《旅》卦九三は《艮》をもって火とする
旅九三以艮為火。艮火之象,至東漢卽不知,祗邵子皇極經世以艮為火,為後儒所疑。乃邵子坤水之象,既與易合、易林合、九家合,則知其它亦皆有本,非自創也。後征之易林,解之謙云「三火起明,雨滅其光」,是以艮為火,艮納丙,數三,故曰三火;謙互艮,故雨滅其光。
《旅》卦九三は《艮》をもって火とする。《艮》為火というこの象は、東漢に至ってこれを知る人がいなくなり、ただ邵雍の《皇極経世》だけが《艮》をもって火としたが、なお後儒に疑われた。しかし邵雍の主ずる「《坤》為水」の象は、すでに《周易》と相合し、《焦氏易林》と相合し、《九家易》と相合している。ならば彼のその余の取象もまた皆本づく所があり、自ら杜撰したのではないことが知れる。後に《易林》を取って検証するに、《解》之《謙》の条に「三火起きて明となり、雨其の光を滅す」と言う。これは即ち《艮》をもって火とするものである――《艮》の納干は丙(丙は火に属し)、その数は三なので「三火」と言う。《謙》卦は互《艮》なので「雨其の光を滅す」と言う。
又大壯之遯云「火爛銷金」,遯上乾,金;下艮,艮火,故銷金。他若坎之謙云「門燒屋燔」,蹇之渙云「從風放火」,皆以艮為火。而火爛銷金、三火起明,尤以艮為火之確證,以數定之。因由易林而求之易,旅九三云「旅焚其次」,次者舍也,艮為舍為火,故焚其次。離火在上,非艮火,不能焚次也。
《大壮》之《遯》の条にまた「火爛して金を銷す」と言う。《遯》卦の上体は《乾》であり、《乾》は金である。下体は《艮》であり、《艮》は火であるので、金属を銷熔し得る。その他《坎》之《謙》に「門を焼き屋を燔く」と言い、《蹇》之《涣》に「風に従いて火を放つ」と言うのは、皆《艮》をもって火とする。しかも「火爛銷金」「三火起明」の二条は特に《艮》為火の確証である。なぜならなお《艮》の数目をもってそれを坐実し得るからである。そこで《易林》から回頭して《周易》に求めるに、《旅》卦九三に「旅其の次を焚く」と言う。「次」とは即ち旅舎であり、《艮》は舎でありまた火なので「焚其次」と言う。《離》火は上体にあり、もし《艮》火が下になければ、旅舎に焼き及ぼすことはできない。
《巽》卦九二「史巫を用うること紛若たり」の解
巽初至四,正反兩兌口相背,兌為口舌,史巫皆以口舌為用者也,故曰用史巫。史巫既並稱,當然為祝史。左傳桓六年「祝史正詞」,昭十八年「吾事鬼神而疾病,是祝史之罪也」,周官大祝史四人、司巫史一人是也。乃荀爽以書勳之史當之,失易象矣。書勳之史,乃南狐之流,胡能與巫並列?後注家遵用不改,則以易象失傳,不知史巫皆取象於口舌也。
《巽》卦の初爻から四爻までは、一正一反の二つの《兌》口が彼此相背する。《兌》は口舌であり、史官と巫祝は皆口舌に倚って事を行う人なので、九二の爻辞に「史巫を用う」と言う。すでに「史」「巫」を併称する以上、この「史」は当然祝史を指す。《左伝》桓公六年に「祝史詞を正しくす」と言い、昭公十八年に「吾鬼神に事えて疾病するは、是れ祝史の罪なり」と言い、《周礼》の大祝の下に史四人あり、司巫の下に史一人あり――即ちこの類の職官である。しかし荀爽は記功書事の史官を取ってそれに充当した。それは《易》象を失ったものである。記功書事の史官は、南史氏・董狐のあの一流の人物であり、どうして巫と並列することができようか。後の注家が沿用して改めないのは、《易》象が失伝して「史」「巫」が皆口舌に象を取ることを知らないためである。
茲證以易林,萃之巽云「眾口銷金,愆言不驗」,巽正反三兌,故曰眾口、曰愆言。又大壯之巽云「犬吠非主,上下膠擾」,巽二至四兌,伏艮,故曰犬吠;震為主,震伏,故曰非主;膠擾卽紛若也。又剝之巽云「三人俱行,一人言北,伯仲欲南,少叔不得」,亦以巽正反兩兌口為說。凡此皆史巫紛若之義也。自易象失傳,荀爽卽不知此用覆象,故紛若之義,二千年來無一人能覺察者。非易林,孰能證明之?又孰肯信之?
今《焦氏易林》を用いて印证する。《萃》之《巽》の条に「衆口金を銷し、愆言験なし」と言う――《巽》卦には正反三つの《兌》があるので「衆口」と言い「愆言」と言う。《大壮》之《巽》の条に「犬吠ゆるも主に非ず、上下膠擾す」と言う――《巽》卦の二爻から四爻まで互《兌》を成し、《兌》の伏蔵する所は《艮》であり、《艮》は狗なので「犬吠」と言う。《震》は主であり、《震》が潜伏して見えないので「非主」と言う。「膠擾」とは即ち爻辞の言う「紛若」である。《剥》之《巽》の条にまた「三人俱に行き、一人は北と言い、伯仲は南を欲し、少叔得ず」と言うのも、《巽》卦の正反両《兌》口について説を立てたものである。およそこれらの種種は皆「史巫紛若」の意である。《易》象が失伝して以来、荀爽はここで用いるのが覆象であることを知らず、だから「紛若」の意義は二千年の間それを察覚し得た人が一人もいない。もし《易林》がなければ、誰がそれを証明できるであろうか。また誰が肯んじて信じるであろうか。
《巽》卦九五「初なし終あり、先庚三日、後庚三日」の解
巽九五無初有終先庚三日後庚三日解。此其義,余曾說之,載周易古筮考中,然仍按十干生克之理為解,雖於初終之義有合,然以易林本象與對象往來返復之義證之,其無當與舊解等也。按易林夬之巽云「與神往來,長樂以安」,震為帝為神,言巽與震常往來返復也。蓋震究為巽,巽之初原為震,終成巽,故曰無初、曰有終。震主庚,一爻當一日,先庚三日者,言巽之前三日為震也;今成巽,而巽之究仍為震,後庚三日者,言巽之後三日仍將復於震也。
