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周易禪解卷第二·上經之二

明 · 释智旭 · 第3巻 / 18

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

周易禪解卷第一。周易禪解卷第二。北天目道人蕅益智旭著。

以上は《周易禪解》卷第一にして、解する所は乾・坤の兩卦なり。以下卷第二に入り、解する所は上經の屯・蒙・需・訟・師・比・小畜・履の八卦にして、依舊として北天目道人蕅益智旭の撰著なり。乾坤は天地父母にして、屯以下は卽ち萬物すでに生じたる後の種種の世相に入る。智旭の解法もまた隨って「性修總綱」より「隨事觀心」に轉ず。

屯卦(震下坎上)

(震下 坎上)屯:元亨利貞,勿用有攸往,利建侯。乾坤始立,震一索而得男,為動,為雷;坎再索而得男,為陷,為險,為雲,為雨;乃萬物始生之時,出而未申之象也。始則必亨,始或不正,則終於不正矣,故元亨而利於正焉。此元亨利貞,即乾坤之元亨利貞也。乾坤全體太極,則屯亦全體太極也,而或謂乾坤二卦大、餘卦小,不亦惑乎。夫世既屯矣,儻務往以求功,只益其亂;唯隨地建侯,俾人人各歸其主,各安其生,則天下不難平定耳。楊慈湖曰:「理屯如理絲,固自有其緒;建侯,其理之緒也。」

「震下坎上」は卦體を標明す。卦辭は言う。屯卦、元・亨・利・貞。往く所あるに宜しからず、諸侯を分封するに利あり。智旭は易理に依って解説する。乾坤兩卦剛に建立せられ、乾坤交索して六子を生ず。震は乾の坤に向かって求索する第一次にして得る長男にして、動を象徵し、雷を象徵す。坎は第二次の求索にして得る中男にして、陷落を象徵し、險難を象徵し、雲を象徵し、雨を象徵す。これ正に萬物剛に生長を始むるの時、すでに頭を冒出せどなお伸展し開く能わざるの景象なり。凡そ開始あれば必ず亨通す。但だ開始若し端正ならざれば、結果もまた不正に歸す。ゆえに「元亨」と言いまた「利于貞正」と言う。此處の元亨利貞は、卽ち乾坤の元亨利貞なり。乾坤は太極の全體にして、屯卦も同じく太極の全體なり。人あるいは乾坤兩卦は大にして其餘各卦は小と以為す。豈に糊塗ならずや——此の一句は彼の六十四卦を高下に分つを反對するの一貫の主張なり。世道すでに艱屯たれば、倘若も一味前往して功業を求取せば、ただ混亂を增加せんのみ。唯に就地に諸侯を分封して、人人をして各おのが歸する所有り各おのが生を安んぜしめば、天下は平定するに難からず。彼は宋儒楊簡(號は慈湖)の言を引く。屯難を治理するは亂絲を整理するがごとし。本來自らその線頭あり。「建侯」は卽ち此の團の亂絲の線頭なり。

佛法釋者:有一劫初成之屯,有一世初生之屯,有一事初難之屯,有一念初動之屯。初成、初生、初難,姑置弗論;一念初動之屯,今當說之。蓋乾坤二卦表妙明明妙之性覺,性覺必明,妄為明覺,所謂真如不守自性,無明初動。動則必至因明立所而生妄能,成異立同,紛然難起,故名為屯。

佛法をもって解釋すれば。「屯」に四種あり。一劫剛に形成する時の屯、一生剛に出生する時の屯、一件事剛に開頭して受阻するの屯、還た一箇の念頭剛に動く時の屯。前三種は姑らく談ぜず、今講ずるは「一念初動」の屯なり。乾坤兩卦の表示するは《楞嚴經》の説く「妙明」「明妙」の性覺——本來清淨靈明の覺性なり。本覺の性は原本自明なり。しかるに衆生は偏にその上に更に一箇の「明」を加えてそれを照らさんと欲す。于是妄に一箇の能明所明の「明覺」を生ず。これ卽ち所謂「真如不守自性」にして、無明此に由りて初動す。一たび動けば、必然に「因明立所」——明照せんとするに因りて、便ち一箇の被照の對象を立出し、隨卽また一箇の能照の妄心を生出す。于是彼此異同を分出して、紛紛擾擾たり。難事此に就りて興起す。ゆえに「屯」と叫ぶ。智旭は《周易》の「萬物始生」の屯を、衆生の一念無明初起し能所對立初分する的那一刹那に讀みたり。

然不因妄動,何有修德?故曰:無明動而種智生,妄想興而涅槃現。此所以元亨而利貞也。但一念初生,既為流轉根本,故勿用有所往;有所往,則是順無明而背法性矣。惟利即於此處用智慧深觀察之,名為建侯。若以智慧觀察,則知念無生相,而當下得太平矣。觀心妙訣,孰過於此。

しかるに、若し此の一念の妄動なからんには、何處に還た修行の言うべきあらん。ゆえに曰く。無明一たび動けば、一切種智こそ生起の機會あり。妄想一たび興れば、涅槃こそ顯現の餘地あり——煩惱は正に菩提の下手處なり。これ屯卦の何ゆえにすでに「元亨」と説きまた「利貞」と説くやなり。ただ此の一念初生、すでに生死流轉の根本たれば、ゆえに「勿用有攸往」と言う。一たび往く所有れば、卽ち無明に順って法性に背離するなり。唯一利あるは、就中此の一念初動の處に於いて智慧を運用して深くそれを觀照するなり。これを「建侯」と叫ぶ——亂絲の線頭の上に下手す。若し智慧をもって觀照すること能わば、此の念頭は根本に真實の生相の得べきなきを知り、當下便ち太平を得る。觀心の妙訣、これより更要緊なるはなし。此の一段は全書の「約觀心」解法の典範にして、卦辭の每一句皆用功の次第に讀まれり。

彖曰:屯,剛柔始交而難生,動乎險中,大亨貞。雷雨之動滿盈,天造草昧,宜建侯而不寧。乾坤立而剛柔交,一索得震為雷,再索得坎為雨,非難生乎?由動故大亨,由在險中故宜貞。夫雷雨之動,本天地所以生成萬物,然方其盈滿交作時,則天運尚自草亂昧暝;諸侯之建,本聖王所以安撫萬民,然方其初建,又豈可遽謂寧貼哉。

彖傳は言う。屯卦、剛と柔と始めて交合して艱難產生し、險境の中に活動して、大いに亨通して正を守る。雷雨の鼓動は天地の間に充滿し、天の造作する一切はなお草創昏暗の中に在り。諸侯を分封するに適宜にして安逸すべからず。智旭は易理に依って解説する。乾坤すでに立ちて剛柔交合し、第一次の求索は震を得て雷と為し、第二次の求索は坎を得て雨と為す。これ正に「難生」ならずや。震の動あるがゆえに大いに亨通し、身を坎の險中に在るがゆえに正を守るに宜し。雷雨の鼓動は、本來天地の用いて萬物を生成するなり。然而るに正にそれ充滿交作の時に當りて、天運はなお草亂昏暗なり。諸侯を分封するは、本來聖王の用いて萬民を安撫するなり。然而るに正に剛剛分封の時に當りて、又ぞ馬上に天下すでに安帖と言うを得んや。

佛法釋者:無明初動為剛,因明立所為柔,既有能所,便為三種相續之因,是難生也。然此一念妄動,既是流轉初門,又即還滅關竅,惟視其所動何如耳。當此際也,三細方生,六粗頓具,故為雷雨滿盈天造草昧之象。宜急以妙觀察智重重推簡,不可坐在滅相無明窠臼之中。蓋凡做功夫人,若見雜念暫時不起,便妄認為得力,不知滅是生之窟宅,故不可守此境界,還須推破之也。

佛法をもって解釋すれば。無明の初動は「剛」、明照に因りて所照の境を立起するは「柔」なり。すでに能と所と有れば、《楞嚴經》の説く世界・衆生・業果の「三種相續」の起因と成る。これ卽ち「難生」なり。然而るに此の一念の妄動は、すでに生死流轉の第一道門なり、また正に還滅解脫の關鍵竅門なり。ただ看るに汝此の一動の上に如何に用心するかのみなり。此の一刹那に當り、《起信論》の説く「三細」(無明業相・能見相・境界相)方に生起し、「六粗」(智相・相續相・執取相・計名字相・起業相・業繫苦相)隨卽具足す。ゆえに正に「雷雨滿盈、天造草昧」の象なり。此の時に當りては趕緊に「妙觀察智」を用いて層層に推究簡別すべく、安坐して「滅相無明」の窠臼の中に在るべからず。凡そ功夫を做する者、一たび雜念の暫時に起らざるを見れば、便ち錯って自己得力せりと認め、殊に知らず「滅」は正に「生」の巢穴なり——念頭滅して無明未だ破らざれば、それ隨時に還た生起せん。ゆえに此の境界を守るべからず、還た須くこれを推翻破除すべし。これ彼の參禪人に下すの一句の極めて實在の告誡なり。

