Libo

賁卦

明 · 释智旭 · 第7巻 / 18

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

(離下 艮上)賁:亨,小利有攸往。約世道,則所噬既嗑之後,偃武修文;約佛法,則治罰惡僧之後,增設規約;約觀心,則境發觀成之後,定慧莊嚴:凡此皆亨道也。然世法佛法,當此之時,皆不必大有作為,但須小加整飭而已。

(本卦は下體を離火と爲し、上體を艮山と爲す。)《賁》の卦辭は言う。亨通す。小さく往く所有れば則ち利あり。智旭は三層に解す。世間治道より言わば、咬むべきは皆咬合したる後、兵戈を收起して文治を修明す。佛門より言わば、惡劣の僧人を懲治したる後、規約制度を增補す。觀心より言わば、境界現起・觀照成就したる後、定慧を用いて自身を莊嚴す。此ら皆是れ亨通の道なり。不過世間法と佛法と此の時に於いては、皆大に干戈を動かすを必せず。只だ稍加えて整頓修飾するのみ——これ正に「小利有攸往」の分寸なり。

彖曰:賁,亨,柔來而文剛,故亨;分剛上而文柔,故小利有攸往。天文也。文明以止,人文也。觀乎天文以察時變,觀乎人文以化成天下。賁則必亨,以其下卦本乾,而六二以柔來文之,則是質有其文,亦是慧有其定,故亨也;上卦本坤,而上九分剛以文之,則是文有其質,亦是定有其慧,故小利有攸往也。文質互資,定慧相濟,性德固然,非屬強設,名為天文。體其有定之慧,寂而常照,為文明;體其有慧之定,照而常寂,為止:是謂以修合性,名為人文。性德則具造十界,故觀之可察時變;修德則十界全歸一心,故觀之可化成天下。

《彖傳》は言う。《賁》卦亨通す。柔爻下り來りて剛爻を文飾す。ゆえに亨通す。剛爻を分かちて上りて柔爻を文飾す。ゆえに小さく往く所有れば則ち利あり。これ是れ天の文采なり。文明にして止まる所を知る。これ是れ人の文采なり。天文を觀察すれば以て時序の變化を體察すべし。人文を觀察すれば以て天下を教化成就すべし。智旭は解す。賁飾は必定として亨通す。下卦は本是乾にして、六二の此の柔爻は下り來りてそれを文飾す。卽ち本質の中に文采あるにして、亦卽ち慧の中に定あるなり。ゆえに亨通す。上卦は本是坤にして、上九の此の剛爻は分かち出でてそれを文飾す。卽ち文采の中に本質あるにして、亦卽ち定の中に慧あるなり。ゆえに小さく往く所有れば則ち利あり。文と質と互相に憑藉し、定と慧と互相に成就す。これ本是本性中に固有して、硬に安上するに非ず。ゆえに「天文」と叫ぶ。あの定を帶びたる慧を體會して、寂靜の中に恒常に照察するは卽ち「文明」なり。あの慧を帶びたる定を體會して、照察の中に恒常に寂靜するは卽ち「止」なり。これを後天修行を以て本有の性に契合すと叫ぶ。ゆえに「人文」と叫ぶ。性德は本身として十法界を具足し竝びに變造す。ゆえにそれを觀照すれば以て時序の變化を體察すべし。修德は則ち十法界を全部一心に收歸す。ゆえにそれを觀照すれば以て天下を教化成就すべし。

象曰:山下有火,賁。君子以明庶政,無敢折獄。賁非折獄之時也。庶政苟明,則可以使民無訟矣。佛法釋者:山下有火,外止內明,故於三千性相之庶政,一一明之,了知一切法正、一切法邪,終不妄於其中判斷一是一非,而生取舍情見,如無敢折獄也。

《大象傳》は言う。山下に火ある是れ《賁》なり。君子は此に由りて種種の政務を明察して、然るに輕率に案を斷ずるを敢えてせず。智旭は解す。賁飾の時は案を斷ずるの時に非ず。種種の政務若し能く明察せば、則ち百姓をして根本に訟事なからしむる可し。佛法の一層を以て解す。山下に火あるは、外面靜止して內裏明亮なり。ゆえに「三千性相」の一切法の種種の「政務」(天台宗は一念三千を説きて、一切法の體性と相狀とを含攝す)に對しては、一一に明察せんと要す。同時に一箇の角度より看れば一切法皆正、別の一箇の角度より看れば一切法皆邪なるを明了して、終竟その中に於いて妄りに哪れか對し哪れか錯を判斷せず、此を取り彼を捨つるの情執見解を生起せず——これ便ち「敢えて案を斷ぜず」に譬ゆ。

初九:賁其趾,舍車而徒。象曰:舍車而徒,義弗乘也。卦雖以剛柔相文得名為賁,而實非有事於矯飾也,故六爻皆取本色自賁,而終極於曰賁,正猶詩所謂素以為絢。蓋天下之真色,固莫有勝於白者。今初九抱德隱居,晚食以當肉,安步以當車,乃以義自賁者也。

初九、自己の脚趾を文飾して、車子を捨てて步行す。象傳は言う。車を捨てて步行するは、道義の上に就いて言えば乘らざるべきなり。智旭は解す。本卦は剛柔の互相に文飾するに因って《賁》と名を得ると雖も、其實竝びに矯揉修飾の事を做るに非ず。ゆえに六爻皆「本色を以て自我を文飾す」の義を取りて、最後に上九の「白賁」(底本此處は「曰賁」と作る。當に「白」の字の誤刻なるべし)に歸結す。正に《詩經》の説く所の「素以爲絢」——素淨は本身としていささか最も絢爛なり。天下の眞正の顏色は、本來白に勝る無し。今初九は德行を懷抱して隱居出でず、餓えて然る後に食へば卽ち肉を食ふに等しく、安步慢く行けば卽ち車に坐るに等し(《戰國策》の顏斶の語を用ふ)。これは道義を以て自己を文飾するの人なり。

六二:賁其須。象曰:賁其須,與上興也。柔順中正,虛心以取益乎上下之賢,乃以師友自賁者也。九三:賁如濡如,永貞吉。象曰:永貞之吉,終莫之陵也。剛正而居明體之上,足以潤及於六二六四,而使之同為聖賢,乃以師道自賁者也。

六二、自己の鬚を文飾す。象傳は言う。其の鬚を賁すは、上面に隨って一同に興動するなり。智旭は解す。六二は陰柔順從・中に居り正を守り、虛心に上下の賢者の身上より益を取る。これは師長朋友を以て自己を文飾するの人なり——鬚は自己動く能わずして、下巴に隨って動く。正にそれの九三に隨って起つがごとし。九三、文飾して光潤澤あり。長久に正を守りて吉祥。象傳は言う。永貞の吉は、終竟彼を欺凌し得る人無きなり。智旭は解す。九三は陽剛にして正を守りて離明の體の最上に居り、以て光澤を六二と六四とに潤及して、彼女らをして一同に聖賢と成らしむるに足る。これは師と爲るの道を以て自己を文飾するの人なり。

六四:賁如皤如,白馬翰如,匪寇婚媾。象曰:六四,當位疑也;匪寇婚媾,終無尤也。柔而得正,知白賁之可貴,故求賢無厭倦心:近則親乎九三,俯則應乎初九,仰則宗乎上九,無一非我明師良友;即六二六五,亦皆我同德相輔之朋。見賢思齊,見不賢而自省,安有寇哉?蓋由居上卦之下,則是上而能下,不敢自信自專,乃以虛心自賁者也。

