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高宗の鬼方を伐つ

清 · 尚秉和 · 第12巻 / 15

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

二三形巽,為高;三四形震,震為王為宗為伐;坎為鬼,故曰高宗伐鬼方。

《既済》九三に「高宗鬼方を伐つ」と言う。二爻・三爻は半個の巽を構成し、巽は高である。三爻・四爻は半個の震を構成し、震は王・宗・征伐である。上体は坎であり、坎は鬼である。合わせればちょうど「高宗鬼方を伐つ」である。

繻に衣袽あり

繻襦同。《易林·復之益》云「襦燒袴燔」,益下震為襦,上巽為袴,艮火,故燔燒,是以震為襦也。既濟三四形震,為襦,故曰襦有;四五形巽,巽為敝為絮,袽,敗絮也,言有襦而衣敗絮,故下曰戒也。戒之故,以四上下皆陽,故象曰有所疑。以上既濟數象,與家人之嘻嘻嗃嗃、困之困于石據于蒺藜、解之負且乘,皆由本爻視上下爻取象,皆半象也。

「繻」と「襦」(短衣)は同一の字である。《易林・復之益》の林辞に「襦焼け袴燔く」と言う。《益》卦の下体は震であり、震は襦である。上体は巽であり、巽は袴である。三から五爻まで互艮であり、艮は火なので焚焼すると言う――これで震をもって襦としたことが分かる。《既済》六四のこの一爻は、三・四の両爻が半個の震を構成し、震は襦なので「繻(襦)有り」と言う。四・五の両爻は半個の巽を構成し、巽は破敝・絮であり、「袽」とは即ち爛れた棉絮である。短衣があって中に敗絮を襯ていることを言うので、下文に続いて「終日戒めよ」と言う。戒懼する所以は、六四の上下が皆陽爻(九三と九五)にあるためであり、だから《象伝》に「終日戒むとは、疑う所有ればなり」と言う。以上《既済》一卦の幾つかの象は、《家人》の「嘻嘻」「嗃嗃」、《困》の「石に困み蒺藜に拠る」、《解》の「負いて且つ乘る」と同じく、皆本爻より上下相隣の爻に連なって象を取ったもので、即ち皆半象を用いたものである。

飛鳥音を遺す

小過飛鳥遺之音。遺字自來無的解,由卦象失傳故也。今既得其象,艮震皆為鳥,而震為音。下艮為覆震,震口向下,若遺音於人者。遺者送也。易之用覆,有非目視其象而不能得其意者,此也。

《小過》卦辞に「飛鳥音を遺す」と言う。この「遺」の字は従来確解がなく、卦象が失伝した故である。今すでにその象を求得した。艮と震は皆鳥と為り得るが、しかも震はまた音である。《小過》下体の艮はまさに震を倒転して成った覆象であり、覆震すれば則ち震の口が下に向かい、あたかも声を下の人に送るが如し。「遺」とは即ち贈送である。《易経》が覆象を運用するに、ある所は親しく卦を倒して見なければその用意を領会し得ない。これが即ち一例である。

漸の鴻・小過の飛鳥の対象説

《易林》以艮震皆為鴻為鳥。小過下艮上震,故彖與初上爻皆言飛鳥。漸卦下艮上巽,艮為鴻,巽通震,震亦為鴻,故六爻皆言鴻。杭辛齋謂卦有半對者,如雷澤歸妹上震對巽,成風澤中孚,故兩卦皆曰月幾望。以此例小過漸,亦上卦震巽對易也,故兩卦皆言鳥。本象與對象不分,觀此益明。

《焦氏易林》の中で艮と震は皆鴻・鳥と為り得る。《小過》は下艮上震なので、卦辞と初六・上六に皆「飛鳥」を講ずる。《漸》卦は下艮上巽で、艮は鴻であり、しかも巽は震と旁通し、震もまた鴻であるので、六爻に皆「鴻」を講ずる。杭辛斎は卦に「半対」の情形があると言う。例えば雷沢《帰妹》は上体の震をそれと相対する巽に換えれば、即ち風沢《中孚》を成すので、この両卦に皆「月幾望」の話がある。この例を取って《小過》と《漸》を衡量すれば、まさに上卦の震と巽が彼此対易したもので、だから両卦に皆鳥を講ずる。本卦の象と対卦の象はもともと彼此を分かたない。この例を見ればなおさら明白である。

離九三は旁通を用い兼ねて覆を用いる

離對坎,坎中爻艮震,震為鼓為缶為歌,故曰鼓缶而歌;艮為壽,故曰大耋;震為樂,震之反則嗟也,言三至五震覆也。舊解用象多誤。

《離》卦九三に「缶を鼓して歌わざれば、則ち大耋の嗟なり」と言う。《離》の対卦(旁通)は《坎》であり、坎卦の中間の各爻は互いに艮・震を出す。震は鼓・缶・歌であるので「缶を鼓して歌う」がある。艮は寿であるので「大耋」と言い、即ち八十の高齢である。震は歓楽であり、しかも震が一たび倒転すれば即ち嘆息に変ずる。ここで指すのはまさに坎卦の三から五爻までの成した覆震である。旧注はこの一爻において取象が多く誤っていた。

大畜六四「童牛之牿」の説

或作告,或作梏,或作角,漢儒與漢儒卽聚訟,故至今不決。若以《易林》釋之,則陸續作角者是也。《易林·乾之屯》云「蒼龍單獨,與石相觸,折其兩角」,屯互坤,數二,互艮,為角,故曰兩角,坎為折也。大畜上艮,艮為童,坤為牛,乃坤上變剛,則牛之童者已角矣,是易亦以艮上剛為角也。四為艮初而柔,故曰童牛之角,言角初生而柔。柔當位有應,故吉。

《大畜》六四の「童牛之牿」の「牿」の字は、「告」と書く者あり、「梏」と書く者あり、「角」と書く者あり、漢代の学者は彼此争論不休したので、今に至るまで決断し得ない。もし《焦氏易林》を用いて印证すれば、陸績が「角」と書いた説こそ正しい。《易林・乾之屯》の林辞に「蒼龍単独し、石と相触れて、其の両角を折る」と言う。《屯》卦は二から四爻まで互坤で、坤の数は二である。三から五爻まで互艮で、艮は角であるので「両角」と言う。《屯》の上体は坎であり、坎は折である。《大畜》の上体は艮であり、艮は童(幼小)であり、坤は牛であり、しかも艮はまさに坤の上爻が剛爻に変じて来たものである。これであの小牛はすでに角を長じ出したことが分かる――これは即ち《易経》も同じく艮の上の一本の剛爻をもって角とすることを説明する。六四は艮の頭一爻であって陰柔に属するので「童牛之角」と言い、角が剛に長じ出してなお柔嫩であることを言う。この一爻は柔をもって陰位に居って当位し、また初九と相応するので吉である。

