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周易禅解 · 第2巻

明 · 释智旭 · 第2巻 / 18

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

君子以成德為行,日可見之行也。潛之為言也,隱而未見,行而未成,是以君子弗用也。此下六爻,皆但約修德,兼約通塞言之。佛法釋者:成德為行,謂依本自天成之性德而起行也。既全以性德為行,則狂心頓歇,歇即菩提,故為日可見之行也。然猶云潛者,以其雖則開悟,習漏未除,故佛性猶為虛妄煩惱所隱而未現;而正助二行,尚在觀行相似,未成般若解脫二德,是以君子必以修德成之,而弗專用此虛解也。

文言伝は言う。君子は徳性を成就するを行事の根本と為し、これは毎日見え得る行為である。「潜」の字に至っては、徳がなお隠れて顕現せず、行がなお為されて成就せざるを言う。ゆえに君子は暫く施用しない。智旭は提示する。ここ以下の六爻は皆ただ「修徳」の一辺に就て講じ、併せて「通塞」(どこが通じ得るか、どこが塞がるか)に帯びて言う。仏法を以て解釈すれば。「以成徳為行」とは、本来天然に現成する性徳に依って修行を生起することを言う。全部性徳に依って行う以上、《楞厳経》の言う「狂心頓歇、歇即菩提」——狂乱奔驰の心が一旦歇まれば、歇む処がすなわち菩提——が当下现前する。ゆえに毎日見え得る行為と言う。しかしなお「潜」と称するのは、彼がすでに開悟したといえども、習気と残漏がまだ除尽されず、仏性は依仍として虚妄煩悩に隠蔽されて未だ顕現しないからである。そして「正行」(観慧)と「助行」(福徳事行)の両方面は、なお観行位・相似位に停留し、未だ「般若」と「解脱」の二徳を成就していない。因って君子は必ず実際の修徳を以てそれを成就せねばならず、ただこの一份の空頭の領解を抱えて到家と為してはならない。この一段は智旭の当時禅門の「一悟便休」の弊への正面の誡告である。

君子學以聚之,問以辯之,寬以居之,仁以行之。《易》曰:「見龍在田,利見大人」,君德也。學問是聞慧,寬居是思慧,仁行是修慧。從三慧而入圓住,開佛知見,即名為佛,故云君德。

文言伝は言う。君子は学習に靠って知識を積聚し、発問に靠って道理を辨明し、寛厚に靠ってその中に安処し、仁愛に靠って実行に付す。《周易》の言う「見龍在田、利見大人」は、まさに君主の徳を講じたものである。智旭は仏法の「三慧」を以て配する。学と問は「聞慧」(教法を聴聞して生ずる智慧)に相当し、寛厚安処は「思慧」(思惟択択して生ずる智慧)に相当し、仁愛実行は「修慧」(実際に修持して生ずる智慧)に相当する。この聞・思・修の三慧より順序に入って円教の「住」位に入り、仏の知見を開顕すれば、当下に仏と称する。ゆえにこれを「君徳」と言う。儒家の四句の進学の工夫は、彼の手に至って聞思修三慧の次第となった。

九三:重剛而不中,上不在天,下不在田,故乾乾因其時而惕,雖危無咎矣。重剛者,自強不息,有進而無退也;不中者,不著中道而匆匆取證也;上不在天者,未登十地,入佛知見也;下不在田者,已超十住,開佛知見。因時而惕,正是不思議十行法門,遍入法界,而能行於非道,通達佛道,故雖危無咎。

文言伝は言う。九三は陽爻が陽位に居って重叠して剛健し、また中位に居らず。向上すれば天に及ばず、向下すれば田間に在らず。ゆえに終日乾乾として時に随って警惕せねばならず、こうすれば危地に処しても過咎がない。智旭は仏法を以て逐句会通する。いわゆる「重剛」とは、自強不息にして前進あるのみで後退なし。いわゆる「不中」とは、中道に執著して急ぎ取証せんと欲する——一執著すればすなわち病となる。ここの「不中」はかえって粘滞せざると読まれる。いわゆる「上不在天」とは、まだ「十地」に登って仏の知見に入らないことを言う。いわゆる「下不在田」とは、すでに「十住」を超過して仏の知見を開顕したことを言う。ここで用いるのは菩薩五十二位の中の十住・十行・十回向・十地の次第である。仏知見を開くは十住に在り、仏知見を示すは十行に在り、仏知見を悟るは十回向に在り、仏知見に入るは十地に在る。九三は上は十地に及ばず、下はすでに十住を過ぎ、まさに「十行」の位に当たる。時に随って警惕するは、まさに不可思議の「十行」法門である。一切法界に遍入して、非道の中を行きながらなお仏道に通達し得る——すなわち煩悩塵労の裡に菩薩道を行ず。ゆえに危険であるといえども過咎がない。

九四:重剛而不中,上不在天,下不在田,中不在人,故或之。或之者,疑之也,故無咎。重剛不中,亦如上說。中不在人,謂已超十行,示佛知見也。或之者,回事向理,回因向果,回自向他,和融法界而無所偏倚,有似乎疑之也。疑者,擬議以成變化之謂,故雖似有修證之事,而實無事也。

文言伝は言う。九四もまた重叠剛健にして中に居らず、向上すれば天に及ばず、向下すれば田間に在らず、中間はまた人の位に在らず。ゆえに「或」と言う。いわゆる「或」とは遅疑不定のことで、まさに遅疑不定なるがゆえに過咎がない。智旭は解説する。「重剛不中」の義は九三と同じである。「中不在人」とは、すでに「十行」の位を超過し、「示仏知見」以後の階段に入ったこと、すなわち十回向位を言う。いわゆる「或」とは、まさに回向の三種の回転である。事相を真理に回向する(回事向理)、因地を果地に回向する(回因向果)、自利を利他に回向する(回自向他)。法界全体を調和融通して偏にいずれの一辺にも在らざるは、見たところ遅疑不決の様子のようである。いわゆる「疑」は《繋辞伝》の「擬之而後言、議之而後動、擬議以成其変化」の義を取る——斟酌擬議して以て変化を成就するのであって、心中に把握なきが故ではない。ゆえに九四は看たところ修有り証有りの事のようであれど、実際には得るべき事はない。

夫大人者,與天地合其德,與日月合其明,與四時合其序,與鬼神合其吉凶。先天而天弗違,後天而奉天時。天且弗違,而況於人乎?況於鬼神乎?十地入佛知見,如天普覆,如地普載,如日照晝,如月照夜,如四時次序之始終萬物,如鬼神吉凶之折攝群機。根本妙智,窮法界無始之始;差別妙智,建法界無時之時。理既相契弗違,則凡人與鬼神總囿於一理者,安得不相順而利見哉?

文言伝は言う。いわゆる大人とは、その徳性は天地と合し、その光明は日月と合し、その秩序は四時と合し、その吉凶の判定は鬼神と合する。彼は天時に先んじて行いて天も彼に違わず、天時に後れて動いて天の時序に奉順する。天すらなお彼に違わないのに、何況人においてをや。何況鬼神においてをや。智旭は仏法を以て解説する。この一段が配するのは「十地」、すなわち仏知見に入る位である。天のごとく遍く覆い、地のごとく遍く載せる。太陽のごとく白昼を照らし、月亮のごとく黒夜を照らす。四時の次序のごとく万物をして始終あらしめる。鬼神の吉凶のごとく衆生の機根に折伏と摂受を施行する。「根本妙智」——真如に契証し無分別の根本智——は法界のあの无始の開始を窮尽し得る。「差別妙智」——諸法を分別し機に随い物に応ずる後得智——は法界のあの時間を超越した時節を建立し得る。理体の上に彼此契合して毫も違逆なき以上、凡人と鬼神はことごとく同一の理の中に籠罩され、どうして相順応して大人を楽見しないことがあろうか。「先天而天弗違」は儒家においては聖人と天道の相契するであるが、智旭においては仏智と法界の相冥するとなった。

