Libo

周易阐真 · 第1巻

清 · 刘一明 · 第1巻 / 19

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

秦始皇が典籍を焼き払って以来、《易》だけが卜筮の書と見なされたおかげで、幸いにも焼失を免れた。漢の代に私蔵書の禁令が解かれると、《易経》には…

易経易学典籍

術数への応用を目指すなら、まず六十四卦の卦爻辞と《説卦伝》の取象に親しむ。義理を目指すなら《繋辞伝》から入るのがよい。

周易闡真

周易闡真序

自秦焚典策,惟易以卜筮之書,僅得不毀。漢除挾書之律,易經始置博士,而焦京田孟之屬,大多以灼揲占驗為能,遂使聖神授受三古奧奇,或與風角烏情視為小說家言,而易流為卜筮之書。

秦始皇が典籍を焼き払って以来、《易》だけが卜筮の書と見なされたおかげで、幸いにも焼失を免れた。漢の代に私蔵書の禁令が解かれると、《易経》にはじめて博士官が置かれた。しかし焦延寿・京房・田何・孟喜といった人々は、おおむね亀を灼き蓍を筮うことと占断の的中だけを腕前としたため、伏羲・文王・孔子という三代の聖人が代々受け継いだ奥深い義理は、「風角」(風向きで吉凶を占う術)や「烏情」(鳥の鳴き声で吉凶を占う術)と同じく小説家の言葉のように見なされ、《易》はこうして一部の卜筮の書に成り下がってしまった。

逮後伯陽魏氏,始合三易,作《參同契》一書,抉羲、農、姬、孔之義蘊,衍河、洛圖象之精深,人勰以天察之道而愈明,物性其情,驗之身而益著。然其稱物罕譬,寄寓窅深,後賢不察。又或以私意相揣,遂致異說蜂起,爭以黃白吐納為事,而易又流為鍊度之書。

後の東漢の魏伯阳になって、はじめて《連山》《帰蔵》《周易》という三易の理が一つに合わされ、《参同契》という書が著された。そこで伏羲・神農・姫昌(周文王)・孔子の義理の精華を抉り出し、河図・洛書の図象の精深なところを推演した。天道をもって人事を察すれば道理はいよいよ明らかになり、万物の性情に照らし合わせれば、自らの身に検証していよいよ顕著になる。しかし彼は物を言うのに率直な譬喩をめったに用いず、託した意旨は幽玄で測りがたかったため、後世の賢者は明察することができず、またある者は私意で推し量った。そこで異説が続々と起こり、競って「黄白」(金銀を点化する外丹術)を練り、吐納・導引を行うことを正業としたため、《易》はまた一部の煉丹度世の書に成り下がってしまった。

悟元道人者,金城棲雲山之肥遁士也。其生平著述《三易注略》若干卷,餘既序而傳之矣。茲復出其《周易闡真》一編,索餘為識其著書之由。蓋道人以蚤年始學隱跡黃冠,神解超超,道心夙契。後遇龕谷老人,彌分邪正之源。又值仙留丈,盡抉元真之秘,以為丹道即易道也,聖道即仙道也。

悟元道人は、金城(現在の甘粛省蘭州)の栖雲山に隠棲する世外の高士である。彼が平生著した《三易注略》若干巻には、すでに私が序をつけて世に流布させた。今また彼が《周易闡真》一編を持ち出して、著書の由来を記してほしいと請うてきた。もともと道人は早年から道を学び、形跡を隠して道士となり、悟性は群を抜き、「道心」(先天の純真無妄の本心)とは早くから宿縁があった。後に龕谷老人に遇って、はじめて邪法と正法の源をはっきり分け、また仙留丈人に遇って「元真」(先天の真一の気)の秘旨をことごとく抉り出した。こうして丹道こそ易道であり、聖人の道こそ神仙の道であると認め定めたのである。

易非卜筮鍊度之書,實皆窮理、盡性、至命之學也。於是述伯陽之遺義,參神聖之蘊奇,取其龍蛇鉛汞之法,驗以爻繫圖象之說,別其劣歧,歸於宗主,其辭約、其義繁、其文淺、其指深,取類極邇,而見道甚遠,其身心性命之功,殆不謬乎。吾儒之為之者,嗚呼!若道人者,庶可與言易哉!

《易》は卜筮や煉丹度世の書ではなく、実は全編が「理を窮め、性を尽くし、命に至る」学問である。そこで彼は魏伯阳の残した義旨を述べ、歴代の聖真の深奥な心徳を参合し、丹家の「龍蛇鉛汞」(龍虎・鉛汞を借りて性情と陰陽の薬物を喩える)の法門を取り上げ、爻辞・繫辞と河洛の図象の説をもって印証し、その間の傍門・岐路を弁別して、一つの根本的な主脳に帰結させた。文辞は簡約でありながら義理は繁富で、文句は浅近でありながら指すところは深遠である。取る譬えは目の前に極めて近く、見る道は極めて高遠である。彼の身心性命を修養する一連の工夫は、おそらく誤りがなく、我ら儒者の行う工夫と同じ道筋である。ああ、悟元道人のような人物であればこそ、ほぼ《易》を語るに足るのだ。