大畜「何天之衢」の説

鄭康成詁何為荷,雲艮為手,手上,肩也;乾為首,首肩之間,荷物處也。虞翻、何妥則以何為當,王弼以為語辭,而宋儒竟從之。今以《易林》決之,王弼掃象演空理固誤,虞何以何為當仍誤,鄭讀何為荷,與噬嗑「何校滅耳」、《詩》「何蓑何笠」同,詁確定矣,故清儒治漢易者皆從之。惟康成詁何字是,而取象則非,從無一人能知之。

《大畜》上九に「何天の衢」と言う。鄭康成は「何」を「荷」と訓し、即ち負担とし、艮は手であり手の上面は即ち肩であり、乾は首であり、首と肩の間はまさに物を負う所であると言う。虞翻・何妥は則ち「何」を「当」と講じ、王弼は干干脆脆にそれを語気助詞とし、しかも宋代の学者は竟にまた王弼に跟って行った。今《焦氏易林》を用いて判定すれば、王弼が卦象を掃除して義理を空談したのは固より誤りであるが、虞翻・何妥が「何」を「当」と講じたのも依然として誤りであり、ただ鄭玄が「何」を「荷」と読んだのみが、《噬嗑》上九の「何校耳を滅す」(肩に枷を扛いで耳に傷る)や《詩経》の「何蓑何笠」の用法と同じで、この訓釈は確定することができる。だから清代に漢易を治める学者は皆彼に依従した。ただし鄭玄は「何」の字を訓するは正しいが、取った象は正しくなく、しかもこの層は従来一人もそれを見出した者がなかった。

按《易林·鼎之萃》云「聚蹠荷兵」,《咸之萃》云「擁兵荷糧」,是焦氏皆以艮為何;又《同人之無妄》云「負牛上山」,《需之屯》云「恃強負力」,皆以艮為負也;又艮彖云「艮其背」,易卽以艮為背也。為背為負,故曰荷也。乃康成不知此象,以艮為手,手上肩,乾為首,首肩之間,詁何字,迂曲甚矣。故夫卦象失傳,雖象在目前而不能覩也。又何天之衢者,形容畜極忽通之意,而不能泥其詞。凡易詞如此者,十蓋八九也。如泥其詞,謂衢如何荷,而訓為語辭,則天又何有衢哉?

按ずるに《易林・鼎之萃》の林辞に「跖を聚め兵を荷う」と言い、《咸之萃》に「兵を擁し粮を荷う」と言うので、焦延寿は皆艮をもって「何(荷)」としたことが分かる。また《同人之无妄》に「牛を負いて山に上る」と言い、《需之屯》に「強を恃み力を負う」と言うのも、皆艮をもって「負」とする。さらに見れば《艮》卦の彖辞に「其の背を艮にす」と言うので、《易経》はもともと艮をもって背としたことが分かる。すでに背と為しまた負と為すので、「荷」と訓し得る。鄭康成はこの象を知らなかったので、こそ回り道して艮為手・手上是肩・乾為首・首肩之間に物を担いで可というような路子を講じて「何」の字を訓した。実に迂曲甚だしい。これで卦象が一たび失伝すれば、象が眼前に摆放されても見出すことができないことが分かる。さらに「何天之衢」のこの句は、蓄積が極点に至って忽然として暢通することを形容したもので、字面に拘泥してはならない。《易経》の中のこの類の文辞は、十に八九は皆このようである。倘若字面を死抠して、天上の大路をどうして肩に扛ぐことができるかを追問し、それによって「何」を語気助詞と訓するならば、ならば天上にまたどこに大路があろうか。

震為輹の確証

孔疏引子夏傳,以輹為車屐,由是知輹為震象,推之易與左氏皆合,說已詳前矣。茲按釋名云「輹似人屐,在軸上」,仍以輹為車屐也。震為車為履,則震之為輹益明矣。

孔穎達《周易正義》は《子夏易伝》を引き、「輹」(車下の伏兎)を車の木屐と解した。これによって輹が震象であることを知り、それを取って《易経》と《左伝》の筮例に印证して皆相合する。この点は前文ですでに甚だ詳しく言った。今さらに按ずるに《釈名》に「輹は人の穿く木屐に似て、車軸の上に装著す」と言うのも、依然として輹を車屐とする。震は車でありまた履(鞋)である。ならば震が輹象を取り得ることはなおさら明白である。

坤の魚象は郭璞のみが知る

郭璞洞林筮避亂,遇明夷,曰「桑梓之邦,其為魚乎」,明夷震為桑梓,坤為邦為魚也,故曰為魚。又漢上易引郭璞洞林云,筮得豫之小過,曰「五月晦日,群魚來入州城寺舍」,是亦以坤為魚也。坤之艮,艮為城舍,故魚入州城寺舍。原注以乙未為魚,坤貞未也。乃朱漢上不知坤魚象,謂原注為非,而以小過巽為魚。巽固為魚,而此則用坤魚也,漢上不知此象也。

郭璞《洞林》は彼が乱を避けるために占筮して《明夷》卦を得て、断語に「桑梓の邦、其れ魚と為らんか」と言うのを記載する。その意は故郷が将に水国と成らんとするを謂う。《明夷》は三から五爻まで互震で、震は桑梓である。上体は坤で、坤は邦・また魚であるので「其れ魚と為らん」と言う。また朱震《漢上易伝》は郭璞《洞林》を引いて言う。占して《豫》之《小過》を得て、断語に「五月末の日、群れなす魚が州城の官舎寺庙に游び入るであろう」と言う。これもまた坤をもって魚とする。《豫》が《小過》に変ずるは、まさに下体の坤が艮に変じたもので、艮は城・舎であるので、魚が州城寺舎に入る。原注は乙未をもって魚としたが、それは坤の内卦が乙未を納するためである。しかし朱震は坤に魚象があることを解せず、かえって原注が正しくないと言い、改めて《小過》の含む巽をもって魚とした。巽は固よりまた魚と為り得るが、この一条の用いたものは坤魚であり、朱震はこの象を知らなかった。

震巽は小父母を為す

朱漢上曰:「乾坤為大父母,故能生八卦;姤復為小父母,故能生六十四卦。」是以震巽為父母,與《易林》合。然朱漢上知姤復為父母,而不知姤復為父母之故由於震巽,故於蠱之父母、小過之妣,皆不得其象。