亢之為言也,知進而不知退,知存而不知亡,知得而不知喪。其唯聖人乎!知進退存亡而不失其正者,其唯聖人乎!凡有慧無定者,惟知佛性之可尚,而不知法身之能流轉五道也;惟知佛性之無所不在,而不知背覺合塵之不亡而亡也;惟知高談理性之為得,而不知撥無修證之為喪也。惟聖人能知進退存亡之差別,而進亦佛性,退亦佛性,存亦佛性,亡亦佛性。

文言伝は言う。いわゆる「亢」とは、進むのみを知って退くを知らず、存するのみを知って亡するを知らず、得るのみを知って失うを知らざることである。この偏失を免れ得る者は、おそらく聖人のみであろう。進退存亡の理を知ってその正を失わざる者は、おそらく聖人のみであろう。智旭は仏法を以て解説し、専ら以て慧有って定なき・空談理性のみの人を針砭する。およそ智慧あって禅定なき人は、仏性の貴く尚ぶべきのみを知って、法身が照様に五道の中に流転することを知らず——これが「知進而不知退」。仏性の在無い所なきのみを知って、覚を背き塵境に迎合する時、仏性は在れども不在に等しきを知らず——これが「知存而不知亡」。高談理性すれば得在りと算えるのみを知って、修証を抹殺することがまさに最大の喪失なるを知らず——これが「知得而不知喪」。ただ聖人のみが進退存亡の種種の差別を了知し、而も明らかに知る。進むは仏性、退くもまた仏性。存するは仏性、亡するもやはり仏性であると。

進退存亡不曾增減佛性,佛性不礙進退存亡,故全性起修,全修在性,而不失其正也。若徒恃佛性,不幾亢而非龍乎?又約究竟位中解者:示現成佛是知進,示現九界是知退,示現聖行梵行嬰兒行是知存,示現病行是知亡,而於佛果智斷無所缺減,是不失其正也。

進退存亡のこれらの起伏は、かつて仏性をして一分増やし或いは減ぜしめたことはない。反対に、仏性も進退存亡が照様に発生することを妨げない。まさにこのがゆえに、全体は本性に依って修行を生起し、全部の修行はまた本性の外に出ずるなし。これを「不失其正」と言う。もしただ一味に「我本有仏性」に倚仗して工夫せざるを肯んじなければ、それは亢にして龍と為らざるではないか。この一句は全篇の重錘で、直指して当時の本来の面目を空談して修証を廃置する流弊に及ぶ。そのほか「究竟位」に就ても解釈できる。仏の示現成仏は「知進」で、示現して九法界に回入するは「知退」である。《涅槃経》五行の中の聖行(戒定慧の行)・梵行(慈悲利他の行)・嬰児行(人天の小善の行に示同する)を示現するは「知存」、病行(衆生の煩悩病苦の行に示同する)を示現するは「知亡」である。而も仏果の「智徳」(智慧円満)と「断徳」(煩悩断尽)の上には丝毫の欠缺減損もない。これが「不失其正」である。

坤卦(坤下坤上)

(坤下 坤上)坤:元亨,利牝馬之貞。君子有攸往,先迷後得主,利西南得朋,東北喪朋,安貞吉。六畫皆陰,故名為坤。坤者,順也。在天為陰,在地為柔,在人為仁,在性為寂,在修為止;又在器界為載,在根身為腹為腑臟,在家為妻,在國為臣。順則所行無逆,故亦元亨。

「坤下坤上」は本卦の卦体を標明する。上下ともに坤で、純陰の卦である。卦辞は言う。坤卦は元・亨、母馬の如き貞正に利あり。君子は往く所有り。先んずれば迷い、後に随従すればはじめて主人を得る。西南方に往きて朋類を得るに利あり、東北方に往きて朋類を喪う。貞正に安んずれば吉。智旭はまず常規の易理に依って解説する。六画すべて陰爻なので名を「坤」と取る。坤の義は「順」、柔順にして承受する。天においては陰気として表れ、地においては柔質として表れ、人の身においては仁愛として表れる。本性の一辺から言えば「寂」(本自寂静の体)であり、修行の一辺から言えば「止」(妄念を止息する工夫)である——この一対はまさに乾卦の「性照修観」と相対し、寂照・止観を合わせてはじめて全体となる。そのほか器世間では万物を承載する地であり、衆生の身では腹部と臓腑であり、一家では妻子、一国では臣下である。柔順であれば行う所に違逆なし。ゆえに坤も同じく「元亨」と称す。

然必利牝馬之貞,隨順牡馬而不亂。其在君子之體坤德以修道也,必先用乾智以開圓解,然後用此坤行以卒成之。若未有智解,先修定行,則必成暗證之迷;惟隨智後用之,則得主而有利,如目足並運,安穩入清涼池,亦如巧力並具,能中於百步之外也。若往西南,則但得陰之朋類,如水濟水,不堪成事;若往東北,則喪其陰之朋黨,而與智慧相應,方安於定慧均平之貞而吉也。

しかし必ず「利牝馬之貞」——母馬の如く、公馬に随って乱走しない——でなければならない。この句は智旭の手において、ちょうど定と慧の先後を講ずるに用いられる。君子は坤徳を体察して道を修するに、必ず先用って乾の智慧を以て「円解」(円満の領解)を打ち開き、然る後に坤の行持を以てそれを終に完成する。もし未だ智慧の領解なきに、先んじて禅定の行を修せんとすれば、必ず「暗証之迷」——暗中に盲修瞎証する——に落成する。これがまさに卦辞の言う「先迷」である。ただ智慧の後に随ってそれを用いてこそ、「得主而有利」——主人を得て利益を得る——し得る。これは眼と脚がともに運作してはじめて安穏に清涼池に歩み入れるごとく、また技巧と力量を兼備してはじめて百歩以外の靶子に射中るごとしである。もし西南方に往かば、ただ同じ陰柔の一群の同伴を得るのみで、水を以て水を救うがごとく事を弁成し得ない——これは定有って慧無く、ただ定の上に定を加える。もし東北方に往かば、陰柔の朋党を喪うが、かえって智慧と相応し、これこそ定慧均衡の貞正に安住して吉を得る所以である。西南は坤の本方(同類)で、東北は乾の方位(異類)である。智旭は方位の説を、修行上の「寧ろ同類を失いて異類に就く」の択法眼に読んだ。

彖曰:至哉坤元,萬物資生,乃順承天。坤厚載物,德合無強,舍弘光大,品物咸亨。牝馬地類,行地無疆,柔順利貞,君子攸行。先迷失道,後順得常。西南得朋,乃與類行;東北喪朋,乃終有慶。安貞之吉,應地無強。此傳詳釋彖辭,先約地道明坤四德,次明君子體坤德而應地道也。資始所以稟氣,資生所以成形,由稟氣故方得成形,故名順承天也。德合無強,言其與天合德。西南則兌離以及於於巽,皆陰之類;東北則震艮以至坎乾,可賴之以終吉矣。

彖伝は言う。極致なるかな坤の元徳。万物はこれに依拠してはじめて生成を得、それは柔順に天道を承受する。大地は深厚にして万物を承載し、徳性は無辺無際に合する。含容宏大にして光輝広遠、各類の物品はこれに因って亨通する。母馬は地の類に属し、大地を行って疆界なし。柔順にして貞正に利するは、まさに君子の行くべき路である。先んずれば正道を迷い、後に随従してはじめて常規を得る。西南に往きて朋類を得るは同類とともに行くこと、東北に往きて朋類を喪うは最終にかえって喜慶有り。貞正に安んずる所以が吉なるは、大地に順応して無辺際なるがためである。按すに、底本ここの「徳合无強」「応地无強」の「无強」は通行本の「无疆」に当たり、「舎弘光大」の「舎」は通行本の「含」に当たる。底本の用字に属し、今は照録して改めない。智旭は解説する。この篇の彖伝は卦辞を詳細に解釈し、まず地道に就いて坤の元亨利貞四徳を説明し、つぎに君子が坤徳を体察して地道に順応することを説明する。乾は「資始」なので、万物はそれより気を禀受する。坤は「資生」なので、万物はそれに由って形体を成就する。先に気を禀受してはじめて形体の成就を談じ得る。ゆえに坤は「順承天」と言う。「徳合无疆」とは、坤が天と徳を合することを言う。西南方は兌・離に至り巽に至るまで、皆陰の一類に属する。東北方は震・艮に至り坎・乾に至るまで、まさにそれらに依憑して終に吉慶を得るべきである。

