Libo

附:坤上六「龍野に戦う、其の血玄黄」の解

清 · 尚秉和 · 第10巻 / 15

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

此爻不以闢卦解之,不能明也。龍者,陽也,何以至《坤》上六而戰?則以闢卦《剝》當戌,至亥消剝入坤,至上六而純陰。乃陽本居亥,陽伏陰下,陰牝陽,故《易林》曰:「陽入陰室,相與合齒。」陽求出,出震則《復》矣,仍闢卦。當其未出,乾元坤元靜默感通,氤氳姤合,無以名之,強名曰龍戰而已。其血玄黃者,卽出震時天地所遺氤氳之氣也。震為玄黃、為出,六子之生以此也。此血非陰非陽,乃天地之雜也。然非卽《易林》「陽入陰室,相與合齒」之言以求之,鮮不為聖人神化之筆所迷矣。

この一爻は十二辟卦を用いて解さなければ、説き明かすことができない。龍は陽を代表するのに、なぜ《坤》上六に至ってかえって「戦」するのか。辟卦において《剥》は戌月に当たり、亥月に至れば陽気は消剥し尽くして坤の中に没入し、上六に至れば便ち一片の純陰となる。しかし乾陽はもともと亥位に居り、この時陽は陰の下に潜伏して陰に包納されるので、《易林》に「陽陰室に入り、相与に歯を合す」と言う。陽は出ることを求め、一たび出て震となれば即ち《復》卦であり、依然として辟卦の循環の中にある。それがまだ出でない時、乾元と坤元は静默に相感じ氤氳交合し、それに命名する由がなく、やむを得ず「龍戦」と称するのみである。「其の血玄黄」に至っては、陽が震に出る際に天地の遺留したあの一団の氤氳の気である。震は玄黄の色があり出生の義があり、六子が生成する所以は、まさにこれに憑る。この「血」は陰に属さず陽にも属さず、天地二気が交雑して成ったものである。しかしもし《易林》の「陽入陰室、相与合歯」というこの句を取って追索しなければ、聖人の神妙莫测の筆法に迷わされない人は少ない。

附:文言「陰陽に凝るは必ず戦う、其の陽なきを嫌うが為なり」の解

「疑」之與「凝」,自漢以來不能決,而「嫌」字之異讀尤多:鄭作「謙」,荀、虞、陸、董作「隒」,《九家》作「兼」,少「無」字。以文理言,《九家》似順,清儒治漢《易》者各有所主。今以《易林》證之,《夬》之《坤》曰:「陽入陰室。」是陽為陰為凝也,卽陽為陰所牝也。陰牝陽,陽伏不見,有無陽之嫌,故稱龍以明之,明非無陽,特伏耳。伏必求出,出必戰。

《文言》のこの句は、「疑」の字がいったい「疑」と読むべきか「凝」と読むべきか、漢代以来ずっと定まらなかった。しかも「嫌」の字の異文異読はなおさら多い。鄭玄は「謙」と作し、荀爽・虞翻・陸績・董遇は「隒」と作し、《九家易》は「兼」と作し、しかも一つの「无」の字が少ない。単に文理の上から見れば、《九家易》の読法が更に順なようであり、清代に漢《易》を研治する学者は各々主張がある。今《易林》を取って印证するに、《夬》之《坤》に「陽陰室に入る」と言う。これはまさに陽が陰に凝聚され、すなわち陽が陰に包納されたことである。陰がすでに陽を包納すれば、陽は潜伏して見るべからず、そこで「陽がないようである」の嫌疑を有する。だから特に一つの「龍」の字を標出して点明する――陽がないのではなく、ただ潜伏したのみであることを表明する。すでに潜伏すれば、必ず出ることを求め、一たび出ることを求めれば、必ず「戦」がある。

故《易林》《中孚》之《坤》云:「乾坤利貞,乳生六子。」利貞卽凝也,六子之生,凝之功也。夫子生則出震矣。又曰:「長大成就,風言如母。」夫不曰如父而曰如母,曰風言,正釋嫌於無陽也。後儒謂王弼從俗本增「無」字,又有謂「嫌於無陽」與下「稱龍」句文不順者,豈知自西漢已然哉!

だから《易林》《中孚》之《坤》に「乾坤利貞、乳に六子を生ず」と言う――「利貞」は即ち「凝」であり、震坎艮巽離兌の六つの子卦が生成する所以は、まさに「凝」の功效である。子がすでに生出した以上、即ち陽が震に出たことである。《易林》は続いてまた言う。「長大成就し、風言母の如し。」――「如父」と言わずして「如母」と言い、またわざわざ「風言」と言う(巽は風であり、巽はまさに震の潜伏する処)。これはちょうど「其の陽なきを嫌うが為」のこの句を解釈しているのである。後の学者は王弼が俗本に依って一つの「无」の字を添えたと言い、またある人は「嫌于无陽」は下文の「龍を称す」の一句と文気が順でないと言う――彼らはどうして早くも西汉の焦延寿の時に、経文がすでにこのようであったことを知らなかったのか。

辟卦は周易の前にあった説

餘向疑《坤》上六稱龍,《文言》釋此,謂「陰凝於陽必戰,為其嫌於無陽,故稱龍」。及《說卦》云:「戰乎乾。乾,西北之卦也,言陰陽相薄也。」夫若無闢卦坤居亥之說,則《坤》上六純陰耳,胡得言龍?乾獨居西北耳,胡得言陰陽相薄?是文、孔心目中皆有坤居亥之象也。又《臨》「八月有凶」,謂《臨》《遯》也;《復》「七日反覆」,謂《復》《姤》也。

私は従前より《坤》上六がなぜ「龍」と称するかに疑惑を懐いていた。《文言》がこの一句を解釈して「陰陽に凝るは必ず戦う、其の陽なきを嫌うが為に、故に龍と称す」と言い、《説卦》にまた「干に戦う。干は西北の卦なり、陰陽相薄するを言うなり」と言う。試みに思うに、もし十二辟卦において坤が亥位に居るというこの一説がなければ、《坤》上六はただ一片の純陰にすぎないのに、どうして「龍」を論じ得ようか。乾はただ単独で西北に居るにすぎないのに、どうして「陰陽相薄」を論じ得ようか。これで周文王と孔子の心目中には、もともと坤が亥位に居るというこの象があったことが分かる。さらに《臨》卦辞に「八月に至れば凶あり」と言うのを見れば、指すのは《臨》と《遯》の両卦が八月を相距ることである。《復》卦辞に「七日にして来復す」と言うのは、指すのは《復》と《姤》の両卦が相反し相生することである。

《左傳》晉與楚戰,筮得《復》,曰:「南國蹙,射其元王中厥目。」是亦以《復》居正北也,闢於子也,是十二闢自古有也。餘持是說既久,後見干寶《周禮》注引《歸藏》云:「《復》子、《臨》丑、《泰》寅、《大壯》卯、《夬》辰、《乾》巳、《媾》午、《遯》未、《否》申、《觀》酉、《剝》戌、《坤》亥。」正十二闢也,無惑乎《易》與《左氏》皆用之也。卽漢人注《易》,往往用闢卦而不明言,若其例為人所共知者,亦足以證其說之古矣。

《左伝》は晋国と楚国が交戦し、筮して《復》卦を得て、占辞に「南国蹙す、其の元王を射て、厥の目を中てたり」と言うのを記す。これもまた《復》卦を正北方位に安放し、即ち辟卦において子月に当たるものである。これで十二辟卦は古より有ったことが分かる。私はこの見方を堅持すること久しく、後に干宝が《周礼》に注して引く所の《帰蔵》を見て言う。「《復》は子に当たり、《臨》は丑に当たり、《泰》は寅に当たり、《大壮》は卯に当たり、《夬》は辰に当たり、《乾》は巳に当たり、《媾》(即ち《姤》)は午に当たり、《遯》は未に当たり、《否》は申に当たり、《観》は酉に当たり、《剥》は戌に当たり、《坤》は亥に当たる。」これはまさに十二辟卦である。《周易》と《左伝》が皆それを使用したのも怪しむに足りない。漢代人が《易》に注するに至っても、往々にして辟卦を暗に用いて点破しない。あたかもこれが人人皆知の通例であるかのようであり――これもまた辟卦の説が由来久遠であることを証明するに足る。

