蹇六二「王臣蹇蹇」の象
《易林》以艮為臣,初不知其用何象,後思《易》《遯》九三云「畜臣妾吉」,《小過》六二云「遇其臣」,皆以艮為臣,而《蹇》下艮,亦曰王臣。《易》之以艮為臣,可謂至明矣。後之人不解林詞者,因《易》象至東漢失傳故也。《易林》,字字步趨《周易》者也。
《焦氏易林》は艮をもって臣とするが、はじめ私はそれが何の象に拠るか明らかでなかった。後に《周易》《遯》卦九三に「臣妾を畜えば吉」、《小過》六二に「其の臣に遇う」とあるのを思い至り、いずれも艮をもって臣としており、《蹇》卦の下体はまさに艮なので、「王臣」とも言う。これで《周易》が艮をもって臣とするのは、これほど明白なことはないと分かる。後人が林辞を読み解けないのは、《易》象が東漢に至って失伝したためである。《焦氏易林》は、一字一句が皆《周易》に緊密に随っている。
睽六三の爻詞の解
三體坎,坎為輿為曳,三在坎末,兌見,故曰輿曳。離為牛。「掣」,鄭作「?」,「牛角皆踴」也,案此最得解。兌之為羊,亦取象於角,牛角與羊等耳。又《易林·大畜之睽》云:「傷破妄行,觸壁觗牆。」亦以角踴為說,不以牽掣為訓。踴者,起也,言牛角騰踴上出也。
六三の処する所は坎体であり、坎は車輿・拖曳であり、六三は坎体の末位に居り、しかも兌象が顕現するので、爻辞に「輿の曳かるるを見る」と言う。離は牛である。「掣」の字は鄭玄が別の字に作り(原書はこの字缺刻)、「牛角皆踊る」と注したが、私はこの解釈が最も得当だと思う。兌が象を羊に取る所以も、まさに角の上から取ったものであり、牛角と羊角は同じ一類である。また《易林・大畜之睽》に言う。「傷破して妄に行き、壁に触れ墻に觗る。」これもまた角が上に聳えることを取って説を立てたもので、「掣」を牽引と訓しない。いわゆる「踊」とは、即ち聳起であり、牛角が高く上に翹出することを言う。
「天」,馬融云:「剠鑿其額曰天。」鄭注《周禮·司刑》云:「截鼻曰劓。」虞詁亦與馬同。惟此用旁通,東漢人則無一能知者,而以《無妄》二五上下為穿鑿。豈知二陰之卦多矣,若用卦變,《中孚》又何不可,何必《無妄》?又東漢人知艮為鼻,不知額亦為艮,艮陽在上,《易林》凡言面、言額鼻者皆謂艮。《睽》兌通艮,今艮伏兌,見而上毀,故曰剠額;艮形滅,故曰截鼻,全用旁通,非由卦變。
「天」の字に至っては、馬融が言う。「額頭に黥刺して字を鑿つのを『天』と言う。」鄭玄は《周礼・司刑》に注して言う。「鼻を割くのを『劓』と言う。」虞翻の訓釈は馬融と同じである。ただここで用いたのは旁通の法であり、後漢人は竟に一人も解る者がなく、かえって《无妄》の二・五の両爻を上下昇降させて穿鑿した。彼らがどうして思い至ろうか、二陰の卦は非常に多く、もし卦変を用い得るなら《中孚》はなぜ不可なのか、何のために必ず《无妄》でなければならないのか。さらに後漢人は艮が鼻であることを知っていたが、額頭もまた艮に属することを知らなかった――艮は一陽が上にあり、ちょうど人面の上部に当たる。《易林》はおよそ面を言い、額と鼻を言う所は皆艮を指す。《睽》の上体の兌は艮と旁通し、今艮は潜伏して兌が顕現し、兌は毀折を主りて上端が殘缺するので「額を黥す」と言う。艮の形体は泯滅するので「鼻を截る」と言う。これは全て旁通を用いたもので、卦変から来たのではない。
又俞樾云:「凡《易》皆以天為陽,今忽詁為剠額,無乃太異。考《荘子·德充符》篇『魯有兀者』,《釋文》曰:『李云:刖足曰兀。』其人兀且劓,猶《困》九五曰『劓刖』也。古文天作『?[上兀下兀]』,見《玉篇》,故兀誤為天。」案俞氏此詁,於象尤合,震為足,三震象半見,故刖足。又以天為刑,愚亦心異之,而不能求得馬氏之所本。朱漢上云:「《易傳》髡曰天。」以《易》象考之,《易傳》是也。漢上善用覆,兌覆巽,巽寡髮,故曰髡,亦切於馬詁也。
別に俞樾が言う。「《周易》はおよそ『天』の字を用いれば皆陽を指すのに、今忽然として額を黥すると訓するのは、未免甚だ離奇である。考えるに《荘子・徳充符》篇の『魯に兀者有り』に、陸徳明《経典釈文》は『李頤曰く、足を断つのを兀と言う』と言う。然らば『其の人兀かつ劓り』とは、《困》卦九五の言う『劓刖』の如きである。古文の『天』の字は上下二つの兀と書き(この字は《玉篇》に見え、原書は缺刻)、だから『兀』が誤って『天』となった。」私は俞樾のこの訓釈が卦象と特に相合すると思う。震は足であり、六三は震象が半ば見える位に処るので足を断つと言う。「天」を一種の刑名とすることに至っては、私も心に怪しいと思うが、しかし馬融の本づく所を探し出せない。朱震(号は漢上)が言う。「《易伝》は髪を剃ることを『天』とする。」《易》象をもって考察すれば、《易伝》の説法は正しい。朱震は覆象の運用に善い。兌を倒せば即ち巽であり、《説卦》に巽は寡髪なので髡(髪を剃る)と言う。これは馬融の訓釈ともまた貼切する。
睽上九は対象を用いる
《睽》上離,離對坎,坎為豕、為塗、為鬼、為車、為弧、為寇、為雨,《易》見離而象盡用坎,水火相逮不分也。後儒惟來知德氏窺見此旨,曰「此用錯象坎」,餘皆以中爻坎為說。不本《易林》,皆與《易林》闇合,故夫來氏真有心得者也。後儒因不明此旨,因而不解《易林》。《易林》說巽而詞象用震,說兌而詞象用艮,如此者十蓋五六也。後儒不解《易》,故亦不解《易林》矣。
《睽》卦の上体は離であり、離の対卦(旁通)は坎である。坎は豕・泥塗・鬼・車・弓弧・寇盗・雨である。《周易》のこの爻が見るのは離であり、しかし取る象は全て坎を用いる。これは水火が相互に及逮し、もともと分かつべからざるためである。後代の儒者ではただ来知徳だけがこの層の意を看破し、「ここは錯象の坎を用いた」と言い、その余の各所でも彼は皆中爻互坎を取って説を立てた。彼は《焦氏易林》に依拠しなかったのに、言う所が処処《易林》と暗合するので、来知徳は真に心得のある人である。後儒はこの道理を明らかにしないので、《易林》もまた読み解けない――《易林》の中で説くのは巽なのに辞象は震を用い、説くのは兌なのに辞象は艮を用いる。このような情形は十条の中に常に五六条ある。後儒はすでに《周易》を解さないので、自然に《易林》もまた解さない。
餘因《易林》無一字不根於象,而悟《易》亦然也。蓋古聖人之制《易》詞,皆澄心凝慮,目視卦象而為之,忽於甲有觸卽生甲象,忽於乙又有觸卽生乙象,而上下文不必相屬,吉與凶不必其齊一。
私は《焦氏易林》に一字として卦象に根ざさないものがないのを見て、そこで《周易》もまたこのようであると悟った。大概古代の聖人が卦爻辞を制作した時は、皆心思を澄まし神慮を凝らし、目を卦象に注いで書いた。忽然として甲の所に触発される所があれば、甲象の辞を生じ、忽然として乙の所にまた触発される所があれば、乙象の辞を生じた。ゆえに上下文は必ずしも互いに連属せず、吉と凶もまた必ずしも前後が画一でない。
如《睽》卦之詞,至易見矣:方喜馬復,忽又見惡人;方見輿牛,忽又見人之天且劓;方見豕,又見鬼;方慮張弧,又喜遺壺;方慮寇,又冀雨。迷離閃灼,其詞若不從卦象生,不發狂乎?而執者解《困》之有言不信,必與上文大人吉相屬;解《震》上六「震不于其躬,于其鄰」,必與下「婚媾有言」相屬,胡能通乎?
