遇,此示人以自守之要道也。

《随》は故無きなり、《蠱》は則ち飭ぐるなり。蕅益の解説:《随》は人をして無事の時に別に事端を生ぜしめず。《蠱》は則ち一辺敗壊し一辺修整するを妨げず。《剥》は爛るるなり、《復》は反るなり。《晋》は昼なり、《明夷》は誅なり。(「昼」の字は底本が「書/一」で字形を記述す。)彼は解説していう。爛れて頭に至れば必ず返り、明きて白昼の極処に至れば必ず誅傷を遭う。禍の中に福を乗載し、福の中に禍を乗載す。此れ正に学《易》の人がまさに「観象玩辞、観変玩占」すべき所なり。《井》は通なり、《困》は遇なり。彼は解説していう。井は自己動かずして恒常に通達し、困は窮窘すると雖も終に能く相遇う。此れ人をして自己の要道を守らしめんが為の指示なり。

咸,速也;恆,久也。速即感而遂通,久即寂然不動,斯為定慧之道。渙,離也;節,止也;解,緩也;蹇,難也;睽,外也;家人,內也;否泰,反其類也。有離必有止,有緩必有難,有外必有內,有泰必有否,有否必有泰,類相反而必相乘,學易者不可不知。大壯則止,遁則退也。壯即宜止,遁即宜退,皆思患豫防之學。

《咸》は速なり、《恒》は久なり。蕅益の解説:迅速とは即ち「感而遂通」、長久とは即ち「寂然不動」。二句合わさりて正に定と慧の道なり。《涣》は離なり、《節》は止なり。《解》は緩なり、《蹇》は難なり。《睽》は外なり、《家人》は内なり。《否》《泰》は反して其の類なり。彼は解説していう。離散有れば必ず止住有り、緩舒有れば必ず艱難有り、外有れば必ず内有り、泰有れば必ず否有り、否有れば亦た必ず泰有り。両類は互相反対して而又必ず互相乗接す。学《易》の人は知らざる可からず。《大壮》は則ち止め、《遯》は則ち退くなり。彼は解説していう。強壮なる時は正に止むべく、遯避すべき時は正に退くべし。此れ皆「思患豫防」の学問に属す。

大有,眾也;同人,親也;革,去故也;鼎,取新也。眾必相親,相親必革弊而日新其德。小過,過也;中孚,信也。有過不妨相規,相規乃可相信。豐多故也,親寡旅也。豐必多故,旅必寡親,素位而行,存乎其人。離上而坎下也。智火高照萬法,定水深澄性海。小畜,寡也;履,不處也。但懿文德,則其道寡;雖辨定分,與時變通,而無定局。

《大有》は衆なり、《同人》は親なり。《革》は故を去るなり、《鼎》は新を取るなり。蕅益の解説:人多ければ必ず互相親近し、互相親近すれば必ず弊害を革除して自己の徳行を日々新たにす。《小過》は過なり、《中孚》は信なり。彼は解説していう。過失有れば互相規勧するを妨げず、能く互相規勧すれば乃ち互相信任を談じ得る。《豊》は故多きなり、親寡きは旅なり。彼は解説していう。豊盛なるは必ず変故多く、羇旅なるは必ず親人少なし。自己の本分に安んじて行うは、全く此の人の自己に看る。《離》は上りて《坎》は下るなり。彼は解説していう。智慧の火は高く万法を照徹し、禅定の水は深く性海を澄清す。《小畜》は寡なり、《履》は処らざるなり。彼は解説していう。只文徳を修養すれば、あの道路は窄まり、名分を辨明したと雖も、時に随って変通して一定の格局なし。

需,不進也;訟,不親也;大過,顛也;姤,遇也,柔遇剛也;漸,女歸待男行也;頤,養正也;既濟,定也;歸妹,女之終也;未濟,男之窮也。不進乃可進,不親乃可親,大不可過,所以誡盈;柔能勝剛,所以成遇;定必須慧,故女待男;養正則吉,故須觀頤;已定者不必言,但當謀其未定者耳;終則有始,窮則思通。凡此,皆言外之旨、象中之意也。

