師卦(坎下坤上)
(坎下 坤上)師:貞,丈人吉,無咎。夫能自訟,則不至於相訟矣。相訟而不得其平則亂,亂則必至於用師,勢之不得不然,亦撥亂之正道也。但兵凶戰危,非老成有德之丈人何以行之。佛法釋者:蒙而無過,則需以養之;蒙而有過,則訟以改之。但眾生煩惱過患無量,故對破法門亦復無量;無量對破之法,名之為師,亦必以正治邪也。然須深知藥病因緣,應病與藥,猶如老將善知方略、善知通塞,方可吉而無咎;不然,法不逗機,藥不治病,未有不反為害者也。
「坎下坤上」は卦體を標明す。卦辭は言う。師卦、正を守り、老成有德の長者に由りて統率せらるれば則ち吉、過錯なし。「師」は軍隊なり。智旭は易理に依って解説する。人若し自訟自責すること能わば、別人と相爭うに至らず。相爭いて公平を得ざれば卽ち亂れ、一たび亂れれば必ず軍隊を動用せざるべからず。これ形勢の迫るに不得已にして然りとするにして、また撥亂反正の正道なり。ただ兵を用うるは凶險にして作戰は危殆なり。老成有德の長者に非ざれば、誰か擔當せん。佛法をもって解釈すれば、蒙昧にして過失なき者は、卽ち需卦の等待を用いて彼を涵養す。蒙昧にして過失ある者は、卽ち訟卦の自訟を用いて彼を改正す。しかるに衆生の煩惱過患は無量無邊なり。ゆえに對治破除の法門も同じく無量無邊なり。此の無量の對治の法を「師」と叫ぶ——衆多の法門は千軍萬馬のごとく、同じく正法を以て邪妄を討伐す。しかるに必ず深く藥と病との間の因緣を知り、症に對して藥を下すべし。老將の方略を籌劃するに善く、何處か通じ何處か堵するを識別するに善きがごとくして、乃ち吉にして過錯なきを得。然らざれば、法門根機に對せず藥病を治せず、反って禍害と成らざる無し。
彖曰:師,眾也;貞,正也。能以眾正,可以王矣。剛中而應,行險而順,以此毒天下而民從之,吉,又何咎矣。用眾以正,謂六五專任九二為將,統御群陰,此王者之道也。兵者不得已而用之,猶藥治病,故名為毒天下。
彖傳は言う。師は衆なり。貞は正なり。衆を用いて正に歸するを以て、則ち王と稱すべし。九二は剛健にして中を得て六五と相相應し、險境の中に行走して卻って柔順なり。此の辦法を用いて天下を毒害して百姓なお彼に從う。吉、又ぞ何の過錯かあらん。智旭は易理に依って解説する。所謂「用衆以正」は、六五の專一に九二を任用して大將と爲し、群陰を統率するを指す。これ王者の道なり。兵器は不得已にして乃ち動用す、藥を用いて病を治するに譬ゆ——藥の本身毒性あり。ゆえに「毒天下」と言う。此の「毒」の字は貶義に非ず。下文智旭は正にその上に文章を做さんとす。
佛法釋者:師是眾多法門,貞是出世正印也。能以眾多法門正無量邪惑,則自利利他,可以為法王而統治法界矣。剛中則定慧莊嚴,隨感而應,雖行於生死險道,而未嘗不順涅槃。以此圓頓妙藥,如毒鼓毒乳,毒於天下,而九界之民皆悉從之吉,又何咎矣。
佛法をもって解釈すれば。「師」は衆多の法門、「貞」は出世間の正法印——卽ち三法印・一實相印にして、用いて説く所の佛法なるか否かを印定す。衆多の法門を用いて無量の邪惑を矯正すること能わば、則ち自利して兼ねて利他する能く、法王と爲って整個の法界を統治すべし。「剛中」は、卽ち定慧の交い交い莊嚴にして、衆生の感應に隨って回應す。生死の險道に行走する而も、未だ曾て涅槃に順向せざらず。此の圓頓の妙藥を以て、《涅槃經》の説く「毒鼓」——毒藥を塗したる鼓にして、敲響の後聞聲する者皆死す。佛の圓頓の法を説くは衆生の煩惱を殺盡する能くするを比喩す——のごとく、また「毒乳」——先前毒を乳に置きて、輾轉して醍醐と成る而も毒性依然として在りて終に發作する能くす——のごとし。かくのごとき毒を用いて天下を毒害する而も、九法界の衆生は反って皆彼に從うを樂しむ。ゆえに吉、又ぞ何の過錯かあらん。此處「毒」は正に最も猛なる良藥なり。煩惱を殺掉せざれば、衆生を度すること能わず。
象曰:地中有水,師,君子以容民畜眾。地中有水,水載地也。君子之德猶如水,故能容陰民而畜坤眾;容民即所以畜眾,未有(片*戈)民以養兵者也,為君將者奈何弗深思哉。佛法釋者:一切諸法中悉有安樂性,亦悉具對治法,如地中有水之象。故君子了知八萬四千塵勞門即是八萬四千法門,而不執一法,不廢一法也。此是善識通塞,如撫之則即民即兵,失之則為賊為寇。
大象傳は言う。地の中に水を含むは師なり。君子は此に取法して百姓を容納し民衆を畜養す。智旭は解説する。地中に水あるは、其實水が地を托するなり。君子の德は水のごとし。ゆえに陰に屬する百姓を容納し、坤に屬する民衆を畜養する能くす。百姓を容納するは正に軍隊を畜養するの辦法にして、從來百姓を殘害して軍隊を供養する有らず(底本此の字は「(片*戈)」と作る。「戕」の字の組字寫法なり。今は照録す)。君主を做し將領を做する人、何ぞ深く思わざるべからざるや。佛法をもって解釋すれば、一切諸法の中に皆安樂の性を含み、亦皆對治の法を具備す。正に地中に水あるの象のごとし。ゆえに君子は「八萬四千塵勞門卽ち八萬四千法門」を明了す——煩惱の多少あれば、對治の法門の多少あり。煩惱は當體卽ち法門なり。因って旣に某一法に執著せず、亦任何の一法をも廢棄せず。これ正に天台十乘觀法の第五乘「善識通塞」なり。同じく百姓にして、安撫し得れば百姓は卽ち兵。安撫失當なれば、百姓は賊寇と成る——同じく一念にして、通塞を識得すれば、塵勞は卽ち法門なり。
初六:師出以律,否臧凶。大司馬九伐之法,名之為律。師出苟不以律,縱令徼倖成功,然其利近,其禍遠,其獲小,其喪大,故凶。孟子所謂「一戰勝齊,遂有南陽,然且不可」也。佛法釋者:初機對治之法,無過大小乘律;若違律制,則身口意皆悉不善而凶矣。象曰:師出以律,失律凶也。
爻辭は言う。初六、兵を出すには軍紀法度に依るを要す。然らざれば卽使打ち善しとも凶なり。智旭は解説する。《周禮》大司馬の掌る所の「九伐の法」——九種の罪行に針對して諸侯を討伐する制度——を「律」と叫ぶ。兵を出すに若し法度に依らざれば、縱然僥倖に成功すとも、しかるに得る所の利益は眼前にして招來する禍患は長遠なり。獲る所は小にして喪う所は大。ゆえに凶。《孟子》は魯國の慎子を用いて齊を伐たんと欲するを記載す。孟子は言う。卽使一戰して齊に勝ち、于是南陽を得るとも、尚且做すべからず。佛法をもって解釋すれば、初學者の煩惱を對治するの辦法は、大乗・小乗の戒律より更要緊なるはなし。若し律制に違背せば、則ち身・口・意の三業全く不善にして、自然凶なり。小象傳は言う。兵を出すに法度に依るを要す。法度を失えば卽ち凶なり。