後天方位はすでに連山に見える

文王演《易》,蓋多因襲舊義,而今無可考。如《坤》上六不以闢卦解卽不能通,是文王用闢卦也。乃干寶《周禮》注引《連山》云:「帝出乎震,齊乎巽,相見乎離,致役乎坤,說言乎兌,戰乎乾,勞乎坎,成言乎艮。」與今《說卦》文多同。又朱漢上引《歸藏》易,有乾大亦、乾為天、為君、為父、為闢、為卿、為馬、為禾,又為血卦。可見《說卦》之文皆自古相傳之易說,又以見後天方位不始於文王,古連山氏已有。然則《周易》之文因襲於二易明矣。

周文王が《周易》を推演したのは、大概多くは前代の旧有の義例を沿袭したのであろうが、ただ今ではすでに考证する由がない。譬えば《坤》上六は十二辟卦を用いて解さなければ講じ通らないので、文王が辟卦を用いたことが分かる。しかも干宝が《周礼》に注して引く所の《連山》に言う。「帝は震に出で、巽に斉し、離に相見え、坤に役を致し、兌に説言し、干に戦い、坎に労し、艮に成言す。」これは今本《説卦》の文字と大体同じである。朱震(世に漢上先生と称す)はまた《帰蔵》易を引き、その中に「乾大亦」および乾為天・為君・為父・為辟・為卿・為馬・為禾、また血卦を為す等の条がある。これで《説卦》の中の文字は皆古より相伝えた易説であることが分かる。また後天八卦方位が文王から始まったのではなく、上古の連山氏の時にすでに有ったことも分かる。このように見れば、《周易》の文辞が《連山》《帰蔵》の二易を沿袭したことは、極めて明白である。

坎為耳の解

坎之為耳,古今說者極錘鑿之能,無一有當,則以求之過深也。《坎》初云:「入于坎窞。」《說文》云:「窞,坎內之坎也。」又曰:「旁入也。」案耳空旁入,屈曲難通,正坎內之坎也,《說文》正釋坎為耳之義也。學者能卽《說文》坎窞之義求之,則坎為耳象如繪出矣。

坎がなぜ象を取って耳とするか、古今解説する者は牽強附会の本事を窮め尽くしたが、妥当に説いた一家がない。その毛病は求めること過度に深かったことにある。《坎》卦初六に「坎窞に入る」と言い、《説文解字》は解釈して言う。「窞とは、坎中の小坎なり。」また言う。「(窞は)旁より入るなり。」按ずるに耳孔はまさに旁側より入り、曲折幽深にして通達し難い。ちょうど「坎中之坎」である。《説文》のこの条の訓釈は、実はちょうど坎が象を取って耳とする道理を説明している。学者はただ《説文》の「坎窞」に対する解釈に沿って体会すれば、坎為耳の象は画いたように明白である。

茲再證之《易林》。《同人》之《坎》云:「孔德如玉,出於幽谷。」《坎》中爻震,為孔、為玉、為出,震在坎上,故曰出於幽谷。幽谷卽坎窞也,卽耳象也,純以形言,並無他義。後儒謂北方主聰,故為耳;又有以坎屬腎,腎水衰則耳聾為說者,皆賢者失之過也。

さらに《易林》を取って印证する。《同人》之《坎》に「孔徳玉の如く、幽谷より出ず」と言う。《坎》卦の中間に互いに震を出し、震は孔竅の象・玉の象・出の象があり、しかもこの震体はまさに坎の上方に圧するので「出于幽谷」と言う。「幽谷」とは即ち坎窞であり、すなわち耳の象である――これは純粋に形状について言うのであって、別に深意はない。後の学者は北方が聴覚の聡敏を主るので坎為耳と言い、またある人は坎が人身において腎に属し腎水が衰竭すれば耳聾するを取って説を立てた。これらは皆賢者が心を用いること過度にして、かえって説き過ぎたものである。

震為長子の説

《說卦》獨以震為長子,坎、艮卽不言。《易林》本之,凡單言子者皆指震;若言艮,則小子、少子也。反而求之《易》亦然,詳見首卷。此義至東漢卽失傳。虞翻往往以艮為子,又往往以震為子,恐與艮、坎不分而必曰長子,皆不知此例之證也。

《説卦》はただ震を「長子」と称し、坎・艮に対してはこのように称しない。《易林》はこの体例を沿用した。およそ単に一つの「子」の字を言うのは皆震を指し、もし艮を指せば「小子」「少子」と言う。反って《周易》の中に求証すれば、情形もまた同じである。詳しくは本書首巻に見える。この義例は東漢に至って失伝した。虞翻はある時は艮をもって子とし、ある時はまた震をもって子とした。しかし《説卦》は大概まさに震と艮・坎が混淆して明らかでないことを恐れて、こそ必ず一つの「長」の字を加えて「長子」と言ったのであろう。虞翻のこれらのやり方は、皆この条の義例を解さない明証である。

易林は震をもって尨とする説

前已為龍,此不應作龍審矣。虞翻、干寶皆作「駹」,雲蒼色;鄭作「尨」,雲取日出色。案《左傳》閔二年「尨奇無常」,又「衣之尨服」,注:「尨,雜也。」是鄭義與虞、乾義同,後儒多從之。案《易林》《觀》之《頤》云:「尨降庭堅。」《頤》上艮,艮為庭、為堅;下震,震為尨、為出,故曰尨降。又《謙》之《頤》、《需》之《大畜》語同,是《易林》亦作「尨」,讀與鄭同,但取象則異。

《説卦》は前にすでに震を「為龍」と言った以上、ここでは断じて再び「龍」と書くべきではない。これは明白である。虞翻・干宝は皆「駹」と書き、青蒼色と解した。鄭玄は「尨」と書き、日出の時の雑色を取ると言った。按ずるに《左伝》閔公二年に「尨奇无常」があり、また「之に尨服を衣せしむ」があり、注に言う。「尨とは即ち雑なり。」これで鄭玄の訓義は虞翻・干宝と同じであることが分かり、後の学者は多くこれに跟従した。さらに《易林》《観》之《頤》に「尨降庭堅」と言うのを見れば、《頤》卦の上体は艮であり、艮は庭・堅である。下体は震であり、震は尨・出であるので「尨降」と言う。《謙》之《頤》、《需》之《大畜》の中にも同じ話がある。これで《易林》もまた「尨」と書き、読法は鄭玄と同じであるが、取象は同じでないことが分かる。

鄭作雜,此則訓為犬類。《詩·召贈》「無使尨也吠」,《說文》云:「尨,多毛犬。」案震、巽相對,巽為寡髮,震當然為多毛。《易林》《節》之《謙》云:「首髮如蓬。」是以震為長髮也,故曰尨降。尨降庭堅雖皆人名,此則象取多毛犬也。尨多而狀善吠,無一不與震象合,較以尨為蒼雜者義似勝矣。艮為狗取其守,此則取多毛而善吠,義絕不復也。

鄭玄は「尨」を雑色と訓したが、ここではそれを狗の一類と訓する。《詩経・召南》に「尨に吠えしむること無かれ」があり、《説文解字》に言う。「尨とは多毛の狗なり。」按ずるに震と巽の両卦は相対し、巽がすでに「為寡髪」(頭髪が稀少)なら、震は自然に多毛である。《易林》《節》之《謙》に「首髪蓬の如し」と言うのは、まさに震をもって長髪としたもので、だから「尨降」と言う。「尨降」「庭堅」は皆古人の名であるが、ここでは取るのは多毛犬の象である。狗は毛が多く、様子が凶で善く吠え、震象に合わないものがない。これは「尨」を青蒼雑色と解するより、義理が一層勝るようである。艮が狗と為る所以は、看守の義を取る。ここでは多毛にして善く吠えるの義を取り、両者は絶対に重複しない。

九家逸象の震為玉の説

《九家》逸象震為玉,是以《易林》每遇震卽言珠玉、珪璋、瑚璉。而「玉」或訛作「王」,《釋文》從之。豈知《易林》凡遇震言堯、舜、湯、武者,皆本帝出乎震,以帝為象也。「玉」不訛也。

《九家易》の載せる逸象の中に「震為玉」があり、だから《易林》は毎震卦に遇うごとに、珠玉・珪璋・瑚璉の類の話を言う。しかし「玉」の字はある本子では「王」に訛り、陸徳明《経典釈文》もまた訛字に照らして読んだ。彼らはどうして《易林》がおよそ震に遇って堯・舜・湯・武に言及する所は、依拠するのが《説卦》の「帝出乎震」であり、取るのが「帝」の象であって「王」の字と渉らないことを知らなかったのか。これで「震為玉」の「玉」の字は書き誤っていないことが分かる。