象曰:雲雷屯,君子以經綸。在器界,則有雲雷以生草木;在君子,則有經綸以自新新民。約新民論經綸,古人言之詳矣;約自新論經綸者,豎觀此心不在過現未來、出入無時,名為經;橫觀此心不在內外中間、莫知其鄉,名為綸也。

大象傳は言う。雲と雷と交作するは屯なり。君子は此に取法して經綸に從事す。「經綸」は本來絲縷を整理するを指す。直なるを經と叫び、横なるを綸と叫び、引申して天下を治理するを言う。智旭は解説する。器世間に於いては、雲と雷とに靠って草木を生長す。君子の身上に於いては、經綸に靠って自ら新たにし併せて百姓を革新す。「新民」の一面に就いて經綸を講ずれば、古人すでに説くこと甚だ詳盡なり。至って「自新」の一面に就いて經綸を講ずれば、それ卽ち——豎に此の心を觀照すれば、それ過去・現在・未來の三世の中に在らず、出入に定時なし。これを「經」と叫ぶ。横に此の心を觀照すれば、それ內に在らず、外に在らず、また中間に在らず、その所在を知らず。これを「綸」と叫ぶ。彼は治國の經綸を、直接に觀心の豎觀と横觀とに換えたり。

佛法釋者:迷於妙明明妙真性,一念無明動相即為雷,所現晦昧境界之相即為雲,從此便有三種相續,名之為屯。然善修圓頓止觀者,只須就路還家。當知一念動相即了因智慧性,其境界相即緣因福德性;於此緣了二因,豎論三止三觀名經,橫論十界百界千如名綸也。此是第一觀不思議境。

佛法をもって解釋すれば。あの妙明明妙の真性に迷失したる後、一念無明の動相は卽ち「雷」、それに由りて現出する晦暗昏昧の境界相は卽ち「雲」、從此便ち三種相續あり。これを「屯」と叫ぶ。しかるに圓頓止觀を善く修習する人は、ただ須く「就路還家」せよ——別に一條の路を找るを要せず、就中此の迷路の上に於いて轉身して家に還れ。當に知るべし。あの一念の動相當體卽ち「了因智慧性」(佛性を照了し得る智慧)にして、あの境界相當體卽ち「緣因福德性」(佛性を資助顯發し得る福德)なり。本具の「正因佛性」を連ねて、合して三因佛性と稱す。就中此の緣因・了因の二者の上に於いて、豎に三止三觀(體真止・方便隨緣止・息二邊分別止・空觀・假觀・中觀)を説くを「經」と叫び、横に十法界・百法界・千如是を説くを「綸」と叫ぶ。これ正に天台十乘觀法中の第一乘——「觀不思議境」なり。此處より起りて、智旭は始めて屯以下の諸卦を逐一十乘觀法に配せり。讀者は此の暗線を留意すべし。

初九:磐桓,利居貞,利建侯。有君德而無君位,故磐桓而利居貞;其德既盛,可為民牧,故利建侯以濟屯也。佛法釋者:一念初動,一動便覺,不隨動轉,名為磐桓,所謂不遠之復,乃善於修證者也。由其正慧為主,故如頓悟法門。

爻辭は言う。初九、徘徊して進まず、安居して正を守るに利あり、諸侯を分封するに利あり。智旭は易理に依って解説する。初九は君主の德あって君主の位なし。ゆえに徘徊して進まずして安居守正に利あり。その德すでに充盛にして、百姓の牧養者と為るべし。ゆえに彼を分封して諸侯と為して屯難を救濟するに利あり。佛法をもって解釋すれば、一箇の念頭剛に動き、一たび動けば便ち立時に覺察して、それに跟って轉ぜず。これを「磐桓」と叫ぶ。これ正に《復》卦初九の説く「不遠之復」——走出去ること遠からずして回頭するは、真に修證を善くする人なり。彼は正慧をもって主と爲すがゆえに、頓悟の法門に譬うるがごとし——層層の對治を待たず、一たび覺れば便ち了す。

象曰:雖磐桓,志行正也;以貴下賤,大得民也。磐桓不進,似無意於救世,然斯世決非強往求功者所能救,則居貞乃所以行正耳。世之屯也,由上下之情隔絕,今能以貴下賤,故雖不希望為侯,而大得民心,不得不建之矣。佛法釋者:不隨生死流,乃其隨順法性流而行於正者也;雖復頓悟法性之貴,又能不廢事功之賤,所謂以中道妙觀遍入因緣事境,故正助法門並得成就,而大得民。

小象傳は言う。徘徊して進まずと雖も、志向は正道を行ずるに在り。尊貴の身をもって卑下の位に屈居して、因って大いに民心を得。智旭は易理に依って解説する。徘徊して進まざるは、看るに救世に意なきに似たり。しかるに此の世道は、決して硬に前往して功業を求取する人の救う能くする所に非ず。ゆえに「安居守正」は恰恰として正に「行正」なり。世道の屯難なる所以は、上下の情の隔絶不通なるが故なり。今初九は尊貴の身をもって卑下に屈居すること能く、ゆえに諸侯と爲るを指望せざると雖も、卻って大いに民心を得、君上もまた彼を侯に封ぜざるを得ず。佛法をもって解釋すれば、生死の流に隨順せざるは、正に法性の流に隨順して正道を行ずるなり。すでに法性の尊貴を頓悟したると雖も、卻って事相功行の卑瑣を廢棄せざるを肯んぜず。これ卽ち所謂「中道妙觀をもって遍入因緣事境」なり。ゆえに「正行」(觀慧)と「助行」(事修)との兩方面倂せて成就し、因って「大得民」す。此處正に十乘觀法の第二乘「發眞正菩提心」の後の、事理倂進の用功之法に對す。

六二:屯如邅如,乘馬班如,匪寇婚媾,女子貞不字,十年乃字。柔德中正,上應九五,乃乘初九得民之侯,故邅如班如而不能進也。初本非寇,而二視之則以為寇矣,吾豈與寇為婚媾哉?寧守貞而不字,至於十年之久,乃能字於正應耳。吳幼清曰:「二三四在坤為數十,過坤十數,則逢五正應而許嫁矣。」佛法釋者:此如從次第禪門修證功夫。蓋以六居二,本是中正定法,但不能頓超,必備歷觀練熏修諸禪方見佛性,故為十年乃字。

爻辭は言う。六二、艱難徘徊・回旋して前せず、車馬盤旋して進まず。來るは强盜に非ずして婚を求める者なり。女子は貞を守りて嫁ぐを許さず、十年の後乃ち嫁ぐを許す。智旭は易理に依って解説する。六二は柔順中正の德ありて、上りて九五と相應す。しかるにそれ正に初九の此のすでに民心を得たる諸侯の頭上に騎りて、ゆえに徘徊盤旋して前進する能わず。初九は本來强盜に非ず。六二は卻って彼を强盜と看なし、心に念ずらく、我何ぞ强盜と親を結ぶを得んや。寧ろ貞を守りて嫁ぐを許さず、一直に十年の久しきを待ちて、始めて正應の九五に嫁ぐを得。彼は呉澄の言を引く。二・三・四爻は互いに坤卦を成し、坤の成數は十なり。坤の此の十年の數を越過せば、便ち九五の正應に遇い婚嫁を許すべし。佛法をもって解釋すれば、これ次第禪門に按じて一級一級に修證する功夫に譬ゆ。六二は陰爻をもって陰位に居りて中を得、本來中正の定法なり。ただ一步頓超する能わず、必ず「觀・練・熏・修」の四種禪法(觀禪は九想八背捨等の觀法を指し、練禪は九次第定を指し、熏禪は師子奮迅三昧を指し、修禪は超越三昧を指す)を遍歷して乃ち佛性を見ることを得。ゆえに「十年乃字」——定力正しと雖も、路は卻って遠く走るなり。

象曰:六二之難,乘剛也;十年乃字,反常也。乘剛故自成難,非初九難之也。數窮時極,乃反於常,明其不失女子之貞。佛法釋者:乘剛即是煩惱障重,故非次第深修諸禪,不足以斷惑而反歸法性之常。

小象傳は言う。六二の艱難は、それ剛爻の上に騎るが故なり。十年乃ち嫁ぐを許すは、終竟に常道に返回せんとするが故なり。智旭は解説する。正に剛爻の上に騎るがゆえに、こそ自ら艱難を招來せり。初九のそれを難しとするに非ず。數すでに窮盡し時すでに到頭するを待ちて、乃ち常道に返回す。これ六二の女子の貞節を失掉せざるを説明す。佛法をもって解釋すれば、「乘剛」は卽ち煩惱障の沈重なり。ゆえに次第に按じて深く諸種の禪定を修せざるべからず。然らざれば迷惑を斷除して法性の常道に返歸するに足らず。上の一爻は頓悟の一路、此の一爻は漸修の一路なり。智旭は偏廢せず、ただ各おのが因緣あるを指明するのみ。