《需》は進まざるなり、《訟》は親しまざるなり。《大過》は顛なり、《姤》は遇なり、柔の剛に遇うなり。《漸》は女の帰りて男を待つなり。《頤》は正を養うなり。《既済》は定まるなり。《帰妹》は女の終りなり、《未済》は男の窮まるなり。蕅益の解説:進まざるは正に能く進まんが為なり、親しまざるは正に能く親しまんが為なり。「大」は太過すべからざるは、以て自満を誡めるなり。柔は能く剛に勝つがゆえに、能く遇合を成就す。定は必ず慧の配を以てせねばならざるがゆえに、女子は男子を待つと言う。正を養うは乃ち吉なりがゆえに、《頤》卦を観察するを要す。すでに定まれるは多く言うに及ばず、只まさにあの未だ定まらざる者の為に謀画すべし。終結の後にまた開始有り、窮極の時に則ち通達を想う。凡そ此の種種は、皆言外の旨趣・象中の意思なり。

夬,決也,剛決柔也,君子道長,小人道憂也。上雲乾剛坤柔,則剛柔乃二卦之德,豈可以剛決柔,使天下有乾無坤,其可乎哉?且立天之道曰陰與陽,則天亦未嘗無陰也;立地之道曰柔與剛,則地亦未嘗無剛也。今所謂剛決柔者,但令以君子之剛,而決小人之柔,則小人可化為君子,而君子道長;設使以小人之剛,而決君子之柔,則君子被害,而小人亦無以自立,必終至於憂矣。

《夬》は決なり、剛の柔を決するなり。君子の道は長し、小人の道は憂なり。蕅益の解説:上文に「乾剛坤柔」と言えり。これによって剛と柔とは本來乾坤両卦の各々の徳なるを見る。どうして剛を以て柔を決去して、天下に乾有りて坤なからしめんや。況んや《説卦》に「立天之道曰陰与陽」と講ずれば、これによって天も亦た嘗て陰なきに非ざるを見、「立地之道曰柔与剛」に、これによって地も亦た嘗て剛なきに非ざるを見る。今のいう所の「剛決柔」は、只人をして君子の剛を以て小人の柔を決除せしめんと欲するのみ。此のようになれば小人は君子に転化し得て、君子の道は生長す。仮使反対に、小人の剛を以て君子の柔を決除せば、則ち君子は害を被り、小人も亦た自ら立足する処なし。最終に必ず憂懼の地步に落到せん。

所以性善性惡俱不可斷,而修善須滿,修惡須盡也。問:何謂君子之剛?答:智慧是也。何謂君子之柔?答:慈悲是也。何謂小人之剛?答:嗔慢邪見是也。何謂小人之柔?答:貪慾痴疑是也。噫!讀此一章,尤知宣聖實承靈山密囑,先來此處度生者矣。不然,何其微言奧旨,深合於一乘若此也。思之佩之。

だから本性に就いて言えば、性中の善と性中の悪は皆断じ得ない。能く断ずるは只後天の所修のみ。修の善は円満するを要し、修の悪は除尽するを要す——此れ天台宗「性具善悪」の宗旨なり。或る人問う。何をか君子の剛と謂う。答えていう。是れ智慧なり。何をか君子の柔と謂う。答えていう。是れ慈悲なり。何をか小人の剛と謂う。答えていう。是れ瞋恨・傲慢・邪見なり。何をか小人の柔と謂う。答えていう。是れ貪欲・愚痴・疑惑なり。噫。此の一章を読みて、益々知る、孔聖人は実に霊山会上の仏の密嘱を承受して、先に一歩此処に来りて衆生を度化したる者なるを。然らざれば、何ぞ其の微言奥旨は此の如く深深に一乘仏法に契合するや。好く思量し好く佩服すべきなり。

易解跋

憶曩歲幻遊溫陵,結冬月臺,有郭氏子來問易義,遂舉筆屬稿。先成繫辭等五傳,次成上經,而下經解未及半,偶應紫雲法華之請,旋置高閣,屈指忽越三載半矣。今春應留都請,兵阻石城,聊就濟生庵度夏。日長無事,為二三子商究大乘止觀法門,復以餘力拈示易學,始竟前稿。嗟嗟!從閩至吳,地不過三千餘里;從辛巳冬至今夏,時不過一千二百餘日,乃世事幻夢,蓋不啻萬別千差。交易耶?變易耶?

