Libo

上坎下巽(井卦第四十八)

清 · 刘一明 · 第15巻 / 19

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

井:改邑不改井,無喪無得,往來井井。汔至,亦未繘井,羸其瓶,凶。初六,井泥不食,舊井無禽。九二,井穀射鮒,甕敝漏。九三,井渫不食,為我心惻;可用汲,王明並受其福。六四,井甃,無咎。九五,井洌,寒泉食。上六,井收勿幕,有孚,元吉。

《井》卦。城邑は可に遷改し、水井は能く遷改する能わず。井水既に减少せず、亦た增多せず。來往の人倶に井の上に到りて水を汲む。水を汲むこと幾乎として井口に到るも、却って還た未だ繩索を把って井外に提出せず。水を汲むの瓶を打破す、凶険。初六。井の裡淤泥満ちて、飲用する能わず。廃棄の旧井は禽鳥を連ねても亦た來らず。九二。井底の水只だ能く小魚に射到るのみ、水を汲むの瓮又た破れ漏れり。九三。井水已に淘洗して乾浄なるも却って人來りて飲用する無し、我の心中惻然たらしむ。此の井水本可に汲取すべし、もし君王賢明なれば、大家便ち能く一同に福を受けん。六四。磚石を用いて井壁を修砌す、過咎無し。九五。井水清澈にして、甘冽の寒泉可に飲用に供す。上六。井水汲み上げ來れり、井口を把って蓋う勿れ。心に誠信を懐けば、大いに吉利。

井者,有本之水,養人不窮,取其養義。卦德上坎險、下巽入,漸進以通險,有險而能出,如木下水而出水,故謂井。此積功修德之卦,承上升卦而來。升者,巽進而順行,所以增益其道德耳。道德增益,已巽進於無險之地,根本堅固,己無險而可以濟人之險,於是積功修德,以己所養,養人之養,誠中達外,有益於彼,無傷於我,如井,改邑不改井,無喪無得,往來井井也。

「井」は是れ源頭有るの水、人を養いて窮尽無く、取るは是れ「養」の意。卦徳に就きて言えば、上卦坎は険・下卦巽は入。漸漸深入して険難を通過し、険に遇えりて能く険を出づ。好像木桶水中に下げて又た水を把って提出するが如し。だから《井》と呼ばる。これは一卦の功を積み徳を修するを講ずる卦で、上一卦《升》を承接して来る。《升》の講ずるは柔順深入して時に依りて運行し、用いて自己の道徳を増益すなり。道徳増益の以後、已に柔順に険難無きの地方に進み到り、根本堅固なり。自己険無ければ、則ち可に去りて別人の険を救い、ここにおいて功を積み徳を修し、自己の養う所を拿って來りて別人を滋養し、中に誠にして外に達し、人に益有りて己に傷無し。正に《井》卦のいう所の城邑可に改むるも水井改めず、喪失する所無く亦た増得する所無く、來往の人倶に井の上に到りて水を汲むが如し。

夫修道者,養己已足,如井有水也。養己之後而養人,如改邑也。以自養者養人,如不改井也。養人必本於自養,養己如是,養人如是,如井無喪無得也。以養己者養人,人己皆得其所養,如往來井井也。若未到成道以後,強欲化人,則謂無本,無本之養,內無主宰,隨人使用,逐風揚塵,未益於人,先失其己,亦如井中取水,汔至於井,繘猶未至,井水羸其瓶,自取其凶。蓋開導後學之事,在大道完成之後。大道完成,性命由我不由天,承先啟後,可以有益於人,無傷於我。故六爻皆以自養為主也。