易林の旉の義

震為旉,虞作專靜之專,延叔堅作敷布,干寶以旉為花之通名,後儒各有所主,莫衷一是。案《易林》每遇巽卽言花葉落去,以震伏也;又每遇震卽曰桃李生華,是亦訓旉為華也,象形也。後儒多駁乾說,豈知乾說與焦氏同也。其作專、作敷者,於卦象殊空泛不切;旉為花萼,則於震象恰合也。

《説卦》の「震為旉」というこの条は、虞翻は「専一静止」の「専」と読み、延篤(字は叔堅)は「敷布」の「敷」と読み、干宝は「旉」は花の通称と考え、後の学者は各々一説を執して定まらない。按ずるに《易林》は毎巽卦に遇うごとに花葉の凋落を言う。それは巽の中に震象が潜伏するためである(花は便ち謝す)。毎震卦に遇うごとに桃李の開花を言う。これで《易林》もまた「旉」を花と訓し、取るのは象形の義であることが分かる。後の学者は多く干宝の説を駁斥したが、干宝の講法がまさに焦延寿と同じであることを知らなかった。「専」と読み「敷」と読むのは、卦象に用いれば空泛にして貼切でない。「旉」を花萼と解してこそ、震象と絲絲入扣する。

易林が易より推演した震象

《說卦》震為竹、為葦,《易林》本此,凡遇震卽言周、言孔、言管。《坎》六四以震為樽、為簋、為缶,《易林》遇震卽以為酒杯、為盈。《明夷》以震為箕,《歸妹》以震為筐,《易林》遇震卽言蕢、言筥、言籩豆,凡竹器之屬皆象之。《說卦》言鳴,《易林》遇震,凡物之能鳴者皆屬之。《中孚》言鼓,《豫》卦言樂,《易林》遇震,凡一切樂器皆屬之。《說卦》言稼,《易林》遇震,凡一切黍稷菽豆禾麻之類皆屬之。《說卦》言蕃鮮,《易林》遇震,凡草萊之屬皆屬之。

《説卦》に震為竹・為葦と言うと、《易林》は即ちこの条に依る。およそ震に遇えば「周」を言い「孔」を言い「管」を言う(竹葦は中空にして孔あり、之を截れば即ち管を成す)。《坎》六四の「樽酒簋貳用缶」は震をもって樽・簋・缶とし(《坎》の中に互震あり)、《易林》は震に遇えば取って酒杯・盛満とする。《明夷》六五の「箕子」は震をもって箕とし、《帰妹》上六の「女筐を承く」は震をもって筐とし(両卦に皆震あり)、《易林》は震に遇えば蕢(草編の筐)を言い筥(円形の竹器)を言い籩豆を言い、およそ竹器の一類は全て震に帰する。《説卦》に震は馬において「為善鳴」と言うと、《易林》は震に遇え、およそ声を発して鳴くこと能くする物は皆それに帰する。《中孚》六三に「鼓」と言い、《豫》卦《大象》に「楽を作す」と言うと、《易林》は震に遇え、一切の楽器は皆それに帰する。《説卦》に震「為稼」と言うと、《易林》は震に遇え、一切の黍・稷・菽・豆・禾・麻の類は皆それに帰する。《説卦》に震「為蕃鮮」と言うと、《易林》は震に遇え、およそ草莽の属は皆それに帰する。

《說卦》言足、言決躁,於是如鹿、如兔、如蝗蟲,凡以足見長而躁急者,《易林》皆屬之。又《易林》於國名,凡言晉者取震往也,言荊楚者取叢木也,陳者震出,亦取戰陳也,衛者震為警衛也,韓者乾也,亦取震木也,英蓼取草莽也。于姓氏言張者,震健也;蘇李者,震為草木也;言白者,本馵足的顙義也。然不能以此為增象,以皆由《說卦》推演而出。若坤水、坤魚、艮火、巽石之類,方謂之增象,以其至東漢卽失傳。然不明其推演之象,讀《易林》卽不解其所謂也。

《説卦》に震「為足」「為決躁」と言うと、そこで鹿の如く兔の如く蝗虫の如く、およそ脚力をもって長とし性情が躁急なものは、《易林》は皆震に帰する。また《易林》は国名を用いる。およそ「晋」と言うのは、震が前往を主る(晋は即ち進)の義を取る。「荆楚」と言うのは、震が叢生の木であるを取る。「陳」と言うのは、震が出を主るに因り、また兼ねて「戦陳(陣)」の義を取る。「衛」と言うのは、震が警衛であるを取る。「韓」と言うのは、「韓」が即ち井干の「干」であるを取るのであり、依然として震為木を外れない。「英」「蓼」と言うのは、草莽の義を取る。姓氏を用いるに、「張」と言うのは、震の剛健を取る。「蘇」「李」と言うのは、震が草木であるを取る。「白」と言うのは、《説卦》の震「為馵足」「為的顙」(馬足が白、馬額が白)の義に本づく。ただしこれらは皆新增の象と算することはできない。全て《説卦》から推演して出たためである。坤為水・坤為魚・艮為火・巽為石の類の如きこそ、増象と称する。それらは東漢に至って失伝したためである。しかしもしこれらの推演して出た象を明らかにしなければ、《易林》を読んでもそれがいったい何を言っているのかが分からない。

易林寡髪の解

寡之於宣,字形本近。虞翻讀為宣,以白為義,並謂馬融讀寡之非,後儒多從之。按《易林》《隨》之《豐》云:「身多禿癩。」《豐》二至四巽,巽為寡髮,故曰禿。又《復》之《坎》云:「髠刑受法。」《坎》通《離》,《離》中爻巽,故曰髠。又《蒙》之《漸》云:「鳥飛無翼。」《漸》上巽,巽為毛羽、為寡,故無翼。又《需》之《否》云:「毛羽憔悴。」《否》中爻巽,為毛羽、為寡,故憔悴。夫曰禿、曰髠、曰無翼,皆以寡為義,不以白為義。又《需》之《小畜》云:「紝績獨處,寡居無夫。」是焦贛明明讀為寡也。

《説卦》の巽「為寡髪」の「寡」の字は、「宣」の字形ともともと相近い。虞翻は「宣」と読み、白色の義を取り、しかも馬融が「寡」と読むのが誤りであると指摘し、後の学者は多く虞説に跟従した。按ずるに《易林》《随》之《豊》に「身に秃癩多し」と言う。《豊》卦の二から四爻まで互いに巽を出し、巽は寡髪なので「秃」と言う。《復》之《坎》に「髡刑法を受く」と言う。《坎》は《離》と旁通し、《離》卦の中間に互いに巽を出すので「髡」(髪を剃る刑)と言う。《蒙》之《漸》に「鳥飛ぶも翼なし」と言う。《漸》卦の上体は巽であり、巽は毛羽でありまた寡少なので、翼がないと言う。《需》之《否》に「毛羽憔悴す」と言う。《否》卦の中間に互いに巽を出し、毛羽でありまた寡なので憔悴と言う。秃と言い髡と言い無翼と言うのは、全て「寡少」の義を取り、「白色」の義を取る所が一か所もない。さらに《需》之《小畜》に「紝績独り処り、寡居して夫なし」と言うのを見れば、焦贛(焦延寿)が分明に「寡」と読んでいたことが分かる。

乃《易林》《節》之《井》云:「宣髮龍叔。」各本皆作宣勞就力,祗宋本如此,是又明明讀為宣髮也。然《易林》全部觀之,凡遇巽卽言禿、言髠、言落者不可勝數,皆主寡言,而宣髮祗此一見,故吾深疑《易林》原作寡髮龍叔,後人改寡為宣,以就虞義。清惠棟得此,據為宣發之確證,而不知《易林》言此者至多,皆以寡為義,無以宣為義者。又李道平謂寡於巽無取,豈知巽內虛,《易林》遇巽,不曰耗減寡薄,卽曰花葉落去,於風散之義取象最切,較宣義深遠矣。