《睽》卦の爻辞の如きは、最もこの点を見やすい。剛に「馬を喪うも逐う勿れ、自ら復る」と喜んでいたかと思えば、忽然また「悪人を見る」。剛に「輿曳かれ牛掣かる」を見たかと思えば、忽然また「其の人天かつ劓り」を見る。剛に「豕の塗を負うを見る」を見たかと思えば、また「鬼を一車に載る」を見る。剛に「先づ弧を張る」を憂えたかと思えば、また「後に壺を説く」に欣喜する。剛に「寇に匪ず」を憂えたかと思えば、また「雨に遇えば則ち吉」に指望する。辞意は迷离閃爍して、もし卦象から一々生じたのでなければ、発狂の囈語となったではないか。しかし拘執する人は《困》卦の「言ありて信ぜられず」を解するに、必ずそれを上文の「大人吉」と一気に連ねようとし、《震》上六の「震其の躬に於いてせず、其の隣に於いてす」を解するに、必ずそれを下文の「婚媾言あり」と一気に連ねようとする――これはどうして講じ通せようか。
解六三「負い且つ乗り、寇を致して至らしむ」の解
《易林》於《解》,往往用半象。茲按《解》六三云「負且乘,致寇至」,卽用半象也。六三體離,離上艮下震,艮為負,震為乘,三正當其間,故負且乘。三上下皆坎,坎為寇,故曰致寇。自來說者皆不協,蓋《易》原用半象,故《易林》本之也。
《焦氏易林》は《解》卦に遇えば、往々にして半象を使用する。今按ずるに《解》六三に「負い且つ乗り、寇を致して至らしむ」と言うのは、まさに半象を用いている。六三は離体の中に処り、この離の上半は艮の半象、下半は震の半象である。艮は背負、震は乗車であり、六三はちょうど両者の間に挟まるので「負且乗」(ものを負いつつ車に乗る)と言う。六三の上下は皆坎であり、坎は寇盗なので「致寇至」と言う。従来この爻を解した者は皆講じて妥帖でなかったが、実は《周易》はもともと半象を用い、《易林》はただそれを沿用したにすぎない。
解上六「公隼を高庸の上に射る」の解
《小過》六五曰「公弋」,卽以震為公。《易林·需之歸妹》云:「同公共母。」《歸妹》上震為公,故曰同公。又《泰之豫》云:「莊公築館。」亦以《豫》上震為公。《解》之上體震,故曰公。射亦震象,《左傳》晉筮遇《復》,云「射其元」,卽以震為射,《易林》本之。
《小過》六五に「公弋にて彼を穴に在るを取る」と言うのは、それは震をもって公としたものである。《易林・需之帰妹》に言う。「公を同じくし母を共にす。」《帰妹》の上体は震であり、震は公なので「同公」と言う。また《泰之豫》に言う。「荘公館を築く。」これも《豫》卦の上体の震をもって公とした。《解》卦の上体はまさに震なので、爻辞に「公」と言う。射ることもまた震象である。《左伝》は晋国が占筮して《復》卦に遇い、繇辞に「其の元を射る」と言ったのを記しており、これは震をもって射としたもので、《焦氏易林》はこの例に本づく。
《艮之姤》云:「荷弓射魚。」《姤》通《復》,《復》下震為射,坤為魚,故曰射魚。又《巽之鼎》云:「矢石所射。」《鼎》通《屯》,《屯》下震為射,上坎為矢,艮為石,故曰矢石所射。《解》上震,故曰射;震為鵠,故亦為隼;伏巽為庸為高。蓋《解》有重險,上六出重險之外,故象曰「解悖」,坎為悖也。公用射隼于高庸之上者,言居高庸之上而射隼,象卦形,故獲(坎為獲)之無不利,非自下射上也。虞翻以三為公,以離為隼,皆因卦象失傳,故誤也。
《艮之姤》に言う。「弓を荷いて魚を射る。」《姤》は《復》と旁通し、《復》の下体の震は射であり、坤は魚なので「射魚」と言う。また《巽之鼎》に言う。「矢石の射る所。」《鼎》は《屯》と旁通し、《屯》の下体の震は射、上体の坎は矢、中爻の艮は石なので「矢石所射」と言う。《解》卦の上体は震なので「射」と言う。震は鵠鳥であり、よってまた隼と為り得る。伏巽は墻垣・高なので「高庸」と言う。《解》卦はもともと重畳の険阻があり、上六はすでに重険の外に出たので、《小象》に「以て悖を解くなり」と言う。坎は即ち悖乱である。「公隼を高庸の上に射る」とは、高墻の上に立って隼を射ることを言う――これはまさに卦の形体に象を取ったもので、だから射獲し(坎は獲取)て利ならざるなしと言えるのであって、下から上に向かって射るのではない。虞翻は九三をもって公とし、離をもって隼としたが、皆卦象が失伝したため、誤った。
《損》卦の大象「君子以て忿を懲し欲を窒ぐ」
損大象君子以懲忿窒欲。此與頤之慎言語、節飲食同也。損二至上亦頣也,此易用五爻互也。二至上正反兩震言相對,有爭訟象,故懲忿;懲忿卽慎言語也。正反兩艮手、兩震口相對,有爭食相制象,故窒慾;窒慾卽節飲食也,皆易林義也。易林《萃》之《損》云:「張王子張,爭財相制。」坤為財,兩艮手相對,故曰爭、曰制。又《大畜》之《損》云:「兩虎爭鬥。」艮為虎,正覆兩艮,故曰兩虎相鬥。夫曰相制、曰相鬥、曰爭,卽懲忿窒欲之反也,皆以正覆對象也。而虞仲翔等以乾為忿,以泰乾初居上為懲忿,坤為欲,艮止為窒慾。後治漢易者奉此說,不敢異詞。由易林證之,皆穿鑿也。乾形破卽為懲忿,說尤可哂。