六四、文飾して一片潔白、白馬奔馳して來る。あれは强盜に非ずして、求婚に來るなり。象傳は言う。六四の處する所の位置は本來疑を生ずべし。强盜に非ずして求婚なるを知れば、終竟過失なし。智旭は解す。六四は陰柔にして位置正を得、素白の文飾の最も貴べきを懂得す。ゆえに賢を求むること渇くがごとくして一毫も厭倦せず。近處は九三に親近し、向下は初九に應和し、向上は上九を尊奉して、我が明師良友ならざる一箇無し。卽ち六二・六五をしても、皆是れ我と同德して互相に扶助するの朋友なり。賢者を見れば卽ち看齊せんと想着し、不賢を見れば卽ち自己を反省す。何處に何の强盜かあらん。これはそれ上卦の最下に居るに因りて、上位に身を在りて能く人の下に自居して、自負自專するを敢えてせず。ゆえに虛心を以て自己を文飾するの人なり。

六五:賁于丘園,束帛戔戔,吝,終吉。象曰:六五之吉,有喜也。柔中而有陽剛之志,能知道德之樂,而不以勢位自驕,視天位之尊與丘園等,如大禹之菲飲食、惡衣服、卑宮室,為束帛戔戔吝惜之象,實則吾無間然而終吉,蓋以盛德自賁者也。

六五、山丘園圃の間に文飾して、一束の帛は少くして憐れむべし。看るに吝嗇に似たれど、最終吉祥。象傳は言う。六五の吉なる所以は、喜慶あるなり。智旭は解す。六五は陰柔にして中に居りて陽剛の志向を懷き、道德本身の快樂を懂得して、權勢地位に因って驕矜せず、天子の尊を山丘園圃と一樣に平常に看る。大禹の自己は食すこと簡薄・穿ること粗劣・住むこと低矮にして、これ卽ち「一束の薄帛・儉省吝惜」の形象なり。其實これ正に孔子の説く「吾無間然」——一點の毛病をも挑出す能わず——なり。ゆえに最終吉祥。これは盛大の德行を以て自己を文飾するの人なり。

上九:白賁,無咎。象曰:白賁無咎,上得志也。以剛居艮止之極,又在卦終而居陰位,則非過剛。年彌高,德彌邵,純淨無疵,如武公之盛德至善以自賁者也。佛法釋者:初九以施自賁,六二以戒自賁,九三以忍自賁,六四以進自賁,六五以定自賁,上九以慧自賁。又初九為理賁,不以性德濫修德故;六二為名字賁,從此發心向上故;九三為觀行賁,不可暫忘故;六四為相似賁,不住法愛故;六五為分證賁,於三諦不漏失故;上九為究竟賁,復於本性,無纖瑕故。

上九、純白を以て文飾と爲す。過錯會せじ。象傳は言う。白賁无咎は、上位に居りて心志遂ぐるを得るが故なり。智旭は解す。上九は陽剛を以て艮止の最上に居り、また全卦の終點に處して陰位に居る。ゆえに竝びに過分に剛硬ならず。年紀は大なればなるほど、德行は愈々美しく、純淨にして一點の瑕疵なし。衛武公の盛德至善を以て自己を文飾するに似たり。佛法の一層を以て解せば、六爻は「六度」に配す。初九は布施を以て自我を文飾し、六二は持戒を以て自我を文飾し、九三は忍辱を以て自我を文飾し、六四は精進を以て自我を文飾し、六五は禪定を以て自我を文飾し、上九は智慧を以て自我を文飾す。再び「六卽」に配す。初九是れ「理卽」の賁にして、本具の性德を拿って修來の功夫に冒充せざるを以てなり。六二是れ「名字卽」の賁にして、此處より發心して向上するを以てなり。九三是れ「觀行卽」の賁にして、觀照は一刻も忘失する能わざるを以てなり。六四是れ「相似卽」の賁にして、法に對する貪愛に停留せざるを以てなり。六五是れ「分證卽」の賁にして、空・假・中の三諦に對して再び漏失無きを以てなり。上九是れ「究竟卽」の賁にして、本性に回復して、一絲の細小の瑕疵をも無きを以てなり。

剝卦

(坤下 艮上)剝:不利有攸往。彖曰:剝,剝也,柔變剛也。不利有攸往,小人長也。順而止之,觀象也。君子尚消息盈虛,天行也。約世道,則偃武修文之後,人情侈樂,國家元氣必從此剝;約佛法,則規約繁興之後,真修必從此剝;約觀心有二義:一約得邊,則定慧莊嚴之後,皮膚脫盡,真實獨存,名之為剝。

(本卦は下體を坤地と爲し、上體を艮山と爲す。)《剝》の卦辭は言う。往く所有るに利あらず。《彖傳》は言う。剝は、卽ち剝落なり。柔爻は正に剛爻を改變しつつあり。往く所有るに利あらざるは、小人の勢力增長の中に在るが故なり。形勢に順ってそれを止住するは、卦象を觀察して得來の啓示なり。君子は消退・生長・盈滿・虧虛の規律を看重す。これ天道の運行なるを以てなり。智旭は解す。世間治道より言わば、兵を收め文を修めたる後、人情は奢侈享樂に趨向して、國家の元氣は必定として此より剝落す。佛門より言わば、規約の名目繁多なりし後、眞實の修行は必定として此より剝落す。觀心より言わば兩重の意思あり。一は所得の一面より講ず。定慧を以て莊嚴したる後、浮泛の皮肉は脫落して乾淨なり、只だ眞實獨り存す。これも亦「剝」と叫ぶ。

一約失邊,則世間相似定慧,能發世間辯才文彩,而於真修之要反受剝矣。約得別是一途,今且約失而論,則世出世法皆不利有攸往。所謂不利有攸往者,非謂坐聽其剝,正示挽回之妙用也。往必受剝,不往,則順而止之,所以挽回其消息盈虛之數,而合於天行也。

二は所失の一面より講ず。世間のあの是に似て是ならざる定慧は、世俗の辯才と文采とを生出する能くして、然るに眞實修行の關鍵處に對しては反って剝蝕せらる。所得の一面より言えば是れ別の一條の路なり。今は且く所失の此の一面に就いて論ずれば、則ち世間法と出世間法とは皆「往く所有るに利あらず」。所謂前往に利あらずは、竝びに人をして手を袖にして坐してその剝落を視しめんとするに非ず。恰恰として挽回の妙用を指點するなり。前往すれば必定として剝せらる。往かざれば、卽ち形勢に順ってそれを止住するなり——これ正に消長盈虛の數を挽回し天道の運行に合するの辦法なり。

象曰:山附於地,剝。上以厚下安宅。山附於地,所謂得乎丘民而為天子也。百姓足,君孰與不足?故厚下乃可安宅,此救剝之妙策也。觀心釋者:向上事須從腳跟下會取,正是此意。六爻約世道,則朝野無非陰柔小人,惟一君子高居塵外;約佛化,則在家出家皆以名利相縻,惟一聖賢遠在蘭若;約觀心,則修善斷盡,惟一性善從來不斷。

《大象傳》は言う。山は大地に附著する是れ《剝》なり。上位に居る人は此に由りて下民を厚待し自己の居所を安固するを懂得す。智旭は解す。山の立つを得る所以は地に附著するを以てなり。これ正に《孟子》の説く所の百姓の擁戴を得て始めて天子と爲る能くするなり。百姓は富たれば、君主豈に足らざらんや。ゆえに下面を厚待して始めて自己の家宅を安穩す。これ是れ剝落を挽救するの妙策なり。觀心の一層を以て解す。向上の一着の大事は、須く自己の脚跟の下より體會すべし。正に此の意思なり。再び六爻を看る。世間治道より言わば、朝廷民間は無非是れ陰柔の小人にして、只だ一箇の君子高く塵世の外に超然たるを剩すのみ。佛門教化より言わば、在家出家皆名利に纏住せられて、只だ一位の聖賢遠く蘭若(寂靜の修道處)に住在するを剩すのみ。觀心より言わば、後天に修來の善は已に剝落して殆盡き、只だ本性中に固有の善は從來曾て斷絶せざるを剩すのみ。