《巽》卦九五「無初有終、先庚三日、後庚三日」の解。この条の意義は、私はかつて講じたことがあり、《周易古筮考》に載せたが、ただ当時も依然として十天干の生克の理に按じて解釈し、「初」「終」の義とはやや吻合したものの、《焦氏易林》の本象と対象が往来反覆する義例をもって印证すれば、旧説と同じく講じて中肯でなかった。按ずるに《易林》《夬》之《巽》の条に「神と往来し、長く楽しみ以て安し」と言う。《震》は帝・神であり、この条はまさに《巽》と《震》が時々往来反覆することを言う。もともと《震》は究極すれば《巽》に変じ、しかも《巽》の起初はもともと《震》であり、最後に《巽》を成した。起初の《震》はすでに在らないので「無初」と言い、末後に《巽》を成して終わる所有るので「有終」と言う。《震》の納干は庚なので、「庚」は即ち《震》である。一爻をもって一日とすれば、いわゆる「先庚三日」とは、《巽》の前のあの三日はもともと《震》であったことを言う。今すでに《巽》を成したが、《巽》を推究し尽くせば依然として《震》に帰する。いわゆる「後庚三日」とは、《巽》の後のあの三日がまた再び《震》に回復することを言う。
震巽相往來反覆,故易林否之巽云「代伯受患」,小畜之巽云「伯氏失利」,伯者,震也,言此時震伏,巽暫代震受事也。說卦云「其究為躁卦」,朱震云「巽三變成震,震三變成巽,震,躁卦也」,正釋此也。後解此者,惟虞仲翔謂庚為震,與易林旨合。而後之人見聖人言庚,便於十干中討生活,錘幽鑿險,刻剔玲瓏,豈知聖人言庚,祗以代震耳,並無其它深奧。至其義理,祗震巽相往復耳,尤顯近易解。其以幽深相錘鑿者,則以易說失傳,不知本象與對象常往來反覆之理也。
《震》《巽》が彼此往来反覆するので、《易林》《否》之《巽》の条に「伯に代りて患を受く」と言い、《小畜》之《巽》の条に「伯氏利を失う」と言う――「伯」とは即ち《震》である(《震》は長男なので伯と称す)。これはこの時《震》が潜伏し、《巽》が暫く《震》に代って事務を承当することを言う。《説卦伝》に《巽》は「其の究めば躁卦と為る」と言い、朱震は「《巽》は三爻を変じて《震》を成し、《震》は三爻を変じて《巽》を成す。《震》は即ち躁卦である」と言う。まさにこの句を解釈したものである。後にこれらの句を解する者は、ただ虞翻だけが「庚」は即ち《震》と言って《易林》の旨意と相合した。しかし後の人は聖人が「庚」に言及するのを見るや、十天干の中で討生活し、幽深険奥の処に向かって錘鑿し、玲瓏剔透に彫琢した。彼らはどうして聖人が「庚」と言うのはただ《震》を代指するためのものにすぎず、別に深奥があるのではないことを知らなかったのか。その中の義理に至っても、ただ《震》《巽》が相往复するのみで、特に浅近で解し易い。それを錘鑿して幽深難測にした者は、《易》説が失伝し、本象と対象が常に相往来反覆する道理を解さないためである。
附「先甲三日、後甲三日」の解
附先甲三日後甲三日解。此二句義,餘亦曾說之,載古筮考中,今以易林推之,義極簡也。蠱者否之始,蠱通隨,隨者泰之始,否泰皆有乾,乾納甲,故以甲代乾。蠱為否始,而蠱之先為泰,泰下乾,為先甲三日。乃泰初升上成蠱,為反否之始一日;二升成漸為二日;三升成否為三日。至三日而否運終矣,先甲變為後甲矣。
附:《蠱》卦「先甲三日、後甲三日」の解。この二句の意義も、私はかつて講じたことがあり、《周易古筮考》に載せた。今《焦氏易林》を用いて推し求めれば、道理は極めて簡明である。《蠱》は《否》の開端であり、《蠱》は《随》と旁通し、《随》は《泰》の開端である。《否》《泰》は皆《乾》を含み、《乾》は甲を納するので、「甲」を用いて《乾》を代指する。《蠱》はすでに《否》の開端であり、しかも《蠱》の前は《泰》であり、《泰》の下体は《乾》である。これが即ち「先甲三日」である。具体的に言えば、《泰》の初爻と上爻が互いに易りて《蠱》を成すのは、《否》に向かう第一日である。二爻と五爻が互いに易りて《漸》を成すのは、第二日である。三爻と四爻が互いに易りて《否》を成すのは、第三日である。第三日に至って《否》運は便ち告げ終り、「先甲」もまた「後甲」に変じる。
隨為泰始,隨之先為否,否上乾,為後甲三日。乃否上返初成隨,為返泰之始一日;五隨返成歸妹為二日;四隨返成泰為三日。至三日而泰運終矣,後甲復為先甲矣。始而終,終而始,循環不已,故彖傳曰「終則有始,天行也」。後解此者,惟虞氏謂甲為乾,惟姚配中說始終得解,而解先庚後庚則非。
《随》は《泰》の開端であり、しかも《随》の前は《否》であり、《否》の上体は《乾》である。これが即ち「後甲三日」である。具体的に言えば、《否》の上爻が初位に返って《随》を成すのは、《泰》に回帰する第一日である。五爻がこれに随いて返って《帰妹》を成すのは、第二日である。四爻がこれに随いて返って《泰》を成すのは、第三日である。第三日に至って《泰》運は便ち告げ終り、「後甲」はまた「先甲」に変じて戻る。始めあれば必ず終わりがあり、終わりあればまた始めがあり、循環して止まない。だから《蠱》卦《彖伝》に「終われば則ち始めあり、天の行なり」と言う。後にこの二句を解する者は、ただ虞翻だけが「甲」は即ち《乾》と言ったのが正しく、また姚配中だけが「終始」を講じて通じた。ただ彼が「先庚」「後庚」を解したのは誤りである。
《兌》卦《大象》「朋友講習」の解
兌大象朋友講習解。凡易言小有言、聞言不信、有言不信、慎言語節飲食、鶴鳴子和及講習者,無不以正覆兩震或兩兌相對(相對卽相背)為說,乃虞氏皆不用,獨解此曰兌兩口對為講習。相對者,以二至四正覆兩兌口相對,非謂上兌下兌為相對;上兌下兌,口皆外向,如何對乎?