《損》卦の《大象伝》に「君子以て忿を懲し欲を窒ぐ」と言う。この条は《頤》卦の《大象伝》の言う「君子以て言語を慎み飲食を節す」と同じ一つの道理である。《損》卦は第二爻から数えて上爻まで、また一つの《頤》卦の形を構成する。これは《周易》が五爻互体を使用する例である。二爻から上爻までの間に、一正一反の二つの《震》が彼此相対する。《震》は言・口であり、両口が相向かいして言えば、争訟の象があるので、「忿を懲する」べきである――忿を懲すとは即ち《頤》卦の言う「言語を慎む」である。同様に、一正一反の二つの《艮》は手、二つの《震》は口であり、彼此相対すれば、食を争い相い制する象があるので、「欲を窒ぐ」べきである――欲を窒ぐとは即ち「飲食を節する」である。これらは皆《焦氏易林》の用象の義例である。《易林》《萃》之《損》の条に「張王子張、財を争い相制す」と言う。《損》卦には《坤》があり、《坤》は財貨であり、二つの《艮》の手が相対して争うので「争」・「制」と言う。《大畜》之《損》の条にまた「両虎争闘う」と言う。《艮》は虎であり、《損》卦の中で正反の両《艮》が相畳するので「両虎相闘」と言う。およそ「相制」・「相闘」・「争」と言うのは、まさに「懲忿窒欲」の反面である――ただ本来忿があり欲があるからこそ、懲する必要があり窒ぐ必要があるのである。しかもこれらの取象は一律に正反相覆の対象を用いている。虞翻(字は仲翔)らに至っては、《乾》を「忿」と解し、《損》卦は《泰》卦から来て《泰》の《乾》初爻が上位に昇れば即ち「懲忿」と言い、また《坤》を「欲」と解し、《艮》の止を「窒欲」と解した。後世に漢《易》を治める者はこれを定説として奉じ、異議を唱えることを敢えてしなかった。しかし《易林》を取って印证すれば、これらの講法は皆穿鑿附会である。《乾》の卦形が破壊されたのを即ち「懲忿」と言う説に至っては、なおさら可笑しい。
《益》卦「往くところあるに利し、大川を渉るに利し」の解
益利有攸往、利涉大川解。此與蹇解之利西南同也。蹇陽居五,曰往得中,又居坤中,坤西南,故曰利西南。解陽居四,前臨二陰,曰往得眾,坤為眾,位西南,故亦曰利西南。益陽居五中,下乘三陰,故曰利往,兼蹇解二義也。毛西河謂利往指否初之四,豈知彖明曰:「利有攸往,中正有慶。」五乃中正,四不中正也。而尚詡詡自得曰:「攸往從來未解。」然如此等解,不如不解也。
《益》卦卦辞「利有攸往、利渉大川」の解。この条は《蹇》《解》両卦の言う「西南に利し」と同じ一つの道理である。《蹇》卦の陽爻は第五位に居るので《彖伝》に「往きて中を得」と言い、五爻はまた《坤》体の中に処り、《坤》の方位は西南にあるので「利西南」と言う。《解》卦の陽爻は第四位に居り、前にちょうど二つの陰爻に対するので《彖伝》に「往きて衆を得」と言い、《坤》は衆であり方位は西南にあるので、また「利西南」と言う。《益》卦の陽爻は第五位に居り中を得、下に三つの陰爻を乗るので「利有攸往」と言う――それは《蹇》《解》両卦の義理を兼ねている。毛奇齢(号は西河)は「利往」が指すのは《否》卦の初爻が四位に昇ることだと言う。彼はどうして《彖伝》が明らかに「利有攸往、中正慶あり」と言うのを思い至らなかったのか。五爻こそ既に中であり且つ正であり、四爻は中正でない。毛氏はなお洋洋自得して「『攸往』の二字は従来よく解した人がいない」と言う。このような解釈は、解しないにも及ばない。
至利涉大川,則指初言。初陽臨坤,坤為大川,陽遇陰則通,故曰利涉大川,與損二之利有攸往同也。損二前臨三陰,故利往。凡易言利往、利涉者,義無不通,特坤水象至東漢失傳,必以坎為大川,●●歧誤,而解益之大川尤扞格難通。虞翻云:「三失正,動成坎,坎為大川,故利涉大川。」大川象得矣,而利涉不知屬誰。坎陷,初不利,五亦不利,又陽遇陽則窒,尤不利也。
「利渉大川」に至っては、初爻について言う。初爻は陽爻であり、上に緊臨して《坤》体があり、《坤》は大川である(これは尚氏の主ずる「《坤》為水」の象)。陽が陰に遇えば道路が通暢するので「利渉大川」と言う――これは《損》卦九二に「利有攸往」と言うのと同じ一つの道理である。《損》九二は前に三つの陰爻に対するので、前往に利がある。およそ《周易》が「利往」「利渉」と言う所は、この条の義例に照らして講じて通らないものがない。ただ「《坤》為水」というこの象が東漢に至って失伝し、注家は必ず《坎》を取って「大川」に充当しようとして(ここの原文二字が缺す)、歧出して訛誤を致した。《益》卦の「大川」を解釈するに特に扞格して通じ難い。虞翻が言う。三爻が位を失い正しくなく、変動した後に《坎》を成し、《坎》は大川なので「利渉大川」と言う。このように「大川」の象は確かに求め得られたが、しかし「利渉」するのはいったいどの爻かは説き出せない。《坎》の卦徳は険陥であり、初爻がそれを渉れば利でなく、五爻が渉っても利でない。ましてや陽爻が陽爻に遇えば窒塞して通ぜず、なおさら利を論じるに及ばない。
《益》卦《彖伝》「木の道すなわち行く」の解
益彖木道乃行解。虞翻謂三動成渙,渙舟楫象,巽木得水,故木道乃行,可謂●極。然坤卽為水,依其解,巽木得坤水,豈不益當乎?惜虞不知此象,必變坎始得水,多此波折。蓋木道乃行者,卽月令所謂行春令也。震木巽木,震為春,巽為夏初,正木德昌王之時。而中爻艮亦為木,反震亦為木,故曰木道乃行,不必因涉川而得舟楫為行也。以此為行,義小甚矣。
《益》卦《彖伝》「木道乃行」の解。虞翻は三爻が変動した後に《渙》卦を成し、《渙》には舟楫の象があり、《巽》木が水を得たので「木道乃行」と言うと考えた。これは真に(ここの原文一字が缺す)の極みと言える。実は《坤》はもともと水であり、彼の講法に照らせば《巽》木が《坤》水を得るのでは、なおさら妥当ではないか。惜しいのは虞翻がこの象を解さず、必ず爻を変じて一つの《坎》を出してはじめて水を得たとすることで、徒らにこれだけの回り道をしたことである。実はいわゆる「木道乃行」とは、即ち《礼記・月令》の言う「春令を行う」である。《震》は木に属し、《巽》もまた木に属する。《震》は春季に当たり、《巽》は初夏に当たり、まさに木徳が昌盛して王となる時節である。しかも《益》卦の中爻は互体して《艮》を成し、《艮》もまた木である。反《震》も同じく木なので「木道乃行」と言い、必ずしも川を渉るために舟楫を得てはじめて「行」とする必要はない。「行」を行舟と講じれば、義理はあまりに狭小である。