九二:在師中吉,無咎,王三錫命。以大將才德,膺賢主專任,故但有吉而無咎也。陳旻昭曰:「九二以一陽而五陰皆為所用,不幾為權臣乎?故曰在師中吉,以見在朝則不可也。」佛法釋者:有定之慧,遍用一切法門自治治他,故吉且無咎,而法王授記之矣。
爻辭は言う。九二、軍中に在りて中道を得れば則ち吉、過錯なし。君王は三次冊命を頒下して嘉獎す。智旭は解説する。九二は大將の才干德望を以て、賢明君主の專一の任命を承受す。ゆえにただ吉ありて過錯なし。彼は陳旻昭の言を引く。九二は一箇の陽爻を以て五箇の陰爻をして皆その用と爲さしむ。これ權臣と成らんとするに近からずや。ゆえに爻辭は特地「在師中吉」と説く——軍中に在るに於いてのみ吉なり。見るべし、かくのごとき權勢を朝廷の上に擺かば則ち不行なり。佛法をもって解釋すれば、禪定を底子と做す智慧は、普く一切法門を運用して自ら治し併せて他を治すること能くす。ゆえに旣に吉にして且つ過錯なし。而して法王もまた彼のがために「授記」す——預め彼の將來成佛する時地名號を記別す。
象曰:在師中吉,承天寵也;王三錫命,懷萬邦也。自古未有無主於內而大將能立功於外者,九二之吉,承六五之寵故也。為天下得人者謂之仁,故三錫命於賢將,即所以懷萬邦。佛法釋者:承天行而為聖行梵行等,所謂一心中五行,故為法王所寵而授記,以廣化萬邦也。
小象傳は言う。軍中に在りて中を得て吉なるは、君王の恩寵を承受せるなり。君王の三次冊命を頒下するは、萬邦を安撫せんとするがためなり。智旭は解説する。自古以來內部に主を爲す人なくして、大將の外に於いて功を建つる能くする有らず。九二の吉なる所以は、正に六五の恩寵を承受せるが故なり。《孟子》は「天下を爲に人を得る者を仁と謂ふ」と説く。ゆえに三次賢將に冊命するは、正に萬邦を安撫するの辦法なり。佛法をもって解釋すれば、「天行」(天然の理に依って行ず)を承接して「聖行」(戒定慧の行)・「梵行」(慈悲利他の行)等を成就するは、これ卽ち《涅槃經》の五行——聖行・梵行・天行・嬰兒行・病行——の同じく一心の中に具足するにして、所謂「一心中五行」なり。因此法王の寵愛せらるる所と爲って授記を得、用いて廣く萬邦を度す。
六三:師或輿尸,凶。不中不正,才弱志剛,每戰必敗,不言可知。佛法釋者:不知四悉因緣,而妄用對治,反致損傷自他慧命。象曰:師或輿尸,大無功也。六四:師左次,無咎。雖柔弱而得正,不敢行險徼倖以自取敗,故無咎也。佛法釋者:此如宣律師不敢妄號大乘。象曰:左次無咎,未失常也。
六三の爻辭は言う。軍隊あるいは車を用いて屍體を拉して回來せん、凶。智旭は解説する。六三は中に居らず正ならず、才干柔弱にして心志剛愎なり。每戰必敗、説かずとも知るなり。佛法をもって解釋すれば、四悉檀應機施教の因緣を懂得せず、胡亂に對治の法門を使用して、反って自己と別人の慧命を損傷す。小象傳は言う。軍隊車を用いて屍を拉して歸るは、全く功效なし。六四の爻辭は言う。軍隊は左方に退駐し、過錯なし。智旭は解説する。六四は柔弱なりと雖も正位を得、冒險僥倖して自ら失敗を取るを敢えてせず。ゆえに過錯なし。佛法をもって解釋すれば、これ唐代南山律宗の道宣律師に譬ゆ——一生專精戒律にして大乗を妄自標榜するを敢えてせず。力を量って處するは、正に「左次」なり。小象傳は言う。左に向かって退駐して過錯なきは、常規を失わざるなり。
六五:田有禽,利執言,無咎。長子帥師,弟子輿尸,貞凶。柔中之主,當此用師之時,仗義執言以討有罪,固無過也;但恐其多疑而不專任九二之長子,故誡以弟子輿尸,雖正亦凶。
爻辭は言う。六五、田裏に禽獸ありて害を爲す。理由を聲明して兵を出すに利あり、過錯なし。長子に由りて軍隊を統率せしめば則ち可なり。若し次子らをして一同に參與せしめば、屍を載て歸らんと要す。縱然正を守るとも凶なり。智旭は易理に依って解説する。六五は柔順にして中を得たる君主にして、正に兵を用うるの時に當り、道義を仗りて理由を聲明して罪あるを討伐するは、本來過錯なし。ただ它の疑心太重くして、專一に九二の此の「長子」を任用するを肯んぜざるを怕る。ゆえに爻辭は告誡して「弟子輿屍」と曰く——人を用うるに專ならざれば、縱然正當の動機を出ずとも凶なり。軍事は最も兩人の主を爲すを忌む。これ六五の唯一の危險なり。
佛法釋者:田中有禽,妨害良禾,喻心有煩惱,妨害道芽也。利執言者,宜看經教以照了之也。然看經之法,依義不依語,依了義不依不了義,依智不依識。若能深求經中義理,隨文入觀,則如長子帥師;若但著文字,不依實義,則如弟子輿尸,雖貞亦凶,此如今時教家。象曰:長子帥師,以中行也;弟子輿尸,使不當也。
佛法をもって解釋すれば。田裏に禽獸ありて好莊稼を妨害するは、心中に煩惱ありて道芽を妨害するを比喩す。「利執言」は、當に經教を研讀して煩惱を照破すべきを説くなり——「言」は此處經教の言に讀まれたり。しかるに經を讀むに經を讀むの法則あり。卽ち《涅槃經》の「四依」なり。依義不依語(義理に依循して文句に拘泥せず)、依了義不依不了義(究竟の説に依循して權宜の説に停まらず)、依智不依識(智慧に依循して情識に隨わず)。若し能く深く經中の義理を探求し、經文に隨って觀照に進入せば、則ち「長子帥師」に似たり。若し只だ文字に執著して眞實義理に依循せざれば、則ち「弟子輿屍」に似たり。縱然正を守るとも凶なり——これ正に當今のあの經を講じ論教する人らに似たり。智旭本人は教相を精研するの大師にして、此の一句の自我鍼砭は尤も分量あり。小象傳は言う。長子の軍隊を統率するは、中道を行ずるなり。次子らの屍を載て歸るは、任使の當を得ざるなり。
上六:大君有命,開國承家,小人勿用。方師之始,即以失律凶為誡矣;今師終定功,又誡小人勿用。夫小人必徼倖以取功者耳。蘇氏云:「聖人用師,其始不求苟勝,故其終可以正功。」
爻辭は言う。上六、大君は冊命を頒下し、諸侯を封建し卿大夫の家を承繼せしむ。小人は任用すべからず。智旭は解説する。師を出すの初めに當りて、すでに「失律則凶」を以て告誡せり。今は戰事結束して功を論じ賞を行ふに、又告誡して小人は任用すべからずと曰く。小人は必ず僥倖を以て戰功を取得するが故なり。彼は蘇氏の言を引く。聖人の兵を用ゐるは、一開始に於いて苟且の勝を求めず。ゆえに最後に到りて乃ち公正に功勞を評定すること能くす。始終の兩頭皆守住せば、中間自然亂れず。