当年を回憶すれば、我は幻影のごとく温陵に遊歴し、月台に於て冬の安居を結び、郭家の年軽人の《易》の義理を問い来る有りて、我はここにおいて筆を提して起草したり。先ず《繫辞》等の五伝の解説を写し成り、続いて上経を写し成り、而して下経の解説は未だ半ばに到らざるに、偶然紫雲寺の《法華》を講ずるの邀請に応じて、即ち稿子を高閣に束ね、指を屈して算すれば忽然として三年半過ぎ去りぬ。今年春、留都南京の請に応じて前往し、兵事に因って石頭城に阻まれて、姑且済生庵に於て夏を過ごす。白日長くして事なく、両三位の同参と共に大乗止観法門を商討研究し、又以て余力を拈じ出して易学を以て彼らに指示して、此に至って従前の稿子を做し終えたり。噫。福建より呉地に至る、路程は不過三千余里。辛巳年冬より今年夏天に至る、時間は不過一千二百余日。然るに世間の事は幻のごとく夢のごとくして、其の間の差別は千種万種に止まらず。此れ究竟「交易」か、亦た「変易」か——「交易」は陰陽が彼此に位置を交換し、「変易」は時に随って形態を改換す。此れ本來易学が「易」の字を解釈する両個の旧義で、彼は借りて来て自己此の数年の遭遇に問うたのである。

至於歷盡萬別千差世事,時地俱易,而不易者依然如故。吾是以知日月稽天而不歷,江河競注而不流,肇公非欺我也。得其不易者,以應其至易;觀其至易者,以驗其不易。常與無常,二鳥雙遊。吾安知文王之於羑里,周公之被流言,孔子之息機於周流,而韋編三為之絕,不同感於斯旨耶?予愧無三聖之德之學,而竊類三聖與民同患之時,故閣筆而復為之跋。時乙酉閏六月二十九日也。北天目道人古吳蕅益智旭書

千差万別の世事を歴遍するに及び、時間と地点は全部変りて、而してあの「不易」なるは依然として故のごとし。我は此に因りて明白す。僧肇法師《物不遷論》の裏の言う「日月は天をめぐって行くも未だ嘗て歴らず」「江河は奔流して息まざるも未だ嘗て流れず」は、彼は我を騙さざりしなり。あの不変なるを掌握して、以てあの千変万化に応付し、あの千変万化を観察して、以てあの不変に印証す。「常」と「無常」は、仏経の裏のあの両隻の鳥の翅を並べて同遊するがごとし。我はどうして知らん、文王は羑里に囚われ、周公は流言を遭い、孔子は列国を周游した後に息心して退帰して《易》の竹簡を翻して牛皮紐を三度断たしめたるは、彼らは我と此の一層の意思に同じ感受有りしに非ざることを。我は慙愧す此の三位の聖人の徳行と学問に無きを、然るに私下裏に三位の聖人と相類する「与民同患」の時に遇上せり。故に筆を擱きて又之が為に此の跋を写す。時に乙酉年閏六月二十九日。北天目道人・古呉蕅益智旭書。

周易禅解 巻第十 北天目道人蕅益智旭 著

河図説

繫辭傳曰:天一地二,天三地四,天五地六,天七地八,天九地十。天數五,地數五,五位相得而各有合。天數二十有五,地數三十,凡天地之數五十有五,此所以成變化而行鬼神也。(此河圖之。數也。解現繫辭上傳中。)

《繫辞上伝》にいう。天は一、地は二。天は三、地は四。天は五、地は六。天は七、地は八。天は九、地は十。天に属する奇数は五個、地に属する偶数は五個。此の五組の数は両両配合して、各々皆相合する処有り。天数は合計二十五、地数は合計三十。天地之数は総じて五十五。変化は此れより成り、鬼神の運行は此れより通ず。原書の夾注にいう。此れ《河図》の数なり。解釈は《繫辞上伝》の中に見えり。(夾注「此河図之。数也」の中間のあの句点は、底本かくのごとし。)

此先天之數。除中五天地生數以為太極本位,用餘五十為揲蓍之策也。五位相得者:一得五而為六,二得五而為七,三得五而為八,四得五而為九,中得一二三四而為十也。各有合者:一合六,二合七,三合八,四合九,五合十也。一與九為十,二與八為十,三與七為十,四與六為十,一二三四為十,共成五十。而中之五點,每點含十,故以中五為本數也。然雖先天之數,亦含後天八卦之用。且如一六生水,故坎居正北;二七生火,故離居正南;