しかし《易林》《節》之《井》には「宣髪龍叔」の一句がある――この一句は各本とも「宣労就力」と作し、ただ宋本だけが「宣髪龍叔」と作し、それはまた分明に「宣髪」と読んだものである。しかし《易林》全書を通観すれば、およそ巽に遇って秃と言い髡と言い凋落と言うのは数え切れないほど多く、全て「寡少」の義を取り、しかも「宣髪」はただこの一見のみである。だから私は《易林》の原文はもともと「寡髪龍叔」と作したのであって、後人が「寡」を「宣」に改めて、もって虞翻の読法に遷就したのではないかと甚だ疑う。清代の恵棟はこの一句を見て、便ちそれを取って「宣髪」の鉄証としたが、《易林》の中でこの類の話を言う所は極めて多く、「寡少」の義を取らないものがなく、「宣(白)」の義を取る所が一か所もないことを知らなかった。李道平はまた「寡」の字は巽卦において取象する所がないと言う――彼はどうして巽の卦体の内爻が空虚であり、《易林》が巽に遇えば、耗損減少・寡薄を言うか、さもなくば花葉の凋落を言い、これが「風吹いて散ず」というこの層の意において取象最も貼切で、「宣(白)」の解釈に比べて深遠なこと甚だしいことを知らなかったのか。

易林離為乾卦の説

鄭作乾,虞讀為乾溼之幹。案《易林》《巽》之《艮》云:「使乾口來。」《艮》中爻震為口,互離,故曰乾口。又《乾》之《訟》云:「喉焦唇乾,舌不能言。」亦以互離為乾,是虞讀與焦同也。蓋以《噬嗑》九四干胏、九五乾肉為義也。

《説卦》の「離為乾卦」というこの条は、鄭玄は「乾」と書き、虞翻は乾湿の「乾」と読んだ。按ずるに《易林》《巽》之《艮》に「乾口をして来らしむ」と言う。《艮》卦の中間に互いに震を出し、震は口であり、卦中にまた互いに離を出し、離は即ち乾燥なので「乾口」と言う。《乾》之《訟》に「喉焦り唇乾き、舌言うこと能わず」と言う。《訟》卦の二から四爻まで互いに離を出し、同じく離をもって乾とする。これで虞翻の読法は焦延寿と同じであることが分かる。大概彼らは皆《噬嗑》九四の「乾胏を噬う」、九五の「乾肉を噬う」(《噬嗑》の上体はまさに離)に依って義を立てたものである。

易林艮為黔啄の説

馬、鄭、王肅皆讀為黔喙,皆以為豺狼之屬、山居之獸。按《易林》《賁》之《否》云:「東風啟戶,黔啄翻舞。」《否》互艮,故曰黔啄;互巽,故曰翻舞。無惟鳥稱啄,能翻舞空中,獸則不能,故《易林》遇艮卽言鷹隼鷂。蓋艮剛在上,為堅,故《易》與《易林》常以艮為角,鳥啄之堅與角同耳。若豺狼之喙,與堅義不合也。又獸屬黔喙者少,若中原之鳥,十九黔啄,故《易林》獨以鳥當之。

《説卦》の艮「為黔喙之属」というこの条は、馬融・鄭玄・王粛は皆「黔喙」と読み、皆豺狼の類の山中に居る野獣を指すと考えた。按ずるに《易林》《賁》之《否》に「東風戸を啓き、黔啄翻舞す」と言う。《否》卦の二から四爻まで互いに艮を出すので「黔啄」と言い、三から五爻まで互いに巽を出し、巽は風・進退なので「翻舞」と言う。ただ鳥だけが「啄」と称し、またただ鳥だけが空中で翻飛起舞することができ、野獣にはできない。だから《易林》は一たび艮に遇えば即ち鷹を言い隼を言い鷂を言う。大概艮は一つの陽剛爻が上に居り、象を取って堅硬とするので、《周易》と《易林》は常に艮をもって角とする。鳥喙の堅硬は角ともともと一類である。もし豺狼の喙と言えば、「堅」の意と合わない。ましてや黒い嘴の走獣はもともと少なく、しかも中原の鳥は十に八九が皆黒喙であるので、《易林》は単に鳥を用いてこの象に当てた。

由斯證喙為啄之訛字,在西漢時尚未訛也。後儒有覺其不安,兼鳥獸言者,亦誤也。且艮既為狗、為鼠、為虎、為狐,此不宜重言獸也。此有確證:《左傳》昭五年明夷之謙云:「日之謙當鳥。」日之謙卽離變艮,變艮而云當鳥,則艮為鳥明矣。又《小過》云:「飛鳥遺之音。」亦以艮為鳥。自艮鳥之象失傳,後儒謂《小過》卦形象飛鳥,虞翻謂離為鳥,於是解《易》而誤,解《左氏》亦誤矣。

これによって証明し得る、「喙」は「啄」の訛字であり、西汉の時にはまだ訛誤していなかった。後にある人はこの説が不安であることを察覚し、便ち折衷して黔喙は鳥獣を兼指するとしたが、それもまた誤りである。ましてや艮にはすでに狗・鼠・虎・狐等の獣象があるので、ここで再び重ねて獣を言うべきでない。ここにまた鉄証がある。《左伝》昭公五年に《明夷》之《謙》を記して、占辞に「日之謙、鳥に当たる」と言う――「日之謙」とは即ち離が艮に変じたことである。艮に変じて「当鳥」と言うので、艮為鳥は明明白白である。また《小過》卦辞に「飛鳥音を遺す」と言うのも、同じく艮をもって鳥とする。艮為鳥の象が失伝して以来、後の学者は便ち《小過》の全卦形が一隻の飛鳥に象ると言い、虞翻は離為鳥と言った。そこで《周易》を解して誤り、《左伝》を解してもまた誤った。

易林艮為拘の解

前已為狗,當然義復,故虞氏作拘。按《易林》《坤》之《艮》云:「入我邦郭,妻子係獲。」係獲卽拘也。《隨》上六云:「拘係之。」上六伏艮,是《易》亦以艮為拘也。虞讀與焦同也,皆以《易》為本也。

《説卦》は前にすでに艮「為狗」と言ったので、もしここで再び「狗」と作せば義は重複する。だから虞翻は「拘」と書いた。按ずるに《易林》《坤》之《艮》に「我が邦郭に入り、妻子係獲さる」と言う――「係獲」とは即ち拘執である。《随》上六に「之を拘係す」と言い、上六の居る上体は兌であり、兌の伏卦はまさに艮である。これで《周易》もまた艮をもって拘としたことが分かる。虞翻の読法は焦延寿と同じであり、両家とも《周易》自体をもって依拠とした。

易林艮堅多節の解

《易林》凡遇艮,卽以為壽考、為仙道、為長生、為松喬,皆取象于堅,此以人為說也。若於木,《節》之《萃》云:「千歲槐根,身多斧瘢。」蓄謀互艮,千歲謂堅,斧瘢謂多節,是焦讀本有堅字也。乃《釋文》云本無堅字,《集解》亦無,虞氏亦祗訓節,不及堅,是虞讀亦無堅字也。若《易林》則有也。

《易林》はおよそ艮に遇えば、取って寿考・仙道・長生・赤松子と王子喬とする。これらは皆艮の「堅」に象を取り、人事の一面について言ったものである。もし樹木の一面について言えば、《節》之《萃》に「千歳の槐根、身に斧瘢多し」の一句があり、その卦中に互いに艮体を出す(原文の「蓄謀」二字は訛脱がある疑い)。「千歳」はまさに艮の堅を言い、「斧瘢」はまさに艮の多節を言う。これで焦延寿の拠った《説卦》本子にはもともと「堅」の字があり、「為堅多節」と作していたことが分かる。しかし陸徳明《経典釈文》は本に「堅」の字がないと言い、李鼎祚《周易集解》にもなく、虞翻も同じくただ「節」を訓するのみで「堅」に及ばない。これで虞翻の拠った本にも「堅」の字がなかったことが分かる。《易林》の拠った本に至っては、それは有ったのである。

艮止は覆象を用いる説

舊謂陽在上故止者,非也。《雜卦》云:「震起也,艮止也。」此互文也,解最有味。蓋艮震同體,震為行故起,震反則不行而止矣。《艮》彖云「時行則行」,謂震也;「時止則止」,謂震覆為艮也。《易》用覆象,莫明於止,莫妙於此,可互為註腳也。自覆象失傳,真詁遂晦。

旧説は艮は一陽が上位に居るので静止を主ると考えたが、これは正しくない。《雑卦伝》に言う。「震とは起なり、艮とは止なり。」この二句は互文見義であり、体味すれば最も意趣がある。もともと艮と震はもともと同一の卦体である。震は行動なので「起」と言い、震を倒転すれば(艮を成す)行かずして止まる。《艮・彖》に「時行すれば則ち行す」と言うのは震を指し、「時止すれば則ち止す」と言うのは震が倒転して艮を成したことを指す。《周易》が覆象を運用するのに、この「止」の字より顕豁なものはなく、またこの用法より精妙なものもなく、二句はまさに互いに注脚を為し得る。覆象の例が失伝して以来、この層の真の訓詁もまた晦渋不明となった。

易林兌為剛魯の説

《易林》凡遇兌則曰魯。《坤》之《離》云:「齊魯爭言。」《離》中爻兌巽,巽齊兌魯,通《易林》凡數十用,無作滷者。又鹽滷之地,皆湖澤之舊陂,或近湖澤者始生鹽滷,皆因溼潤,非因剛堅。《書·洪範》「潤下作鹹」,疏云:「水性本甘,久浸其地,變而為鹹。」是其證。又《左傳》襄三十五年,楚子木使表淳滷,注:「淳滷,埆薄之地。」淳者,漬也,沃也。夫必漬而後咸鹵,剛保能咸鹵?

