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上艮下艮(艮卦第五十二)

清 · 刘一明 · 第16巻 / 19

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

艮:艮其背,不獲其身;行其庭,不見其人。無咎。初六,艮其趾,無咎,利永貞。六二,艮其腓,不拯其隨,其心不快。九三,艮其限,列其夤,厲薰心。六四,艮其身,無咎。六五,艮其輔,言有序,悔亡。上九,敦艮,吉。

《艮》卦:背を止めれば、自己の身を意識せず、庭を行きても人を見ず。咎なし。初六、足の指に止まる。咎なく、永く貞を利る。六二、ふくらはぎに止まる。その随うものを救い得ず、その心快からず。九三、その腰に止まり、その夾脊の肉を裂き、危厲心を薫灼す。六四、その身に止まる。咎なし。六五、その輔(頬)に止まり、言に序ありて悔亡ぶ。上九、敦艮(篤く止まる)、吉。

艮者,止也。取象為山,卦體一陽止於二陰之上,陽尊陰卑,陽統陰而陰順陽,陽不為陰所傷,內止外止,止於內而又止於外,一止而內外貫之,故謂艮。此靜以養氣,擇善固執之卦,承上鼎卦而來。鼎者,巽進而生明,明出於巽,明而無處不通,無處有傷,烹煉大丹之功。然欲烹煉大丹,非擇善固執,止於其所者不能。止於其所,非空空無為,其道有行有止,行之止之,皆止於其所也。

艮とは止の義で、象は山に取る。卦体は一陽が二陰の上に止まり、陽は尊く陰は卑し、陽が陰を統べて陰が陽に順い、陽は陰に傷られない。内卦も止まり外卦も止まる。内に止まりまた外に止まり、一つの止が内外に通ずる。故に艮と曰う。これは静をもって気を養い、善処を択んで固守して移らぬ卦で、前の鼎卦を承けて来た。鼎卦は柔顺に漸進して明覚を生ずることを説く。明覚は巽順より来り、明が至れば処々に通達し処々に傷なく、これは大丹を烹煉する工夫である。しかし大丹を烹煉せんとするには、善処を択んで固く守り、止まるべき所に止まらなければ叶わない。いわゆる止まるべき所に止まるとは、空蕩として何もしないことではない。この道には行もあれば止もあり、行であれ止であれ、皆止まるべき所に止まるのである。

卦德內止者,止而止於其所也。外止者,行而止於其所也。止以養所止,行以驗所止,以此止而通彼止,以彼止而達此止,行止皆歸於一止。止而又止,如以此止背彼止,故謂艮其背。以止背止,是由止而行,行以驗止,行止相連,止而不入於空寂,行而不涉於放蕩,行即是止,止即是行,止固止,行亦止,內外一止,止於其所而不遷,是以不獲其身,行其庭,不見其人也。

卦徳に就いて言えば、内卦の止は、静にして止まるべき所に止まることであり、外卦の止は、行してなお止まるべき所に止まることである。静をもって止まる所を養い、行をもって止まる所を験す。こちらの止より彼方の止に通じ、彼方の止よりこちらの止に達し、行と止はついに同一の止に帰す。止に止まること、あたかもこの一つの止をもって彼の止に背くがごとき、故に卦辞に艮其背(その背に艮め)と曰う。止をもって止に背くとは、静より転じて行となし、また行をもって静を印すことである。行と止とは相連なりて断えず、止まりて枯寂断滅に堕ちず、行して放縦散漫に流れず。行はすなわち止、止はすなわち行、静は固より止なり、行もまたなお止なり。内外ただ一つの止のみ、止まるべき所に止まりて移らず。故に自己の身を覚えず、庭を行きても人を見ざると曰うのである。

不獲其身者,無我也。行庭不見人者,無人也。凡人有人我之分,內外之別者,由於有心,有心則有我,有我則有人,有我有人,不知其所止矣。能艮其背,則人我之心俱化,無人我之心,則人心去而道心生,只有一理,以理行止。

自己の身を獲ざるは、我相なきなり。庭を行きて人を見ざるは、人相なきなり。およそ人の人我を分ち内外を別つのは、私心あるに由る。私心あれば我あり、我あれば人あり。我と人と立てば、自ら止まるべき所を知らざるに至る。艮其背の能くする所となれば、人我の分別心は一斉に化し去り、人我の心なければ「人心」の私意は退きて「道心」生じ、胸中にはただ一つの天理のみ残り、一切の行止は皆この理に聴くのである。

靜則守正,以理而止,不由身而止,止其所,內不知有身也。動則行正,以理而行,不順人而行,止其所,外不知有人也。無我無人,既能止內,又能止外,動靜隨時,內外合道,行之止之,皆出無心,一理而已。更何有咎之不無乎?學者能於艮其背上用功夫,止於其所,不動不搖,則得其一而萬事畢,何患金丹不結、大道不成乎?

