上巽下兌(中孚卦第六十一)
中孚:豚魚吉。利涉大川,利貞。初九,虞吉,有它不燕。九二,鳴鶴在陰,其子和之;我有好爵,吾與爾靡之。六三,得敵,或鼓或罷,或泣或歌。六四,月幾望,馬匹亡,無咎。九五,有孚攣如,無咎。上九,翰音登于天,貞凶。
《中孚》卦:豚魚に孚あり、吉。大川を渉るに利し。貞に利し。初九、虞吉、他あれば燕ならず。九二、鳴鶴陰に在り、其の子之に和す。我に好爵あり、吾與爾之を靡かん。六三、敵を得、或いは鼓し或いは罷め、或いは泣き或いは歌う。六四、月幾望、馬匹亡ぶ、咎なし。九五、孚攣如あり、咎なし。上九、翰音天に登る。貞なりといえども凶。
孚者,信也。中孚者,信在內也。卦體外四陽,而內二陰,虛於內而實於外,虛實相當,內外相應,且卦德內悅而外巽,悅而巽行,不即不離而行道,故謂中孚。此虛以求實之卦,承上渙卦而來。渙者,陽為陰陷,陰潛入而陽漸消,若欲陰不陷陽而順陽,使陰陽相合,非篤信於道者不能。
孚は即ち信なり。中孚は、信内裏に存在するなり。卦体は外に四陽爻、内に二陰爻、内虚にして外實、虚實分量相當にして内外彼此相應す。再び卦徳に就いて言えば、内卦の兌は悦、外卦の巽は順。喜悦して能く柔順に行い去り、即かず離れずして道を行う。故に中孚と曰う。これは虚を以て實を求むるの卦にして、前の渙卦を承けて来た。渙卦は陽陰に陷れられ、陰悄悄に侵入して陽日に日に消減するを説く。若し陰をして復た陽を陷れずして反って陽に順わしめ、陰陽を重新たに相合せしめんと欲せば、道に篤信する人に非ざれば做る能わず。
夫人之不能入道者,皆由心不信道。心不信道,則懸虛不實,行持不力,必至有始而無終。若果心信,一念純真,萬慮俱息,誠中達外,即能真履實踐,自卑登高,由淺及深,漸可至於深造自得之地矣。夫金丹之道,以黃婆為陰陽之媒娉。中孚者,中信也。信屬土,即黃婆也。黃婆在中,可以調陰陽、通人我、應萬事,無一物不可感通,是以中孚豚魚吉也。豚魚為無知之物,信能感之,則無知者且能順其我,而況有知者乎。
人の道に入る能わざる所以は、皆心裡に道を信ぜざるに因る。心裡に道を信ぜざれば、半空に懸って實處に落ちず、行持力を用うるを肯ぜず、必ず開頭ありて結尾なし。倘若し真に能く心信せば、一念純真にして萬般の思慮皆止息し、誠意中に在りて外に通達し、即ち能く真履實踐して低處より高處に登り、淺より深に入り、漸々に深造自得の地步に到達すべし。金丹の道は、「黃婆」を以て陰陽の間の媒人と為す。中孚は即ち中信なり。信は五行に土に屬し、土は即ち黃婆なり。黃婆中に居りて、能く陰陽を調和し人我を溝通し萬事を應接す。感通せざるの東西一樣もなし。故に卦辞に中孚にして豚魚も亦た吉を得ると曰う。豚魚は無知の東西にして、誠信尚ほ能く之を感動す。無知の尚ほ能く我に順從す、況んや有知のをや。
修道者,能以感豚魚之信,用之修性命,未有不致其吉者。但信能行之於順,不能行之於逆,其信不真,終必敗。信猶不為吉,人之信於道者有矣,信道而在平易之境,順順序序行去者亦有矣。若遇大難大困,大魔大障,顛沛流離,難堪之處,為道忘軀,不失所守者,萬中無一,能於難堪之處,不動不搖,過得去、打得出,方是感豚魚之信。
道を修むる者能く此の豚魚すら感動し得るの誠信を拿出して、之を用いて性命を修めば、吉を得ざるなし。ただ人の信の順境に行い得て逆境に行い到らざる有り。此のごとき信は併び真ならず、最終に必ず失敗す。此の種の信は還って吉と算すべからず。世上道を信ずるの人是れ有り、平順容易の境地に一歩一歩照らして做し去るの人も亦た是れ有り。但し一旦大災難・大困厄・大魔頭・大障碍に遇い、顛沛流離して忍受し難きの時に、還って道の為に身を舍てて自らの守る所を失わざるは、萬人の中に一個を得る難し。能く忍受し難きの地方に動揺せず、過ぎ去るを得打出するを得ば、則ち始めて豚魚を感動するの誠信と算すべし。
中孚之吉,是以又利涉大川也。大川至險之地,逆境也。逆境能涉,則順境能涉,自不待言,順之逆之,俱皆過去得,其信無往不利,無往不吉矣。雖然旁門三千六百,曲徑七十二家,俱皆著空執相,非盡性至命之學,假足以亂真,邪足以混正。若不分真假邪正,而即信之,則信之不正,不正即不利,不利仍不吉,是以尤利於貞耳,以正而信,以正而行,動與吉會,逆順無礙,自有為而入無為,由了命而至了性,全始全終,可於理決之也。