佛法釋者:以坤錶多所舍蓄而無積聚之如來藏性。約智名乾,約理名坤;約照名乾,約寂名坤;又可約性名乾,約脩名坤;又可修中慧行名乾,行行名坤。乾坤實無先後,以喻理智一如,寂照不二,性修交徹,福慧互嚴。今於無先後中說先後者,由智故顯理,由照故顯寂,由性故起修,由慧故導福;而理與智冥,寂與照一,修與性合,福與慧融,故曰「至哉坤元,萬物資生,乃順承天」也。

仏法を以て解釈すれば。坤卦を以てあの大いに蔵与し能く含容するが、しかし真に一物の積聚するあることなき「如来蔵性」を表す。続いて彼は乾坤相配の四重の意義を列出する。智慧の一辺に就て乾と言い、理体の一辺に就て坤と言う。能照の一辺に就て乾と言い、寂静の一辺に就て坤と言う。または本性に就て乾と言い、修行に就て坤と言う。さらに修行の中で観慧に偏ずる「慧行」を乾と言い、事修に偏ずる「行行」を坤と言うこともできる。乾と坤は実際には先後の分はなく、以て理と智は本より一体、寂と照は本より二つに分かれず、性と修は彼此貫通し、福と慧は互相荘厳するを喩える。今本より先後なき中に偏に先後を説く所以は、智慧に由ってはじめて理体が顕れ、能照に由ってはじめて寂静が顕れ、本性に由ってはじめて修行が生じ、智慧に由ってはじめて福徳が引導されるがためである。而も理と智は冥合し、寂と照は一如し、修と性は契合し、福と慧は円融する——まさにこのがゆえに、彖伝は「至哉坤元、万物资生、乃順承天」と言う。坤の「順承天」なる所以は、彼が見るに定は慧に順し、修は性に順し、福は智に順するである。

稱理之行,自利利他,一行一切行,故德合於無疆之智而含弘光大也。牝馬行地,雖順而健,三昧隨智慧行,所以為佛之三昧也。夫五度如盲,般若如導,若以福行為先,則佛知見未開,未免落於旁蹊曲徑而失道。惟以智導行,行順於智,則智常而行亦常。故西南得朋,不過與類俱行而已;惟東北喪朋,則於一一行中具見佛性,而行行無非法界,當體絕待,終有慶矣。所以安貞之吉,定慧均平,乃可應如來藏性之無疆也。

理体に契合する修行は、自利し兼ねて利他し得て、一行を為せば即ち一切行を為したに等しい。ゆえにその徳は無辺無際の智慧に合すると言い、因って「含弘光大」。母馬は大地を行くに、柔順ながらまた強健である。同様に、三昧(禅定)もし智慧に随って行くことを得れば、はじめて仏の三昧と称するに配する。経は言う。「五度如盲、般若如導」——布施・持戒・忍辱・精進・禅定の五種の波羅蜜は譬えば盲人のごとく、ただ般若智慧のみが引路の人である。もし福徳の行を前頭に摆かば、仏の知見は打ち開かれず、難なくして旁門小路に落ちて正道を迷うを免れない。これがまさに「先迷失道」である。ただ智慧を以て修行を引導し、修行は智慧に順従するのみ。さらば智慧は恒常にして修行もこれに随って恒常となる。これが「後順得常」である。だから西南に往きて「得朋」は、ただ同類とともに行くのみで道に益なし。ただ東北に往きて「喪朋」するのみが、毎一の行門の中に於て皆仏性を見ることを得、一行一行として法界に即せざるなく、当体絶対にして比対すべきものなく、最終に自然に喜慶有り。因って「安貞」の所以吉なるは、まさに定と慧の均衡持平に在り、こうしてはじめて如来蔵性の無辺無際に配するに足る。

象曰:地勢坤,君子以厚德載物。性德本厚,所以地勢亦厚;今法地勢以厚積其德,荷載群品,正以修合性之真學也。

大象伝は言う。大地の形勢はすなわち坤。君子はこれに取法して、深厚の徳性を以て万物を承載する。智旭は彼の大象伝を解く一律に「約観心」なる通例に依って解説する。もともと性徳自身が深厚なるがゆえに、大地の形勢ははじめて深厚に顕れる。今人が地勢に効法して深厚に己の徳性を積聚し、担荷して衆生を承載する。これがまさに「修徳を以て性徳に契合する」の真実の学問である。乾卦の大象は「自強不息」を講じ、照の一面である。坤卦の大象は「厚徳載物」を講じ、寂の一面である。一動一静、皆同一の自心本性に帰する。

初六:履霜堅冰至。象曰:履霜堅冰,陰始凝也;馴致其道,至堅冰也。此爻其靜為垢,其變為復。垢則必至於坤,復則必至於乾,皆所謂馴致其道者也。問曰:乾坤之初爻等耳,乾胡誡以勿用,坤胡決其必至乎?答曰:陽性動,妄動恐其洩也,故誡之;陰性靜,安靜則有成也,故決之。積善積惡皆如履霜,餘慶餘殃皆如堅冰。陽亦有剛善剛惡,陰亦有柔善柔惡,不當偏作陰柔邪惡釋之。

爻辞は言う。初六、脚が霜に踏む。堅氷将に至らんとす。小象伝は言う。霜を踏んで堅氷の将に至るを知るは、陰気が凝結し始めたからである。この路に順って歩み続ければ、堅氷の地步に至る。智旭は解説する。この一爻は、本爻が動かない時は《姤》(底本は「垢」と作る、すなわち姤字)、陰より陽に変われば《復》となる。《姤》は一陰始生で、順って歩めば必ず純陰の坤に至る。《復》は一陽来復で、順って歩めば必ず純陽の乾に至る——両者ともいわゆる「馴致其道」、一条の路に順って緩く歩いて尽頭に至る。ある人が提問する。乾卦と坤卦の初爻は地位相等しいのに、何故乾卦は「勿用」と誡告し、坤卦は「必至」と断定するのか。答えて曰く。陽の体性は動を好み、妄動すれば泄漏耗散を恐る。ゆえにそれを誡告する。陰の体性は安静で、安静なれば成就有り。ゆえに直ちに必ず至る所有りと断定する。善行を積累するも悪行を積累するも、皆脚下に踏むあの一層の霜のごとし。日后の余慶・余殃は、皆終に結成する堅氷のごとし。彼は特に提醒する。陽の中にも剛強の善と剛強の悪あり、陰の中にも柔和の善と柔和の悪あり。偏に陰柔を一概に邪悪と解釈すべからざるなり。

《說統》云:「善乾惡坤,此晉魏大謬處。」《九家易》曰:「霜者,乾之命;堅冰者,陰功成也。」京氏曰:「陰雖柔順,氣則堅剛,為無邪氣也。陰中有陽,氣積萬象。」孫聞斯曰:「隤霜不殺菽,冬無冰,《春秋》皆為記異。然時霜而霜,時冰而冰,正令正道,以堅冰為至,而至之自初也,如是謂凝謂順。冰畢竟是陰之所結,然惟陽伏於內,故陰氣外冱而為冰。聖人於乾曰為冰,明是此處註腳。馴致二字,正表坤德之順處。腳跟無霜,不秋而凋;面孔無血,見敵輒走。」