静なる時は正を守り、理に依りて止まり、身の欲求に由りて止まらず、止まるべき所に止まる。故に内に身あるを知らず。動く時は正を行い、理に依りて行い、人の意に順いて行わず、止まるべき所に止まる。故に外に人あるを知らず。我なく人なく、能く内に止まり能く外に止まり、動静は時に随いて変じ、内外皆道に合す。行であれ止であれ、皆無心より出て、ただ一理のみ。尚ほ何の咎か免れざることがあらん。道を学ぶ者、若し艮其背の三字に工夫を下し、止まるべき所に止まりて動揺せざれば、すなわちあの「一」を捉えて万事俱に了ん。何ぞ愁えん「金丹」が凝結せず、大道が修まらざるを。

初六,自卑自下,不敢妄動,如艮其趾也。止之於趾,非禮不履,初念已真,止而即能無咎。然柔者多無主宰,恐有止而不固之嫌,惟利於永貞,久於其道,方能始終而無一咎矣。此恆久守正之止也。

初六の爻は、自ら卑下に居りて妄りに動かざるを敢てせず、爻辞のいう趾に艮むがごとし。趾に止まるとは、礼に合わざる所に一歩も踏み入れぬこと。初めの一念既に真にして、止まれば即ち咎なし。ただ柔なる者は多く主宰なく、止まりて固まらざるの嫌いあるを恐る。惟だ永貞を利るのみ、この道に久しく功を用いてこそ、始より終に至るまで一点の咎もなからん。この爻に配するは恒久に正を守る止なり。

六二,柔而無剛,止之不固,稍進於上,如艮其腓也。腓不自行,隨足而行,止之於腓,由於無則明者以拯援,是以其心不快,不得不止耳。此柔而勉強之止也。九三,剛而不柔,躁動無忌,如腰夤也。知進而不知退,必敗其剛,有限而止,如列其夤也。列夤之止,其厲在於熏心好勝,急欲成功耳。此剛而勉強之止也。

六二の爻は陰柔にして剛健を欠き、止まること固からず、初六より稍々上に進みて、爻辞のいう腓に艮むがごとし。腓は自ら行く能わず、足に随いて行くのみ。腓に止まる所以は、剛明なる者の拯援なきに由り、是をもってその心快からず、已むを得ずして止まるのみ。この爻に配するは柔弱にして勉強の止なり。九三の爻は剛健にして柔顺を知らず、躁動して忌憚なく、その位正しく腰脊の処に当たる。進むを知りて退くを知らざれば、必ず自らの剛気を敗し、限られて後に止まる。爻辞のいう夾脊の肉を裂くがごとし。この裂けて後に止まる止の危うきは、争強好勝の心が内に薫灼し、急いで成功せんと欲するに在り。この爻に配するは剛強にして勉強の止なり。

六四,柔而守正,雖動而不易其方,如艮其身也。能止於身,躬自厚而薄責於人,則遠怨矣,是以無咎。此柔而治己之止也。六五,柔而得中,止於內,而又止於外,如艮其輔也。輔口開即動,止之於輔,口不妄開,必言不妄發。即或有言,是有序之言,或言而益於世道人心,或言而關乎身心性命,自不能行、引人於善,亦積功立德之事,本有悔而悔可亡。此柔而益人之止也。

六四の爻は陰柔にして正を守り、動くといえどもその方を易えず、爻辞のいう其身に艮むがごとし。能く身に止まれば、躬自ら厚くして人に責ること薄く、怨に遠ざかり、是をもって咎なし。この爻に配するは柔顺にして内に己を治むるの止なり。六五の爻は陰柔にして中に居り、内に止まりまた外に止まる。爻辞のいう其輔に艮むがごとし。口輔は一張すれば動く。輔に止まるとは、口を妄りに開かず、言を妄りにせぬこと。たとい口を開くとも、条理ある言のみ。或いは出でて世道人の心に益あり、或いは出でて身心性命に関わる。己未だ能くせざるといえども、能く人を導きて善に向かわしむ。これも功を積み徳を立つるの事にして、本有すべき悔はここに亡ぶ。この爻に配するは柔顺にして能く人を益する止なり。

上九,在重艮之上,既能內止,又能外止,內外一止,是謂敦艮。止而至敦,剛柔悉化,性定情忘,止於至善之地而不遷,無生無滅,如崇高大山,與天地同長久。此全始全終之止也。然則,止於其所之道,必須有為無為,行止如一,陰陽混化,止於至善無惡之地,方為極功。若不到至善無惡之地,未云全吉。修道者,可不知其所止之地乎?

上九の爻は重ねたる艮の上に在り、能く内に止まり能く外に止まる。内外一つの止、これを敦艮と謂う。止まりて敦厚篤実の地に至れば、剛柔悉く化し尽くし、性は定まり情は忘れ、至善の地に止まりて遷らず、生なく滅なく、高峻の大山のごとく天地と倶に長久なり。この爻に配するは始あり終あり、首尾完具の止なり。これより観れば、止まるべき所に止まるの理は、必ず有為の工夫と無為の工夫、行と止とが一片に合し、陰陽渾化して至善にして悪なきの位に止まってこそ、究竟の成就と謂うべし。至善無悪の位に至らざれば、未だ全吉とは言うべからず。道を修むる者、何ぞ先ず自らの止まるべき所を究明せざらんや。

上巽下艮(漸卦第五十三)

漸:女歸吉,利貞。初六,鴻漸于干,小子厲,有言,無咎。六二,鴻漸于磐,飲食衎衎,吉。九三,鴻漸于陸,夫征不復,婦孕不育,凶。利禦寇。六四,鴻漸于木,或得其桷,無咎。九五,鴻漸于陵,婦三歲不孕,終莫之勝,吉。上九,鴻漸于陸,其羽可用為儀,吉。