道を修する人、自己を養う已に養い足れば、則ち井の裡に水有るが如し。自己を養い足る之後再び去りて人を養えば、則ち城邑を遷改するが如し。自養の物を用いて去りて人を養えば、則ち水井並びて遷改せざるが如し。人を養うは必ず自養を以て本と為さんを須す。自己を養うは是れ此の個の道理、別人を養うも亦た是れ此の個の道理。猶井水既に减少せず亦た增多せざるが如し。己を養うの物を用いて人を養えば、人と己と倶に滋養を得。猶來往の人倶に井の上に到りて水を汲むが如し。もし還た未だ道を成るの以後に到らざるに則ち硬として去りて別人を度化せんと要せば、あれは則ち根本無しと呼ばる。根本無きの滋養は、内裡主宰無く、人に任せて使嗾せられ、風に随って塵を揚げ、還た未だ人に益する有らざるに、先ず自己を失掉せり。亦た猶井の中に於いて水を取るが如く、水已に快く井口に到るも、繩索却って還た未だ提出し來らず、反って水を汲むの瓶を把って打破し、自ら凶険を取る。知るを須す、後学を開導する此の件の事は、是れ大道完成の以後に在るを。大道完成せば、性命我に由りて天に由らず、先を承け後を啓き、はじめて可に人に益有りて己に傷無からん。だから六爻倶に自養を以て主と為す。

初六,性質本愚,不知求人以養已,乃無而為有,亦欲效高明者以養人,如舊井有泥無水,積汙百端,禽亦不顧,焉能養人乎?此絕不知自養者也。

初六一爻、性質本来愚昧にして、人を求めて來りて自己を滋養せしむるを懂れず、却って無中に有を生じ、亦た想う高明の人に效法して去りて別人を養わんと。好像一口の旧井・只だ污泥有りて水無く・各種の汚穢を積み満たし・禽鳥を連ねても亦た理睬せざるが如く、怎様にして能く人を養わん。此一爻の講ずるは完全に自養を懂れざるの人なり。

九二,正在養己之時,自養未足,即欲養人,無益於彼,先傷於我,如井谷外射,僅能養鮒,甕敝水漏,浸潤有限,其所以益於人者少,而其所自失者多,此養己未足者也。

九二一爻、正に自己を滋養するの時候に在りて、自養還た未だ充足せざるに、則ち去りて別人を養わんと想う。人に対して益処無くして、先ず自己を傷つく。好像井底の水外に向かって射出し、只だ能く小魚を養活し、瓮又た破れて水を漏るるが如く、浸潤有限にして、用いて人を益するは少なく、而して自己損失するは多し。此一爻の講ずるは自養還た未だ充足せざるの人なり。

九三,進於下體之上,養己已到可以養人之時,但近於險,未遇知音,限於不得養,如井水渫泛而無人食之也。然雖無人食,其道德崇高,望之者默相感化,是以為我心惻也。心惻者何?以其可用汲,望其有明眼王公大人信而取用,則人人皆得法範,而受福無窮矣。此養己已足者也。

九三一爻、下卦の上位に進み到り、自養已に可に人を養うべきの時候に到れり。只だ是れ険難に靠近し、又た知音に遇う無く、受限して所養を施展し出す能わず。好像井水已に淘浄して泛き上がるも却って人の飲用する無きが如し。然而雖も人の飲用する無しと雖も、其の道徳崇高にして、それを仰望する人無形の中に於いて感化を受く。だから「我が心の為めに惻たり」と曰う。何を以てか心裡惻然たる。此の井水本来可に汲取するに因る。明眼の王公大人の信服して取り用うる有らんを指望せば、則ち人人倶に能く法則規範を得、福を受くること無窮ならん。此一爻の講ずるは自養已に充足したるの人なり。

九四,居於險體,雖無養人之德,幸其柔而守正,能知自養,如井之甃以防險,內不傷而外不損,可無陷人之咎矣。此自知養己者也。

九四一爻、坎険の体に処り、雖も還た未だ人を養うの徳行有らずと雖も、幸いなるにそれは陰柔にして正を守り、自養を懂る。好像磚石を用いて井壁を修砌して來りて塌陷を防止するが如く、内裡傷を受けず・外面損を受けず、可に別人を陷害するの過咎を免れん。此一爻の講ずるは自己能く己を養うを知るの人なり。

九五,陽居陰內,外虛內實,虛實如一,剛柔混合,大道完成,是謂有本之水,如井冽寒泉,所養深厚,取之不盡,用之不竭。此養己足而可養人者也。

九五一爻、陽爻陰位の内に居り、外面虚にして内裡実なり。虚と実と合して一と為り、剛柔混融し、大道完成す。これが則ち源頭有るの水と呼ばる。好像井水清澈にして・寒泉甘冽、蓄養する所深厚にして、之を取って尽きず・之を用いて竭きざるが如し。此一爻の講ずるは自養充足にして可に人を養うべきの人なり。