智旭は連ねて前人の説を引き「坤を一概に悪と見るべからず」を支持する。《説統》は言う。乾を善と見て坤を悪と見るは、晋魏時期の注家の大錯である。《九家易》は言う。霜は乾の下す命令で、堅氷は陰の功用の完成したもの——可見氷を結ぶは陰の罪過にあらず、かえって陰がその職分を尽くしたのである。京房は言う。陰は柔順なれど、その気は実は堅剛にして、なんらの邪気なし。陰中に陽を含み、気が一たび積聚すれば万象を生ず。孫聞斯は言う。降霜すべき時に霜が豆菽を殺さず、結氷すべき時に冬に氷なきは、《春秋》は皆これらを反常の怪異と記す——可見霜と氷は本来自身は正常で、来らざるは反常なり。時に至れば降霜すべく降霜し、結氷すべく結氷する。これが正当の時令・正当の道理である。「堅氷」を最終の到達と見て、この到達は初爻より歩歩に来る。かくしてこそ「凝」と言い「順」と言うを得る。氷は畢竟陰の凝結したる所なり。然るにまさに陽がその中に潜伏する有りがゆえに、陰気が外に凍結してはじめて氷と成る。《説卦伝》は乾を「為氷」と言う。分明にここの最好の注脚である。「馴致」の二字は、まさに坤徳の柔順なるあの一面を表出する。脚跟の下に霜なければ、秋を待たずして凋零す。臉上に血色なければ、敵を見ればすなわち掉頭して逃跑す——霜と氷のこの層の陰気は、まさに人が立ち得撑え得る骨力の在る所である。

若約佛法釋者:乾之六爻,兼性修而言之;坤之六爻,皆約修德定行而言。初上二爻表世間味禪之始終,中間四爻表禪波羅密具四種也:二即世間淨禪而達實相,三即亦世間亦出世禪,四即出世間禪,五即非世間非出世禪。

仏法をもって解釈するならば、智旭はここで坤卦の六爻に総綱を立てている。乾卦の六爻は、性徳と修徳とを兼ねて説かれたものであり、坤卦の六爻は、一律にただ修徳のうちの「定行(じょうぎょう)」——禅定の修持——に就いてのみ説く。初爻と上爻は「世間味禅(せけんみぜん)」の始まりと終わりを示す——味禅とは、禅定の味に貪著して生死を出離できない定である。中間の四爻は「禅波羅蜜(ぜんぱらみつ)」(彼岸に到る禅定)の含む四種を示す。六二は世間浄禅にして実相に通達するもの、六三は世間でもあり出世でもある禅、六四は出世間禅、六五は世間でも出世でもない禅である。この判法は智者大師の《釋禅波羅蜜次第法門》に出て、一層ごとに高い。有漏の味禅から、世間にありながら実相に通ずるものへ、さらに両辺に跨がるもの、純然たる出世を経て、最後に世・出世の対待を超越する上々禅に至る。この綱があってこそ、以下の六爻の仏法的解釈に落ち着き所ができる。

又借乾爻對釋:初九有慧無定故勿用,欲以養成其定;初六以定含慧,故如履霜,若馴致之,則為堅冰之乾德。九二中道妙慧,故利見大人;六二中道妙定,故無不利。九三慧過於定,故惕厲而無咎;六三定有其慧,故舍章而可貞。九四慧與定俱,故或躍而可進;六四定過於慧,故括囊而無譽。九五大慧中正,故在天而利見;六五大定即慧,故黃裳而元吉。亢以慧有定而知悔,戰則定無慧而道窮也。

また彼は乾卦の六爻と坤卦の六爻とを二つずつ対照させて解釈し、全篇を定慧の偏正をもって準拠とする。初九は慧あって定なし——ゆえに「勿用」、まさにそれをもって禅定を培うべきである。初六は定をもって慧を含む——ゆえに薄霜を踏むがごとく、これに順って一路に培っていけば、堅氷のごとき乾徳を成就する。九二は中道の妙慧——ゆえに「利見大人」。六二は中道の妙定——ゆえに「无不利」。九三は慧が定に勝る——ゆえに惕厲して戒慎懼れなければ過ちを免れない。六三は定の中に慧を帯びる——ゆえに「含章可貞」(底本は「含」を「舍」と作す。照録する)できる。九四は慧と定とを并具する——ゆえに「或躍」して進むことができる。六四は定が慧に勝る——ゆえに「括囊」するしかなく称誉を得られない。九五は大慧にして中正——ゆえに「飛龍在天」して大人を見るに利あり。六五は大定にして当体すなわち慧——ゆえに「黄裳元吉」。上九「亢龍有悔」に至っては、慧の中に定あってゆえに回頭を知る。上六「龍戦于野」は、定あって慧なし——ゆえに道は尽きるに至る。この対照を一通り読み通すと、智旭が《易》を解く一把の総鑰が見えてくる。陽爻は慧を主とし、陰爻は定を主とし、吉凶はただ定慧が相済うか否かのみを看るのである。

又約乾為正行、坤為助行者,坤之六爻即表六度。佈施如履霜,馴之可致堅冰,冰者乾德之象,故云乾為冰也。持戒則直方大,攝律儀故直,攝善法故方,攝眾生故大。忍辱為含章,力中最故。精進如括囊,於法無遺失故。禪定如黃裳,中道妙定遍法界故。智慧如龍戰,破煩惱賊故。

さらに角度を換えることもできる。乾をもって「正行」(観慧の正修)とし、坤をもって「助行」(福徳の事行の補助)とすれば、坤卦の六爻はちょうど六波羅蜜を示す。初六の「履霜」は布施である。これに順って培っていけば堅氷を致し、氷は乾徳の象である——ゆえに《説卦傳》は乾を「為冰」と言う。布施を極処まで修すれば智慧を転出する。六二の「直方大」は持戒である。戒に三聚あり——摂律儀戒(一切の悪を止む)ゆえに「直」、摂善法戒(一切の善を修す)ゆえに「方」、饒益有情戒(一切衆生を度す)ゆえに「大」。六三の「含章」は忍辱である。忍辱は諸力の中に最も有力でありながら、鋒鋩を顕露しないからである。六四の「括囊」は精進である。精進なれば一切法に於いて遺漏散失せず、袋口を結び固めたるがごとし。六五の「黄裳」は禅定である。中道の妙定が法界に遍満するからである。上六の「龍戦」は智慧である。智慧はまさに煩悩の賊と斬り合い交戦せんとするからである。同一の組の爻辞を、前には四種の禅に配し、ここに六度に配す——まさに彼の言う「一卦一爻具断万事万物」の読法を見ることができる。

六二:直方大,不習無不利。象曰:六二之動,直以方也;不習無不利,地道光也。純柔中正,順之至也。順理故直,依理而動故方,既直且方,則必大矣。此地道本具之德,非關習也。佛法釋者:世間淨禪即是實相,故直方大。正念真如為直,定之體也;善法無缺為方,定之相也;功德廣博為大,定之用也。世間淨禪法爾本具實相三德,能於根本禪中通達實相,故不習而無不利也。向淨禪中覷實相理,名之為動;動則三德之理現前,於禪開秘密藏,故地道光。

爻辞は言う。六二、正直・方正・広大にして、刻意して習わずとも不利なし。小象傳は言う。六二の動は、また直くまた方なり。習わずして不利なきは、地道の光明顕発するが故なり。智旭は易理に依って解説する。六二は陰爻をもって陰位に居りまた中を得、純粋に柔順にして中正の極、順の極致である。理に順うゆえに「直」。理に依って動くゆえに「方」。直くして方なれば、必ず「大」となる。これは地道の本来具足する徳にして、後天の練習とは関わらない。仏法をもって解釈すれば、世間の浄禅は当体すなわち実相——ゆえに「直方大」と言う。正念真如は「直」、これが定の本体である。善法円満無缺は「方」、これが定の相状である。功徳広大深博は「大」、これが定の作用である——直・方・大はちょうど体・相・用の三大に配当する。世間浄禅は本来天然に実相の三徳を具足し、根本禅の中に於いて実相に通達し得る。ゆえに「不習而无不利」。浄禅の中に於いて実相の理を窺看する、これを「動」と名づく。一たび動けば三徳の理すなわち現前し、禅定の中に「秘密藏」(法身・般若・解脱の三徳の成す如来秘藏)を開く。ゆえに「地道光」と言う。