《漸》卦:女帰りて吉、貞を利る。初六、鴻漸く干に至る。小子厲しく、言ありて咎なし。六二、鴻漸く磐に至る。飲食衎衎たり、吉。九三、鴻漸く陸に至る。夫征して復らず、婦孕みて育たず、凶。寇を禦ぐに利し。六四、鴻漸く木に至る。或いはその桷を得ん、咎なし。九五、鴻漸く陵に至る。婦三歳孕まず、終に勝つものなし、吉。上九、鴻漸く陸に至る。その羽は儀の為に用うべし、吉。

漸者,徐緩不速之義。卦德上巽入、下艮止,止於其所而徐入,故謂漸。此循序漸修之卦,承上震卦而來。震者,動而修省,不妄動也。不妄動,則戒慎恐懼,剛氣在內,心堅志遠,可以脩金丹有為之道矣。有為之道,乃後天中返先天之道。返先天,所以使無者而復有,去者而仍還也。無者使有,去者仍還,非一朝一夕之功,其中火候細微,工程攸遠,必須循序漸進,方能深造自得。

漸とは徐緩にして速ならざるの義。卦徳に就いて言えば、上卦の巽は入、下卦の艮は止。止まるべき所に止まりて徐々に入る。故に漸と曰う。これは按部就班、循序に修持する卦にして、前の震卦を承けて来た。震卦は動の中に身を修め省察し、妄動せざるを説く。妄動せざれば、能く戒慎恐懼し、剛健の気は内に存し、心志堅定にして見ること遠く、これをもって「金丹」の有為の工夫に着手すべし。いわゆる有為の道とは、後天の中に先天に返る路なり。先天に返るとは、既に無きを復た有らしめ、既に去りたるを復た還らしむること。無きを復た有らしめ去りたるを仍ほ還すは、決して一朝一夕の工夫にあらず。其の中に火候微細にして工程漫長、必ず循序漸進してこそ、日益に深入して自ら得る所あらん。

卦之剛止於內,柔巽於外,以剛用柔,借柔養剛,實以虛用,虛以實行,剛柔相當,虛實兼該,如二五陰陽相應,真陰真陽,自然匹配,非若假陰假陽;強求之合。是道也,如女歸之道也。凡女歸男,男先求女,用媒妁以通信,兩家無嫌,然後女歸男家,男貪女愛,生子生孫,夫妻偕老,此女歸之吉,即男子之吉。

この卦は剛爻は内卦に止まり、柔爻は外卦に巽順す。剛を用うるに柔の方式をもって出し、柔を借りて剛を養う。実は虚をもって用い、虚は実をもって行い、剛柔分量相当にして虚実両面兼ね備えたり。六二と九五の陰陽相応ずるがごとく、「真陰」と「真陽」とは自然に配合し、後天の假陰假陽のごとく強求硬湊を要せざるなり。この理は、女の嫁ぐの理に同じ。およそ女が男に嫁ぐは、必ず男方先に来りて女方を求め、媒人を托して往来通信し、両家嫌隙なくして後に女は男家に嫁ぐ。男は貪り女は愛し、児を生み孫を育て、夫妻白頭偕老す。これ女帰りの吉にして、即ち男の吉なり。

若男不求女,女先求男,不用媒妁,私通苟合,急欲速成,不但女不吉,即男亦不吉,男女俱皆不吉,不過遂一時之樂,久必敗事。故修道者,用漸修之功,不求速成,剛以柔用,如以男求女也。不急不緩,循序而進,愈久愈力,如用媒妁以禮通信也。功夫到日,由勉強而歸自然,陰陽相合,剛柔混成,一粒靈丹,自虛無中凝結成象,如女歸男,男女匹配,而自生育,是以漸修之道,如女歸則吉也。

假令男方来りて求めず、女方却って先に男方を求め、媒妁を経ず、私に苟合し、急いで速成せんと欲すれば、唯だ女方不吉のみならず、男方も不吉、男女俱に皆不吉なり。ただ一時の楽を遂ぐるのみ、日久しくすれば必ず事を敗る。故に道を修むる者は漸修の工夫を用いて速成を求めず。陽剛を柔顺の方式をもって出すは、男方の女方を求むるに如く、急がず緩まず、次序に随いて推進し、久しければ愈々力あり、媒人を托して礼に依りて往来通信するに如し。工夫日に至れば、勉強に為すより転じて自然而然となり、陰陽相合し剛柔渾然として一片となり、一粒の霊丹虚無の中より凝結して形を成す。譬えば女の男家に嫁ぎ、男女配偶して自然に生育するがごとし。故に漸修の路は、女の嫁ぐがごときにして吉を得るなり。

但漸道雖吉,尤利於漸之得正,若不得正,亦不得吉。彼世之爐火閨丹,著空執相之徒,有終身行之不休不歇者,何嘗不云漸。但漸之不得其正,空空一世,到老無成,其吉安在?故必以正而漸,窮理盡性,以至於命,自有為而入無為,由勉強而抵自然,未有大道不成者也。

ただ漸修は吉なりといえども、尤も要なるは漸にその正を得ること。若し正を得ざれば、また吉を得ず。世の炉火を焼きて外薬を煉り、閨房採戦を為すの徒、及び一味に空無に執着し形相を死抱する者、その中に終身行いて休まず歇まざる者乏しからず。何れも自ら循序漸進と云わざるはなし。ただ漸めて正を得ず、空しく一世を忙にし、老いるに及んで一成する所なく、吉は何の処にか在らん。故に必ず正道に依りて漸修すべし。事理を窮究し本性を尽く顕し、一直に為して天命に達するまで、有為の工夫より無為の境地に入り、勉強より自然而然に至る。此のごとくすれば大道の修まらざるなし。