初六:剝床以足,蔑貞凶。象曰:剝床以足,以滅下也。床者所以棲身,剝床則身無所棲矣。初在最下,故如剝足。於世法為惡民,於佛法為惡伽藍民,於觀心為剝損戒足也。別約得者,是剝去四惡趣因;然設無四惡趣,則大悲無所緣境,故誡以蔑貞凶。

初六、床を剝蝕して、床脚より開始す。正道を滅棄すれば、凶險。象傳は言う。床を剝して足を以てすは、下部を毀滅せんと要するなり。智旭は解す。床は用いて身を安んずるなり。床は剝壞せられれば、身は卽ち安んずる處無し。初六は最下に在り。ゆえに床脚を剝するに似たり。世間法に配せば、是れ刁惡の百姓なり。佛法に配せば、是れ寺院裏の刁惡の常住人役(伽藍民は卽ち寺に依って居るの雜役)なり。觀心に配せば、是れ持戒の此の隻の「脚」を剝損掉せるなり。若し別に所得の一面より説かば、これは地獄・餓鬼・畜生・阿修羅の四惡道に墮入するの業因を剝除するなり。然るに假設四惡道無からば、菩薩の大悲心は卽ち緣とする所の對象無し。ゆえに爻辭はなお當に告誡して「正道を滅棄すれば則ち凶」と曰く。

六二:剝床以辨,蔑貞凶。象曰:剝床以辨,未有與也。於世法為惡臣,於佛法為惡檀越,於觀心為剝損禪定。無定,則散亂不能辨理,故未有與。別約得者,是剝去人天散善;然設無人天散善,則無以攝化眾生,故亦誡以蔑貞凶。

六二、床を剝蝕して、床身と床脚と交接するの處に剝到る。正道を滅棄すれば、凶險。象傳は言う。床を剝して辨を以てすは、還た未だ應有の援助を得ざるが故なり。智旭は解す。世間法に配せば、是れ奸惡の臣子なり。佛法に配せば、是れ心術不正の施主(檀越は卽ち布施の居士)なり。觀心に配せば、是れ禪定を剝損掉せるなり。定無ければ、心は卽ち散亂して、亦卽ち道理を辨淸する能わず。ゆえに「未有與」——幫手無し——と言う。若し別に所得の一面より説かば、これは人天乘のあの散亂心の中に修する所の善を剝除するなり。然るに假設人天散善無からば、卽ち衆生を攝引化度するの辦法無し。ゆえに同じく告誡して「正道を滅棄すれば則ち凶」と曰く。

六三:剝之無咎。象曰:剝之無咎,失上下也。於世法,為混跡小人之君子;於佛法,為有正見之外護;於觀心,為剝損智慧。剝慧則不著于慧,故能因敗致功,坐斷兩頭而失上下。又別約得者,是剝去色無色界味禪暗定,故得無咎。

六三、剝落の中に處して然るに過錯なし。象傳は言う。剝之无咎は、それ上下と皆關係を脫開するが故なり。智旭は解す。世間法に配せば、是れ小人の堆の裏に混在るの君子なり。佛法に配せば、是れ正知見を具有するの在家護法なり。觀心に配せば、是れ智慧を剝損掉せるなり。智慧は剝せられて、反って再び智慧に執著せず。ゆえに能く失敗に因って功業を成就し、一刀に有無の兩頭を截斷して上下の諸陰と皆相干せず。若し別に所得の一面より説かば、これは色界・無色界のあの滋味を貪着するの禪・昏昧無慧の定を剝除するなり。ゆえに能く過錯なきを得。

六四:剝床以膚,凶。象曰:剝床以膚,切近災也。下卦如床,上卦如身,今剝及身膚,不可救矣。於世法為惡宰輔,於佛法為惡比丘,於觀心為剝無一切因果。別約得者,是剝去二乘入真法門;然設無真諦,則無以出生死而不染世間過患,故誡以切近於災,所謂毫釐有差,天地懸隔也。

六四、剝蝕已に人の皮肉に剝到れり。凶險。象傳は言う。床を剝して膚を以てすは、災禍已に眉睫に迫るが故なり。智旭は解す。下卦は床に似て、上卦は人身に似たり。今は身の上の皮肉に剝到れり。救ひ回る可からず。世間法に配せば、是れ奸惡の宰相輔臣なり。佛法に配せば、是れ惡劣の比丘なり。觀心に配せば、是れ一切の因果をすら剝りて乾乾淨淨たらしむる(卽ち因果を撥無するの斷滅見)なり。若し別に所得の一面より説かば、これは聲聞緣覺の二乘の眞諦に契入するの法門を剝除するなり。然るに假設依るべき眞諦無からば、卽ち生死を出離して而も世間の過患に染せられざるに由る無し。ゆえに告誡して災禍已に切近せりと曰く——これ卽ち所謂毫釐を差えて千里を失すなり。

六五:貫魚,以宮人寵,無不利。象曰:以宮人寵,終無尤也。於世法,為柔君以在君位,又居陽而得中,能師事上九高賢,挽回天下之亂,如文王之師呂尚。於佛法,為福德比丘作叢林主,率眾僧以師事聖賢。於觀心,為即修惡以達性惡;性惡融通,任運攝得佛地性善功德,故無不利。又別約得者,從空入假,剝二邊以歸中道,故須達中道統一切法,如貫魚以宮人寵,使法法皆成摩訶衍道,則無不利。

六五、一串の魚のごとくに、宮人を率領して依次に寵幸を承受せしむ。利ならざる無し。象傳は言う。宮人を以て寵を受くるは、終竟過失なし。智旭は解す。世間法に配せば、是れ柔弱の君主の君位に居り、又陽位に處して中を得て、能く師禮を以て上九の此の高賢に事奉して、從って天下の亂を挽回す。周文王の吕尚を以て師と爲すに似たり。佛法に配せば、是れ福德あるの比丘の叢林住持と爲りて、衆僧を率領して師禮を以て聖賢に事奉するなり。觀心に配せば、是れ後天造作の惡に就いて本性中に固有の惡を通達するなり(天台の「性惡」の説。佛性は本來善惡を具し、佛は性惡を斷ぜずして能く自在に化度す)。性惡は一たび融通せば、自然而然として佛地に本具するの善の功德を攝取す。ゆえに利ならざる無し。若し別に所得の一面より説かば、これは空觀より假觀に進入して、空・有の兩邊を剝去して中道に歸ず。ゆえに必ず中道の一切法を統攝するを通達せざるべからず。一串の魚・一隊の宮人の依次に進むがごとく、每一法をして「摩訶衍」(大乗)の道と成らしめれば、則ち利ならざる無し。

上九:碩果不食,君子得輿,小人剝廬。象曰:君子得輿,民所載也;小人剝廬,終不可用也。於世法為事外高賢,如呂尚箕子之類;於佛法為出世高流,人間福田;於觀心為性善終不可剝,故如碩果不食。君子悟之以成道,小人恃之而生濫聖之慢者也。別約得者,亦指性德從來不變不壞。能悟性德,則當下滿足一切佛法,故君子得輿;執性廢修,則墮落惡趣,故小人剝廬。

上九、碩大の果實は食らはるること無かりき。君子は此に由りて車輿を得、小人は卻って自己の屋廬を剝ぎたり。象傳は言う。君子の輿を得るは、百姓に擁戴せらるるなり。小人の廬を剝ぐは、終竟任用に堪えざるなり。智旭は解す。世間法に配せば、是れ身を事外に置くの高賢にして、吕尚・箕子のあの一類に似たり。佛法に配せば、是れ出世の高僧・人間の福田なり。觀心に配せば、是れ本性中に固有の善の終竟剝り掉せられざるにして、ゆえにあの食らはれざりし碩大の果實に似たり。君子はそれを悟到れば卽ち道を成じ、小人は卻ってそれを仗りて「我は已に聖人なり」の僭越傲慢を生出す。若し別に所得の一面より説かば、これも亦本性の德の從來變壞せざるを指す。能く性德を悟到せば、當下に卽ち一切佛法を圓滿具足す。ゆえに君子は車輿を得と言う。若し「本性現成」に執著して實際の修行を廢棄せば、卽ち惡道に墮落せんと要す。ゆえに小人は自己の房子を剝ぎたりと言う。