六三:即鹿無虞,惟入于林中,君子幾,不如舍,往吝。欲取天下,須得賢才,譬如逐鹿須藉虞人。六三自既不中不正,又無應與,以此濟屯,屯不可濟,徒取羞耳。佛法釋者:欲修禪定,須假智慧,自無正智,又無明師良友,瞎煉盲修,則墮坑落塹不待言矣。君子知幾,寧舍蒲團之功,訪求知識為妙;若自信自恃,一味盲往,必為無聞比丘,反招墮落之吝。

爻辭は言う。六三、野鹿を追逐して虞人の引路なく、ただ一頭闖進して林子の裏に入るのみ。君子は此の苗頭を見て、捨てて追わざるに如かず。前往せば必ず憾惜あらん。「虞」は山林を掌管する官なり。智旭は易理に依って解説する。天下を取得せんと欲すれば、必ず賢才を得るを要す。鹿を追うに虞人を借助せざるべからざるがごとし。六三は自身すでに中に居らずまた正を得ず、上りて相應の援手もなし。かくのごとき條件を拿て屯難を救濟せんとすれば、屯難は救われず、徒らに自ら羞辱を取るのみなり。佛法をもって解釋すれば、禪定を修習せんと欲すれば、必ず智慧に借助せざるべからず。自己すでに正智なく、また明師良友なく、瞎練盲修せば、墮坑落塹は言うを用いず。君子は苗頭を看るを知りて、寧ろ蒲團の上の死功夫を捨下し、去りて善知識を參訪するをこそ上策と爲せ。若し一味に自信自恃して盲目に前行せば、必ず《楞嚴經》裏のあの「無聞比丘」と成らん——ただ修定を顧みて教理を聽かず、誤って四禪を四果と認め、反って墮落の憾惜を招來す。

象曰:即鹿無虞,以從禽也;君子舍之,往吝窮也。堯舜揖讓,固是有天下而不與;湯武徵誅,亦是萬不得已,為救斯民,非富天下。今六三不中不正,居下之上,假言濟屯,實貪富貴,故曰以從禽也。從禽已非聖賢安世之心,況無無應與,安得不吝且窮哉。佛法釋者:貪著味禪,名為從禽,本無菩提大志願故。

小象傳は言う。鹿を追って虞人の引路なきは、禽獸を貪逐せんとするがためなり。君子はそれを捨てたり、前往すれば必ず憾惜あって走投無路なればなり。智旭は易理に依って解説する。堯舜の禅讓は、本來天下ありても己が有と据えず。湯武の征伐誅除もまた萬不得已にして、百姓を拯救せんとするがため、天下を独り富めんとするに非ず。今六三は中に居らず正ならず、然るに下卦の上に居り、口上では屯難を救濟すると言い、實際に貪るは富貴なり。ゆえに「以從禽也」と言う。禽獸を貪って追逐するは、すでに聖賢の世道を安定するの用心に非ず。況んや上りて相應の援手なし(底本此處「无无應與」の「无」の字を重出す。今は照録して改めず)。何ぞ旣に憾惜しまた窮困せざるを得んや。佛法をもって解釈すれば、禪定の滋味を貪著するを「從禽」と叫ぶ。彼は本來菩提を求むるの大志願なきがゆえに——修行の目的錯誤せり。功夫深くなれば深くなるほど陷り遠く陷る。

六四:乘馬班如,求婚媾往,吉無不利。柔而得正,居坎之下,近於九五,進退不能自決,故乘馬而班如也。夫五雖君位,不能以貴下賤,方屯其膏;初九得民於下,實我正應,奈何不急往乎?故以吉無不利策之。佛法釋者:六四正而不中,以此定法而修,則其路迂遠難進,惟求初九之明師良友以往,則吉無不利矣。象曰:求而往,明也。佛法釋者:不恃禪定功夫,而求智慧師友,此真有決擇之明者也。

爻辭は言う。六四、車馬盤旋して進まず。婚配を求めて前往せば吉、不利なし。智旭は易理に依って解説する。六四は柔順にして正位を得、坎卦の下方に處して九五に近づけど、進退自ら決斷する能わず。ゆえに車馬盤旋す。九五は君位に居ると雖も、尊貴をもって卑下に屈居するを肯んぜず、正に恩澤を積屯して施し下さざるを肯んぜず。而して初九は下面に於いてすでに民心を得、實に我六四の正應なり。何ぞ趕緊に前往せざるや。ゆえに爻辭は「吉无不利」をもってそれを策勵す。佛法をもって解釈すれば、六四は正を得るも中に居らず、かくのごとき定法を拿て修するは路子迂迴遙遠にして精進し難し。唯に初九のごとき明師良友を求めて然る後に前往すれば、乃ち吉にして不利なきを得。小象傳は言う。求むる所有りて前往するは明智なり。佛法をもって解釈すれば、自己の禪定功夫を倚仗せず、反って智慧の師友を求むる、これぞ真に決擇の眼光ある明白の人なり。

九五:屯其膏,小貞吉,大貞凶。屯難之世,惟以貴下賤,乃能得民;今尊居正位,專應六二,膏澤何由普及乎?夫小者患不貞一,大者患不廣博,故在二則吉,在五則凶也。佛法釋者:中正之慧固可斷惑,由其早取正位,則墮聲聞辟支佛地,所以四弘膏澤不復能下於民;在小乘則速出生死而吉,在大乘則違遠菩提而凶。象曰:屯其膏,施未光也。非無小施,特不合於大道耳。

爻辭は言う。九五、恩澤を積屯して施し下さず。小事を正守すれば吉、大事を正守すれば凶。智旭は易理に依って解説する。屯難の世に於いては、唯に尊貴の身をもって卑下に屈居するを以て、民心を得るを得す。今九五は正位に尊居すれど、ただ專ら六二の一爻に應合するのみ。恩澤何ぞ普遍に施及せんや。小人物の怕るるは專一ならざるにして、大人物の怕るるは廣博ならざるなり。ゆえに同じく專一なるも、六二に於いては吉、九五に於いては凶と成る。佛法をもって解釈すれば、中正の智慧は固然として迷惑を斷除すべし。但だ彼は過早に正位を取證するがゆえに、聲聞・辟支佛の果地の上に墮落せり。于是「四弘誓願」(衆生無邊誓願度・煩惱無盡誓願斷・法門無量誓願學・佛道無上誓願成)のごとき廣大の恩澤、再び衆生に下施する能わず。小乗に於いて看れば、これ迅速に生死を出離するがゆえに吉。大乗に於いて看れば、これ菩提に背離して愈々遠く走るがゆえに凶。小象傳は言う。屯其膏とは、施與未だ光大王ならざるなり。智旭は一句を補す。完全に小さき施與なきに非ず、ただ大道に合せざるのみ。

上六:乘馬班如,泣血漣如。以陰居陰,處險之上,當屯之終,三非其應,五不足歸,而初九又甚相遠,進退無據,將安歸哉。佛法釋者:一味修於禪定,而無慧以濟之,雖高居三界之頂,不免窮空輪轉之殃,決不能斷惑出生死,故乘馬班如;八萬大劫,仍落空亡,故泣血漣如。象曰:泣血漣如,何可長也。佛法釋者:八萬大劫,究竟亦是無常。

爻辭は言う。上六、車馬盤旋して進まず、哭いて淚盡きて血を以て繼ぎ、漣漣として止まず。智旭は易理に依って解説する。上六は陰爻をもって陰位に居り、坎險の最上方に處して、正に屯難の終局に當る。六三はその正應に非ず、九五は歸附するに値せず、而して初九はまた相距ること太だ遠し。進退皆依據なく、將に何れの所にか往かん。佛法をもって解釈すれば、一味に禪定のみを修して、智慧の救濟するなく、縱使高く三界の頂の非想非非想天に住するとも、「窮空輪轉」の禍を免れず——空を盡頭に修しても、依然として輪迴の裏に打轉し、斷惑して生死を出離すること絕對に能わず。ゆえに「乘馬班如」。八萬大劫の定寿を享盡して、依舊として空亡に落墮す。ゆえに「泣血漣如」。小象傳は言う。泣血漣如、この狀況何ぞ長久ならんや。智旭は一句を補す。八萬大劫は再び長しと雖も、究竟は還た無常なり。屯卦の六爻は、一念初動の頓覺より講じて、一味修定の空亡に至る。正好として「有慧無定」「有定無慧」の兩條の歧路を皆點出せり。

