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焦氏易詁 巻一

清 · 尚秉和 · 第1巻 / 15

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

前漢の易学は後漢に至り失伝した

易経易学典籍

術数への応用を目指すなら、まず六十四卦の卦爻辞と《説卦伝》の取象に親しむ。義理を目指すなら《繋辞伝》から入るのがよい。

行唐尚秉和節之撰

本巻は行唐(現在の河北省行唐県)の人・尚秉和の撰述で、尚氏の字は「節之」である。

自序

悲哉,《易》之為書也!自東漢迄今,幾兩千年,總九經之注,不如《易》一經之多,而《易》義之晦自若也,誤解相承如故也。李剛主曰:「《易》二千年在漆室中。」真信心之言哉!蓋《易》之為書,義盡在經中,說皆在經外。如內外應予、卦位貴賤、陽升陰降、陽順陰逆、乾貞子、左行陽時六、坤貞未、右行陰時六等說,經傳皆不詳也。倘《乾鑿度》不言之,後人如何各大之?

悲しいかな、《周易》という書物よ!後漢から今日までほぼ二千年、九経の注釈をすべて合わせても《周易》一経の注釈の数には及ばない。それなのに《易》の義理は依然として晦むばかりで、先人の誤解もそのまま代々受け継がれてきた。李塨(字は剛主)は「《易》は二千年間、漆黒の部屋に閉じ込められてきた」と言ったが、まことに心からの実言である。そもそも《周易》という書は、義理はすべて経文の内にあり、それを読み通すための「易説」はすべて経文の外にある。内卦・外卦の相応、卦位の貴賤の区別、陽爻が上昇し陰爻が下降すること、陽は順行し陰は逆行すること、および「乾は子に貞し、左行して陽の時六辰を歴る」「坤は未に貞し、右行して陰の時六辰を歴る」といった説は、経文にも《易伝》にも明らかにされていない。もし《易緯・乾鑿度》がこれらを記していなかったら、後人は何によって推し求めることができただろうか。

又如互卦,如干南,倘《左氏》不言,可竟襄助其無矣。又如旁通,如覆象,《左氏》雖言之,乃至東漢,口傳一失,遂知之不真,並《左氏》而誤解矣。由是而推之,卦象如震車、震旗、震姬、震射、震威、震殺、艮言、艮鳥、坎眾等象,並見於《左氏》內外傳,後儒失其義,而竟疑此象矣。其餘所未言而象之遺失者,不知凡幾也。夫易說易象,解《易》之根本也。觀春秋人說《易》,無一字不本於象,其重可知。失其說,亡其象,而強詁之,不猶瞽者之辨黑白、聾者之聽音聲乎?必無當矣。

また互体の卦、また「乾が南に在る」という先天卦位についても、もし《左伝》が言及しなかったなら、後人は古来そんな説はないと言い切ったであろう。また旁通(二つの卦の六爻の陰陽がすべて反転して互いに通じること)や覆象(一つの卦を上下ひっくり返して別の卦となること)についても、《左伝》は確かに用いていたが、後漢になると師弟の口伝が一旦断たれ、人々ははっきり知らなくなり、《左伝》の本文まで併せて誤解してしまった。このことから類推すると、震を車とする、震を旗とする、震を姫(女子)とする、震を射とする、震を威とする、震を殺とする、艮を言とする、艮を鳥とする、そして坎を衆とするといった卦象は、いずれも《左伝》と《国語》(すなわち左氏の内伝・外伝)に見えるが、後の儒者はその義訓を失い、かえってこれらの象が虚構であると疑うに至った。左氏が言及しなかったために既に亡佚した卦象については、なおさらどれほどあるか分からない。そもそも「易説」と「易象」こそ《易》を解く根本である。春秋時代の人が《易》を説くのを見ると、一字として卦象に拠らないものがなく、象の重さはこれで分かる。易説を失い易象を亡くしながら、強いて経文を訓解しようとするのは、盲人に白黒を分けさせ、聾者に音声を聴かせるようなものではないか。必ず要点に合致しない。

今日之易說,東漢人之易說也。西漢所遺,皆零詞斷句,不能會其通,獨焦氏《易林》尚為完書,乃歴代學者皆以占辭視之。餘獨以為焦氏林詞多至四千餘,其必有物焉以主其詞;不然,以一卦為六十四詞,雖善者不能也。乃日夜覃精而求其故,求之既久,然後知其本於易象。其深者雖不能盡通,淺者遂得其八九。乃昔人為之注者,祗釋其故事、地名、人名,及草木禽獸蟲魚之名,無釋及卦象者。今既稍有所通,遂卽其通者而詳註之。

今日通行している易説は、実は後漢人の易説にすぎない。前漢に遺されたものはみな断片的な詞句で、完全な義例に貫通させることができない。ただ焦延寿の《焦氏易林》だけが完書と言えるが、歴代の学者は皆それを占いの繇辞として見なしてきた。私は焦氏の林辞は四千余条にも及ぶので、その中に必ずこれらの辞を主宰する何かがあるはずだと考えた。さもなければ、一卦に六十四条の繇辞を配するなど、どんなに文に長けた者でもできることではない。そこで日夜苦心してその理由を探求し、求めること久しくして、やっと林辞がすべて易象に本づくことを悟った。その深奥なものは尽く通じられないが、浅近なものはすでに八九分を領会できた。昔《易林》に注を施した人々は、ただその故事・地名・人名および草木鳥獣虫魚の名目を解釈するだけで、卦象から説き明かした者はいなかった。今や私はやや通ずるところがあるので、すでに読み通せた部分について逐条詳しく注解した。

注之既久,兼得其易說;又久之,而知焦氏之易象易說,為東漢所無。於是由其說以解《易》,凡李剛主所謂二千年漆室者,往往復明;復由其說以解《左傳》,凡服虔?杜預所不解或誤解者,象皆有著。乃恍然於易說易象至東漢頗失其傳,東漢人之誤解有由也。閒常輯《易林》之說《易》者,次而編之,名曰《焦氏易詁》。有焦氏直說者,有焦氏未言、由其例以推得者,凡得十卷。

注を重ねるうちに、ついでに焦氏の易説にも悟りを得、さらに久しくなって、焦氏の用いる易象と易説はいずれも後漢人にはなかったものだと知った。そこで焦氏の説をもって《周易》を解くと、李塨の言う「二千年の漆黒の部屋」は往々にして豁然と再び明るくなり、さらに焦氏の説をもって《左伝》を解くと、服虔・杜預が解けなかったり解き誤ったりした箇所にも、卦象の落ち着きどころができた。ここに至ってようやく悟った。易説・易象は後漢において大半が失伝しており、後漢人が誤解したのには理由があったのだ。閑居の折、私は常に《易林》のうち《易》を説くに足る部分を輯録して順序立てて編み、《焦氏易詁》と題した。その中には焦延寿が直接言い表したものもあり、焦氏が明言しなかったが彼の義例によって推し求めて得たものもあり、全部で十巻を成した。

其間如「利涉大川」、「鶴嗚子和」、「有言」等解,及坤水、兌月等象,雖起東漢人質之,亦不得不謂焦氏之是,而悟己之非也。於是又頗雜採東漢以來名家易說,與焦說並列,以顯其得失,以較其短長。噫!以二千年之舊解而忽疑其誤,以數百年已熄之先天象而忽謂其復然,無乃駭眾。雖然,焦氏之書固在也,焦氏之說固如斯也。世之君子,倘有同好,請繹其言。

書中の「利渉大川」「鶴鳴子和」「有言」といった解釈、および「坤為水」「兌為月」といった卦象は、たとえ後漢の学者を復生させて問い詰めても、彼らは焦延寿が正しかったと認めざるを得ず、自分の誤りに気づくであろう。そこで私はさらに後漢以来の諸名家の易説を広く採録し、焦氏の説と並べて掲げ、互いの得失を顕し、彼此の短長を比較するようにした。ああ!二千年にわたって踏襲されてきた旧解を、にわかに誤りではないかと疑い、数百年前にすでに打ち消されていた先天卦象を、にわかに再び成立すると言い立てるのは、おそらく衆人を驚かすことになるだろう。とはいえ、焦氏の書は結局残っており、焦氏の説も結局この通りである。世の君子で、もし私と好みを同じくする方があれば、どうかこれらの言葉を細かく尋ね繹ねていただきたい。