上六,養己已到,如井功已收,可以勿幕井口,因人開導,自能有益於人,無傷於我。特以其吉已在於養己之初矣。此養人必本於養己者也。然則,養人之事,在成道以後,若未成道,未可養人,強欲養人,即有羸瓶之凶,養人者可不知先自養乎。

上六一爻、自養已に家に到りて、好像井功已に収成せるが如く、可に井口を把って蓋うを必とせず、人の根器に随って開導を加えれば、自然に能く人に益有りて己に傷無からん。注意するを要す、其の吉利実は早く当初自養するの時候に就きて已に定まり下せり。此一爻の講ずるは人を養うは必ず己を養うを以て本と為さんを須す。こく如く視れば、人を養う此の件の事は要して道を成るの以後に在るべし。もし還た未だ道を成らざれば、則ち可に人を養う能わず。硬として去りて人を養わんと要せば、則ち水を汲むの瓶を打破するの凶険有らん。人を養うの人は、怎様にして能く先ず自養するを懂れざるを得んや。

卷四

上兌下離(革卦第四十九)

革:巳日乃孚,元亨,利貞,悔亡。初九,鞏用黃牛之革。六二,巳日乃革之,征吉,無咎。九三,征凶,貞厲。革言三就,有孚。九四,悔亡。有孚,改命吉。九五,大人虎變,未占有孚。上六,君子豹變,小人革面。征凶,居貞吉。

《革》卦。巳の日に到ってはじめて人に信從せられ、大いに亨通、正を守るに利し、悔恨消失す。初九。黄牛の皮を用いて牢牢と縛り繋ぐ。六二。巳の日に到ってはじめて手を動かしてそれを变革す、前往して吉利、過咎無し。九三。急進すれば則ち凶険有り、即かり正を守るも亦た危厲有り。变革の主張反復して商議すること三次して而る後に定めば、則ち能く人に信を取るを得。九四。悔恨消失す。誠信有れば、天命を改換して吉を得。九五。大徳の人虎の紋のあの様子に焕然として變化するが如く、占問するを必とせずして已に誠信有り。上六。君子豹の紋のあの様子に文采變化するが如く、小人只だ表面の上に於いて順從するのみ。急進すれば凶険有り、安く居りて正を守れば則ち吉利。

革者,去而不用之義,所以去舊也。卦德上兌悅、下離明,悅本於明,以明制悅,悅而不得有妄,明而不得有昧,明中出悅,悅中有明,故謂革。

「革」は是れ去り掉て而して復た用いざるの意、用いて旧染を革除す。卦徳に就きて言えば、上卦兌は悦・下卦離は明。喜悦明察を以て根本と為し、明察を用いて喜悦を節制し、ここにおいて喜悦して妄動に至らず、明察して昏昧に至らず、明の中喜悦を生出し、喜悦の裏明察を含着す。だから《革》と呼ばる。

卦象兌為西方金,離為南方火,以火鍊金,金遇火而生明返陽,火遇金而入庫返本,亦革之義。此煅煉陰氣之卦,承上困卦而來。困者,險中出悅,所以取坎中真陽以出險也。然能取坎中真陽,而不能復離中真陰,金丹不結,仍不得悅,此明中出悅之道,不可缺也。明中出悅,鍛鍊陰氣之功也。鍛鍊陰氣,是鍛鍊己之私慾,無我之謂也。

卦象に就きて言えば、兌は是れ西方の金・離は是れ南方の火、火を用いて金を錬る。金火に遇えば便ち光明を生出して陽性に返回し、火金に遇えば便ち庫位に帰入して本原に返回す。此も亦た是れ「革」の意なり。これは一卦の陰気を煅錬するを講ずる卦で、上一卦《困》を承接して来る。《困》の講ずるは険の中より喜悦を生出す、用意是れ坎卦中間のあの一爻の「真陽」を取り出して以て険陷を脱出せんに在る。可是只だ能く坎中の真陽を取り出して、却って能く離卦中間のあの一爻の「真陰」を恢復する能わざれば、「金丹」則ち結び成る能わず、仍ほ真の喜悦を得る能わず。だから「明の中悦を出す」此の条の路欠くる可からず。明の中悦を出すは、則ち是れ陰気を煅錬するの功夫。陰気を煅錬するは、則ち是れ自己の私欲を煅錬す、亦たすなわち是れ「我無き」を做り到るなり。