六三:含章可貞,或從王事,無成有終。象曰:含章可貞,以時發也;或從王事,知光大也。蘇眉山曰:「三有陽德,苟用其陽,則非所以為坤也,故有章而含之。有章則可以為正矣,然以其可正而遂專之,亦非所以為坤也,故從事而不造事,無成而代有終。」佛法釋者:亦世間亦出世禪,亦愛亦策,故含章而可貞。或從一乘無上王三昧事,則藉此可發出世上上妙智而有終,不復成次第禪矣。

爻辞は言う。六三、文采を含蓄して正しきを守るべし。あるいは君王の事業に従い、功を成すに居らずして、人に代わりて事を善く終えしむ。小象傳は言う。含章可貞とは、時機を待って発さんとするが故なり。或従王事とは、その智慧の光明広大なるが故なり。智旭は蘇軾(号は眉山)の言を引く。六三は陽位に居り陽徳を帯び、もし一昧にこの陽を施展すれば、坤たるを成さない。ゆえに文采あってこれを含蓄する。文采あれば本来正と称すべきである。しかるに正と称すべきがゆえに独断専行すれば、また坤たるを成さない。ゆえにただ他人に従って事をなし自ら事を創めず、成功に居らずして人に代わって事を仕遂げる。仏法をもって解釈すれば、六三が配するのは「亦世間亦出世禅」。この禅は定境への愛著をなお帯びながら、すでに出世の道心を策発し得る。両頭ともに沾るゆえに「含章而可貞」——功夫すでに観るべきものあるも、ただ顕露して独行するに宜しからず。もし「一乗無上王三昧」の事業に従うことを得れば——すなわち一仏乗の最上三昧に依って修すれば——これに藉りて出世の上々妙智を発起して善く終わることを得、次第漸修の禅に停留せざるを得ん。これ正に小象の言う「知光大」なり。

六四:括囊,無咎無譽。象曰:括囊無咎,慎不害也。得陰之正,而處於上卦之下,位高任重,故括囊以自慎焉。吳幼清曰:「坤體虛而容物,囊之象也。四變為奇,塞壓其上,猶括結囊之上口。人之謹閉其口而不言,亦猶是也。」

爻辞は言う。六四、口袋を結び固め、過なく誉れなし。小象傳は言う。括嚢无咎とは、謹慎にして害を受けざるが故なり。智旭は易理に依って解説する。六四は陰爻をもって陰位に居り、陰の正を得、また上卦の最下位に処して、地位は高く責任は重し。ゆえに口袋を結び固めて自ら謹慎する。彼は元儒呉澄(字は幼清)の言を引く。坤の卦体は中空にして物を容る。正に口袋の象なり。四爻一たび変じて奇数(陽爻)となれば、袋口の上に物を堵压するがごとく、口袋の上口を扎結するに同じ。人の謹慎に口を閉じて言わざるも、正にこの様なり。

蘇眉山曰:「咎與譽,人之所不能免也。出乎咎,必入乎譽;脫乎譽,必罹乎咎。咎所以致罪,而譽所以致疑也。甚矣,無譽之難也。」佛法釋者:出世間禪切忌取證,取證則墮聲聞辟支佛地,雖無生死之咎,亦無利他之譽矣。若能慎其誓願,不取小證,則不為大乘之害也。

蘇軾は言う。過と誉とは、人の免れ得ざる二つのものなり。過を跳出せば必ず誉に落ち、誉を摆脱すれば必ず過を招く。過は罪罰を致し、誉は猜疑を致す。ゆえに「无誉」という事は実に難し——爻辞の「无咎无誉」と言うは、无咎は易く无誉は難し。仏法をもって解釈すれば、六四が配するのは「出世間禅」。この禅を修するに最も忌むべきは、急いで証を取ることである。一たび証を取れば、声聞・辟支仏の果地に墮落する。かくなれば固然として生死輪迴の過はなくなるも、衆生を利益する誉もまたなし——正に「无咎无誉」なり。もし謹慎に自己の衆生を度する誓願を守護し、小乗の証果を貪取せざれば、大乗の禍害と成るに至らず。これ即ち小象の言う「慎不害」なり。

六五:黃裳元吉。象曰:黃裳元吉,文在中也。黃者,中色,君之德也;裳者,下飾,臣之職也。三分天下有其二,以服事殷,斯之謂乎。佛法釋者:非世間非出世禪,禪即中道實相,故黃;不起滅定,現諸威儀,同流九界,故如裳。此真無上菩提法門,故元吉。定慧莊嚴,名之曰文;全修在性,名文在中。

爻辞は言う。六五、黄色の下裳、大吉。小象傳は言う。黄裳元吉とは、文采が中に蘊含するが故なり。智旭は易理に依って解説する。黄は中に居る色にして君主の徳を表し、裳は下身の服飾にして臣下の職分を表す。周文王は天下の三分の二を拠有しながら、なお臣礼をもって殷商に服事した——言うところ正にこの「君徳ありて臣位を守る」の情形である。仏法をもって解釈すれば、六五が配するのは「非世間非出世禅」。この禅は当体すなわち中道実相にして、世間と出世間の対待を超越する。ゆえに「黄」の中色を取る。而してこの歩に証到したる人は、滅盡定より起ち出でずして、しかも同時に種種の行住坐臥の威儀を示現し、回入九法界して衆生と事を同じくすることを得る。ゆえに「裳」のごとく下位に甘居する。これぞ真の無上菩提法門。ゆえに「元吉」と言う。定と慧とが交い交い荘厳するを「文」と名づけ、全部の修行が本性の外に出ざるを「文在中」と名づく。

上六:龍戰于野,其血玄黃。象曰:龍戰于野,其道窮也。其靜為夬,其變為剝,皆有戰之義焉。善極則斷惡必盡,惡極則斷善必盡,故窮則必戰,戰則必有一傷也。陳旻昭曰:「此天地既已定位,而震龍欲出,故戰于野也。震為龍,為玄黃,氣已盛故為血。窮乎上者必反下,故為屯卦之初爻。夫乾坤立而有君,故次之以屯;有君則有師,故次之以蒙。屯明君道,蒙明師道。乾坤即天地父母,合而言之,天地君親師也。」

爻辞は言う。上六、龍郊野に戦い、流れ出る血は青黑と黄なり。小象傳は言う。龍戦于野とは、その道すでに盡きるが故なり。智旭は解説する。この一爻は、本爻動かざる時は《夬》となり、陰より陽に変ずれば《剥》となる——《夬》は衆陽が一陰を決去し、《剥》は衆陰が一陽を剥盡す。両者とも交戦の義を含む。善の積むこと極処に至れば、必ず悪を斷盡し、悪の積むこと極処に至れば、必ず善を斷盡す。ゆえに盡頭に走り至れば必ず交戦し、一たび交戦すれば必ず一方の傷つくあり。また彼は陳旻昭の言を引く。この時天地の位置すでに定まり、而して震卦の龍まさに出でんとす。ゆえに郊野に交戦す。《説卦傳》は震を「為龍」と言い、また震を「為玄黄」と言う。陽氣すでに旺盛なれば、ゆえに「血」と称す。上位に在りて盡頭に至る者は必ず下位に返回す。ゆえに坤卦の上六、次いで屯卦の初爻となる。乾坤すでに立ちて而後君主あり。ゆえに《序卦》は《屯》に接ぐ。君主ありて而後師長あり。ゆえに再び《蒙》に接ぐ。《屯》は為君の道を闡明し、《蒙》は為師の道を闡明す。乾坤は即ち天地父母——合せて言えば、正に「天地君親師」の五字なり。