《兌》卦《大象》「朋友講習」の解。およそ《周易》が「小言あり」「言を聞きて信ぜず」「言ありて信ぜられず」「言語を慎み飲食を節す」「鶴鳴き子和す」および「講習」を講ずるのは、一正一覆の二つの《震》あるいは二つの《兌》が相対する(相対とは即ち相背すること)を取って説を立てないものがない。しかし虞翻は一概にこれを用いず、ただここの一か所を解するにのみ「《兌》の両口が相対するは即ち講習なり」と言った。いわゆる相対とは、二爻から四爻までのこの一段の中の一正一覆の二つの《兌》口が彼此相対することを指すのであって、上体の《兌》と下体の《兌》が相対することを言うのではない。上《兌》下《兌》の口は皆外に向かうので、どうして相対することができようか。
虞此說似用覆象,與易林合,乃後儒釋者竟以上下兌為相對。後安陸李道平作集解篡疏,覺其不安,又以兌上陰開兩口為相對,則以易說失傳,東漢人耳聞覆象之例,不敢通用,偶用之,後儒卽不知所謂矣。惟虞謂兌二陽同類為朋,絕不知陰陽相遇為類為朋之義,故所詁又誤也。
虞翻のこの説法は覆象を用いたようで、《焦氏易林》と相合する。しかし後の解経者は竟に上下の両《兌》をもって相対とした。さらに後に安陸の人李道平が《周易集解纂疏》を作り、このように講じるのが妥でないことを察覚し、また《兌》の上爻の陰画が分かれて二つの口に象るのを取って「相対」とした。これらは皆《易》説が失伝したためである。東漢人はただ覆象の義例を耳聞したことがあるのみで、敢えて普遍に使用せず、偶々一たび用いても、後の儒者は言う所が何かを知らなくなった。別に虞翻は《兌》の二つの陽爻が同類であるのを「朋」としたが、全く陰陽相遇えばはじめて同類・朋となる義例を解さず、だからここの一か所の訓解はまた誤った。
《涣》卦「大川を渉るに利し」の解
渙利涉大川解。彖傳曰「乘木有功也」,巽木,中爻震木,木在水上,故利涉。易凡言大川者,獨此似可以坎為大川也。然二居坤水之中,前臨二陰,陽遇陰遇通,故利涉。必以坎為大川,坎險坎陷,誰利涉乎?仍不如以坤為水之義長也。
《涣》卦「利渉大川」の解。《彖伝》に「木に乗りて功あればなり」と言う。上体の《巽》は木であり、中爻は互体して《震》を成しこれもまた木である。木が水の上に浮かぶので「利渉」である。《周易》がおよそ「大川」を講ずる所は、ただこの一か所だけが《坎》を取って大川に充当できそうである。ただし九二は《坤》水の中に処り、前に二つの陰爻に臨み、陽は陰に遇えば通ずるので「利渉」である。もし必ず《坎》を取って大川とするなら、《坎》の卦徳は険・陥であり、誰が渉渡に利を得られようか。これで依然として《坤》をもって水とする講法がなお通暢であることが分かる。
《節》卦卦名の解
節卦名解。水澤亦先後天同位,故曰節。節者,符節,以相合為用,言坎居西,兌亦居西,若合符節也。節者,信也,言凡事皆有一定制節,不容改變,故君子以制度數,天地以成四時。天地節者,天地信也,全以先後天同位取義也。虞翻以泰三之五艮止為節,失古義矣。
《節》卦卦名の解。水と沢もまた先天・後天が同じ一位に居るので「節」と言う。「節」とは即ち符節であり、両半が相合することをもって用とする。《坎》は先天方位において西に居り、《兌》は後天方位においても西に居り、まさに符節の相合するが如し。「節」はまた信の意である。およそ事には一定の節制があり、更改を容れない。だから《大象伝》に「君子以て数度を制す」と言い、《彖伝》に「天地節して四時成る」と言う。いわゆる「天地節」とは、すなわち天地に信があることである。これは全く先後天が同位であることについて義を取ったものである。虞翻は《泰》卦の三爻が五位に昇り、《艮》の止をもって「節」としたが、それは古義を失ったものである。
《節》卦初九・九二の爻辞の解
節初九九二爻詞解。吳冀州易說說此云:「易以陽在前為塞,陰在前為通。初之不出,以九二在前,故曰知通塞;二則可出而不出,故有失時之凶。」此發前人所未發,與易林大旨合若符契。節初九何以不宜出?陽在前為阻也。九二何以宜出?陰在前則通也。不宜出而靜,故無咎;宜出而不出,故失時。
《節》卦初九・九二爻辞の解。呉汝綸《易説》はこの二爻を講じて言う。「《周易》は陽爻が前にあるをもって阻塞とし、陰爻が前にあるをもって通暢とする。初九が戸庭を出でない所以は、九二というこの陽爻がその前にあるからであり、だから《象伝》に『通塞を知る』と言う。九二はもともと出ることができるのに出ないので、時を失うの凶がある。」これは前人の発したことのない所を発したもので、《焦氏易林》の大旨と吻合すること符節の如し。《節》卦初九はなぜ出るに宜しくないか。陽爻が前にあって阻まれるからである。九二はなぜ出るに宜しいか。陰爻が前にあれば通ずるからである。出るに宜しくなくて安静に自守するので「无咎」(過咎をこうむらない)である。出るに宜しいのに出ないので「時を失う」である。
此與說大畜初二三三爻云:「凡陽之行,遇陰則通,遇陽則阻,故初二皆不進而三利往也。」初二何以不進?陽遇陽也。三何以利往?陽遇陰也。自東漢以來,以此旨解經者少,豈知此實全易之精髓、陰陽之樞機。學者試就其言求之全易,但玩卦象,不讀爻詞,而何爻吉、何爻凶,已瞭然在目矣。
これは呉氏が《大畜》の初・二・三のこの三爻を講じた話と一致する。彼は言う。「およそ陽爻が行進するに、陰爻に遇えば通じ、陽爻に遇えば阻まる。だから《大畜》の初・二の両爻は皆前進せず、三爻は『往くところあるに利し』である。」初・二はなぜ進まないか。陽が陽に遇うからである。三爻はなぜ往に利があるか。陽が陰に遇うからである。後漢以来、この宗旨を用いて経を解する者は少ない。彼らはどうしてこれが実に全部の《周易》の精髓であり、陰陽消長の枢機であることを知らなかったのか。学者は彼の話に照らして全部の《周易》の中で印证してみるがよい。ただ卦象を玩味して爻辞を読まなくても、どの爻が吉でどの爻が凶かは、すでに目に了然としている。
《中孚》卦卦名の解
中孚卦名解。杭氏曰:「後天東南巽,卽先天兌位,故風澤曰中孚。」孚者,交相孚也。
《中孚》卦卦名の解。杭辛斎が言う。「後天方位の東南は《巽》であり、まさに先天《兌》の位置である。だから風上沢下の卦を『中孚』と称す。」「孚」とは即ち彼此が交相信頼することである。
《中孚》卦「豚魚」の解
中孚豚魚解。自易象失傳,東漢人不知魚象。荀爽謂豚處艮山、魚止兌澤,皆不能確指其象,是其證。至虞翻知巽魚象,仍不知豚象,乃讀豚為遯,後儒非之者多矣,而至今仍不得其象。按易林賁之中孚云「騎豚逐羊」,中孚震為騎,艮為豚。又師之旅云「豚彘不至」,亦以艮為豚,艮止,故不到;艮少,故為豚。自艮豚之象失傳,於是虞、黃以豚魚為遯魚,毛奇齡以豚魚為江豚,王引之謂為士庶禮品,遂以次穿鑿矣。
《中孚》卦「豚魚」の解。《易》象が失伝して以来、東漢人は魚の象を知らなくなった。荀爽は豚は《艮》山に処り魚は《兌》沢に止まると言ったが、皆その象の出る所を確指できなかった。これが即ち明証である。虞翻に至っては、《巽》に魚の象があることを知ったが、依然として豚の象を知らず、そこで「豚」を「遯」と読んだ。後世の儒者が彼を駁斥したのは多いが、しかし今に至るまでなおその象を求め得ていない。按ずるに《焦氏易林》《賁》之《中孚》の条に「豚に騎りて羊を逐う」と言う。《中孚》は互《震》を成して騎であり、互《艮》を成して豚である。《師》之《旅》の条にまた「豚彘至らず」と言うのも、《艮》をもって豚とする。《艮》は止を主るので「不至」と言い、《艮》は少男なので小豚の「豚」を取る。「《艮》為豚」の象が失伝して以来、そこで虞翻・黄頴は「豚魚」を「遯魚」と講じ、毛奇齢は「豚魚」を江豚と講じ、王引之は士庶の用いる礼品とし、次から次へと穿鑿し出した。
《中孚》卦「大川を渉るに利し」の解
中孚利涉大川解。彖曰「乘木舟虛也」,王肅曰「外實內虛,有似可乘虛木之舟」,最為得之。有舟卽可利涉大川,乃虞翻不知坤水在中、九二臨之、陽遇陰則通之理,必以坎為大川。二變不成坎,須三再變始能成坎,坎象成而利涉不辨為何爻。豈知易凡言利涉者皆確有所屬,如中孚之利涉則指二也。二前臨坤水,陽遇陰則通也,所謂乘木也,與大畜之九三同也。中孚二至五,卽大畜三至上也。然非易林坤水之象,孰能正虞氏之誤哉!