蒙卦(坎下艮上)

(坎下 艮上)蒙:亨。匪我求童蒙,童蒙求我。初筮告,再三瀆,瀆則不告,利貞。再索得坎,既為險為水;三索得艮,復為止為山。遇險而止,水涵于山,皆蒙昧未開發之象也。蒙雖有蔽於物,物豈能蔽性哉,故亨。但發蒙之道,不可以我求蒙,必待童蒙求我。求者誠,則告之必達;求者瀆,則告者亦瀆矣,瀆豈發蒙之正耶。不憤不啟,不悱不發,孔子真善於訓蒙者也。

「坎下艮上」は卦體を標明す。卦辭は言う。蒙卦、亨通す。我が蒙昧の孩童を求むるに非ず、蒙昧の孩童が我を求む。初次の占問に卽ち彼に告ぐ。一再して再三問うは卽ち褻瀆なり。褻瀆すれば便ち彼に告げず。正を守るに利あり。智旭は易理に依って解説する。乾坤は第二次の求索に坎を得たり。坎は險、是水なり。第三次の求索に艮を得たり。艮は止、是山なり。險難に遇いて停止し、水は山の裏に涵蓄せらる。皆蒙昧未だ開發せられざるの景象なり。蒙昧は外物に遮蔽せらると雖も、外物何ぞ本性を遮蔽し得んや。ゆえに「亨」と言う。ただ蒙昧を啓發するの方法は、我より蒙者を求むるべからず。必ず蒙者の我を求むるを待たざるべからず。求むる人誠懇なれば、彼に告ぐれば必ず入得り。求むる人輕慢なれば、彼に告ぐる人もまた隨って輕慢せらる——輕慢は豈に蒙昧を啓發するの正途ならんや。孔子は「其の心に發悶して想通ぜざる時に到らざれば開導せず、其の言わんと欲して言い出づる能わざる時に到らざれば啓發せず」と説く。真に蒙童を教導するに善き者なり。

佛法釋者:夫心不動則已,動必有險,遇險必止,止則有反本還源之機,蒙所以有亨道也。蒙而欲亨,須賴明師良友。故凡為師友者,雖念念以教育成就為懷,然須待其求我,方成機感;又必初筮則告,方顯法之尊重;其所以告之者,又必契理契機而貞,然後可使人人為聖為佛矣。

佛法をもって解釈すれば。この心は動かざれば罷れ、一たび動けば必ず險あり(坎)。險に遇えば必ず停止し(艮)、一たび停止すれば返本還源の機會あり——これ蒙卦の亨通の道ある所以なり。蒙昧の人は亨通せんと欲すれば、必ず明師良友に依靠せざるべからず。ゆえに凡そ師友を做する者は、念念教育成就他人を懷に為すと雖も、なお須く彼の我を求むるを待ちて、乃ち「機感」を構成す——學人の根機と師長の教法と相感して然る後に相應す。鼓の人を要して敲けば響くがごとし。而且必ず初次の求問に卽ち彼に告げて、乃ち法の尊貴を顯出す。至って彼に告ぐる所の內容は、また必ず旣に眞理に契合し、また彼の根機に契合して端正無偏ならんことを要し、然る後に人人をして聖を成し佛を成さしむべし。「契理契機」の四字は智旭の說法を論ずるの定則なり。ただ理に契して機に契せざるは空談、ただ機に契して理に契せざるは媚俗なり。

彖曰:蒙,山下有險,險而止,蒙。蒙亨,以亨行時中也。匪我求童蒙,童蒙求我,志應也。初筮告,以剛中也。再三瀆,瀆則不告,瀆蒙也。蒙以養正,聖功也。山下有險,即是遇險而止,故名為蒙。蒙之所以可亨者,由有能亨人之師,善以時中行教故也。雖有善教,必待童蒙求我者,彼有感通之志然後可應,如水清方可印月也。初筮即告者,以剛而得中,故應不失機也。瀆則不告者,非是恐其瀆我,正恐瀆蒙而有損無益也。及其蒙時,即以正道養之,此聖人教化之功,令彼亦得成聖者也。

彖傳は言う。蒙卦、山下に險難あり、險に遇いて止まるは卽ち蒙なり。蒙の亨通する所以は、亨通の道をもって時宜に合う中道に行ずるが故なり。「我が童蒙を求むるに非ず、童蒙が我を求む」は、雙方の志向相應するなり。「初筮告」は、九二剛健にして中を得るが故なり。「再三瀆、瀆則不告」は、それ蒙昧者の自己を褻瀆するが故なり。正道をもって蒙昧を涵養するは、聖人を成就するの功業なり。智旭は解説する。山下に險あるは卽ち險に遇いて止まる。ゆえに蒙と叫ぶ。蒙の亨通すべき所以は、人をして亨通せしむる能くする師長ありて、「時中」に依って教化を施行するに善ければなり。好教法あると雖も、卻って必ず童蒙の我を求むるを待つのは、彼が先に感通の志願有りて然る後に回應を得るが故なり。水の必ず澄清して乃ち月を映出すがごとし。初次の占問に卽ち彼に告ぐるは、九二剛健にして中を得るがゆえに、回應時機を錯失せず。褻瀆すれば彼に告げざるは、彼の我を褻瀆するを怕るるに非ず。正に彼の自己の蒙昧の心を褻瀆して有損無益あるを怕るるなり。彼が還た蒙昧なるの時に趁りて、卽ち正道をもって彼を涵養する、これ卽ち聖人の教化の功業にして、彼をしても亦終に聖を成さしむる能くす。

象曰:山下出泉,蒙,君子以果行育德。溪澗不能留,故為果行之象;盈科而後進,故為育德之象。自既果行育德,便可為師作範矣。佛法釋者:此依不思議境而發真正菩提心也。菩提之心不可沮壞,如泉之必行;四弘廣被,如泉之潤物。

大象傳は言う。山下より泉水涌出するは蒙なり。君子は此に取法して果決に行動し德性を涵養す。智旭は解説する。泉水は溪澗をもってもそれを留め得ず。ゆえに「果行」の象——行動果決にして滯留せず。泉水は必ず一箇の坑洼を注滿して然る後に向前流る。ゆえに「育德」の象——德性を涵性を涵養して躐等せず。自己旣に果行育德すること能く、便ち人の師と爲り人の表率と爲るべし。佛法をもって解釈すれば、これは前面屯卦の觀ずる所の「不思議境」に依って眞正の菩提心を發起するにして、正に天台十乘觀法の第二乘なり。菩提の心は沮喪敗壞すべからず、泉水の必ず向前に奔流するがごとし。四弘誓願は廣く衆生に被る、泉水の萬物を滋潤するがごとし。

初六:發蒙,利用刑人,用說桎梏,以往吝。以九二上九二陽為師道,以餘四陰爻為弟子。初六以陰居下,厥蒙雖甚,而居陽位,又近九二,故有可發之機。夫蒙昧既甚,須用折伏法門,故利用刑人,所謂撲作教刑也。然既說桎梏之後,當羞愧懲艾而不出;若遽有所往,則吝矣。象曰:利用刑人,以正法也。以正法而撲作教刑,豈嗔打之謂哉。

爻辭は言う。初六、蒙昧を啓發し、刑罰を用いて人を約束して桎梏を解脫せしむるに利あり。かくのごとく前往すれば則ち憾惜あらん。智旭は解説する。本卦は九二・上九の兩箇の陽爻をもって師道と為し、其餘四箇の陰爻をもって弟子と為す。初六は陰爻をもって最下に居り、蒙昧深重なりと雖も、しかるにそれ陽位に居り、また九二に近づく。ゆえに啓發すべきの機緣あり。蒙昧旣に深重なれば、須く「折伏」の法門を用うべし——嚴厲にその惡を壓服するは、「攝受」(寬和に攝取す)と相對して、佛門教化の兩種の手段の一なり。ゆえに「利用刑人」と言う。卽ち《尚書》の説く「扑作教刑」——戒尺をもって教學の刑具と爲すなり。しかるに旣に桎梏を解脫したる後は、卽ち當に羞愧悔改し、痛く自ら懲戒して再び犯さざるべし。若し急いで前往する所有らば、則ち憾惜あらん。小象傳は言う。刑罰を用いて人を約束するに利あるは、法度を端正せんとするがためなり。智旭は一句を補す。正當の法度をもって戒尺の教を施行するは、豈に脾氣を發して人を打つの意思ならんや。

九二:包蒙吉,納婦吉,子克家。以九居二,知及之,仁能守之,師之德也。蘇眉山曰:「童蒙若無能為,然容之則足為助,拒之則所喪多矣。明不可以無蒙,猶子不可以無婦;子而無婦,不能家矣。」佛法釋者:定慧平等,自利已成,故可以包容覆育群蒙而吉;以此教授群蒙修行妙定,名納婦吉;定能生慧,慧能紹隆佛種,為子克家。婦是定,子是慧也。象曰:子克家,剛柔接也。明納婦而云子克家者,以定必發慧,慧必與定平等,而非偏也。