《易》曰:成性存存,道義之門。又曰:一陰一陽之謂道。繼之者,善也;成之者,性也。仁者見之謂之仁,智者見之謂之智,百姓日用而不知,故君子之道鮮矣。

《易・繫辞伝》にいう。本性を成就して時々刻々に存養すること、これが道義の出入りする門戸である。またいう。一陰一陽が交代して運行することを「道」と呼び、この道を承け継ぐものを「善」と呼び、この道を成就するものを「性」と呼ぶ。仁厚な人がそこに見るものを仁と呼び、明智な人がそこに見るものを智と呼ぶ。庶民は毎日それを用いながら少しも自覚しない。だから真に君子の道を知る人は少ないのである。

今以道人之書觀之,元微香邈,與道大適,不必標奇領異而已。得易之簡能之妙,所謂苟非其人,道不虛行。彼執金堤水防之言,務熊經鳥伸之術,其於伯陽氏之書,猶未升其堂而嚌其胔也,何足以盡易之蘊乎!

今、悟元道人のこの書を見るに、義理は幽微で深遠、大道によく契合し、新奇を標榜して勝るのではなく、真に《易》の持つ簡易にして物を成す妙を得ている。まさに《易・繫辞伝》のいう通り、あの真人でなければ、道は空しく自ら行われることはない。あの「金堤水防」(ただ精气を固守して漏らさないことの喩)の類の説に固執し、もっぱら「熊経鳥伸」(熊が木を攀じ鳥が頸を伸ばすのを真似る導引の術)に従事する人々は、魏伯阳の書に対して、まだ堂に登らぬうちに肉を味わおうとする門外漢にすぎず、どうして《易》の藴奥を窮め尽くすに足りようか。

昔唐道士王遠知,著有《易總》,忽一日,雷電晦冥,似有神物取去。今道人此書,當敏慎護持,勿盡洩造化之秘藏,致煩丁甲也。嘉慶庚申夏,梁溪楊芳燦序。

昔、唐代の道士王遠知が《易総》という書を著したところ、ある日突然雷電が激しくなり天が昏れ地が暗くなって、その書は神物に取り去られたかのようであった。今、道人のこの書も、同じく機警に慎んで護持し、造化の秘密をことごとく漏らして、六丁六甲の類の神将を驚かせて取りに来させることがないようにすべきである。嘉慶庚申年(一八〇〇年)の夏、梁渓(現在の江蘇省無錫)の人・楊芳燦が序を作る。

易理闡真序

丹經之由,始於後漢魏伯陽真人。真人成道後,憐世之學人惑於旁門邪說,不知聖賢大道,每多空空一世,到老無成,遂準易道而作《參同契》,以明性命源流、陰陽真假、修持法則、功夫次序。

丹経の源流は、東漢の魏伯阳真人に始まる。真人は道を得た後、世の道を学ぶ人々が傍門の邪説に惑わされ、聖賢の大道を知らず、往々にして一生を空しく過ごし、老いて何一つ成すことのないのを憐れみ、易道に依って《参同契》を作り、もって「性命」(本性と生命の根本)の源流、陰陽の真と偽、修持の法則、および用功の先後の次第を闡明した。

托物取象,譬語多端,以性命、陰陽、剛柔謂之藥物;以修持功夫次序謂之火候;以修持功夫不缺謂之鍛鍊;以勇猛精進謂之武火;以從容漸入謂之文火;以陰陽、剛柔、中正謂之結丹;以陰陽混成、剛柔悉化謂之丹熟;以無聲無臭、神化不測謂之脫丹。其寓意亦如周易,擬諸其形容,象其物宜,始有金丹之名、丹法之說、修特性命之理。

彼は外物に寄せて象を取り、譬喩の言い方は多種多様であった。性命・陰陽・剛柔を「薬物」(修錬が拠り所とする本元)と呼び、用功の先後の次第を「火候」と呼び、工夫が少しも間断しないことを「鍛錬」と呼び、勇猛精進して用功することを「武火」と呼び、従容和緩に順序よく進むことを「文火」と呼び、陰陽・剛柔がそれぞれ中正を得ることを「結丹」と呼び、陰陽が渾然と合一し剛柔の偏りがすべて化し尽くされることを「丹熟」と呼び、声もなく臭いもなく神妙にして測りがたいことを「脱丹」と呼んだ。意旨を託する方式もまた《周易》と同じく、事物の形状・情態に比喩し、事物の相宜なるところに象を取った。ここからはじめて「金丹」という名目、丹法という説、および性命を修持する道理が生まれたのである。

《參同》一出,詳明其備,大露天機矣。後之了道群真,皆祖《參同》譬象,各作丹經,發《參同》所末發,詳而又詳,明而又明,性命之理無餘蘊矣。

《参同契》が世に出ると、詳しく明らかに、周到に備わって語られており、いわば天机を大いに漏らしたと言える。後世、道を了えた数々の真人は、皆《参同契》の譬喩取象を祖本として、それぞれ丹経を撰述し、《参同契》の言い尽くせなかったところを発揮して、語れば語るほど詳しくなり、説けば説くほど明らかになり、性命の理にもはや隠されたものは残らなかった。