《中孚》卦「利渉大川」の解。《彖伝》に「木舟の虚に乗るなり」と言い、王粛は「外実内虚で、乗るべき中空の木舟のようである」と言う。この話は最も中肯である。舟があれば、「利渉大川」し得る。しかし虞翻は《坤》水が中間にあり九二がそれに緊臨し、陽が陰に遇えば通ずる道理を解らず、必ず《坎》を取って大川とした。二爻を変じても《坎》を成さず、三爻をさらに変じてはじめて《坎》を成すことができる。《坎》象は奏でて成したものの、「利渉」するのはいったいどの爻かを分辨できない。彼はどうして《周易》がおよそ「利渉」と言うのは皆確かに属する所があり、《中孚》の「利渉」の如きは即ち九二を指すことを知らなかったのか。九二は前に《坤》水に臨み、陽が陰に遇えば通ずる。これが即ちいわゆる「乘木」であり、《大畜》九三と同じである――《中孚》の二爻から五爻までのこの一段は、まさに《大畜》の三爻から上爻までのこの一段である。しかしもし《焦氏易林》の「《坤》為水」というこの象がなければ、誰が虞翻の錯誤を糾正できるであろうか。
《中孚》九二「鶴陰に鳴く、其の子これに和す。我に好爵あり、吾れ爾とこれを靡かん」の解
中孚九二鶴鳴在陰其子和之我有好爵吾與爾靡之解。此其義二千年長夜矣,則以不知覆象也。不知覆象,卽不知其子為誰、和聲從何而出、陰為何象。按易林晉之艮云「學靈三年,聖且聰明」,學靈者,學語也。艮三至上,正反兩震言相對,下言如何出,上卽如言而返,故曰學靈,學靈卽和也。中孚二至五,亦正反兩震言相對。
《中孚》九二「鶴鳴在陰、其子和之。我有好爵、吾與爾靡之」の解。この条の意義はすでに二千年の長夜の如く晦い。その原因はまさに覆象を解さないことにある。覆象を解さなければ、「其子」が誰であるか、応和の声がどこから出るか、「陰」がまた何の象であるかを知ることができない。按ずるに《焦氏易林》《晋》之《艮》の条に「霊を学ぶこと三年、聖にして且つ聡明なり」と言う。「学霊」とは即ち話を学ぶことである。《艮》卦の三爻から上爻までは、一正一反の二つの《震》の主る言が彼此相対する。下の《震》がどのように発声すれば、上の《震》はそのまま声を應じて返すので「学霊」と言う。「学霊」とはすなわち「和」である。《中孚》卦の二爻から五爻までも、同じく一正一反の二つの《震》の主る言が彼此相対する。
震為鶴,九家逸象震為鵠,項氏云「鵠鶴古通用,當作鶴」。按呂覽「鵠乎其羞」,注「讀如浩,大也」,音正與鶴通。劉孝標辯命論「龜鵠千秋」,費昶搗衣詩「開韞舒龜鵠」,皆鶴鵠通用之證。正字通謂為?[言為]字者,非也。吳草盧曰「黃鶴樓因黃鵠山而得名」,亦鵠鶴通用之證。
《震》は鶴である。《九家易》の逸象は「《震》為鵠」と作し、項安世は「鵠・鶴は古時通用する。ここでは鶴と作すべきである」と言う。按ずるに《呂氏春秋》の「鵠乎その羞み」に、注に「浩の如く読む。これ大の意なり」と言い、読音はまさに「鶴」と相通ずる。劉孝標《辯命論》に「亀鵠千秋」と言い、費昶《擣衣》詩に「韞を開きて亀鵠を舒す」と言うのは、皆鶴・鵠が通用する証拠である。《正字通》はこれを「?〔言為〕」の字と考えるが(源本はこの字が残缺し、ただ偏旁をもって標出し、敢えて臆補しない)、誤りである。呉澄(号は草廬)は「黄鶴楼は黄鵠山に因って名を得た」と言う。これもまた鵠・鶴が通用する証拠である。
為鳴,為子,下震出聲,上震卽如聲而反,故曰和。子指三至五之覆震也。在陰者,仍用覆象,二至五正反兩震,卽兩艮,子指上之覆震,陰則指下之覆艮也。易林頤之中孚云「熊羆豺狼,在山陰陽」,艮為山,納丙,丙南,故曰山陽;艮之反卽山北矣,山北曰陰,故又在山陰。而下之震鶴正當反艮,故曰鳴鶴在陰,言鶴鳴于山陰也。
《震》はまた鳴・子である。下の《震》が声を発すれば、上の《震》はそのまま声を應じて返すので「和」と言う。「子」が指すのは三爻から五爻までの覆《震》である。「在陰」に至っては、依然として覆象を用いる。二爻から五爻までの一正一反の二つの《震》は、反して見ればすなわち二つの《艮》である。「子」は上の覆《震》を指し、「陰」は下の覆《艮》を指す。《焦氏易林》《頤》之《中孚》の条に「熊羆豺狼、山の陰陽に在り」と言う。《艮》は山であり、納干は丙であり、丙の位は南にあるので「山陽」と言う。《艮》が一たび反覆すれば即ち山の北面を成し、山北を「陰」と称するので、また「在山陰」と言う。しかも下の《震》の象る鶴はまさに反《艮》の位に当たるので「鳴鶴在陰」と言う――鶴が山の北面で鳴くことを言う。
周易用覆之妙,匪夷所思,至東漢卽不知此義。見孟氏逸象以離為鶴也,而以訟之離當之,其誤一;不知陰象用反艮,而以訟之坎夜當之,其誤二;不知易無以艮坎為子之例,又不知子指覆震,而以二動成益、艮為子當之,其誤三;不知和為反震,而以益之震巽同聲相應解之,其誤四也。上亦失位,若再不能解,則將用節,豈有窮哉!