正に《中孚》の此の内より發する誠信は能く吉を招くが故に、卦辞は又た之に「利渉大川」と曰う。大川は最も凶險の水域にして、修道の路上の逆境を比喻す。逆境すら渡る能くすれば、順境自然に更に渡る能くして、多く講ずるを用いず。順境も逆境も、樣樣皆闖り過ぐる來れば、此の誠信は便ち何處に走るも順遂にして何處に到るも吉利なり。話此の如しといえども、天下の旁門は三千六百家と號稱し、歧路小徑は七十二種と號稱す。彼らは頑空に執著するか、形相を死抓住するかに非ざればなく、皆「盡性至命」——本性を徹見し性命を了結する——の真學問に非ず。假は以て真を攪亂するに足り、邪は以て正に冒充するに足り。若し先ず真假邪正を辨清せずして一頭に信じ去れば、此の信は便ち信じて正を得ず。信じて正を得ざれば則ち益處を得ず、益處を得ざれば則ち吉と談ずるにも及ばず。故に卦辞尤も「利貞」を强調す。即ち正を守るなり。正道を以て信じ、正道を以て行い、一擧一動皆吉と相合し、逆境順境皆阻礙する所なく、「有為」の下手工夫より「無為」の自然境地に過渡し、性命を了結するより進んで本性を徹悟し、始あり終あり首尾完備す。此の道理は理に憑りて即ち斷定する能くす。
初九,在信之初,虞度其可信而方信,能謹於始,自吉於終,倘不能虞度其是非,忽信此,又信彼,反覆無常,難以全信,是有他而不得燕樂矣。此信道必謹於始也。
初九は誠信の開端に處り、先ず對方と法門とが信ずるに值するか否かを揣度し、信ずべしを確認して後に信ず。能く起頭處に謹慎せば、自然に末了に吉利なり。倘若し先ず是非を掂量する能わざれば、一忽ち此を信じ一忽ち又た彼を信じ、反反覆覆して定準なく、信心則ち保全する能わず。これ即ち爻辞のいう「有它」にして安樂を得ざるなり。初九此の爻に對應する工夫は、道を信ずるは必ず起手處に審愼に抉擇すべし。
九二,真信在中,知自守黑,陰陽隔礙潛通,神明自來,如鳴鶴在陰,其子和之,我有好爵,吾與爾靡之,同聲相應,同氣相求,不期然而然者。此潛修密煉之信也。
九二の真誠の信念は内心正中に守られ、甘んじて幽暗に居りて鋒芒を露さざるを得る。即ち《道德經》のいう「其の白を知りて其の黑を守る」の道理なり。此の如くなれば、元來隔閡して通ぜざる陰陽の氣は暗中に接通し、靈明の性は自然に到來す。正に爻辞のいう「鳴鶴陰に在り、其の子之に和す。我に好爵あり、吾與爾之を靡かん」——老鶴背陰處に鳴けば、小鶴便ち聲に應じて和す。我に一杯の好酒あり、爾と共に分ち享けんと願う。同じ聲音は互相に應和し、同じ氣類は互相に尋求す。刻意の安排に非ずして、自然而然而發生す。九二此の爻に對應する工夫は、姓を隱し名を埋めて暗中に煅煉するの誠信なり。
六三,入於旁門,執著一身,強扭強捏,如得敵之信,信至於敵,久必有變,始而信此,既而信彼,這條不成,又作那條,或鼓或罷,或泣或歌,虛而不實,所謂“同類易施功,非種難為巧”,信非所信,終必敗信,此認假為真之信也。
六三は誤りて旁門に入り、死死に自らの此の一具の肉身に執著し、强扭强捏して做作す。爻辞「或いは敵を得」のいうあの種の信のごとく——信じて自己と敵と為るの地步に至り、時間長ければ必ず變故を生ず。初め此の一家を信じ、接いで又た彼の一家を信じ、此の路走り通らざれば又た彼の一条に改換す。一忽ち鼓を擊ちて振作し、一忽ち手を罷めて停歇し、一忽ち哭泣し、一忽ち又た唱歌す。空虚にして切實ならず。正に丹經のいう「同類易く功を施し、種に非ざれば巧を為し難し」——同類の物を用いてこそ容易に功を見、同種の東西に非ざれば再び巧も亦た做り成さず。信ずる對象を錯れば、終に此の信を敗壞し盡さん。六三此の爻に對應するは、假を認めて真と為すのあの種の信なり。
六四,居上陽下陰之間,柔而守正,順其陽而不順陰,如月幾望馬匹亡也。人身純陰無陽,如月本無光也。必借他家之陽,然後生丹者,如月借日光也。月於晦朔之半,與日相交,初三,光輝方生,十五與日對望,光輝圓滿,陰順其陽也。十六一陰潛生,漸至三十,與日相背,光輝全無,陰違其陽也。
