Libo

巻三

清 · 刘一明 · 第11巻 / 19

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

上兌下艮(咸卦第三十一)

咸:亨,利貞。取女吉。初六,咸其拇。六二,咸其腓,凶,居吉。九三,咸其股,執其隨,往吝。九四,貞吉,悔亡。憧憧往來,朋從爾思。九五,咸其脢,無悔。上六,咸其輔、頰、舌。

《咸》卦。亨通、正固を守持するに利し。妻を娶れば、吉祥。初六。感応ただ脚の大拇趾に到るのみ。六二。感応小腿肚の上に到る、凶険。安居して動かざれば則ち吉祥。九三。感応大腿の上に到る、ただ執着して人に随って行くを知るのみ、此の如くして前往すれば憾惜有らん。九四。正を守れば則ち吉祥、悔恨消失す。もし心思往來定まらざれば、あれは則ち只だ意気相投の朋友爾の心思に順って來るのみ。九五。感応脊背の肉の上に到る、悔恨無し。上六。感応ただ牙床・面頬・舌頭の上に在るのみ。

咸者,感也。卦德上兌悅、下艮止,剛止於內,柔悅於外,悅以止為體,止以悅為用,有陰陽相應之義。故謂咸。此調和陰陽之卦,承上坎卦而來。坎者,陰陷其陽,陽不健而陰不順,陰陽不交,此調和之功不可缺。

「咸」の意思是れ感応。卦徳に就きて言えば、上卦兌は悦・下卦艮は止。剛健の一面止定して裏面に在り、柔順の一面和悦して外面に在り。止定を以て本体と為し、和悦を以て発用と為し、陰陽彼此呼応するの意を含着す。だから「咸」と呼ばれる。これは一個の陰陽を調和するの卦で、上一卦《坎》を承接して来る。《坎》の講ずるは陰陽を把って陷住せられ、陽能く剛健せず・陰能く柔順せず、陰陽互いに交通せざるなり。だから調和此の一歩の功夫は万万缺くべからざるなり。

但調和陰陽,貴乎自然,不貴乎勉強。自然者,無心之感也。勉強者,有心之感也。無心之感,陰陽相和,咸無不感;有心之感,陰陽各別,感之有限,故咸有亨道也。

但し陰陽を調和するは、自然に貴しと在りて、勉強に貴しと在らず。自然とは、指すは「無心の感」(私意を起さず・其の自然に任せるの感通)。勉強とは、指すは「有心の感」(私意を掺めて攀求し去るの感通)。無心にして感ずれば、陰陽自然相和して、感じて通ぜざる無し。有心にして感ずれば、陰陽各自分離して、能く感通するは極めて有限なり。だから《咸》卦本身亨通の道を含有す。

咸道雖亨,然無心有無心之是非;有心有有心之是非,不得以枯木寒灰之無心,即謂咸之亨通。枯木寒灰,純陰無陽,何得謂感。所謂感者,陰陽潛通之義,如卦象少男少女同處,彼此無心,及至陰陽氣足,彼此情動,自然相感,此不感之感,何得以蠢然無心為感乎?

咸道雖も亨通すれども、しかるに無心も亦た無心の是非有り、有心も亦た有心の是非有り。能く枯木死灰の如き一も覚する所無きの状態を把って無心と成し、則ち此れ便ち咸卦の亨通なりと説くべからず。枯木寒灰は是れ純陰にして陽無し。どこが尚感応を談じ上ぐるに及ばんや。いわゆる感とは、是れ陰陽暗中相通ずるの意、猶此の卦の取る所の少男少女同じく一室に処りて、彼此本来無心にして、陰陽の気充足するに及ぶを待って、彼此情意自然発動し、便ち自然に相感ずるが如し。これがはじめて「感ぜずの感」なり。怎様にしてあの種の蠢然として知る無きの死寂を把って感応と為すを得べきや。

所謂無心者,無人心也。無人心即有道心,道心是心非心。所謂有心者,有人心也。有人心即無道心,人心非心是心。道心為真,人心為假。用假心,則感之不正,陰陽兩離。用真心則感之得正,陰陽相通,或陰感而陽應,或陽感而陰應,均以道心為主。以正而感,感以正,而不感以心,何物不可感,何感不能利乎。

いわゆる無心とは、是れ「人心」(情識私欲に随って起るの妄心)無きなり。人心無くんば、自然に則ち「道心」(天理自然に発動する本心)有り。道心看れば是れ個の心に似たるも、却って是れ平常あの個の攀縁造作する心に非ず。いわゆる有心とは、是れ人心有るなり。人心有れば、道心は則ち無し。人心看れば是れ心に非ずに似たるも、恰恰として正に是れあの個の作祟する心なり。道心是れ真、人心是れ偽。偽心を用いて感ぜば、感じること正を得ず、陰陽反って両相乖離す。真心を用いて感ぜば、感じて其の正を得、陰陽自然相通ず。或いは陰先ず感じて陽來て応じ、或いは陽先ず感じて陰來て応じ、総じて道心を以て主と為す。正を以て感ずれば、感ずる所は是れ「正」にして私心に非ず。あれは則ち還た何の物か感じて通ぜざる有らん、還た何の一種か感応して利益を得ざる有らん。

天下感之以正者,莫如貞女,女德主乎貞靜,不輕失身於人,必待其佳配而有感。此感之不以心而以正。卦德先止後悅,悅本於止之所由來也。修道者,調和陰陽,使陰陽感通,能取貞女之德以為感,則所感皆正,寂然不動,感而遂通,感而遂通,寂然不動,止於其所,逆之、順之,無不遂心如意而得其吉矣。