佛法釋者:正當用對治時,或順治,或逆治,於通起塞,即塞成通,事非一概。今對治功畢,入第一義悉檀,將欲開國承家,設大小兩乘教法以化眾生,止用善法,不用惡法。儻不簡邪存正,簡愛見而示三印一印,則佛法與外道幾無辨矣。象曰:大君有命,以正功也;小人勿用,必亂邦也。
佛法をもって解釋すれば。正に對治法門を使用するの時、ある時は順って來て治し、ある時は逆って來て治す。ある時は本來通達の處に於いて反って堵塞を生出し、ある時は堵塞の處に就いて當下に轉成して通達す——手法は一概に論ずべからず。今は對治の功夫すでに完成し、「第一義悉檀」に進入して、將に「開國承家」せんとし、大乗小乗の兩套の教法を建立して衆生を化度する。此の時は卽ちただ善法を用いて、再び惡法を用ゐず。倘若も邪正を簡別し「愛見」(貪愛と邪見の兩類の煩惱)を剔除すること能わずして、三法印(諸行無常・諸法無我・涅槃寂靜、用いて小乗を印定す)と一實相印(用いて大乗を印定す)を以て説く所を判定すれば、則ち佛法と外道とは幾ほど分辨し出す能わず——これ卽ち「小人勿用」なり。小象傳は言う。大君の冊命を頒下するは、公正に功勞を評定せんとするがためなり。小人は任用すべからず、必ず邦國を擾亂するが故なり。
比卦(坤下坎上)
(坤下 坎上)比:吉。原筮元永貞,無咎。不寧方來,後夫凶。用師既畢,踐天位而天下歸之,名比,比未有不吉者也。然聖人用師之初心,但為救民於水火,非貪天下之富貴;今功成眾服,原須細自筮審,果與元初心相合而永貞,乃無咎耳。夫如是,則萬國歸化而不寧方來;彼負固不服者,但自取其凶矣。
「坤下坎上」は卦體を標明す。卦辭は言う。比卦、吉。初心を推原し反復審度し、若し真に善の長にして能く長久に正を守らば、過錯なし。安寧ならざる邦國は紛紛として前來歸附し、來ること遲き人は則ち凶なり。「比」は親附なり。智旭は易理に依って解説する。兵を用いること完畢して、天子の位に登りて天下歸心す。これを「比」と叫ぶ。比は從來不吉ならず。しかるに聖人の當初兵を用いし本心は、ただ百姓を水火の中より救出せんと爲のみ、天下の富貴を貪圖するに非ず。今は功業すでに成り衆人歸服す。本來當に仔細に自我に筮問審察すべし。果して最初のあの份の本心と相合して能く長久に正を守らば、算して過錯なしと言ふべし。能くかくのごとくならば、則ち萬國皆來り歸化し、安寧ならざる邦國も紛紛として前來す。至ってあの險固を倚仗して歸服するを肯んぜざるは、不過是れ自ら凶禍を取るのみなり。彼は「原筮」を「推原初心」に讀み、全卦の立脚點と爲す。
佛法釋者:善用對破法門,則成佛作祖,九界歸依,名比。又觀心釋者:既知對破通塞,要須道品調適,七科三十七品相屬相連名比。仍須觀所修行,要與不生不滅本性相應,名原筮元永貞無咎,所謂圓四念處、全修在性者也。一切正勤根力等,無不次第相從,名不寧方來;一切愛見煩惱不順正法門者,則永被摧壞而凶矣。
佛法をもって解釋すれば。對治破除の法門を運用するに善ければ、卽ち成佛作祖して九法界の衆生皆來り歸依す。これを「比」と叫ぶ。若し「觀心」に就いて解釋すれば、旣に對治破除の中の通と塞とを懂得せば(これは上一卦師の功夫)、接下して須く「道品調適」——天台十乘觀法の第六乘、三十七道品を調整選配す——すべし。三十七道品は七科に分かる。四念處・四正勤・四如意足・五根・五力・七覺支・八正道にして、彼此相屬相連す。これを「比」と叫ぶ。同時に還た須く自己の修する所の行を觀照して、務めて不生不滅の本性と相應せしめよ。これを「原筮元永貞无咎」と叫び、卽ち所謂「圓四念處」(圓教の四念處觀)「全修在性」なり。一切の四正勤・五根・五力等等、次第に隨從して來らざる無し。これを「不寧方來」と叫ぶ。至って一切の貪愛邪見の煩惱・正法門に順わざるは、卽ち永遠に摧毁せられて凶なり。
彖曰:比,吉也;比,輔也,下順從也。原筮元永貞無咎,以剛中也。不寧方來,上下應也。後夫凶,其道窮也。比則必吉,故非衍文,餘皆可知。佛法釋者:約人,則九界為下,順從佛界為輔;約法,則行行為下,順從慧行為輔。剛中,故能全性起修、全修在性。上下應者:約人,則十界同稟道化;約法,則七科皆會圓慧也。其道窮者:約人,則魔外不順佛化而墮落;約法,則愛見不順正法而被簡也。
彖傳は言う。比は是れ吉なり。比は是れ輔助にして、下に在る者は上に在る者に順從す。「原筮元永貞无咎」は、九五剛健にして中を得るが故なり。「不寧方來」は、上下相應するなり。「后夫凶」は、彼の道路すでに盡頭に至れるが故なり。智旭は先に文字を辨ず。「比,吉也」の三字は衍文に非ず。比は必ず吉なるが故に、其餘各句は文面に照らせば明白なり。佛法をもって解釋すれば、「人」の一面に就いて言わば、九法界衆生は下に在り、佛界に順從するは卽ち輔助なり。「法」の一面に就いて言わば、「行行」(事修)は下に在り、「慧行」(觀慧)に順從するは卽ち輔助なり。「剛中」、ゆえに能く全體性に依って修を起こし全部の修行本性を出でず。所謂「上下應」。人に就いて言わば、十法界同じく佛道の教化を受くるなり。法に就いて言わば、七科道品皆圓融の智慧に會歸するなり。所謂「其道窮」。人に就いて言わば、天魔外道は佛の教化に順わずして墮落するなり。法に就いて言わば、貪愛邪見は正法に順わずして簡除せらるるなり。
象曰:地上有水,比,先王以建萬國親諸侯。建萬國親諸侯,即所謂開國承家者也。佛法釋者:地如境諦,水如觀慧;地如寂光,水如三土差別,皆比之象也。約化他,則建三土剎網,令諸菩薩轉相傳化;約觀心,則立陰界入等一切境以為發起觀慧之地,觀慧名諸侯也。此是道品調適,謂七科三十七品相比無間。
大象傳は言う。地上に水あるは比なり。先王は此に取法して萬國を分封し諸侯を親近す。智旭は解説する。萬國を分封し諸侯を親近するは、卽ち師卦上六の説く所の「開國承家」なり。佛法をもって解釋すれば、地は觀ずる所の「境諦」に譬え、水は能觀の「觀慧」に譬う。地はまた常寂光土に譬え、水は同居・方便・實報の三土の種種の差別に譬う——これらは皆「比」(相親し相依る)の象なり。他を化度するの一面に就いて言わば、三土の剎海の網を建立して、衆菩薩をして輾轉相傳して教化せしむるなり。觀心の一面に就いて言わば、五陰・十八界・十二入等の一切境を立起して、觀慧を發起するの所依の地と爲し、而して觀慧は便ち諸侯に譬ゆ。これ正に「道品調適」なり。七科三十七道品彼此緊密に相連して間隙なし。