《周易》が覆象を運用する精妙さは、実に常人の思い及ぶところではなく、東漢に至ってはこの義例を解する人がいなくなった。注家は孟喜の逸象に「《離》為鶴」とあるのを見て、便ち《訟》卦の《離》を取って充当した。これが第一の誤りである。「陰」の象が反《艮》から取られたことを知らず、かえって《訟》卦の《坎》を夜として充当した。これが第二の誤りである。《周易》に《艮》《坎》をもって子とする義例がないことを知らず、また「子」が覆《震》を指すことを知らず、かえって二爻を変動して《益》を成し《艮》を子として充当した。これが第三の誤りである。「和」が反《震》から出ることを知らず、かえって《益》卦の《震》《巽》が同じ声に相応するを用いて解釈した。これが第四の誤りである。彼らはまた上爻もまた位を失うと言う。このようにしていけば、もしなお講じ通らなければ、将に改めて《節》卦を用いて湊合するであろう。どこに尽きるところがあろうか。
至於爵象,原屬大離,不必用訟離。兌爵為酒器,坎六四以震為樽,易林本之,凡遇震卽以為酒樽酒杯,則爵亦震象也。以貞悔言之,下貞上悔,貞我悔彼,而正反兩震要皯,則爾我也。爾我同此器,則共之矣。
「爵」というこの象に至っては、もともと大《離》に属し、必ず《訟》卦の《離》を用いる必要はない。「兌爵」は一種の酒器であり、《坎》卦六四は《震》をもって樽とし、《焦氏易林》はこれに本づき、およそ《震》に遇えば取って酒樽・酒杯とする。ならば「爵」もまた《震》象である。もし貞悔をもって言えば、下卦は貞・上卦は悔であり、貞は「我」・悔は「彼」であり、しかも一正一反の二つの《震》が相要するのは、すなわち「爾」と「我」である。你我がこの同じ一件の酒器を共用すれば、それは即ち「吾與爾靡之」――彼此が共にこれを有する――である。
中孚六三「或いは鼓し或いは罷み、或いは泣き或いは歌う」
此亦用覆也。震為鼓也,乃三至五震覆,則罷矣。震為歌笑,震覆則泣矣。而三當震與覆震之間,故其詞如此。舊解但謂不當位,故有此象者,義殊未盡也。與二爻用覆象詞也。
《中孚》六三のこの条の爻辞は、同じく「覆象」(一つの卦を倒転して象を取る)を運用して説を立てたものである。《中孚》の二から四爻まで互体して震を成し、震には鼓の象があるので「或鼓」と言う。さらに上を見れば、三から五爻までは震卦を倒転した形状(即ち艮)であり、鼓の象が一たび倒れれば鼓声は停まるので「或罷」と言う。震にはまた歌唱歓笑の象があり、震が一たび倒転すれば、歓笑は便ち反って哭泣に変ずるので「或泣」「或歌」と言う。六三のこの一爻はまさに互震と覆震の交接する処に処り、両象を兼ね備えるので、爻辞がこのように忽ち鼓し忽ち罷み、忽ち泣き忽ち歌うのである。旧注はただ六三が陰をもって陽に居り位置が当たらないためにこの象があると言うのみで、講ずることはるかに透徹に足りない。これは九二の爻と同じく、皆覆象を用いて措辞したものである。
小過「飛鳥音を遺す、上に宜しくなく下に宜し」の解
考《左傳》昭五年明夷之謙曰:「日之謙當鳥。」日之謙卽離變艮,艮為鳥,故曰當鳥。若以離為鳥,卽離當離矣,有是理乎?故知杜注誤也。《易林》本之,《恆》之《小過》云:「燕雀銜茅。」是以艮為燕雀。又《困》之《小過》云:「鳳有十子。」亦以艮為鳳。又《明夷》之《艮》云:「鴟鴞娶婦。」又《噬嗑》之《漸》云:「鸋鴂鴟鴞。」皆以艮為鴟鴞,是艮之為鳥明矣。《小過》之飛鳥亦謂艮也,音則謂震也。不宜上宜下者,上謂五,下謂二。五乘剛,《屯》六二日:「六二之難,以乘剛也。」柔乘剛不順,故《傳》曰上逆;二承陽勢順,故《傳》曰下順。又《小過》為正覆兩艮,上震為覆艮,以飛鳥言,首向下,故亦曰上逆也。
《左伝》昭公五年の筮例を考察するに、《明夷》之《謙》を卜得して、占辞に「日之謙、鳥に当たる」と言う。いわゆる「日之謙」とは、《明夷》の下体の離が《謙》の下体の艮に変じたことであり、艮は鳥の象があるので「当鳥」と言う。もし杜預のように離をもって鳥とするなら、それは離が離に変じたことになり、天下にどうしてこのような道理があろうか。これによって杜預の注は誤りであることが知れる。《焦氏易林》はまさにこの一つの取象を沿用する。《恒》之《小過》に「燕雀茅を銜む」と言うのは、《艮》をもって燕雀とする。《困》之《小過》に「鳳に十子あり」と言うのも、《艮》をもって鳳とする。《明夷》之《艮》に「鴟鴞婦を娶る」と言い、《噬嗑》之《漸》に「鴂鴟鴞」と言うのは、皆《艮》をもって鴟鴞とする。これで艮が象を取って鳥とするのは明明白白である。ならば《小過》卦辞の「飛鳥」が指すのは艮であり、「遺之音」の「音」が指すのは震である。いわゆる「不宜上、宜下」とは、「上」は六五を指し、「下」は六二を指す。六五は陰柔をもって九四の陽剛の上に凌駕し、《屯》六二《象》に「六二の難は、剛に乗ればなり」と言う。柔が剛に乗るは順でないので《彖伝》に「上逆」と言う。六二は下に在って九三・九四の陽を承接し、その勢は順なので《彖伝》に「下順」と言う。さらに《小過》の全卦は一つの正艮に一つの覆艮を加えて相畳したものであり、上体の震はまさに艮の倒形であり、飛鳥について言えば頭が下に向くに等しいので、また「上逆」とも言う。
自艮為黔喙,《易林》作黔啄,純指鳥,東漢人誤以為獸類,而艮鳥之象失傳。於是《小過》之飛鳥、《左傳》之當鳥,皆不知其屬艮而誤解矣。宋衷以卦二陽在內、四陰在外象飛鳥,固誤;虞翻用卦變,謂飛鳥指《晉》離者尤穿鑿,則以不知艮鳥之象也。又上下專指二五,不指三四。四為陽遇陰則利往,《豫》九四、《大壯》九四、《豐》九四皆利,是其證也。三居艮終,《蹇》彖曰「其道窮」,正與上逆下順之言相反。乃自來解者往往涉及三四,不能分明,故經義愈晦也。然非《易林》艮鳥之象,孰能知《小過》及《左傳》之舊解皆誤哉!