六四は上面の陽爻と下面の陰爻との間に居り、性質柔順にして能く正を守り、ただ陽に順從して陰に附和せず。正に爻辞のいう「月幾望、馬匹亡ぶ」のごとし。人の身體は「後天」——父母身を生じて後、陰陽已に駁雜せる狀態——に在りて、純是れ陰氣にして真陽なく、月亮の本身は光を發せざるがごとし。必ず「他家」の陽を借取し、即ち身外先天の一點の純陽真氣にして、然る後に結丹する能くす。月亮の太陽の光を借るに要するがごとし。月亮は晦日と朔日との間に太陽と交會し、初三あの日光華始めて生出す。十五に至りて太陽と遥遥に相望み、光華圓滿す。これ陰の陽に順從するなり。十六あの日一分的陰氣暗暗に滋生し、漸々に三十日に至りて太陽と背離し、光華全部消失す。これ陰の陽に違背するなり。
金丹之道,始而以陰求陽,復於純乾,如月幾望也。既可借陽退陰,以化其氣質,如馬匹亡也。順其陽而絕其陰,一粒寶珠,懸於太虛空中,圓陀陀、光灼灼、淨倮倮、赤灑灑,無物不照,無物能瞞,更何有咎之不無乎?此柔而求剛之信也。
金丹の道は、初めは陰を以て陽を求め、一歩一歩純陽の乾體に回復す。月亮の漸々に滿望に接近するがごとし。接いで又た此の已得の陽を借りて余陰を消退し、稟受の氣質の偏を化除すべし。爻辞のいう「馬匹亡ぶ」のごとく、成對の雜駁の物を一併に舍去す。陽に順從して陰を斷絕せば、一粒の寶珠便ち太虚空の中に懸り、圓滾滾・光燦燦・乾乾淨淨・赤裸裸として、照見せざるなく瞞過せざるなし。此の如くなれば又た何處にか還って過咎あらん。六四此の爻に對應する工夫は、柔順の質を以て剛健真陽を求取するの誠信なり。
九五,剛而中正,陰陽混合,性情精神,皆歸中央,仁、義、禮、智,皆歸於心,五行攢簇,誠一不二,是信之攣,如固結而不可解,所謂“一粒金丹吞入腹,始知我命不由天”,工夫到此,渾然天理,萬緣俱空,自然無咎。此剛柔如一之信也。
九五は剛健にして中に居りて正を得、陰陽融合して一となり、性と情・精と神と皆中央の黃庭に歸聚し、仁・義・禮・智は皆本心に收歸し、五行攢聚して一處に誠一不二なり。これ即ち爻辞「有孚攣如」の意思——信念は繩結のごとく纏り牢く、再び解き開く能わず。正に丹訣のいう「一粒の金丹腹中に呑み入りて、始めて我が命の天に由らざるを知る」のごとし。工夫此の一步に做り到れば、浑身上下純是れ天理にして、萬般の牽掛一斉に放下し、自然に過咎ある能わず。九五此の爻に對應する工夫は、剛と柔と浑然として一のごときの誠信なり。
上九,自用聰明,妄猜私議,不能巽下求人,窮究實理,冒然修為,其進銳者,其退速,本欲登高,反而落下,是亦翰音而已,何能沖舉登天,以成天下稀有之事乎?此誤用聰明之信也。
上九は自ら聦明に恃み、胡亂に猜測し私に議論し、謙遜に人に請教するを肯ぜず、實實在在の道理を窮究するを肯ぜずして、貿然として手を動かし修煉す。力を用うること猛き者は退くも亦た速く、本來高處に登らんと想うて反って跌落し來る。これも亦た不過爻辞のいう「翰音」のみ——聲音のみ天に飛び上りて、鷄身は飛び起る能わず。何處にか能く真に衝擧飛升して天下罕有の大事を成就せん。上九此の爻に對應するは、聦明を錯用するのあの種の信なり。
然則,中孚之道,貴乎信而得中,尤貴乎信而得正。信而得中,則志念堅固,經久不變,信而得正,則是非分明,修道最易。能中能正,信於道,即能行其道。行其道,即能成其道,一信而未有不吉,未有不利者也。
これに由りて見るべし、中孚の道は信に「中」を得るを貴び、尤も信に「正」を得るを貴ぶ。信じて中を得れば、志向念頭は堅固にして、長久を經歷しても改變せず。信じて正を得れば、是非分明にして、道を修むるに最も容易なり。既に能く中を守り能く正を守れば、大道を信奉して即ち能く大道を實行し、能く大道を實行すれば即ち能く大道を成就す。此の如く一信すれば、吉利ならざるなく順遂ならざるなし。
上震下艮(小過卦第六十二)
小過:亨,利貞。可小事,不可大事。飛鳥遺之音,不宜上,宜下,大吉。
《小過》卦辞に曰く:亨、貞に利し。小事は可なり、大事は可ならず。飛鳥の遺すの音、上るに宜しからず、下るに宜し、大いに吉なり。