初六:有孚比之,無咎;有孚盈缶,終來有他吉。柔順之民,率先歸附,有孚而無咎矣。下賤之位雖如缶器,而居陽位,有君子之德焉,故為有孚盈缶,將來必得徵庸,有他吉也。
爻辭は言う。初六、誠信を懷きて親附せば、過錯なし。誠信は瓦缶を裝滿したるがごとく充實し、最終還た意外の吉慶あらん。智旭は易理に依って解説する。柔順の百姓率先して歸附し、誠信有りて因って過錯なし。それ處する所の位置卑下にして、只だ粗陋の瓦缶に似たると雖も、しかるにそれ陽位に居りて君子の德を含有す。ゆえに「有孚盈缶」と言う——器は粗なりと雖も內容は滿ちり。將來必ず徵召任用を得ん。ゆえに意外の吉慶あり。
約佛法者:初六如人道,六二如欲天,六三如魔天,六四如禪天,九五如佛為法王,上六如無想及非非想天。今人道易趣菩提,故有他吉。約觀心者:初六如藏教法門,六二如通教法門,六三如愛見法門,六四如別教法門,九五如圓教真正法門,上六如撥無因果邪空法門。今藏教正因緣境,開之即是妙諦,故有他吉。象曰:比之初六,有他吉也。
佛法を以て六爻に配すれば。初六は人道に譬え、六二は欲界天に譬え、六三は魔天(他化自在天)に譬え、六四は色界禪天に譬え、九五は佛の法王たるに譬え、上六は無想天と非想非非想天とに譬う。人道は最も菩提に趨向し易し——苦樂參半にして、旣に厭離の心ありまた修行の力あり。ゆえに「有他吉」と言う。觀心を以て六爻に配すれば。初六は「藏教」法門(三藏教、卽ち小乗析空の教)に譬え、六二は「通教」法門(前の藏教に通じ後の別圓に通ずる體空の教)に譬え、六三は貪愛邪見を夾帶する法門に譬え、六四は「別教」法門(二乘に別して次第に修證する菩薩の教)に譬え、九五は「圓教」眞正法門(圓融頓足の教)に譬え、上六は因果を撥無する邪空法門に譬う。藏・通・別・圓は合して「化法四教」と稱し、天台判教の骨架なり。今藏教の觀ずる「正因緣境」は、一經開顯すれば便ち微妙の眞諦なり。ゆえに「有他吉」と言う——小教は小なりと雖も、これを開けば卽ち圓なり。小象傳は言う。比卦の初六は、意外の吉慶あり。
六二:比之自內,貞吉。柔順中正之臣,上應陽剛中正之君,中心比之,故正而吉也。佛法釋者:欲天有福亦復有慧,但須內修深定;又通教界內巧度,與圓教全事即理相同,但須以內通外。象曰:比之自內,不自失也。
爻辭は言う。六二、內部より親附し、正を守りて吉を得。智旭は易理に依って解説する。六二は柔順中正の臣子にして、上りて陽剛中正の九五の君と相應す。心裏の底を打ちて親附す。ゆえに正にして吉を得。佛法をもって解釋すれば、欲界天は旣に福報ありまた智慧あり、ただ還た須く內に向かって深定を修習すべし。別の一層。通教は三界之內の「巧度」——色心を析破するを須いず、直に當體卽空を觀じ、藏教の「拙度」(一點一點分析して始めて空を見る)より來たること巧妙なり。それは圓教の「全部の事相は當體卽ち理體」の説法と相似す。ただ還た須く內より外に通じて、界內の巧よりさらに界外の圓に進むべし。小象傳は言う。內部より親附するは、自己を失掉せざるなり。
六三:比之匪人。不中不正,居下之上,又無陽剛師友以諫諍之,故曰比之匪人。佛法釋者:魔波旬無一念之善,又愛見決不與佛法相應。象曰:比之匪人,不亦傷乎。六四:外比之,貞吉。柔而得正,近於聖君,吉之道也,但非其應,故名外比,誡之以貞。佛法釋者:色界具諸禪定,但須發菩提心,外修一切差別智門;又別教為界外拙度,宜以圓融正觀接之。象曰:外比於賢,以從上也。九五既有賢德,又居君位,四外比之,理所當然,亦分所當然矣。
六三の爻辭は言う。親附する所は正當の人に非ず。智旭は解説する。六三は中に居らず正ならず、下卦の上に居り、また陽剛の師友ありてそれに規諫するなく、ゆえに「比之匪人」と言う。佛法をもって解釋すれば、魔王波旬は一念の善なるなく、而して貪愛と邪見の此の兩類の煩惱もまた決して佛法と相應せず。小象傳は言う。親附する所は正當の人に非ず。豈に傷むべからざらんや。六四の爻辭は言う。外に向かって親附し、正を守りて吉を得。智旭は解説する。六四は柔順にして正位を得、九五の此の聖君に近づくは吉道なり。ただ九五はその正應に非ず。ゆえに「外比」と叫び、因って「貞」を以てそれを告誡す。佛法をもって解釋すれば、色界天は種種の禪定を具足す、ただ還た須く菩提心を發し、外に向かって一切差別智の法門を修習すべし。別の一層。別教は三界之外の「拙度」——三界を出でると雖も修證はなお次第に循う。宜しく圓融正觀を以てそれを接引すべし。小象傳は言う。外に向かって賢者を親附するは、上位に在る人に順從するなり。智旭は補説す。九五は旣に賢德あり、また君位に居り。六四の外に向かってそれを親附するは、理に於いて當然、分に於いても當然なり。
九五:顯比,王用三驅,失前禽,邑人不誡,吉。陽剛中正,為天下之共主,故名顯比,而聖人初無意於要結人心也。如成湯於四面之網解其三面,任彼禽獸驅走,雖失前禽,邑人亦知王意而不警誡,此所謂有天下而不與,吉之道也。
爻辭は言う。九五、光明正大に親附す。君王の田獵はただ三面より驅趕し、前面の禽獸の逃走するに任し、邑中の人も戒備を加えず、吉。智旭は易理に依って解説する。九五は陽剛中正にして天下共同の君主なり。ゆえに「顯比」と叫ぶ——光明顯豁の親附。而して聖人は本來人心を籠絡するの意なし。これ商湯の人の四面に網を張りて鳥を捕らふるを見て、三面を解開せしめて禽獸の逃走するに任するに似たり。迎面して來るの獵物を失掉すると雖も、邑中の人も君王の用意を明白して戒備を加えず。これ正に所謂「天下を有して己が有と據えず」にして、吉道なり。
佛法釋者:法王出世,如果日當空,名顯比。三輪施化,又初中後三語誘度,又令種熟脫三世得益,名王用三驅。於無緣人善用大舍三昧,即諸佛弟子亦不強化無緣之人,名失前禽邑人不誡。
佛法をもって解釋すれば。法王は世に出現して、烈日の當空に普照するがごとし。これを「顯比」と叫ぶ。而して「王用三驅」は三種の讀法あり。一は身・口・意の「三輪」を以て教化を施行す。二は初善・中善・後善の「三語」を以て誘導度化す。三は衆生をして「種・熟・脫」の三世の中に於いて獲益せしむ——過去世に下種し、現在世に成熟し、未來世に解脫す。至って法緣なき人に對しては、「大捨三昧」を善用す——捨して强求せず。諸佛弟子をもしても無緣の人を强行化度せず。これを「失前禽,邑人不誡」と叫ぶ。佛は無緣の人を度せず。正に成湯の網の三面を開くと同一の意思なり。