艮「為黔喙」(《易林》は「黔啄」と書く)はもともと専ら鳥類を指したが、東漢人が誤って豺狼の類の走獣と認めて以来、艮為鳥の象はここに失伝した。そこで《小過》卦辞の「飛鳥」、《左伝》占辞の「当鳥」は、後人が皆それらが艮から出たことを知らず、よって全て講じ誤った。宋衷は卦画について説を立て、《小過》は両陽爻が内に居り四陰爻が外にあり、形状が飛鳥の翼を展げるに象ると考えたが、もともとすでに誤りである。虞翻は改めて卦変を用い、飛鳥は《晋》卦の離を指すと言ったが、なおさら穿鑿である。その根源は皆艮に鳥の象があることを知らないことにある。また、「上」「下」の二字は専ら六五と六二を指し、九三・九四に渉らない。九四は陽爻であって上に陰爻に遇い、その行は利がある。《豫》九四・《大壮》九四・《豊》九四は皆利往の義を取り、即ち明証である。九三は下艮の終位に処り、《蹇・彖》に「東北に利からず、其の道窮まればなり」と言う。東北はまさに艮であり、これで艮終は道窮の象であることが分かる。「上逆下順」の説と正に相反する。しかし従来の注家は動もすれば三・四の両爻もまた引き入れ、界限が明らかでなく、経義は講じるほど晦渋になった。しかしもし《易林》の艮為鳥というこの象が依拠となければ、誰が《小過》卦辞と《左伝》占辞の旧解が全て誤っていたことを見出すことができたであろうか。
小過六二「其の祖を過ぎ、其の妣に遇う。其の君に及ばず、其の臣に遇う」の説
悲哉易象之失傳也!象既失傳,故竭數千年學者之力而不能通其詞。此爻祖象,據《易林》則謂艮也。《易林》《乾》之《蠱》云:「彭祖九子。」《蠱》上艮,艮為壽,故曰彭祖。又《隨》之《節》云:「思吾皇祖。」《節》上坎為思,中爻艮為祖。又《大壯》之《渙》云:「亡其祖考。」《渙》中爻艮,艮為祖,坎伏故亡。又《既濟》之《漸》云:「疆場有瓜,獻進皇祖。」是《易林》以艮為祖也。後思《易》《豫》象云:「以配祖考。」《豫》下互艮,故曰祖考。《易》原以艮為祖也。
易象が失伝したのは、実に悲しむべきである。象がすでに失伝したので、ここに数千年の学者が心力を尽くしても、なおこの条の爻辞を読み通せない。この一爻の中の「祖」の象は、《焦氏易林》によって見れば指すのは艮である。《易林》《乾》之《蠱》に「彭祖九子」と言う。《蠱》卦の上体は艮であり、艮は長寿の象があるので彭祖を挙げた。《随》之《節》に「吾が皇祖を思う」と言う。《節》卦の上体の坎は思であり、中間に互いに艮を出し、艮は即ち祖である。《大壮》之《涣》に「其の祖考を亡くす」と言う。《涣》卦の中間に互いに艮を出し、艮は祖であり、下体の坎は隠伏を主るので「亡」と言う。《既済》之《漸》に「疆場に瓜あり、皇祖に献進す」と言う。《漸》卦の下体はまさに艮である。これで《易林》は艮をもって祖とすることが分かる。後に再び回頭して《周易》を思い求めるに、《豫》卦《大象》に「殷に上帝に薦じ、以て祖考に配る」と言い、《豫》卦の下面に互いに艮体を出すので「祖考」と称する。これで《周易》はもともと艮をもって祖としたことが分かる。
妣象,據《易林》則謂巽也。《易林》《萃》之《渙》云:「公劉文母。」《渙》上巽,巽母,互大離,故曰文母。又《益》之《困》云:「二母不親。」《困》互巽,巽為母,上兌為反巽,故曰二母;兌先天數二,正反兩巽相背,故曰不親。又《損》之《巽》云:「太姒文母。」巽為母,互離為文,故曰文母。又《訟》之《隨》云:「入門見母。」《隨》艮為門,巽母,兌見,故曰見母。是《易林》顯以巽為母。後思《蠱》九二云:「幹母之蠱。」《蠱》下巽,是《易》原以巽為母也。
「妣」の象は、《易林》によって見れば指すのは巽である。《易林》《萃》之《涣》に「公劉文母」と言う。《涣》卦の上体は巽であり、巽は母であり、全卦の二から五爻までまた合して一つの大離を成し、離は文なので「文母」と称す。《益》之《困》に「二母亲しまず」と言う。《困》卦は互体して巽を出し、巽は母であり、上体の兌はまた巽の反体であり、一正一反でちょうど二つの巽なので「二母」と言う。兌は先天卦序において二を数え、しかも両巽が背を向けて立つので「不親」と言う。《損》之《巽》に「太姒文母」と言う。巽は母であり、互体の離は文なので「文母」と称す。《訟》之《随》に「門に入りて母を見る」と言う。《随》卦は互体して艮を成し門であり、上体の兌は即ち巽の反体であって母であり、兌はまた「見」と訓するので「見母」と言う。これで《易林》は明明白白巽をもって母とすることが分かる。後に再び回頭して《周易》を思い求めるに、《蠱》九二に「母の蠱を干す」と言い、《蠱》卦の下体はまさに巽である。これで《周易》はもともと巽をもって母としたことが分かる。
過其祖遇其妣者,《小過》下艮,六二前承二陽,利往,故曰過其祖,言二過艮也,艮為祖也;中爻巽為妣,六二正當巽初,故曰遇其妣。妣卽母也。虞翻本《禮記》以母死為妣,取中爻大過死為義,後儒不察而盲從之。豈知《尚書》曰「如喪考妣」,夫母既死矣,尚何言喪?且又胡能遇之?況父考母妣,無死生之別,郭璞注《爾雅》論之詳矣,《禮記》之言不必拘也。
いわゆる「過其祖、遇其妣」とは:《小過》の下体は艮であり、六二は前に向かって九三・九四の二つの陽爻を承接し、その勢は前往に利があるので「過其祖」と言う。その意は六二が艮を越え過ぎたことであり、艮は即ち祖である。二から四爻まで互体して巽を成し、巽は妣であり、六二はちょうどこの巽体の最下の一爻に処るので「遇其妣」と言う。妣とは即ち母である。虞翻は《礼記》の「生には母と称し死には妣と称す」の説に依り、また中爻から《大過》の棺椁死喪の義を取って解を立てた。後の学者は考察を加えずに盲目に跟従した。彼らはどうして《尚書》に「如喪考妣」の語があることを思い至らなかったのか。母がすでに死んだ以上、なお何の「喪」を言うことがあろうか。またどうして「遇」えることができようか。ましてや「父曰く考、母曰く妣」はもともと生死を分かたず、郭璞が《爾雅》に注してすでに辨析すること極めて詳しい。《礼記》のあの句に拘泥する必要はない。