復卦

(震下 坤上)復:亨。出入無疾,朋來無咎。反復其道,七日來復,利有攸往。約世道,則衰剝之後必有明主中興而為復;約佛化,則淪替之後必有聖賢應現,重振作之而為復;約觀心又二義:一者承上卦約失言之,剝而必復,如平旦之氣,好惡與人相近,又如調達得無根信也;二者承上卦約得言之,剝是蕩一切情執,復是立一切法體也。若依第三觀,

(本卦は下體を震雷と爲し、上體を坤地と爲す。)《復》の卦辭は言う。亨通す。出入疾患なく、朋友來りて過錯會せじ。反復して此の路上を行じて、七天にして一回回来り、往く所有るに利あり。智旭は解す。世間治道より言わば、衰敗剝落の後は必定として明君中興あらん。これ卽ち「復」なり。佛門教化より言わば、佛法淪替の後は必定として聖賢世に應じて出現して、重新に振作起こせん。これ卽ち「復」なり。觀心より言わばまた兩重の意思あり。一は上一卦の「所失」のあの一面に承接して講ず。剝は盡頭に到れば必定として回復す。正に《孟子》の説く黎明の時のあの一一點の淸明の氣のごとく、好惡は還た常人と相近し、又像として提婆達多(調達)は地獄に墮すと雖もなお「無根信」(善根を依と爲す無しと雖も勉强に一念の信心を生起す)を生起せり。二は上一卦の「所得」のあの一面に承接して講ず。剝是れ一切の情執を蕩除し、復是れ一切法の體性を建立す。若し天台の第三重觀法を按じて配せば、

則從假入空名剝,從空入假名復。若一心三觀,則以修吻性名剝,稱性垂化名復。復則必亨,陽剛之德為主,故出入可以無疾;以善化惡,故朋來可以無咎。一復便當使之永復,故反復其道,至於七日之久,則有始有終,可以自利利他而有攸往也。

則ち假觀より空觀に進入するを剝と叫び、空觀より再び出でて假觀に進入するを復と叫ぶ。若し「一心三觀」(一念心の中に同時に空・假・中の三諦を圓觀す)を按じて配せば、則ち修行を以て本性に契合するを剝と叫び、本性に順って衆生を垂化するを復と叫ぶ。旣に回復せば、卽ち必定として亨通す。陽剛の德は主を做せり。ゆえに出づるも入るも皆疾患なし。善を以て惡を轉化す。ゆえに朋友來りて過錯會せじ。一たび回復せば、卽ちそれをして永遠に回復し下去らしむべし。ゆえに「反復して此の路上を行じ」せんと要して、七天の久しきに直到り、開始ありて亦終結あり。かくして始めて自利利他して往く所有る能くす。

彖曰:復亨,剛反,動而以順行,是以出入無疾,朋來無咎。反復其道,七日來復,天行也。利有攸往,剛長也。復其見天地之心乎。觀心釋者:佛性名為天地之心,雖闡提終不能斷,但被惡所覆而不能自見耳。苦海無邊,回頭是岸。一念菩提心,能動無邊生死大海。復之所以得亨者,以剛德稱性而發,遂有逆反生死之勢故也。此菩提心一動,則是順修,依此行去,則出入皆無疾,朋來皆無咎矣。

《彖傳》は言う。《復》卦亨通するは、陽剛返り來れるが故なり。震動して柔順に依って運行す。ゆえに出入疾患なく、朋友來りて過錯會せじ。反復して其の道を行じて、七日來復す。これ是れ天道の運行なり。往く所有るに利あるは、陽剛生長の中に在るが故なり。回復の中に於いて大概天地の生生不息するの本心を見る可きか。智旭は觀心の一層を以て解す。佛性は卽ち天地の心と叫ぶ。卽使「一闡提」(善根を斷絶するの極惡の人)も亦終竟それを斷り掉る能わず。只だ惡に遮蓋せられて自ら見えざるのみ。苦海邊無し。頭を回れば是れ岸なり。一念の覺悟を求むる菩提心は、卽ち無邊の生死の大海を撼動する能くす。《復》卦の亨通する能くする所以は、正に此の剛健の德は本性に順って發動起こされたるが故なり。于是生死の流を逆を逆轉するの勢頭有り。此の一念の菩提心一たび動けば、便ち是れ本性に隨順するの修行なり。それに依って走下去れば、出づるも入るも皆疾患なく、朋友來るも皆過錯なし。

然必反復其道七日來復者,體天行之健而為自強不息之功當如是也。充此一念菩提之心,則便利有攸往,以剛雖至微,而增長之勢已自不可御也,故從此可以見吾本具之佛性矣。又出謂從空出假,入謂從假入空。既順中道法性,則不住生死,不住涅槃,而能遊戲於生死涅槃,故無疾也。朋謂九界性相,開九界之性相咸成佛界性相,故無咎也。

至って必ず「其の道を反復し七日來復す」せざるべからざるは、天道運行の剛健を體會して、あの自强不息の功夫を做すに、卽ちかくのごとき樣子なるべきを説くなり。此の一念の菩提心を擴充開きて、便ち往く所有るに利あり。陽剛は此刻極めて微弱なりと雖も、あの增長の勢頭は已に擋ぐ可からず。ゆえに此處より卽ち我本來具足の佛性を見る可し。再び説かば、「出」は空觀より出でて假觀に進入するを指し、「入」は假觀より空觀に進入するを指す。旣に中道の法性に隨順せば、卽ち旣に生死の裏に停留せず、亦涅槃の裏に停留せずして、能く生死と涅槃との間に於いて自在に遊戲す。ゆえに疾患なしと言う。「朋」は九法界の體性と相狀とを指す。九界の性相を一一に開顯して、全部佛界の性相と成る。ゆえに過錯なしと言う。

象曰:雷在地中,復。先王以至日閉關,商旅不行,后不省方。楊慈湖曰:舜禹十有一月朔巡狩,但於冬至日則不行耳。觀心釋者:復雖有剛長之勢而利有攸往,然必靜以養其機,故觀行即佛之先王,既大悟藏性之至日,必關閉六根,脫粘內伏,暫止六度萬行商旅之事,但觀現前一念之心,而未可遍歷陰界入等諸境以省觀也。

《大象傳》は言う。雷は地中に伏す。これ卽ち《復》なり。先王は冬至の此の日に於いて關口を關閉し、商人旅客は出行せず、君主も亦四方を巡視せず。智旭は先に宋人楊簡(號は慈湖)の言を引く。虞舜・大禹は十一月初一にはなお出で行きて巡狩するを要せり。只だ冬至のあの日に到れば出行せざるのみ。再び觀心の一層を以て解す。回復は陽剛生長の勢ありて前往に利あると雖も、然るに必ず安靜を以てあの一點の生機を涵養せざるべからず。ゆえに「觀行卽佛」の此の階位に處するの「先王」は、如來藏本性を大悟するのあの「冬至日」に於いて、必定として眼耳鼻舌身意の六根を關閉して、攀緣して外境を黏著するを剝脫して內に收攝し、暫時六度萬行の此らの「商旅」の往來の事を停下して、只だ眼前の此の一念心を觀照して、還た五陰・十八界・十二入等の種種の境界を遍歴して一一に巡察觀照すべからず。