觀心釋者:實慧開發,如赫日麗天,名顯比。一心三觀,又轉接會前三教,名王用三驅。覺意三昧,隨起隨觀,不怕念起,只怕覺遲;一覺則歸於正念,不以前念之非介懷,名失前禽邑人不誡。象曰:顯比之吉,位正中也;舍逆取順,失前禽也;邑人不誡,上使中也。
若し觀心に就いて解釋すれば。眞實の智慧開發せらるるは、赤日の天空に高懸するがごとし。これを「顯比」と叫ぶ。而して「王用三驅」は、一指して「一心三觀」——空・假・中の三觀同じく一念に在り。二指して圓教を以て前面の藏・通・別の三教を轉・接・會通す。至って「覺意三昧」——心念の起る處に於いて起れば隨に觀じ、念念覺照するの三昧。正に禪門のあの常語のごとし。念の起るを怕れず、ただ覺の遲きを怕る。一たび覺れば正念に回到して、前の一念の過失を心に挂けず——これを「失前禽,邑人不誡」と叫ぶ。逃走する念頭はそれを追わず、心裏にも戒備張皇する必須なし。小象傳は言う。顯比の吉なる所以は、位に居りて正中なるが故なり。背離するを放走し歸順するを接納す。ゆえに前面の禽獸を失う。邑人の戒備を加えざるは、上に在る者の彼らをして中を守らしむるが故なり。
上六:比之無首,凶。陰柔無德,反據聖主之上,眾叛親離,不足以為人首矣。佛法釋者:窮空輪轉,不能見佛聞法,假饒八萬劫,不免落空亡。觀心釋者:豁達空,撥因果,自謂毗盧頂上行,悟得威音王那畔又那畔,實不與真實宗乘相應,業識茫茫,無本可據,生死到來,便如落湯螃蟹也。象曰:比之無首,無所終也。
爻辭は言う。上六、親附する而も頭領なし、凶。智旭は易理に依って解説する。上六は陰柔にして德なく、反って聖主の上に占據し、衆叛親離して、人の首領と爲るに配せず。佛法をもって解釋すれば、空を盡頭に修してなお輪迴に在り、佛を見ず法を聞かず、縱使八萬大劫を活すとも、空亡に落入するを免れず。若し觀心に就いて解釋すれば、これ卽ち「豁達空」——一味に空を認め因果を否定するの邪見なり。此の種の人は毘盧遮那佛の頭頂の上に行走するを自稱し、已に威音王佛以前のあの一邊またあの一邊の消息を悟得したりと自稱す。其實眞實の宗門乘教と毫も相應せず。業識茫茫たる一片にして、依據すべき根本なし。生死の到來を待てば、便ち滾水の裏に掉し入れたる螃蟹のごとく、手忙腳亂す。小象傳は言う。親附して頭領なきは、歸結の處なきなり。此の數句は智旭の當時の狂禪の弊に對する最も留情なき一擊なり。
從屯至此六卦,皆有坎焉。坎得乾之中爻,蓋中道妙慧也,其德為陷為險。夫煩惱大海與薩婆若海,豈真有二性哉。且從古及今,無不生於憂患,死於安樂,故四諦以苦居初,佛稱八苦為師。苦則悚惕而不安,悚惕不安則煩惱海動,而種智現前矣。聖人序卦之旨,不亦甚深也與。
これは智旭の屯以下六卦に對する一段の總論なり。屯卦より比卦に至る此の六卦、卦體の中に皆坎を含有す。坎の中爻は乾を取る。見るべし、それ本是中道の妙慧なり。而してそれの表現せる德性は卻って陷落・是れ險難なり——智慧は偏に險陷の裏に藏る。煩惱の大海と「薩婆若海」(一切智の海)とは、豈に眞に兩種の體性あらんや。況んや古より今に至り、人は無は憂患の中に生じ安樂の中に死する在らず。ゆえに佛は四諦を説いて「苦諦」を最前に排し、また「八苦」(生・老・病・死・愛別離・怨憎會・求不得・五陰熾盛)を自己の老師と稱す。人は一たび苦を受ければ驚惕不安となり、一たび驚惕不安となれば、煩惱の海は便ち攪動せられ、而して一切種智は反って此に因りて現前す。聖人の卦序を排列するの用意、亦深極ならずや。此の一段は全書の「煩惱卽菩提」に對する最も簡明の表述と視做すべし。
小畜卦(乾下巽上)
(乾下 巽上)小畜:亨,密雲不雨,自我西郊。畜,阻滯也;又讀如蓄,養也。遇阻滯之境,不怨不尤,惟自養以消之,故亨,然不可求速效也。約世法,則如垂衣裳而天下治,有苗弗格;約佛法,則如大集會中魔王未順;約觀心,則如道品調適之後,無始事障偏強,阻滯觀慧,不能克證。
「乾下巽上」は卦體を標明す。卦辭は言う。小畜卦、亨通す。濃雲密布して然れど雨を下さず、雲は我が西郊より飄來す。智旭は先に卦名を釋す。「畜」に兩讀兩義あり。一は阻滯、一は「蓄」のごとく讀みて卽ち畜養なり。阻滯の處境に遇いて、別人を埋怨せず命運を責怪せず、ただ自我に涵養してそれを化解す。ゆえに亨通す。しかるに速效を求むべからず。彼は接着三層に分つ。世間法に就いて言わば、聖王の衣裳を垂れて天下大治するに、偏偏三苗なお歸服するを肯んぜざるがごとし。佛法に就いて言わば、佛の大集法會の中に在りて魔王未だ歸順せざるに似たり。觀心に就いて言わば、「道品調適」(上一卦の比の功夫)の後に、無始以來の「事障」——事相上の煩惱習氣——が偏に强盛して觀慧を阻滯し、人をして剋期取證すること能わざらしむるがごとし。三層竝列す。是れ全書の卦を解くの固定格式にして、讀者は此に據りて彼の哪の一層の上に於いて説話するを分辨すべし。
然聖人御世,不忌頑民;如來化度,不嫌魔侶;觀心勝進,豈畏夙障。譬諸拳石,不礙車輪;又譬鍾擊則鳴,刀磨則利,豬揩金山,益其光彩,霜雪相加,松柏增秀,故亨也。然當此時雖不足畏,亦不可輕於取功,須如密雲不雨自我西郊,直俟陰陽之和而後雨耳。蓋凡云起於東者易雨,起於西者難雨,今不貴取功之易,而貴奏效之遲也。
しかるに聖人の世を治するは、頑劣の百姓あるを忌諱せず。如來の衆生を化度するは、魔類を伴と爲すあるを嫌棄せず。觀心を修する人は節節向上すれば、又ぞ何を須いて宿世の障礙を害怕せんや。拳頭大の石頭は車輪を擋ぐに住まざるがごとく、また鍾は敲かば響き、刀は磨かば利く、野豬は金山の上に痒を蹭れば反って金山の光彩を增添し、霜雪は一層一層壓し上がれば松柏は反って愈々秀挺するがごとし——障礙は正に成就の助緣なり。ゆえに「亨」と言う。しかるに此の時に於いては、障礙は畏るるに足らずと雖も、亦輕率に急いで成を求むべからず。須く「密雲不雨,自我西郊」のごとく、一直に陰陽調和するを待ちて然る後に降雨すべし。大凡雲の東邊より起るは雨が易く、西邊より起るは雨が難し。今は看重する所は取效の易きに非ずして、正に奏效の來ること遲きなり——慢はこそ此の一卦の功夫の所在なれ。