至君與臣象,據《易林》則以震為君,以艮為臣。《夬》之《小過》云:「終不見君。」《小過》震為君,互大坎,故不見。又《夬》之《坎》云:「君臣擾憂。」《坎》中爻艮震,震君艮臣,坎憂震動,故曰擾憂。又《兌》之《艮》云:「臣圍其君。」亦以艮為臣,震為君。蓋震為帝為王,故為君;艮為僮為僕,故為臣,臣與僕古不分。不及其君者,言震在上,二艮止而無應,故不及;二居艮中,故遇其臣。後思《易》《蹇》六二云:「王臣蹇蹇。」《蹇》下艮,以艮為臣。又《遯》九三云:「畜臣妾吉。」《遯》下艮,故曰臣妾。是《易》本以艮為臣。而自東漢以來,知乾君坤臣,不知震艮亦為君臣,故愈解愈晦也。
「君」と「臣」の象に至っては、《易林》によって見れば、震をもって君とし艮をもって臣とする。《夬》之《小過》に「終に君を見ず」と言う。《小過》の上体の震は即ち君であり、全卦の二から五爻まで合して一つの大坎を成し、坎は隠伏を主るので「不見」と言う。《夬》之《坎》に「君臣擾憂す」と言う。《坎》卦の中間に互いに艮と震を出し、震は君・艮は臣であり、坎は憂を主り震は動を主るので「擾憂」と言う。《兌》之《艮》に「臣其の君を囲む」と言うのも、同じく艮をもって臣とし震をもって君とする。大概震は帝・王なので取って君とし、艮は僮・僕なので取って臣とする――古時は「臣」と「僕」はもともと分かれなかった。いわゆる「不及其君」とは、震が上体にあり、六二は自身艮の中に処り、艮は静止を主りしかも応爻がないので及ぶことができないことを言う。六二は下艮の中に居るので「遇其臣」と言う。後に再び回頭して《周易》を思い求めるに、《蹇》六二に「王臣蹇蹇」と言い、《蹇》卦の下体は艮であり、まさに艮をもって臣とする。《遯》九三に「臣妾を畜えば吉」と言い、《遯》卦の下体もまた艮なので「臣妾」と言う。これで《周易》はもともと艮をもって臣としたことが分かる。しかし東漢以来、学者はただ乾為君・坤為臣だけを知り、震・艮もまた君臣たり得ることを知らなかったので、この条の爻辞は解するほど晦渋になった。
既済九五東隣西隣の解
自易象失傳,東漢人不知先天象,故解東鄰西鄰者靡不錯誤。祗鄭玄、崔憬能覺察離東坎西方合,以離為日,日出東;以坎為月,月生西為說,而不知先天象離坎本東西也,無庸以日月為解。按《易林》《復》之《未濟》云:「東鄰西國,福喜同樂。」是以上離為東鄰,下坎為西國。又《履》之《訟》云:「受福西鄰。」《訟》下坎,故曰西鄰,是不啻明解禴祭受福也。《升》之《歸妹》云:「東鄰西家。」謂《歸妹》中爻離坎也。《易林》之言離東坎西,可謂至明白矣。乃宋後之治漢易者,既知先天方位,猶申述東漢之誤解,是誠何心哉!
易象が失伝して以来、東漢の学者は先天卦位を解らず、だから《既済》九五の「東隣」「西隣」を解釈して誤らないものがなかった。ただ鄭玄・崔憬だけが必ず離が東にあり坎が西にあってはじめて講じ通ることに察覚したが、彼らは離をもって日とし日が東より出ず、坎をもって月とし月が西に生ずるをもって説を立てたのであって、先天方位において離坎がもともと東・西に居ることを知らず、根本から日月に回り道する必要がなかった。按ずるに《易林》《復》之《未済》に「東隣西国、福喜同じく楽しむ」と言うのは、まさに上体の離をもって東隣とし下体の坎をもって西国としたものである。《履》之《訟》に「西隣に福を受く」と言い、《訟》卦の下体は坎なので西隣と称す――これはまったく明らかに《既済》九五の「西隣の禴祭、実に其の福を受く」を言っているのである。《升》之《帰妹》に「東隣西家」と言うのは、《帰妹》の中間に互いに出る離と坎を指す。《易林》が離をもって東とし坎をもって西とするのは、これ以上清楚なものはないと言える。しかし宋代以後漢易を研治する人は、明らかにすでに先天方位を知っていたのに、なお東漢の錯解に照らして下へ申説した。その居心はいったい何であろうか。
未済六三利渉大川の説
上既曰征凶,下又言利涉,義自違反。朱子疑「利」上有「不」字,吳摯父先生疑「徵」為「貞」,二者必有一當,義始能通。經文既有缺誤,故此之大川遂不能解。此與《無妄》六二云「不耕穫,不菑畬,則利有攸往」,上下語皆不能通,不能強說也。
《未済》六三は前にすでに「征凶」と言い、後にまた「利渉大川」と言う。前後の意思は自ら相违背する。朱熹は「利」の字の上に一つの「不」の字を脱したと疑い、呉摯父先生(呉汝綸)は「征」は「貞」の字の誤りと疑った。両説は必ず一説が講じ通って、文義が順暢になるはずである。経文にすでに缺文誤字がある以上、ここの「大川」がいったい何の象を取るかもまた索解する由がない。これは《无妄》六二の言う「耕まずして獲せず、菑せずして畬せず、則ち往くところあるに利し」と同じく、上下両截の話が皆接ぎ合わさらず、ただ疑を存するのみで、強いて説を立てるべきでない。
既済・未済上爻「其の首を濡らす」の解
《易林》以坎為大首。坎為水,一陽陷四、上二陰之中,而上六居坎之上,故曰濡其首。《未濟》上九亦曰濡其首,則用旁通也。虞翻以乾為首,說《既濟》上六尚可,說《未濟》上九遂不能通,則以旁通之說不明也。
《易林》は坎をもって大首とする。坎はまた水であり、一つの陽爻が六四・上六の二つの陰爻の中間に陥り、しかも上六はちょうど坎体の最上に圧するので、《既済》上六に「其の首を濡らす」と言う。《未済》上九にもまた「其の首を濡らす」と言うのは、それは《未済》と《既済》の六爻の陰陽が全て反し互いに旁通するので、取るのは相手方の象である。虞翻は乾をもって首とし、用いて《既済》上六を解するにはまだ無理に言い得るが、用いて《未済》上九を解すれば講じ通らない。その原因はまさに彼が旁通の例を明らかにしなかったことにある。
焦氏易詁 巻八
行唐尚秉和節之撰。
本巻は直隷行唐(今の河北行唐県)の人・尚秉和の撰述、尚氏の字は節之。
重門柝を撃つの解
九家專以艮為柝象,似不協。震為鳴、為口、為聲,形又宛然一柝也。艮為手、為小木,手持小木擊之,則口出聲而鳴矣。柝之象固非震莫屬,艮方為擊也。然九家云「從外示之艮」,此最與《易林》用覆象旨合。
《繋辞》に「重門撃柝、以て暴客を待つは、蓋し《豫》に取る」と言う。《九家易》は単に「柝」(更を打つ木梆)を艮象に帰したが、似乎合わない。震は鳴・口・声であり、卦形そのものもまた生き生きと一隻の木柝に象る。艮は手・小木であり、手が小木を持って敲撃すれば、即ち口に声を出して鳴り響く。これで柝の象は震に属さないものがなく、艮が当たるのはただ「撃」というこの動作である。ただし《九家易》の言う「外より之を示すに艮」(外から倒して見て来てはじめて艮体を顕す)というこの点は、却って最も《易林》が覆象を使用する宗旨に合する。