天下能く正を以て相感ずるは、貞潔の女子に比する莫し。女子の徳行は貞静を以て主と為し、肯んじて軽易に人に身を失わず、一定して合適の佳偶を待ってはじめて感ずる所有り。これがすなわち私心を以て感ぜずして、正道を以て感ずるなり。此の卦の卦徳は先ず止みて而る後に悦ぶ。見るべし和悦は正に止定あの処より生出して来るなり。道を修する人陰陽を調和し、陰陽をして感応相通せしめんと要せば、もし能く貞女此の一段の徳行を取って感応の準則と為さば、則ち感ずる所一処として正ならざる無し。寂然として動かず、一たび感ずれば便ち通じ、一たび感ずれば便ち通じて、仍ほ寂然として動かず、自己の応に処るべき位子の上に安止す。是れ逆修して本に返ると、是れ順行して物に応ずるとを論ぜず、称心如意して其の吉祥を得ざる無し。

初六,性愚志劣,不能煉己持心,妄想大事,如咸其拇矣。拇為足大趾,能動不能行之物,不能行而感之,感不得其正。此動人心之感也。六二,柔而無剛,內無道心,為人心所感,如感其腓矣。腓為足肚,宜靜不宜動之物。不宜動而妄動,動必招凶。然柔順得中,雖有人心感動,能居於正,不為人心所感,亦凶中致吉之道。此無道心之感也。

初六資質愚昧・志気低劣にして、能く「己を錬り心を持す」(自身の習気を磨去し・自己の心念を把住す)せず、却って妄想して性命の上の大事を成就せんとす。正に爻辞のいう「其の拇を咸くする」が如し。拇は是れ脚の大趾、是れ能く動くも能く路を走る能わざるの部位。能く路を走る能わざるも却って彼処に於いて妄動して感を求むれば、則ち感じること正を得ず。これは人心に帯動して起きたるの感応なり。六二陰柔にして剛無く、内裡道心無く、反って人心に感ぜられ、好比小腿肚の上に感応するが如し。腓は是れ脚の肚、是れ静に宜しくして動に宜からざるの部位。動くべからざるに妄動すれば、一動必定して凶を招く。幸いなるにそれは柔順にして下卦の中に居り、雖も人心の攪動有るも、却って能く正に安居して、人心に牽いて走らせられず。此も亦た凶中に吉に転ずるの一条の路なり。これは道心無きの感応なり。

九三,陽剛宜守道心,不可因外物而動。人心者,乃剛而不中,見景生情,如感其股矣。感之於股,不能止於其所,隨風起塵,執守不專,有道心而又生人心,以是往而行道,未免見羞於大方。此失道心之感也。

九三既に是れ陽剛、本来応に道心を守住し、外物に因って動く可からず。一旦剛にして中ならず・景を見て情を生ぜば、あれは則ち人心の主を為すに在り。正に爻辞のいう「其の股を咸くする」が如し。感応大腿の上に落つれば、則ち自己の止まるべき地方に止まらんとする能わず。猶風一たび起これば塵土便ち跟って揚がるが如く、把持するも専一ならず。本道心有りて又た人心を生出せば、此の如き心を帯いて道を行けば、難を免れずして明眼の行家の跟前に於いて醜を出さん。これは道心を丢失了の感応なり。

九四,陽剛本有道心,似乎貞而得吉,又剛而能柔,無感亦無所害,似乎有悔可亡,乃有應。初陰,為私慾所牽,道心中又來人心,外無感而內有感,故憧憧往來,朋從爾思也。朋從之思,因人心而昧道心,性亂情迷,一身皆為人心所搖動。此起人心又昧道心之感也。

九四陽剛にして、本来是れ道心有るなり。看れば正を守れば則ち能く吉を得。又能く剛中に柔を帯び、妄感し去らずとも亦た妨害無し。看れば悔有るも亦た消掉し得べし。無奈それは初六と相応じ、初六是れ陰爻にして、私欲に牽引せられ、ここにおいて道心の裡頭に又た人心を冒出し、外面還た未だ感ぜざるも裏面早已に感ぜたり。だから「憧憧として往來し、朋爾の思に從う」と曰う。此の種の朋類相從うの念頭は、人心に因って道心を昏昧せしめ、心性紊乱し・情識迷惑して、全身上下倶に人心に搖動せらる。これは既に人心を起きて、又た道心を昏昧せしめたるの感応なり。

九五,在上陰下陽之際,執兩用中,道心常存,人心不生,因物付物,皆出無心,如感其脢矣。脢為背肉,在心之上,近心而離心。道心人心所隔者,毫髮之間,感之於脢,雖近於心,而實非心,非心之心,是謂真心。真心非色非空,無方無所,虛靈不昧,是謂無心。以無心感有心,雖有心亦歸於無心,無心無悔,渾然天理,止於至善之地,而不遷矣。此守道心而無人心之感也。

九五上陰下陽の交界の処に処り、能く其の两端を執りて其中を用い、道心常に存み、人心生ぜず、何に遇上するも則ち物に随って応付し、全て無心より出ず。正に爻辞のいう「其の脢を咸くする」が如し。脢は是れ脊背の上の肉、位置は心の上に在り、心に靠近するも又た心を離れたり。道心と人心との相隔たる所は、不過毫髪の間なり。感応脢の上に落つれば、雖も心に近くも実在に是れあの個の私心に非ず。私心に非ざるの心は、はじめて「真心」と呼ばる。真心は色に非ず空に非ず、指すべき方所無く、虚霊にして昏昧せず。これを「無心」と呼ぶ。無心を用いて有心に感ずれば、縦い私心有るも亦た一併に無心に帰入す。無心なれば便ち悔無く、渾然一片の天理、至善の地に安止して復た遷移せず。これは道心を守住して・人心無きの感応なり。