佛法釋者:無想天灰凝五百劫而墮落,非非想天八萬大劫而還作飛狸牛蟲,乃至四禪無聞比丘墮阿鼻獄,皆偏用定而不知以慧濟之,故至於如此之窮。

仏法をもって上六「其道窮也」を解釈すれば。無想天に修到する者は、心識死灰のごとく凝住して五百大劫、劫滿してなお墮落す。非想非非想天に修到する者は、八萬大劫の定寿を享盡し、報盡の後なお飛狸・牛・虫の類に投生す。乃至《楞嚴經》の記するあの第四禅に修到した「無聞比丘」は、四禅を誤って四果と認め、臨終に謗を起して阿鼻地獄に墮ちた。これらは皆偏に禅定のみを用いて、智慧をもって救済することを知らざるがゆえに、かくのごとき走投無路の境地に落ちたのである。これ正に坤卦上六「有定無慧」の下場にして、前文の「東北喪朋乃終有慶」と恰も正反の両面を成す。

用六:利永貞。象曰:用六永貞,以大終也。此總明百九十二陰爻所以用六而不用八之旨也。八為少陰,靜而不變;六為老陰,動而變陽。今筮得坤卦,六爻皆六,則變為乾卦,不惟順承乎天,亦且為天行之健矣。佛法釋者:用八如不發慧之定,用六如發慧之定。發慧之定,一切皆應久修習之。禪波羅密至佛方究竟滿,故曰大終。

「用六」の辞は言う。永久に貞正を守持するに利あり。小象傳は言う。用六にして永久に正を守るは、廣大をもって終るを得るが故なり。智旭は解説する。この一条は百九十二の陰爻が何ゆえに「八」を取らずして「六」を取るかの用意を総括して説明する。八は少陰にして安静にして変ぜず、六は老陰にして動いて陽に変ぜんとす。今もし坤卦を占得して六爻皆六ならば、整卦は乾卦に変ず。但だ柔順に天道を承受し得るのみならず、自身すなわち天行の剛健と成る。仏法をもって解釈すれば、「八」を用いるは智慧を発起し得ざる禅定に譬え、「六」を用いるは智慧を発起し得る禅定に譬う。慧を発し得る定は、一切人皆長くこれを修習すべし。「禅波羅蜜」は成仏に到りて乃ち究竟円滿す。ゆえに「以大終也」——最廣大の果地をもって終点と為す——と言う。

文言曰:坤至柔而動也剛,至靜而德方,後得主而有常,含萬物而化光。坤道其順乎,承天而時行。此仍以地道申贊坤之德也。贊乾,則自元而亨而利而貞;贊坤,則自貞而利而亨而元。乾之始必徹終,而坤之終必徹始也。文並可知。

文言傳は言う。坤は最も柔順なり。しかるに一たび動けば卽ち剛強なり。最も安静なり。しかるにその徳性は方正なり。随後して従うを得て主人を得て常規あり。萬物を含容して教化光大王なり。坤道は大抵「順」ならん——天道を承受して時に依って運行す。智旭は解説する。これはなお地道を用いて坤の徳性を申説賛美するものなり。乾を賛美する時は、元より講じて亨に講じ、利に講じ、貞に講じ、順って來る。坤を賛美する時は、貞より講じて利に講じ、亨に講じ、元に講じ、倒して來る。乾の始めは必ず終点に貫徹し、坤の終点は必ず始めに貫徹回るが故なり——一順一逆、正に乾坤の首尾相銜するを見る。これら数句は文義明白にして、文面に照らせば卽ち理解し得る。

佛法釋者:即是直贊禪波羅密。以其住寂滅地,故至柔至靜;以其能起神通變化,普應群機,感而遂通,故動剛德方。由般若為導而成,故後得主而有常,所謂般若常故禪亦常也。於禪中具足萬行,一一妙行與智相應,導利含識,故含萬物而化光。非智不禪,故坤道為順;非禪不智,故承天時行也。

仏法をもって解釈すれば。この一段は即ち直に「禅波羅蜜」を賛美する。それ寂滅の地に安住するがゆえに「至柔」「至静」と言う。それ神通變化を生起し、普く各類の根機に應合し、一たび感あれば随に卽ち通ずるがゆえに「動也剛」「德方」と言う。それ般若智慧の引導によりて成就せらるるがゆえに「後得主而有常」——般若すでに恒常なれば、禅定もまた随って恒常なり。禅定の中に萬種の行門を具足し、一一の妙行皆智慧と相應して、一切の「含識」(有情衆生)を引導利益す。ゆえに「含萬物而化光」と言う。智慧なくんば禅たるを成さず。ゆえに坤道は「順」を徳と為す——順うところは慧なり。禅定なくんば真の智慧を成すこと能わず。ゆえに「承天而時行」と言う。乾坤はここに徹底して慧と定とに読みなされた。定は慧に順って起り、慧は定に藉りて成る。

積善之家,必有餘慶;積不善之家,必有餘殃。臣弒其君,子弒其父,非一朝一夕之故,其所由來者漸矣,由辯之不早辯也。《易》曰「履霜堅冰至」,蓋言順也。順,即馴致其道之謂。洪化昭曰:「臣而順,必不弒君;子而順,必不弒父。此正所謂辯之於早者,不作慎字解。」

文言傳は言う。善行を積累する家は、必ず餘留する喜慶あり。不善を積累する家は、必ず餘留する禍殃あり。臣子の君主を弑殺し、兒子の父親を弑殺するは、皆一朝一夕に造成せらるるに非ず。その由來は逐漸に積成せらるるにして、原因は辨察すべき時に及早辨察せざるに在り。《周易》の「履霜堅冰至」と言うは、講ずるところ正に一箇の「順」字なり。智旭は解説する。この「順」は即ち小象傳「馴致其道」の義——一條の路に順って一步步に走下去るなり。彼は洪化昭の言を引く。臣子たる者もし順なること能わば、必ず君を弑せず。兒子たる者もし順なること能わば、必ず父を弑せず。これ正にいわゆる「辨察於早」にして、この「順」字をもって「謹慎」と解釈すべからず。

陳非白問曰:何故積善餘慶積惡餘殃,不發實相之美,但含而未發,以此為王三昧之助,弗宜偏修以至成也。蓋禪定隨智慧行,如地承天,如妻隨夫,如臣輔君。然智慧不得禪定,則不能終其自利利他之事,故禪定能代有終也。

此處底本に錯簡と脱文あり。今は照録して動かさず、臆補を作さず。陳非白は提問す。何ゆえに積善は餘慶あり、積惡は餘殃あるか——問句は「不」の字に至りて便ち中斷し、下半句と智旭の答語とは後文に錯置せらる(詳しくは後の「明于乾之初爻,而明于坤之初爻耶。答曰」一段を見よ)。而して緊接して「不」の字のこれら数句は、文義の上に於いて本節に屬せず。それは本來六三の「含章可貞,无成有終」を解釋する一段なり。意思是く、未だ實相の美質を發露せず、ただ含蓄して未だ發せざるを、これを「王三昧」(一切三昧中の最尊の三昧、卽ち首楞嚴定)の輔助と爲し、この一邊に偏在して修し下去りて速成を求むべからず。禅定は智慧に隨順して行ずるを要すれば、大地の上天を承受し、妻子の丈夫に隨順し、臣下の君主を輔佐するがごとし。しかるに智慧もし禅定を得ざれば、自利利他の事を做し盡くすこと能わず。ゆえに禅定は「代有終」——智慧に代わって事を善始善終に完成する——を能くすと言う。讀者此處に遇ひて文氣接續せざるは、底本の誤りにして、文義の跳躍に非ず。

天地變化,草木蕃;天地閉,賢人隱。《易》曰「括囊無咎無譽」,蓋言謹也。能謹則可以成變化,變化則草木亦蕃;不謹則天地必閉,閉則雖賢人亦隱矣,安得不括囊哉。佛法釋者:定慧變化,則三草二木各得潤澤生長;若入於出世果證,則灰身泯智,而無利生之事矣。故修此法門者,不可以不謹也。