初六,在漸之至下,如鴻漸于干也。乾為水涯下流之地,漸之於乾,失其高飛之序。始不謹而終必凶,及至年滿月盡,反怨丹經之謬,是小子危厲而有言矣。有言之厲,自取之耳,與人無咎。此柔而不正之漸也。

初六の爻は漸卦の至下に処り、爻辞のいう鴻漸く干に至るがごとし。干は水涯下流の低窪の地なり。鴻の漸むこと干に至るのみにして、低より高く飛ぶの次第を失う。始め謹まざれば終り必ず凶。年月満ち尽くるに及びて得る所なきに至り、反って丹経の謬を怨む。これ爻辞のいう小子厲しく言あるなり。この言と危厲とは自ら招きたるにして、他人に怪すべからず。この爻に配するは柔弱にして路子正しからざるの漸なり。

六二,止而得中,如鴻漸于磐矣。磐為平穩之石,磐亦非鴻止之處,漸之於磐,煉己待時,虛心即能實腹,是以飲食衎衎,樂在其中,其吉可知。此柔而得中之漸也。

六二の爻は能く止まりてまた下卦の中に居り、爻辞のいう鴻漸く磐に至るがごとし。磐は平穏の大石なり。大石も元来鴻の最終の帰宿にあらず。漸めて磐石の一歩に至るは、正に用いて己を煉り時を待つべし。心中先ず私意を騰空すれば、丹田自然に充実す。故に爻辞に飲食衎衎と曰い、楽しみ其の中に在り、吉は言を俟たず。この爻に配するは柔顺にして中を守るの漸なり。

九三,剛而不中,漸之太高,如鴻漸于陸矣。陸為平頂之大山,漸之於陸,失其自卑登高之序,急欲成功,陰陽不和,涉假傷真,如夫征不復,貪戀外妻,婦孕不育,私通姦夫,適以取凶而已。凶之者,以其剛道貴於止所而禦寇,不貴於自用而為寇。此剛而失守之漸也。

九三の爻は剛健にして中ならず、一もって漸むこと高きに過ぎ、爻辞のいう鴻漸く陸に至るがごとし。陸は平頂の大山なり。漸めて陸に至れば、低処より一歩一歩高く登るの次第を失い、急いで成功せんと欲して陰陽配合せず、假に渉りて真を傷る。譬えば夫の征して復らず外の女を貪戀し、婦孕みて育たず私に奸夫あるがごとき、結果はただ自ら凶を取るのみ。凶なる所以は、陽剛の道は本位に止まりて盗寇を禦ぐを貴び、自らその能を逞しゅうして却って盗寇と為るを貴ばざるなり。この爻に配するは剛強にして本位を失守するの漸なり。

六四,以柔居柔,如鴻漸于木,或得其桷矣。桷為屋角之平,木亦非鴻止之處,漸之於桷,或可暫時休歇,虛極靜篤,以待陽復,自無當面錯過之咎矣。此柔而守正之漸也。

六四の爻は陰柔をもって陰位に居り、爻辞のいう鴻漸く木に至り或いはその桷を得んがごとし。桷は屋角の平直の椽木なり。樹木も元来鴻の久棲の処にあらず。漸めてこの一根の椽枝に至るは、ただ暫時休歇すべきのみ。この時心を虚にして極処に致り、静にして篤実を守り、専ら一陽の来復を待てば、自然に当面錯過の過を犯さず。この爻に配するは柔顺にして正を守るの漸なり。

九五,陽剛中正,如鴻漸于陵矣。陵為山之高而得中者,剛漸於中,燥氣俱化,真陰真陽,性情和合,不復為假陰假陽所隔,如婦三歲不孕,終莫之勝也。真復假化,真陰真陽,兩弦之氣,結而為丹,不孕者亦孕,所謂“一粒金丹吞入腹,始知我命不由天”,其吉為何如乎?此剛柔混合之漸也。

九五の爻は陽剛にして中正、爻辞のいう鴻漸く陵に至るがごとし。陵は山中の高くして中を得たる所なり。陽剛漸めて中正の位に至れば、燥急の気は全部化し去り、「真陰」と「真陽」の性と情と彼此和合し、復た後天の假陰假陽に隔断せられず。爻辞のいう婦三歳孕まず、終に勝つものなきがごとし。真一たび回復すれば假は自ら化し去る。真陰真陽は上弦・下弦の両半月の気のごとく、一輪の円月に合して凝結して丹を成す。元来孕まざるもまた孕み、正に丹家のいう一粒の金丹腹中に呑み入りて、始めて我が命の天に由らざるを知るなり。このごときの吉はまた如何に形容すべき。この爻に配するは剛柔混合して一となるの漸なり。

上九,在漸之終,剛柔悉化,自卑登高,漸無可漸,聖胎完成,如鴻漸于陸,棲於平穩之處矣。漸於平穩,正當休歇罷功,修德修行,接引方來之時,是以其羽可用為儀吉。此全始全終之漸也。六爻俱有漸道,惟初之太弱,三之太剛,非漸之吉道,其餘四爻,皆循序漸進之功,或柔或剛,各隨時而行,漸進之全體,大用畢露矣。