初九:不遠復,無祇悔,元吉。象曰:不遠之復,以修身也。此如顏子。約佛法者,正慧了了,頓見佛性,頓具諸行,所以元吉,如圓教初住;又約六度,即是般若正道。六二:休復,吉。象曰:休復之吉,以下仁也。此如曾子。約佛法者,正定得中,鄰真近聖,如圓教十信;又約六度,即是正定與慧相連。

初九、遠からずして走り出でて卽ち頭を回る。悔恨を產生するに至らず、大いに吉祥。象傳は言う。遠からずして復るは、用いて自身を修養するなり。智旭は解す。これは顏回に似たり。不善あれば未嘗て知らず、知れば未嘗て再び犯さず。佛法を以て言わば、是れ純正の智慧明明白白にして、當下に佛性を頓見し頓時に一切行門を具足す。ゆえに大吉。圓教の「初住」位(初めて無明を破り初めて法身を證す)に相當す。若し六度に配せば、卽ち般若の此の條の正道なり。六二、美善に回復す。吉祥。象傳は言う。休復の吉は、それの能く仁者の下に屈居するを以てなり。智旭は解す。これは曾參に似たり。日日に己が身を三省す。佛法を以て言わば、是れ純正の禪定の其の中道を得て、已に眞實と相鄰り聖位と相近し。圓教の「十信」位に相當す。若し六度に配せば、卽ち純正の禪定と智慧と連して一片と成るなり。

六三:頻復,厲,無咎。象曰:頻復之厲,義無咎也。此如子路。約佛法者,有定有慧而不中正,故須先空次假後中,名為頻復,勤勞修證而得無咎;又約六度,即是精進勤策相續。六四:中行獨復。象曰:中行獨復,以從道也。此如蘧伯玉。約佛法者,正定而與初應,如通教利根接入於圓;又約六度,即是忍辱,由與初應,則生法二忍便成第一義忍。

六三、屢屢回復す。危厲あると雖も、然るに過錯會せじ。象象傳は言う。頻復の危厲は、道理の上に就いて言えば過錯なきなり。智旭は解す。これは子路に似たり。過失を聞けば卽ち喜び、改めて又犯し犯して再び改む。佛法を以て言わば、是れ定あり亦慧あれど、然るに中に居らず位に當らず。ゆえに必ず先に空觀を修し、次に假觀を修し、最後に中觀を修して、一度一度來過して、「頻復」と叫ぶ。勤苦に修證して因って過錯なし。若し六度に配せば、卽ち精進——身心を勤策して相續斷絶せず——なり。六四、中間を走りて獨自回復す。象傳は言う。中行獨復は、正道に跟從せんと爲るが故なり。智旭は解す。これは蘧伯玉に似たり。年五十にして四十九年の非を知る。佛法を以て言わば、是れ純正の禪定にして初九と相應ず。通教中の根性銳利の人の圓教に接引進入せらるるに譬ゆ。若し六度に配せば、卽ち忍辱。初九と相應するに由りて、衆生忍と法忍との此の兩種の忍は便ち直接に「第一義忍」(中道實相に安住するの最高の忍)と成る。

六五:敦復,無悔。象曰:敦復無悔,中以自考也。此如周宣、漢文、宋仁。約佛法者,定慧調勻,亦且得中,但與陽太遠,故必斷惑證真之後,俟開顯而會入圓位,如藏通二乘;又約六度,即是持戒,雖遠於初,但自考三業無失,自然合理而得無悔。

六五、敦厚に回復す。悔恨なし。象傳は言う。敦復无悔は、中道を以て自我を省察するなり。智旭は解す。これは周宣王・漢文帝・宋仁宗の此の類の中興守成の主に似たり。佛法を以て言わば、是れ定と慧と調和均勻して、而且中に居る。只だ陽爻に離るること太だ遠し。ゆえに必ず先に惑を斷じて眞諦を證得して、再び《法華》の權を開き實を顯すの後を待って始めて圓教の位に歸せよ。藏教・通教の二乘の人に譬ゆ。若し六度に配せば、卽ち持戒。それは初九に離るること甚だ遠しと雖も、只だ自己を省察して身・口・意の三業に過失無からば、自然に理に合して悔恨なし。

上六:迷復,凶,有災眚。用行師,終有大敗,以其國君凶,至于十年不克征。象曰:迷復之凶,反君道也。此如王安石方孝孺等,生今反古,名為迷復,非昏迷不復之謂。約佛法者,不中不正,恃世間小定小慧以為極則,因復成迷,故不惟凶,且有災眚。若以此設化教人,必大敗法門,損如來之正法,至於十年而弗克征,以其似佛法而實非佛法,反於圓頓大乘之君道,如今世高談圓頓向上者是也。又約六度,即是佈施,而遠於智慧,著相,著果報,起慢,起愛,亦能起見,故雖是善因,反招惡果,良由不達佛法之君道故耳。

上六、方向を迷失したるの回復、凶險、天災人禍あり。それを用いて兵を出せば、終竟大敗し、國君を連累して亦凶に遭ひ、以至って十年も出征する能わず。象傳は言う。迷復之凶は、君主と爲るの正道に違反するが故なり。智旭は解す。これは王安石・方孝孺の此の一類の人に似たり。今世に生じて然るに硬に古制を恢復せんと要す。ゆえに「迷復」と叫ぶ。竝びに彼の昏迷して回頭するを肯んぜざるを説くに非ず。佛法を以て言わば、是れ旣に中に居らず亦位に當らず。世間のあの點の小定小慧を仗りて最高準則と當て、「回復」に因って反って迷失と成る。ゆえに不僅凶險なり、還た災禍を招來す。若し此の一套を拿って教化を設け人を度せば、必定として法門を大敗して如來の正法を損害し、以至って十年出征する能わず——それ佛法に似たれど實際は佛法に非ずして、圓頓大乗の此の條の「君道」に違反するを以てなり。當今のあの圓頓を高談し動もすれば向上一着を標榜する人らに似たり。若し六度に配せば、卽ち布施。然るにそれは智慧に遠離して、事相に執著し、果報に執著して、傲慢を生起し、貪愛を生起して、亦能く邪見を生起す。ゆえに種する所は善因なりと雖も、反って惡果を招來す。實在是れ佛法中の此の條の根本大道に通達せざるの緣故なり。

无妄卦

(震下 乾上)無妄:元亨利貞,其匪正有眚,不利有攸往。約世道,則中興之治合於天道而無妄;約佛法,則中興之化同於正法而無妄;約觀心,則復其本性,真窮惑盡而無妄:皆元亨而利於正者也。然世出世法,自利利他,皆須深自省察,不可夾一念之邪,不可有一言一行之眚。儻內匪正而外有眚,則決不可行矣。聖人持滿之戒如此。

(本卦は下體を震雷と爲し、上體を乾天と爲す。)《无妄》の卦辭は言う。大いに亨通して正を守るに利あり。若し正に合せざれば、災患あり、往く所有るに利あらず。智旭は三層に解す。世間治道より言わば、中興の治は天道に合す。ゆえに眞實无妄なり。佛門より言わば、中興の教化は正法に同じ。ゆえに眞實无妄なり。觀心より言わば、本來の性を回復して、眞如窮盡に顯露して迷惑は斷盡せり。ゆえに眞實无妄なり。此ら皆是れ大いに亨通して正を守るに利あるの事なり。然るに世間法と出世間法とは、自利するも利他するも、皆必ず深く自我を省察して、一念の邪曲を夾帶すべからず、一言一行の過失あるべからず。倘若も內心正ならずして外面又過失あらば、則ち絕對に行き通る能わず。聖人の「已に滿盈の時如何に守住するか」の告誡する所に對しては、卽ちかくのごとく嚴格なり。

彖曰:無妄,剛自外來而為主於內,動而健,剛中而應,大亨以正,天之命也。其匪正有眚,不利有攸往。無妄之往,何之矣?天命不祐,行矣哉!震之初爻全攬乾德為體,故曰自外來為主於內也。性德雖人人本具,然在迷情反為分外。今從性起修,了知性德是我固有,故名為主於內。夫既稱性起修,必須事事隨順法性。儻三業未純,縱有妙悟,不可自利利他。既不合於性德,則十方諸佛不護念之,安能有所行哉。