焦易の淵源

西漢易學,得孔子嫡傳者三家,施、孟、梁邱是也。三家之學,同祖丁將軍寬。寬既從田何受《易》畢,復歸洛陽,從周王孫受古義。古義者,非孔氏《十翼》,蓋卽許慎所謂秘書、汲冡古《易》,但有陰陽秘書者是也,卽陰陽災變之學也。後高相專以陰陽災變說《易》,自言出於丁將軍,是其證。

前漢の易学で孔子の嫡伝を得たものは全部で三家あり、施讐・孟喜・梁丘賀である。三家の学は同じく丁寛に出る(丁寛は梁孝王の将軍を務めたので「丁将軍」と称する)。丁寛は田何の門下で《易》を学び終えた後、再び洛陽に戻り、周王孫に従って「古義」を学んだ。いわゆる「古義」とは、孔門の《十翼》ではなく、許慎のいう「秘書」、および汲塚から出た古本《易》――「ただ陰陽があるのみ」の秘書、すなわち陰陽災変の学である。後に高相がもっぱら陰陽災変をもって《易》を説き、自ら丁将軍に伝わったと称したのは、その明証である。

三家之學皆同,獨孟喜能候陰陽災變,自謂田生將死時枕喜膝受之,而施讎、梁邱賀皆不能。時賀已為少府侍中,貴幸,而喜獨能畢傳師業,名最高,故賀甚嫉之,既疏證喜言之詐,復譛之於帝,使有改師法之嫌。豈知賀謂喜言為詐,賀所謂田生絕於施讎手中者,其言尤詐乎?設田生果絕於施讎手中,喜安肯刺謬如此。蓋西漢經師,以有利祿故,每爭名,相傾軋以求勝,不獨易家也。

三家の学ぶところは本来同じだったが、ただ孟喜だけが陰陽災変の占候ができ、師の田王孫が臨終の際に彼の膝を枕として自ら伝授したのだと自称した。施讐・梁丘賀にはそれができなかった。当時梁丘賀はすでに少府・侍中の官に至り尊貴で寵遇されていたのに、孟喜はひとり師門の業を完全に継承して名声が最も高かったので、梁丘賀は彼を深く嫉妬し憎んだ。まず条々に証拠を挙げて孟喜の言は偽造だとし、また皇帝に讒言して孟喜に「師法を改易した」という嫌疑を負わせた。ところが梁丘賀が孟喜の言を偽造だというなら、梁丘賀自身の言う「田王孫は施讐の手中で死んだ」という言はなおさら偽ではないか。もし田王孫が果たして施讐の手で死んだのなら、孟喜はどうしてこのように明白に矛盾する嘘をでっち上げようとするだろうか。おおよそ前漢の経師は利禄を得られるため常に名を争い、互いに傾軋して勝とうとしたのであり、《易》を治める一家だけがそうだったのではない。

由此觀之,三家之《易》,獨孟喜兼明陰陽,不墜師法,而焦延壽則問《易》於孟喜者也,故延壽亦兼明陰陽災變。其白生、翟牧不肯焦、京為孟學者,仍經師嫉妬之私;史謂延壽得隱士之說者,仍施、梁二家解嘲之語。蓋自孔子傳《易》,六傳而至田何,七傳而至丁將軍。丁將軍既從田何受《易》,復從周王孫受古義,周王孫百他,仍田何弟子也。然則陰陽災變之學,皆出自孔門,為傳《易》者所必學,其淵源可謂明悉矣。

これから見るに、三家の《易》学のうち、ただ孟喜だけが陰陽災変を兼ねて通じ、師法を失わなかった。そして焦延寿はまさに孟喜に《易》を問うた人であるから、焦延寿もまた陰陽災変を兼ねて通じた。白光(白生)・翟牧がともに孟喜の弟子でありながら、焦延寿・京房の伝えたものが孟氏の学であることを認めようとしなかったのは、やはり経師同士が互いに嫉む私心に出たものである。史書が焦延寿の《易》はある隠士から得たと言うのも、やはり施・梁両家が自らを慰め解く言葉である。そもそも孔子が《易》を伝えてから数えて、六代伝わって田何に至り、七代伝わって丁寛に至った。丁寛は田何から《易》を受けただけでなく、また周王孫から「古義」を受けた。周王孫その人(「百他」の二字は脱誤の疑いがある)も同じく田何門下の弟子である。このようである以上、陰陽災変の学はみな孔門の一脈から出たのであり、《易》を伝える人の必須の課業であった。その源流は十分明確に説明できる。

徒以施、梁二家未得其全,遂謂孟喜陰陽之學非出自丁、田,更疑延壽易學非出自孟氏,豈知皆施、梁二家徒黨之誣詞哉。總之,陰陽災變之學,由丁寬證之,其源皆出於孔氏。後三家惟孟喜為能兼明,三家後惟焦、京能傳孟學,故京氏巍然為三家後第一大家,得立於學官。彼高相者,得丁將軍一體耳,非其倫也。

ただ施・梁両家が孟氏の学の全貌を得なかったために、孟喜の陰陽の学は丁寛・田何から出たものではないと言い、さらに焦延寿の易学が孟喜に出ないと疑った。しかしこれらはみな施・梁両家の門徒の誣蔑の言葉である。要するに陰陽災変の学は、丁寛の師承をもって照合すれば、その源がみな孔門に出ることが分かる。三家のうちただ孟喜のみが兼ねて通じることができ、三家以後はただ焦延寿・京房のみが孟氏の学を伝えることができた。だから京房は巍然として三家以後の第一の大家となり、学官に立つことを得た。高相について言えば、丁将軍の学の一支一体を得たにすぎず、彼らと同日に論ずることはできない。

前漢の易学は後漢に至り失伝した

秦禁書,獨不及於《易》,故其傳授永不絕。至田何,去孔子六世耳,故西漢易說,較東漢尤珍。乃至漢末,西京《易》存者,祗孟、京二家,有書無師,莫能傳習。鄭康成初習京氏,後棄去,學費氏,苦無師也。費直專以孔傳說《易》,無師可通也。王弼《易》之能風行晉唐者,亦以此。吳虞翻自謂世傳孟氏《易》,然焦延壽,學孟者也,焦氏所說易象,翻多不知,世傳孟《易》之言,果可信乎?至京氏,更無人道及,其餘無書者,更無論已。於是三家之學,至東漢嶄然齊亡。

秦代に書を焚いたが、ただ《周易》には及ばなかったので、《易》の伝授は終始断絶しなかった。田何に伝わるまで孔子からわずか六代だったので、前漢の易説は後漢のものよりも貴重である。ところが漢末になると、西京の《易》学でなお存したのは孟喜・京房の両家だけで、書はあっても師がなく、伝習できる者がいなかった。鄭玄(字は康成)ははじめ京氏《易》を学んだが、後に棄てて学ばず、改めて費直の《易》を学んだのは、まさに師がないことに苦しんだためである。費直がもっぱら孔子の《十翼》で《易》を説いたのも、承くべき師がなかったためである。王弼の《易》注が晋・唐に流行できた原因も同じくここにある。呉人の虞翻は家に代々孟氏《易》が伝わると自称したが、しかし焦延寿は孟氏を学んだ人であり、焦氏の用いる易象を虞翻は大半解さなかった。それなら「世々孟氏易を伝える」という言は果たして信じられるだろうか。京氏の学に至ってはさらに言い及ぶ者もなく、その他は書さえ亡んでしまったのだから言うまでもない。こうして三家の学は後漢になると一斉に断絶した。

易說既亡,於是「射其元王中厥目」,《左氏》言先天象,杜預不知所謂,而不釋無與王之象矣。《左氏》以艮為言,以讒釋《明夷》之「有言」,杜預不知艮為覆震,震為言,又不知《謙》初至五,正反兩震言相背為讒,離正反兩兌口相對為「有言」,純用覆象,而誤解矣。其時服、賈之注皆在,可見此等晚說之失傳,自東漢已然,不始於杜預也。