《益》卦《彖伝》「其の道大いに光」の解
益彖其道大光解。大光之象,因互艮也。此與大畜彖之輝光、艮彖之其道光明,皆指艮言也。此其義,易林最多,乃至東漢而失傳。鄭康成解困卦,謂兌為闇昧。兌與艮對,兌為闇昧,艮當然為光明,乃康成知兌暗而不知艮光。至宋張浚說隨九四、徐幾說艮、吳澄說謙,始知之,乃至清又失。清治漢易者篤守東漢人說,不敢越軌,遂以家法自囿矣。
《益》卦《彖伝》「其道大光」の解。「大光」の象は、《益》卦の中爻が互いに《艮》体を出すためである。これは《大畜》《彖伝》の言う「輝光」、《艮》卦《彖伝》の言う「其道光明」と同じく、皆《艮》について言ったものである。この義例は《焦氏易林》の中で用いること最も多いが、しかし東漢に至って失伝した。鄭玄(字は康成)が《困》卦を解して《兌》が暗昧と言った。《兌》と《艮》はまさに相対の卦であり、すでに《兌》が暗昧なら、《艮》は自然に光明であるべきである。しかし鄭玄はただ《兌》が暗いことを知り、《艮》が光ることを知らなかった。宋代の張浚が《随》卦九四を講じ、徐幾が《艮》卦を講じ、呉澄が《謙》卦を講じて、はじめて再びこの象を明らかにした。清代に至ってはまた失伝した。清代に漢《易》を治める者は東漢人の旧説を死守し、敢えて雷池を一歩も越えず、そこで師法家法に自ら囚禁された。
《損》《益》の「十朋の亀」と《夬》《姤》の「臀に膚なし」の解
損益十朋龜夬姤臀無膚解。易用覆象,莫此為著矣。損六五覆之,卽益六二,故皆曰十朋龜。夬九四覆之,卽姤九三,故皆曰臀無膚、其行次且。既濟三卽未濟四,故皆曰伐鬼方。此與明夷上六之用晉覆、復彖之用剝覆、泰上六之用艮覆、大過九五之用巽覆,義通也,此皆由易林而得其會通也。乃東漢人除荀爽謂中孚兩巽相對、虞翻謂大壯有反巽,餘用者甚少,故吾謂東漢人於覆象半信半疑也。至龜象,則以損益皆互艮象,故皆曰龜。兩貝為朋,言此龜值十朋也。
《損》《益》の「十朋之亀」と《夬》《姤》の「臀無膚」の解。《周易》が覆象(卦体を上下顛倒して象を取る)を使用するのに、これら数か所ほど顕著なものはない。《損》卦の六五爻を顛倒すれば、即ち《益》卦の六二爻なので、二か所とも「十朋之亀」と言う。《夬》卦の九四爻を顛倒すれば、即ち《姤》卦の九三爻なので、二か所とも「臀無膚、其の行次且たり」と言う。《既済》の三爻は即ち《未済》の四爻なので、二か所とも「鬼方を伐つ」と言う。これは《明夷》上六が《晋》の覆象を用い、《復》卦《彖伝》が《剥》の覆象を用い、《泰》卦上六が《艮》の覆象を用い、《大過》九五が《巽》の覆象を用いるのと、道理が相通ずる。しかもこれらは皆《焦氏易林》によってはじめて貫通した。しかし東漢人の中では、荀爽が《中孚》に两《巽》が相対すると言い、虞翻が《大壮》の中に反《巽》があると言った以外、覆象を用いた者は極めて少ない。だから私は東漢人は覆象に対して半信半疑だと言う。「亀」というこの象に至っては、《損》《益》両卦がともに互いに《艮》体を出し、《艮》は亀なので、ともに「亀」と言う。古代は二貝をもって一朋とし、「十朋之亀」とはこの亀が十朋の価値があることを言う。
《夬》卦九四「言を聞きて信ぜず」及び《象伝》「聡明ならず」の解
夬卦九四聞言不信及象聰不明解。此其義亦晦茫二千年矣。虞翻謂震為言,坎為耳,震坎不正,用半象,故聞言不信也。夫以震坎半見為不信,如此解經,謂之為通,其誰信之?清毛西河、焦循、姚配中、惠氏父子之所釋,愈不協矣。易說易象之失傳,此尤顯著。
《夬》卦九四「聞言不信」及び《象伝》「聡不明」の解。この条の意義もまたすでに二千年晦暗不明である。虞翻は《震》が言であり、《坎》が耳であり、しかも《夬》卦の中の《震》《坎》は皆完整せず、ただ「半象」なので「聞言不信」と言うとした。《震》《坎》が半分しか露呈しないことをもって「不信」を解釈するのでは、このように講じて経文がまだ通じると言えるか。誰が信じるだろうか。清代の毛奇齢・焦循・姚配中および恵周惕・恵棟父子の解釈は、なおさら合わない。《易》説と《易》象の失伝は、この一处において特に明らかに表れている。
夫乾為言為信,而兌口在上,與下乾相背,相背卽不信矣。是以易林姤之夬云:「兩人俱醉,相與背戾,心乖不同,訟爭恟恟。」夬乾為人,兌先天居二,故曰兩人;兌口與乾背,故曰背戾;相背卽相爭相訟,故曰訟爭恟恟。又坤之夬云:「一簧兩舌,妄言謬語。」夬下乾先天居一,故曰一簧;兌先天居二,故曰兩舌;兌口與乾言背,故妄言謬語。夫曰爭訟、曰謬妄,卽不信也,此不啻焦氏特解此爻詞矣。
実は《乾》が言・信であり、《夬》卦の上体の《兌》は口で上方に居り、下の《乾》とまさに相背离する。相背とは即ち信じないことである。だから《焦氏易林》《姤》之《夬》の条に言う。「両人俱に醉い、相与に背戾し、心乖りて同じからず、訟争して恟恟たり。」《夬》卦の《乾》は人であり、《兌》は先天卦序において第二位に居るので「両人」と言う。《兌》の口は《乾》と相背するので「背戾」と言う。相背とは即ち相争い相訟えることなので「訟争恟恟」と言う。《坤》之《夬》の条にまた言う。「一簧両舌、妄言謬語。」《夬》卦の下体の《乾》は先天卦序において第一位に居るので「一簧」と言い、《兌》は先天で第二位に居るので「両舌」と言う。《兌》の口は《乾》の主る言と相背するので、「妄言謬語」である。およそ「争訟」と言い「謬妄」と言うのは、即ち「不信」である。焦延寿のこれら数条の林辞は、まったく専ら《夬》卦九四のこの句の爻辞のために作った注解に等しい。
又井之姤云:「各引是非。」姤反兌,與上乾亦相背,故曰各引是非。又震之泰云:「心與言反。」泰中爻震兌,皆與下乾言相背,故曰心與言反,亦不信之註解也。千年之霧障,一旦而祛,能不於焦氏易林馨香祝之哉!