《易林》はおよそ兌卦に遇えば即ち「魯」と言う。《坤》之《離》に「斉魯言を争う」と言う。《離》卦の中間に互いに兌と巽を出し、巽は斉を代表し兌は魯を代表する。《易林》を通検すれば、このように用いる所は数十か所あり、「鹵」と書く所が一か所もない。さらに言えば、塩鹵を出産する土地は皆湖沢の旧堤岸であり、あるいは湖沢に近い所でこそ塩鹵を生じ、その成因は潮湿浸潤であって、土質が剛硬堅実なためではない。《尚書・洪範》に「潤下は鹹を作す」と言い、孔穎達《正義》は解釈して言う。「水の性はもともと甘く、久しく土地に浸泡して、はじめて鹹に変ずる。」これが即ち証拠である。また《左伝》襄公三十五年(二十五年と作るべき)に楚国の令尹子木が人を遣わして「淳鹵」の地を標記せしめたのを記し、杜預注に「淳鹵とは、瘠薄の土地なり」と言う。「淳」とは即ち浸漬・沃灌である。これで必ず先ず水の浸漬を経て後にはじめて鹹鹵があることが分かる。剛硬の土地にどうして鹹鹵が生じようか。

又案《漢官儀》,天子出入後衛甲楯曰鹵簿;《高帝紀》「毋得掠滷」,皆以威猛強暴取義。又《莊子·則陽篇》:「昔予為禾,耕而鹵莽之,則其實亦鹵莽而報。」注:「鹵莽,麁粗也。」又《釋名》:「地不生物曰滷。」若依《莊子》《釋名》為訓,剛滷二字方可連屬。剛者,堅也勁也;滷者,粗也。剛滷者,謂土地磽确,粗疏而不柔和也。《易林》之訓,蓋與《莊子》《釋名》同也。然不作滷而作魯者,滷魯古通用。

さらに《漢官儀》を考えるに、天子が出行する時に殿後し護衛する甲士盾牌の列を「鹵簿」と称す。《漢書・高帝紀》に「掠鹵することを得ること勿れ」と言い、これらの「鹵」の字は皆威猛強暴の義を取る。《荘子・則陽篇》に言う。「昔者吾が禾を為すに、耕するに鹵莽し、禾は吾に報いる収穫もまた粗劣なり。」注家は解釈して言う。「鹵莽とは即ち粗疎なり。」《釈名》はまた言う。「土地が物を生ぜざるを鹵と曰う。」もし《荘子》と《釈名》に依って訓釈すれば、「剛鹵」の二字こそ連なることができる。「剛」は堅硬勁実であり、「鹵」は粗疎であり、「剛鹵」とは即ち土地が磽薄堅硬にして粗疎で柔和でないことを言う。《易林》の訓義は、大概《荘子》《釈名》と同一路である。《易林》が「鹵」と書かずして「魯」と書くに至っては、「鹵」「魯」の二字が古時通用したためである。

《史記·遊俠傳》滷公孺,《漢書》作魯公孺,是其證。虞翻訓滷為鹹,不誤也;但以訓剛滷之滷亦為鹹,則誤矣。後人不察,作為定詁。今以《史記》《漢書》證《易林》,由《易林》證《易》,知剛滷之滷確訓為粗鹵,而不訓為鹹。若訓咸,則《易林》不作魯矣。至於《說文》以西方咸地訓滷,殆亦因《說卦》兌西而誤。不然,西方咸地不如東方多也明矣。《禹貢》云:「海濱廣斥。」《史記》釋之云:「海濱廣舄,厥田斥鹵。」是其證也。

《史記・游侠列伝》の中の「鹵公孺」は、《漢書》では「魯公孺」と書く。これが即ち明証である。虞翻は「鹵」を鹹と訓したが、それ自体は誤りでない。しかし《説卦》の「剛鹵」の「鹵」までも鹹と訓したのは誤りである。後人は考察を加えず、竟にそれを定論とした。今《史記》《漢書》を取って《易林》を印证し、また《易林》によって《周易》を印证すれば、「剛鹵」の「鹵」は確かに粗劣と訓すべきであり、鹹と訓すべきでないことが知れる。もし鹹と訓すれば、《易林》は「魯」と書かないであろう。《説文解字》が「西方の鹹地」を取って「鹵」を解釈したに至っては、おそらく《説卦》の兌が西方に居るに因って誤を致したのであろう。さもなくば、西方の塩鹸地は東方より多くないことは極めて明白である。《尚書・禹貢》に「海浜広斥なり」と言い、《史記》は「海浜広舄、厥の田斥鹵なり」と解釈する。これが即ち証拠である。

易林兌為羔の解

上已為羊,此不應復,虞作羔是也。但虞謂羔仍與羊無別,訓為女使,其義甚澀。治虞易者謂鄭作陽,與養通,謂養無家女,行賃炊爨,賤於妾,虞訓女使,正與鄭合。若然,謂羔為養之訛字則可,趕訓羔為斯養,則義不能通也。茲《易林》《晉》之《臨》云:「羔羊皮弁。」是以兌為羔也。羔者小羊,兌少,故為羔。虞訓為女使,非也。艮為手復為指,兌為羊復為羔,與艮指同耳。疑與羊無別者非也。

《説卦》は上文にすでに兌「為羊」と言ったので、ここでは重複すべきでなく、だから虞翻が「羔」と書いたのは正しい。しかし虞翻はまた「羔」と「羊」は実は区別がないと言い、それを女僕と訓した。この解釈は甚だ拗強である。虞氏《易》を研治する人は、鄭玄本は「陽」と作し、「陽」と「養」は相通じ、指すのは家に帰る所なき雇われて炊飯する女子で、地位は妾よりなお低いと言い、虞翻が女僕と訓したのはまさに鄭玄と相合する。もし真にこのようであれば、「羔」は「養」の訛字と言うのはまだ講じ通るが、しかし直ちに「羔」を「斯養」(人に役使される賤者)と訓せば、意思は説き通らない。今《易林》《晋》之《臨》に「羔羊皮弁」と言うのは、まさに兌をもって羔とする。羔は即ち小羊であり、兌は《説卦》において少女であって少小の義を取るので羔となる。虞翻が女僕と訓したのは誤りである。艮はすでに手であり、さらに進んで指となる。兌はすでに羊であり、さらに進んで羔となる――道理は艮為指と全く同じである。羔と羊に区別がないと疑う説は、誤りである。

易林は艮をもって貴とする

《易林》《履》之《節》云:「安上宜官,一日九遷。」《節》互艮,艮陽在上而貴,故曰宜官。又《豫》之《艮》云:「厄窮上通,與堯相逢,登升大麓,國無凶人。」厄窮者坎,上通者艮,陽在上,故曰上通;互震為帝,故曰堯;艮山為大麓,震為登為升,亦以艮為貴也。後思《易》《蠱》上九云「不事王侯,高尚其事」,《賁》六五云「束帛戔戔,賁于丘園」,《大畜》上九何天之衛,《剝》上九君子得輿,皆艮象,皆有在上而貴之象,是《易》本以艮為貴,故《易林》本之。