文言傳は言う。天地交感變化すれば草木就ち繁盛し、天地閉塞不通なれば賢人就ち隱退す。《周易》の「括囊无咎无誉」と言うは、講ずるところ正に一箇の「謹」字なり。智旭は易理に依って解説する。謹慎すること能わば、天地の變化を成就すべく、一たび變化すれば草木もまた隨って繁盛す。謹慎せざれば、天地必ず閉塞し、一たび閉塞すれば賢人をもってしても隱退せざるを得ず。那れぞ口袋を結び固めざるを得んや。仏法をもって解釈すれば、定と慧とが互いに變化通融すること能わば、根性大小同じからざる「三草二木」皆滋潤生長を得る。もし一頭栽入して出世の小乗果證に入らば、落ち得るところは「灰身泯智」——形體は灰燼と化し、心智は寂滅に歸し、再び衆生を利益する事業の言うべきなし。ゆえにこの法門を修する者は、謹慎せざるべからず。本節は前面の六四「无咎无誉」の解釋と正に相呼應す。謹慎は手を縮めるに非ずして、自己を小乗の坑に掉し入れざるなり。

君子黃中通理,正位居體,美在其中,而暢於四支,發於事業,美之至也。黃是中色,即表中德;德雖在中,而通乎腠理,故雖屬正位,仍居四體,此釋黃裳義也。美在其中等,重牒上義以釋元吉之義。佛法釋者:以黃中三昧而通達實相之理,實相雖名正位,遍入一切諸法而居眾體。蓋惟深證非世間非出世上上之禪,故能暢於四支,發於事業,而三輪不思議化,普利法界,乃為美之至也。

文言傳は言う。君子は中和の徳をもって文理に通達し、正位に居りて本体に安處す。美好中に蘊含し、因って四肢に通暢し、事業に發用す——これ美の極致なり。智旭は易理に依って解説する。黄は居中の色にして、卽ち中和の徳を表す。徳は中に在ると雖も、貫通して肌膚の紋理に至る。ゆえに「正位」に屬すと雖も、なお四肢の上に落實せざるを得ず。此の一句は「黄裳」の含義を解釋す。「美在其中」以下の数句は、重ねて上面の意思を申説して、用いて「元吉」を解釋す。仏法をもって解釈すれば、「黄中三昧」をもって實相の理に通達す。實相は「正位」と名づくと雖も、能く一切諸法に遍入して一切法體の中に安居す。ただ深くあの世間と出世間とを超越する上々の禅を證得するのみ、乃ち「暢于四支,發于事業」すること能く、從って身・口・意の「三輪」不可思議の教化をもって、普く整個の法界を利益す——これぞ美の極致なり。

明於乾之初爻,而明於坤之初爻耶?答曰:乾是智巧,坤是聖力。非智巧則不能知善知惡,非聖力則不能積善積惡,故曰乾知大始,坤作成物。佛法釋者:十善為善,十惡為不善;無漏為善,有漏為不善;利他為善,自利為不善;中道為善,二邊為不善;圓中為善,但中為不善。善即君父之義,不善即臣子之義。以善統御不善,則不善即善之臣子;以不善妨礙於善,則善遂為不善所障,如君父之被弒矣。所以千里之行,始於一步,必宜辯之於早也。

此處は卽ち前文の陳非白の問語の下半と智旭の答語にして、底本に錯置せられて此處に至る。今は照録して動かさず。文氣を補足して讀めば、陳非白の問題は——何ゆえに「積善餘慶、積惡餘殃」の此の層の道理は、乾卦の初爻に講明せずして、偏に坤卦の初爻に講明するか——なり。智旭は回答して曰く。乾は「智巧」、坤は「聖力」なり。智巧なくんば善と惡とを分辨する能わず、聖力なくんば善と惡とを積累する能わず。ゆえに《繫辭傳》は「乾知大始,坤作成物」と言う——乾は開創を主として知り、坤は承成を主として作す。積善積惡の事は自然に坤の初爻に歸せざるを得ず。仏法をもって「善」と「不善」を解釈するに、彼は層層に推進す。十善は善、十惡是不善。無漏是善、有漏是不善。利他是善、自利是不善。中道是善、二邊に落つる是不善。圓融の中道是善、ただ一箇の但空但中を守る是不善。善は相當して君父の地位、不善は相當して臣子の地位なり。善を用いて不善を統御すれば、不善は卽ち善の臣子と成りて善に用いらる。反って不善をして善を妨礙せしめば、善は不善に障蔽せられて、君父の弑せらるるがごとし。ゆえに千里の行程は第一步より始まる。必ず及早辨察せざるべからず。

其正也,方其義也。君子敬以直內,義以方外,敬義立而德不孤。「直方大,不習無不利」,則不疑其所行也。惟正故直,惟義故方,直方皆本具之德,而敬之一字,乃君子修道之要術也。敬即至順,順則必直且方,而德不孤,可謂大矣。佛法釋者:正念真如,是定之內體;具一切義而無減缺,是定之外相。既具內體外相,則必大用現前而德不孤,所以於禪開秘密藏,了了見於佛性而無疑也。

文言傳は六二を解釋して言う。(直)はそれその正なり、方はそれその義なり。君子は敬をもって內心を端正し、義をもって外事を方正にす。敬と義と確立せば、徳は孤立せず。所謂「直方大,不習无不利」は、それ自己の行ずる所の事に疑惑なきを言う。按ずるに、此句底本は句首の「直」の字を脱去せり(通行本は「直其正也,方其義也」と作す)。今は照録して補さず、讀者それを底本の脱文と知れば可なり。智旭は解説する。惟れその正なるがゆえに直なり。惟れその義なるがゆえに方なり。直と方とは皆本来具足の徳にして、一箇の「敬」字こそ、君子の道を修する要緊の手段なり。敬は卽ち極致の順なり。順なれば必ずまた直くまた方なり。因って徳は孤立せず、「大」と稱すべし。仏法をもって解釈すれば、正念真如は定の內在本體(直)なり。一切義理を具足して毫も欠缺なきは、定の外在相狀(方)なり。すでに內體外相俱に具備せば、廣大の作用は必ず現前して徳は孤立せず(大)。ゆえに禅定の中に於いて秘密藏を打開し、明明白白に佛性を見て疑惑なし——これ卽ち「不疑其所行」なり。

陰雖有美含之,以從王事,弗敢成也。地道也,妻道也,臣道也。地道無成,而代有終也。文義可知。佛法釋者:亦世間亦出世禪,雖即具足,陰疑於陽必戰,為其嫌於無陽也,故稱龍焉;猶未離其類也,故稱血焉。夫玄黃者,天地之雜也,天玄而地黃。

文言傳は六三を解釋して言う。陰は美質あると雖も含蓄して、用いて君王の事業に從い敢えて功に居らず。これ地道なり、妻道なり、臣道なり。地道は成功に居らずして、人に代わって事を善終す。智旭は言う。文義明白にして解すべし。此處底本また錯簡あり。「佛法釋者:亦世間亦出世禪,雖卽具足」の一句の下、本來接ぐべきは「不發實相之美,但含而未發……」等の語なり(あの數句はすでに前面の「陳非白問曰」の一段の後に錯置せらる)。如今は直接に上六文言「陰疑于陽必戰」の經文に跳躍し、中間に一段を脱去せり。今は照録して動かさず、臆補を作さず。下面に接ぐは上六の文言なり。陰盛んにして陽と相疑えば、必ず交戰す。それを嫌むがゆえに陽なきがごとくなれば、特地それを「龍」と稱す——陽其實未だ嘗てなきを表明す。またそれ到底なお陰の同類を脫離せざるがゆえに、それを「血」と稱す。所謂「玄黄」は、天色と地色の混雜——天は青黑、地は黄色なり。

夫陰陽皆本於太極,則本於體,何至相疑而戰哉?陽者見之謂之陽,不知與陰同體,故疑陰而必戰;陰者見之謂之陰,不知與陽同體,故亦疑陽而必戰。方陰之盛而戰陽,則有似乎無陽,故稱龍,以明陽本未嘗無焉;逮陰之動而變陽,則似離乎陰類,故稱血,以明陰仍未離類焉。夫惟動而將變,故玄黃相雜耳;變定之後,天玄地黃,豈可雜哉!