《易林》《井》之《姤》の条にまた言う。「各々是非を引く。」《姤》卦の下体の《巽》は《兌》の反覆の体であり、上の《乾》ともまた相背するので「各引是非」と言う。《震》之《泰》の条にまた言う。「心は言と反す。」《泰》卦の中爻は互いに《震》《兌》を出し、いずれも下体の《乾》の主る言と相背するので「心與言反」と言う――これも同じく「不信」の二字の注脚である。千年の迷雾障蔽が一旦廓清された今、焦延寿の《易林》に対してどうして香を焚いて礼拝し、心に感激を懐かないことができようか。
至聞之為象,指半坎無疑,故象曰聰不明也。聰卽聞,管子宙合篇「聞審謂之聰」是也。半坎耳不足,故曰聰不明,卽俗所謂不明白。不明仍謂耳,非謂目。舊注謂耳曰聰、目曰明,各有所司。若聰謂耳、明又謂目者,豈知噬嗑上九象曰:「何校滅耳,聰不明也。」耳滅坎伏,故聰不明,專指耳言,亦不指離目,舊注誤也。
「聞」というこの象に至っては、疑いなく半ばの《坎》を指すので、《象伝》に「聡不明」と言う。「聡」とは即ち「聞」であり、《管子・宙合》篇に「聞して審かなるを聡と謂う」と言うのは、まさにこの意である。半ばの《坎》は耳象が完足しないので「聡不明」と言い、即ち俗に言う聞き明らかにならないことである。ここの「不明」は依然として耳について言うのであって、目について言うのではない。旧注は耳を「聡」、目を「明」とし、各々分司すると考えた。もし「聡」が専ら耳を指し、「明」がまた専ら目を指すなら、《噬嗑》上九の《象伝》に「校何れか耳を滅す、聡不明なり」と言うのはまたどう講じるか。あそこは耳が枷に滅せられ《坎》象が潜伏するので「聡不明」と言い、専ら耳について言うのであり、《離》の目象には渉らない。これで旧注が誤りであることが分かる。
焦氏易詁 巻六
行唐尚秉和節之撰
直隷行唐(今の河北行唐県)の人・尚秉和、字は節之、撰述。
《姤》卦《大象》「后以て命を施し四方に誥す」の解
姤象后以施命誥四方解。虞翻、翟玄、王弼皆以天下有風,風無不周,故天子法之,申命誥四方。豈知姤為夏至之卦,天子施命令多在歲首。周禮天官及秋官所謂「正月之吉,縣法象於象魏,使萬民觀治」,並宣佈於四方,是也,不聞夏至。鄭玄、王肅則又作誥四方,蓋以夏至微陰初生,奸慝潛匿,詰奸摘伏,端在此時。然觀周禮,詰奸之職多矣,於夏至無關也,似亦未協。
《姤》卦《大象伝》「后以施命誥四方」の解。虞翻・翟玄(翟子玄)・王弼は皆天下に風があり、風は至らない所がないので、天子はそれを倣い、命令を申布し四方に告諭すると考えた。彼らはどうして《姤》が夏至の卦であり、天子が命令を頒布するのは多く歳首であることを知らなかったのか。《周礼》の天官・秋官の言う「正月の吉、法象を象魏に県げ、万民をして治を観せしむ」、かつ四方に宣布するのは、まさにこの種の制度であり、夏至に挙行したとは聞かない。鄭玄・王粛はまた「四方を詰す」と読むべきと主張し(今本はこの字を「誥」と作る)、大概は夏至の時に微陰が剛に生じ奸邪が潜蔵するので、奸慝を査究し隠伏を掲発するのはまさにこの時に当たると考えたのである。しかし《周礼》を考察すれば、奸邪を査究する職官を掌るものは多く、皆夏至とは関係がない。この説もまた妥当でないようである。
案後漢魯恭傳:「五月姤用事,經曰『後以施令(注引亦作令)誥四方』,言君以夏至之日施命令,止四方行者。」章懷注云:「復卦曰『先王以至日閉關,商旅不行』,故夏至宜止行。」據此,是魯恭及章懷皆以誥四方為禁止四方行旅,與易林二至之戒「家無凶禍」說合,又與復象義通也,復象卽兼夏至言也。恭,東漢初人,疑其說近古。又漢書薛宣傳「至日休吏,由來已久」,注:「至日,冬夏至也。」夫曰休吏,則不治事也;官吏不治事,則行旅可知。疑此俗仍周之舊也。
按ずるに《後漢書・魯恭伝》に言う。五月に《姤》卦が当令して事を用い、経文に「后以て令を施し四方に誥す」と言い(李賢注の引く所も「令」の字と作る)、その意は君主が夏至のこの日に命令を頒布し、四方の行旅の出行を禁止することである。章懐太子李賢注に言う。《復》卦《大象》に「先王至日を以て關を閉ず、商旅行わず」と講じるので、夏至もまた出行を停止すべきである。これに拠って知るに、魯恭と李賢は皆「誥四方」を四方の行旅を禁止することと理解し、これは《焦氏易林》の冬夏二至に関する戒辞「家に凶禍なし」の説と相合し、《復》卦《大象》の意とも相通ずる――《復》卦《大象》はもともと夏至を兼ねて言うものである。魯恭は東漢初年の人であり、私は彼の説法が比較的古義に近いのではないかと疑う。また《漢書・薛宣伝》に「至日に吏を休めるは由来久し」と言い、注解に言う。「至日とは冬至・夏至を指す。」すでに「吏を休める」と言う以上、公事を為さないことであり、官吏が公事を為さなければ、行旅が停止するのもまた推して知れる。私はこの種の風俗はなお周代の旧制に沿襲したものではないかと疑う。
《升》卦「南に征すれば吉」の解
升南征吉解。虞氏謂二升五成離,為南。然經曰南征,則非指變後之離也,後來說者愈不協。茲以易林解之,則南為震象也。易林咸之升云:「南與凶俱。」升上坤,為凶;震南,故曰南與凶俱。又無妄之升云:「三鶴南飛。」升中爻震,為鶴,數三,又為南,故曰南飛。是易林明以震為南也。
《升》卦卦辞「南征吉」の解。虞翻は二爻が五位に昇れば《離》を成し、《離》は後天方位において南に属すると考えた。しかし経文が言うのは「南征」であって、変卦した後の《離》を指すのではない。後の各家の説はなおさら合わない。今《焦氏易林》を取って解すれば、「南」はすなわち《震》の象である。《易林》《咸》之《升》の条に言う。「南は凶と俱なり。」《升》卦の上体は《坤》であり、《坤》は凶である。《震》は南なので「南与凶俱」と言う。《无妄》之《升》の条にまた言う。「三鶴南に飛ぶ。」《升》卦の中爻は互体して《震》を成し、《震》は鶴であり、その数は三であり、また南なので「南飛」と言う。これで《易林》は明らかに《震》をもって南としていることが分かる。
然猶可曰因卦詞也。乃小畜之謙云「南國虐亂」,之師云「南至嘉國」,既濟之蠱云「冠帶南行」,睽之中孚云「南向陋室」,損之豫云「南厯玉山」,易林凡遇震卽曰南。初觀其詞,皆不知其所指;後思易升卦曰南征、明夷九三曰南狩,是易原以震為南也。