上六,在咸之終,又在悅之極,順其所欲,務外失內,巧言令色,一切是假,是謂咸其輔頰舌也。凡口、言、笑三者皆動,口動而心未有不動者。此絕無道心全用人心之感也。

上六咸卦の末尾に処り、又た和悦の極点に在り、一味に自己の欲望に順い、ただ外面を顧みて裏面を丢き、巧言令色にして、一切皆是れ偽なり。これがすなわちいわゆる「其の輔頬舌を咸くする」なり。凡そ口・言・笑此の三様は一たび動けば、口一たび動けば、心倶に跟って動かざる無し。これは全て道心無く・純粋に人心を用うるの感応なり。

六爻皆有感道,或以人心感,或以道心感,或有道心而又感於人心,或背人心而只感以道心,是非不等,惟止於至善而感之,則道心常存,人心永滅,真陰真陽,隔礙潛通,如磁石吸鐵,金丹自虛無中結就矣。

六爻各々各々其の感応の道有り。或いは人心を以て感じ、或いは道心を以て感じ、或いは本道心有りて又た人心に感動せられ、或いは人心を背離してただ道心を以て相感ず。是非高下各々相同ならず。唯だ至善の処に安止して感ずるに、はじめて能く道心常に存し・人心永く滅し、「真陰」「真陽」(先天本有のあの一分の陰精と陽気)は縦い隔礙有るも亦た能く暗中貫通し、如同磁石の鐵を吸うが一般に自然相就き、「金丹」(性命交融して・本元に返帰して結成するの円明本体)便ち虚無の中より凝結成就す。

上震下巽(恒卦第三十二)

恆:亨,無咎,利貞。利有攸往。初六,浚恆,貞凶;無攸利。九二,悔亡。九三,不恆其德,或承之羞,貞吝。九四,田無禽。六五,恆其德,貞,婦人吉,夫子凶。上六,振恆,凶。

《恒》卦。亨通、過有らざらん、正固を守持するに利し、往く所有るに利し。初六。一開頭に就きて恒久の事を深求し、即かり正を守るも凶険、何の好処も無し。九二。悔恨消失す。九三。能く恒久に自己の徳行を守住せず、或いは羞辱を招來せんと要す、即かり正を守るも亦た憾惜有り。九四。田猟すれども禽獣を打ち得ず。六五。恒久に自己の徳行を守住し、正固を守持す。婦人に対しては是れ吉祥、男子に対しては却って是れ凶険。上六。躁動不安に恒久を求む、凶険。

恆者,久也。卦德上震動、下巽入,巽緩而動,動而從容,不即不離,心堅志遠,故謂恆。此真履實踐之卦,承上離卦而來。離者,明內而又明外,期於深造自得,明無不通也。

「恒」の意思是れ長久。卦徳に就きて言えば、上卦震は動・下卦巽は入。巽の和緩を以て動き、動くこと従容迫らず、既に急切に貼り上がらず、亦た撒手して離去せず。心志堅定にして眼光長遠なり。だから「恒」と呼ばれる。これは一個の真実践履を講ずる卦で、上一卦《離》を承接して来る。《離》の講ずるは既に其の内を明らかにし又た其の外を明らかにし、深造して自ら所得有るを指望し、明して通ぜざる無きに到るなり。

但通明之道,非有恆心者不能。恆則專心致志,愈久愈力,不生懈怠,可以了性,可以了命,此恆有亨道,而又能無咎矣。但恆雖亨而無咎,尤利於恆之得正。若不得正,棄真入假,仍是不亨而有咎。彼世間盲修瞎煉之徒,入於旁門外道,以非為是,予聖自雄,負修養虛名,碌碌一生,至死不悟者,何嘗不能恆?但恆於邪道,不恆於正道,欲求長生,反而促死,及至年滿月盡,自無出路,咎且不免,安能得吉?故恆亨無咎之道,惟利於貞耳。雖然,利於恆之正,尤利於恆行之正。

但し此の個の明を通達せんと要せば、恒心無きの人是れ做り到る能わず。恒有れば、則ち能く専心致志し、越久しければ越えて力量有りて、懈怠を生ぜず。既可に「性」(本性の上の事)を了却し、亦可に「命」(形気の上の事)を了却すべし。だから《恒》卦本身亨通の道を含有し、而且能く過無きを得。ただ是れ恒雖も亨通して過無しと雖も、尤も緊要なるは此の份の恒必ず其の正を得んを須す。もし其の正を得ざれば、真を丢き・偽に鑽進し、仍ほ是れ不亨通にして過有り。世上あの些かの盲修瞎錬の人は、傍門外道に落ち込み、錯れるを把って对と為し、自ら聖を命じ・自ら豪雄を逞ぶし、一個の修養の虚名を背負い、碌碌として一生し、死に到るも亦た覚悟せず――彼ら何嘗か能く堅持せざらんや。ただ是れ恒守するは邪道の上に於りて、恒守するは正道の上に於らず。本想長生を求めんとするも、反って自己を催して早死せしむ。寿数満尽するを待って、自己出路を找り見えず、過咎尚お免れんとする能わず。どこが尚吉祥を談じ上ぐるに及ばんや。だから恒にして亨通し・恒にして咎無きの門徑は、只だ一個の「貞」の字の上に在る。話雖も此の如くと雖も、利は恒に其の正を守るに在り、更に利は恒に其の正を行うに在り。

曰利有攸往者,利在於恆,行其正耳。貞者,正也,理也。理者,身心性命之道。是道也,盜陰陽、竊造化,脫生死、出輪迴,乃恆久之大事,非一朝一夕之功能成,必須柔巽漸進,由卑登高,由淺及深,一步步腳踏實地行去,方能奏效。