易説がすでに亡失したので、《左伝》の「その元を射、王その目を中る」といった記載はもはや解釈の手がかりがなくなった。《左伝》の用いるものは本来先天卦象であり、杜預はそれが何を指すかを明らかにせず、「元」(首)と「王」の取象さえ解釈できなかった。《左伝》は艮を言語とし、「讒」をもって《明夷》の「有言」を解釈したが、杜預は艮が震の覆象(震卦を倒転すれば艮となる)であり、震が言であることを知らなかった。また《謙》卦の初爻から五爻までの間に一正一反二つの震を含み、二つの「言」が互いに背くので「讒」となることも知らなかった。《明夷》の下体の離の中に正反二つの兌を含み、二つの「口」が互いに対するので「有言」となる――これらは純粋に覆象を用いているのに、杜預はそのために解き誤った。杜預の時代には服虔・賈逵の旧注がまだ残っていたので、この種の易説の失伝は後漢からすでにそうであったのであり、杜預から始まったのではない。

今日に居って前漢の易詁を求めるには、ただ《焦氏易林》があるのみ

西漢《易》雖可貴,無如其書皆亡,見存者,祗《京易傳》三卷,及焦氏《易林》。《易傳》為為殘缺之餘,且專演八宮世應,乃易學之一端,蓋與丁將軍所學之古義、孟喜兼明之陰陽災變同,非專門詁《易》之書也。

前漢の《易》学は貴重だが、あいにく当時の書はみな亡佚し、現存するのは《京氏易伝》三巻と《焦氏易林》だけである。《京氏易伝》自体すでに残欠の余であり、しかももっぱら八宮世応の法を講じるので、易学の一つの支派にすぎない。おおよそ丁寛の学んだ「古義」や孟喜の兼ね通じた陰陽災変と同じ類に属し、《周易》を専門に訓解する書ではない。

焦氏《易林》,二千年來,無有通其義者。唐王俞云:「言近指遠,易識難詳。」馬端臨曰:「《易林》總四千九十六卦,各為韻語,與《左傳》『鳳凰于飛,和鳴鏘鏘』、《漢書》『大橫庚庚,子為天王』之語,絕相類。豈古之占人,各有此等詞耶?莫可考也。」豈知《易》卦辭亦占辭也,而《易》之卦辭無一不根於象;《易林》繇辭多至四千餘,亦豈能離象造辭。知《易林》繇辭無一字不根於象,則《易林》之辭必於《易》有關矣。

《焦氏易林》は二千年間、その義理を通じた人がいなかった。唐人の王兪はそれを「言は近く指は遠く、識り易く詳しくし難し」と言った。馬端臨は言う。《易林》は全部で四千九十六卦あり、卦ごとに一段の韻語を繫げ、《左伝》の「鳳凰于飛、和鳴鏘鏘」、《漢書》の「大横庚庚、子為天王」といった類の言葉と非常によく似ている。もしかすると古代の占人はそれぞれこのような繇辞を持っていたのだろうか。もはや考証のしようがない、と。しかし《周易》の卦爻辞も本来占辞であり、しかも《周易》の卦爻辞で卦象に根づかないものは一条もない。《易林》の繇辞が四千余条にも及ぶのに、どうして卦象を離れて空に辞を作ることができようか。《易林》の繇辞は一字として象に根づかないものがないと認めさえすれば、《易林》の辞は必ず《周易》と関係することになる。

然自魏晉以迄明清,二千年來之易家,無有援以詁《易》者。則以西漢易學,至東漢已失傳,後儒所宗,獨馬、鄭、荀、虞諸說,而馬、鄭、荀、虞,皆在西京易說易象失傳之後;而焦氏《易林》繇辭,則字字步趨《周易》者也。西漢《周易》真詁,為東漢人所不知,則焦氏《易林》真詁,相因而不解者,勢也。

しかし魏晋から明清に至るまで、二千年間の易家のうち、《易林》を援引して《周易》を訓解した者は一人もいない。これは前漢の易学が後漢にすでに失伝し、後の儒者が宗奉したのは馬融・鄭玄・荀爽・虞翻の几家の説だけであり、馬・鄭・荀・虞はみな西京の易説・易象が失伝した後に位置していたためである。《焦氏易林》の繇辞は字ごとに《周易》に随って来たものだ。前漢の《周易》の真の解がすでに後漢人に知られなかった以上、《焦氏易林》の真の解もまたそれに伴って誰にも分からなくなったのは、勢いの至る必然である。

以故西漢之書存留至今者,雖皆不免訛誤,而舛錯顛倒、魯魚亥豕,多至十六七,不堪卒讀者,莫《易林》若也。追原其故,由歴代學者不知辭根於象,故莫能以象定辭,影響模糊,謂是為非,謂非為是,致使林辭疵累大半,而無如何,真可浩嘆也。

したがって、前漢の書で今日まで伝わったものは、どれも誤脱を免れないが、錯乱し颠倒して「魯」を「魚」と写し「亥」を「豕」と写すような坏字が十中六七に達し、ほとんど読み続けられないほどのものは、《易林》ほど酷いものはない。その理由を追究すると、歴代の学者が林辞が卦象に根づくことを知らず、象をもって文字を判定することができず、ただぼんやりと曖昧に、正しいものを誤りと言い、誤ったものを正しいと言い、そのために林辞の大半が病を帯びたままどうしようもなくなったことにある。まことに長嘆せずにはいられない。

前漢の易が後漢に失伝した証

其顯者易見者,為先天卦象。先天卦象,後儒皆謂出於陳、邵,為宋以前所無,以儒家而用道家之說,玷汙儒席,莫斯為甚。黃梨洲、毛西河諸人,肆口謾罵,力辯其誣。後惠士奇、惠棟、焦循、張惠言、姚配中諸治《易》者,自標旗幟曰:「吾治漢《易》。」豈知治漢《易》者,皆盤旋於荀、虞腳下,荀、虞於西漢易學且不能明,焉有於後。今以焦氏《易林》考之,其用先天卦象者多於後天,而先天卦象,東漢諸儒多不知,致解《既濟》九五爻辭,及《大有》《同人》《師》《比》諸卦名,靡不錯誤,此一證也。今將焦氏《易林》言先天卦象者,標舉如左。

その中で最も顕豁に見える一項は先天卦象である。先天卦象といえば、後の儒者はみな陳摶・邵雍から出たとし、宋代以前には根本的になく、儒者が道家の説を採用して儒門を汚したものとして、これほど酷いものはないとした。黄宗羲(号は梨洲)・毛奇齢(号は西河)などの人々は口を極めて罵り、それが偽託であることを力説した。後に恵士奇・恵棟・焦循・張恵言・姚配中ら《易》を治める人々は、自ら旗を立てて「我が治めるのは漢《易》だ」と言った。しかし漢《易》を治めると自称する者たちは、みな荀爽・虞翻の足下を回っているにすぎない。荀・虞でさえ前漢の易学を明らかにできなかったのに、どうしてさらに上の淵源を語ることができようか。今《焦氏易林》をもって考察すると、それが用いる先天卦象は後天卦象よりも多い。そして先天卦象を後漢の諸儒は大半知らなかったため、《既済》の九五爻辞および《大有》《同人》《師》《比》のいくつかの卦名を解釈するにあたり、出さなかった誤りがない。これが第一の証拠である。今《焦氏易林》のうち先天卦象を講じた箇所を挙げて示す。

先天卦象・乾南

《屯》之《否》云:「登几上輿,駕駟南遊。」《否》中爻艮為幾,下坤為輿,上乾為馬,故曰「駕駟」;乾為行為南,故曰「南遊」。又《復》之《大壯》云:「遂到南陽,完其芝香。」《大壯》乾為陽,位南,故曰「南陽」;震為草,故曰「芝」;伏巽,故曰「香」。又《升》之《遯》云:「南行無遇。」乾為南為行,《遯》乾在上,故無遇。又《大有》之《乾》云:「南山大行。」乾為南為山,為大為行,故曰「南山大行」。此焦氏以乾為南之證也。