ある人はあるいはなお言うかもしれない、これは《升》卦卦辞にもともと「南征」の二字があるからだと。しかし《易林》《小畜》之《謙》に「南国虐乱す」と言い、《小畜》之《師》に「南は嘉国に至る」と言い、《既済》之《蠱》に「冠带南に行く」と言い、《睽》之《中孚》に「南は陋室に向かう」と言い、《損》之《豫》に「南は玉山を歴る」と言う――これらの卦はあるいは本体、あるいは中爻互体が皆《震》を含むので、《易林》はおよそ《震》に遇えば即ち「南」と言うことが分かる。はじめこれらの林辞を見るに、皆「南」の字がどこから来るかを知らなかった。後に《周易》《升》卦卦辞に「南征」と言い、《明夷》九三に「南狩」と言うのを思い至り、はじめて《周易》がもともと《震》をもって南としていたことを明らかにした。
又左傳:晉與楚戰,筮得復,繇曰「南國蹙」。坤為國,震南,南行推陰,故南蹙,是春秋時說易卽以震為南也。自東漢以來解易誤者,由震南之象失傳也。餘前謂易林字字步趨周易,易說易象至東漢末而失傳,於是不能解易,遂亦不能解易林者,正謂此也。
また《左伝》に記す。晋国と楚国が交戦し、占筮して《復》卦を得、繇辞に「南国蹙す」と言う。《復》卦の《坤》は国であり、《震》は南であり、《震》は下から上へ陰を推して行くので、南方の国が挫折すると言う。これで春秋時代に《易》を講じるに、すでに《震》をもって南としていたことが分かる。後漢以来《易》を解するに出錯した所以は、まさに「《震》為南」というこの象が失伝したためである。私はかつて《焦氏易林》は字字《周易》に緊随し、《易》説・《易》象が東漢末年に至って失伝したので、《周易》を解することができず、したがって《易林》もまた解することができないと言った――言うのはまさにこの類の情形である。
《升》卦初六「允升大吉」及び《小象》「上と志を合す」の解
升初六允升大吉及小象上合志解。允,說文引作?,進也。陰遇陽則通,故能隨陽進而上升,而大吉也。易林恆例,陽遇陰則吉,無妄初九之往吉、大畜九三之利有攸往、升九三之無所疑皆是也;陰遇陽亦吉,如革六二之征吉、巽六四之有功、渙六四之元吉、升初六之大吉皆是也。惟不當位者不盡吉,陰消陽者不與以吉。升初六雖不當位,然前臨二陽,二陽必上升,初升二得中,彖所謂柔以時升也。京氏曰:「上下見木,內外俱順。」故大吉也。
《升》卦初六「允升、大吉」及び《小象》「上合志」の解。「允」の字は、《説文解字》が《周易》を引くに「?」と作し(この字は源本に缺し、敢えて臆補しない)、「進」と訓する。陰爻が陽爻に遇えば道路が通暢するので、初六は陽爻に随って前進し上昇することができ、よって「大吉」である。《焦氏易林》には一条の通例がある。陽が陰に遇えば吉で、《无妄》初九の「往吉」、《大畜》九三の「利有攸往」、《升》九三の「疑う所なし」が皆それである。陰が陽に遇っても吉で、《革》六二の「征吉」、《巽》六四の「功あり」、《渙》六四の「元吉」、《升》初六の「大吉」が皆それである。ただ爻位が当たらない者は必ずしも全て吉でなく、陰をもって陽を消するものはさらに吉辞を与えない。《升》卦初六は陰をもって陽位に居り位に当たらないが、しかしその前に緊臨する二つの陽爻があり、両陽は必ず上昇し、初爻はそれに随って二位に昇れば中位を得る。これが即ち《彖伝》の言う「柔時を以て升る」である。京房は「上下木を見、内外俱に順う」と言うので、大吉である。
至象曰上合志,自東漢以來皆不知上之所指。九家謂與二陽合志,略為得之;惟又謂陽升五,謂上為五,則又不協。惠氏士奇知其不安,則又以京氏八宮世應為合志,謂升世在四,應在初,上謂四也。信如是也,大畜之世應在二五,而大畜於九三曰上合志,不及二五也;小畜之世應在初四,而小畜於六四曰上合志,不及初也。則升之合志不在世應亦明矣。其餘惠棟、姚配中、張惠言等,皆遵九家說,謂上謂五,以訛承訛,經義愈晦,則以易例不明也。
《象伝》の言う「上合志」に至っては、後漢以来皆この「上」の字が何を指すかを知らなかった。《九家易》は上の二つの陽爻と志を合すと言い、大致正しかった。ただまた陽爻が五位に昇り、「上」を五爻としたのは、また合わない。恵士奇はこの講法が妥でないことを察覚し、便ち京房の八宮卦の世応を用いて「合志」を講じ、《升》卦は世爻が四・応爻が初にあり、「上」とは即ち四爻を指すと言った。もし真にこのようであれば、《大畜》の世応は二爻と五爻にあるのに、《大畜》は九三において「上合志」と言い、二・五に渉らない。《小畜》の世応は初爻と四爻にあるのに、《小畜》は六四において「上合志」と言い、初爻に渉らない。これで《升》卦の「合志」が世応に在らないこともまた明白である。その余の恵棟・姚配中・張恵言らは、皆《九家易》の説法に遵従し、「上」は五爻を指すと考え、訛を以て訛を伝え、経義は講じるほど晦渋になった。これは皆《周易》の義例を明らかにしないためである。
小畜六四之上合志,以六四前承二陽也;大畜九三之上合志,以九三前臨二陰也;升初六之上合志,亦以初六前承二陽也。易以在前者為上,不專指上,亦不專指五也。王弼云:「雖無其應,處升之初,與九二九三合志俱升。」較九家說尤適,而治漢易者不取之,則以門戶之見蔽之也。
《小畜》六四に「上合志」と言うのは、六四が前に二つの陽爻を承接するからである。《大畜》九三に「上合志」と言うのは、九三が前に二つの陰爻に対するからである。《升》卦初六に「上合志」と言うのは、同じく初六が前に二つの陽爻を承接するからである。《周易》は前にある者をもって「上」とし、専ら上爻を指すこともなく、専ら五爻を指すこともない。王弼が言う。「相応する爻はないが、《升》卦の始めに処り、九二・九三と志向が相合し、共に上昇する。」これは《九家易》の説法より貼切であるが、しかし漢《易》を治める者は採用しようとしない。それは門戸の見に蒙蔽されたためである。
《升》卦九三「虚邑に升る」
升九三升虛邑。虛,祗馬訓為丘,餘皆訓為空虛,謂五虛無君,陽宜升五。按詩邶風「升彼虛矣,以望楚矣」,毛傳:「虛,漕虛也。」鄭箋:「蓋地有故墟,可登以望。」然則虛卽墟也,故釋文云「或作墟」,說文云「大丘也」。又國語實沈之虛、禮記墟墓之間、竹書紀年遂曰殷墟,益足證虛墟同為一字。此虛邑之虛,自以從毛詩為最當,而訓為墟落或殷墟之墟也。