爻辭は言う。九二、蒙昧を包容すれば吉、媳婦を接納すれば吉、兒子は家業を撑くる能くす。智旭は易理に依って解説する。陽爻をもって二位に居り、智慧は了知するに足り、仁德は守住するに足る。これ師長の應有の德なり。彼は蘇軾の言を引く。童蒙は看るに作爲する所なきに似たり。しかるに彼を包容すれば卽ち助力と爲るに足り、彼を拒絕すれば反って損失更多なり。明白の人は蒙昧の人の襯托なくんばあるべからず、兒子の媳婦なくんばあるべからざるがごとし——兒子もし媳婦なからんには、家を成す能わず。佛法をもって解釈すれば、九二は定慧均等にして、自利の功夫すでに成就す。ゆえに衆蒙を包容覆育して吉を得る能くす。此をもって衆蒙に教授して妙定を修行せしむるを「納婦吉」と叫ぶ。定能く慧を生出し、慧能く佛の種性を紹繼光大す。卽ち「子克家」なり。此處明説す。媳婦は定を比喩し、兒子は慧を比喩す。小象傳は言う。子克家とは、剛と柔と相接するなり。智旭は解説する。明明納婦を講ずるに、卻って「子克家」と説くは、正に定は必ず慧を發出し、而して慧はまた必ず定と持平して、一邊に偏すべからざるが故なり。

六三:勿用取女,見金夫,不有躬,無攸利。以陰居陽,不中不正,乃駁雜之質,宜從上九正應處求其擊蒙之大鉗錘,方可治病;今貪九二之包容慈攝,殆如女見金夫而失節者乎。佛法釋者:不中不正,則定慧俱劣;而居陽位,又是好弄小聰明者;且在坎體之上,機械已深。若使更修禪定,必於禪中發起利使邪見,利使一發,則善根斷盡矣。象曰:勿用取女,行不順也。行不順,故須惡辣鉗錘以煆煉之,不可使其修定。

爻辭は言う。六三、この女子を娶るなかれ。彼女は有銭の男子を見れば、自らの身を顧みず、利益する所なし。智旭は易理に依って解説する。六三は陰爻をもって陽位に居り、旣に中に居らずまた正を得ず、駁雜不純の資質なり。本來上九の此の正應の處に到りて、あの蒙昧を擊破するの大鉗鎚を求めて、始めて病を治し得べし。今は卻って九二の包容慈攝を貪圖す。大概女子の闊氣男子を見て節を失うの様に似たらん。佛法をもって解釈すれば、中に居らず正ならざるは、定と慧と皆低劣なるを説明す。而して陽位に居るは、また小聰明を耍ることを愛する人なり。加うるに坎體の上に處して、心機すでに甚だ深し。かくのごとき人に若し再び彼をして禪定を修せしめば、必ず禪定の中に「利使」の邪見を發起せん——「五利使」は身見・邊見・邪見・見取見・戒禁取見の五種の知見上の煩惱を指し、來勢快利にして、一たび發作すれば善根卽ち斷盡す。小象傳は言う。この女子を娶るなかれ、彼女の行爲柔順ならざるが故なり。智旭は解説する。行爲柔順ならざれば、ゆえに必ず狠辣の鉗鎚を用いて彼を鍛鍊せざるべからず、絕對に彼をして定を修せしむべからず。

六四:困蒙吝。陰爻皆蒙象也。初可發,三可擊,五可包,惟四絕無明師良友,則終於蒙而已,可恥孰甚焉。象曰:困蒙之吝,獨遠實也。非實德之師友遠我,我自獨遠於師友耳,師友且奈之何哉。

爻辭は言う。六四、蒙昧の中に困しみ、憾惜あらん。智旭は解説する。本卦の四箇の陰爻は皆蒙昧の象なり。初六は啓發すべく、六三は痛擊すべく、六五は包容すべし。獨り六四のみ上下皆陽爻に够不着いて、完全に明師良友なく、則ち只好として終身蒙昧に到底す。還たこれより可恥なる有らんや。小象傳は言う。困蒙の憾惜は、獨りそれ實德を遠離するに在り。智旭は解説する。眞實德行の師友の我を遠離する有るに非ず、是れ我が一箇人にして師友を遠離するなり——師友は此に對して又ぞ何の辦法かあらん。此の一爻は全卦最も沈痛の一句なり。蒙昧は怕るべからず。怕るべきは自己の明師良友を躲開するなり。

六五:童蒙吉。以六居五,雖大人而不失其赤子之心,故為童蒙而吉。蓋上親上九之嚴師,下應九二之良友故也。蘇眉山曰:「六五之位尊矣,恐其不安於童蒙之分而自強於明,故教之曰童蒙吉。」象曰:童蒙之吉,順以巽也。學道之法,順則能入;設行不順,則入道無從矣。

爻辭は言う。六五、孩童のごとく蒙昧、吉。智旭は解説する。陰爻をもって五位に居り、身は大人たりと雖も、赤子の心を失わず。ゆえに「童蒙」と稱して吉を得。これはそれ上面に於いて上九の此の嚴師に親近し、下面に於いてまた九二の此の良友と相應するが故なり。彼は蘇軾の言を引く。六五の地位はすでに甚だ尊貴なり。それをして「童蒙」の本分に安んぜんことを肯んぜず、反って强を逞しくして自ら明白と以為せんことを怕る。ゆえに特地それを教えて「童蒙吉」と曰わしむ。小象傳は言う。童蒙の吉なる所以は、柔順にして謙遜なるが故なり。智旭は解説する。道を學ぶの方法は、柔順なれば卽ち入門すること能くす。假使行爲柔順ならざれば、則ち入道は談ずるに從由なし。前の一爻は師友を遠離するの害を講じ、此の一爻は尊に居りて蒙を守るを肯んずるの福を講ず。兩つ相對照す。

上九:擊蒙,不利為寇,利禦寇。陽居陰位,剛而不過,能以定慧之力擊破蒙昧之關者也。然訓蒙之道,原無實法繫綴於人,所謂「但有去翳法,別無與明法」。若欲以我法授設,則是為寇;若應病與藥,為其解粘去縛,則是禦寇也。象曰:利用禦寇,上下順也。無實法繫綴於人,則三根普接,契理契機,故上下皆順。

爻辭は言う。上九、蒙昧を痛擊す。强盜と爲るに利あらず、强盜を抵禦するに利あり。智旭は解説する。上九は陽爻をもって陰位に居り、剛强にして分を過ぎず。定慧の力を用いて蒙昧の關卡を擊破する能くす。しかるに蒙昧を訓導するの方法は、本來一箇の實在の法ありて人の身上に拴繫すべきならず。正に禪門の説くがごとし。ただ眼中の翳障を去掉するの辦法あるのみ、別にあなたに一箇の光明を給ふの辦法なし——光明は眼睛の本有なり。若し「我の法」を硬に彼に塞げんと欲すれば、則ち是れ强盜と爲るなり。若し症に對して藥を下して、彼のがために黏著を解開し束縛を去掉すること能わば、則ち是れ强盜を抵禦するなり。小象傳は言う。强盜を抵禦するに利あるは、上下皆柔順なるが故なり。智旭は解説する。實法を拿て人に拴繫せざれば、卽ち普く上・中・下の三種根機を接引し、旣に眞理に契合しまた根機に契合す。ゆえに上下皆柔順なり。此の一段は前面九二の「包蒙」と對看すべし。一攝一折、皆「實法を人に與うるなし」の此の原則を出でず。

需卦(乾下坎上)

(乾下 坎上)需:有孚,光亨貞吉,利涉大川。養蒙之法,不可欲速,類彼助苗,故必需其時節因緣。時節若到,其理自彰,但貴因真果正,故有孚則光亨而貞吉也。始雖云需,究竟能度生死大川,登於大般涅槃彼岸矣。

「乾下坎上」は卦體を標明す。卦辭は言う。需卦、誠信有り、光明亨通して正を守りて吉を得、大河を渡るに利あり。「需」は等待なり。智旭は上の一卦に承接して解説する。蒙昧を涵養するの方法は、快を求むべからず。それ《孟子》裏の苗を揠げて長を助くるの宋人のごとくならん。ゆえに必ず時節因緣を等待せざるべからず。時節一たび到れば、道理は自然に彰顯す。貴ぶ所はただ「因眞果正」に在り——種因眞實なれば、結果自然端正なり。ゆえに誠信有れば便ち光明亨通して正を守りて吉を得。開頭は「等待」と説くと雖も、最終は卻って生死の大河を渡り、大般涅槃の彼岸に登る能くす。彼は《易》の「利涉大川」を、直接に生死海を度り涅槃岸に登るに讀みたり。