《彖傳》は言う。《无妄》卦、剛爻は外面より來りて內卦の主宰と爲る。震動して剛健、剛爻中に居りて上と相應ず。大いに亨通して正に合す。これ是れ天の賦命なり。若し正に合せざれば災患あり、往く所有るに利あらず。眞實无妄にして然るに硬に往かんと要せば、往きて何の處に到らんや。天命皆彼を護佑せざれば、還た走り動くを得んや。智旭は解す。震卦の初爻は整個として乾の剛健の德を拿って自己の本體と做す。ゆえに「外面より來りて內卦の主と爲る」と言う。本性中の德は人人本來具足すと雖も、但だ迷惑する人の看るに於いては反って分外の物に似たり。今は本性に順って修を起こして、性德は本是我が固有なるを明白す。ゆえに「爲主于內」と叫ぶ。旣に本性に順って修を起こせば、卽ち必ず事事法性に隨順せざるべからず。倘若も身・口・意の三業還た純淨ならざれば、縱然微妙の悟解あれど、亦以て自利利他に拿去すべからず。旣に性德に合せざれば、十方の諸佛は彼を護念せず。彼は還た何の作爲かあらんや。

象曰:天下雷行,物與無妄。先王以茂對時,育萬物。佛法釋者:師子奮迅,三世益物,名茂對時;番番種熟脫,使三草二木任運增長而歸一實,名育萬物。初九:無妄往吉。象曰:無妄之往,得志也。彖云無妄之往何之矣,乃指匪正有眚,出於無妄而往於妄也;此云無妄往吉,乃依此真誠無妄而往應一切事也,所以得志而吉。

《大象傳》は言う。天下に雷聲運行して、萬物皆眞實无妄の本性を賦與せらる。先王は此に由りて勉力して時序に順應し萬物を養育するを懂得す。智旭は佛法を以て解す。佛は「師子奮迅三昧」に入りて、過去・現在・未來の三世に於いて衆生を利益す。これを「勉力して時序に順應す」と叫ぶ。一番一番に衆生のがために下種し・成熟せしめ・解脫せしめて、大中小の三種の草・大小の二種の樹(《法華經》の藥草の喻、根機相同じからざるの衆生を比喩す)をして皆自然に增長して同一の眞實の道に歸入せしむ。これを「萬物を養育す」と叫ぶ。初九、眞實无妄に前往す。吉祥。象傳は言う。无妄之往は、心志實現するを得るが故なり。智旭は解す。《彖傳》の「无妄之往何之矣」と言うは、正ならずして災患あるの情形を指す——本來眞實に出でて、然るに虛妄に走向れり。此處の「无妄往吉」と言うは、則ち此の份の眞誠无妄に依って一切の事を應接するを説く。ゆえに心志遂ぐるを得て吉祥なり。

六二:不耕穫,不災畬,則利有攸往。象曰:不耕穫,未富也。田一歲曰災,三歲曰畬。世未有不耕而獲、不災而畬者。夫不耕不災,此絕無望於獲畬者也,然能獲能畬,此何以致之乎?孔子云:隱居以求其志,行義以達其道。又云:耕也,餒在其中矣;學也,祿在其中矣。六二以陰柔中正,上應九五陽剛中正之君,惟以求志達道為心,而毫不以富貴利祿為念,乃利有攸往而不變其塞耳。

六二、收穫せんと爲るがための耕種せず、熟田せんと爲るがための開荒せず。かくのごとくして反って往く所有るに利あり。象傳は言う。耕さずして穫るは、本來卽ち富を求めんと打算せざるなり。智旭は解す。田は開墾滿一年を「災」(卽ち菑、初耕の田)と叫び、滿三年を「畬」(熟田)と叫ぶ。世上に耕さずして收穫し開荒せずして熟田を得るの事無し。旣に耕さず亦墾かざれば、これ根本に收穫と熟田とを指望せざるの人なり。然るに彼は偏偏收穫する能くし熟田を得る能くす。これは何より來るや。孔子は言う。隱居して以て其の志を守り、道義を推行して以て其の義を達す。又言う。種地は、飢餓も亦その中に在らん。求學は、俸祿は卽ちその中に在り。六二は陰柔を以て中に居り正を守りて、上りて九五の陽剛中正の君主に應ず。一心に只だ志向を堅守し大道を通達するを以て念と爲して、一毫も富貴利祿を心上に放せず。ゆえに往く所有るに利ありて然るに自己の困窘の時の操守を改變せず。

六三:無妄之災,或繫之牛,行人之得,邑人之災。象曰:行人得牛,邑人災也。不中不正,居震之上,此執無妄之理而成災者也。夫行人得牛,何乃執理而求償於邑人?豈非禍及無辜者乎。吳幼清曰:無妄之善有三:剛也,當位也,無應也。剛者,實也;當位者,正也;無應者,無私累也。諸爻或有其三,或有其二,或有其一。初九、三皆全,其最善也;九五九四有其二,九五剛而中正,九四剛而無應,是其次也;六二上九有其一,六二中正,上九剛實,是又其次也。

六三、飛來の橫禍——人あるいは牛を此處に拴しめ、過路の人は牽走せり、同邑の人は卻って因って殃に遭ふ。象傳は言う。過路の人は牛を得、同邑の人は災を受く。智旭は解す。六三は旣に中に居らず亦位に當らず、震動の體の最上に處す。これ是れ「眞實无妄」の道理を死執して反って禍を惹出すの人なり。過路の人は牛を牽走せり。何ぞ道理を死摳して同邑の人に向かって索賠せんと要するや。これ豈に無辜に禍を及ぼすに非ずや。以下吳澄の言を引く。《无妄》一卦の好處に三樣あり。陽剛・當位・無所應なり。陽剛は卽ち充實、當位は卽ち端正、無所應は卽ち私情の牽累無し。各爻あるいは三樣皆占め、あるいは兩樣を占め、あるいは只だ一樣を占む。初九と九三とは三樣皆全うして、最も好し。九五・九四は兩樣を占めて、九五は剛にして中に居り正を守り、九四は剛にして應ずる所無し、次の一等なり。六二・上九は各おのが一樣を占めて、六二は中に居り正を守り、上九は剛健篤實なり、又次の一等なり。

唯六三於三者咸無焉,而亦得為無妄,何也?下比中正之六二,上比剛實無私之九四。譬如有人,在己雖無一善,而上有嚴師,下有良友,親近切磨,夾持薰染,亦不至於為惡,上六三之所以亦得為無妄也。陳旻昭曰:世固有忠臣孝子,遇不得已之時勢,竟冒不忠不孝之名,而萬古不能自白者。因災而息其欲自陳白之妄心,是為無妄之災。如係牛於邑而行人得之,彼行人決不可查考,而邑人決無以自白,惟有吞聲忍氣,陪償其牛而已。忠臣孝子之蒙怨者亦復如是。

唯だ六三は此の三樣一樣も占めず、然るに卻って亦算して无妄と爲す。何を以てなりや。それ下面は中に居り正を守るの六二に挨着し、上面は剛健篤實・私應なきの九四に挨着するを以てなり。一人に譬ゆ。自己は一樣の長處なしと雖も、但だ上に嚴師あり下に良友ありて、天天親近切磋して、中間に夾まれて熏染せられて、亦惡を爲すに至らず——これ卽ち六三も亦能く无妄と算するの緣故なり(底本此の句は「上六三之所以」と作る。「上」の字は疑わく「此」と當るべし)。以下陳旻昭の言を引く。世上は本來忠臣孝子あるに、不得已の時勢に碰上して、竟に不忠不孝の名聲を背上して、千秋萬代自我を辯白するの法無し。此の場の災禍に因って、反って彼の自我を表白せんと欲するのあの點の妄心を息滅す。これ始めて「无妄之災」と叫ぶ。牛を邑中に拴しめて過路の人に牽走せらるるに似たり。あの過路の人は根本に査考に由无く、邑人も亦根本に辯白に由无し。只だ聲を吞み氣を忍んで、一頭の牛を賠して事を了するのみ。冤屈を蒙受するの忠臣孝子も亦正にかくのごとし。