《升》卦九三「升虚邑」。「虚」の字は、ただ馬融だけが「丘」と訓し、その余の各家は皆「空虚」と訓し、五位が空虚にして君がないので、陽爻は五位に昇るべきと言った。按ずるに《詩・邶風》の「彼の虚に升り、以て楚を望ぐ」(今の《毛詩》は《鄘風・定之方中》に列する)に、《毛伝》は「虚とは漕虚なり」と言い、鄭玄《箋》は「大概地上に旧日の廃墟があり、登って遠望するに便りあり」と言う。このように見れば、「虚」は即ち「墟」である。だから陸徳明《経典釈文》はこの字が或いは「墟」と作ると言い、《説文解字》は「墟とは大丘なり」と言う。さらに《国語》に「実沈の虚」、《礼記》に「墟墓の間」、《竹書紀年》に直に「殷墟」と称するがあり、なおさら「虚」「墟」はもともと一つの字であることを証明するに足る。ここの「虚邑」の「虚」は、自然に《毛詩》の訓解に依从するのが最も恰当であり、村落の廃墟あるいは殷墟のような「墟」と訓すべきである。
舊多訓為空虛,以與坤虛象合,豈知坤為邑,虛亦坤象也。易林遇升卽曰登山、曰登高,亦不訓為空虛也。又易林噬嗑之屯云:「破亡之虛,神所哀憂。」此虛字義亦同墟,與虛邑同,亦取屯中爻坤象。然則升之虛亦取象於坤明矣。
旧説は多く「空虚」と訓したが、それは《坤》の虚象と合わせるためである。彼らはどうして《坤》がすでに邑であり、「墟」もまた同じく《坤》の象であることを知らなかったのか。《焦氏易林》はおよそ《升》卦に遇えば即ち「山に登る」「高きに登る」と言い、この字を空虚と訓することもない。また《易林》《噬嗑》之《屯》の条に言う。「破亡の虚、神の哀しみ憂える所。」ここの「虚」の字の意もまた「墟」と同じく、「虚邑」の用法と一致し、同じく《屯》卦の中爻互《坤》の象を取った。このように見れば、《升》卦の「虚」もまた《坤》に象を取ったものであることは、極めて明白である。
《升》卦六四「王岐山に於て享を用う」
升六四王用享于岐山。此以易林本象與對象雜用之例推之。四體兌,對艮,故曰山;兌西,故曰岐山。六四震體,震為王,兌食,為享,在山下,故王享於岐山。荀爽謂二升五,五為王,下成艮,故曰山,皆曲說也。
《升》卦六四「王用亨于岐山」。この条は《焦氏易林》の本象と対象を交錯併用する義例をもって推し求めるべきである。六四は中爻の互いに出す《兌》体の中に処り、《兌》の対卦は《艮》であり、《艮》は山なので「山」と言う。《兌》の方位は西なので「岐山」と言う(岐山は西土に在り)。六四はまた同時に三から五までの互いに出す《震》体の中に処り、《震》は王である。《兌》は口食であり、よって「享」(祭享)となる。祭享する所は山の下なので「王用亨于岐山」と言う。荀爽は二爻が五位に昇り五は王であり、下が変じて《艮》を成したので「山」と言うとしたが、これらは皆牽強附会の曲説である。
《困》卦「言ありて信ぜられず、口を尚べば乃ち窮す」の解
困有言不信尚口乃窮解。此其義亦誤解者二千年矣。虞翻謂震為言,折入兌,故有言不信、尚口乃窮。荀爽謂陰從二升上,用否推,成兌為有言,失中為不信。張惠言謂乾為信,乾滅故不信,惠棟同。毛奇齡謂:「荀爽以否陽降成險,陰升為悅,善推易之法;虞氏以震折入兌為不信,則並以恆推易,尤為近代所罕識。」夫以震變兌為不信、否陰升上失中為不信、乾體滅為不信,為是說者,恐自審亦心謂不愜洽矣,乃二千年來不能不用其說,且驚以為神奇者,則以易象失傳,無可如何也。
《困》卦卦辞「有言不信」、《彖伝》「尚口乃窮」の解。この条の意義もまた二千年誤解されてきた。虞翻は《震》が言であり、《震》が折れて《兌》に入るので「有言不信、尚口乃窮」と言った。荀爽は陰爻が二位から上位に昇る――《否》卦を用いて推衍する――ことで《兌》を成すのを「有言」とし、中位を失うのを「不信」とした。張恵言は《乾》が信であり、《乾》体が消滅したので「不信」と言い、恵棟の講法は彼と同じである。毛奇齢は言う。荀爽が《否》卦の陽爻下降して険を成し陰爻上昇して悦を成すことを用いて講じたのは、《易》理を推衍するに善い方法である。虞翻が《震》が折れて《兌》に入ることを用いて「不信」を講じたのは、《恒》卦までも併せて推衍するもので、特に近代人の見ること少ない所である。しかし《震》が変じて《兌》となるのを取って「不信」とし、《否》卦の陰爻が上昇して中を失うのを取って「不信」とし、《乾》体が消滅するのを取って「不信」とするのは、これらの話を言う人もおそらく自分の心にも愜当でないと感じているであろう。しかし二千年の間、彼らの説法を沿用せざるを得ず、甚だしくは驚きて神奇となしたのは、《易》象が失伝して実に奈何しようがなかったためである。
茲證之易林。坤之離云:「齊魯爭言,戰於龍門。」離中爻巽齊兌魯(兌魯說見後),故曰齊魯;離二至五正覆兩兌口相背,相背幫爭言;龍門用對象坎。離二至五與困三至上同也。又中孚之巽云:「一言不同,乖戾生訟。」巽初至四亦正覆兩兌口相背,相背故生訟;巽初至四與困三至上亦同也。夫至於相爭相訟,則言之不信也決矣。
今《焦氏易林》を取って印证する。《坤》之《離》の条に言う。「斉魯言を争い、龍門に戦う。」《離》卦の中爻は互体して《巽》を成し、《巽》は斉である。《兌》は魯である(《兌》が魯である説は後文に見える)。だから「斉魯」と言う。《離》卦の二爻から五爻までは、一正一反の二つの《兌》口が相背し、相背するので「争言」となる。「龍門」は《離》の対象《坎》を用いたものである(《坎》は水・川)。《離》卦の二から五までのこの一段の卦体は、《困》卦の三から上までのこの一段と同じである。《中孚》之《巽》の条にまた言う。「一言同じからず、乖戾訟を生ず。」《巽》卦の初爻から四爻までもまた一正一反の二つの《兌》口が相背し、相背するので争訟を生ずる。《巽》卦の初から四までのこの一段は、《困》卦の三から上までと同じである。すでに相争い相訟える地步に至った以上、言語の信じるに足らないこともまた確定して疑いない。
故彖曰尚口乃窮。兌為口,口出言,反正皆口,故曰尚口;尚口則有言不信,不信則窮矣。此文王在獄中審視卦象,以陽皆得中,故曰亨、曰大人吉;又審視初至三正反兩兌口相背,三至上亦正反兩兌口相背,口能言,一言南,一言北,一言上,一言下,故終曰有言不信。後人每欲以此句與上大人吉連屬為義者,誤之遠矣。