智旭は解説する。陰と陽とは皆太極に根源し、卽ち同じく一箇の本體に根づく。何ぞ互いに猜疑して交戰する地步に鬧到せんや。此の話は《繫辭傳》「仁者見之謂之仁,知者見之謂之知」の句式を套用す。陽の立場に立ってそれを見ればそれを陽と叫ぶも、陽と陰と本來同一の體なるを知らず。ゆえに陰を猜疑して必ず交戰す。陰の立場に立ってそれを見ればそれを陰と叫ぶも、陰と陽と本來同一の體なるを知らず。ゆえに同じく陽を猜疑して必ず交戰す。當に陰氣正に盛んにして陽と交戰するの時、表面上は陽なきがごとし。ゆえに爻辭は特地それを「龍」と稱して、用いて陽の本來曾て消失せざるを表明す。陰が一たび動きて陽に轉變するに及んで、また陰の同類を脫離するがごとし。ゆえにそれを「血」と稱して、用いて陰のなお本類を離れざるを表明す。正に將に動き將に變せんとするの際に處するがゆえに、青黑と黄色とこそ混雜するを得れ。變化の定局の後に至りては、天は自ら青黑、地は自ら黄なり。那れぞまた混雜せんや。

子韶風草頌云:「君子何嘗去小人,小人如草去還生。但令鼓舞心歸化,不必區區務力爭。」得此旨者,可以立消朋黨之禍。不然,君子疑嫌小人,小人亦疑嫌君子,不至於兩敗俱傷者幾希矣。

智旭は子韶の《風草頌》を引いて言う。君子は何ぞ曾て真に小人を除盡し得んや。小人は野草のごとく、除き去るも還た再生す。ただ鼓舞感化して、彼らの心をして自然に歸順せしむること能わば、斤斤に計較して專ら力量に靠って爭鬪すること必須ならず。彼は評論す。此の意思を領會する者は、當下に朋黨の禍を消解すべし。然らざれば、君子は小人を猜忌嫌惡し、小人もまた君子を猜忌嫌惡す。それ兩敗俱傷に落ちざるは、極めて少なし——これ正に「龍戰于野,其血玄黄」の人事上の寫照なり。頌題「風草」は《論語》「君子之德風,小人之德草,草上之風必偃」の意を取る。徳風をもって感化するは、力をもって相爭うに勝る。

佛法釋者:始則誤認四禪為四果,及至後陰相現,則反疑四果不受後有之說為虛,而起謗佛之心,是必戰也。然世間豈無真證四果智德者耶?故稱龍,以顯四果之非虛焉。彼雖自謂四果,止是暗證味禪,實未離於生死之類,故稱血,以定其類焉。夫玄黃者,定慧俱傷之象也。以定傷慧,慧傷而定亦傷。然此俱約修德,故言傷耳。

仏法をもって解釈すれば。あの無聞比丘は初め誤って四禪を四果と當し、臨命終の時に後世の中陰身相現前するに及んで、反って「四果不再受後有」の說法是れ假なりと懷疑し、謗佛の心を生起す——これ卽ち「必戰」、佛法と交戰す。しかるに世間に豈に真に四果を證得して智德を具足する人なからんや。當然として有り。ゆえに爻辭はそれを「龍」と稱して、用いて四果の虚妄に非ざるを顯明す。あの比丘に至っては、彼は四果を自稱すと雖も、其實ただ暗中に貪味の禪を證得するのみ、實に生死の類を脫離せず。ゆえにそれを「血」と稱して、用いて彼の歸屬を斷定す。所謂「玄黄」は、定と慧との兩敗俱傷の象なり。定を用いて慧を傷れば、結果慧は傷つきて定もまた隨って傷つく。ただここに言う所は皆ただ「修德」に就いて言うのみ。ゆえにこそ一箇の「傷」の字を講じ得るなり。

若本有寂照之性,則玄自玄,黃自黃,雖闡提亦不能斷性善,雖昏迷倒惑,其理常存,豈可得而雜哉。又觀心釋者:陰陽各論善惡,今且以陰為惡,以陽為善。善惡無性,同一如來藏性,何疑何戰?惟不達性善性惡者,則有無相傾,起輪迴見而必戰。戰則埋沒無性之妙性,似乎無陽,故稱龍,以顯性善之不斷焉。

若し本來具有の寂照の性に就いて言わば、それ青黑は自ら青黑、黄は自ら黄にして、一點も相雜せず。卽使「一闡提」(善根を斷絶し因果を信ぜざる極惡の人)と雖も、彼の本具の「性善」を斷じ得ず。卽使昏迷顛倒惑亂すと雖も、あの理體は依舊として常在す——何ぞ混雜せられんや。此の一層は天台宗の「性具善惡」の教義を用う。善惡は皆本性中の本具なるがゆえに斷ずべからず。また彼は「觀心」の角度を換えて解釋す。陰陽の兩邊は各自善を論じ惡を論ずべし。今は姑らく陰を當て惡と為し、陽を當て善と為す。善と惡とは皆獨立の自性なきにして、同じく一箇の如來藏性の現ずるなり。それ何の猜疑すべき、何の交戰すべきあらん。ただ「性善性惡」の理に通達せざる人のみ、「有」と「無」の間に於いて互いに傾軋し、輪迴の見解を生起して必ず交戰す。一たび交戰すれば、あの無自性の妙性を埋沒して、陽なきがごとく見ゆ。ゆえにそれを「龍」と稱して、用いて本具の性善の從來曾て斷絶せざるを顯明す。

既以善惡相抗,則二俱有漏,故稱血,以顯未離生死類焉。夫善惡想傾奪者,由未達妙性體一,而徒見幻妄事相之相雜也。實則天玄地黃,性不可改,何嫌何疑,何法可相戰耶?善惡不同,而同是一性;如玄黃不同,而同是眼識相分;天地不同,而同一太極;又如妍媸影像不同,而同在一鏡也。若知不同而同,則決不敵對相除而成戰;若知同而不同,則決應熏習無漏善種以轉惡矣。

すでに善と惡とを對立せしめて相抗せば、兩邊は便ち「有漏」と成りて、皆生死を出る能わず。ゆえにそれを「血」と稱して、用いて未だ生死の類を脫離せざるを顯明す。善惡の念頭の互いに傾軋爭奪する所以は、妙性の本來同一の體なるに通達せずして、ただ虚幻妄現の事相の彼此夾雜するを見るのみなり。實際に天は自ら青黑、地は自ら黄にして、本性は改動するに從由なし。何の嫌惡すべき、何の猜疑すべきありて、また哪の一法をもって取って交戰すべきあらん。善と惡とは同じからずと雖も、卻って同じく一箇の本性なり。正に青黑と黄と同じからずと雖も、同じく眼識の現ずる相分なるがごとく、天と地と同じからずと雖も、同じく一箇の太極を出づるがごとく、また美醜の影像同じからずと雖も、同じく一面の鏡子の裏に在るがごとし。若し「不同而同」を知らば、決して善惡を敵對雙方として彼此消滅を要して交戰と成さず。若し「同而不同」を知らば、必ず無漏の善種を熏習して、用いて惡を轉化せん——兩句一つとして闕くべからず。ただ同を知るのみは、撥無善惡の狂解に流るることあらん。ただ不同を知るのみは、善をもって惡を攻める苦戰に陷入せん。此の一段は全卦の收結にして、また智旭の「性具」思想の《易》學上に於いて最も鋒鋩を見るの一筆なり。

The original text is in the public domain. The Japanese is a machine-assisted translation of this library’s own Chinese paraphrase, checked against a fixed glossary so that technical terms match the definitions used elsewhere on this site. It is a reading aid and does not replace the original.

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