卦辞に「往く所有れば利し」と曰うは、是れ説く、好処は則ち恒久に此の個の正道を行い出すに在るを。「貞」とは則ち是れ正、亦たすなわち理なり。此の個の理は、指すは身心性命の大道なり。此の条の道は「陰陽を盗み・造化を竊む」(天地陰陽の運化の裏に於いて本来自己に属するあの点の生機を奪回す)を須し、生死を脱離し・輪廻を跳出せんと要す。是れ一樁の恒久の大事、是れ一朝一夕の功夫の成就する能く所に非ず。必ず柔和順入の姿態を以て循序漸進し、低より高に登り・浅より深に入り、一歩一歩脚実地に踏んで做し去って、はじめて効を奏する能う。

蓋經久不易之大事,必經久不已之大功而後成,利貞之恆,利有攸往之恆也。但欲行其正,先要知其正,窮理盡性,以至於命,盡性至命之功,全在窮理透徹耳。

一樁の経久変わらざるの大事は、必定して経久停まざるの大功夫を用いてはじめて做り成すを得。だから「貞に利す」の恒は、亦たすなわち「往く所有れば利す」の恒なり。但し行い得て其の正を得んと要せば、先ず何をか正と呼ぶを知らんを須す。《周易・説卦伝》に曰く「理を窮め性を尽し、以至命に至る」。見るべし性を尽し命に至る此の番の功夫は、全て道理を窮究して透徹するに靠る。

初六,在恆之初,不辨是非,而即深入,妄想久遠之事,是浚恆也。浚者,深也。不明理而深入,雖欲求正,反招其凶。此無攸利之恆也。九二,剛而得中,深明火候,通權達變,恆於時而不恆以心,恆於道而不恆於事,恆之無形跡者,此悔亡之恆也。

初六恒の開頭に処り、是非還た辨え清めざるに則ち一頭に深く入り、妄想してあの些かの久遠の大事を為さんとす。これがすなわち「恒を浚め」なり。「浚」は是れ深の意。道理明白せずして則ち深き処に往きて鑽むれば、雖も正を求めんと想うも、反って凶険を招來す。これは毫も好処無きの恒なり。九二陽剛にして下卦の中に居り、深深と「火候」(功を用うの緩急進退と時節先後)を懂れ、能く権に通じ変に達し、恒守するは時機の上に於いて恒執するは自己の心意に於らず、恒守するは道の上に於いて恒執するは具体の事相に於らず。これは恒にして形迹に落ちざるの一种、だから是れ悔恨消失するの恒なり。

九三,剛而居正,亦有志修道者。但剛而不中,急欲成功,其進銳者其退速,是不恆其德,或承之羞也。羞者,何羞?羞其志於德,而不能恆於德,志於正而不能恆行其正,遵道而行,又半途而廢,雖正亦吝。此有始無終之恆也。

九三陽剛にして正位に居り、亦た算す道を修むるに志有るの人なり。ただ是れ剛にして中ならず、急ぎて成功せんと要す。進むること太も猛きの人は退くるも亦た快し。これがすなわち「其の徳を恒たらず、或いは之に羞を承けん」なり。羞は何処に在るか。羞は徳に志を立てて能く其の徳を恒守せず、正に志を立てて能く其の正を恒行せず、明明として道を遵って走りて、又た半途にして廃すに在り。縦い本身是れ正なるも、亦た只だ一個の憾惜に落得するのみ。これは始有りて終無きの恒なり。

九四,剛居動體,時在有為,如有田可耕矣。乃居於柔位,志氣不振,恆久抱道,不能行持,如空田而無禽相顧,何貴於剛?此無一為之恆也。六五,柔而得中,無思無為,安常守分,志誠專密,可謂恆其一德矣。然貞一不二,以之避世養靜則可,以之盡性至命則難,故為婦人之吉,夫子之凶。此寂滅孤修之恆也。

九四陽剛にして震動の体に居り、正に作為有る可きの時候に当たる。好比一片の田有りて耕種すべきが如し。無奈それは陰柔の位の上に落ち、志気提起して來る能わず。雖も長久に道を抱着するも、却って能く切実に行持せず。猶空しく一片の田を守着して禽獣の來て光顧する無きが如し。此の如き剛は又た何処に貴しと在らん。これは一事成す無きの恒なり。六五陰柔にして上卦の中に居り、思無く為無く、尋常に安んじ・本分を恪守し、心志誠篤にして専一細密なり。説き可し恒守して一种の徳有りと。然而此の如き貞一不二は、用いて世を避け静を養うは是れ可なり、用いて性を尽し命に至るは則ち難し。だから婦人に対しては是れ吉・男子に対しては是れ凶と曰う。これは寂滅の一辺に偏り・孤修一味の恒なり。

上六,無而為有,虛而為盈,自尊自大,有己無人,是謂振起之仁。振起之恆,大極自敗,高極必下,終歸空亡。此自欺招凶之恆也。然則,修道者,貴乎恆於正道,尤貴乎恆行於正道,方能有往有利,盡性至命,作世間恆久不易之大事,但須要識得藥物,知得火候,進退急緩,不失其正耳。

上六本来無きに装作して有りと為し、本来空虚に装作して充盈と為し、自尊自大にして、眼裡ただ自己有りて別人無し。これがすなわちいわゆる振起浮躁の恒なり。此の種の振起の恒は、張大極点に到れば自己就きて垮掉せんと要し、極高に升れば必定して跌落し、最後に一場の空亡に帰す。これは自ら欺きて凶を招くの恒なり。こく如く視れば、道を修する人は恒に正道を守るを貴び、尤も恒に正道の上に於いて行うを貴ぶ。はじめて能く往く所有り・利有る所、性を尽し命に至り、世間此の樁の恒久変わらざるの大事を做り成す能う。ただ必ず「薬物」(丹を修するに用いる所の先天真陰真陽の気)を認得し・「火候」を懂れ、進退緩急倶に其の正を失わざれば乃ち可なり。