其如書愈多,而人愈感,後學之人不得真傳,直以譬象為真實,或以坎離為心腎,或以震兌為肺肝,或以屯蒙為子午抽添,或以復姤為心腎氣生,或以既濟為心腎交合,甚至以陰陽為男女,以彼我為採戰,以煆煉為爐火,以金丹為服食,以有為為搬運,以無為為空寂,皆認後天有形、有象之物,不知先天無形、無象之真,以一盲而引眾盲,埋沒古人度世之婆心矣。

奈何せん、書が多くなればなるほど、人はかえって惑うようになった。後に道を学ぶ者は真伝を得られず、譬喩取象をそのまま実事と見なしてしまった。ある者は《坎》《離》の二卦を心と腎に坐実し、ある者は《震》《兌》の二卦を肺と肝に坐実し、ある者は《屯》《蒙》の二卦を子時・午時の「抽添」(陰気を抽き減らし陽気を添え補う)の工夫と見なし、ある者は《復》《姤》の二卦を心腎の気の発動と見なし、ある者は《既済》卦を心腎の気の交合と見なした。さらには「陰陽」を男女とし、「彼我」を男女采補の房中術とし、「煆錬」を炉中で火を焚き薬を練ることとし、「金丹」を嚥服できる丹薬とし、「有為」を気血を搬運することとし、「無為」を枯坐して空寂に沈むこととした。これらの人々が認めたのは皆、後天の形ある象あるものであり、先天の形なき象なき真物を知らなかった。盲人が盲人の群れを率いて歩くようなもので、古人の世人を普く度そうとする一片の婆心を、ことごとく埋没させてしまった。

予自童子時,即知有此一大事因緣,留心參學,所遇緇黃,皆不出上行議論,彼時亦以為然,不敢非之,後遇龕谷老人,即分邪正,復遇仙留丈人,群疑盡失,始知丹道即易道,聖道即仙道。易非卜筮之書,乃窮理、盡性、至命之學也。

私は童幼の時から、人生に性命という一大事の因縁があることを知り、心を留めて参訪・学習してきた。出遇った僧・道士の議論は皆、上記の錯解を出ることがなく、その時私も彼らの言うことが正しいと思い、あえて非議しようとはしなかった。後に龕谷老人に遇って、はじめて邪法と正法を分かち、さらに仙留丈人に遇って、種々の疑惑が一掃されて空しくなり、ここではじめて丹道こそ易道であり、聖人の道こそ神仙の道であり、《易》は卜筮の書ではなく、「理を窮め、性を尽くし、命に至る」学問であると悟ったのである。

予不敢自私,爰於《三易注略》之後,體二師之旨,述伯陽之意,盡將丹法寓於周易圖卦繫辭之中,略譬象而就實義,去奧語而取常言,直指何者為藥物,何者為火候,何者為進陽,何者為退陰,何者為下手,何者為止足,何者為煅煉,何者為溫養,何者為結丹,何者為脫丹,何者為先天,何者為後天,何者為有為,何者為無為,何者為逆運,何者為順行。

私はこれらを私のものとする勇気がなく、そこで《三易注略》の後に、両師の宗旨を体して魏伯阳の本意を闡述し、丹法をことごとく《周易》の図・卦・繫辞の中に寄寓させた。譬喩取象を略して直ちに実義を取り、玄奥の隠語を捨てて平常の言葉を用い、直截に「薬物」とは何か、「火候」とは何か、「進陽」(陽火を進め真陽を増長する)とは何か、「退陰」(陰符を退め仮陰を消去する)とは何か、「下手」(起修の入門処)とは何か、「止足」(工夫が量に達して停まるべき処)とは何か、「煅錬」とは何か、「温養」とは何か、「結丹」とは何か、「脱丹」とは何か、「先天」(身を生ずる以前の本真)とは何か、「後天」(身を生じた後の形気)とは何か、「有為」とは何か、「無為」とは何か、「逆運」(逆らって本に返る)とは何か、「順行」(順って人を生ずる)とは何かを指し示した。

其圖象、卦象、爻象,細為分析,通部分作二股,一進陽,一運陰,承上起下,一氣貫串,使學者易於閱看。至於十翼,乃宣聖直言其理,學者自能推求,故餘不及注,惟取大象傳、雜卦傳,略釋數語,以備參考。其中重複語,亦如周易重複象,雖有重複語,並無重複意,書成之後,名曰《易理闡真》,乃闡其修持性命之真耳。

書中の図象・卦象・爻象は、皆一つ一つ細かく分析した。全書を二大股に分け、一股は陽気を増進することを講じ、一股は陰気を運化することを講じ、上文を承け下文を起こし、一気に貫串して、学者が読みやすいようにした。《十翼》に至っては、孔子が直接易理を明らかにした文字であり、学者が自ら推求できるので、私は別に注解を作らず、ただ《大象伝》《雑卦伝》を取って略々数句の解釈を加え、参考に備えただけである。書中に重複する言葉があるのも、《周易》に重複する卦爻の象があるのと同じで、言葉は重複していても意味は重複していない。書が成った後、《易理闡真》と名づけたのは、それが性命を修持する真義を闡発するからにほかならない。

夫易,廣矣,大矣。以言其遠,則不御;以言其邇,則靜而正;以言其天地之間,則備矣。所以,開物成務,通天下之志,定天下之業,斷天下之疑,無所不包,無所不該,詎可就一事而論哉!然其歸根處,總以窮理、盡性、至命為學。