楊慈湖曰:「畜有包畜之義,故云『畜君何尤』。此卦六四以柔得近君之位,而上下諸陽皆應之,是以小畜大,以臣畜君,故曰小畜。」其理亦通,其六爻皆約臣畜君說亦妙。
智旭は楊簡の言を引く。「畜」は包容畜養の意思あり。ゆえに《孟子》は晏子の言を引いて「畜君何尤」——「畜君」は卽ち君主を勸阻し約束するにして、何の過錯かあらん——と曰く。本卦の六四は一箇の柔爻を以て君位に接近するの位置を得、而して上下の衆陽爻皆それと相應す。これ小を以て大を畜養し臣を以て君を畜養す。ゆえに「小畜」と叫ぶ。智旭は評論す。此の道理も亦講じ通じ、而且六爻を全く「臣畜君」に按じて講ずるも、甚だ精妙なり。彼は一説を獨尊せず。凡そ講じ通ずるは皆收め入る。これ本書の體例上の一箇の特點なり。
陳旻昭曰:「小畜者,以臣畜君,如文王之畜紂也。亨者,冀紂改過自新,望之之辭也。密雲不雨自我西郊者,言只因自我西郊故不能雨,怨己之德不能格君,乃自責之辭,猶所云『臣罪當誅,天王聖明』也。六四則是出羑里時,九五則是三分天下有二以服事殷之時,上九則是武王伐紂之時,故施已行而既雨。然以臣伐君,冒萬古不韙之名,故曰君子征凶。」
智旭はまた陳旻昭の言を引く。所謂小畜は、臣下を以て君主を畜養約束するにして、文王の紂王に於けるがごとし。「亨」と言うは、紂王の能く過を改め自新するを希望するにして、これ期望の辭なり。「密雲不雨,自我西郊」と言うの意思は、只だ雲は我が西郊(周は殷の西に在り)より起りたるがゆえに、雨を下すこと成らず——これは自己の德行の君主を感格する能わざるを埋怨するにして、自責の辭に屬す。韓愈《拘幽操》の寫す所の「臣罪當誅兮,天王聖明」に同じ。此の一讀法に按ずれば、六四は文王の羑里の囚より走出するの時、九五は天下三分に其の二を有してなお臣禮を以て殷商に服事するの時、上九は則ち武王の紂を伐つの時——恩施すでに推行せり。ゆえに「既雨」と言う。しかるに臣下を以て君主を討伐するは、萬古不韙の名聲を冒すを要す。ゆえに爻辭は「君子征凶」と言う。此の一説は整卦を一部の周の殷に代わるの史事に讀み、前面の觀心の説と竝存して廢せず。
彖曰:小畜,柔得位而上下應之,曰小畜。健而巽,剛中而志行,乃亨。密雲不雨,尚往也;自我西郊,施未行也。既畜矣而云小者,以在我之柔德既正,又有上下之剛應之,所以一切外難不足擾我鎮定剛決之德,反藉此以小自養也。健則無物慾之邪,巽則無躁動之失,剛中則慧與定俱,故其志得行而亨也。雲雖密而尚往,則修德不妨益進;自西郊而施未行,則取效不可欲速。
彖傳は言う。小畜卦、柔爻位を得て上下皆それと相應す。ゆえに小畜と叫ぶ。剛健にして而も謙順、剛爻中に居りて志向は施行するを得、因而亨通す。「密雲不雨」は、雲なお前に往きつつあるなり。「自我西郊」は、恩施未だ推行せざるなり。智旭は解説する。旣にすでに「畜」たれば、而もなおそれを「小」と稱するは、我の此の一邊の柔德旣に端正、また上下の剛爻それと相應する有るが故に、ゆえに一切の外來の困難皆我の鎮定剛決の德を擾亂するに足らず、反って此らの困難を借りて稍稍自己を涵養す。「健」、ゆえに物欲の邪染なし。「巽」、ゆえに躁動の過失なし。「剛中」、ゆえに智慧と禪定と倂具す——因此志向は施行するを得て亨通す。雲は濃密なりと雖も而もなお前に往きつつあるは、修德は繼續精進するを妨げざるを説明す。雲は西郊より來りて恩施未だ推行せざるは、取效は快を求むべからざるを説明す。
象曰:風行天上,小畜,君子以懿文德。鼓萬物者莫妙於風。懿文德,猶所謂「遠人不服,則修文德以來之」,舞千羽於兩階而有苗格,即是其驗,故曰「君子之德風」也。觀心,則遍用事六度等對治助開,名懿文德。
大象傳は言う。風の天上を行走するは小畜なり。君子は此に取法して自己の文德を修美す。智旭は解説する。萬物を鼓動するは、風より微妙なる莫し。「懿文德」は、卽ち《論語》の説く「遠方の人の歸服せざれば、文德を修明して彼らを招徠す」。舜は兩階の間に干羽を舞して有苗歸服せり。正に此の話の驗證なり。ゆえに《論語》は又「君子之德風」と言う——君子の德は風のごとく、風過ぎれば草伏す。若し觀心に就して言わば、則ち普く事相上の六度等等の法門を運用して對治し輔助して正觀を開顯す。これを「懿文德」と叫ぶ。此の一句點明す。小畜の畜する所は別のならず、正に十乘觀法第七乘「對治助開」の功夫なり。
初九:復自道,何其咎,吉。象曰:復自道,其義吉也。九二:牽復,吉。象曰:牽復在中,亦不自失也。九三:輿說輻,夫妻反目。象曰:夫妻反目,不能正室也。六四:有孚,血去惕出,無咎。象曰:有孚惕出,上合志也。九五:有孚孿如,富以其鄰。象曰:有孚孿如,不獨富也。上九:既雨既處,尚德載,婦貞厲,月幾望,君子征凶。象曰:既雨既處,德積載也;君子征凶,有所疑也。
以下は小畜六爻の爻辭と小象にして、智旭は彼らを一處に倂列し、然る後に統一して解説す。初九、自己の正道に回到す、何の過錯かあらん、吉。小象、自己の正道に回到するは、道理に就いて言えば吉なり。九二、牽引せられて一同に返回す、吉。小象、牽引して返回して中位に居るは、亦自己を失掉せず。九三、車輪の輻條脫落せり、夫妻反目す。小象、夫妻反目するは、家室を端正する能わざるなり。六四、誠信あり、血光の災消去し、憂懼解脫し、過錯なし。小象、誠信ありて憂懼解脫するは、上位者と心志相合するなり。九五、誠信ありて彼此牽連相繫し、能く自己の財富を以て鄰里に惠及す。小象、誠信ありて牽連相繫するは、獨自富を享けざるなり。上九、雨すでに下しすでに安處せり。是れ德行を崇尚して積累して滿載に至るなり。婦人は正を守りて危懼を知るべし。月は滿盈に接近す。君子若し出征せば則ち凶。小象、雨すでに下しすでに安處せるは、德行積累して滿載に至れるなり。君子出征すれば則ち凶なるは、心中疑慮ある所有るが故なり。
時當小畜,六爻皆有修文德以來遠人之任者也。初九剛而得正,克己復禮,天下歸之,故吉。九二剛中,與初同復,故亦得吉。九三過剛不中,恃力服人,人偏不服,故輿說輻而不能行,尚不可以齊家,況可服遠人乎。六四柔而得正,能用上賢以成其功,故惕出而無咎。九五陽剛中正,化被無疆,故能富以其鄰。上九剛而不過,又居小畜之終,如密雲之久而既雨。