初六,飛鳥以凶。六二,過其祖,遇其妣;不及其君,遇其臣,無咎。九三,弗過防之,從或戕之,凶。九四,無咎,弗過遇之;往厲必戒,勿用,永貞。六五,密雲不雨,自我西郊。公弋取彼在穴。上六,弗遇過之,飛鳥離之,凶,是謂災眚。
初六爻辞:飛鳥のごとく高飛して返らず、凶。六二爻辞:其の祖を過ぎて其の妣に遇い、其の君に及ばずして其の臣に遇う。咎なし。九三爻辞:過ぎて之を防がざれば、從いて或いは之を戕わん、凶。九四爻辞:咎なし。過ぎずして之に遇う。往けば厲、必ず戒めよ。永貞を用うる勿れ。六五爻辞:密雲雨せず、我が西郊より來る。公弋に彼を穴に取る。上六爻辞:遇わずして之を過ぐ。飛鳥之を離る。凶。これを災眚と謂う。
小過者,陰過於陽,小的過也。卦德上震動、下艮止,止以運動,動本於止,止之堅固,動而不大,且卦體二陽在於四陰之中,內實外虛,內剛外柔,以小養大,故謂小過。此實以用虛之卦,承上節卦而來。節者,有險面能悅,內有主宰,借世法而修道法,依人事而復天德,命基堅固,可以自有為而入無為矣。
「小過」とは、陰が陽を過ぐるを説き、小なる一方に超過あるなり。此の卦の卦徳は、上卦の震は動、下卦の艮は止。静止を用いて動作を運轉し、動は止に本づく。止まること堅固なれば、動も亦た大に過ぎず。再び卦體を看るに、二個の陽爻が四個の陰爻の當中に夾まれ、内裏充實にして外面虚柔、内剛にして外柔、小を以て大を涵養す。故に小過と曰う。これは一個の「實を以て虚を用うる」の卦にして、上面の《節》卦を承けて來た。節卦は身險境に處して卻って仍ほ喜悦し、内心に主宰ありて、世間法を借りて出世の道法を修め、人事を依托して天賦の德性を回復するを説く。此に至りて性命の根基已に堅固にして、「有為」の下手工夫より「無為」の自然境界に轉入すべし。
金丹之道,當先天真陽未復,須虛心而求實腹。及先天真陽已復,須實腹而又虛心,虛心之功,所以運天然真火,煅盡後天陰氣,以期脫化耳。是以小過而有亨道也。小過雖亨,尤利於貞,若不貞,而亦不亨。蓋小過之貞道,動不離靜,靜以運動,動靜如一,真人潛深淵,浮游守規中,勿忘勿助,綿綿若存,可小事不可大事也。
金丹の道は、「先天真陽」——形體に先だって有るあの一點の純陽真氣——未だ回復せざる時は、必ず先ず其心を虚にして其の腹を實に求めん。先天真陽已に回復したるに及んでは、實腹の後に再び虚心せよ。虚心の工夫は、天然の真火を運轉して、「後天」に積下せる陰濁の氣を煅燒し淨盡にして、最後の脫胎化形を求めんが為なり。故に《小過》は自ら亨通の道あり。小過は亨通すといえども、卻って尤も貞を守るに利す。若し正を守らざれば、亦た復た亨通せず。小過の正を守るの道は動靜を離れず、静を以て動を運轉し、動と靜と合して一體を成すに因る。正に《參同契》のいう「真人深淵に潛み、浮游して規中を守る」のごとく、遺忘せず助長せず、綿綿密密として有るがごとく又た無きがごとし。これ即ち卦辞「小事は可なり、大事は可ならず」の意思なり。
小事者,無為之事。大事者,有為之事。有為者,所以採陽。無為者,所以養陽。既已實腹,宜小過而養陽之事。若大而不能小,不但不能保陽,而且有以傷陽,小過之利於貞,利於小動,不利於大動,利於小止,不利於大止,動而能止,止中有動,止於其所而動之,雖動而不出其位,如飛鳥遺之音,不宜上,宜下。
いわゆる小事とは、「無為」の一路の事を指し、いわゆる大事とは、「有為」の一路の事を指す。有為は、真陽を採取するを用い、無為は、真陽を溫養するを用う。腹中既に充實せる以上、則ち小過の宜しきとする溫養真陽の事を做すべし。假令ただ大を知りて小を守る能わざれば、真陽を保つ能わざるのみならず、反って真陽を損傷す。小過の貞に利する所以は、其れ小動に利して大動に利せず、小止に利して大止に利せざるが為なり。動いて還って止まる能く、止の裏頭に又た動を含み、自らの本位に安處して運動し、動くといえども本位を越出せず。正に卦辞のいう飛鳥遺音、上るに宜しからず、下るに宜しきがごとし。
鳥雖上飛,其音下遺,動不離止也。動不離上,不宜上,宜下,小過而養大,抽鉛添汞,溫養十月,聖胎成全,霹靂一聲,嬰兒出現,養之足,而吉之大,小過而大吉,利貞之小過,神哉!妙哉!