《易》という書は、広博である、宏大である。その遠きに就いて言えば、辺際なく限量しがたく、その近きに就いて言えば、静かにして中正であり、天地の間の一切に就いて言えば、備わらぬものがない。だから万物を開通し事務を成就し、天下人の心志を通達し、天下人の事業を奠定し、天下人の疑難を決断することができ、包まぬものなく賅まぬものがない。どうしてただ某一事に就いてのみこれを論定することができようか。しかしその根柢に遡れば、常に「理を窮める」(事物の理を窮究する)、「性を尽くす」(本然の性を尽くし顕す)、「命に至る」(性命の根を了徹する)を学問としている。

闡真者,即闡其窮理之真,盡性之真、至命之真。先窮性命之理,後了性命之功,性命俱了,渾熱天理,復見本來面目。在儒,則謂之明善復初;在道,則謂之還原返本。再加向上功夫,陰陽混化,無聲無臭。在儒,則謂義精仁熟,至誠如神;在道,則為九還七返,形神俱妙。金丹之道盡,性命之功畢。

いわゆる「闡真」とは、理を窮める真、性を尽くす真、命に至る真を闡発することである。まず性命の理を窮究し、それから性命の工夫を完成する。性命が双々に了徹し、渾然として一片の天理となり、再び自己の「本来の面目」(後天の沾染を受けない本真)を見る。これは儒家において「明善復初」(本善を明らかにし本初に復する)と呼ばれ、道家において「還元返本」と呼ばれる。この後さらに一層向上の工夫を加え、陰陽を渾合して化し尽くし、声もなく臭いもない境地に達する。儒家においては「義精り仁熟り、至誠神の如し」と呼ばれ、道家においては「九還七返、形神倶に妙なり」と呼ばれる。この歩みに至って、金丹の道は窮まり、性命の工夫は完成されるのである。

予之意如是,古來群真之意亦如是,即伯陽參同之意亦無不如是也。時大清嘉慶三年歲次戊午春王正月元宵節,素樸散人梧元子劉一明自序於自在窩中。

私の意はかくの如くであり、古来の数々の真人の意もまたかくの如くであり、魏伯阳《参同契》の意もまた一つとしてこの如くでないものはない。時に大清嘉慶三年、干支の紀年で戊午(一七九八年)の春正月元宵節、素朴散人梧元子劉一明が自在窩の中にて自ら序を作る。

周易闡真巻首

棲雲山素樸散人悟元子劉一明體述,門人沖和張陽全校閱,後學劉卜雲重刊。

本書は栖雲山の素朴散人悟元子劉一明が体察して撰述し、門人の冲和子張陽全が校訂・審閲し、後学の劉卜雲が重ねて刊行したものである。

河図

古河圖,先天陽五行,後天陰五行,生初陰陽五行混合。

巻首に列ねた古河図は全部で三幅ある。一幅は「先天陽五行」(一三五七九が配する元精・元性・元気・元神・元情)と標し、一幅は「後天陰五行」(二四六八十が配する識神・鬼魄・濁精・游魂・妄意)と標し、一幅は「生初陰陽五行混合」と標して、人が生まれたばかりの時に先天と後天の二套の五行が渾然として合一している状態を画いている。

河圖者,五行順行,自然無為之道也。伏羲時,有龍馬出孟河,其背有點,二七在前,一六在後,三八在左,四九在右,五十在中。其位五象五行,一六在後,象北方壬癸水;二七在前,象南方丙丁火;三八在左,象東方甲乙木;四九在右,象西方庚辛金;五十在中,象中央戊己土。

河図が講ずるのは、五行が次序に順って運行する、自然無為の道である。伏羲の時代、龍馬が孟河の中から出てきて、その背には組となって並んだ円点があった。二と七は前にあり、一と六は後にあり、三と八は左にあり、四と九は右にあり、五と十は中央にあった。この五つの方位は五行に対応している――一六が後にあるのは北方の壬水・癸水を象り、二七が前にあるのは南方の丙火・丁火を象り、三八が左にあるのは東方の甲木・乙木を象り、四九が右にあるのは西方の庚金・辛金を象り、五と十が中にあるのは中央の戊土・己土を象る。

中五點,又象太極含四象;中一點,又象太極含一氣。雖五十五點,其實二五,二五其實一五,一五總是中一。因其有五行,故分五點,因其五行有陰陽,故又積為十點,因其五行各有陰陽,故又積為五十五點。

中央の五つの点は、また「太極」が四象を包蔵することを象り、中央の一つの点は、また太極が一気を包蔵することを象る。図上には五十五個の点があるが、実は陰陽二套の五行にすぎない。二套の五行は実は一套の五行にすぎず、一套の五行を総括すれば、所詮は中央のあの一点にすぎない。五行があるから五つの点に分かれ、五行がそれぞれ陰陽に分かれるからまた十の点に累積し、五行の各行がそれぞれさらに陰陽を持つから、また五十五の点に累積するのである。

孔傳曰:天一地二,天三地四,天五地六,天七地八,天九地十。蓋天地造化之道,不過一個陽五行,一個陰五行,一生一成而已。雖分五行,而實一陰一陽運用之,雖陰陽運用,而實一氣來往運用之。