《易林》「《屯》の《否》」の条の林辞に「几に登り輿に上り、駟を駕して南に遊ぶ」とある。変じた卦《否》は下が坤・上が乾で、二から四爻まで互体して艮を成し、艮は几案なので「登几」と言う。下卦は坤で、《説卦》に「坤は大輿」なので「上輿」と言う。上卦は乾で、《説卦》に「乾は馬」なので、四馬を「駟」として「駕駟」と言う。乾はまた行・南なので「南遊」と言う。また「《復》の《大壮》」に「遂に南陽に至り、その芝香を完うす」とある。《大壮》の下体は乾で、乾は陽であり方位は南なので「南陽」と言う。上体は震で、《説卦》は震を蒼筤竹・萑葦とするのはまさに草類なので「芝」と言う。震の伏する(旁通)卦は巽で、《説卦》に「巽は臭(匂い)」なので「香」と言う。また「《升》の《遯》」に「南行して遇わず」とある。乾は南・行であり、《遯》の乾体は上位に高く踞り、下体は望むことはできても及ばないので「無遇」と言う。また「《大有》の《乾》」に「南山大行」とある。《乾》は純乾で、乾は南・山・大・行なので、四字はすべて乾から出る。これらはみな焦延寿が乾を南方に居らせた(先天の乾南)確証である。

先天卦象・坤北

《師》之《泰》云:「三人北行。」《泰》中爻震,為人為行,數三;坤北,故曰「三人北行」。又《渙》之《臨》云:「追亡逐北。」坤為北,震為追逐為往,亡,往也,故「追亡逐北」。又《坤》之《觀》云:「北辰紫宮。」《觀》中爻艮,艮為星辰;下坤,坤北,故曰「北辰」。又《晉》之《否》云:「北風寒涼。」《否》中爻巽,巽風;下卦坤,坤北,故曰「北風」。他坤北之證尚多,此特其顯著易解者。

「《師》の《泰》」の林辞に「三人北に行く」とある。《泰》卦は下が乾・上が坤で、三から五爻まで互体して震を成し、震は人・行であり、震の後天の数は三なので「三人」と言う。坤は先天において北方に居るので「北行」と言う。また「《渙》の《臨》」に「亡きを追い北きを逐う」とある。《臨》は下が兌・上が坤で、坤は北である。二から四爻まで互体して震を成し、震は追逐・往であり、「亡」の字はまさに「往」と訓するので「追亡逐北」と言う。また「《坤》の《観》」に「北辰紫宮」とある。《観》は三から五爻まで互体して艮を成し、艮は星辰である。下卦は坤で、坤は北なので「北辰」と言う――紫宮とは即ち北極星の居るところである。また「《晋》の《否》」に「北風寒凉」とある。《否》は三から五爻まで互体して巽を成し、《説卦》に「巽は風」である。下卦は坤で、坤は北なので「北風」と言う。その他坤を北とする例証はまだ多いが、ここでは最も顕豁に解り易い数条を挙げるに留める。

先天卦象・離東

《復》之《未濟》云:「東鄰西國,福喜同樂。」《未濟》上離,故曰「東鄰」;下坎,故曰「西國」。又《噬嗑》之《巽》云:「東鄰殺牛。」《巽》中爻離,離為牛,為東;兌折,故曰「東鄰殺牛」。又《遯》之《井》云:「避患東鄰。」《井》上坎,坎為避為患;中爻離,離東,故「避患東鄰」。又《晉》之《家人》云:「心意西東。」《家人》中爻離坎,離東坎西,故曰「心意西東」。又《訟》之《未濟》云:「避患西東。」亦以離東坎西為訓。又《隨》之《睽》云:「東鄰少女。」《睽》上離,故曰「東鄰」;下兌,故曰「少女」。此焦氏以離為東之證也。

「《復》の《未済》」の林辞に「東鄰西国、福喜同じく楽しむ」とある。《未済》は下が坎・上が離で、上体の離は先天において東に居るので「東鄰」と言い、下体の坎は先天において西に居るので「西国」と言う。また「《噬嗑》の《巽》」に「東鄰牛を殺す」とある。《巽》は純巽で、三から五爻まで互体して離を成し、離は牛(この象は《離》卦辞の「牝牛を畜すれば吉」に本づき、《説卦》に出ず)、離はまた東である。二から四爻まで互体して兌を成し、《説卦》に「兌は毀折」なので宰殺となる。合わせればまさに「東鄰殺牛」である。また「《遯》の《井》」に「患を避けて東鄰」とある。《井》の上体は坎で、坎は陥陥なので避・患となる。三から五爻まで互体して離を成し、離は東なので「避患東鄰」と言う。また「《晋》の《家人》」に「心意西東」とある。《家人》は二から四爻まで互体して坎を成し、三から五爻まで互体して離を成し、離は東・坎は西なので「心意西東」と言う。また「《訟》の《未済》」に「避患西東」とあるのも、同じく離を東・坎を西として解く。また「《随》の《睽》」に「東鄰少女」とある。《睽》の上体は離なので「東鄰」と言い、下体は兌で《説卦》に「兌は少女」なので「少女」と言う。これらはみな焦延寿が離を東方とした(先天の離東)確証である。

先天卦象・坎西

《履》之《訟》云:「受福西鄰。」《訟》上乾,為福;下坎,故曰「西鄰」。又《復》之《未濟》云:「東鄰西國。」《未濟》上離,為東鄰;下坎,為西國。又《姤》之《既濟》云:「西家嫁女。」《既濟》上坎,坎西,故曰「西家」。又《漸》之《屯》云:「東山西山。」《屯》中爻艮山,震後天在東,故曰「東山」;上坎,坎西,故曰「西山」。又《屯》林云:「平城道西。」《屯》中爻艮,為城為道;上坎,為平為西,故曰「平城道西」。又《遯》之《師》云:「雨師駕西。」《師》坎,為雨為西;中爻震,為駕,故曰「雨師駕西」。此焦氏以坎為西之確證也。

「《履》の《訟》」の林辞に「西鄰に福を受く」とある。《訟》は下が坎・上が乾で、上体の乾は福であり、下体の坎は先天において西に居るので「西鄰」と言う。また「《復》の《未済》」に「東鄰西国」とあるのは、《未済》の上体の離が東鄰、下体の坎が西国である。また「《姤》の《既済》」に「西家女を嫁がす」とある。《既済》は下が離・上が坎で、上体の坎は西に居るので「西家」と言う。また「《漸》の《屯》」に「東山西山」とある。《屯》は下が震・上が坎で、三から五爻まで互体して艮を成し、艮は山である。下体の震は後天において東方に居るので「東山」と言い、上体の坎は西に居るので「西山」と言う――一卦の中に東西二つの山が併せ見える。また《屯》卦の林辞に「平城道西」とある。《屯》は互体して艮を成し、艮は城郭・道路であり、上体の坎は平・西なので「平城道西」と言う。また「《遯》の《師》」に「雨師西に駕す」とある。《師》は下が坎・上が坤で、坎は雨・西であり、二から四爻まで互体して震を成し、震は駕なので「雨師駕西」と言う。これらはみな焦延寿が坎を西方とした(先天の坎西)確証である。

先天卦象・震東北

《屯》之《大壯》云:「利走東北。」《大壯》上震,為行為東北,故曰「利走東北」。又《大壯》之《離》云:「丑寅不徙。」《離》通坎,坎中爻上艮下震,艮後天居丑寅,故曰「不徙」。丑寅者,東北也,言艮震先後天皆在東北也。此焦氏以震為東北之證也。

「《屯》の《大壮》」の林辞に「東北に走るに利あり」とある。《大壮》の上体は震で、震は行であり、震は先天において東北に居るので「利走東北」と言う。また「《大壮》の《離》」に「丑寅徙らず」とある。《離》の旁通の卦は《坎》で、《坎》は二から四爻まで互体して震を成し、三から五爻まで互体して艮を成す。これが「上艮下震」である。艮は後天において丑・寅の位に居り、艮の本義は止なので「不徙」と言う。丑寅はまさに東北方である。これで震が先天において、艮が後天において、ともに東北に位置することが分かる。これが焦延寿が震を東北とした(先天の震位東北)証拠である。

先天卦象・巽西南

《泰》之《未濟》云:「實沈參墟。」按實沈為申次,參,二十八宿星名,皆在西南。《未濟》有三巽形,故既曰「實沈」,又曰「參」。又《歸妹》之《旅》云:「西賈巴蜀,寒雪至轂。」《旅》中爻巽,巽為商賈,巽西南,故「賈巴蜀」,巴蜀在西南也。又《家人》之《解》亦曰「西賈巴蜀」,則以《解》上卦震,震伏巽,巽西南,為月窟。邵子以東北震為天根,西南巽為月窟,本此也。此焦氏以巽為西南之證也。