上乾下艮(遯卦第三十三)

遯:亨,小利貞。初六,遯尾,厲,勿用有攸往。六二,執之用黃牛之革,莫之勝說。九三,係遯,有疾厲,畜臣妾,吉。九四,好遯,君子吉,小人否。九五,嘉遯,貞吉。上九,肥遯,無不利。

《遯》卦。亨通、小処正固を守持するに利し。初六。退避最後頭に落ち、危険有り、往く所有るに宜からず。六二。黄牛皮の做る繩索を用いてそれを捆り住め、誰も解き開く能わず。九三。退避する時還た牽係を帯び、病を害するが如き危険。此の份の心を拿って奴僕侍妾を畜養するは、倒れて是れ吉祥。九四。能く好く退避するを懂れ、君子此に因って吉祥、小人は却って做り到る能わず。九五。退避するも嘉美得体、正を守れば則ち吉祥。上九。退避するも寛綽従容、利あらざる何も無し。

遯者,斂藏之義。卦德上乾健、下艮止,健本於止,以止用健,有健而不輕自用,故謂遯。此藏陽伏氣之卦,承上咸卦而來。咸者,由止致悅,調和陰陽之道。調和陰陽,莫先貴乎伏氣。伏氣者,不恃健而止健也。

「遯」は収斂蔵伏の意。卦徳に就きて言えば、上卦乾は健・下卦艮は止。健は止を以て根本と為し、止を用いて健を運使す。一身の剛健の力有るも却って肯んじて軽易に自ら用いず。だから「遯」と呼ばれる。これは一個の「陽を蔵し気を伏す」(陽気を把って蔵起き・先天真気を伏定す)の卦で、上一卦《咸》を承接して来る。《咸》の講ずるは止定に由りて和悦を生出す、あれは陰陽を調和するの道理なり。而して陰陽を調和するは、最先に緊要なるは「気を伏す」に若く莫し。いわゆる気を伏すとは、則ち自己の剛健を倚仗せず、反って此の份の剛健を把って止住すなり。

人之健德,繫先天正氣,及其一陰來姤之後,陰氣浸長,陽氣當退,至人於此,知其陰氣承天而動,難與力爭,不去退陰,先欲保陽。保陽者,收斂精神,止於其所,所以伏先天之氣也。能伏其氣,陽氣不傷,陰氣自化,是遯中而有亨道也。

人身上此の份の剛健の徳は、本是れ先天の一点の正気なり。一陰初生して・《姤》卦の象と成る以後に及ぶを待って、陰気一天天に滋長し、陽気は則ち応に収退すべし。至人此の個の時候に至りて、陰気の是れ天時を承けて動くを知り、硬碰硬として争い過ぐる能わざれば、ここにおいて急ぎて陰を退けに去らず、先ず自己の陽を保住せんと想着す。いわゆる陽を保つとは、則ち精神を収斂し、自己の在るべき地方に止定し、此を借りて先天一点の真気を伏蔵して起くなり。能く此の口の気を伏え得住せば、陽気便ち損傷を受けず、陰気自然消化す。これがすなわち退避の中に亨通の道を含着するなり。

但遯之為道,非避其陰,亦非坐觀成敗,乃借陰全陽之謂。借陰全陽,尤貴遯之於早。蓋早則陽氣盛而陰氣弱,易於遯;遲則陽氣弱而陰氣盛,難於遯。二陰四陽,陰氣猶順乎陽氣,於此而遯,遯之在先,是以遯之亨道,在於小利貞之時也。

但し退避此の条の路は、既に是れ陰を躲け開くるに非ず、亦た是れ袖手して成敗を傍観するに非ず、而も是れ陰を借りて来て陽を保全するなり。陰を借りて陽を全わせんと要すれば、尤も退くること早きを貴ぶ。退くること早ければ、陽気還た盛んにして陰気尚弱く、退くるに容易し。退くること遲ければ、陽気已に弱くして陰気正に盛ん、則ち退くるに難し。《遯》卦是れ二陰下に在り・四陽上に在り、陰気還た陽気に順從して在る。此の個の時候に於いて退避するは、是れ前頭に搶えり。だから退避の能く亨通するの関口は、則ち「小利貞」此の個の時節の上に在り。

小利貞者,陰氣未至傷陽氣,若至三陰生,陰氣不利不貞,大肆張狂,遯之不及矣。故止健伏氣之亨道,須在二陰方進之時乎。二陰方進,彼此無傷,陰順其陽之遯,小利貞,亦大利貞也。

いわゆる「小利貞」とは、是れ説く、陰気還た未だ陽気を傷つけず。もし三陰生出するを待って(《否》卦の象と成る)、陰気は則ち既に利ならず亦た貞ならず、大肆として張狂せん。あの時再び退避せんと想うも已に及ばず。だから剛健を止住し・真気を伏蔵する此の条の亨通の路は、必ず二陰剛かに上進するの時に赶在らんを須す。二陰剛かに進めば、彼此還た未だ損傷有らず。これは陰陽に順從するの退避、雖もただ是れ「小利貞」と説くも、其の実も亦た則ち是れ大利貞なり。

初六,居於卑下,如遯之於尾也。在尾之遯,客氣難傷,遯之最利。然以陰柔無能者居之,未免遯之不固,為物移轉,自招危厲。若勿用有攸往,遯之堅固,何厲之有?此遯之宜謹始者也。