伝えるところによれば孔子は《易・繫辞伝》で言った。天の数は一、地の数は二、天の数は三、地の数は四、天の数は五、地の数は六、天の数は七、地の数は八、天の数は九、地の数は十、と。もともと天地造化の道理は、一套の陽五行、一套の陰五行、一つは生を主り、一つは成を主るにすぎない。五行に分かれると言っても、実際には一陰一陽がそれを運用しているのであり、陰陽が運用していると言っても、実際には一股の気が一往一来してそれを運用しているのである。

故其象:土生金,金生水,水生木,木生火,火生土,土又生金。從中而始,從中而終。始之終之,無非一氣,無非一中。中也者,天下之大本也,即土宮中和合四象也。和也者,天下之達道也,即四象在外一氣流行也。中者,和也、一氣也,總是太極也。

だから河図の象は、土生金、金生水、水生木、木生火、火生土、土がまた生ずる金となる。中央から始まり、また中央で終わる。起頭であれ收尾であれ、皆一股の気を出ず、一つの「中」を出ない。いわゆる「中」とは、《中庸》のいう天下の大本であり、すなわち中央の土宮に和合している四象である。いわゆる「和」とは、《中庸》のいう天下の達道であり、すなわち四象が外圍において一気によって貫通流行することである。「中」であれ「和」であれ一気であれ、総括すれば皆「太極」である。

惟人也,秉天地陰陽五行之氣而生身,身中即具此陰陽五行之氣。但此五行有先天有後天,先天五行屬陽,後天五行屬陰,一三五七九,陽五行,先天也;二四六八十,陰五行,後天也。

ただ人のみが、天地陰陽五行の気を禀受して身体を生成したのだから、身の中にこの一套の陰陽五行の気を具備している。しかしこの五行には「先天」と「後天」の区別がある。先天五行は陽に属し、後天五行は陰に属する。一・三・五・七・九は陽五行で先天に属し、二・四・六・八・十は陰五行で後天に属する。

以先天而論,一為元精,屬水,為壬水;三為元性,屬木,為甲木;五為元氣,屬士,為戊土;七為元神,屬火,為丙火;九為元情,屬金,為庚金,此五元也。五元既具,五德即於此而寓之。

先天の方面から言えば。一は「元精」で、水に属し壬水とする。三は「元性」で、木に属し甲木とする。五は「元気」で、土に属し戊土とする。七は「元神」で、火に属し丙火とする。九は「元情」で、金に属し庚金とする――これが「五元」、五種の先天の本元である。五元がすでに具備すれば、「五徳」もまたその中に寄寓している。

五德者,仁、義、禮、智、信也。元精者,不精之精,其體純粹,發而為智。無神者,不神之神,其體圓通,發而為禮。元性者,無性之性,其體柔慈,發而為仁。元情者,無情之情,其體剛烈,發而為義。元氣者,無氣之氣,其體純一,發而為信。

いわゆる「五徳」とは、仁・義・礼・智・信である。「元精」は精濁な形質に落ちない精であり、本体は純粋無雑で、発用すれば「智」となる。「元神」は神識の作用に落ちない神であり、本体は円融通達で、発用すれば「礼」となる。「元性」は気質の性に落ちない性であり、本体は柔和慈愛で、発用すれば「仁」となる。「元情」は情欲に落ちない情であり、本体は剛強猛烈で、発用すれば「義」となる。「元気」は呼吸の気に落ちない気であり、本体は純一不二で、発用すれば「信」となる。

五元者,五行之氣。五德者,五行之性。五元、五德生於先天,藏於後天,當人在胞胎之中,混混飩飩,一氣混淪,形跡未見,其理已具,所謂未生出者,如圖中五五點攢於一處。

「五元」は五行の気であり、「五徳」は五行の性である。五元・五徳は先天に生まれながら、後天の形体の中に蔵されている。人がまだ母の胞胎の中にいる時、混混沌沌として、ただ一団の気が渾然として未だ分かれず、形跡はまだ見えないが、この道理はすでに完全に具備している――これがいわゆる「未だ生まれざる境界」であり、河図の中央のあの五つの五点が一処に攒り集まっているようなものである。

太極之象,古人教人窮取父母未生以前面目者,即此也。以其事在未生身以前,故謂先天。以後天而論,二為識神,屬火,為丁火;四為鬼魄,屬金,為辛金;六為濁精,屬水,為癸水;八為游魂,屬木,為乙木;十為妄意,屬土,為己土,此五物也。五物既具,五賊即於此而寓之。

これが太極の象である。古人が人に「父母がまだ我を生まぬ以前の本来の面目」を参究させたのは、まさにこれを指す。この事はまだ身体を生じる以前にあるから、「先天」と呼ばれる。後天の方面から言えば。二は「識神」(分別し計較する心識)で、火に属し丁火とする。四は「鬼魄」で、金に属し辛金とする。六は「濁精」(形ある精)で、水に属し癸水とする。八は「游魂」で、木に属し乙木とする。十は「妄意」(妄動する念慮)で、土に属し己土とする――これが「五物」である。五物がすでに具備すれば、「五賊」もまたその中に寄寓している。