朱震(世に朱漢上と称す)は言う。「乾坤は大父母なので、能く八卦を生出する。《姤》《復》は小父母なので、能く六十四卦を生出する。」これは実は即ち震・巽をもって父母とするもので、《焦氏易林》の用象と相合する――《復》の下体は震であり、《姤》の下体は巽である。しかし朱震はただ《姤》《復》が父母であることのみを知り、《姤》《復》が父母たり得る所以は、まさにそれらが震と巽を含むに由ることを知らなかった。だから《蠱》卦爻辞が「父」を講じ「母」を講じ、《小過》六二が「妣」を講ずるに碰到して、彼は皆対応する象を探し出すことができなかった。

先天象の乾南坤北に関する荀注

胡渭謂唐以前無言先天象乾,曾於首卷證其不然矣。茲按荀爽注「陰陽之義配日月」云:「乾舍於離,配日而居;坤舍於坎,配月而居。」是乾南坤北,荀氏已一再言之。注同人亦云,與管輅之幹無別位同也。

胡渭は唐代以前に先天卦位の中で乾が南方に居る象を講じた人がいないと言うが、私は本書首巻ですでにそうでないことを証明した。今さらに見れば荀爽は《繋辞伝》の「陰陽の義は日月に配するなり」の句に注して言う。「乾は離に寄居して、太陽に配して居る。坤は坎に寄居して、月亮に配して居る。」乾がすでに離位にあり坤がすでに坎位にあり、しかも先天は離が南・坎が北である。ならば即ち乾南坤北である。荀爽はすでに度々このように講じた。彼が《同人》卦に注する時もまたこのように言う。これは管輅の謂う乾に別の方位がない(乾は即ち離位に居る)と同一の意である。

黃梨洲等謂易無先天象,恃說卦未明言為護符。豈知離南坎北,說卦祗明言六卦方位耳,坤兌皆未言也,而何以治漢易者皆以坤為西南、兌為西,是何據耶?梨洲則曰由卦爻推得。後天卦位可由卦爻推得,先天卦位獨不可由卦爻推得耶?既濟九五言東西,正離坎方位也,胡又不推乎?真王氏所謂無理取鬧也。

黄宗羲(号は梨洲)らは《易》の中に先天卦象がないと言い、《説卦伝》が明らかに講じ出していないことを恃んで護身符とした。殊に知らないのは《説卦伝》が離南坎北を講じても、ただ六つの卦の方位を明らかに交代したのみで、坤と兌の方位は皆講じなかった。ならば漢易を治める人はなぜ皆坤を西南・兌を正西に在りとし、また何に根拠したのか。黄宗羲は卦爻から推し求めて得たと言うであろう。後天卦位は卦爻によって推得し得る。ならば先天卦位は偏に卦爻によって推得し得ないとでもいうのか。《既済》九五に「東隣牛を殺すは、西隣の禴祭に如かず」と言うのは、まさに先天の離が東・坎が西の方位を講じたもので(《既済》は下離上坎)、どうしてここではまた推し求めに行かないのか。これは真に王氏の言う無理取閙である。

惠棟於荀此注,謂荀用鬼易,而以乾歸合離、坤歸合坎為解。夫乾坤歸魂為大有比,荀注所言乃同人師,同人師為離坎歸魂,非乾坤歸魂。荀曰舍離舍坎,則乾坤正居離坎之位也,非離坎居乾坤之位也。惠氏非不知其說之顛倒,冀崑崙其詞以愚初學而滅其證,故不得不釋之。

恵棟は荀爽のこの条の注に対して、荀爽は京房の「鬼易」八宮の法を用い、それによって乾宮の帰魂が離に合し坤宮の帰魂が坎に合するともって解釈したと言う。実は乾宮の帰魂卦は《大有》であり、坤宮の帰魂卦は《比》である。しかも荀爽の注の言う所は《同人》と《師》であり、《同人》は離宮の帰魂・《師》は坎宮の帰魂であって、乾坤両宮の帰魂ではない。荀爽が乾を「離に舎す」・坤を「坎に舎す」と言うのは、その意はまさに乾坤が離坎の方位の上に居ることであって、離坎が乾坤の方位の上に居るのではない。恵棟は自分のこの番の話が本末顛倒していることを知らないのではなく、ただ話を含混籠統に言いたくて、もって初学の人を蒙らせこの条の証拠を抹去しようとしたのである。だから私は之を辨明せざるを得ない。

易林より推し得た雑卦の意義

凡卦之相反者,義必反。如巽為寡髮,《易林》見震則以為多髮多羽翰;艮為鼻,《易林》遇兌則以為劓;震為足,《易林》遇巽則以為刖;艮為山,艮覆則山崩;艮為山陽,艮覆則為山陰。由《易林》推之,易卦爻辭如此者不可勝數,而其義甚隱。彖象傳只渾言大義,而未明言,因之後儒於對象偶識之而不能盡,若覆象則十未察及一二也。聖人蓋已慮及此,故又於最後之雜卦明申其義。

およそ両卦が彼此相反する者は、取義もまた必ず相反する。例えば巽は頭髪稀少であり、《焦氏易林》は巽と相反する震に遇えば、頭髪が濃密し羽毛が豊盛の象を取る。艮は鼻であり、《易林》は艮と相反する兌に遇えば、鼻を割る「劓」を取る。震は足であり、《易林》は震と相反する巽に遇えば、足を断ずる「刖」を取る。艮は山であり、艮が一たび倒転すれば即ち山崩である。艮は山の南面であり、艮が一たび倒転すれば即ち山の北面を成す。《易林》から推し求めて広げれば、《易経》の卦爻辞のこの種の情形に属するものは数え尽くせぬほど多く、しかもその中の道理は十分に隠晦である。《彖伝》《象伝》はただ籠統に大意を講ずるのみで明言せず。それに因って後代の学者は「対象」(旁通)に対してただ偶々一両処を認出し得ても窮尽することができず、「覆象」に至っては、十分の中で一二分も察覚していない。聖人は大概すでにこの一点に顧慮して、だからまた《十翼》の最も末の《雑卦伝》の中でこの層の意を明らかに申説した。

雜卦曰:乾剛坤柔,離上坎下,小過過也,中孚信也,信則無過,過則不信矣;大過顛也,頤養正也,顛則失養,養則不隕矣。皆言本象對象相反之義也。曰比樂,反之則憂;曰臨與,反之則求;曰屯不失其居,言陽當位也,乃屯反則雜而不當位;曰震起,震反則止;曰損衰始,損反則盛始;曰大畜時,反之則災而不時;曰萃聚,反之則不聚;曰謙輕,輕者不足也,乃謙反則自足而怡矣;曰噬嗑食,食者實也,頤中有物也,乃噬嗑反則空而為色矣。