初六全卦の最下に居り、好比退避して尾巴の上に退き到るが如し。尾部に退くれば、「客気」(外来の浮躁邪雑の気)はそれを傷つけ着く能わず。本是れ退避の中最も利有るの位置なり。ただ是れ此の個の位子に坐するは偏りて是れ陰柔無能の人、難を免れずして退くること牢固ならず、外物一たび牽かば則ち転じ、自己危厲を招來す。もし真に能く「往く所有るを用うる勿れ」を做り到りて、退避するも堅固ならば、又た怎様にして何の危厭か有らんや。これは説く、退避は一開頭に於いて就きて謹慎なるを貴ぶと。

六二,柔順中正,止於其所,客氣難入,如執之用黃牛之革,莫之勝說也。牛革之執,致虛守靜,外緣不入,內念不出,不遯而遯,此遯之不失守者也。九三,下近二陰,剛為柔牽,不知早遯,是遯有私繫,其疾甚厲。夫人之正氣如主人,客氣如奴僕,繫於陰而以假傷真,是養奴僕而失主人,故畜臣妾吉,此遯之有私繫者也。

六二柔順にして中正、自己の在るべき位子の上に止定し、客気侵入し難し。正に爻辞のいう黄牛皮の繩索を用いて捆り住めて・誰も解き開く能わざるが如し。此の種の牛皮の一般なる執守は、則ち是れ「虚を致し静を守る」の功夫。外面の攀縁進み來る能わず、裏面の念頭出で去る能わず。看れば退避無きに似たるも其の実退くること最も徹底す。これは退避して失守せざるの一類なり。九三下面緊く两個の陰爻に挨り、剛柔に牽住せられ、及早に退避するを懂れず。これは退避の中還た私情の牽係を帯びるなり。あの病痛は則ち很に危険なり。人の正気好比是れ主人、客気好比是れ奴僕。陰の上に牽係し、偽を用いて真を傷つくるは、奴僕を養いて主人を丢き了るに等し。だから爻辞に此の份の心を拿って臣妾を畜養するは倒れて還た吉祥と曰う。これは退避して私情の牽係有るの一類なり。

九四,剛以柔用,能藏真陽於陰氣方生之時,是好於遯也。好於遯而無私繫,惜命如惜寶,不使有一毫陰氣潛生於方寸之中,是以為君子之吉。若夫小人剛強自用,不知伏氣,認假傷真,則不吉矣。此遯之宜去私繫者也。

九四陽剛にして能く柔を以て運用し、能く陰気剛かに生起するの時候に於いて則ち「真陽」を蔵し好くす。これは善く退避するなり。善く退避して私情の牽係無く、性命を愛惜するは至宝を愛惜するが一様、一絲一毫の陰気をして方寸の心の裡に偷偷生ぜしめず。だから是れ君子の吉祥なり。あの些かの小人に至っては、剛強自用にして、気を伏すを懂れず、偽を認め真を傷つく。あれは則ち吉ならず。これは説く、退避最も緊要なるは私情の牽係を去掉するに在ると。

九五,剛健中正,所親者陽,所遠者陰,擇善固執,是調嘉美之遯也。遯之嘉美,不以假傷真,貞而未有不吉者,此遯之歸於中正者也。上九,在遯之上,剛柔混合,萬物不能移,造化不能拘,自由自專,是謂肥遯也。遯至於肥,內無所傷,外無所損,不伏氣而氣自伏,此遯之無有不利者也。

九五剛健にして中正、親近する所は是れ陽、疎遠する所は是れ陰。善を択びて牢々として守住す。これがすなわちいわゆる嘉美の退避なり。退避するも嘉美を得、偽を拿って真を傷つけず、正を守れば吉祥ならざる無し。これは退避して中正に帰するの一類なり。上九遯卦の最上に処り、剛と柔と渾然として混合し、万物それを移し動かす能わず、造化も亦たそれを拘え住む能わず。自由自在・自ら主宰を作す。これを「肥遯」と呼ぶ。退避此の如き寛綽従容の地步に到れば、内裡損傷無く、外面虧折無し。刻意に気を伏すを必とせずして気自然に伏住す。これは退避して利あらざる所無きの一類なり。

六爻惟上爻真體未傷,乃無為保健之功,其餘皆陰陽相雜,真體已虧,故必先伏其氣,而後不為客氣所侵。修道者,當真體未傷,須行無為之道以養陽。及真體稍虧,須行伏氣之功以防陰。其體不一,其用亦有異,是貴乎神而明之,存乎其人耳。

六爻の中ただ上爻の真体のみ傷を受けず。あれは是れ「無為」剛健を保全するの功夫なり。其の余の各爻は皆是れ陰陽夾雑して・真体已に虧損せり。だから必ず先ず気を伏え住めて、然る後にはじめて客気に侵犯せられざるに至らん。道を修する人、当に真体還た未だ傷を受けざるの時は、応に無為の道を行って陽気を涵養すべし。真体稍々虧損有るに及ぶを待っては、則ち応に気を伏すの功夫を行って陰気を防備すべし。本体の情形相同ならざれば、功を用うの法子も亦た分別有り。貴ぶべきは能く心領神会し・随処に明辨するに在り。これは則ち全て各人自己を看るのみ。

上震下乾(大壮卦第三十四)

大壯:利貞。初九,壯于趾,征凶,有孚。九二,貞吉。九三,小人用壯,君子用罔,貞厲。羝羊觸藩,羸其角。九四,貞吉,悔亡。藩決不羸,壯于大輿之輹。六五,喪羊于易,無悔。上六,羝羊觸藩,不能退,不能遂,無攸利,艱則吉。