「《泰》の《未済》」の林辞に「実沈参墟」とある。「実沈」は十二辰次の一つで申次に当たり、「参」は二十八宿の星名であり、二者の方位はともに西南にある。《未済》は六爻が陰陽相間し、その中に三つの巽の半象を含む(およそ下が陰・上が陽の二爻が即ち巽の半である)。だから「実沈」とも言い「参」とも言うが、いずれも巽が西南に居る義を取ったものである。また「《帰妹》の《旅》」に「西の賈巴蜀、寒雪轂に至る」とある。《旅》は下が艮・上が離で、二から四爻まで互体して巽を成し、《説卦》は巽を「近く利あり市三倍」とするので巽は商賈となる。巽は西南に居るので、巴蜀に行商することを言う――巴蜀はまさに西南にある。また「《家人》の《解》」にも「西賈巴蜀」とあるのは、《解》の上卦が震であり、震の伏する(旁通)卦が巽で、巽は西南に居り、これが「月窟」だからである。邵雍が東北の震を「天根」とし西南の巽を「月窟」としたのは、まさにここに本づく。これが焦延寿が巽を西南に居らせた証拠である。

先天卦象・艮西北

《既濟》之《損》云:「天門地戶。」按《損》上艮,故曰「天門」;下兌,故曰「地戶」。《內經》以戌亥為天門,辰巳為地戶,戌亥者,西北也。又《睽》之《晉》云:「闘戰天門。」《晉》中爻艮,故曰「天門」。又《升》之《鼎》云:「娵訾開門。」《鼎》通《屯》,《屯》中爻艮,故曰「娵訾」。娵訾者,亥次。又《未濟》之《困》云:「辰次降婁。」《困》通《賁》,《賁》上艮,艮為辰。降婁者,戌次。戌亥皆西北。又《革》之《賁》云:「亥午相錯。」《賁》上艮,故曰「亥」;下離,故曰「午」。其餘以艮為天門者尚多,不可勝數也。

「《既済》の《損》」の林辞に「天門地戸」とある。《損》は下が兌・上が艮で、上体の艮なので「天門」と言い、下体の兌なので「地戸」と言う。《黄帝内経》は戌・亥を天門とし、辰・巳を地戸とするが、戌亥はまさに西北方である――これで艮が西北にあることが分かる。また「《睽》の《晋》」に「天門に闘戦す」とある。《晋》は下が坤・上が離で、二から四爻まで互体して艮を成すので「天門」と言う。また「《升》の《鼎》」に「娵訾門を開く」とある。《鼎》の旁通の卦は《屯》で、《屯》は三から五爻まで互体して艮を成すので「娵訾」と言う――「娵訾」は十二辰次のうち亥次である。また「《未済》の《困》」に「辰次降婁」とある。《困》の旁通の卦は《賁》で、《賁》の上体は艮、艮は辰であり、「降婁」は戌次である。戌・亥はいずれも西北に属する。また「《革》の《賁》」に「亥午相錯す」とある。《賁》の上体は艮なので「亥」と言い、下体は離で離は後天において南に居り、午は正南なので「午」と言う。その他艮を天門とする例はまだ多く、数え切れない。

先天卦象・兌東南

《既濟》之《損》云:「天門地戶。」《損》下兌,故曰「地戶」。《內經》以辰巳為地戶,辰巳者,東南。又《大壯》之《離》云:「辰巳有咎。」《離》中爻上兌下巽,兌先天居辰巳,巽後天居辰巳,澤風相值為《大過》,《大過》死,故曰「有咎」。此焦氏以兌為東南之證也。

「《既済》の《損》」の林辞に「天門地戸」とあるが、《損》の下体は兌なので「地戸」と言う。《黄帝内経》は辰・巳を地戸とするが、辰巳はまさに東南方である――これで兌が東南にあることが分かる。また「《大壮》の《離》」に「辰巳咎あり」とある。《離》は重離で、二から四爻まで互体して巽を成し、三から五爻まで互体して兌を成す。これがいわゆる「中爻上兌下巽」である。兌は先天において辰巳に居り、巽は後天において辰巳に居り、両者はちょうど同位である。沢(兌)が上・風(巽)が下で遇えば即ち《大過》卦となり、《大過》には棺椁死喪の象があるので「有咎」と言う。これが焦延寿が兌を東南に居らせた証拠である。

以上所舉先天卦象,可謂顯而易明矣。清初諸儒謂易象無先天者,觀此得無顏汗乎。妙在當時無一人能解此辭也。惟西漢時是否名曰先天象、後天象,則無明文可證。後儒謂其名不合,擬改先天名為天地定位圖,後天為帝出震圖。豈知邵子祗以先天屬伏犧,後天屬文王,為不當耳;至先後天之名,必隨此圖以俱來,故能切當如此,非可擅改也。然焦氏所用,不祗先天卦象,卽邵子所謂乾一、兌二、離三、震四、巽五、坎六、艮七、坤八之先天卦數,後儒謂繫邵子妙悟、實與法象皆不合者,焦氏亦靡不用之。可見此數亦非邵子所定,其傳亦甚古也。茲標出如左。

以上挙げた先天卦象は、顕豁明白と言える。清初の諸儒は易象には先天という一路が根本的に存在しないと声言したが、これらの例証を見れば、恥じて汗を流さないだろうか。妙なのは当時ついに一人もこれらの林辞を説き通せなかったことである。ただし前漢の時にすでに「先天象」「後天象」と呼ばれていたかどうかは、明文の証がない。後の儒者はこの二つの名目が妥当でないとし、「先天」を「天地定位図」に、「後天」を「帝出震図」に改めようとした。しかし邵雍が先天を伏羲に帰し後天を文王に帰したことこそ不恰当であり、「先天」「後天」という二つの名称は必ず図とともに伝わってきたものだからこそ、このようにぴったり合うのであり、勝手に変更してはならない。しかし焦延寿の用いたものは先天卦象だけではない。邵雍の言う「乾一・兌二・離三・震四・巽五・坎六・艮七・坤八」という一套の先天卦数――後の儒者はそれを邵雍一人の妙悟で卦の法象と全然合わないと言う――まで、焦氏はことごとく用いている。これでこの套の数もまた邵雍が定めたものではなく、その流伝も同じく古いことが分かる。今挙げて示す。

先天卦数・乾一

《恆》之《泰》云:「一身兩頭。」《泰》坤為身,乾一,故曰「一身」。又《同人》之《乾》云:「一臂六手。」乾先天一,故曰「一臂」;後天數六,故曰「六手」。又《巽》之《訟》云:「一簧兩舌。」《訟》上乾,故曰「一」;下坎,坎上下正反兩兌,兌為口舌,故曰「兩舌」。又《剝》之《咸》云:「一人輦車。」《咸》中爻乾,乾為人,居一,故曰「一人」;乾伏坤,坤為車也。此乾一之見於《易林》者也。

「《恒》の《泰》」の林辞に「一身両頭」とある。《泰》は下が乾・上が坤で、坤は身であり、乾は先天の数において一なので「一身」と言う。また「《同人》の《乾》」に「一臂六手」とある。乾の先天数は一なので「一臂」と言い、乾の後天数(洛書の数)は六なので「六手」と言う――同じ乾で先天・後天の二つの数を併用する。また「《巽》の《訟》」に「一簧両舌」とある。《訟》は下が坎・上が乾で、上体の乾は数が一なので「一」と言い、下体の坎は上下それぞれ一正一反の兌の半象を含み、《説卦》に「兌は口舌」なので、二兌は「両舌」となる。また「《剥》の《咸》」に「一人輦車」とある。《咸》は下が艮・上が兌で、三から五爻まで互体して乾を成し、乾は人であり数が一に居るので「一人」と言い、乾の伏する(旁通)卦は坤で《説卦》に「坤は大輿」なので「車」と言う。これらが「乾一」の数が《易林》に見える例である。

先天卦数・兌二

兌二之數,《易林》尤多。《比》之《損》云:「二人共路。」《損》中爻震,震為人;兌二,故曰「二人」。又《夬》之《大壯》云:「兩戰不勝。」《大壯》上震,震為戰;中爻兌,兌二,故「兩戰」。又《小畜》之《節》云:「兩人相距。」《節》中爻震,為人;下兌,故曰「二人」。又《比》之《歸妹》:「一身兩頭。」《歸妹》中爻坎,坎為大首;兌二,故曰「兩頭」。此兌二之證也。