五賊者,喜、怒、哀、樂、欲也;游魂主生,其性善,感則生喜;鬼魂主死,其性惡,感則生怒;識神至靈,其性貪,感則生樂;濁精至浮,其性痴,感則生哀;妄意至動,其性亂,感則生欲。但後天五物、五賊,雖是五行所化,其中猶有分別,五物之中,精、神、意皆後起,雖魂、魄最先,魂更先於魄也。

いわゆる「五賊」とは、喜・怒・哀・楽・欲という五つの本真を劫奪するものである。游魂は生を主管し、その性は善に向かい、外物の感触を受ければ喜を生ずる。鬼魄は死を主管し、その性は悪に向かい、感触を受ければ怒を生ずる。識神は最も霊巧で、その性は貪求し、感触を受ければ楽を生ずる。濁精は最も軽浮で、その性は愚痴であり、感触を受ければ哀を生ずる。妄意は最も躁動を好み、その性は散乱で、感触を受ければ欲を生ずる。ただし後天の五物・五賊は同じく五行の化するところではあるが、その中にさらに先後の別がある。五物の中では、精・神・意は皆後から起こるもので、魂と魄は最も早く生じ、魂はさらに魄よりも早い。

魂者,歷劫輪迴之種子,為人為鬼是他,為聖為賢是他,為善為惡也是他,被毛戴角也是他,身未生時他先來,氣未絕時他先去。當人破胞出頭之時,哇的一聲,即魂入竅之時,魂一入竅,受後天木氣與先天元性相合,假依真存,故嬰兒落地時無聲者,不成。以其游魂未入,雖有元性,不能獨存,假借真存,真亦借假而留也。

「魂」は無数の劫数の輪廻を経歴する種子である。人となり鬼となるのもこれであり、聖となり賢となるのもこれであり、善をなし悪をなすのもこれであり、堕ちて毛を披き角を戴く畜生となるのもやはりこれである。身体がまだ生まれぬ時に先ず来たり、気息がまだ断えぬ時に先ず去る。嬰児が胞衣を破って頭を露わにし、哇と一声泣き出す時、まさに魂が竅穴に入る時刻である。魂が一たび竅に入れば、後天の木気を承受し、先天の「元性」と相合し、偽が真に依附して存留する。だから嬰児が地に落ちて声を出さない者は養い育てられない。游魂がまだ入って来ていないので、たとえ元性があっても、元性は独りで存住することができないからである。偽が真を假借してはじめて存を得、真もまた偽を借りてはじめて留を得るのである。

至於魄者,借血氣之靈,受金氣而凝結,生後七七四十九日而始全,死後七七四十九日而始滅,世俗亡人,七七四十九日之期,正為此耳。魂之為物,遷移不定,離此去彼,離彼來此,輪迴不息,歷劫不壞,魄則隨身而有無之。識神雖受火氣而生,亦魂之所出;濁精雖受水氣而生,亦魄之所攝。

「魄」に至っては、血気の霊明に憑り、金気を承受して凝結して成るもので、出生後七七四十九日を経てはじめて長全し、死後七七四十九日を経てはじめて消滅する。民間が亡人のために満七七四十九日の斎期を作るのは、まさにこの縁故のためである。魂というものは遷移して定まらず、ここを離れてあそこへ行き、あそこを離れてまたここへ帰り、輪廻は停まることがなく、劫数を経歴しても壊れない。魄はしかし肉身に随って有となり、肉身に随って無となる。識神は火気を承受して生ずるが、実は魂の中から出たものであり、濁精は水気を承受して生ずるが、実は魄に統摂されるものに帰する。

意者,思慮動作,所以役使精神魂魄四物者也。五物、五賊,皆是生身以後所有,所謂已生出者也。以其事在生身以後,故謂後天。至於心、肝、脾、肺、腎,濁而有形,又不在此例矣。有生之初,後天五行與先天五行,兩而合一,五物為五元所統攝,五賊為五德所制伏,一舉一動,皆先天主宰,後天不過為役從耳。

「意」は思慮と動念であり、精・神・魂・魄という四つのものを駆使するために用いられる。五物・五賊は皆、身体を生下して後にはじめて有するもので、いわゆる「すでに生じた境界」である。これらの事が生身の後にあるから、「後天」と呼ばれる。心・肝・脾・肺・腎の五臓に至っては、渾濁して形質があり、またこの範囲の内には入らない。人が剛かに生まれた時、後天五行と先天五行の両者は合して一となり、五物は五元に統摂され、五賊は五徳に制伏され、一挙一動は皆先天が主を為し、後天はただ聴差して供役するにすぎない。

故嬰兒無識無知之時,至善無惡,仁之至矣。仁即元性之見端也,人我兩忘,義之至也;義即元情之見端也,聲色不迷,智之至矣;智即元精之見端也,心氣和平,禮之至矣;禮即元神之見端也,誠一不二,信之至矣;信即元氣之見端也。

だから嬰児が識も知もない時、純然として至善にして悪がなく、これは仁が極に至ったものである――仁はすなわち「元性」が顕露した端倪である。他と我を倶に忘る、これは義が極に至ったものである――義はすなわち「元情」が顕露した端倪である。声色に迷わされない、これは智が極に至ったものである――智はすなわち「元精」が顕露した端倪である。心気が和平である、これは礼が極に至ったものである――礼はすなわち「元神」が顕露した端倪である。誠一にして二なし、これは信が極に至ったものである――信はすなわち「元気」が顕露した端倪である。