此れ先天の数なり。中央の五此の天地生数を扣除して太極の本位と為し、残りの五十を用いて揲蓍の蓍策と為す。いわゆる「五位相得」とは、一に五を加えて六を得、二に五を加えて七を得、三に五を加えて八を得、四に五を加えて九を得、中央の五に一二三四を加えて十を成すを言う。いわゆる「各有合」とは、一と六と相合し、二と七と相合し、三と八と相合し、四と九と相合し、五と十と相合すを言う。此の外、一と九と合成して十と為り、二と八と合成して十と為り、三と七と合成して十と為り、四と六と合成して十と為り、一二三四は加え起こせば亦た十なり。総じて合成して五十。而して中央のあの五個の点は、毎一点に十を含むがゆえに、中央の五を取って根本の数と為す。《河図》の方位は一六は下に居り、二七は上に居り、三八は左に居り、四九は右に居り、五十は中に居る。此れ雖も先天の数なれども、亦た後天八卦の用法を含む。譬えば一と六とは水を生ず。故に坎卦は正北に居り、二と七とは火を生ず。故に離卦は正南に居り。

三八生木,故震居正東;四九生金,故兌居正西;五十生土,故土仍居中。乾寄位於西北者,陽位陽數之間也;坤寄位於西南者,陰數陰位之盡也。陰陽互結而為山,故艮居東北;陰陽互鼓而為風,故巽居東南。○約出世法者:一是地獄之惡,六是天道之善,為善惡一對;二是畜生之惑,七是聲聞之解,為解惑一對;三是餓鬼之罪苦,八是支佛之福田,為罪福一對;四是修羅之嗔恚,九是菩薩之慈悲,為嗔慈一對;五是人道之雜,十是佛界之純,

三と八とは木を生ず。故に震卦は正東に居り、四と九とは金を生ず。故に兌卦は正西に居り、五と十とは土を生ず。故に土は依然として中央に居る。乾の寄位して西北に在る所以は、あそこは正に陽位と陽数の間に在るに因り、坤の寄位して西南に在る所以は、あそこは陰数と陰位の尽頭に因る。陰陽は互相凝結して山と成る。故に艮卦は東北に居り、陰陽は互相鼓蕩して風と成る。故に巽卦は東南に居る。彼は別に一層を起こし、出世間法に就いて配する。《河図》の十個の数を十法界の上に配す——一は地獄の悪、六は天道の善。善悪の一対を構成す。二は畜生の迷惑、七は声聞の悟解。解惑の一対を構成す。三は餓鬼の罪苦、八は辟支仏の福田。罪福の一対を構成す。四は阿修羅の瞋恚、九は菩薩の慈悲。瞋慈の一対を構成す。五は人道の駁雑、十は仏界の純一。

為純雜一對。又約十度修德者:一是佈施,六是般若,此二為福慧之主,如地生成萬物,故居下;二是持戒,七是方便,此二為教化之首,如天普覆萬物,故居上;三是忍辱,八是大願,此能出生一切善法,故居左;四是精進,九是十力,此能成就一切善法,故居右;五是禪定,十是種智,此能統御一切諸法,故居中。實則界界互具,度度互攝。蓋世間之數,以一為始,以十為終,華嚴以十表無盡,當知始終不出一心一塵一剎那也。

純雑の一対を構成す。彼は又「十度」——菩薩の修する十種の波羅蜜——に就いて修徳に配す。一は布施、六は般若。此の両様は福と慧の主体で、大地の万物を生成するがごとし。故に下方に居る。二は持戒、七は方便。此の両様は教化の首要で、天の普遍に万物を覆するがごとし。故に上方に居る。三は忍辱、八は大願。此の両様は能く一切の善法を出生す。故に左方に居る。四は精進、九は十力。此の両様は能く一切の善法を成就す。故に右方に居る。五は禅定、十は一切種智。此の両様は能く一切の諸法を統御す。故に中央に居る。其の実、法界と法界は互相具足し、波羅蜜と波羅蜜は互相含摂す。世間の数は一を以て開始とし十を以て終結とし、《華厳経》は「十」を用いて無窮無尽を表示す。まさに知るべし。此の始より終に至るまで皆一心・一微塵・一刹那を出でざるを。

The original text is in the public domain. The Japanese is a machine-assisted translation of this library’s own Chinese paraphrase, checked against a fixed glossary so that technical terms match the definitions used elsewhere on this site. It is a reading aid and does not replace the original.

Hexagrams in this volume