《易林》《履》之《節》に「上に安んじ官に宜しく、一日に九遷す」と言う。《節》卦の中間に互いに艮を出し、艮は一陽が高く上位に居り尊貴なので、官に宜しいと言う。《豫》之《艮》に「厄窮して上通し、堯と相逢い、大麓に登升し、国に凶人なし」と言う。「厄窮」は互体の坎から取り(坎は険陥)、「上通」は艮から取る。陽爻が上にあるので上通と言う。卦中にまた互いに震を出し、震は帝なので堯を挙げる。艮は山であり、まさに「大麓」であり、震は登・升である――これもまた艮をもって貴とする。後に再び回頭して《周易》を思い求めるに、《蠱》上九に「王侯に事えず、其の事を高尚にす」と言い、《賁》六五に「束帛戔戔たり、丘園に賁り」と言い、《大畜》上九に「何の天の衛(衢)ぞ」と言い、《剥》上九に「君子輿を得」と言う――これらの数条の在る所は皆艮体であり、皆上に居りて尊貴の意を含む。これで《周易》はもともと艮をもって貴としたことが分かり、《易林》はまさにそれに依拠したのである。

易林は震をもって姫とし旗とする、左氏と同じ

《左傳》僖十五年,晉筮嫁伯姬於秦,遇《歸妹》之《睽》,卽震變離也。乃曰:「為雷為火,為嬴敗姬,車脫其輹,火焚其旗。」自服虔?杜預,不知姬與旗之象而誤釋。茲《易林》《賁》之《復》云:「姬伯出走。」震為伯、為走。《易林》以震為周,姬者周姓,故震亦為姬,亦猶巽為齊、亦為姜也。為嬴敗姬者,兌西,嬴西方國,震為姬,震變離形毀,故曰敗姬。火焚旗者,震為旗,震變離,故火焚旗。《易林》《豫》之《中孚》云:「干旄旌旗。」他若《師》之《隨》、《履》之《解》,亦皆以震為旗,是其證也。

《左伝》僖公十五年、晋国が伯姬を秦国に嫁がせるために占筮し、《帰妹》之《睽》を得た。即ち上体の震が離に変じたものである。占辞に言う。「雷と為り火と為り、嬴の為に姬を敗り、車其の輹を脱し、火其の旗を焚く。」服虔から杜預に至るまで(原文ここに缺字あり)、皆「姬」と「旗」の取象を知らず、よって解を誤った。今《易林》《賁》之《復》に「姬伯出走す」と言う。震は伯・走であり、《易林》はまた震をもって周とし、しかも「姬」はまさに周朝の国姓なので、震は即ち姬である――これは巽をもって斉国とし、よって巽が即ち姜姓であるのに譬えるに等しい。いわゆる「為嬴敗姬」とは、兌は西方に居り、嬴は西方の秦国の姓であり、震は則ち姬である。震が一たび変じて離となれば、震の卦形は毀れるので「敗姬」と言う。いわゆる「火焚其旗」とは、震は旗であり、震が変じて離となり離は火なので、火が旗幟を焼くと言う。《易林》《豫》之《中孚》に「干旄旌旗」と言い、その他《師》之《随》、《履》之《解》の如きも、皆震をもって旗とする。これが即ち明証である。

總《左傳》所用之象,為東漢人所不知者,《易林》無不用之,此又易象至東漢失傳之證也。又車說其輹者,孔疏引《子夏傳》云:「輹,車下伏兔,今謂之車屐。」案震為車、為履,屐與履同,然則輹亦震象也。車脫其輹者,言震變離,震象毀,故脫輹。孔疏知為車屐,而不言其為震象,則以賈、服、杜諸儒皆不言而不敢決也。豈知《大壯》九四云「壯于大輿之輹」,卽以震為輿、為輹,輹在車下,正震履也。

総じて見れば、《左伝》が用いるも東漢人がすでに識らなくなったあの象たちは、《易林》に用いていない一条がない――これもまた易象が東漢に至ってはじめて失伝した一つの証拠である。さらに「車説(脱)其の輹」について言えば、孔穎達《正義》は《子夏易伝》を引いて言う。「輹とは、車底の伏兎であり、今は車屐と呼ぶ。」按ずるに震は車・履であり、「屐」と「履」は同一の事である。ならば「輹」もまた震の象である。いわゆる「車脱其輹」とは、震が一たび変じて離となり、震象が毀壊したので車輹が脱落することを言う。孔穎達は輹が即ち車屐であることを知りながら、それが震象に属するとは言わなかった。それは賈逵・服虔・杜預の諸家が皆講じなかったので、彼は自ら判断することを敢えてしなかったためである。彼はどうして《大壮》九四に「大輿の輹に壮んぶ」と言うのが、まさに震をもって輿・輹としたことを知らなかったのか。輹は車底に装著し、ちょうど震の「為履」の象である。

焦氏易詁 巻九

行唐尚秉和節之撰。

本巻も依然として直隷行唐(今の河北行唐県)の人・尚秉和の撰述、尚氏の字は節之。

易林より尋ね得た東漢失伝の象、全部で四十三

一、乾南坤北。目得此象,而天尊地卑、天地定位等詞始能解。東漢人不知此象,故以卦變為解。然東漢人深疑其有此象,管輅云:「吾不解古之聖人何以位乾於西北、坤於西南?夫乾元資始統天,何由有別位也。」是疑乾在南也,而訖無如何。豈知《左傳》大有之幹,卽離變乾,而曰「敬如君所」,所者,位也,古人敬離位如干位也,是《左傳》卽以乾為南也。又晉與楚戰,筮遇《復》,云:「南國蹙,射其元王中厥目。」元者首也,乾為首為王。乾若不居南,自北射南,祗中離目可矣,如何能射中王首哉?

第一、乾は南にあり、坤は北にある。この象を得れば、《繋辞》の「天尊地卑」、《説卦》の「天地定位」の類の話がはじめて講じ通る。東漢人はこの象を知らなかったので、やむを得ず卦変を用いて解釈した。ただし東漢人もまた本来この象があるべきことを甚だ疑っていた。管輅はかつて言った。「私は古代の聖人がなぜ乾を西北に安放し、坤を西南に安放したのか明らかにしない。乾元は上天を統摂して万物の始と為るのに、どうして別に一つの偏位があろうか。」これは即ち乾がもともと南方にあることを疑ったものであるが、しかし彼は終に奈何しようがなかった。彼はどうして《左伝》の記す《大有》之《乾》の筮例、即ち下体の離が乾に変じて、占辞に「君所の如く敬す」と言うのを知らなかったのか。「所」とは即ち位次であり、古人は離の方位を乾の方位として敬奉したので、《左伝》が乾をもって南としたことが分かる。また晋楚が交戦し、筮して《復》卦を得て、占辞に「南国蹙す、其の元王を射て、厥の目を中てたり」と言う。「元」とは即ち頭であり、乾は首・王である。乾がもし南方に居らなければ、北より南に向かって射れば、ただ離の主る眼に中てることができるのみで、どうして王の頭に射中することができようか。

管輅徒知乾位西北,不知春秋時卽以乾為南,卽西漢末仍以乾為南。《太玄》云「南北定位」,是以南北代天地也,仍以乾為南也。《說卦》明言後天方位者,恐人生疑,管輅卽其一人。至先天方位,為法象所固有,在春秋時人人皆知,故無須明言,況天地水火雷風山澤一再對舉之,無異於明言哉!然至東漢末竟失傳,故雖神於《易》若管輅,亦祗心疑其如是,而不敢定其如是也。

管輅はただ後天方位において乾が西北に居ることだけを知り、春秋時の人がもともと乾をもって南としたことを知らなかった。西汉末年に至っても、依然として乾をもって南とした――揚雄《太玄》に「南北定位」と言うのは、南北を取って天地に代えたもので、依然として乾をもって南としたことが分かる。《説卦》が後天方位を明らかに点出した所以は、人の疑を生ずることを恐れたためであり、管輅はまさに疑を生じた人の一人である。先天方位に至っては、もともと卦画法象の中に固有のものであり、春秋時は人人皆知だったので、明言する必要がなかった。ましてや《説卦》は天地・水火・雷風・山沢を屡々対挙するので、これは明言するのと何の差異があろうか。しかし東漢末年に至って竟に失伝したので、管輅のように《易》に精した人であっても、ただ心の中に事がもともとこのようであるべきと疑うのみで、それが即ちこのようであると断定することを敢えてしなかった。

二、離東坎西。自得此象,而《既濟》九五爻詞始能解。東漢人亦疑其必離東坎西方合,而不敢竟言,以日東月西當之,用心良苦,而不知離坎之象本如此也。三、艮西北兌東南震東北巽西南。自得此象,而山澤通氣、雷風相薄如能解,而東漢人不知,故祗以同氣同聲為解。