艮は東北の卦、終を成し始を成すの解
《易林》《大壯》之《離》云:「丑寅不行。」是艮居丑寅也。丑者一歲之終,故艮成終;寅者一歲之始,故艮成始。成始成終,故曰「成言乎艮」。
《易林》《大壮》之《離》に「丑寅行かず」と言うので、艮の居する所がまさに丑・寅の二つの方位であることが分かる。丑は一年十二月の収尾なので艮が「成終」と言い、寅は一年正月の開頭なので艮が「成始」と言う。すでに終を成しまた始を成すので、《説卦》に「万物の成終し所成始する所なり、故に艮に成言すと曰う」と言う。
説卦の帝・神の象の解
帝出乎震,凡《易林》言帝者無不屬震。至於神,則人不知其象。虞翻謂神卽《易》,韓康伯以八卦當之,謂八卦變化推遷,莫有使之然者;惠棟、張惠言等皆用虞說,李道平謂卽乾坤,豈知仍謂震也。帝卽神,神卽帝也。《易林》《蒙》之《節》云:「眾神集聚。」《節》互震,震為神,坎眾,故曰眾神。《夬》之《巽》云:「與神往來。」言震究為巽,巽反為震,常相往來,故曰與神往來。
《説卦》に「帝震に出ず」と言い、およそ《焦氏易林》の中で「帝」に言及する所は、震に属さないものがない。「神」に至っては、後人はその象がどこにあるかを知らなかった。虞翻は「神」は即ち《易》そのものと言い、韓康伯は八卦を取ってそれに当て、八卦が変化推移するのに背後で駆使する者がいないと言い、恵棟・張恵言らは皆虞翻の説を採用し、李道平は「神」は即ち乾坤と言った。彼らはどうして「神」が依然として震を指すことを知らなかったのか――帝は即ち神であり、神は即ち帝である。《易林》《蒙》之《節》に「衆神集聚す」と言う。《節》卦は互体して震を出し、震は神であり、上体の坎は衆なので「衆神」と言う。《夬》之《巽》に「神と往来す」と言う。これは震が極処に至れば巽に変じ、巽が反ればまた震となり、両者が常に相往来することを言うので、「与神往来」と言う。
又《大有》之《觀》云:「神明所伏。」言《觀》上巽,巽伏震,故曰神伏。又《履》之《漸》云:「聖哲且神。」《漸》坎為聖,離為哲,巽通震,故曰聖哲且神。又《需》之《萃》云:「神使伸言。」《萃》通《大畜》,《大畜》中爻震,震為神,震言,故曰神使伸言。凡此皆以震為神之確證。蓋震之為卦,一陽復始,萬物由此出生,變化推移,有莫知其然而然者,無能形容,祗可謂之帝、謂之神也。
《大有》之《観》に「神明の伏する所」と言う。これは《観》卦の上体が巽であり、巽はまさに震の伏卦なので、神が潜伏すると言う。《履》之《漸》に「聖哲にして且つ神なり」と言う。《漸》卦は互体して坎を成し聖であり、離を成し哲であり、上体の巽は震と相通ずるので「聖哲且神」と言う。《需》之《萃》に「神使いて言を伸ばさしむ」と言う。《萃》卦は《大畜》と旁通し、《大畜》の中間に互いに震を出し、震は神であり、震はまた言語を主るので「神使伸言」と言う。およそこれらの種種は皆震をもって神とする確証である。大概震というこの一卦は、一陽が下より復生し、万物がこれによって発端出生し、変化推移の間に、あえてその所以然を知るものなしに自然このようである一種の力量があり、形容する由がなく、ただそれを「帝」と称し「神」と称するのみである。
兑に説言するの解
震言兌口,皆見於《易》,而《易林》每以兌為言,以震為口。蓋兌二動卽成震,震二動卽成兌,而言從口出,故二卦關於言語口舌之象,實不能分,故《易林》每混合用之。「說言乎兌」,實其所本。
震は言を主り、兌は口である。これは皆《周易》自体に見える。しかし《易林》は往々にして反対にし、兌を用いて言語を表し、震を用いて口を表す。これは兌卦の第二爻が一たび変ずれば震を成し、震卦の第二爻が一たび変ずれば兌を成し、しかも言語はまた口の中から発するので、この両卦はおよそ言語口舌の象に渉れば実に分かつことができず、《易林》が常に混じて用いるのはこのためである。《説卦》の「兌に説言す」の一句は、まさに彼らのこの種の用法の根拠である。
「干に戦う、干は西北の卦なり、陰陽相薄するを言うなり」の解
虞翻云:「薄,入也。」言陽入陰,陰牝陽也,故曰相薄。是以《易林》《夬》之《坤》云:「歲暮花落,陽入陰室。」《坤》十月卦,故歲暮花落;陽伏陰下,故曰陽入陰室,則陰牝陽也。又《中孚》之《坤》云:「符左契右,相與合齒。」夫合齒若符契,則陰陽交也,皆相薄之義也。薄卽戰,戰卽交也。
虞翻が解釈して言う。「薄とは即ち入るなり。」その意は、陽が陰の中に入り、陰が陽を納めて己の有とする(「牝」は即ち雌が伏して承受すること)ので「相薄」と言う。だから《易林》《夬》之《坤》に「歳暮花落ち、陽陰室に入る」と言う――《坤》は十二辟卦において十月に当たるので歳末に花が謝すと言う。この時陽気は陰の下に潜伏するので「陽入陰室」と言う。これが即ち陰が陽を牝することである。《中孚》之《坤》に「符左に契右にし、相与に歯を合す」と言う――符と契の左右両半が合わさって厳丝合縫するのは、まさに陰陽交合の象である。これらは皆「相薄」の意である。だから「薄」は即ち「戦」であり、「戦」は即ち「交」である。
蓋《坤》闢於亥,而《乾》原居亥位,至十月,乾消剝入坤,則不見矣。胡以不見?為陰所牝也。陰牝陽則交矣,故曰合齒,故曰入室。後人因《坤》上六曰「龍戰于野,其血玄黃」,若陰陽實行戰爭而相傷者;由《易林》合齒之言釋之,實相交也,交卽戰也。《坤》彖曰:「西北喪朋,乃終有慶。」慶此也。
もともと《坤》は十二辟卦において亥月を主り、《乾》は先天方位においてもともと亥位(西北)に居る。十月に至って乾陽は消剥し尽くして坤の中に没入し、見えなくなる。なぜ見えないか。陰に包納されたからである。陰がすでに陽を包納した以上、それは即ち交合であるので、《易林》は「歯を合す」と言い「室に入る」と言う。後人は《坤》上六に「龍野に戦う、其の血玄黄」と言うのに因り、便ち陰陽が真に厮杀して彼此損傷するものと考えた。もし《易林》の「合歯」というこの句を取って解釈すれば、あれは明らかに相交である――しかも交合はまさにいわゆる「戦」である。《坤・彖》に「(東)西北朋を喪うも、乃ち終に慶あり」と言う。いわゆる慶すべき事とは、指すのはまさにこれである。