上九の爻は漸卦の末に処り、剛柔全部化し尽くし、低処より一路高処に登り、復た漸進すべきの余地なし。聖胎既に養い成り、鴻の漸く高処に飛びて平穏の所在に棲むがごとし。漸めて平穏に至るは、正に火を歇め功を収め、徳を修め行を修め、後学を接引すべきの時なり。故に爻辞にその羽は儀の為に用うべしと曰いて吉を得る。この爻に配するは始あり終あり、首尾完具の漸なり。六爻各々一種の漸法あり。ただ初六は太弱、九三は太剛にして、漸の吉道と称すべからず。其の余の四爻は皆循序漸進の工夫にして、或いは柔或いは剛、各々時機に随いて行う。漸進の道の全体と大用とは、此に至りて悉く顕露せり。

上震下兌(帰妹卦第五十四)

歸妹:征凶,無攸利。初九,歸妹以娣,跛能履,征吉。九二,眇能視,利幽人之貞。六三,歸妹以須,反歸以娣。九四,歸妹愆期,遲歸有時。六五,帝乙歸妹,其君之袂,不如其娣之袂良。月幾望,吉。上六,女承筐無實,士刲羊無血,無攸利。

《帰妹》卦:征くれば凶、利ありとする所なし。初九、妹を帰すに娣を以てす。跛にして能く履む、往けば吉。九二、眇にして能く視る。幽人の貞に利し。六三、妹を帰すに須(まつ)を以てし、反って娣を以て帰す。九四、妹を帰すに期を愆(あやま)る。遅き帰に時あり。六五、帝乙妹を帰す。其の君の袂は其の娣の袂の良に如かず。月幾望なり、吉。上六、女は筐を承けて實なく、士は羊を刲きて血なし。利ありとする所なし。

歸妹者,交合不正之義。卦德上震動、下兌悅,內悅而外動,以動而遂說,順悅之動,如以女求男,陰先陽後,交合不正,故謂歸妹。此假中求真之卦,承上艮卦而來。艮者,止於其所,去其不正之悅,非禮之動耳。

帰妹とは、男女交合して正道に合せざるの義。卦徳に就いて言えば、上卦の震は動、下卦の兌は悦。内に喜びて外に妄動し、動によりて其の喜びに順随す。この喜びに順いて起る動は、譬えば女方の自ら男方を求むるがごとく、陰前にして陽後にあり、交合の次序正しからず。故に帰妹と曰う。これは假の中に真を求むる卦にして、前の艮卦を承けて来た。艮卦は止まるべき所に止まり、不正の喜びと礼に合わざる挙動とを去るを説く。

人當先天未破,後天未交之時,陰陽合一,陽統陰而陰順陽,一氣流行,生機不息,渾然天理,不待人力而自交者也。及其後天用事,先天真陽走失於外,識神借靈生妄,陰差陽錯,五行相戕,欲動情生,心與物交,由內以悅外,因外以動內,我家之陽,皆為他家所消矣。

人の先天の気未だ破損せず、後天の識神未だ插手せざる時は、陰陽本合一なり。陽は陰を統率し陰は陽に順從し、一気周流して生機断えず、浑然としてただ一段の天理のみ。人力をもって安排せずして自然に交合す。後天の当家作主に及びて、先天の「真陽」は外に走失し、識神は其の一点の霊光を借りて種種の妄念を生じ、陰差陽錯して五行彼此戕害す。欲望一たび動けば情識生じ、心は外物と交打交道し、内の喜びをもって外境を追逐し、また外境に牽動して内を動かし、自家の陽気は全て他家に消耗せらるるに至る。

我家者,東家,屬震。他家者,西家,屬兌。東家為主,性也。西家為客,情也。以兌求震,是以情亂性,客氣賊害主氣矣。且兌為金,主刑殺。震為木,主生德。以刑殺而克生德,陽氣日消,陰氣日長,消而又消,長而又長,陰純陽盡,雖欲不死而不能。是以歸妹征凶,無攸利也。

いわゆる我家とは東家にして卦に震に属し、いわゆる他家とは西家にして卦に兌に属す。東家は主人にして本性を指し、西家は客人にして情識を指す。兌をもって震を求むるは、即ち情識をもって本性を撹乱し、客気反って主気を戕害するなり。況んや兌は五行に金に属して刑殺を主り、震は五行に木に属して生発の徳を主る。刑殺をもって生徳を克伐すれば、陽気は日に日に消減し、陰気は日に日に增長し、消してまた消し、長じてまた長じ、純陰にして陽気尽絶するに至れば、縦い死なんと欲せざるも能わず。故に卦辞に帰妹征けば凶、利ありとする所なしと曰う。

然歸妹以兌求震,雖交合不正,聖人有後天中返先天之道,若以震家而求兌家,不但不為兌金所克,而且能盜兌中攝去之真陽,復還於震,情來歸性,刑化為德,木性愛金順義,金情戀木慈仁,金木交併,性情相合,由不正而仍歸正,還元返本,聖胎凝結,逢凶化吉,無攸利者,而亦無不利矣。試明不正中之正。

ただ帰妹は兌をもって震を求むるなり。交合の次序正しからざるといえども、聖人には後天の中に先天に返るの法あり。若し頭を掉して震家より兌家を求めれば、兌金に克せられざるのみならず、反って兌中に攝り去られたる「真陽」を奪い返し、重新たに震に帰還せしむべし。此の如くなれば、情識帰りて本性に附し、刑殺は生徳に轉化す。木の性は金を愛して義に順い、金の情は木を戀して仁に帰す。金木交併して性と情と合して一となり、不正より仍ほ正に返り、本元に還帰し本根に返る。聖胎凝結して凶に逢うも吉に化し、元来利なしと説きしも、また所往なく利なからざるに至る。以下にこの不正の中の正を説明せん。