鳥は上に向いて飛ぶといえども、鳴聲は下に留む。これ即ち動止を脫離せざるなり。動は上昇の勢を離れざるといえども、一味に上に向うに宜しからずして、收斂して下に向うに宜し。小の溫養を以て大の功果を成就す。鉛を抽出し汞を添入し、即ち真陽の氣を以て真陰の性を涵養す。溫養十個月に滿して聖胎完全に長成し、一聲の霹靂にして嬰兒のごとき陽神顯現す。溫養足れば、吉慶乃ち大なり。故に小過にして大吉と曰う。此の種の正を守るの小過は、真に神妙、真に奇絶なり。
初六,當小過之初,正宜止於其所,煉己持心,乃柔而止之不固,急欲沖舉飛昇,如鳥飛而不止,懸虛不實,欲向其前,反成落後,不吉而凶,理有可必。此小過而妄想大過者也。
初六正に小過の開頭に當り、本應く自らの本位上に安止して、自己を鍛煉し此の心を看住すべし。無奈其れ性質柔弱にして止まること牢固ならず、急いで衝擧飛升せんと欲す。鳥兒の一飛して停まるを肯ぜざるがごとく、半空に懸りて虚にして實ならず。前に進まんと欲して反って後に落ち、不吉なるのみならず而且凶あり。是必然の道理なり。初六此の爻に對應するは、小過の時に卻って大過を妄想するの毛病なり。
六二,性質本陰,若舍陽應陰,如過祖遇妣,陰太過陽矣。然柔而得正,不用過高之陰,而就卑下之陽,如不及其君,遇其臣,陰不過陽,而及至陰陽相當,剛柔一氣,內念不出,外物不入,不使有一毫客氣雜於鼎爐之中,自無得而復失之咎。此小過而不大過者也。
六二本性は陰に屬し、若し陽を舍棄して陰に應和せば、爻辞のいう祖父を越過して祖母に遇うがごとく、陰便ち過分に陽を壓過せしめん。しかるに其れ柔順にして中に居りて正を得、高處の陰に攀附せずして、卑下の陽に就近す。正に爻辞のいう君主に及ばずして臣子に遇うがごとく、陰便ち陽を壓過するに至らず。陰陽分量相當、剛柔化して一氣を成すに及んでは、内裏の念頭は外に跑らず、外面の物欲は内に侵さず、一絲一毫の客邪の氣も鼎爐の當中に混進せしめず、自然に得て後に失うの過失なし。六二此の爻に對應するは、小過にして大過に至らざるの分寸なり。
九三,陽氣充足,正當防危慮險之時,乃剛而不中,知大而不知小,弗過防之,從或戕之,天寶得而復失。此大過而不知小過者也。
九三陽氣充足して、正に應に危を防ぎ險を慮るべきの時に、偏偏其れ剛強にして中に居らず、ただ大處を知りて小處を懂得せず、細微處に格外に防備するを肯ぜず、一味に勢に順いて從い去れば、於是陰邪に傷られ、上天の賜う所の珍寶は得て後に重新たに失掉す。九三此の爻に對應するは、大過を懂得して小過を懂得せざるの失誤なり。
九四,剛而能柔,已是陰陽合一,五行混化,正當待時超脫,有無不立之時,再弗可過通其柔者,若不知止足,猶用柔道以前往,是小之太過,反招客氣,必有危厲,此其所當戒者。戒之者,須要隨時通變,勿用永貞,可止則止,休歇罷功,可動則動,脫胎神化,由養而脫,打破虛空,方為了當。此小過而不可太過者也。
九四剛健にして能く柔和なり。已に陰陽合して一と為り、五行混化して元に歸し、正に時機を待ちて超脫し、有と無と皆執著せざるの關頭に當る。則ち復た過分に其の柔道を施用すべからず。假令止るべきを知らずして、還って柔道一路を用いて推進せば、則ち小の太過頭なり、反って客邪の氣を招き、必ず危險あり。此れ正に其の應に警戒すべきの地方なり。警戒するには、則ち時に随いて權に通じ變に達し、死守して一成不變の成法にすべからず。止まるべきは則ち止まり、手を歇め工を罷め、動くべきは則ち動き、脫胎神化す。溫養よりして脫化に至り、虚空を打破して、乃ち了結と算すべし。九四此の爻に對應するは、小過にして卻って太過すべからざるの分際なり。
六五,純陰無陽,如密雲不雨,自我西郊矣。修真之道,取真陰真陽兩弦之氣而結丹,只密雲而不能致雨,自我郊而不及彼郊,彼我相隔,亦如公弋取彼在穴矣。五近於四,賢士在望,不能屈已以求人,或靜坐觀空,或忘物忘形,是欲一空而了大事,以空射空,彼空我空,取彼在穴,內外一空,空而不實,焉能濟事?此小過而不知求大者也。