《雑卦伝》に「乾剛坤柔」「離上にして坎下なり」「小過とは過なり、中孚とは信なり」と言う――信を守れば過差がなく、過差があれば信を守ったと言えない。また「大過とは顛なり、頤とは正を養うなり」と言う――顛覆傾倒すれば即ち養を失い、正を養うことができれば隕墜しない。これらは皆本卦の象と対卦の象の取義が相反することを講ずる。また「比楽」と言う――《比》を倒転すれば《師》を成して即ち憂である。「臨与」と言う――《臨》は施与であり、倒転して《観》を成せば即ち求である。「屯は其の居を失わず」と言う――《屯》の陽爻が各々其の位に当たり、しかも《屯》が一たび倒転して《蒙》を成せば即ち雑乱して位に当たらない。「震とは起なり」と言う――震が一たび倒転して艮を成せば即ち止である。「損とは衰の始なり」と言う――《損》が一たび倒転して《益》を成せば即ち盛の始である。「大畜とは時なり」と言う――倒転して《无妄》を成せば即ち災であって時を失う。「萃聚」と言う――倒転して《升》を成せば即ち聚まらない。「謙軽」と言う――軽とは自ら足らざるを覚えることであり、《謙》が一たび倒転して《豫》を成せば即ち自満して怡然である。「噬嗑とは食なり」と言う――食とは即ち充実であり、即ち口中に物があることであり、《噬嗑》が一たび倒転して《賁》を成せば、口中は即ち空虚にしてただ文飾のみが残る。

曰兌見,反之則伏;曰隨無故,故者事也,反之則有事;曰剝爛,反之則不爛;曰晉晝,反之則夜而光滅,誅者滅也;曰井通,反之則不通;曰咸速,反之則不速而久;曰渙離,離,去也,反之則不去而止;曰解緩,反之則不舒緩而急難;曰睽外,反之則內;曰大壯則止,反之則不止而退;曰革去故,反之則取新;曰豐多,反之則寡。凡此皆言正象覆象相反之義也,故於否泰明揭其義,曰反其類也。

《雑卦伝》にまた「兌見」と言う――《兌》を倒転して《巽》を成せば即ち潜伏である。「随無故」と言う――「故」とは即ち事であり、倒転して《蠱》を成せば即ち事ありである。「剥とは爛なり」と言う――倒転して《復》を成せば即ち爛れない。「晋とは昼なり」と言う――倒転して《明夷》を成せば即ち夜であって光明が熄滅する。いわゆる「明夷とは誅なり」とは、誅は即ち滅である。「井通」と言う――倒転して《困》を成せば即ち通じない。「咸速」と言う――倒転して《恒》を成せば即ち迅速でなくして長久である。「涣とは離なり」と言う――離とは即ち去であり、倒転して《節》を成せば即ち去らずして止まる。「解とは緩なり」と言う――倒転して《蹇》を成せば即ち寛緩でなくして急難である。「睽とは外なり」と言う――倒転して《家人》を成せば即ち内である。「大壮則ち止」と言う――倒転して《遯》を成せば即ち止でなくして退である。「革とは故を去るなり」と言う――倒転して《鼎》を成せば即ち新を取る。「豊とは故多きなり」と言う――倒転して《旅》を成せば即ち寡である。およそこれらの種種は、皆正象と覆象の取義が相反することを講じたので、だから《雑卦伝》は《否》《泰》の両卦の上においてこの層の道理を明らかに掲出して「否泰其の類を反するなり」と言う。

韓康伯解雜卦曰,或以同根類,或以異相明。以異相明是也,以同相類無有也。後,來知德知其言反象,至卦反則義亦反之意,來氏毫未察知,故詁經多誤。如以坎為孕,較虞氏以離為孚勝矣,乃漸三尚可,漸五遂不合。雜卦之言易象,正如此,反如彼,可謂活潑飛舞,示人讀易當作如是觀、作如是解也。

韓康伯は《雑卦伝》を解して、それは或いは同類の卦を取って一緒に帰し、或いは相異の卦を用いて互いに映照すると言う。相異の卦を用いて互いに映照するこの一点は講じて正しいが、同類の卦を相帰併するに至っては、実際にこの種の情形はない。後に明代の来知徳は《雑卦伝》の講ずる所が反象であることを知ったが、しかし卦が一たび倒転すれば卦義もまたこれに随って相反するというこの層の意に至っては、来知徳は却って少しも察覚しなかった。だから彼の経を解するに多く謬誤がある。譬えば彼が坎をもって孕とするは、虞翻が離をもって孚とするに比べてすでに高明であるが、しかしそれを用いて《漸》九三の「婦孕みて育せず」を解すればなお強いて講じ通り、《漸》九五の「婦三歳孕まず」を解すれば合わない。《雑卦伝》が易象を講ずるに、正しく見ればこのようであり倒して見ればあのようであり、霊動飛揚と言うべく、人に提示して《易》を読むにまさにこのように見、このように解すべきことを教えるものである。

又以示文王所以必使此四對象相次、二十八正覆象相次者,卽具有此意。故於序卦之外,離其舊序,俾義愈明。不然,人或疑蒙與需、此與小畜有涉也。自雜卦之義不明,於是易之言反象者遂不解矣。

《雑卦伝》はまたこれを借りて提示する。文王があの四組の対象を必ず兩兩相次させ、二十八組の正覆の象を兩兩相次させた所以は、まさにこの層の用意を含む。だから《雑卦伝》は《序卦伝》の外において、故意に旧有の次序を打乱し、もってこの層の意義を一層顕豁ならしめた。さもなくば、人は或いは《蒙》と《需》が相接しこの卦と《小畜》が相接するに彼此何の関連があるかを疑うかもしれない。《雑卦伝》の用意が明らかでなくなって以来、そこで《易経》の中でおよそ反象を講ずる所もまた解する人がいなくなった。

十翼の易を解するは浅より深に及ぶ

愚嘗卽十翼考之,是否為孔子所作則不敢知,然為一人之文無疑也。其釋經由淺及深,漸次而進。文言釋乾坤,六十四卦之本也;至彖傳則釋上下卦往來上下之義,教初學識本象矣;象傳則言及中爻,教人識互象也;繫傳初言剛柔動靜,次言錯綜變化,無義不備,無象不包,然皆崑崙言之。至說卦,遂明言八卦方位矣。方位者,易之本,乾鑿度所謂「八卦成列,天地之道立,雷風水火山澤之象定」也,先天而天弗違也;又為易之用,乾鑿度所謂「及其散佈用事,四時迭終,五行更廢」也,後天而奉天時也。