《大壮》卦。正固を守持するに利し。初九。壮盛の力ただ脚趾の上に使わる、此の如くして出征すれば凶険、此の一点は是れ確信し得べし。九二。正を守れば則ち吉祥。九三。小人は一味に強を逞ばし壮を用い、君子は却ってそれを用い去らざるを知る。即かり正を守るも仍ほ危厲有り。公羊角を用いて篱笆に頂き、反って角を卡えて傷つけり。九四。正を守れば則ち吉祥、悔恨消失す。篱笆冲開せられて、角も亦た復た卡えられず、力量大車の車軸の上に壮なり。六五。平坦の地に於いて羊を丢き、悔恨無し。上六。公羊篱笆に頂き、退いて回る能わず、亦た冲り過ぐる能わず、何の好処も無し。肯んじて艱難の処に於いて工夫を下れば則ち吉祥。

大壯者,陽氣強壯之義。卦德上震動、下乾健,健於內而果於行,健行不息,故為大壯。此進陽壯氣之卦,承上恆卦而來。恆者,久於其道之功。久於其道,則身體力行,心堅志遠,一念不回,深造自得,是非大壯之人不能也。

「大壮」は是れ陽気強盛壮健の意。卦徳に就きて言えば、上卦震は動・下卦乾は健。内裡剛健にして、外行果決し、健行息まず。だから「大壮」と呼ばれる。これは一個の「陽を進め気を壮にす」(陽気を増進し・真気を壮大す)の卦で、上一卦《恒》を承接して来る。《恒》の講ずるは長久に道の上に守るの功夫なり。能く長久に道の上に守れば、則ち身体を以て力を行い、心志堅定・眼光長遠にして、一個の念頭再び退転せず、深造して自ら所得有る――これは大壮の人に非ざれば做り到る能わず。

益大壯之人,自命不凡,俯視一切,放得下,提得起。有大壯之志,即能行大壯之事,作人之所不能作,為人之所不能為,超凡入聖,為天下希有之事,如雷之一動,自地昇天,驚愚駭俗,震動一切矣。

大凡大壮と称し得る人は、自ら命じて凡ならずと為し、世間の一切を俯視し、応に放下すべきは放下し得・応に担当すべきは提げ起し得。大壮の志向有れば、則ち能く大壮の事業を做し出す。別人の做り來る能わざるの事を做し・別人の為し得ざるの挙動を為し、凡俗を超越して聖境に入り、天下少有の功業を成就す。これは則ち好比一声の春雷発動して、地底より一直に上天に貫き、愚夫を驚動し・流俗を駭倒し、一切を把って震撼して起さしむるが如し。

但大壯之道,尤貴壯之得正,若不得正,則壯之不大,其行不利。彼世間旁門外道之徒,著空執相,認假為真,水火不避,患難不懼,有至死不變者,何嘗不是壯?其如壯之不正,不但壯不能大,而且因壯傷生,何貴於壯?特以大壯之道,惟利於貞耳。

但し大壮此の条の路は、尤も壮其の正を得るを貴ぶ。もし其の正を得ざれば、壮は則ち大きく起こる能わず、行事も亦た順利ならざらん。世上あの些かの傍門外道の徒は、或いは空に執着し、或いは相に執着し、偽を認めて真を作し、水火倶に躲けず、患難も亦た怕れず、甚だしきは死に到るも亦た改めざる有り。彼ら何嘗か「壮」と算せざらんや。無奈壮正を得ず、但だ壮能く大ならざるのみならず、反って壮を逞ぶるに因って性命を傷つけたり。此の如き壮は又た何処に貴しと在らん。だから大壮の道は、只だ一個の「貞」の字に利する在り。

貞者,正也,理也。以理而壯,則內有主宰而志正,外無妄動而行正。志正則剛強不屈,萬物難移而內壯;行正則果決有斷,諸事能成而外壯。志以固其行,行以全其志,內外兼修,不壯者能壯,已壯者能大。已正而壯,其利寧有限量乎。

「貞」とは則ち是れ正、亦たすなわち理なり。理に依りて壮にすれば、裏面主宰有りて、志向は則ち正し。外面妄動せざれば、行事は則ち正し。志正しければ、則ち剛強不屈にして、万物それを移し動かす能わず。これは内壮なり。行い正しければ、則ち果決にして断有り、诸事倶に做り成すを得。これは外壮なり。志向を用いて行為を堅固にし、行為を用いて志向を成全し、内外一斉に修めれば、本来壮ならざるも能く壮に変じ、已に壮なるも還た能く大に変ず。既に其の正を得て又た能く壮なれば、あの好処豈に限量有らんや。

初九,在大壯之始,正當虛己求人,究明性命之理而後用。壯者,乃以剛自居,冒然進步,妄想高登,速欲成功,是壯於其趾矣。壯趾之壯,其進銳者,其退速,遠行必凶,可於理信之。此不謹於始之壯也。

初九大壮の開頭に処り、正に応に自己を虚し下げて去りて人に請教し、性命の道理を研究して明白にして而る後に手を動かすべし。壮を逞ぶの人は偏偏として剛を以て自ら居り、冒冒失失として前に往きて趕し、妄想して一歩に天に登らんとし、急ぎて成功せんと要す。これがすなわち「趾に壮んび」なり。脚趾の上に在るの壮は、進むること越えて猛ければ退くること越えて快し。遠く走れば必定して凶を招く。此の一点は道理に按じて則ち確信し得べし。これは一開頭に就きて則ち謹慎ならざるの壮なり。

九二,剛以治內,柔以應外,外不足而內有餘,不壯而壯,壯之有得於中,中而未有不正,正而未有不吉者。此嚴以治己之壯也。九三,躁進無忌,不壯於內而壯於外,小人以是而貪圖名利可也。至於修道君子,所當萬有皆空,而亦用壯於外,其壯罔用,不特壯不得正,即得其正,未取於彼,先傷於我,亦是危厲之道。如羝羊觸藩,必羸敗其角。此剛而務外之壯也。