「兌二」という数は《易林》で特に多く用いられている。「《比》の《損》」の林辞に「二人路を共にす」とある。《損》は下が兌・上が艮で、二から四爻まで互体して震を成し、震は人であり、下体の兌の数は二なので「二人」と言う。また「《夬》の《大壮》」に「両戦勝たず」とある。《大壮》の上体は震で、震は戦であり、三から五爻まで互体して兌を成し、兌は二なので「両戦」と言う。また「《小畜》の《節》」に「両人相距る」とある。《節》は下が兌・上が坎で、二から四爻まで互体して震を成し、震は人であり、下体はまさに兌で兌は二なので「二人」と言う。また「《比》の《帰妹》」に「一身両頭」とある。《帰妹》は二から四爻まで互体して坎を成し、坎は大首(この象は《説卦》に列せず、《易林》の残す漢代の逸象である)であり、兌の数は二なので「両頭」と言う。これらはみな「兌二」の証拠である。

先天卦数・離三

《需》林云:「久旱三年。」《需》下乾,乾為年;中爻離,居三,故曰「三年」。又《夬》之《睽》云:「三羊上山。」《睽》下兌,兌為羊,離位三,故曰「三年」。又《同人》之《大有》云:「三翼飛來。」《大有》上離,離為飛為翼,居三,故曰「三翼」。又《噬嗑》之《需》云:「三聖茂功。」《臨》之《同人》曰「三言」,之《大有》曰「三十」,皆謂離三。此《易林》以離居三之碓證也。

《需》卦の林辞に「久旱三年」とある。《需》は下が乾・上が坎で、下体の乾は年であり、三から五爻まで互体して離を成し、離は先天の数において三なので「三年」と言う。また「《夬》の《睽》」に「三羊山に上る」とある。《睽》は下が兌・上が離で、《説卦》に「兌は羊」、離の数は三なので「三羊」と言う(原文ここは「三年」の二字であるが、上下文により「三羊」に作るべきである)。また「《同人》の《大有》」に「三翼飛来」とある。《大有》の上体は離で、《説卦》は離を雉とするので飛・翼となり、離の数は三なので「三翼」と言う。また「《噬嗑》の《需》」に「三聖茂功」、「《臨》の《同人》」に「三言」、「《臨》の《大有》」に「三十」とあるが、その中の「三」はいずれも離の数を指す。これらが《易林》が離を三に居らせた確証である。

先天卦数・震四

《大有》之《革》云:「山陵四塞。」《革》通《蒙》,《蒙》上艮,故曰「山陵」;中爻震,居四,故曰「四塞」。又《小畜》之《損》云:「功加四海。」《損》中爻坤,為海;震居四,故曰「四海」。又《困》之《震》云:「四足俱走。」震為足,居四,故曰「四足」。又《夬》之《大壯》云:「四足俱行。」《大壯》上震,為足為行,位四,故曰「四足俱行」。又《渙》之《豐》云:「四馬共轅。」《豐》上震,為馬為轅,居四,故曰「四馬共轅」。他若《觀》之《小過》云「四亂不安」,《旅》之《豫》亦云「四亂不安」,皆指上震四言也。

「《大有》の《革》」の林辞に「山陵四塞」とある。《革》の旁通の卦は《蒙》で、《蒙》は下が坎・上が艮であり、上体の艮は山なので「山陵」と言い、《蒙》は二から四爻まで互体して震を成し、震は先天の数において四なので「四塞」と言う。また「《小畜》の《損》」に「功四海に加わる」とある。《損》は三から五爻まで互体して坤を成し、坤は海(坤が水である象に本づく)であり、二から四爻まで互体して震を成し、震の数は四なので「四海」と言う。また「《困》の《震》」に「四足俱に走る」とある。《震》は重震で、《説卦》に「震は足」、震の数は四なので「四足」と言う。また「《夬》の《大壮》」に「四足俱に行く」とある。《大壮》の上体は震で、足・行であり、その数は四なので「四足俱行」と言う。また「《渙》の《豊》」に「四馬轅を共にす」とある。《豊》の上体は震で、震は馬・車轅であり、数は四に居るので「四馬共轅」と言う。その他「《観》の《小過》」の「四乱不安」、「《旅》の《豫》」の同じく「四乱不安」は、いずれも上体の震の数四を指して言う。

先天卦数・巽五

《大壯》之《觀》云:「五石示象。」《觀》中爻艮,艮為石;上巽,居五,故曰「五石」。又《大有》之《觀》云:「三塗五嶽。」《觀》中爻艮,艮為嶽;巽五,故曰「五嶽」。又《遯》林云「三塗五嶽」,義同。又《師》之《大畜》「一身五心」,《大畜》通《萃》,下坤為身;中爻巽五,故曰「一身五心」,坎為心也。又《師》之《解》云:「三德五才。」《解》上震,伏巽,巽五,故曰「五才」。又《同人》之《蒙》云:「三羖五羊?。」《蒙》通《革》,《革》中爻巽,巽五,故曰「五羊?」。此焦氏以巽為五之確證也。

「《大壮》の《観》」の林辞に「五石象を示す」とある。《観》は下が坤・上が巽で、三から五爻まで互体して艮を成し、《説卦》に「艮は小石」なので艮は石であり、上体は巽で巽は先天の数において五なので「五石」と言う。また「《大有》の《観》」に「三涂五岳」とある。《観》は互体して艮を成し、艮は山岳であり、巽の数は五なので「五岳」と言う。また《遯》卦の林辞にも「三涂五岳」とあり、取義は同じである。また「《師》の《大畜》」に「一身五心」とある。《大畜》の旁通の卦は《萃》で、《萃》の下体の坤は身であり、《萃》は三から五爻まで互体して巽を成し、巽の数は五なので「一身五心」と言う――そして「心」は本卦《師》の下体の坎から取り、《説卦》は坎を加憂心病とするので坎は心である。また「《師》の《解》」に「三徳五才」とある。《解》の上体は震で、震の伏する(旁通)卦は巽であり、巽は五なので「五才」と言う。また「《同人》の《蒙》」に「三羖五羊?」とある。《蒙》の旁通の卦は《革》で、《革》は二から四爻まで互体して巽を成し、巽は五なので「五羊?」と言う(ここの一字は缺佚しているが、原様のままに留める)。これらはみな焦延寿が巽の数を五とした確証である。

先天卦数・坎六

《賁》之《噬嗑》云:「六人俱行,各遺其囊。」《噬嗑》下震,為人為行;中爻坎,坎六,故曰「六人俱行」。又《臨》之《旅》云:「三身六目。」《旅》通《節》,《節》中爻震,後天數三,故曰「三身」;上坎,通離,離目,居六,故曰「六目」。又《遯》之《師》云:「六體不易。」《師》上坤,為身為體;下坎,居六,故曰「六體」。又《睽》之《困》云:「當夏六月。」《困》中爻離,故曰「夏」;下坎,為月,數六,故曰「六月」。又《睽》之《蹇》云:「十日六夜。」《蹇》通《睽》,《睽》中爻離,為日;兌數十,故曰「十日」。坎為夜,居六,故曰「六夜」。又《中孚》之《明夷》云:「蘇氏六國。」《明夷》坤為國,坎六,故曰「六國」也。

「《賁》の《噬嗑》」の林辞に「六人俱に行き、各々その嚢を遺す」とある。《噬嗑》は下が震・上が離で、下体の震は人・行であり、三から五爻まで互体して坎を成し、坎は先天の数において六なので「六人俱行」と言う。また「《臨》の《旅》」に「三身六目」とある。《旅》の旁通の卦は《節》で、《節》は二から四爻まで互体して震を成し、震の後天の数は三なので「三身」と言い、《節》の上体は坎で、坎の旁通は離、《説卦》に「離は目」、そして坎の数は六なので「六目」と言う。また「《遯》の《師》」に「六体易らず」とある。《師》の上体は坤で、坤は身・体であり、下体の坎の数は六なので「六体」と言う。また「《睽》の《困》」に「夏に当たり六月」とある。《困》は二から四爻まで互体して離を成し、離は後天において南方の夏を主るので「夏」と言い、下体の坎は月でありその数は六なので「六月」と言う。また「《睽》の《蹇》」に「十日六夜」とある。《蹇》の旁通の卦は《睽》で、《睽》は二から四爻まで互体して離を成し、離は日であり、兌の数は十なので「十日」と言い、《蹇》の上体は坎で夜であり、数は六に居るので「六夜」と言う。また「《中孚》の《明夷》」に「蘇氏六国」とある。《明夷》の上体は坤で国であり、二から四爻まで互体して坎を成し、坎の数は六なので「六国」と言う――まさに蘇秦が合縦した六国を指す。