私はかつて《十翼》に就いて考察を加えた。それが孔子の作であるかどうかは、敢えて断定しないが、一人の手から出たことは疑いがない。それは経文を解釈するに浅より深に入り、逐步推進する。《文言》はただ《乾》《坤》の両卦を解するのみである。この両卦は六十四卦の根本だからである。《彖伝》に至れば上下両体の往来升降の意義を解釈し、初学の人に本卦の象を認識せしめる。《象伝》は中間の各爻に講じ及び、人に互卦の象を認識せしめる。《繋辞伝》は先ず剛柔動静を講じ、次いで錯綜変化を講じ、義理は備わらざるなく卦象は包含せざるなく、ただ皆籠統に渾言したのみである。《説卦伝》に至って、はじめて八卦の方位を明らかに講じ出した。方位は《易》の根本であり、《乾鑿度》のいわゆる「八卦列を成し、天地の道立ち、雷風水火山沢の象定まる」とは、講ずるは先天卦位であり、即ち《文言》のいわゆる「先天にして天違わず」である。方位はまた《易》の功用であり、《乾鑿度》のいわゆる「其の散布して事を用いるに及び、四時迭終り、五行更に廃す」とは、講ずるは後天卦位であり、即ちいわゆる「後天にして天時を奉ず」である。

方位不明,易不能通。至對象,較互象又進矣。互象有形可察,對象則伏於虛,無形可據,明言之,俾人知象之顯於此者尚有隱於彼。雜卦明申其義。互象漢魏人皆知,對象則不盡知,覆象則知者益少,果不出聖人之所略焉。

方位を弄清楚しなければ、《易》は読み通すことができない。「対象」に至っては、互象よりまた一層進んだ。互象には形跡あって察看し得るが、対象は却って虚処に潜伏して、依拠し得る形跡がない。だから必ず明らかに説き出さなければならない。もって人にこの一卦に顕現する象には、なおあの一卦に潜伏する一面があることを知らしめる。《雑卦伝》はまさにこの層の意を明らかに申説したものである。互象は漢魏の人が皆解したが、対象は即ち人人皆解するにあらず、覆象を解する人はなおさら少ない。果たして皆聖人がすでに顧慮していた疏略の中に落ちた。

易の演ずる所は皆公例公理

凡易之所言,皆天地間之公例公理,為萬物萬事所不能逃。先儒謂其專言天道,或專言人事者,皆不知天道不如人事者也。天道與人事,無二理也。仁者見之謂之仁,智者見之謂之智,如執其辭,將一句不能通。

《易経》の講ずる所は、皆天地の間の公例公理であって、万事万物が逃脱すること能わざるものである。前代の学者には或いは《易》は専ら天道を講ずると言い、或いは専ら人事を講ずると言う者があるが、これは皆天道と人事がもともと两途でないことを明らかにしない説である。天道と人事には、並び二種の道理がない。《繋辞伝》に「仁者之を見てこれを仁と謂い、知者之を見てこれを知と謂う」と言う。もし字面を死抠すれば、即ち一句も講じ通らない。

易辞は皆象より生ず

凡易辭無不從象生。如舍象不求,而只演空理,則聖人之立言,無乃太怪奇乎?且如睽六三上九、小過六二等詞,如不從象生,直謂之發狂可也,尚何聖之足云,是誣聖也。故夫王弼反古,避難就易,去實蹈虛,以諛媚後學,真易之罪人也。

《易経》の文辞に一句として卦象から生じないものがない。倘若卦象を舍開して追究せず、ただ空洞の義理を推演するならば、聖人の立言はあまりに離奇怪古ではないか。譬えば《睽》六三の「其の人天にして且つ劓る」、上九の「鬼を一車に載せ、先ず之に弧を張る」、《小過》六二の「其の祖を過ぎ、其の妣に遇う」の類の文辞は、もし象から生じたものでなければ、直ちに発狂の呓語と言うべく、なお何の聖人を論ずることがあろうか。それは即ち聖人を誣蔑するものである。だから王弼が古法に違背して難を避け易に就き、実象を拋開して虚談に蹈み入り、これを借りて後学を取り悦ばせたのは、真に《易》学の罪人である。

凡象用於此而合,用於彼而不合,必誤,如以離為斧是也。又象用於此而合,於彼不合,所取必誤。誤而不求其故,須再三變而始得其象者,皆曲說也。二千年易解之晦,由此也。茲有一證,述之如下。

およそ一つの象がこの一処に用いれば講じ通り、別の一処に用いれば講じ通らないならば、それは必ず取り誤ったものである。例えば離を取って斧とするのがこのようである。同じく、一つの象がここでは相合しあそこでは合わないならば、取った所に必ず誤りがある。取り誤ってまたその縁故を追究せず、必ず卦爻を輾転して両三次変じてはじめて勉强あの象を凑出させる。これらは皆曲解である。二千年以来《易》の解説が晦暗不明である所以の癥結は、即ちここにある。ここに一つの証例があり、以下に叙述する。

易の牛象

離彖離為牝牛,說卦坤為牛,左傳云純離為牛,此半象之本也。乃人於睽六三年之牛、革初九之牛、旅上九之牛,除遵用虞氏誤解、不取左氏外,餘皆知此以離為牛,詁甚得也。乃於無妄六三之牛、大畜六四之牛、遯六二之牛,皆知以坤為牛,不誤也,而皆不得解者何也?所取誤也。明之如下。

《離》卦辞に「牝牛を畜すれば吉」と言い、《説卦伝》は坤為牛と言い、《左伝》昭公五年の筮例に「純離為牛」と言う。これが即ち半象を用いて牛を取る根拠である。《睽》六三・《革》初九・《旅》上九の各爻の言う牛に至っては、虞翻の錯解を照搬して《左伝》の説を取らない人を除くほか、その余の人は皆この数処が離をもって牛とすることを知り、訓釈は甚だ当を得ていた。しかし《无妄》六三の牛・《大畜》六四の牛・《遯》六二の牛に対しては、大家も皆坤をもって牛とすることを知り、取り誤ってはいなかったが、しかも皆その所以然を講じ出せなかった。なぜか。取象する位置が誤っていたからである。以下に説明を加える。

无妄六三「或いは之に牛を係く、行人の得、邑人の災」の解

六三巽體,巽為繩,故曰繫;坤為牛,乃坤下剛成震,震為行為人,則牛之繫者已行矣,故曰行人之得。此雖以坤為牛,因坤形滅,故牛亦亡。其措詞之妙,有非凝目注視卦象而不能喻者,徒捃拾舊解無益也。大畜六四之牛,解已見前。