九四:可貞,無咎。象曰:可貞無咎,固有之也。以陽居陰,不好剛以自任,蓋其德性然也。九五:無妄之疾,勿藥有喜。象曰:無妄之藥,不可試也。剛健中正,此無妄之至者也。夫立身於無過之地者,未免責人太過,所謂執藥反成病矣,故勿藥而有喜。蓋以己律人,則天下孰能從之。上九:無妄,行有眚,無攸利。象曰:無妄之行,窮之災也。以陽居陰,雖非過剛,而居無妄之極,則是守常而不知變通者也。既無善權方便,其何以行之哉。

九四、正を守るべし。過錯會せじ。象傳は言う。可貞无咎は、此の份の德性は本來卽ち有るが故なり。智旭は解す。九四は陽爻を以て陰位に居り、剛强を逞しゅうして自我に擔待するを喜ばず。これそれの德性は本來かくのごとし。九五、端緒無く來るの病、藥を食さずして反って喜あり。象傳は言う。无妄の病を治するの藥は、隨便に試すべからず。智旭は解す。九五は剛健にして中に居り正を守り、是れ眞實无妄極點に到れるの人なり。然るに一毫の過失無きの位置の上に立つ人は、難免として別人を責備するに苛なり。これを抓着して藥を反って病を吃出すと叫ぶ。ゆえに藥を食さずして始めて喜あり。自己の標準を拿って別人を要求せば、天下は誰か跟得上せんや。上九、眞實无妄なれど、然るにかくのごとく行事すれば災患あり、利益あらざる無し。象傳は言う。无妄之行は、窮盡の處に走り到れるの災禍なり。智旭は解す。上九は陽爻を以て陰位に居り、過分に剛硬と算せずと雖も、但だ无妄の極點に處して、卽ち常規を死守して變通を知らざるの人と成る。旣に善巧權變の方便手段無ければ、何を憑って行き通るを得んや。

佛法釋者:六爻皆悟無妄之理而為修證者也。初九正慧直進,故現生克果而得志。六二正定治習,故須於禪法不取不證,則可以借路還家。六三不中不正,雖有小小定慧能開示人,令其得道得果,如行人得牛,而自己反成減損,久滯凡地,如邑人之災。九四慧而有定,自利有餘,

智旭は佛法を以て六爻を解す。六爻は皆是れ「眞實无妄」の此の道理に悟到りて實際に修證するの人なり。初九是れ純正の智慧にして一直に向前す。ゆえに現生に卽ち果位を證得して心志遂ぐるを得る能くす。六二是れ純正の禪定を以て習氣を對治す。ゆえに必ず禪法に對して取着せず、あの一分の證悟の上に停留せざれば、かくして始めて此の路を借りて自家に回到する可し(卽ち禪定を借りて路徑と爲して實相に歸す)。六三は旣に中に居らず亦位に當らず、一點の小小の定慧ありて別人を開示して別人をして得道證果せしむる能くすと雖も——過路の人の牛を牽走するに譬ゆ——自己は反って減損する所有り、長久に凡夫の地位に停滞す。正に同邑の人の無辜に災を受くるに似たり。九四是れ慧の中に定を帶びて、自利は綽綽として餘あり。

乃是達其性具定慧,非是修而後有。九五剛健中正,自利已圓,為眾生故,示現病行,豈更須對治之藥?即初心修觀亦復如是,一切境界無非性德,體障即德,無可對治也。上九不中不正,恃性德而不事修德,躬行多眚,何利之有?蓋由一味高談向上,以至於窮,故成災也。

これは本性中に本來具足するの定と慧とに通達したるにして、竝びに修し出でたる後に始めて有るに非ず。九五は剛健にして中に居り正を守りて、自利已に圓滿せり。衆生の緣故のがために衆生と同病同苦の「病行」を示現す。何處に還た對治の藥を須要せんや。卽使初發心して觀を修する人も亦かくのごとし。一切の境界は無非是れ性德の顯現にして、障礙は當下に卽ち功德なるを體認すれば、本來何の對治すべきも無し。上九は旣に中に居らず亦位に當らず、只だ本具の性德を仗りて然るに修行の功夫を下すを肯んぜず。親身の行く所は處處過失なり。何の利益か得んや。皆是れ一味に「向上一着」を高談して、以至って窮盡の處に走り到れるを以てなり。ゆえに災禍と成れり。

大畜卦

(乾下 艮上)大畜:利貞,不家食吉,利涉大川。畜,蓄積也,蓄積其無妄之道以養育天下者也。約世道,則中興之主復於無妄之道,而厚蓄國家元氣;約佛化,則四依大士復其正法之統,而深養法門龍象;約觀心,則從迷得悟,復於無妄之性,而廣積菩提資糧:皆所謂大畜也。世出世法,弘化進修,皆必以正為利,以物我同養為公,以歷境練心為要,故不家食吉而利涉大川也。

(本卦は下體を乾天と爲し、上體を艮山と爲す。)《大畜》の卦辭は言う。正を守るに利あり。自己の家裏に在りて閒飯を食さざれば則ち吉。大河を渡るに利あり。智旭は解す。「畜」是れ蓄積にして、卽ち上一卦のあの眞實无妄の道を蓄積して、用いて天下を養育す。世間治道より言わば、中興の主は无妄の道に回歸して、從って國家の元氣を厚厚と蓄養す。佛門教化より言わば、「四依大士」(末法の中に於いて衆生の依止と爲すべき四類の聖者)は正法の統緒を重整して、從って法門の中の龍象人才を深深と培養す。觀心より言わば、迷惑より覺悟に轉じて、无妄の性に回復して、從って覺悟に趣向するの資糧を廣く積聚す。此ら皆「大畜」と叫ぶ。世間法と出世間法とは、教化を弘揚するも自己進修するも、皆必ず正を守るを以て利と爲し、人我同じく養育を受くるを以て公と爲し、境界を經歴して心志を磨煉するを以て要と爲さざるべからず。ゆえに閒飯を食さざれば則ち吉にして、大河を渡るに利ありと言う。

彖曰:大畜,剛健篤實輝光,日新其德。剛上而尚賢,能止健,大正也。不家食吉,養賢也。利涉大川,應乎天也。乾之剛健,艮之篤實,皆有輝光之義焉,以此日新其德,則蓄積深厚廣大,故名大畜。然所謂利貞、不家食吉、利涉大川者,非是性外別立修德,乃稱性所起之修,全修在性者也。試觀乾德之剛,上行居卦之終,而六五能尊尚之,且卦體外止內健,豈非本性大正之道乎?六五以柔中之德,上則養賢師以風天下,下則養賢士以儲國用,豈非不家食吉之正道乎?且以柔中之德,應九二天德之剛,剛柔相濟,何遠不通,豈非利涉大川之正道乎?