靜之則為五元,動之則為五德,動靜皆是先天用事,間有喜、怒、哀、樂之跡,俱出無心,喜而不留,怒而不遷,哀而不傷,樂而不淫。喜、怒、哀、樂之未發,謂之中,發而皆中節,謂之和。中也、和也,是謂無慾。無慾則精、神、魂、魄、意,各安其位,聽其先天主宰。

静まればすなわち五元、動けばすなわち五徳、一動一静は皆先天が家を掌る。その間に偶々喜怒哀楽の痕跡があっても、皆無心から出る。喜び過ぎても留戀せず、怒り過ぎても他人に移さず、哀しんでも本性を損傷せず、楽しんでも放縦に流れない。喜怒哀楽がまだ発動せぬを「中」と呼び、発動して皆恰も節度に合うを「和」と呼ぶ。「中」と「和」を、これを「無欲」と呼ぶ。無欲であれば、精・神・魂・魄・意は各自本位に安守し、先天に任せて主を為させる。

先天、後天,陰陽相交,二五之精,妙合而凝,或先天動而後天成,或後天動而先天成,真不離假,假不離真,真賴假以全,假賴真而存,渾然一氣,無傷無損,圓成具足,如圖之五行。陰陽同居,一氣流行之象。古人教人窮取娘生面者,即在此也。

先天と後天は、陰陽が互いに交合し、二気五行の精華が奇妙に一処に凝結する。ある時は先天が先に動いて後天が随って成就し、ある時は後天が先に動いて先天が随って成就する。真は偽を離れることができず、偽は真を離れることができない。真は偽に拠ってはじめて保全を得、偽は真に拠ってはじめて存留を得る。渾然として一団の気、損傷なく、円満具足して、まさに河図上の五行の如く、陰陽が一処に同居し、一気が流行する。古人が人に「娘生面」(母が我を生んだ時の本来の面目)を参究させるのは、この境界を言うのである。

即其二八之年,先天氣足,陽極而陰潛生,交於後天,於是魂魄不定,識神起而精竅開,意亂心迷,五物並興,五賊相戕,五元五德,漸次剝消,日復一日,年復一年,陰氣純而陽氣盡,不死豈能乎?此順則生人之道也。惟聖人有先天之學,能於先天未極之時而保陽,於後天將生之時而退陰,借後天養先天,以先天化後天,行無為之道,直入聖基。

十六歳の上下になると、先天の気が充満し、陽が極点に至って陰が暗々裡に生じ、後天と相交する。ここにおいて魂魄は安定せず、識神が発動して精竅が開啓し、意念は散乱し心神は迷惑し、五物が一斉に興起し、五賊が互いに残害し、五元五徳は層層に剥蝕消磨される。一日また一日、一年また一年、陰気が純になり陽気が尽きれば、どうして死なずにいられようか。これが順って行けば凡人を生ずる道である。ただ聖人のみ「先天の学」を具備し、先天の陽がまだ極点に走らぬ時に陽を保つことができ、後天の陰がまさに生ぜんとする時に陰を退去させることができ、後天を借りて先天を培養し、先天を用いて後天を化し、「無為の道」を施行して、直ちに成聖の根基に踏み入るのである。

無為之道,乃不外此河圖妙理,河圖自中而生陰陽五行,即生人順生之道也。河圖五行,陰陽相合,一氣渾然,即生聖逆運之道也。逆運非返還之謂,乃逆藏五行,歸於中黃太極,復見父母未生以前面目耳。

この「無為の道」は、河図の妙理を出ない。河図が中央から陰陽五行を生ずるは、すなわち順って凡人を生ずる道である。河図の五行が陰陽相合して渾然として一気となるは、すなわち逆らって聖人を修成する道である。いわゆる「逆運」とは、頭を掉して後退するという意味ではなく、五行を逆に収蔵して中央土位のあの一点の太極に帰し、再び父母未生以前の本来の面目を見るにすぎない。

孟子曰:仁義理智根於心,其生色也。睟然現於面,盎於背,施於四體。四體不言而喻,蓋心為一身之主,具有仁義理智之德,以一心而運仁義禮智,純是天真,五物五賊,皆順聽其命,五行攢簇,四象和合,性即是命,命即是性,性命一家,陰陽渾化,形神俱妙,與道合真,根心生色,不言而喻,自然而然也。

《孟子・尽心上》にいう。仁・義・礼・智は心に根ざし、その顕発する気色は、温潤にして面容に表れ、背脊に充盈し、四肢に貫注する。四肢は口を開いて吩咐せずとも、自然にどのように動作すべきかを知る。もともと心は一身の主人であり、仁義礼智という徳性を具備している。この一つの心を用いて仁義礼智を運転すれば、全てが天然の真機であり、五物五賊は皆順従して聴命し、五行は一処に攒聚し、四象は和合して間がない。この地步に至れば、性はすなわち命、命はすなわち性、性命は一家となり、陰陽は渾然として化し尽くし、形体と精神は併せて神妙に入り、道と合して真となる。いわゆる心に根ざして気色を生じ、言わずして自然に通暁するというのは、まさにこの自然而然の境界である。