初九,剛而居下,如歸妹以娣,娣為從嫁之妻,妹以娣自屈,時不正而德正,非禮不履,又如跛而能履,外物不得點染,以是往而修道,悅所當悅,未有不致其吉者。此時不正而能守正者也。

初九の爻は陽剛にして最下に居り、爻辞のいう妹を帰すに娣を以てすがごとし。娣は随嫁の側室なり。妹肯んじて偏房の身分を以て自ら居り己を屈す。見るべし、その処する時位正しからざるといえども、徳行は正なり。およそ礼に合わざる所は一歩も踏まず、また跛者の仍能く履むがごとく、外物の沾染せられず。このごとき心地を帯びて道を修めば、喜ぶべきにして喜び、吉を得ざるなし。この爻に配するは時位正しからずして自ら能く正を守るの一等の人なり。

九二,剛以柔用,外暗內明,如眇而能視,抱道幽居,守貞不二,以性命為一大事,自有真樂,不戀假樂,無時不貞,無事不利。此能守正而不入不正者也。

九二の爻は陽剛を柔顺の方式をもって出し、外表は暗昧なるがごとく見えて内裏は明白なり。爻辞のいう眇にして能く視るがごとし。大道を懐抱して幽にして独り居り、貞正の心を守りて毫も動揺せず、性命の事を一生の頭等の大事と為し、自然に一份の真楽ありて虚偽の快楽に留戀せず。一刻も正を守らざるなく、一事も順利ならざるなし。この爻に配するは能く正を守りて不正に落るを肯ぜざるの一等の人なり。

六三,柔而不正,務外失內,認假傷真,自取下賤,如歸妹以須矣。若能反而悔悟,以須歸娣,親近賢人,雖不能入於聖賢大道,亦可免其不正之愆。此反不正而就於正者也。

六三の爻は陰柔にして居位正しからず、一味に外に追求して内を失い、假を真と認めて因りて真を傷り、自ら己を低下の地に致す。爻辞のいう妹を帰すに須を以てし、空等に落るがごとし。倘若し能く回頭悔悟し、一歩退きて偏房の身分を以て嫁ぎ、賢徳の人に親近せば、聖賢の大道に進むを得ずといえども、また其の不正の過を免れん。この爻に配するは不正より回頭して正に走るの一等の人なり。

九四,剛居於柔,煉己待時,如歸妹愆期,遲歸有時也。愆期者,一非時不動,去人心也。遲歸者,動必有時,復道心也。去人心,復道心,所謂“致虛極、守靜篤,萬物並作,吾以觀其復”者在是。此由不正而待時復正者也。

九四の爻は陽剛にして陰位に居り、正に己を煉りて時を待つの工夫なり。爻辞のいう妹を帰すに期を愆り、遅き帰に時あるがごとし。いわゆる期を愆るとは、時機至らざれば一動もせず、「人心」を除くが為なり。いわゆる遅く嫁ぐとは、一動すれば必ず時機に合し、「道心」を回復するが為なり。人心を除き道心を回復するは、《老子》のいう虚を致すこと極、静を守ること篤く、万物並び作して吾其の復るを観る、即ちこの一歩を講ず。この爻に配するは不正の処に時機を待ちて重新たに正に帰るの一等の人なり。

六五,柔順虛心,屈尊下賢,由不正而求其正,如帝乙歸妹,其君之袂,不如其娣之袂良,借人濟己,雖愚必明,雖柔必強,亦如月與日交,得以生明,而幾望其光之吉,不可限量。此本不正借人歸正者也。

六五の爻は柔顺にして虚心、肯んじて尊位を放下して賢を求め士に下り、不正の処より正道を求む。爻辞のいう帝乙妹を帰し、其の君の袂は其の娣の袂の良に如かずがごとし。他人の長処を借りて己の不足を補えば、再び愚鈍なるも必ず明白となり、再び柔弱なるも必ず剛強となる。また月亮の太陽と交光して光明を生ずるを得るがごとく、将に円ならんとして未だ円ならざるの時に至れば、其の光輝の吉慶は限量すべからず。この爻に配するは本来不正にして他人の力を借りて正路に帰るの一等の人なり。

上六,昏愚無知,誤入旁門,在後天陰陽中作活計,強求強合,妄冀長生,反而促死。如女承筐無實,士刲羊無血,私通苟合,一旦事敗,性命有傷,其無攸利可知,此終歸不正,不知反正者也。然則,順其後天陰陽者,終落空亡,逆其先天陰陽者,必歸實濟。順為凡,逆為仙,只在中間顛倒顛,逆運之道,豈易知哉。

上六の爻は昏愚無知にして、誤りて傍門左道に入り、ただ後天の陰陽上に生活を討ち、硬求硬湊して長生を妄想し、結果反って命を催す。爻辞のいう女筐を承けて實なく、士羊を刲きて血なきがごとく、私に苟合して一旦事敗露せば、性命も皆損害を受け、利ありとする所なしと曰うは明らかなり。この爻に配するは始終不正に落ちて回頭帰正を知らざるの一等の人なり。これより観れば、後天の陰陽に順う者は終に一場の空を落とし、逆って帰りて先天の陰陽を取る者は必ず実在の成就を得。順行は即ち凡人、逆行は即ち神仙。分別はただ中間のあの一個を顛倒するに在り。この逆行返本の道理、何処にか明白ならん易きや。