《彖傳》は言う。《大畜》卦、剛健・篤實・光輝煥發して、天天自己の德行を更新す。剛爻上行して賢者を崇尚し、能く剛健の勢を止住す。これ是れ大大的正道なり。閒飯を食さざれば則ち吉は、國家賢人を養ふなり。大河を渡るに利あるは、天道に順應するなり。智旭は解す。乾の剛健・艮の篤實は、皆光輝の義を含有す。此を用いて天天德行を更新せば、蓄積は深厚廣大なり。ゆえに「大畜」と叫ぶ。不過所謂正を守るに利あり・閒飯を食さざれば則ち吉・大河を渡るに利ありは、竝びに本性の外に於いて別に一套の修行功夫を立てるに非ずして、是れ本性に順って生發出だすの修にして、全部の修行はなお本性の外に出でず。試みに看よ。乾德の陽剛は上行して全卦の終點に居る(上九を指す)に、六五は能くそれを尊崇す。況んや卦體は外面は止・內面は健なれば、これ豈に正に本性中のあの條の大正の道ならずや。六五は陰柔居中の德を以て、向上して賢明の師長を供養して天下を教化し、向下して賢能の士人を供養して國家の用に儲備す。これ豈に正に「不家食吉」の正道ならずや。再びそれは陰柔居中の德を以て、九二のあの天德を具するの陽剛に應ず。剛柔は互相に調劑す。還た何の遠處か到らざらん。これ豈に正に「利涉大川」の正道ならずや。

象曰:天在山中,大畜。君子以多識前言往行以畜其德。一山之中具有天之全體,一念心中具攝十世古今。攬五時八教之前言,該六度萬德之往行,以成我自心之德。以此自畜,即以此畜天下矣。吳幼清曰:識,謂記之於心。德大於前言往行,猶天之大於山也。以外之所聞所見,而涵養其中至大之德,猶山在外而藏畜至大之天於中也。前言往行,象山中寶藏之多;德象天之大。

《大象傳》は言う。天は山中に含む是れ《大畜》なり。君子は此に由りて廣く前人の言論・往聖の行事を記取して、用いて自己の德行を蓄養するを懂得す。智旭は解す。一座の山の中は天の全體を含み、一念心の中は古往今來十世の時間を含攝す。「五時八教」の前人の言を收攏し(天台は釋迦の一代の説法を華嚴・鹿苑・方等・般若・法華涅槃の五時、及び化儀化法の八教に判ず)、六度萬行の往聖の行を囊括して、用いて我自が心の德を成就す。此を用いて自己を蓄養するは、亦卽ち此を用いて天下を蓄養するなり。以下吳澄の言を引く。「識」是れ心裏に記るなり。德は前言往行より更大なり。天の山より更大なるに似たり。外部の聞見する所を用いて、內部のあの至大の德を涵養す。山の外に在りて至大の天を裏面に藏るるに似たり。前言往行は、山中寶藏の多きに譬ゆ。德は、天之廣大に譬ゆ。

初九:有厲,利己。象曰:有厲利己,不犯災也。六爻皆具剛健篤實輝光之義而自新新民者也。初九陽剛在下,正宜隱居求志,故有惕厲之功,而先利自己。己利既成,任運可以利人;若己躬下事未辦,而先欲度人,則犯災矣。九二:輿說輹。象曰:輿說輹,中無尤也。剛而得中,專修定慧,似無意於得時行道者,然自利正是利他之本,故中無尤。

初九、危厲あり。先に自己を顧るに利あり。象傳は言う。有厲利己は、災禍を觸犯しに去らざるなり。智旭は解す。《大畜》の六爻は皆剛健・篤實・光輝の義を具備して、皆是れ自新して又民を新にするの人なり。初九は陽剛にして最下に處す。正に當に隱居して志向を堅守すべし。ゆえに警惕戒懼の功夫を下して、先に自己の此の一頭を做好せよ。自己の此の一頭成就せば、自然而然として能く別人を利益す。若し自己の脚跟の下の大事還た未だ辦妥せざるに、卽ち急いで別人を度せんとすれば、卽ち禍を惹かんと要す。九二、車子は車軸上の伏兔を卸下せり(輹是れ車廂と車軸とを連接するの部件、卸下せば卽ち車は行く能わず)。象ず)。象傳は言う。輿說輹は、中に居りて過失無きなり。智旭は解す。九二は陽剛にして下卦の中に居り、專心して定慧を修習して、看るに時機に趕上して大道を推行するの意無きに似たり。然るに自利は正に利他の根本なり。ゆえに中に居りて過失なし。

九三:良馬逐,利艱貞。曰閒輿衛,利有攸往。象曰:利有攸往,上合志也。剛而得正,居乾之上,不患不能度生也,患其欲速喜進,失於防閒耳。故必利於艱貞,閒其輿衛,乃利攸往。亦以上有六四之良友、六五之賢君、上九之明師,與之合志,必能互相警勵,故可往也。

九三、好馬奔馳して追逐す。艱難の中に正を守るに利あり。天天車戰守衛の事を練習して、往く所有るに利あり。象傳は言う。利有攸往は、上面の爻と志向相合するなり。智旭は解す。九三は陽剛にして位置正を得、乾體の最上に居る。衆生を化度する能わざるを愁へず。愁ふるはそれの成を急ぎて上進を貪圖して、防範約束を缺くなり。ゆえに必ず艱難の中に正を守るに利ありて、自己の車馬護衛を操練して、始めて前往に利あり。況んや上面には六四の此の良友・六五の此の賢君・上九の此の明師ありて、それと志向相合せば、必ず能く互相に警策勉勵す。ゆえに前往する可し。(底本「曰閑輿衛」の「曰」は、通行本は「日」と作す。卽ち天天演練するの意なり。)

六四:童牛之牿,元吉。象曰:六四元吉,有喜也。柔而得正,下則應初九剛正之良友,親九三剛正之畏友,上則近六五柔中之聖君,過端未形而潛消默化,如童牛未角,先施以牿,更無牴觸之患。以此自養,以此為天下式,大善而吉,悅而且樂者矣。

六四、小牛犢に先に抵触を防ぐの橫木を套上ぐ。大いに吉祥。象傳は言う。六四の大吉は、喜慶あるなり。智旭は解す。六四は陰柔にして位置正を得、向下して初九の此の剛正の良友に應じて、九三の此の剛正の畏友に親近して、向上して六五の此の柔中の聖君に靠る。過失の苗頭は還た未だ成形せざるに已に無聲の中に消解轉化せり——小牛の角は還た未だ長出せざるに、先にそれに橫木を套上げば、卽ち再び頂撞して人を傷めるの隱患無し。此を用いて自己を涵養し、此を用いて天下に樣板を做す。大善にして吉祥、旣に歡悅して又快樂なり。

六五:豶豕之牙,吉。象曰:六五之吉,有慶也。豶,犗也。犗則不暴,而牙仍堅利也。柔得中位,尊上賢而應下乾,性德既無偏頗,所養又復周足,自利成就,可以君臨天下,舉天下之善惡眾庶無不入吾陶冶,故如豶豕之牙。上九:何天之衢,亨。象曰:何天之衢,道大行也。以剛柔相濟之德,當聖君師保之任,隱居所求之志,至此大行無壅,蓋不啻行於天衢也。

六五、閹過ぎたる野る野豬の獠牙。吉祥。象傳は言う。六五の吉は、喜慶あるなり。智旭は解す。「豶」卽ち閹割なり。閹過れば卽ち再び暴烈ならず、然るに獠牙は照樣堅硬鋒利なり。六五は陰柔にして中位を得、向上して上九の賢德を尊崇し、向下して乾體と相應ず。本性の德は旣に偏頗無く、蓄養する所は又周全充足して、自利已に成就せり。以て天下に君臨すべし——天下は善人を論ぜず惡人を論ぜず各色の衆生、我が陶冶の中に進入せざる無し。ゆえにあの閹過ぎたる野豬の牙に似たり。威力ありて然るに人を傷めず。上九、何等寛闊なるか天上の通衢。亨通す。象傳は言う。何天之衢は、道の大いに施行するを得るが故なり。智旭は解す。上九は剛柔相濟の德を以て、聖君師保の重任を擔當す。當初隱居の時に堅守したるの志向は、此の時に到りて大いに施行して一毫の阻塞無し。簡直として止まらず通天の大道の上を走るのみならず。

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