六五純是れ陰氣にして陽なし。正に爻辞のいう密雲雨せず、我が西郊より來るがごとし。真を修めるの道は、「真陰」と「真陽」の兩弦の氣——上弦の金と下弦の水——を取りて配合結丹せんと要す。如今ただ密雲ありて雨を致す能わず、ただ自家の郊野に在りて對方のあの一邊に及ばず。彼我相隔たりて、亦た爻辞のいう王公帶繩の箭を以て洞穴の中に藏るる獵物を射取するがごとし。六五九四に靠近して賢德の士眼前に在るに、其れ能く己を屈して人に下りて求教する能わず。ただ或いは静坐觀空し、或いは物我形骸を忘掉し、一個の「空」の字に憑りて大事を了卻せんと想う。空を以て空を射れば、對方是れ空、自己も亦た是れ空。いわゆる「彼を穴に取る」、内外ただ一片の空を落とすのみ、空にして實ならず、怎麼にして事を成さん。六五此の爻に對應するは、小過の時に卻って大者を求取するを懂得せざるの偏差なり。
上六,愚而無知,已小過矣。再弗可遇,過者乃愚而自用,聽信盲師,動作於上,或搬精補腦,或運氣天谷,或存眉間之思,或守泥丸之神,或默朝上帝,或鑑形出殼,知進而不知退,如鳥飛極,上不能自止,終有災眚而莫可救。此本小過而又遇過者也。
上六愚昧無知にして、已に小過と算す。應に復た遇合所有りて更に過分に趨るべからず。其れ卻って愚昧にして自以為是し、瞎眼師父の教法を聽信し、一味に上部頭腦處に做作す。或いは精氣を搬運して腦を補い、或いは氣を天谷穴に運び、或いは兩眉の間を存想し、或いは死守して泥丸宮の神を守り、或いは默默として上帝を朝禮し、或いは内觀形體して妄に出神出殼を求む。ただ進むを知りて退くを知らず。鳥の極高の處に飛び到るがごとく、上って能く自ら止まらず、終に災禍を招きて挽救する由なし。上六此の爻に對應するは、本來ただ小過のみにして、又た過分の擧に碰上するの結局なり。
然則,小過之道,當丹未得,須以陰而求陽,及丹已得,須借陰以養陽,總要小之得正,不可小之太過,不可小之不及,方能亨,方能利,小過而大吉矣。
これに由りて見るべし、小過の道は、丹藥未だ手に到らざる時は、須く陰を用いて陽を求め、丹藥已に手に到りたるに及んでは、則ち陰を借りて陽を溫養すべし。總じて小を端正に得て、小の太過頭なるも不可、小の火候足らざるも不可なり。此の如くしてこそ能く亨通し、能く順利し、乃ち小過にして大吉なり。
上坎下離(既濟卦第六十三)
既濟:亨小,利貞。初吉終亂。
《既濟》卦辞に曰く:亨小なるのみ、貞に利し。初め吉、終り亂る。
初九,曳其輪,濡其尾,無咎。六二,婦喪其茀,勿逐,七日得。九三,高宗伐鬼方,三年克之,小人勿用。六四,繻有衣袽,終日戒。九五,東鄰殺牛,不如西鄰之禴祭,實受其福。上六,濡其首,厲。
初九爻辞:其の輪を曳きて進ましめず、其の尾を濡らして後に退く。咎なし。六二爻辞:婦其の茀を喪う。逐う勿れ、七日に得ん。九三爻辞:高宗鬼方を伐つ。三年にして之を克つ。小人用うる勿れ。六四爻辞:繻あれば衣袽あり。終日戒めよ。九五爻辞:東鄰牛を殺すも、西鄰の禴祭に如かず。實に其の福を受く。上六爻辞:其の首を濡らす。厲。
濟者,陰陽相濟之義。既濟者,陰陽相濟之極也。卦德上坎陷、下離明,借險以養明,以明而御險,明由險生,險因明通,明險相濟,故謂既濟。此防危慮險、固濟丹元之卦,承上中孚而來。中孚者,悅而巽行,深造自得,陰陽不濟者,終必能濟矣。
「濟」は陰陽互相に接濟し互相に成全するの義、「既濟」は即ち陰陽相濟すること極處に到るなり。此の卦の卦徳は、上卦の坎は險陷、下卦の離は光明。險境を借りて此の光明を涵養し、又た此の光明を用いて險境を駕馭す。明は險中より生出し、險は明に因りて打通し、明と險と互相成全す。故に既濟と曰う。これは一個の危を防ぎ險を慮り、丹元を牢牢に封固するの卦にして、上面の《中孚》卦を承けて來た。中孚は心裡喜悦して行事謙遜、深入用功よりして自然に得あるを説く。元來陰陽能く相濟せざる人は、最終に必ず能く相濟せん。
但不濟須求濟,既濟須保濟。保濟者,固濟丹元之功。固濟丹元,在乎以明御險,防險養明耳。養明者,藏明於內,有智不用,有才不使,明其明德,止於至善也。防險者,謹慎於外,非禮不履,非義不行,素位而行,不願乎外也。內既能養明,外又能防險,明有養而明不傷,險遇明而險即消。