彖曰:需,須也,險在前也。剛健而不陷,其義不困窮矣。需有孚光亨貞吉,位乎天位,以正中也。利涉大川,往有功也。險在前而知須,乃是剛健之德,不妄動以自陷耳,坎何嘗拒乾哉。且坎得乾之中爻,與乾合德,今九五位乎天位,素與乾孚,則乾之利涉,往必有功,可無疑矣。

彖傳は言う。需は卽ち等待にして、險難前に在るが故なり。剛健にして陷落せざれば、その義理は困窮に至らず。「需有孚、光亨貞吉」は、九五の天位に居り而且中正なるが故なり。「利涉大川」は、前往すれば必ず功效あるなり。智旭は易理に依って解説する。險難前に在りて等待を知るは、正に剛健の德——妄動して自ら陷るを致さざるのみ。坎は又ぞ何ぞ曾て真に乾を拒絕せしや。況んや坎卦の中爻は本來乾の中爻を取りて、乾と德を同じくす。今九五は天位に居り、一向に乾と孚合す。則ち乾の河を渡らんと欲するは、前往すれば必ず功あり。これ疑問なきなり。此處彼の一貫の讀法を看るべし。所謂「險」は、外來の敵人に非ずして、坎中のあの一陽は原本卽ち乾なり。

佛法釋者:譬如五百由旬險難惡道名險在前,智慧之力不被煩惱所陷,故終能度脫而不困窮。坎中一陽本即乾體,喻煩惱險道之性本如來藏;以此不生不滅之性為本修因,則從始至終無非稱性天行之位。從正因性,中中流入薩婆若海,故利涉大川,從凡至聖而有功也。

佛法をもって解釈すれば。《法華經・化城喻品》の説くあの五百由旬の險難惡道に譬ゆるがごとし。卽ち「險在前」なり。智慧の力は煩惱に陷れられず。ゆえに終竟に度脫して困窮せざるを得。坎卦の中間のあの一根の陽爻は、本來乾の本體にして、煩惱險道の體性は本來「如來藏」なるを比喩す——煩惱と佛性と竝びに兩物に非ず。此の不生不滅の體性をもって最初の修因と爲せば、則ち頭より尾に至りて、稱合本性の「天行」の位(《涅槃經》の五行の一、卽ち天然の理に依って行ず)ならざる一處なし。「正因佛性」より出發して、一路「中中流入薩婆若海」——念念中道の中に於いて一切智の大海に流向す。ゆえに「利涉大川」と言う。凡夫より聖位に至るまで皆功效あり。《楞嚴經》の不生滅性を本修因と爲すは、彼の此處の本とする所なり。因地眞ならざれば果は紆曲を招く。因地旣に眞なれば、則ち全程皆果地なり。

象曰:雲上於天,需,君子以飲食宴樂。果行育德之後,更無餘事,但飲食宴樂,任夫雲行雨施而已。佛法釋者:助道行行為飲,正道慧行為食,以稱性所起緣了二因莊嚴一性,如雲上於天之象。全性起修,全修在性,不藉劬勞肯綮修證,故名宴樂。此是善巧安心止觀,止觀不二,如飲食調適。

大象傳は言う。雲氣天に升って未だ雨と成らざるは需なり。君子は此に取法して飮食宴樂す。智旭は解説する。蒙卦の「果行育德」の後は、別の事なし。ただ飮食宴樂するのみ、雲氣の流行し雨澤の施布するに任すのみ——功夫做り到れば、成效自ら來る。焦躁する必須なし。佛法をもって解釈すれば、道業を輔助する「行行」(事修)は「飮」に譬え、正に道業を修する「慧行」(觀慧)は「食」に譬う。本性に稱合して生起せる緣因・了因の二種佛性を用いて、あの一箇の正因の性を莊嚴するは、正に雲氣の天空に升上するの象のごとし。全體本性に依って修を起こし、全部の修行また本性の外に出でず。氣力を費盡して硬骨頭を啃むがごとき修證を用いず。ゆえに「宴樂」と叫ぶ。これ正に天台十乘觀法の第三乘「善巧安心止觀」なり。止と觀と不二にして、飮と食との調配得宜するがごとし。

初九:需于郊,利用恆,無咎。溫陵郭氏云:「此如顏子之需。」佛法釋者:理即位中,不足以言需;名字位中,且宜恆以聞熏之力資其慧性,未與煩惱魔軍相戰也。象曰:需于郊,不犯難行也;利用恆無咎,未失常也。九二:需于沙,小有言,終吉。郭氏云:「此如孔子之需。」佛法釋者:觀行位中,既已伏惑,則魔軍動矣,故小有言。象曰:需于沙,衍在中也;雖小有言,以吉終也。

初九の爻辭は言う。郊野に於いて等待す。恒常を保持するに利あり、過錯會せず。智旭は溫陵郭氏の言を引く。これ顏回の等待に譬ゆ——終身仕せず、陋巷に安處す。佛法をもって解釈すれば、還た「理卽」位に在る人は、等待を談ずるに及ばず。彼は佛性あるをすら知らざればなり。「名字卽」位に到りて、始めて當に恒常に聽聞熏習の力を用いて自己の慧性を資養すべし。此の時還た煩惱魔軍と正面交戰せず。小象傳は言う。郊野に於いて等待するは、冒險行事せざるなり。恒常を保持して過錯なきに利あるは、常規を失わざるなり。九二の爻辭は言う。沙灘に於いて等待す。稍々言語の是非あり、最終吉を得。郭氏は言う。これ孔子の等待に譬ゆ——列國を周遊して屢々譏議に遭ふ。佛法をもって解釈すれば、「觀行卽」位に到りて、旣に煩惱を伏住せば、魔軍便ち驚動せらる。ゆえに「小有言」。小象傳は言う。沙灘に於いて等待するは、寬裕に中位に居るなり。稍々言語の是非あると雖も、最終吉を以て收場す。見るべし、生死の岸に離るること愈々近ければ、境界愈々多し。これ正に用功得力の徵候なり。

九三:需于泥,致寇至。郭氏云:「此如周公之需。」佛法釋者:相似位中,將渡生死大河,故有以致魔軍之來而後降之。象曰:需于泥,災在外也;自我致寇,敬慎不敗也。災既在外,故主人不迷,客不得便;但以願力使其來戰,以顯降魔成道之力,而三觀之功,敬而且慎,決無敗也。

爻辭は言う。九三、泥濘の中に於いて等待し、强盜を招來せり。郭氏は言う。これ周公の等待に譬ゆ——居攝して流言の謗に遭ふ。佛法をもって解釋すれば、「相似卽」位に到りて、將に生死大河を渡らんとす。ゆえに魔軍の前來を招致して、然る後に一擧にそれを降伏す。小象傳は言う。泥濘の中に於いて等待するは、災患還た外に在り。是れ自己の强盜を招來するなり。ただ恭敬謹愼すれば失敗せず。智旭は解説する。災患旣に外に在れば、ゆえにただ主人自ら迷失せざれば、客人は便宜を占むるに到らず——これ禪門の常に説く「主人公不迷、客塵不得便」の意思なり。修行する人は乃ち願力を以て魔軍を促使して前來交戰せしめ、降魔成道の力量を顯出せんと好む。而して空・假・中の三觀の功夫は、ただ恭敬にして而且謹愼なれば、決して失敗せず。魔の來るは壞事に非ず。來れば始めて降すべし。怕るるは自家先に亂るるなり。

六四:需于血,出自穴。郭氏云:「此如文王之需。」佛法釋者:魔軍敗衄,超然從三界穴出而成正覺矣。象曰:需于血,順以聽也。未嘗用力降魔,止是慈心三昧之力,魔軍自退,而菩提自成耳。九五:需于酒食,貞吉。郭氏云:「此如帝堯館甥之需。」佛法釋者:魔界如即佛界如,惟以定慧力莊嚴而度眾生,故為需于酒食。象曰:酒食貞吉,以中正也。

六四の爻辭は言う。血泊の中に於いて等待し、洞穴の裏より出でり。郭氏は言う。これ文王の等待に譬ゆ——羑里に囚はれて終に脫身を得。佛法をもって解釈すれば、魔軍すでに打敗せられ、于是超然として三界の此の洞穴より出でて正覺を成就す。小象傳は言う。血泊の中に於いて等待するは、柔順に聽從するなり。智旭は解説する。其實竝びに曾て力を用いて魔を降せず、ただ慈心三昧の力量にして、魔軍は自ら退去し、菩提は自然に成就す——佛は菩提樹下に於いて慈心三昧に入りて魔衆自ら散ず。正に此の意なり。九五の爻辭は言う。酒食の中に於いて等待し、正を守りて吉を得。郭氏は言う。これ帝堯の兩箇の女兒を舜に嫁がせ、賓客の禮を以て此の女婿を待つの等待に譬ゆ。佛法をもって解釋すれば、魔界の真如は卽ち佛界の真如にして、兩者無二無別なり。ただ定慧の力を以て自身を莊嚴して衆生を度化す。ゆえに「需于酒食」——從容飮食の間に於いて便ち度生なり。小象傳は言う。酒食正を守りて吉を得るは、九五中正なるが故なり。