だから《彖伝》に「尚口乃窮」と言う。《兌》は口であり、口は言を出すことができ、正体も反体も皆口なので「尚口」(口舌を崇尚する)と言う。一味に口舌を逞しゅうすれば、「有言不信」となり、信じられなければ即ち窮困する。これは文王が獄中に囚われて卦象を審視して得たものである。《困》卦の陽爻が皆中位に居るので「亨」と言い「大人吉」と言う。また審視して初爻から三爻までは一正一反の二つの《兌》口が相背し、三爻から上爻までもまた一正一反の二つの《兌》口が相背することを見、口は話すことができ、このは南を言いあのは北を言い、このは上を言いあのは下を言うので、最後に「有言不信」の一句を繫げた。後人は常にこの句を上文の「大人吉」と一つの意に連綴しようとするが、それは誤ること甚だ遠い。
《困》卦六三「石に困み、蒺藜に拠る」の解
困六三困于石據于蒺藜解。巽為石,見前;坎為蒺藜。六三下據坎,故曰蒺藜;上承巽,故曰困于石。自東漢以來,皆以兌伏艮為石,豈知巽卽為石也。然非易林,不能證明易以巽為石,並不知邵子巽石之象之本於易也。
《困》卦六三「困于石、拠于蒺藜」の解。《巽》は石であり、前文にすでに言った。《坎》は蒺藜である。六三は下に《坎》体に踞るので「拠于蒺藜」と言い、上に《巽》体を承けるので「困于石」と言う。後漢以来、注家は皆《兌》の伏蔵する《艮》をもって石とした。彼らはどうして《巽》自体がもともと石であることを知らなかったのか。しかし《焦氏易林》がなければ、《周易》が《巽》をもって石とすることを証明することができず、邵雍の「《巽》為石」というこの象がもともと《周易》に本づくこともまた知ることができなかったであろう。
《困》卦九五「劓刖」の解
困九五劓刖解。以易林言劓刖之例推之,則用對象也。困上兌,通艮,艮為鼻,今艮伏兌見,鼻象不見,則劓矣。三至五巽,巽通震,震為足,今震伏巽入,足形不見,則刖矣。而九五當兌巽之間,故上象劓,下象刖。虞翻不用旁通,以四動成艮震為說,非也。
《困》卦九五「劓刖」の解。按ずるに《焦氏易林》が「劓刖」を講ずる義例によって推し求めれば、用いるのは対象(旁通の象)である。《困》卦の上体は《兌》であり、《兌》は《艮》と旁通し、《艮》は鼻である。今《艮》は潜伏して《兌》が顕現し、鼻の象が見えない。これが即ち「劓」(鼻を割く)である。三爻から五爻まで互体して《巽》を成し、《巽》は《震》と旁通し、《震》は足である。今《震》は潜伏して《巽》が入って来て、足の形が見えない。これが即ち「刖」(両足を斬る)である。しかも九五はちょうど《兌》と《巽》の間に処るので、上に「劓」の象を取り下に「刖」の象を取る。虞翻は旁通を用いず、かえって四爻を変動して《艮》を成し《震》を成すことを取って解説したが、誤りである。
《井》卦の卦名の解
井卦名解。井上坎,坎,窞也,而初至四又互大坎,則窞愈深而為井矣。雜卦云「井,通也」,卽釋此義也。自大象失傳,於是井之義愈說愈晦矣,此不可不知也。
《井》卦卦名の解。《井》卦の上体は《坎》であり、《坎》は即ち坑穴である(「窞」は即ち坎中の穴)。しかも初爻から四爻までがまた互いに一つの「大坎」を成し、坑穴はなおさら深邃となり、ここに井となる。《雑卦伝》に「井とは通なり」と言うのは、まさにこの層の意を解釈したものである。「大象」(数爻が合して大《坎》大《離》を成す)というこの義例が失伝して以来、《井》卦の取義は講じるほど晦渋となった。これは知らないわけにはいかない。
《井》卦初六「井泥食らわれず、旧井禽なし」の解
井初六井泥不食舊井無禽解。虞翻、干寶、王弼皆以禽為禽鳥,祗崔憬謂禽獲也,禽擒同字。後說易者如朱子,如來知德、毛西河、惠棟、張惠言之屬,亦皆以禽鳥為訓。祗王夫之、王引之謂古禽擒同字,禽者獲也。引之並謂:「易凡言田有禽、田無禽、失前禽者,皆指獸言之,此禽字不當有異。」按引之所說是也。舊井有禽鳥、無禽鳥,有何義意?而各家就禽鳥穿鑿,說雖不同,而無當則一。
《井》卦初六「井泥不食、旧井无禽」の解。虞翻・干宝・王弼は皆「禽」を禽鳥としたが、ただ崔憬だけが「禽」は擒獲の意であり、「禽」「擒」はもともと一つの字であると言った。後に《易》を講じる者、朱熹、来知徳・毛奇齢・恵棟・張恵言の類も、皆禽鳥と訓した。ただ王夫之・王引之だけが古代に「禽」「擒」が同字で、「禽」は即ち獲取であると考えた。王引之はしかも言う。《周易》がおよそ「田に禽あり」(《師》六五)、「田に禽なし」(《恒》九四)、「前禽を失う」(《比》九五)と言うのは、皆田猟の獲得した野獣について言ったもので、ここの「禽」の字は別の解を立てるべきでない、と。按ずるに王引之の言は正しい。一箇の廃弃した旧井に、禽鳥が栖息するかどうかで、何の意義があろうか。各家が禽鳥をめぐって穿鑿附会し、説法は人それぞれ異なるが、講じ通らないのは同じである。
以為焦氏易斷不如此,果於易林最後未濟之井獲其義,曰:「天旱水涸,枯槁無澤,困於沙石,未有所獲。」夫曰天旱、曰枯槁,則無水而泥矣;沙石者泥也,困於沙石則井泥,不能食也。井原以取水,今無水而泥,故曰無獲,無獲卽無禽也,易林特為此爻解也。故象曰時舍,井而不能得水,則人必棄之矣,此與田有禽、田無禽之義皆合也。然能知此者,在魏晉惟崔憬,在清惟二王。故夫二千年來,經說之多莫如易,經說之晦亦莫如易。
私は焦延寿の《易》学は断じてこのようでないと認定し、果たして《焦氏易林》の最後の卦《未済》之《井》の条の中にその本義を尋ね得た。「天旱して水涸れ、枯槁して沢なし、沙石に困み、獲る所未だ有らず。」すでに「天旱」と言い「枯槁」と言うのは、水がなくて泥のみが残ったことである。「沙石」は即ち泥であり、沙石に困まるは即ち「井泥」であり、よって食用することができない。井はもともと水を取る用に供するものであり、今水がなく泥のみがあるので「未有所獲」と言う――「無獲」は即ち「無禽」である。《易林》のこの条はまったく専らこの条の爻辞のために作った解説である。だから《象伝》に「時に舍かる」(その時に舍弃された)と言う。井であるのに水を打ち上げられなければ、人は必ずそれを廃弃する。これは「田有禽」「田無禽」の用法とも皆吻合する。しかしこの点を解ることができたのは、魏晋の時は崔憬のみ、清代は王夫之・王引之の両王氏のみである。だから言う。二千年以来、経説の多いのは《易》に比べるものなく、経説の晦暗もまた《易》に比べるものがない。