ただ未だ相濟せざる時は相濟を求めんと設法し、已に相濟せるは則ち相濟を保たんと設法すべし。いわゆる相濟を保つとは、丹元を封固して牢靠たらしむるの工夫なり。而るに丹元を封固するは、全て光明を用いて險境を駕馭し、險境を防備して光明を涵養するに在り。光明を涵養するは、此の明を裏面に藏るるなり。智慧ありて顯露せず、才能ありて施展せず、本有の明德を愈々彰明ならしめ、至善の地に安住す。此れ正に《大學》のいう「明德を明め」「至善に止まる」なり。險境を防備するは、外面に處處謹愼するなり。禮に合せざるは做さず、義に合せざるは行わず、當下の位分に安んじて事を做し、分外の妄想を生ぜず。此れ正に《中庸》のいう「其の位に素し、其の外を願わず」なり。内裏既に能く明を養い、外面又た能く險を防げば、明に涵養あれば則ち損傷を受けず、險明に碰えば則ち自然に消解す。
明為離德,位於南,為火,即神也。險為坎德,位於北,為水,即精也。神好動而火上炎,以精養神。火得水而燥氣悉化,精易洩而水下流,以神攝精,水得火而慾念自消。燥氣化而神安,則心虛;慾念消而精一,則腹實。
明は離卦の德性にして、方位は南、火に屬し、即ち人身の神なり。險は坎卦の德性にして、方位は北、水に屬し、即ち人身の精なり。神は躁動を喜び、火性又た上に炎燒す。故に精を以て神を涵養するを要す。火水の滋潤を得れば、燥烈の氣は全部化開す。精は走泄し易く、水性又た下に流る。故に神を以て精を收攝するを要す。水火の溫煦を得れば、欲念自然に消散す。燥氣化盡して神安定下來れば、心便ち虚靜なり。欲念消除して精專一にして雜ならざれば、腹便ち充實なり。
心虛則人心無而真陰現;腹實則道心發而真陽生,以真陰順真陽,以真陽統真陰,真陰真陽,兩而相合,恍惚有象,杳冥有精,結成一粒黍米寶珠,吞而服之,延壽無窮,是既濟固有亨道也。
心一たび虚靜なれば、「人心」——あの情識欲望に随いて起滅するの妄心——則ち消失し、「真陰」即ち本來柔順にして雜ならざるの元性便ち顯現す。腹一たび充實すれば、「道心」——あの一點の天賦の正覺の心——則ち發動し、「真陽」即ち先天純粹の元氣便ち生出す。真陰を用いて真陽に順承し、真陽を用いて真陰を統攝し、真陰真陽兩者相合し、恍恍惚惚の中に物象を現出し、杳杳冥冥の中に精真を含藏し、凝結して一粒の黍米大小の寶珠を成し、吞服下來れば、則ち能く延年無窮なり。これ既濟の本來亨通の道を具有するの緣故なり。
但陰陽既濟則明盛。明盛,易於恃明自用,若不謹慎,少有疏失,明極反暗,道心又昧,人心又起,濟中即有不濟,是既濟之亨又小也。
但し陰陽既に相濟せば、人の明德便ち熾盛に轉ず。明一たび熾盛なれば、容易に聦明に恃みて自ら主張を作し、若し謹愼せざれば、稍も疏失あれば、明極處に到りて反って昏暗に轉成し、道心又た遮蔽せられ、人心又た重新たに抬頭し、相濟の當中立刻に不相濟を含む。これ即ち既濟の亨通はただ「亨小」と算すの道理なり。
蓋以事在未濟,人多戒懼修省,用明以防險;事在既濟,人每晏在自殆,昧明而招險,亨小不大,得而復失,皆在於此,是以既濟亨道,惟利於守正耳。以正養明,以正防險,自然明不傷而險不生。但以明防險,尤利於既濟之初。初則吉,而終則亂也。
大凡事情還って未濟に處する時は、人多く戒懼警惕して身を修め反省し、明を用いて險を防ぐ。事情已に既濟せるに及んでは、人往々に安逸自滿して自ら危殆を取り、明を昏昧せしめて反って險を招く。亨通ただ小處にして盛大なる能わず、手に到りて重新たに失去す。根子は皆此に在り。故に既濟の亨通の道は、ただ貞を守るに利す。正を用いて明を涵養し、正を用いて險を防備せば、自然に明損傷を受けずして險も亦た生出せず。而るに明を用いて險を防ぐは、尤も既濟の開頭に趁くべし。開頭是れ吉にして、末尾に到れば則ち亂る。
初吉者,養明於早,有險無險。終亂者,用明太過,無險招險,總此一明,總此一險,能養其明則無險,過用其明則有險。修道者,可不於既濟之初,早防其險乎?