上六:入于穴,有不速之客三人來,敬之,終吉。郭氏曰:「此如仁傑之結交五虎。」佛法釋者:不惟入佛境界,亦可入魔境界,還來三界,廣度眾生。觀三界依正因果諸法,無不現現成成即是一心三觀,故常為三界不請之友,而三界眾生有敬之者必終吉也。象曰:不速之客來,敬之終吉,雖不當位,未大失也。既同流三界,雖不當佛祖之位,而隨類可以度生。設眾生有不知而不敬者,亦與遠作得度因緣,而未大失也。

爻辭は言う。上六、洞穴に入りて、三位的請わざるに自ら來るの客人到來す。恭敬に彼らを對待せば最終吉を得。郭氏は言う。これ狄仁傑の武氏の諸人を結交して匡復を圖るに譬ゆ。佛法をもって解釋すれば、修行此に到れば、佛の境界に入る能くするのみならず、魔の境界に入るも能くす。三界の中に回到して、廣く衆生を度す。三界之內の依報(國土)正報(身心)と因果の種種の法を觀照するに、一として現現成成の「一心三觀」——空・假・中の三觀同じく一念の中に在りて、別に求むるを須いず——ならざるなし。ゆえに菩薩は常に三界衆生の「不請之友」と爲る——人の請を待たずして卽ち來たり相助く。これ正に「不速之客」の翻轉讀法なり。三界の衆生若し彼を恭敬する能くする有らば、必ず終に吉を得。小象傳は言う。不速之客到來し、恭敬に對待して終に吉を得。位置當を得ざると雖も、大きの損失なし。智旭は解説する。旣に三界と同流せば、佛祖の尊位に居らずと雖も、卻って各類衆生の形貌に隨って彼らを度化すること能くす。假使衆生の明白せず恭敬せざる有らば、それもまた彼のがために遙かに一箇の將來度を得るの因緣を結下せり。ゆえに「未大失」なり。

訟卦(坎下乾上)

(坎下 乾上)訟:有孚窒,惕中吉,終凶。利見大人,不利涉大川。天在上而水就下,上下之情不通,所以成訟。然坎本得乾中爻以為體,則跡雖違而性未嘗非一也。惕中則復性而吉,終訟則違性而凶;利見大人,所以復性也;不利涉大川,誡其逐流而違性也。

「坎下乾上」は卦體を標明す。卦辭は言う。訟卦、誠信あれど阻塞せられ、警惕して中を持すれば吉、一直に爭訟を到底すれば凶。大人を見るに利あり、大河を渡るに利あらず。智旭は易理に依って解説する。天は上に在りて水は下に向かって流る。上下の情相通ぜず。ゆえに爭訟を形成す。しかるに坎の中爻は本來乾を取る。見るべし、形迹相違すると雖も、本性は從來兩箇に非ず。心に警惕を存して中を守れば、卽ち本性に回復す。ゆえに吉。一味に官司を打到底せば、卽ち本性に違背す。ゆえに凶。「利見大人」は、用いて本性に回復するなり。「不利涉大川」は、彼を告誡して順流して下りて愈々走りて本性に背離するなからしむるなり。

佛法釋者:夫善養蒙之道,以圓頓止觀需之而已;若煩惱習強,不能無自訟之功。訟者,懺悔克責、改過遷善之謂也。有信心而被煩惱惡業所障窒,當以慚愧自惕其中而吉。若悔之不已,無善方便,則成悔蓋而終凶。宜見大人以決擇開發、斷除疑悔,不利涉於煩惱生死大川而終致陷沒也。

佛法をもって解釈すれば。蒙昧を涵養するに善き方法は、ただ圓頓止觀を用いてそれを等待するのみ(これ上一卦の需の意なり)。しかるに若し煩惱習氣强盛ならば、便ち「自訟」の功夫なくんば能わず。此處の「訟」は、人と官司を打つに非ずして、懺悔し・自己を克責し・過を改め善に遷るの意なり——此の一轉は、全卦の關鍵なり。信心ありて煩惱惡業に阻塞障蔽せらるるは、當に慚愧の心を以て自我に警惕し中道を守住すべし。ゆえに吉。若し是れ懊悔に沒了して、また好き方便法門なからば、則ち「悔蓋」に落成す——五蓋の一の掉悔蓋にして、追悔堆積して反って善心を蓋覆す。ゆえに「終凶」。此の時當に去りて大人を見て、彼に決擇開導し疑悔を斷除せしむべし。而して煩惱生死の大河に涉入するに宜しからず、最終に陷沒を致すを以てなり。見るべし、懺悔は分寸を要す。悔いざれば卽ち罪は滅せず、悔い過ぐれば則ち心は寧ならず。

彖曰:訟,上剛下險,險而健,訟。訟有孚窒惕中吉,剛來而得中也。終凶,訟不可成也。利見大人,尚中正也。不利涉大川,入于淵也。剛而無險,則不必自訟;險而無剛,則不能自訟。今處煩惱險惡窟中,而慧性勇健,所以有自訟改過之心也。所謂有孚窒惕中吉者,以剛德來復於無過之體,僅取滅罪即止,不過悔以成蓋也。所謂終凶者,悔箭入心,則成大失。

彖傳は言う。訟卦、上に剛强、下に險陷あり、旣に險にして且つ健なり。ゆえに訟と成る。「有孚窒、惕中吉」は、剛爻の來到して中位を得るが故なり。「終凶」は、爭訟は打到底すべからざるが故なり。「利見大人」は、中正を崇尚するなり。「不利涉大川」は、深淵に陷入せんとするなり。智旭は佛法を以て解説する。剛强にして險陷なからば、卽ち自訟を用いず——本來過失なし。險陷にして剛强なからば、卽ち自訟するの能力なし——過有りても改むる能わず。今は身を煩惱險惡の窟穴の中に處して、而して慧性勇猛剛健なり。ゆえにこそ自訟改過の心を生起するを得。所謂「有孚窒惕中吉」は、剛健の德を以て無過失の本體に回復し、ただ罪を滅せんを求めて便ち此に打止み、懊悔過頭して悔蓋と成るに至らざるなり。所謂「終凶」は、《遺教經》の所謂「悔箭入心」——追悔は箭の心に扎さるがごとく、則ち大きの損失と成るを説くなり。

故不可使其成也。所謂利見大人者,中正之德有以決疑而出罪也;所謂不利涉大川者,心垢未淨而入生死海中,必至墮落而不出也。約觀心者,修慧行名見大人,修禪定名涉大川。需約無過之人,故可習定;訟約有過之人,習定則發魔事也。

ゆえに此の份の追悔をして坐大せしむべからず。所謂「利見大人」は、中正の德は能く彼のがために疑惑を決斷し罪咎を脫出せしむるを説くなり。所謂「不利涉大川」は、心中垢穢未だ洗淨ならざるに闖進して生死大海に入らば、必ず墮落して出來ざるを説くなり。若し「觀心」の一路に就いて言わば、觀慧の行を修するを「見大人」と叫び、禪定を修するを「涉大川」と叫ぶ。需卦の講ずるは過失なき人にして、ゆえに禪定を修習すべし。訟卦の講ずるは過失ある人にして、罪垢を帶びて定を修せば、反って魔事を引發せん。此の一句は學人に給ふの實際の告誡なり。懺悔未だ淨ならざる前は、急いで定に入るに宜しからず。

象曰:天與水違行,訟,君子以作事謀始。天亦太極,水亦太極,性本無違;天一生水,亦未嘗違。而今隨虛妄相,則一上一下,其行相違,所謂意欲潔而偏染者也。只因介爾一念不能慎始,致使從性所起煩惱,其習漸強而違於性,故君子必慎其獨,謹於一事一念之始,而不使其滋延難治,夫是之謂善於自訟者也。佛法釋者:是破法遍,謂四性簡責,知本無生。