第二、離は東にあり、坎は西にある。この象を得れば、《既済》九五の「東隣」「西隣」の爻辞がはじめて講じ通る。東漢人もまた必ず離東坎西でなければ講じて合わないことを疑ったが、敢えて直ちにこのように言わず、やむを得ず日が東より出で月が西に生ずるを取って比附した。心を用いた苦衷と言うべきであるが、離坎の方位がもともとこのようであることを知らなかった。第三、艮は西北にあり、兌は東南にあり、震は東北にあり、巽は西南にある。この象を得れば、《説卦》の「山沢通気」「雷風相薄」がはじめて講じ通る。東漢人は知らなかったので、ただ「同気」「同声」を取って籠統に敷衍して過ごすしかなかった。

四、乾日兌月。自得此象,《乾》三終日乾乾之終日,及《大畜》日閒輿衛之日,始得解。《恆》彖傳「日月得天而能久照」,始知日月指互兌互乾。他若《小畜》上九、《歸妹》六五、《中孚》六四之月幾望,及《離》卦《蠱》卦彖傳之言月,始知其皆指兌,舊解皆曲說也。

第四、乾は日であり、兌は月である。この象を得れば、《乾》九三の「君子終日乾乾」の「終日」、および《大畜》九三の「日に輿衛を閑す」の「日」がはじめて落着する。《恒・彖伝》に「日月天を得て能く久照す」と言う。これではじめてその中の日月は卦中に互いに出る兌と乾を指すことを知る(《恒》は二から四まで互乾、三から五まで互兌)。その他《小畜》上九・《帰妹》六五・《中孚》六四の言う「月幾望」の如き、および《離》卦・《蠱》卦《彖伝》の中で言及する月は、これではじめて全て兌を指すことを知る。旧注は皆曲解である。

五、離星震辰。自得離星象,《豐》六二之見斗、九三之見沬,始知斗沬之取象於離。自得震辰象,《艮》彖之時止則止、時行則行、動靜不失其時,始知時之為震。蓋艮震相反覆而體則同,故艮亦為時,時卽辰也。此與《左傳》艮為言、以艮為覆震同也。又按《漢上易》引虞翻云:「離艮為星。」是離星之象虞氏亦知,而解《豐》不用,何哉?

第五、離は星であり、震は辰である。離為星の象を得れば、《豊》六二の「日中に斗を見る」、九三の「日中に沬を見る」において、斗星・沬星が皆離に象を取ったことをはじめて知る。震為辰の象を得れば、《艮・彖》の「時止すれば則ち止し、時行すれば則ち行し、動靜其の時を失わず」において、その中の「時」が即ち震であることをはじめて知る。もともと艮と震は互いに倒卦であって卦体は相同じであるので、艮もまた時と為り得る。しかも「時」は即ち「辰」である。これは《左伝》が艮をもって言とし、艮を震の倒体と見做したのと同一の道理である。また按ずるに朱震《漢上易伝》は虞翻を引いて「離艮為星」と言うので、離為星の象は虞翻もまた知っていたことが分かる。しかし彼が《豊》卦を解するに偏ってこれを用いなかったのは、なぜであろうか。

六、坤水艮火。自得坤水象,凡《易》言利涉大川者皆可解;自得艮火象,《旅》九三之旅焚其次始得解,《旅》火在外,炎上不能焚次也。坤水之象,除《易林》用之外,《九家易》獨知之,《九家》又以乾為南,故吾謂《九家》必西漢易師。七、坎土巽石。坎土之象,在《易》祗《震》九四云震遂泥,九四互坎,坎為泥,於為土之義較近,蓋坎為塞而中實,自然土象,故《易林》用之,邵子本之。至巽石之象,《易》《困》六三曰:「困于石,據于蒺藜。」蒺藜者下坎,石則自東漢以來皆用伏艮,向疑其於六三無涉,今得巽石之象,於是困于石三字始得真解。

第六、坤は水であり、艮は火である。坤為水の象を得れば、《周易》がおよそ「利渉大川」と言う所は皆解し通ることができる。艮為火の象を得れば、《旅》九三の「旅其の次を焚く」がはじめて講じ通る――《旅》卦の離火は上体外卦にあり、火性は上に向かって燃えるので、下の旅舎に焼き及ぼすことができない。これで舎を焚く火は下体の艮から出たことが分かる。坤為水というこの象は、《易林》が使用するほか、ただ《九家易》だけがなお知っていた。《九家》はまた乾をもって南とするので、私は《九家易》が必ず西汉の易学師伝から出たと断定する。第七、坎は土であり、巽は石である。坎為土の象は、《周易》の中でただ《震》九四に「震遂に泥む」と言うのみで、九四の処する所はまさに互いに坎を出し、坎は泥であり、「土」の意と較べて近い。大概坎は閉塞して中爻が充実するので、自然に土象がある。だから《易林》はそれを用い、邵雍もまたそれを承襲した。巽為石の象に至っては、《困》六三に「石に困み、蒺藜に拠る」と言う。「蒺藜」は下体の坎を取り、しかも「石」は後漢以来皆伏艮を用いて解釈した。私は一向にそれが六三と少しも相関しないことを疑っていた。今巽為石の象を得て(《困》は三から五まで互巽、六三はまさに巽の初爻に当たる)、「困于石」の三字にはじめて真解を得た。

八、乾山乾河。自得乾山象,《同人》九三升其高陵始得解;自得乾河象,《同人》利涉大川始得解。而乾河之象,亦《九家》知之。九、坤魚兌華。自得此象,《剝》六五貫魚始得解,《大過》九五枯楊生華亦得解,知舊說皆誤也。十、震神震南震父震公震翁同。自得震神象,始知《繫詞》所謂神、《說卦》所謂神皆謂震;自得震南象,始知《易》《明夷》九三明夷於南,及《升》卦詞之甫征吉、《左傳》之南國蹙,皆指震為南;自得震父震公象,始知《蠱》之幹父,《解》及《小過》上卦之公之皆指震。余初解《易林》《復》之《巽》,有伯仲欲南之語,以為巽通震,震上升為南;又閱惠氏《易說》,說《允升》云「進升向南,故曰南征」,亦以上進為南,方喜餘說之不孤,後知《易林》卽以震為南,然後悟前說之皆非。易象失傳之難於索解如此,詳皆見前。

第八、乾は山であり、乾は河である。乾為山の象を得れば、《同人》九三の「其の高陵に升る」がはじめて講じ通る。乾為河の象を得れば、《同人》卦辞の「利渉大川」がはじめて講じ通る。乾為河というこの象は、《九家易》もまた知っていた。第九、坤は魚であり、兌は華である。この二つの象を得れば、《剥》六五の「魚を貫く」がはじめて講じ通り、《大過》九五の「枯楊華を生ず」もまた講じ通り、旧説が全て誤っていたことをはじめて知る。第十、震は神・南・父・公であり、「翁」と「公」は同じである。震為神の象を得れば、《繋辞》の言う「神」、《説卦》の言う「神」が皆震を指すことをはじめて知る。震為南の象を得れば、《明夷》九三の「明夷南に狩る」、《升》卦辞の「南(甫)征吉」、《左伝》の「南国蹙す」が皆震をもって南としたことをはじめて知る。震為父・為公の象を得れば、《蠱》卦の「干父」および《解》と《小過》の上体震が言う「公」が皆震を指すことをはじめて知る。私ははじめ《易林》《復》之《巽》を解するに、「伯仲南を欲す」の語があるのを見て、巽と震が相通じ震が上に向かい升れば即ち南と考えた。また恵棟《易説》を読むに、彼は《升》初六の「允升」を解して「進升して南に向かう、故に南征と曰う」と言い、これもまた上進をもって南としたので、私はちょうど自分の見方が孤单でないことに喜んでいた。後にはじめて《易林》が直ちに震をもって南とすることを知り、これに先前のあの説法が皆正しくなかったと悟った。易象が失伝した後、索解すること竟にこの地步まで難しい。詳細は皆前文に見える。

十一、艮壽艮貴艮鳥。自得艮壽象,知堅多節確有堅字;自得艮貴象,知《蠱》上九、《剝》上九、《賁》與《大畜》上九爻詞皆指艮貴也;自得艮鳥象,《小過》之飛鳥、《說卦》之黔喙、《左氏》日之謙當鳥,始俱得解。十二、坎為大首為肉。自得大首象,而《明夷》九三、《既濟》上六爻詞皆可解;自得肉象,而《噬嗑》三四五爻詞皆可解,而知舊解之皆誤也。