《无妄》六三に「或いは之に牛を係く、行人の得、邑人の災」と言う。六三は三から五爻までの互いに出る巽体の中に処り、巽は縄なので「係」と言う。坤は牛であるが、しかし坤の最も下の一爻が剛爻に変じれば即ち震を成し、即ち《无妄》の下体である。震は行・人である。ならば係いだ牛はすでに人に牽き去られたので「行人之得」と言う。ここでは坤をもって牛とするが、しかし坤の形体がすでに消失したので、牛もまたこれに随って見えなくなった。その措辞の巧妙は、神を凝して卦象を盯住して見なければ領会し得ない。ただ旧注を拾いに行くのみでは用がない。《大畜》六四のあの牛は、解説はすでに前文に見える。

遯六二「之を執るに黄牛の革を用い、之に勝いて説ぐ莫し」の解

坤為黃為牛,乃坤上而剛,則牛之革也,此艮之所以為膚也。艮為手,故曰執;艮為守為拘,故莫能脫。

《遯》六二に「之を執るに黄牛之革を用い、之に勝いて説ぐ莫し」と言う。坤は黄・牛であり、しかも《遯》の下体の艮はまさに坤の上爻が剛爻に変じて成ったものである。牛がすでに形を変えた以上、残るはただ牛皮のみである。これもまた艮が「肤」の象を取り得る所以である。艮は手なので「執」と言い、即ち捉える。艮は守・拘禁なので、誰も挣脱することができないと言う。

以上牛象,倏有倏無,若隱若見,於卦象恰合,胡用強變成坤以取象哉?坤為牛,乃坤之震,則牛之繫者已行矣(無妄);坤之艮,則牛之童者已角矣(大畜);坤之艮,則牛而成革矣(遯卦)。此雖非焦義,乃由焦用象推測,其神妙如此也。

以上のこの数処の牛象は、忽ちあり忽ちなく、若い隠れ若い顕れ、卦象と絲絲入扣する。どうして無理に爻を坤に変じて象を凑せる必要があろうか。坤為牛において、坤が震に変じれば、係いだ牛はすでに人に牽き去られた。これは《无妄》六三である。坤が艮に変じれば、小牛はすでに角を長じ出した。これは《大畜》六四である。同じく坤が艮に変じれば、牛は便ち皮革のみが残る。これは《遯》卦六二である。この数条は焦延寿本人の原話ではないが、しかし焦氏が象を用いる路数によって推し求めて出たもので、その神妙は一至このようである。

明夷六五・易林の箕子の確詁

《易林》雖以震為箕、為箕子,本明夷彖傳也。至六五箕子之明夷,自西漢以來無作紂臣解者。蜀趙賓讀箕子為荄茲,荄茲者,萬物方荄茲也,師古云「言根荄方滋茂也」,見孟喜傳,蓋古文原如此。而班固非易家,不知其為確詁,反摭拾梁邱施二家毀謗孟喜之詞,謂孟喜喜為名之,後賓死,因不肯仞云云。

《焦氏易林》は震をもって箕・箕子とするが、それは《明夷》彖伝の言う「内に難あって能く其の志を正しくす、箕子之を以てす」に本づく。六五爻辞の「箕子之明夷」に至っては、西汉以来それを殷紂の臣子箕子と解した人がいない。蜀人趙賓は「箕子」を「荄茲」と読み、いわゆる荄茲とは、万物がまさに草根に於いて萌発滋長することを言い、顔師古の注に「これは草根がまさに滋茂することを講ず」と言う。この事は《漢書・儒林伝》の孟喜本伝に見える。これで古文本はもともとこのように書いていたことが分かる。しかも班固は《易》を治める行家ではなく、これが確詁であることを知らず、反って梁丘賀・施讐の両家が孟喜を詆毀した話を撿起して、孟喜はこの説法を取って自ら標榜するのを好み、後に趙賓が死ぬと、孟喜は便ち承認することを肯んじなかったという等を言った。

若讀箕子為荄茲,為趙賓創解且大誤者,豈知劉向云「今易箕子作荄滋」,與賓讀同也。向所據皆中古文,非依賓讀,可見賓讀之為舊詁,非所自創,更可見孟喜傳嘲譏孟喜之語之為誣詞。宋晁景迂嘗再四不平,欲為孟喜辨誣,而不能求得其故,至惠定宇始昌言之,惠氏真善於讀史者也。

或る人は「箕子」を「荄茲」と読んだのは趙賓の創解であってしかも大錯であると考えるが、殊に知らないのは劉向がかつて「今本《易》の箕子は荄滋と書く」と言い、趙賓の読法と同じであったことである。劉向の依拠したものは皆中秘の蔵する古文本であって、趙賢に跟って行ったのではない。これでこの読法はもともと旧有の訓詁であって、趙賓の自創ではないことが分かる。さらに《漢書》孟喜本伝の中で孟喜を譏嘲した話が純粋に誣詞であることが分かる。宋代の晁説之(号は景迂)はかつて再三このために不平を鳴らし、孟喜のために誣を弁しようとしたが根拠を探し出せず、清代の恵棟(字は定宇)に至ってはじめてこの層の道理を公開申明した。恵棟は真に史を読むに善い人である。

至東漢馬融,始詁六五之箕子亦為殷太師。豈知彖傳所言之箕子,與六五所言之箕子,在當時字必不同,蜀才箕作其,是其證;卽王弼亦讀子為茲,與趙賓同,後人以其音近混同之耳。設六五之箕子卽為殷之箕子,彖傳萬不能引以解易,六十四卦彖傳之辭,有一例如是者乎?可覆按也。凡彖傳皆自出新義,無有引爻詞以解彖者。是皆因卦象失傳,故駭怪荄滋之讀。豈知明夷六五,震體也,震為生,故曰滋;震為萌芽,故曰荄。請還以《易林》明之。

東漢の馬融に至って、はじめて六五の「箕子」をもまた殷朝の太師箕子と訓した。殊に知らないのは、彖伝の言う箕子と六五の言う箕子は、当時の用字が必ず同じでなかったことである――蜀才本は「箕」を「其」と書き、即ち明証である。王弼でさえも「子」を「茲」と読み、趙賓と一致した。ただ後人が音が近いために両者を混同したにすぎない。仮使六五の箕子が即ち殷朝の箕子であれば、彖伝は決してそれを引いて卦を解すること能わざる。六十四卦の彖辞の中に、どの一条にこのような先例があろうか。全く复核することができる。およそ彖伝は皆自ら新義を出すもので、爻辞を引用して卦体を解釈することはない。これらの誤解は皆卦象が失伝したためで、だから一たび「荄滋」の読法を見れば即ち大驚小怪する。殊に知らないのは《明夷》六五は互震の中に処り、震は生なので「滋」と称し、震は萌芽なので「荄」と称したことである。請うてさらに《焦氏易林》を取って証明を加えん。