大象傳は言う。天と水との運行方向相違背するは訟なり。君子は此に取法して事を做すの初めに於いて先に謀劃を清楚せよ。智旭は解説する。天もまた太極、水もまた太極にして、本性上竝びに違背なし。《河圖》は「天一生水」と説き、亦曾て相違せず。しかるに今は虚妄の相に隨って、一は上に在り、一は下に在りて、運行の方向便ち相違せり。これ正に所謂「本想潔淨、偏偏染污」なり。ただ微細の「介爾一念」(極めて微弱の一念)の能く初めに愼むを得ざるが為に、本性の上より生起せる煩惱習氣をして逐漸に强盛にして本性に違背せしむ。ゆえに君子は必ず「愼獨」せよ。每一事・每一念頭の剛に頭を起こすの時に於いて謹愼して、それをして蔓延して整治し難きに至らしめず——これをこそ自訟するに善き人と叫ぶ。佛法をもって解釈すれば、これは天台十乘觀法の第四乘「破法遍」にして、卽ち「四性簡責」の辦法を用い——一念心の究竟是れ自生・他生・共生・還は無因生を推檢し、四頭皆推出せず——從ってその本來無生なるを知るなり。念旣に無生なれば、訟は何處より起らんや。

初六:不永所事,小有言,終吉。大凡善貴剛進,惡宜柔退。初六柔退,故為惡未成,改悔亦易,不過小有言而已。此如佛法中作法懺也。象曰:不永所事,訟不可長也;雖小有言,其辯明也。

爻辭は言う。初六、此の場の爭訟を長く拖せず、稍々言語の是非あり、最終吉を得。智旭は解説する。大凡善を爲すは剛强精進を貴び、惡を爲すは則ち柔弱退縮に宜し。初六は柔弱にして退縮す。ゆえに惡は還た造成せられず、改悔も亦容易なり。不過是れ稍々言語の是非あるのみなり。これ佛門中の「作法懺」に譬ゆ——律制の作法に依って、僧衆の前に發露悔過するは、三種懺法中の最も淺き一種にして、專ら輕罪を懺す。小象傳は言う。此の場の爭訟を長く拖せざるは、爭訟は長久すべからざるが故なり。稍々言語の是非あると雖も、是非は終竟に辨明せらん。

九二:不克訟,歸而逋,其邑人三百戶,無眚。剛而不正,不能自克以至於訟;然犯過既重,何能無損?但可逋逃,處於卑約,庶免災耳。此如佛法中,比丘犯戒,退作與學沙彌者也。象曰:不克訟,歸逋竄也;自下訟上,患至掇也。佛法釋者:自既犯戒而居下流,欲以小小懺悔而復上位,罪必不滅,且亂法門矣。

爻辭は言う。九二、爭訟打ち赢たず、回來して逃避す。彼の采邑はただ三百戸人家あり、災禍なし。智旭は解説する。九二は剛强にして正を得ず、自己を克制して訟を致すに至る能わず。しかるに犯す所の過失旣に重し。何ぞ損失なからんや。ただ逃避して、卑下儉約の地に屈居して、始めて勉强災禍を免るるを得。これ佛門中比丘の重戒を犯して、降せられて「與學沙彌」に充當するに譬ゆ——重戒を犯したる後僧團の羯磨を經て、沙彌の位に退居して衆に隨って法を學び、戒を學ぶの資格を保留して比丘の名分を失ふなり。小象傳は言う。爭訟打ち赢たざるは、回來して逃竄するなり。下位を以て上位と爭訟するは、禍患は自己の招來するなり。佛法をもって解釈すれば、自己旣に戒を犯して下流に居るに、卻って一點一點點の懺悔を以て原來の位次を恢復せんと用いるは、罪は必ず滅えず、而且法門をも攪亂せり。

六三:食舊德,貞厲終吉,或從王事,無成。六三陰柔,不敢為惡,但謹守常規,小心翼翼,故得終吉;然是硜硜之士,恐不足以成大事也。象曰:食舊德,從上吉也。自立則不能,附人則仍吉,所謂「倚松之葛,上聳千尋」也。佛法釋者:雖非大乘法門,若開權顯實,則彼所行亦即是菩薩道,故必從上乘圓頓之解方吉。

爻辭は言う。六三、舊有の德業を享用し、正を守りて危懼を知り、最終吉を得。あるいは君王の事業に從い、成功に居らず。智旭は解説する。六三は陰柔にして、惡を爲すを敢えてせず、ただ常規を謹守して小心翼翼とす。ゆえに終吉を得。しかるにこれただ《論語》の説く「硜硜然小人哉」のごとき固執守小の士人にして、大事を成就するに足らざるを恐る。小象傳は言う。舊德を享用するは、上位者に從って吉を得るなり。智旭は解説する。彼に自立せよと要すれば做り到る能わず。他人に依附すれば反って依舊として吉を得。これ卽ち所謂「松樹の上に倚りたる葛藤、亦高く千尋を聳がゆ」なり。佛法をもって解釈すれば、これは大乗法門に非ずと雖も、しかるに若し「開權顯實」——權巧の教を開除して眞實の義を顯露せば——能く、則ち彼の行ずる所も卽ち菩薩道なり。ゆえに必ず上乘圓頓の見解に從って、始めて吉を得。

九四:不克訟,復即命,渝安貞,吉。九四亦是不正之剛,故不能自克以至於訟;然居乾體,則改悔力強,故能復歸無過,而悟性命淵微之體,是則反常合道,猶佛法中因取相懺而悟無生者也。象曰:復即命,渝安貞,不失也。

爻辭は言う。九四、爭訟打ち赢たず、回頭して天命に就着し、態度を改變して正を守るに安んじ、吉。智旭は解説する。九四も亦正位を得ざる剛爻なり。ゆえに自己を克制して訟を致すに至る能わず。しかるにそれ乾の卦體の中に處して、過を改め悟を悔いるの力量强し。ゆえに過失なきの地位に回復し、并且性命深微の本體を領悟する能くす。これ卽ち所謂「反常合道」——先に常軌に違うて終に正道に歸するにして、佛門中の「取相懺」に依って無生に悟入する人に譬ゆ。三種懺法の中、作法懺は最も淺し。取相懺は禮拜觀想に靠って瑞相を感得して罪を滅するを以て、最も深きは無生懺——罪性の本來空なるを觀ず。取相懺に由って無生を悟るは、正に事懺より理懺に透進するなり。小象傳は言う。回頭して天命に就着し、態度を改變して正を守るに安んずるは、正道を失わざるなり。

九五:訟元吉。剛健中正,有不善未嘗不知,知之未嘗復行,乃至小罪恆懷大懼而不敢犯,大善而吉之道也。佛法,則性業遮業,三千八萬,無不清淨者矣。象曰:訟元吉,以中正也。

爻辭は言う。九五、爭訟を處理し、大吉。智旭は解説する。九五は剛健中正にして、正に《繫辭傳》の顏回を稱許するあの一句「有不善未嘗不知、知之未嘗復行」——不善有れば未だ嘗て自覺せざるなく、一たび自覺すれば再び重犯せず。乃至極小の罪過に對しても常に極大の畏懼を懷きて冒犯するを敢えてせず。これ最善にして吉を得るの道なり。佛法を以て言わば、則ち「性業」(本身卽ち惡の行爲、殺盗淫妄のごとき)と「遮業」(本身惡に非ざるも佛の防患を爲に遮止する行爲、飮酒のごとき)の兩類の戒、および三千威儀・八萬細行、一と爲淸淨ならざるなし。小象傳は言う。爭訟を處理して大吉なるは、九五中正なるが故なり。此の一爻は全卦の正面の標準なり。真の「善訟」は、自己が自己と眞較して極細微の處に至るなり。

上九:或錫之鞶帶,終朝三褫之。過極之剛,不中不正,數數犯過,數數改悔。就改悔處,薄有慚愧之衣,猶如鞶帶;就屢犯處,更無一日清淨,猶如三褫也。象曰:以訟受服,亦不足敬也。有過而改,名為慚愧,已不若無過之足敬矣,又何必至三褫而後為恥哉?此甚誡人不可輒犯過也。

爻辭は言う。上九、あるいは彼に一條の大帶を賜與すれど、一箇の早上に於いて卽ち三次を以て剝奪せらる。智旭は解説する。上九は剛强頭を過ぐり、旣に中に居らずまた正を得ず、屢々過を犯し、また屢々悔を改む。彼の悔を改むる此の一面に就いて言わば、勉强に還た一件の薄薄たる慚愧の衣を披着するが、あの大帶に譬ゆ。彼の屢々犯す此の一面に就いて言わば、一日として淸淨なるなく、一日之內に三次剝奪せらるるに譬ゆ。小象傳は言う。爭訟に靠って得たるの服飾は、尊敬するに値せず。智旭は解説する。過失ありて改むる能くするを慚愧と叫ぶ。しかるにこれすでに根本に過失なきの來る可尊敬に及ばず。又ぞ何を須いて一日三奪を待ちて始めて羞恥を覺えんや。これ極力に人を告誡して輕易に過を犯すべからざるを以てなり——過を改むる固然として貴ぶべし。しかるに犯さざるはこそ上策なり。

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