但此心,非肉團之頑心,乃天地之心,五行不到,四大不著,所謂元牝之門者是也。無方所、無定位,擬之則失,議之則非,不可以言傳,不可以筆肖。開闔有時,動靜自如,不偏不倚,至虛至靈,強而名之,太極是也,強而圖之,這個○是也,即河圖中之一點。因其此心為天地之根,為性命之源,後之高明者,強圖以連環樣(圖),使人自醒自悟,以神契之耳。

しかしこの「心」は、胸中のあの一団の血肉の頑鈍な心ではなく、「天地の心」である。五行はそれに至ることができず、地水火風の四大も粘着することができない。すなわち《老子》のいう「元牝の門」である。それには方所がなく、定位がなく、一たび比擬すれば失われ、一たび議論を加えれば誤る。言語をもって伝授することができず、筆墨をもって描摹することもできない。開合に時があり、動静は自らの如く、偏らず倚らず、極虚にして極霊である。強いて名を取れば「太極」と呼ばれ、強いて図を画けばこの円圈○であり、すなわち河図の正中のあの一点である。この心が天地の根柢・性命の源頭であるがゆえに、後世の高明の士は強いてこれを連環相套の様子に画いて、人に自ら警醒し自ら領悟させ、心神を用いて暗にこれに合わせるにすぎない。

是心也,其大無外,其小無內,三千大千容不得他,釋氏五千四十八卷藏經,說不像他;儒家六經四書,論不及他;道家丹經子書,千帙萬卷,形容不盡他。以言其無,則又活活潑潑;以言其有,則又杳杳冥冥。有無不立,動靜不拘。有此心,則出死入生;失此心,則出生入死。生之死之,只在此心得失之間耳。

この心は、大と言えば大きくして外がなく、小と言えば小さくして内がない。三千大千世界もそれを容れることができない。仏家の五千四十八巻の《大蔵経》も、それに似ると言うことができず、儒家の六経四書も、それに及ぶと論ずることができず、道家の丹経と諸子の書の千帙万巻も、それを形容し尽くすことができない。それを「無」と言おうとすれば、それは活々潑々としており、それを「有」と言おうとすれば、それは杳杳冥冥としている。有と無のいずれも安立することができず、動と静もそれを拘束することができない。この心があれば死を出て生に入り、この心を失えば生を出て死に入る。生か死かは、ただこの心の得と失の間にあるのみである。

仁義禮智根於心,根於此心也。此心內有五行之氣,而無五行之質,藏於五行之中,而不落於五行,本於父母未生之前,現於父母既生以後,寂然不動,感而遂通,所以主宰乎仁義禮智之德。仁義禮智,皆此心之變化也。因其能變化仁義禮智,又有信之名。信非外而言語之信,乃陰陽合一,真實無妄之信。真實者,妙有也。無妄者,真空也。空而不空,不空而空,仁義禮智,皆在其中。

仁義礼智が心に根ざすというのは、すなわちこの心に根ざすことである。この心の中には五行の気があるが、五行の形質はない。それは五行の中に蔵れながら、五行の拘限に堕ちない。それは父母未生我之前に本原し、父母生我之後に顕現する。平常は寂然として動かず、一たび感触があれば通達して碍げがない。だから仁義礼智という四つの徳を主宰することができる。仁義礼智は皆この心の変化である。それが仁義礼智を変化させることができるがゆえに、また「信」という名目がある。この信は、外面の言語上の約束を守る信ではなく、陰陽合一・真実無妄の信である。「真実」はすなわち「妙有」であり、「無妄」はすなわち「真空」である。空にして空ならず、不空にして空であり、仁義礼智は皆その中に含まれている。

無為之事者,以道全形之事。以道全形,即以信而統仁義禮智也。即以仁義禮智,而歸於一信也。即以仁義禮智而歸於一信也。即以仁義禮智而歸於一心也。亦即仁義禮智而歸於一中也。信也,心也,中也,總一氣也。一氣流行,五元五德,凝結不散,渾然太極,不滲不漏,後天五物五賊,亦皆化而為陽。先天氣,後天氣,兩而合一,了性即可了命,上德無為之道,河圖之理畢露矣。

いわゆる「無為の事」とは、道を用いて形体を保全する事である。道を用いて形体を保全するとは、すなわち「信」を用いて仁義礼智を統摂し、すなわち仁義礼智を一つの信に帰し、一つの心に帰し、一つの中に帰することである。信であれ、心であれ、中であれ、総括すれば皆一股の気である。この一股の気が流行して息まず、五元五徳が一処に凝結して渙散せず、渾然として一つの太極となり、滲まず漏れず、後天の五物五賊も皆陽に転化する。先天の気と後天の気の両下が合一し、性が了徹すれば命もまた随って了徹する――これが上徳の人が修するところの「無為の道」であり、河図の道理はここに至って完全に顕露したのである。

The original text is in the public domain. The Japanese is a machine-assisted translation of this library’s own Chinese paraphrase, checked against a fixed glossary so that technical terms match the definitions used elsewhere on this site. It is a reading aid and does not replace the original.