《易林·升之中孚》云「百草嘉卉,萌芽將出」,以震為萌芽也;《小畜之睽》云「芽櫱生達,陽昌於外」,震為芽櫱,睽通蹇,陽居五,故曰生達,故曰陽昌於外。夫所謂芽櫱,卽荄也;生達,卽滋也。明夷互震,陽在下,不得昌於外,故曰荄滋之明夷,言根荄芽櫱,正當坎冬,不得生達,故明夷也。

《易林・升之中孚》の林辞に「百草嘉卉、萌芽将に出ざらんとす」と言うのは、震をもって萌芽とする――《中孚》は二から四爻まで互震。《小畜之睽》に「芽蘖生達し、陽外に昌んなり」と言う。震は芽蘖であり、《睽》は《蹇》と旁通し、《蹇》の陽爻は第五位に居るので「生達」と言い「陽外に昌んなり」と言う。いわゆる芽蘖とは即ち「荄」であり、いわゆる生達とは即ち「滋」である。《明夷》の互体に震はあるが、しかし陽爻が下にあって外に昌盛することができないので、「荄滋之明夷」と称する。草根の嫩芽がまさに坎水寒冬に碰上し、抽発して生長することができないので、それによって光明が傷ると言う。

又《坎之解》云「寒露所凌,漸至堅冰,草木瘡瘍,華葉落亡」,解下坎,為寒露為堅冰,震為草木,陽在下,故瘡瘍。瘡瘍卽明夷,草木瘡瘍,華葉落亡,卽荄滋明夷也。解與明夷二至上同,說解卽說明夷,與賓詁同也,紛紜之聚訟可以解矣。惠定宇於此爻厯史,辨之綦詳,有功先儒,嘉惠後學,惟不知震為萌芽為胎為孕,故不知荄滋之象,乃讀荄滋為亥子。易明言天干則有之,言十二辰則未見也。

また《易林・坎之解》の林辞に「寒露の凌ぐ所、漸く堅氷に至り、草木瘡瘍し、華葉落亡す」と言う。《解》卦の下体は坎であり、坎は寒露・堅氷である。上体の震は草木であり、陽爻が下にあるので、草木は瘡を生じ潰爛する。瘡瘍とは即ち「明夷」であり、即ち傷を受けてその光明を失うことである。草木が瘡を生じ花葉が凋落するは、まさに「荄滋明夷」である。《解》卦は二爻から上爻まで《明夷》と同じく皆下坎上震の体なので、《解》を講ずるは即ち《明夷》を講ずるに等しく、趙賓の訓釈と完全一致する。紛紛擾擾の争訟はここに至って了結し得る。恵棟はこの一爻の原委を考辨すること極めて詳尽で、前賢に功あり後学に恵ありであるが、ただ彼は震が萌芽・胎・孕であることを知らず、よって「荄滋」の象がどこから来たかを明らかにせず、竟に「荄滋」を地支の「亥子」と読んだ。《易経》が明白に天干に言及したものは確かにあるが、明白に十二地支に言及したものはまだ見たことがない。

賁の初九・六二は皆半象を用いる

賁下離,離下震上艮,故初九曰趾,曰舍車而徒,徒,徒步行也,趾與徒皆震象。六二曰賁其須,艮為須也。《易林·同人之否》云「繫於虎鬚」,否巽為繫,艮為虎為須;又《蹇之旅》云「棘掛我須」,亦以旅艮為須。賁其須與賁其趾對文,治虞易者詁須為待,非也。易皆用半象也。

《賁》卦の下体は離であり、しかも離の下の両爻は半個の震を構成し、上の両爻は半個の艮を構成する。だから初九に「其の趾を賁る」と言い「車を舍てて徒たり」と言う――徒とは即ち徒歩で行走することであり、「趾」と「徒」は皆震象から出たもので、震は足・行である。六二に「其の須を賁る」と言うのは、則ち艮を取って須とする。《易林・同人之否》の林辞に「虎須に係る」と言う。《否》は三から五爻まで互巽で、巽は繩係であり、二から四爻まで互艮で、艮は虎・須である。《蹇之旅》に「棘我が須に挂かる」と言うのも、《旅》下体の艮を取って須とする。「賁其須」と上文の「賁其趾」はまさに対偶して文を成す。虞翻の易学を治める人は「須」を等待と訓するが、誤りである。この両爻が用いたのは皆半象である。

豫九四「朋盍簪」の象

京作撍,子夏傳作簪,雲疾也,鄭云速也,馬作臧,荀作宗,虞作戠,雲聚會也,獨侯果訓為括髮之簪。清之毛奇齡惠士奇惠棟孫星衍錢大蚚焦循王引之翁元圻等,各有所主,大抵皆駁侯果之說,惟毛奇齡翁元圻用侯說,謂簪為冠簪,所以括髮固冠。

《豫》九四に「朋盍簪」と言う。この「簪」の字は、京房本は「撍」と作し、《子夏易伝》は「簪」と作して「疾」と訓し、鄭玄は「速」と訓し、馬融本は「臧」と作し、荀爽本は「宗」と作し、虞翻本は「戠」と作し且つ聚会と訓し、ただ唐人侯果のみがそれを髪を束うる簪子と訓した。清代の毛奇齢・恵士奇・恵棟・孫星衍・銭大蚚・焦循・王引之・翁元圻らは各々一説を持し、大体皆侯果を駁する中に在り、ただ毛奇齢・翁元圻のみが侯果の説を採用し、簪は即ち冠簪であって、髪を束え帽子を固定するのに用いると考えた。

其駁侯說者,謂古祗有笄,無有簪,簪之名至漢始有。儀禮士喪禮「簪衣於裳」,鄭注云「簪,連也」,儀禮仍漢世之書,不足據也,簪於冠無涉也。繁徵博引,以炫其博,豈知六經何者非漢儒所傳,而能謂六經皆漢世書乎?況簪之與笄,名異而實同,在周則多稱曰笄,在漢則多稱曰簪。說文:笄,簪也;簪,無首笄也。鄭注士冠禮云「笄,今之簪」,其為一物甚明,而惠棟必謂漢時始有簪名。豈知儀禮外,李斯諫逐客書云「宛珠之簪」,韓非子「周主亡玉簪」,其不始於漢甚明。