上震下離(豐卦第五十五)

豐:亨。王假之,勿憂,宜日中。初九,遇其配主,雖旬無咎,往有尚。六二,豐其蔀,日中見斗,往得疑疾;有孚發若,吉。九三,豐其沛,日中見沬;折其右肱,無咎。九四,豐其蔀,日中見斗,遇其夷主,吉。六五,來章,有慶譽,吉。上六,豐其屋,蔀其家,闚其戶,闃其無人,三歲不覿,凶。

《豐》卦:亨。王假之(王これに至る)、憂うる勿れ。日中に宜し。初九、其の配主に遇う。旬なりといえども咎なし。往けば尚あり。六二、其の蔀を豐にす。日中斗を見る。往けば疑疾を得る。孚ありて発若せば吉。九三、其の沛を豐にす。日中沫を見る。其の右肱を折る。咎なし。九四、其の蔀を豐にす。日中斗を見る。其の夷主に遇う。吉。六五、章を来たし、慶誉あり、吉。上六、其の屋を豐にし、其の家を蔀う。其の戸を窺えば闃として其の人なし。三歳覿えず。凶。

豐者,盛大也。卦德上震動,下離明。明以運動,動本於明。明動相濟,明大而動大,故謂豐。此運火防危之卦,承上漸卦而來。漸者,止而巽行,所以循序漸進,不使火候有差耳。火者,明之象,運火即運明也。明為覺察之德,能覺則有道心而神知,能察則無人心而心明。神知心明,潛修密煉,明於動而動必明,其明日增,其動日大,明動並行,修道最易,此豐之所以有亨道也。

豐とは盛大の義。卦徳に就いて言えば、上卦の震は動、下卦の離は明。明覚を以て行動を運用し、行動はまた明覚に本づく。明と動と互相成就し、明照すればするほど大きく、動もまた大きくなる。故に豐と曰う。これは火を運びてまた危を防ぐの卦にして、前の漸卦を承けて来た。漸卦は止まりて後に柔顺に前行し、意は循序漸進に在りて、火候に差錯を生ぜしめず。火は明の象にして、運火は即ちこの一点の明覚を運用するなり。明は覚察の徳性なり。能く覚れば則ち「道心」在りて神志清知し、能く察すれば則ち「人心」起らずして心地明白なり。神清く心明らかにして、暗に潜修密煉し、動上に明白なれば、動けば必ず明に合し、明は日に增長し動は日に壮大となり、明と動と並行して、道を修むるに最も省力なり。これ豐卦の亨通する所以なり。

然明動之豐雖亨,須要知進知退,能大能小,防危慮險,方能豐者長豐,亨者長亨,如王假之有勿憂之道也。假者,大也。王者,當治道豐盛之時,諸事易於尚大,大而知保,何憂其大,勿憂之道為何道?宜日中之道也。

しかるに明と動と俱に盛なるこの豐は亨通すといえども、また必ず進むべきは則ち進み退くべきは則ち退き、放大する能く収小する能くを知り、処々に危険を提防してこそ、已に盛なるを長久に盛大に保たしめ、已に通ぜるを長久に亨通に保たしむべし。卦辞のいう王これに至りて憂うる勿れの道理のごとし。假は大の義なり。君王治道豊盛の時に当たれば、凡事皆大を求めやすし。大にして保守を知れば、何ぞ必ずしも其の大なるを憂えん。この憂うる勿れの道理とは何の道理ぞ。即ち日中に宜しきがごときの道理なり。

日為離明之象。中者,無偏無倚之謂。進明豐足,火候已到,藥物已成,急宜灶底抽薪,住火停輪,當止即止,明不過用也。明不過用,進退隨時,剛柔相當,不偏不倚,未豐者能以致,已豐者能以保,更何憂其豐而又不豐乎?

日は離卦の光明の象、中は偏倚なきの義。明覚豊足の地に進めば、火候既に家に到り、薬物既に煉成し、即ち急いで竈底より柴薪を抽き、火を停め輪を住め、止まるべきは則ち止まり、この一点の明は再多く用うべからず。明多く用いず、進退時に随いて定まり、剛柔分量相当、偏らず倚らず。未だ豊に至らざるは豊を求むるを得、已に豊に至るは豊を守るを得、何ぞ愁えん豊にしてまた豊ならざるを。

初九,在豐之初,其明不大,正當致豐之時,有應同德之賢,是遇其配主矣。遇配主而彼此資益,以增其明,雖在旬初,可以無咎,其用剛往而有尚,其理可決。此剛而致豐於始也。六二,所應非人,不但不能增明,反蔽其明,如豐其蔀,日中見斗矣。斗見、日中,日光不勝斗光,其明障蔽不通,以是往而運火行符,是非罔辨,其行犯難,必得疑疾矣。幸其真師在望,若知己不明,誠求他家之明,借剛濟柔,奮發精神,勇猛前進,不但無疑,而且致吉。此柔而借剛致豐也。