智旭は易理に依って六爻を統解す。時小畜に值り、六爻皆修明文德を以て遠人を招徠するの責任を擔負す。初九は剛强にして正位を得、自己を克制して禮上に回復すること能く、天下歸心す。ゆえに吉。九二は剛强にして中に居り、初九と一同に返回す。ゆえに亦吉を得。九三は剛强を過ぎて中に居らず、力量を倚仗して人を屈服せしむれば、人は偏偏服せず。ゆえに車輪は輻を脫して走り動かず。自家をすら齊へる能わざれば、況んや遠人を招徠せんや。六四は柔順にして正位を得、上位の賢者を任用して功業を成就する能くす。ゆえに憂懼解脫して過錯なし。九五は陽剛中正にして、教化廣被無邊なり。ゆえに富を以て鄰里に惠及する能くす。上九は剛强にして分を過ぎず、また小畜の終局に處す。濃雲の積聚すること久しきがごとくして終に雨下る。
遠近皆得安處太平,此乃懿尚文德至於積滿故能如此。然在彼臣婦,宜守貞而時時自危,不可恃君有優容之德而失其分。世道至此,如月幾望,可謂圓滿無缺矣;其在君子,更不宜窮兵黷武以取凶也。
遠近の人皆太平に安處するを得るは、これ文德を修美崇尚して一直に圓滿に積累したるがゆえに、乃ちかくのごとくなる能くす。しかるに臣下・婦人の分位の上に立っては、當に正を守りて時時危に自警して、君主に寬容の雅量あるを倚仗して自己の本分を失掉すべからず——これ正に爻辭「婦貞厲」の告誡なり。世道此の歩に到れば、月の滿盈に接近するがごとく、圓滿無缺と言うべし。而して君子の立場の上に立っては、更に窮兵黷武して凶を招くを致すべからず——これ「君子征凶」の告誡なり。一卦終に成功して、最も要緊なるは反って此の兩句の刹車の語なり。
○佛法觀心釋者:修正道時,或有事障力強,須用對治助開;雖用助開,仍以正道觀慧為主。初九正智力強,故事障不能為害而復自道。九二定慧得中,故能化彼事障反為我助而不自失。九三恃其乾慧,故為事障所礙而定慧兩傷。六四善用正定以發巧慧,故血去而惕出。九五中正妙慧,體障即德,故能富以其鄰。上九定慧平等,故事障釋然解脫,如既雨既處而修德有功。夫事障因對助而排脫,必有一番輕安境界現前,名之為婦;而此輕安不可味著,味著則生上慢,自謂上同極聖,為月幾望;若信此以往,則反成大妄語之凶矣,可不戒乎。
佛法の觀心を以て六爻を解釋すれば。正道を修するの時、ある時事障の力量强盛にして、必ず「對治助開」の法門を動用せざるべからず。助開の法を用いたると雖も、依舊として正道の觀慧を以て主と爲すを要す。初九は正智の力量强し。ゆえに事障はそれを害するを得ず、因って「復自道」。九二は定慧中を持す。ゆえに事障を轉化して反って自己の助力と成して自己を失わざる能く、因って「牽復」。九三はただあの點の干枯たる「乾慧」(慧ありて定なし)を倚仗す。ゆえに事障に擋がれて定慧兩敗俱傷す。因って「輿説輻,夫妻反目」——夫妻は正に定慧を喻す。六四は正定を運用して巧慧を發起するに善し。ゆえに「血去而惕出」。九五は中正の妙慧にして、障礙の當體卽ち功徳なるを體認する能くす。ゆえに「富以其鄰」。上九は定慧持平す。ゆえに事障は渙然として解脫し、雨すでに下しすでに安處せるがごとく、修德成效有り。至って事障の對治輔助に因って排除せらるるの後は、必ず一番の「輕安」の境界現前す。これを「婦」と叫ぶ。しかるに此の份の輕安は滋味を貪著すべからず。一たび貪著すれば卽ち「增上慢」を生じ、自ら已に極果聖人と同等と以爲す。これ卽ち「月幾望」なり。若し此の念頭を信じて一路に走下去れば、反って「大妄語」(未證言證)の凶に落成す——これ修行人の最重の罪なり。何ぞ戒懼せざるべからんや。
履卦(兌下乾上)
(兌下 乾上)履虎尾,不咥人,亨。約世道,則頑民既格,上下定而為履,以說應乾,故不咥人。約佛法,則魔王歸順,化道行而可履,以慈攝暴,故不咥人。約觀心,則對治之後,須明識次位,而成真造實履。觀心即佛,如履虎尾;不起上慢,如不咥人亨也。
「兌下乾上」は卦體を標明す。卦辭は言う。老虎の尾を踏むも、老虎は人を咥えず、亨通す。「履」は踐履・行走なり。智旭はなお三層に分けて解説す。世道に就いて言わば、頑劣の百姓旣に歸化し、上下の名分安定し、于是「履」に進入す。下卦の兌は「説」(悅)にして、喜悅を以て上卦の乾に順應す。ゆえに老虎は人を咥えず。佛法に就いて言わば、魔王すでに歸順し、教化の道推行して踐履すべし。慈心を以て暴戾を攝伏す。ゆえに咥えず。觀心に就いて言わば、「對治助開」の後(卽ち上一卦小畜の功夫)に、必ず明明白白に自己の處する所の位次を認清して、始めて眞實の踐履を成就する能くす——これ正に十乘觀法の第八乘「知次位」なり。當下此の心を觀照して當體卽ち佛なれば、脚の虎尾を踏むに譬え、稍々一たび足を失すれば卽ち大妄語と成る。而して始終增上慢を起さざれば、便ち老虎の人を咥えずして亨通するに譬ゆ。「卽佛」と「不起上慢」の此の一對は、正に履卦全篇の眼目なり。
彖曰:履,柔履剛也。說而應乎乾,是以履虎尾不咥人亨。剛中上,履帝位而不疚,光明也。履之道莫善於柔,柔能勝剛,弱能勝強,故善履者雖履虎尾亦不咥人,不善履者雖履平地猶傷其足。此卦以說應乾,說即柔順之謂;臣有柔順之德,乃能使彼剛健之主中正光明,履帝位而不疚,否則不免於夬履貞厲矣。佛法釋者:以定發慧,以修合性,以始覺而欲上契本覺,以凡學聖,皆名為柔履剛。得法喜名說,悟理性名應乾;不起上慢,進趣正位,則能以修合性,處於法王尊位如九五也。
彖傳は言う。履は、柔が剛を踏むなり。喜悅して乾に順應す。ゆえに虎尾を踏んで老虎は人を咥えず、亨通す。九五は剛健中正にして、帝位に履居して心に愧疚なく、光明正大なり。(按す。底本「剛中上」、通行本は「剛中正」と作す。今は照録して改めず。)智旭は易理に依って解説する。踐履の道は柔より善きはなし。柔は能く剛に勝ち、弱は能く强に勝つ。ゆえに踐履に善き人は、卽使虎尾を踏むとも咥えられず。踐履に善からざる人は、卽使平地の上を走るとも脚を傷むるを要す。本卦は喜悅を以て乾に順應す。「説」は卽ち柔順の意思なり。臣下は柔順の德有りて、始めてあの剛健の君主をして中正光明、帝位に履居して愧疚なからしむる能くす。然らざれば卽ち九五「夬履貞厲」の偏失を免れず。佛法をもって解釋すれば、定を以て慧を發し、修德を以て性德に契合し、「始覺」(後天にして覺悟を開始する心)を以て上りて「本覺」(本来自ら具足する覺性)に契合し、凡夫の身份を以て聖人を學ぶ、此ら皆「柔履剛」と叫ぶ。法喜を得るを「説」と叫び、理性に悟入するを「應乾」と叫ぶ。增上慢を起さずして節節に正位に進趨すれば、能く修を以て性に合し、法王の尊位の上に處して、九五のごとし。