九二剛を用いて内心を治理し、柔を用いて外物に応付す。外面不足を顕すも内裡綽綽として余有り。看れば壮ならざるに似たるも其の実是れ壮なり。壮にして中道に於いて所得有るを得たり。中に合すれば則ち正ならざる無く、正しければ則ち吉ならざる無し。これは厳格に自己を約束するの壮なり。九三躁進して顧忌する所無く、壮ならざるは裏面に於いて壮なるは外面に於り。小人此の個を拿って名利を貪図するは倒れて也た罷なり。道を修するの君子に至っては、本来応に万有皆な空なるを看るべきに、亦た壮を把って外頭に用い去れば、此の個の壮は則ち用い起すに従う無し。但だ壮正を得ざるのみならず、縦い正を得るも、還た未だ対方あの処より何を取るに到らざるに、先ず已に自己を傷つけたり。同じく是れ危厲の道、猶公羊の去りて篱笆に頂くが如く、必定して自己の角を頂き壞さん。これは剛強にして一味に外に向かって力を用うるの壮なり。

九四,剛而能柔,陰陽混合,金丹已結,所當正己之後、正人之時,是以貞吉而又悔亡也。貞吉者,正己之吉。悔亡者,正人之悔亡。又近六五虛心下賢之知音,不但不敗其己之壯,而且能大人之壯,如藩決不羸,壯于大輿之輹。此正己正人之壯也。

九四剛にして能く柔、陰陽渾然として混合し、「金丹」已に凝結し、正に自己已に正しく・応に去りて人を正すべきの時候に当たる。だから既に「貞吉」にして又た「悔亡」なり。「貞吉」は、是れ己を正すの所得の吉。「悔亡」は、是れ人を正すの消す所の悔。それは又た六五此の位の虚心して賢に下る知音に挨近し、但だ自己の壮を敗壞せざるのみならず、而且能く他人の壮を成全す。正に爻辞のいう篱笆冲開して角の卡えられざる・力量大車の車軸の上に壮なるが如し。これは既に己を正しく又た人を正すの壮なり。

六五,居於動體,柔而無剛,時在可壯,人不能壯,如喪羊於平易之地矣。然雖人不能壯,幸其柔順虛心,借他人之知識,以開自己之茅塞。虛心即能實腹,不壯者能壯,既壯者能大,可無喪羊之悔矣。此己不壯而借人之壯也。

六五震動の体に居り、陰柔にして剛無し。時勢正に壮を逞ぶべきに当たるも、自己偏偏として壮き起る能わず。好比平坦の地に於いて羊を把って丢き了るが如し。不過雖も自己壮き起る能わざるも、幸いなるにそれは柔順虚心にして、肯んじて別人の見識を借りて来て自己の茅塞を打開す。能く「虚心」(己見を存せず)すれば則ち能く「実腹」(真気内に充実す)し、本来壮ならざるも能く壮に変じ、已に壮なるも還た能く大に変ず。あの羊を丢きたるの悔恨も亦た則ち無し。これは自己壮ならずして別人の壮を借るの一類なり。

上六,愚而自用,妄猜私議,入於旁門,到得年滿月盡,生平所學,俱歸無用,如羝羊觸藩,不能退、不能遂矣。居動之極,禍已釀成,如何能退?在事之終,後悔不及,如何能遂?退之不能,遂之不得,空空一世,有何利乎?然則柔而無能者,與其自己用壯而受害,不若及早虛心求師,困而學之,勉強而行之,從艱難處下一番死功夫,不患不到大壯之地。此本不壯,而歸正即壯也。

上六愚昧にして剛愎自用し、胡乱に猜测し・私下に議論し、傍門に落ち込み、寿数満尽するに及ぶを待って、一生の学ぶ所全て無用に帰す。正像公羊篱笆に頂きて、退いて回る能わず亦た冲り過ぐる能わざるが如し。それは震動の極点に居り、禍事已に釀成せられ、怎様にして退いて回るを得ん。又た事情の末尾に処り、後悔するも亦た来るに及ばず、怎様にして冲り過ぐるを得ん。退くも退くる能わず・進むも進むる成らず、空しく一世を過し、尚何の好処か有らん。既に此の如くなれば、柔弱無能の人は、其れ自己壮を逞ぶして害を受くるより、早く及びて虚心して去りて明師を訪求するに如かず。縦い是れ困りて而る後に学び・勉強して行うと雖も、ただ肯んじて艱難の処に於いて一番の死功夫を下さば、愁えずして大壮の地步に到らざらん。これは本来壮ならず、一たび正に帰すれば則ち壮なり。

六爻皆有壯道,吉凶不一,求其壯於內,而能正己者,其惟九二。壯於外而能正人者,其惟九四乎。然則修道者,當未了道,必先正己,既已了道,又須正人。正己者,修道也;正人者,立德也。修道立德,方是壯之正、壯之大。大壯之利貞,必以道全德備為極功也。

六爻各々各々其の壮道有り、吉凶一ならず。要して壮在りて裏面にして能く自己を端正するを找れば、唯だ九二有るのみ。壮在りて外面にして能く他人を端正するは、唯だ九四有るのみ。こく如く視れば、道を修する人は還た未だ道を了ぜざる以前に、必ず先ず己を正せんを須す。已に道を了する以後に、又た必ず去りて人を正せんを須す。己を正すは、是れ道を修するなり。人を正すは、是れ徳を立つるなり。道を修すること徳を立つるを加えて、はじめて壮其の正を得・壮其の大を得と算すを得。《大壮》のいう所の「貞に利す」は、一定して道全く徳備わるを以て最後の極功と為さんを須す。

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