初九の爻は豐卦の開頭に処り、明未だ大ならず、正に力を努めて豊を求むべきの時なり。また志同じく道合するの賢者其れに応ずるあり。これ爻辞のいう其の配主に遇うなり。配主に遇いて彼此増益すれば、明は便ち日に增長し、旬初の階段に在るといえども、また咎なきを得べし。其の剛健を以て往きて嘉尚を受くるは、断定すべきなり。この爻に配するは剛健にして開頭に着手して豊を求むるの一歩なり。六二の爻は応ずる所の者は合適の人にあらず。其の明を増益する能わざるのみならず、反って其の明を遮蔽す。爻辞のいう其の蔀を豐にし、日中斗を見るがごとし。北斗日中に現るは、日光斗光に壓勝せざるを説明し、明遮られて通ぜず。このごとき状態を帯びて火を運び符を行えば、是非も分辨し難く、行事必ず艱難を犯し、一定に猜疑の病痛を招く。幸いに真師眼前に在り。ただ自ら不明を知り、誠心をもって他家の明を求め、他人の剛を借りて己の柔を補い、精神を奮発して勇猛前進せば、疑惑なきのみならず、能く吉を致す。この爻に配するは柔弱にして他人の剛を借りて豊を求むるの一歩なり。

九三,用明太過,欲豐其明,反昧其明,如日中見沫矣。沫見日中,日光不勝星光,明傷極矣。原其故,只知用剛,不知用柔,只知用明,不知養明。其進銳者,其退速,如拆其右肱,自取其敗,與人無咎。此剛而不能柔之豐也。

九三の爻は明を用うること太だ過ぎ、明を更に盛大にせんと欲して、反って己の明を昏昧ならしむ。爻辞のいう日中にして沫を見るがごとし。小星日中に現るは、日光星光に壓勝せざるを説明し、明已に傷られて極処に至る。緣故を追究すれば、ただ剛を用うるを知りて柔を用うるを知らず、明を用うるを知りて明を養うを知らざるに在り。進むこと猛き者は退くもまた速く、己の右肱を折るがごとく、自ら敗を取るにして他人に怪すべからず。この爻に配するは剛強にして柔する能わざるの豐なり。

九四,剛居動體,有近於陰,不但不能豐明,而且有以豐蔀,如日中見斗矣。然剛而能柔,不用其明,能養其明,是以遇其夷,主吉。夷者,視而不見,隱藏之謂。大凡真正修道之士,被褐懷玉,多隱於卑下之處,人不能識,四能遇之,彼此勸勉,養明而不用明,明自不傷,剛自不敗。此剛而能柔之豐也。

九四の爻は陽剛にして動の卦体に処り、また陰爻に近づく。明を盛大ならしむる能わざるのみならず、反って遮蔽を添う。爻辞のいう日中にして斗を見るがごとし。幸いに其れ剛にして能く柔なり、自らの明を逞しゅうせずして能くこの一点の明を涵養す。故に爻辞に其の夷主に遇いて吉を得ると曰う。夷とは、見えて見えざるがごとく、隠蔵して露さざるの義。およそ真に道を修むる者は、外に粗布を穿ちて内に美玉を懐き、多く卑下の処に隠居して、一般の人の認め出す能わざるなり。九四能くこのごとき人に遇い、彼此勧勉し、ただ明を養いて明を用いず。明自然に損傷を受けず、剛自然に敗壞せず。この爻に配するは剛にして能く柔なるの豐なり。

六五,柔順得中,虛心即能實腹,是以來章有慶譽也。來章者,虛實生白,神明自來也。有慶譽者,始於有作無人見,及至無為眾始知也。五在正豐之時,虛實相應。明動自然,金丹已結,正宜行無為之道,用文火以混養。此柔而無為之豐也。

六五の爻は柔顺にして上卦の中に居り、先ず心を騰空すれば丹田自然に充実す。故に爻辞に章を来たし慶誉ありと曰う。いわゆる来章とは、虚室白を生じ神明自然に到来すること。いわゆる慶誉とは、初め下手有為の時は旁人見る能わず、無為に入るに及んで後に衆人始めて知るなり。六五正に豊盛の時に処り、虚と実と彼此相応じ、明と動と自然合拍し、「金丹」已に凝結し、正に無為の道を行い、ただ文火をもって慢に温養すべし。この爻に配するは柔顺にして無為に入るの豐なり。

上六,柔而無知,不明大道,孤寂守靜,自滿自足,虛裝門面,入於黑暗不明之地,如有屋無人,不明於始,見凶於終,豐之極,凶之極,所謂巍巍佛堂,其中無佛者即是。此柔而頑空之豐也。然則,豐之為道,未豐須當先明後行而致豐;已豐須當住火停輪而保豐。致豐保豐,各隨其時,防危虛險,用明運火,不失之太過,不失之不及,得其中為吉歟。

上六の爻は柔弱にして無知、大道を明白せず、ただ孤零零に枯守静坐し、自満自足して虚に門面を撐え、黒暗不明の地界に落る。爻辞のいう其の屋を豐にし、空しく一人なきがごとし。開頭明白ならざれば結局凶を見る。豐極処に至れば、即ち凶極処に至る。俗話のいう巍々たる一座の佛堂にして裏面に佛なしとは、正にこの種の情形なり。この爻に配するは柔弱にして頑空に落るの豐なり。これより観れば、豐の道理は、未だ豊に至らざるは須く先ず明白にして後に行動して豊を求め、已に豊に至るは須く火を停め輪を住めて豊を保つべし。豊を求むると豊を保つとは、各々其の時機に随い、危険を提防し、明を用いて火を運び、太過にも失せず不及にも失せず、其の中を得れば則ち吉なり。

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