あの侯果を駁斥する者は言う。古代にはただ「笄」があるのみで「簪」はなく、簪のこの名称は漢代に至ってはじめて出現した。《儀礼・士喪礼》に「裳に衣を簪す」の語があり、鄭玄の注に「簪とは即ち連綴なり」と言う。しかも《儀礼》は依然として漢代に伝えられた書であって、拠るに足らない。ましてやこの簪は帽子と関係がない。彼らは旁徴博引して自らの博洽を炫耀するが、しかし六経のどの一部が漢代の学者の伝えたものでないのかを思いもしない。豈に六経が皆漢代の書であると言うことができようか。况且簪と笄は名称は異なるが実は一物である。周代は多く笄と称し、漢代は多く簪と称した。《説文解字》に「笄とは即ち簪なり」「簪とは頭飾なき笄なり」と言い、鄭玄が《儀礼・士冠礼》に注して「笄とは即ち今の簪なり」と言う。両者が同じ一件の物であることはこれ以上明白なことはない。しかも恵棟は偏に漢代にはじめて簪のこの名称があったと言う。殊に知らないのは《儀礼》を除くほか、李斯《諫逐客書》に「宛珠之簪」に講じ及び、《韓非子》に「周主玉簪を亡す」に講じ及ぶので、簪は漢代に始まらないことが分かる。これは極めて明白である。

又後儒見漢人訓簪為連為聚,必謂與笄異物,以駁侯說。豈知釋名云「笄,繫也,所以繫冠,使不墮也」,繫之與連,有以異乎?笄貫紐武,注「冠鼻,使與髮連,繫冠不墜」,簪之用猶是也。漢之時冠式或與周小異,其固冠之法則不異也。

後代の学者はまた漢人が「簪」を連・聚と訓したのを見て、便ちそれが笄と両樣の物であると断定し、もって侯果を駁した。殊に知らないのは《釈名》に「笄とは即ち繋なり、もって帽子を繋いでそれを墜ちざらしむ」と言うにあり、「繋」と「連」に何の区別があろうか。笄は冠上の紐と武(帽圏)を穿ち通さなければならず、注文はそれを冠上の鼻紐と言い、帽子を頭髪と相連させ帽子を繋いで墜落せざらしめる。簪の用処もまさにこのようである。漢代の冠式は或いは周代と稍々異なっていたかもしれないが、帽子を固定する弁法は並び二致なかった。

後儒徒執簪哀於裳之鄭注,訓簪為連,豈知連衣於裳之必有物乎?物卽簪也。又簪衣於裳者,乃死者之衣裳,非復者招魂之衣裳。死者之衣裳上下殊,故以簪連之;復者持以招魂。今必謂簪為連衣裳之物,更不可用以括冠髮,有是理乎?況易如此等字,無不從象生。後儒訓此字,動至千言,然從無有返本歸根、求之卦象者,故愈說愈晦也。

後代の学者はただ《儀礼》の「裳に衣を簪す」の鄭玄注を抓住して、簪を連綴と訓したが、しかし思いもしなかった。上衣を下裳の上に連げようとするには、総じて一つの物件がなければならないだろう。あの物件はまさに簪である。さらに「裳に衣を簪す」の指す所は死者の衣裳であり、行「復礼」の人が取って招魂するあの套の衣裳ではない。死者の衣裳は上下分開するので、簪を用いて連げる。招魂の人は則ち衣裳を執って招魂に行く。今強いて簪はただ衣裳を連綴するものであって、決して髪を束え冠を固めるのに用いることができないと言う。天下にこのような道理があろうか。ましてや《易経》の中のこの類の字に卦象から生じないものが一つもない。後代の学者がこの一つの字を訓釈するに、動もすれば千言を写すが、しかし従来本に返り根に帰って卦象の中に寻求した人がいない。だから説けば説くほど晦暗となる。

按《易林·恆之咸》云「簪短帶長」,咸互巽,為帶為長,艮為簪也,兌折,故簪短;又《復之節》語同,節三至五互艮,亦以艮為簪。豫九四艮以一陽統率群陰,若簪之穿物,故曰盍簪;陽以陰為朋,震為髮,言群朋附四,若簪之括冠髮也,故曰朋盍簪。此有一確注,杜詩云「盍簪喧櫪馬」,艮為小木為簪,言群馬之韁共繫於橫木之上,故曰盍簪。能解杜詩,則朋盍簪三字之形容如繪出矣。又艮為小木,古士庶之家嘗以桑為笄,見儀禮;以蓍為簪,見韓詩外傳;以荊為釵,見列女傳,故艮為簪。自艮簪震髮之象失傳,於是此語之神妙都不解,而為無味之聚訟。

按ずるに《易林・恒之咸》の林辞に「簪短く帯長し」と言う。《咸》卦は二から四爻まで互巽で、巽は帯・長である。下体の艮は簪である。上体の兌は毁折なので簪短し。《復之節》の林辞はこれと同じで、《節》卦は三から五爻まで互艮であり、これもまた艮をもって簪とする。《豫》卦の九四のこの一本の陽爻は上下の五本の陰爻を統率し、あたかも簪子が衆物を穿ち通すが如し。だから「盍簪」と言う。陽は陰をもって朋とし、上体の震は頭髪である。衆朋が九四に依附して、あたかも簪子が冠髪を束えるが如しと言うので「朋盍簪」と言う。ここに一条の確切な旁証がある。杜甫の詩句「盍簪櫪馬を喧からす」――艮は小木・簪であり、群馬の繮繩が一斉に一本の横木に係ることを言うので「盍簪」と称する。杜詩を解し通れば、「朋盍簪」の三字の描摹する情景は画き出したが如くである。艮はまた小木であり、古の士人庶人の家はかつて桑木を用いて笄を作ったことが《儀礼》に見え、蓍草を用いて簪を作ったことが《韓詩外伝》に見え、荊条を用いて釵を作ったことが《列女伝》に見える。だから艮は簪と為り得る。艮為簪・震為髪のこの二つの象が失伝して以来、この句の爻辞の神妙は理会する人がなく、ただ一場の意味なき争訟が残るのみである。

又杜詩蔡註解此句雲朋友燕會,可謂大誤。題為杜位宅守歲,時子美尚未官京師,故在從弟家守歲。曰「四十明朝過」,則除夕也;曰「列炬散林鴉」,則深夜也。以唐時風俗,豈有此時會朋友哉?而王應麟謂杜詩注詳博,但不知詩用侯果注,亦未察知蔡注大誤之所在,以此嘆解人千古難索。

さらに杜詩の蔡氏注は、この一句を朋友の宴会と解したが、大錯と言うべきである。この詩は題して《杜位宅守歳》と作し、当時杜甫(字は子美)はまだ京城で官を為していなかったので、堂弟の家中で歳を守ったのである。詩の中に「四十明朝過ぎん」と言うので、これが除夕であることが分かる。「列炬林鴉を散ず」と言うので、すでに深夜に至ったことが分かる。按ずるに唐代の風俗において、どうしてこのような時候に朋友を聚会しようか。しかも王応麟は杜詩注が詳実博洽であると称賛したが、この句の詩が用いたのはまさに侯果の注であり、また蔡注の大錯がどこにあるかも察覚しなかった。これによって真の解人は千古求め難いことを嘆じ得る。

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