第十一、艮は寿・貴・鳥である。艮為寿の象を得れば、《説卦》の艮「其の木に於いても堅多節と為る」の一句に確かにもともと「堅」の字があったことを知る。艮為貴の象を得れば、《蠱》上九・《剥》上九・《賁》と《大畜》上九のこれら数条の爻辞が皆艮の尊貴を取ったことを知る。艮為鳥の象を得れば、《小過》卦辞の「飛鳥」、《説卦》の「黔喙」、《左伝》の「日之謙、鳥に当たる」が全て講じ通る。第十二、坎は大首・肉である。坎為大首の象を得れば、《明夷》九三の「其の大首を得」、《既済》上六の「其の首を濡らす」の爻辞が即ち皆解し得る。坎為肉の象を得れば、《噬嗑》の三・四・五の三爻の爻辞が即ち皆解し得、また旧注が全て誤っていたことをはじめて知る。

十三、巽母艮臣艮祖。自得此三象,《小過》六二爻詞始能解。自東漢迄今,治《易》者不啻千百,震君之象知之者已少,至巽母艮臣艮祖三象知者尤少,故竭群儒之力不能通此爻,不能通而強說,於是以初六為祖而穿鑿矣,虞氏其尤也。及《易林》揭出此象,詳卷三,遂迎刃而解,又甚易也。十四、震射震孕。自得射象,《解》上六爻詞、《井》九二爻詞之言射,及《左氏》之射其元,始知射皆指震;自得孕象,始知《漸》九三九五婦孕之皆指震。

第十三、巽は母・艮は臣・艮は祖である。この三つの象を得れば、《小過》六二の爻辞がはじめて講じ通る。東漢から今日に至るまで、《周易》を研治した者は千百家を下らないが、震為君を知る者はすでに少なく、巽母・艮臣・艮祖のこの三つの象に至っては、知る者はなおさら少ない。だから群儒が気力を尽くしてもこの一爻を読み通せない。読み通せないのに強いて説を立てるので、そこで或る人は初六を「祖」と説き、なおさら穿鑿であり、虞翻は特に甚だしかった。《易林》がこの幾つかの象を掲示するに及んで(詳しくは本書巻三に見える)、便ち迎刃而解し、かえって極めて容易となった。第十四、震は射・孕である。震為射の象を得れば、《解》上六の「公用て隼を射る」、《井》九二の「鮒を射る」の言う射、および《左伝》の「其の元を射る」において、「射」が皆震を指すことをはじめて知る。震為孕の象を得れば、《漸》九三・九五の言う「婦孕」が皆震を指すことをはじめて知る。

十五、震姬震旗。自得此象,《左傳》為嬴敗姬、火焚其旗,姬與旗之象始能解,而知杜注之不當。凡《易林》云姬姜者,皆謂震巽也,震為周,故為姬,猶之以巽為齊、亦為姜也。初讀《易林》,皆不知姬與旗之所指,後由《左氏》證《易林》,由《易林》證《左氏》,始確知其象,覺杜注孔疏之空泛無根。十六、巽敝巽落。自得此象,《井》卦之甕敝漏、《鼎》初六之鼎顛趾始得解。十七、震車震輹。自得此象,《小畜》九三、《大畜》九二之輿脫輹,《大壯》九四之輿輹,始皆得解。

第十五、震は姬・旗である。この二つの象を得れば、《左伝》の「為嬴敗姬」「火焚其旗」の中の姬と旗の取象がはじめて講じ通り、また杜預の注解が不当であったことをはじめて知る。およそ《易林》が「姬」「姜」を言う所は皆震と巽を指す。震は周なので姬となり、これは巽をもって斉とし、よって巽がまた姜となるに譬えるに等しい。私がはじめて《易林》を読んだ時は、全く姬と旗が何を指すかを知らなかった。後に《左伝》を用いて《易林》を印证し、また《易林》を用いて《左伝》を印证して、はじめてそれらの象を確かに知り、また杜預注・孔穎達疏が空泛にして根拠がないことを覚えた。第十六、巽は敝・落である。この二つの象を得れば、《井》卦の「瓮敝漏」、《鼎》初六の「鼎顛趾」がはじめて講じ通る。第十七、震は車・輹である。この二つの象を得れば、《小畜》九三・《大畜》九二の「輿説(脱)輹」、および《大壮》九四の「大輿之輹」が、はじめて全て講じ通る。

十八、艮角巽羸。自《易林》以艮為角,始知《晉》《姤》上九之角、《大壯》九三之角,皆以陽在上而取象。虞氏祗以乾首為說,豈知陽在下,《易》無言角者,《易林》所本也。自得巽羸象,始知《姤》初之羸豕、《井》卦之羸瓶皆指巽,《大壯》九三之羸角,則以上卦之伏巽。十九、震飛震翼。《易林》每以震為飛為翼,因是推之,《易》《泰》六四之翩翩、《小過》飛鳥之飛,皆以震也。

第十八、艮は角・巽は羸である。《易林》が艮をもって角とするに及んで、《晋》上九の「晋其の角」、《姤》上九の「姤其の角」および《大壮》九三の「角」が、皆陽爻が上に居るの象を取ったことをはじめて知る。虞翻はただ乾を取って首として解説したが、およそ陽爻が下にある卦においては、《周易》はかつて「角」を言ったことがないことを、彼はどうして知らなかったのか――これはまさに《易林》が依拠した道理である。巽為羸弱の象を得れば、《姤》初六の「羸豕」、《井》卦の「其の瓶を羸す」が皆巽を指すことをはじめて知る。《大壮》九三の「其の角を羸す」は、上体の震が伏する巽を取ったものである。第十九、震は飛・翼である。《易林》は常に震をもって飛・翼とする。これによって類推すれば、《周易》《泰》六四の「翩翩」、《小過》の「飛鳥」の「飛」も、皆震に象を取ったものである。

右四十三象,於《易林》之多年矣,而訖不知其所謂。後由各書推《易林》,由《易林》推《易》,反覆推勘,勞精弊神者數年,始通《易林》之詞,始得此四十三象,而經義始通,誤解如黜。鉤深索隱,厥維艱哉!然失傳而未尋得者尚不知有幾也。

以上の四十三の象は、私は《焦氏易林》の中で多年に読んだが、終始それらがいったい何を指すか明らかにしなかった。後に各种の典籍を用いて《易林》を推し求め、さらに《易林》を用いて《周易》を推し求め、反覆勘験し、心神を数年間耗費して、はじめて《易林》の林辞を読み通し、はじめてこの四十三の象を得た。経文の義理はこれによってはじめて通じ、旧日の誤解もまたこれに随って掃除された。幽を探り隠を索めることは、実に艱難である。しかし失伝して今に至るまでなお尋ね得ていない象は、なおどれほどあるか知れない。

至以巽為齊,以兌為魯,以艮為宋,《說文》以木架屋曰宋,正艮象也;為燕,取東北;為魏,魏闕,艮象;以坎為鄭,坎為平,鄭者,《說文》:地町町然平也;以兌為秦,以震為朝鮮、為趙,《說文》:趨也;為韓等,以及人名、地名、鳥獸蟲魚名、蠻夷名,脫口而出,若不經意,然無不與卦象密合。不惟見其用象之能,且證其小學之精。然皆由《說卦》推演之象,而非失傳之象。

《易林》が巽を用いて斉国を代表し、兌を用いて魯国を代表し、艮を用いて宋国を代表するに至っては――《説文解字》に「木を用いて架屋するを宋と曰う」と言うのは、まさに艮の象である。燕国を代表するのは、艮が東北に居るを取る。魏国を代表するのは、「魏闕」が高く聳えて艮象に合するに因る。坎を用いて鄭国を代表する――坎は平であり、《説文》は「鄭」を「地町町然として平かなり」と釈す。また兌を用いて秦国を代表し、震を用いて朝鮮・趙国を代表する――《説文》は「趙」を「趨」と釈し、まさに震が動を主るの義に合す。および韓国を代表する等である。このほかまた人名・地名・鳥獣虫魚の名・四夷の名があり、皆脱口而して出で、あたかも漫るまま経心せざるが如くであるが、卦象と厳密に契合しないものが一つもない。これはただ焦氏が卦象を運用する本领を見るに足るのみならず、彼の文字訓詁の学の精深であることも証明し得る。ただしこれらは皆《説卦》から推演して出た象であり、失伝の象ではない。

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