先天卦数・艮七

《中孚》之《觀》云:「鳳生七子。」《觀》下坤,為鳳;中爻艮,數七;覆震,為子,故曰「七子」。又《旅》之《大有》云:「七日六夜。」《大有》通《比》,《比》中爻艮,艮數七,故曰「七日」,離為日也;下坤,為夜;上坎,數六,故曰「六夜」。又《頤》之《艮》云:「據斗運樞。」斗,北方宿,七星,艮數七,故曰「據斗」;中爻坎為樞,故曰「運樞」。又《謙》之《觀》、《升》之《臨》亦云「據斗」,《觀》中爻艮,艮數七;《臨》通《遯》,《遯》下艮,數七,故皆曰「斗」也。此《易林》以艮為七,尤為顯著易見者也。

「《中孚》の《観》」の林辞に「鳳七子を生む」とある。《観》の下体の坤は鳳であり、三から五爻まで互体して艮を成し、艮は先天の数において七である。艮はまた震の覆象(震を倒転すれば艮となる)であり、《説卦》に「震は長子」なので子となり、よって「七子」と言う。また「《旅》の《大有》」に「七日六夜」とある。《大有》の旁通の卦は《比》で、《比》は三から五爻まで互体して艮を成し、艮の数は七なので「七日」と言う――「日」は本卦《大有》の上体の離から取り、離は日である。《比》の下体の坤は夜であり、上体の坎の数は六なので「六夜」と言う。また「《頤》の《艮》」に「斗に拠り枢を運す」とある。北斗は北方の宿で全部で七星であり、艮の数はまさに七なので「据斗」と言い、《艮》卦は二から四爻まで互体して坎を成し、坎は枢機なので「運枢」と言う。また「《謙》の《観》」「《升》の《臨》」にもいずれも「据斗」とある。《観》は互体して艮を成し、艮の数は七であり、《臨》の旁通の卦は《遯》で、《遯》の下体は艮で数は七である。だからいずれも「斗」と言う。これは《易林》が艮を七の数とした、特に顕豁に見える一組の例証である。

先天卦数・坤八

《臨》之《遯》云:「八百諸侯。」《遯》通《臨》,《臨》中爻震,為諸侯;坤居八,故曰「八百諸侯」。又《遯》之《姤》云:「八世大昌。」《姤》通《復》,《復》下震,為大為昌,又為後世;坤數八,故曰「八世大昌」。又《兌》之《剝》云:「乘輿八百。」《剝》下坤,為輿;坤八,故曰「八百」。此坤八之數見於《易林》者也。

「《臨》の《遯》」の林辞に「八百諸侯」とある。《遯》の旁通の卦は《臨》で、《臨》は二から四爻まで互体して震を成し、震は諸侯である(《説卦》に震は長子、主器出令なので諸侯となる)。《臨》の上体は坤で、坤は先天の数において八なので「八百諸侯」と言う――まさに周武王の孟津の会を指す。また「《遯》の《姤》」に「八世大昌」とある。《姤》の旁通の卦は《復》で、《復》の下体は震で、震は大・昌であり、また後世でもある。坤の数は八なので「八世大昌」と言う。また「《兌》の《剥》」に「乗輿八百」とある。《剥》の下体は坤で、《説卦》に「坤は大輿」なので輿であり、坤の数は八なので「八百」と言う。これらが坤八の数が《易林》に見える例である。

然《易林》不惟用先天卦象卦數,並邵子《皇極經世》所用之幹日、兌月、離星、震辰、坤水、艮火、坎土、巽石之象亦用之。夫此八象不見於《說卦》,不見於各家逸象,後儒久目為怪異。近人杭辛齋於《易》無所不覩,無所不究,先後天之故,尤能瞭然於心,乃謂《經世》八象為邵子之別有妙悟,特以日月星辰水火土石為符號耳,意亦謂邵子所創,與胡渭之向壁虛造說同也。豈知焦氏《易林》皆用之,而坤水、艮火,用之尤多,可見此八象傳之已久。昔顧炎武、翟云升、牟庭等,常疑《易林》非焦氏所為,幸不解此詞耳;使其能解,將又疑《易林》為北宋後人所為矣。茲將《易林》乾日、兌月等八象,標出如左。

しかし《易林》は先天卦象と先天卦数を用いるだけではない。邵雍《皇極経世》が用いる「乾為日・兌為月・離為星・震為辰・坤為水・艮為火・坎為土・巽為石」という八つの象をも併せて用いている。この八つの象は《説卦》にも見えず、各家の輯めた逸象にも見えないので、後の儒者は長らくそれらを怪誕の説と見なしてきた。近人の杭辛斎は《易》について読まないものなく究めないものなく、先天後天の来脈に特に胸を明らかにしていたが、それでも《皇極経世》の八象は邵雍が別に妙悟したもので、日月星辰水火土石を記号として使ったにすぎないと考えた――やはりこの八象は邵雍の創造であると言い、胡渭がその向壁虚造を指摘した説と同じである。しかし焦延寿の《易林》はすべて用いており、しかも「坤為水」「艮為火」は特に多く用いている。これでこの八象の流伝がすでに久しいことが分かる。昔の顧炎武・翟雲升・牟庭らは、しばしば《易林》が焦延寿の作ではないと疑ったが、幸い彼らはこれらの林辞を読み通せなかった。もし読み通せたなら、彼らはまた《易林》が北宋以後の人の偽造だと疑ったであろう。今《易林》中の乾日・兌月など八象を挙げて示す。

経世八象・乾日

《易林》《蹇》之《咸》云:「日月並居。」《咸》上兌,為月;互乾為日,故曰「並居」。又《升》之《咸》云「日月並居」,義與上同。又《解》之《臨》云:「與日月處。」《臨》上坤,坤伏乾,乾日,兌月。又《乾》之《泰》云:「白日皎皎。」《泰》下乾,乾為日;互震為白,故曰「皎皎」。又《泰》之《恆》云:「踰日厯月。」《恆》互兌,為月;乾為日,故曰「踰日厯月」。是《易林》顯以乾為日也。後思《易》《乾》九三云:「君子終日乾乾。」乾為日,三居卦末,故曰「終日」。《大畜》九三云:「閒輿衛。」日亦指乾。又《乾》彖傳云「明終始」,大明者,日也。又《恆》傳云:「日月得天而久照。」《恆》互兌,為月;乾為日。是《易》與彖傳皆以乾為日,故《易林》本之也。九家亦以乾為日,見後。

《易林》「《蹇》の《咸》」の林辞に「日月並び居る」とある。《咸》は下が艮・上が兌で、上体の兌は月であり、三から五爻まで互体して乾を成し、乾は日である。日月が同じ一卦の中にいるので「並居」と言う。また「《升》の《咸》」にも「日月並居」とあり、取義は上の条と同じである。また「《解》の《臨》」に「日月と処る」とある。《臨》は下が兌・上が坤で、上体の坤の伏する(旁通)卦は乾であり、乾は日であり、下体の兌は月である。だから日月が並び見える。また「《乾》の《泰》」に「白日皎皎」とある。《泰》の下体は乾で、乾は日であり、三から五爻まで互体して震を成し、震は《説卦》の「蕃鮮」の義を取って白なので「皎皎」と言う。また「《泰》の《恒》」に「日を踰え月を歴る」とある。《恒》は二から四爻まで互体して乾を成し、三から五爻まで互体して兌を成し、兌は月・乾は日なので「踰日歴月」と言う。これで《易林》が明らかに乾を日としていることが分かる。後に《周易》の本経を考え直すと:《乾》九三に「君子終日乾乾」とあり、乾は即ち日であり、三爻の位は下卦の末に居るので「終日」と言う。《大畜》九三の「閑輿衛」の中の日も下体の乾を指す。《乾》の彖伝に「大明終始」(原文は「大」の字を脱く)とあるが、いわゆる「大明」はまさに太陽である。《恒》の彖伝に「日月天を得て久しく照らす」とあり、《恒》は互体して兌を成して月、乾を成して日であり、ちょうど符合する。これで《周易》の経文と彖伝が本来いずれも乾を日としていたことが分かる。だから《易林》がそれを承用した。九家《易》もまた乾を日とするが、詳しくは後文に見える。