象曰:上天下澤,履,君子以辯上下,定民志。佛法釋者:深知即而常六,道不浪階,是為辯上下、定民志。初九:素履,往無咎。象曰:素履之往,獨行願也。此如伯夷叔齊之履。佛法釋者:以正慧力,深知無位次之位次,以此而往,則不起上慢矣。
大象傳は言う。上は天、下は澤、是れ履なり。君子は此に取法して上下の名分を分辨し百姓の心志を安定す。佛法をもって解釋すれば、深く「卽而常六」を明白す——當體は卽ち佛なりと雖も、行位上はなお宛然として六箇の次第あり——因って絕對に虚妄に階次を跨越するを肯んぜず。これ卽ち「辯上下、定民志」なり。「道不浪階」の四字極めて重し。道を修するは隨便に階位を僭越すべからず。初九の爻辭は言う。本色素朴を以て行じ、前往すれば過錯なし。小象傳は言う。素履して往くは、獨自に自己の志願を踐行するなり。智旭は解説する。これ伯夷・叔齊の踐履に譬ゆ——その本色を守り、首陽に餓死して改めず。佛法をもって解釋すれば、正慧の力量を以て、深くあの「位次なきの位次」を明白す——理體に就いて言えば本來階差なく、修相に就いて言えば宛然として階あり——かくのごとき見解に依って前往すれば、增上慢を生起せざらん。
九二:履道坦坦,幽人貞吉。象曰:幽人貞吉,中不自亂也。此如柳下惠、蘧伯玉之履。佛法釋者:中道定慧進趣佛果,而不自滿足,潛修密證,不求人知,故吉。
爻辭は言う。九二、行く所の道は平坦寬闊、幽居の人は正を守りて吉を得。小象傳は言う。幽人正を守りて吉を得るは、心中自ら擾亂せざるなり。智旭は解説する。これ柳下惠・蘧伯玉の踐履に譬ゆ——一は三たび黜せられて慍らず、一は年五十にして四十九年の非を知る。皆外境寬平にして內心自守の人なり。佛法をもって解釋すれば、中道の定慧を以て佛果に進趨して、然れど自ら滿足と以爲せず、暗暗に修し暗暗に證し、人の知るを求めず。ゆえに吉。此の一爻は初九と合せて看て、正に「知次位」の功夫は全く聲響なき處に在るを説明す。
六三:眇能視,跛能履,履虎尾,咥人凶,武人為于大君。象曰:眇能視,不足以有明也;跛能履,不足以與行也;咥人之凶,位不當也;武人為于大君,志剛也。此如項羽、董卓之履。佛法釋者:知性德而不知修德,如眇其一目;尚慧行而不尚行行,如跛其一足。自謂能視,而實不見正法身也;自謂能履,而實不能到彼岸也。高談佛性,反被佛性二字所害,本是鹵莽武人,妄稱祖師,其不至於墮地獄者鮮矣。問:六三為悅之主,彖辭贊其應乾而亨,爻胡貶之甚也?答:彖約兌之全體而言,爻約六三不與初二相合、自信自任而言。
爻辭は言う。六三、一眼を瞎にしてなお自ら見る能くすと以爲し、一腿を瘸えてなお自ら走る能くすと以爲す。虎尾を踏んで老虎は人を咥え、凶。武夫は大君に充當す。小象傳は言う。獨眼の視る能くするは、真に看清るに算するに足らず。跛足の行く能くするは、人と同行するに足らず。咥えらるるの凶險は、位置當を得ざるなり。武夫の大君に充當するは、心志剛愎なり。智旭は解説する。これ項羽・董卓の踐履に譬ゆ——力を恃んで妄爲して、終に覆亡に至る。佛法をもって解釋すれば、ただ本具の性德を知りて後天の修德を知らざれば、一眼を瞎にしたるに似たり。ただ觀慧の「慧行」を崇尚して事修の「行行」を崇尚せざれば、一腿を瘸えたるに似たり。自ら見る能くすと以爲すれど、其實竝びに真の法身を見ず。自ら走る能くすと以爲すれど、其實彼岸に到達する能わず。佛性を高談して、反って「佛性」の此の兩字に害せらる。本是箇の粗魯武夫にして、卻って妄自に祖師と稱す。かくのごとき人の地獄に墮ちざるは實に少なし。人あるいは問う。六三は兌卦(悅)の主爻にして、彖辭は正にそれの乾に順應して亨通するを讚美す。何ゆえに爻辭は卻って貶斥する此のごとく厲しきや。回答して曰く。彖辭は兌卦の全體に就して説くなり。爻辭は六三の初九・九二と相合せずして、一味に自信自任するに就いて説くなり——同一の爻にして、整體より看れば是れ悅、孤立より看れば是れ狂なり。
九四:履虎尾,愬愬終吉。象曰:愬愬終吉,志行也。此如周公吐握勤勞之履。佛法釋者:定慧相濟,雖未即證中道,然有進而無退矣。九五:夬履貞厲。象曰:夬履貞厲,位正當也。此如湯武反身之履,亦如堯舜危微允執之履。或云:此是誡辭,恐其為漢武也,須虛心以應柔悅之臣,乃不疚而光明耳。佛法釋者:剛健中正,決定證於佛性,從此增道損生,出沒化物,不取涅槃以自安穩矣。
九四の爻辭は言う。虎尾を踏んで、戒懼不安にして、最終吉を得。小象傳は言う。戒懼不安にして終に吉を得るは、心志施行するを得るが故なり。智旭は解説する。これ周公の「一沐三握髮,一飯三吐哺」のごとき勤勉戒懼の踐履に譬ゆ。佛法をもって解釋すれば、定と慧と互相に濟助して、未だ立時に中道を證得せずと雖も、卻って前進あるのみにして後退なし。九五の爻辭は言う。剛決に踐履し、正を守りて危厲を知れ。小象傳は言う。夬履貞厲なるは、位置正當なるが故なり。智旭は解説する。これ商湯・周武の反躬自省の踐履に譬え、亦堯舜の相傳える「人心惟危,道心惟微,惟精惟一,允執厥中」の踐履に譬ゆ。人あるいは言う。これ告誡の辭にして、彼をして漢武帝のごとく剛愎自用と成るを怕れ、必ず虛心に柔順喜悅の臣下を接納して、乃ち愧疚なく光明なり。佛法をもって解釋すれば、九五は剛健中正にして、決定に佛性を證得すること能くす。此より「增道損生」——一敗分の無明を破るごとに、道業一敗分を增長して變易生死は一敗分を減損す——出沒自在に衆生を化度して、涅槃を取證して自己の安穩を圖るを肯んぜず。
上九:視履考祥,其旋元吉。象曰:元吉在上,大有慶也。此如堯舜既薦舜禹於天,舜禹攝政,堯舜端拱無為之履。佛法釋者:果徹因源,萬善圓滿,復吾本有之性,稱吾發覺初心,故大吉也。
爻辭は言う。上九、自己一生の踐履を回顧し、その中の吉凶の徵兆を考察す。若し能く周旋反復して欠缺する所なければ、大吉。小象傳は言う。大吉にして上位に居るは、大いに福慶あるなり。智旭は解説する。これ堯の舜を、舜の禹を上天に推薦したる後、彼らをして政事を攝理せしめ、自己は端拱無爲の踐履に譬ゆ——功成りて居らず。佛法をもって解釋すれば、果地は徹底して因地の源頭に通達し、萬種の善行圓滿具足して、我本來具有の自性に回復し、恰好として我が當初覺を求めて發心せるあの一念に符合す。ゆえに大吉。「稱吾發覺初心」の一句は、正に前面《文言》の引く所の「發心畢竟二不別」と相呼應す。修行は盡頭に走り至りて、不過是れ起點に回到するのみなり。