いわゆる「初吉」とは、早めに趁けて此の明を涵養し、本來險あるも變じて無險と為るなり。いわゆる「終亂」とは、明を用うること太過して、本來險なきに卻って險を招來するなり。歸根到底ただ同一個の明、同一個の險のみ。能く此の明を涵養すれば則ち險なく、此の明を過度に使用すれば則ち險あり。道を修むる者、何ぞ既濟剛剛成就するの時に、即ち早早に其の險を防備せざらんや。
初九,在既濟之初,剛而守正,如車曳其輪而不前,人濡其尾而退後,能敬謹於始,自無咎於終。此方濟,即防其不濟也。
初九既濟の開端に處り、剛健にして能く正を守る。爻辞のいう車輪を拖住して前に往くを肯ぜず、尾巴を沾濕して甘んじて後に退くがごとし。能く起頭處に敬愼せば、自然に末了に到るも亦た過咎なし。初九此の爻に對應する工夫は、剛剛濟成して則ち其の不濟を防ぐなり。
六二,柔而無剛,陰陽不濟,大道難修,如婦喪其茀而有險矣。然柔而中正,煉己待時,虛室生白,神明自來,是以勿逐七日得也。
六二柔弱にして剛氣なく、陰陽能く相濟せず、大道修成し難し。爻辞のいう婦人車上の遮飾を丟して險難有りのごとし。しかるに其れ柔順にして又た中に居りて正を得、能く一面に己を煉り一面に静にして時機を待ち、空虚の心室自然に光明を生じ、靈明の性自然に到來す。故に爻辞に追尋するを須いず、七日以後自ら失い復た得ると曰う。
七日者,火之數,煉己而火返真,以明破險,借險生明,取坎中之陽,填離中之陰,水火相濟,不待勉強,自然而然,此以陰而求陽相濟也。
いわゆる「七日」とは、火の成數にして、《河圖》は二と七とを以て火と為す。己を煉りて火の純真に返歸するの地步に到れば、則ち能く明を用いて險を破除し、又た險を借りて明を生出し、坎卦の中間のあの一畫の陽爻を取出して、離卦の中間のあの一畫の陰爻を填補し、水と火と互相に接濟す。勉强を用いずして自然而然而なり。六二此の爻に對應する工夫は、陰を以て陽を求めて相濟を成就するなり。
九三,居明之極,有近於險,如有鬼方也。不能戒備於早,既濟將不濟,雖剛而得正者,若欲不為險傷,亦必盡其力而方保濟,如高宗伐鬼方,三年克之。剛而得正者,且如此,而況不正之剛乎?故曰小人勿用。此既濟而不能豫防不濟也。
九三離明の頂端に居り、已に上卦の險に逼近す。邊地に鬼方の患あるがごとし。若し能く及早に戒備せざれば、既濟則ち將に不濟に轉成せん。たとい剛健にして正を守るの人とも、險に傷られざらんと欲すれば、必ず全力を竭して乃ち此の「濟」を保つ能くす。正に殷高宗の鬼方を征伐し、三年打ちて乃ち之を攻克するがごとし。剛健守正の人尚且此の如く吃力なり、況んやあの端正ならざる剛強の人をや。故に爻辞に「小人勿用」と曰う。九三此の爻に對應するは、既濟の時に卻って能く豫め不濟を防備せざるの失誤なり。
六四,當既濟之時,黜聰毀智,防危慮險,如舟有濡,先備衣袽,終日戒之。此既濟而能時防不濟也。
六四正に既濟の時に當り、能く聦明を摒退し機巧を毀棄し、危を防ぎ險を慮る。船身に滲漏あるに先だって漏を塞ぐの破衣舊絮を備え、終日警戒懈まざるがごとし。六四此の爻に對應するは、既濟の時に能く時時不濟を防備するの穩妥なり。
九五,當既濟之時,滿盈自居,腹實而不知虛心,既濟中即藏不濟,如東鄰殺牛,不如西鄰之禴祭,實受其福也。
九五正に既濟の時に當るも、卻って圓滿を以て自ら居り、腹中已に充實せるといえども、還って虚心すべきを懂得せず。於是既濟の當中に就きて不濟を藏る。正に爻辞のいう東鄰牛を宰して盛祭するも、反って西鄰の薄禮の禴祭に如かず、能く實實在在に福佑を承受するがごとし。
蓋未濟之時,方致濟,以虛求實而能濟,既濟之時濟已極,實而不虛,仍不濟。虛能實,滿招愆,理所必然。此既濟而又招不濟也。
大凡未濟の時は、正に相濟を求めんと設法し、虚を以て實を求む。故能く濟なり。既濟の時は相濟已に極處に到り、ただ實ありて虚なく、反って又た不濟なり。虚乃ち能く實を容納し、自滿は過失を招く。これ必然の道理なり。九五此の爻に對應するは、既濟の後反って不濟を招來するの隱患なり。
上六,火候不明,持盈未已,不能防險於既濟之時,自然致險於既濟之終,如濡及於首,全身失陷,陰陽散渙,前功俱廢,危厲所不能免。此既濟而終歸不濟也。
上六火候を明白せず、一味に滿盈を守りて歇手するを肯ぜず、既濟の時に險を防ぐ能わず、自然に既濟の末尾に到りて險を招く。水頭頂に浸るがごとく、全身陷落して陰陽離散渙失し、先前の功夫全部作廢す。危厲は免るる能わず。上六此の爻に對應するは、既濟にして最終に不濟に歸するの下場なり。
修道者,至於取坎填離,水火相濟,不知費過多少苦功,幸而得之,及早封藏,防危慮險,以修向上事業。否則晏安自息,休歇罷功,火候有差,既濟又不濟,成而復敗,可不惜乎?故有為無為之道,隨時而用,必以有無一致,虛實兼該,了性了命為極功也。
道を修むる者坎を取りて離を填め水火相濟するを做到するは、幾多の苦功を耗費するを知らず。僥幸に得手したる後は、則ち應に及早に封藏保護し、危を防ぎ險を慮りて、更に上の一層の事業を做すべし。否則安逸を貪圖し自ら歇息し、手を撒手して干らざれば、火候一たび差錯あれば、既濟又た不濟と變成し、成し了りて又た重新たに敗掉す。豈に可惜ならずや。故に「有為」與「無為」の兩種の工夫は、時機に随いて變換使用し、務めて有と無と一貫し虚と實と兼備するを做到し、性を了じ命を了ずるを以て最終の極功と為すべし。