経世八象・兌月

《易林》《復》之《臨》云:「月出平地。」坤為地,兌為月,在下,故曰「平地」。又《晉》之《小過》云:「月出阜東。」《小過》艮為阜,互兌為月,震為東,故「月出阜東」。又《家人》之《小畜》云:「杲杲白日,為月所食。」《小畜》互離為日,兌為月,兌月侵入離體之半,故曰「為月所食」,兌為食也。又《大壯》之《革》云:「不見日月。」《革》上兌,為月;中互大坎,坎隱伏,故不見。是《易林》以兌為月也。後思《易》《小畜》之「月幾望」,《中孚》《歸妹》之「月幾望」,《恆》彖之「日月得天久照」,蓋皆以兌為月,故《易林》用之,邵子亦用之也。

《易林》「《復》の《臨》」の林辞に「月平地に出づ」とある。《臨》は下が兌・上が坤で、坤は地であり上に居り、兌は月であり下に居る。月が地の下から昇るので「月出平地」と言う。また「《晋》の《小過》」に「月阜東に出づ」とある。《小過》は下が艮・上が震で、艮は山なので土阜である。三から五爻まで互体して兌を成し、兌は月である。震は後天において東に居るので「月出阜東」と言う。また「《家人》の《小畜》」に「杲々たる白日、月の食むところとなる」とある。《小畜》は三から五爻まで互体して離を成し、離は日であり、二から四爻まで互体して兌を成し、兌は月である。兌体と離体が二爻分重なり合い、まさに兌の月が離の日の半分に侵入したので「為月所食」と言う――兌はもともと吞食の義がある。また「《大壮》の《革》」に「日月を見ず」とある。《革》の上体は兌で月であり、卦中の数爻がまた合わさって一つの大坎の象を成し、《説卦》は坎を隠伏とするので「不見」と言う。これで《易林》が兌を月としていることが分かる。後に《周易》本経を考え直すと:《小畜》上九の「月幾望」、《中孚》六四・《帰妹》六五の「月幾望」、および《恒》彖伝の「日月天を得て久しく照らす」は、おおよそいずれも兌を月としている。だから《易林》がそれを承用し、邵雍もまたそれを承用した。

経世八象・離星

《易林》《大畜》之《小畜》云:「明星煌煌。」《小畜》互離,離為明為星,故曰「明星煌煌」。又《離》之《訟》云:「星隕如雨。」《訟》下互離,離星;下坎,為雨,故曰「星隕如雨」。又《未濟》之《困》云:「建星中堅。」《困》互離,故曰「星」;建星秋昬中,兌秋,故曰「建星」。是《易林》以離為星。後思《易》《豐》六二之「見斗」、九三之「見沫」,亦以下卦離為星,《易林》仍本之《易》也。虞翻以《豐》三上易為《噬嗑》,以《噬嗑》互艮為星,殊失《易》旨。然朱子發云:「仲翔以離艮為星。」是離星之象,虞氏亦知,知而不用,果何故也。

《易林》「《大畜》の《小畜》」の林辞に「明星煌々」とある。《小畜》は三から五爻まで互体して離を成し、離は光明・星なので「明星煌煌」と言う。また「《離》の《訟》」に「星隕りて雨の如し」とある。《訟》は下が坎・上が乾で、二から四爻まで互体して離を成し、離は星であり、下体の坎は雨なので「星隕如雨」と言う。また「《未済》の《困》」に「建星中堅」とある。《困》は二から四爻まで互体して離を成すので「星」と言う。建星は秋の黄昏にちょうど中天に当たり、兌は後天において西方の秋を主り、《困》の上体はまさに兌なので「建星」と言う。これで《易林》が離を星としていることが分かる。後に《周易》本経を考え直すと:《豊》六二の「日中に斗を見る」、九三の「日中に沫を見る」もまた下卦の離を星としている。これで《易林》が依然として《周易》に本づいていることが分かる。虞翻は《豊》の三爻と上爻を互いに易えて《噬嗑》に変え、さらに《噬嗑》の互体の艮を取って星としたが、大いに《周易》の本旨を失っている。ただ朱震(字は子発)が「虞仲翔は離・艮を以て星とす」と言ったので、離を星とする象を虞翻も知っていた。知っていながら用いなかったのは、いったいどんな理由か。

経世八象・震辰

《易林》《小畜》之《大畜》云:「辰次降婁。」降婁者,十二辰之一,在戌分。《大畜》互震,為辰。辰者,日月交會之次;辰次降婁者,言日月交會於廠也。艮先天居戌,故「辰次降婁」。又《大過》之《泰》云:「我生不辰。」《泰》中爻震,震為辰為生;坤為我,坤凶,故曰「我生不辰」。又《頤》之《泰》云:「過時不反。」《泰》互震,為辰,辰者時也;震往,故「過時不反」。又《臨》之《噬嗑》云:「厯象星辰。」《噬嗑》互艮,艮為星;下震,為辰,故曰「厯象星辰」。是《易林》顯以震為辰。

《易林》「《小畜》の《大畜》」の林辞に「辰次降婁」とある。「降婁」は十二辰次の一つで、戌の分野に位する。《大畜》は下が乾・上が艮で、二から四爻まで互体して震を成し、震は辰である。いわゆる「辰」とは日月交会の位次であり、「辰次降婁」とは日月がこの辰次で交会することを言う。艮は先天において戌位に居るので「辰次降婁」と言う。また「《大過》の《泰》」に「我の生まれたる辰ならず」とある。《泰》は三から五爻まで互体して震を成し、震は辰・生であり、上体の坤は我であり、坤は凶を主るので「我生不辰」と言う――生が時に逢わないことである。また「《頤》の《泰》」に「時を過ぎて反らず」とある。《泰》は互体して震を成して辰であり、辰は即ち時であり、震は動して往くを主るので「過時不反」と言う。また「《臨》の《噬嗑》」に「星辰を歴象す」とある。《噬嗑》は三から五爻まで互体して坎を成し、二から四爻まで互体して艮を成し、艮は星であり、下体の震は辰なので「歴象星辰」と言う。これで《易林》が明らかに震を辰としていることが分かる。

因思《易》《損》《益》皆有震,故皆曰「與時偕行」。又《艮》傳云:「時止則止,時行則行,動靜不失其時,其道光明。」則以艮為反震,震為時為辰;震反,故「時止」,而三至五互震,震行,故「時行」,行止皆以震,故曰「動靜不失其時」,是經原以震為辰也。艮與震同體,故艮亦為時。又案《說文》:「辰,震也,三月陽氣動,雷電振,民農時也。」又《釋名》:「辰,伸也,物皆伸舒而出也。」是辰之為訓,皆與震相合。而《說文》中辰為震,似卽本於卦象,是震為辰之象,許慎時猶未失傳,至漢末遂遺逸矣。

これによって《周易》本経を考え直すと:《損》《益》の二卦はいずれも震体を含むので、彖伝はともに「時と偕に行く」と言う。また《艮》の彖伝に「時に止まれば止まり、時に行けば行き、動静その時を失わず、その道光明」とある。これは艮が震の反象(震を倒転すれば艮となる)であり、震が時・辰であるためである。震を倒転すれば動くことができないので「時止」と言い、《艮》卦は三から五爻がまた互体して震を成し、震は行を主るので「時行」と言う――行も止もいずれも震から取るので「動静不失其時」と言う。これで経文が本来震を辰としていたことが分かる。艮と震は同一の卦体(一正一反)であるから、艮もまた時となる。さらに《説文解字》を見ると「辰とは震である。三月に陽気が動き雷電が振るい、民の農時である」とあり、《釈名》に「辰とは伸である。物がみな伸び舒びて出る」とある。これで「辰」の字の訓釈はいずれも震と合致することが分かる。そして《説文》が辰を震としたのは、まさに卦象に本づいたようであり、「震為辰」という象が許慎の時代にはまだ失伝せず、漢末に至ってやっと亡佚したことが知れる。

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