人為萬物之靈,秉天地陰陽五行之正氣而生,當有生之初,不識不知,順帝之則,至善無惡,真性炯炯,虛靈不昧,喜怒哀樂,不著於心,富貴窮通,不動其意,虎[上凹下兒]不能傷,刀兵不能加,水火不能浸,生死不能累,飢只食,寒只衣,無思無慮,德本明也。及至二八,陽極生陰,後天用事,氣質之性發,知識之竅開。當斯時也,惟天縱上智之聖人,先天而天弗違,後天而奉天時,能保先天之真,而不為後天所傷。其次,中下之人,鮮有不為後天所規弄者。

人是れ万物の霊、天地陰陽五行の正気を禀受して生ず。剛かに出生するの時候、識らず知らず、上帝の法則に順い、純善惡無く、真性炯炯として発亮し、虚靈にして昏昧ならず。喜怒哀樂心に粘着せず、富貴窮通其の意を動搖せず。猛虎凶兕彼を傷つくる能わず――原文此の個の字は「上凹下児」を用いて字形を描摹す、即ち「兕」の字なり――刀兵彼の身の上に加わる能わず、水火彼に浸る能わず、生死彼を拖累する能わず。餓えれば則ち喫し、冷えれば則ち穿ち、思無く慮無し。本徳原是れ光明なり。二八十六歳に及ぶを待って、陽極処に到りて陰を生じ、後天権を当たり、「気質の性」――後天禀受して形気と成るの習性――発動して起き、知識の竅門打ち開く。此の個の時候に在りては、唯だ天賦上智の聖人有りて、能く天時に先んじて事を行いて天彼に違背せず・天時に後れて事を行いて天の時序を奉行し、先天の真性を保住し、後天に損傷せられず。其の次、中等下等の人は、很少有りて後天に擺布せられざらん。

自此而後,百憂感其心,萬事勞其形,認假為真,棄正入邪,日復一日,年復一年,性相近而習相遠,明德有傷,新者積而成舊,淨者染而有垢,此舊染之汙,所由來也。原其有舊染之汙者,皆由有己,一有其己,則道心昧而人心生,明非所明,悅非所悅,順其所欲,無所不至矣。革者,即革其己之不明,以復於明耳。然欲革其己之不明,須要己先能明,己既能明,則信於革,而己之不明可革矣。是以革之道,已日乃孚也。

此より以後、百般の憂慮其の心を感擾し、万種の事務其の身を勞累し、偽を認めて真と作し、正を棄てて邪に入り、一天又た一天・一年又た一年、本性相近くして習染相遠く、明徳損傷を受け、新しき積り久しく變じて旧と為り、乾浄の汚垢を染上す。これが則ち「旧染の汚」の由來なり。旧染の汚の根源を追究するは、倶に是れ一個の「己」有るに因る。一たび其の己有れば、「道心」則ち昏昧にして「人心」則ち滋生し、明察用いて錯えたるを地方にし、喜悦も亦た用いて錯えたるを地方にし、欲望に順って走れば、何の事も做し出來すを得。いわゆる「革」とは、則ち是れ自己の不明を革し掉て、以て本来の光明を恢復せんとなり。然而自己の不明を革し掉らんと要せば、必ず自己先ず能く明ならんを須す。自己既に能く明なれば、則ち會して变革を信服し、自己の不明便ち可に革除せん。だから变革の道に「巳の日乃ち孚あり」と曰う――光明の日の到來を待ってはじめて誠信有らん。

日者,明之象。孚者,信之謂。不明不信,能明乃信,明之信之,初念已真,未有不能革己者。是以革有元亨之道也。但革雖有元亨之道,又須革之得正,若是非不分,真假罔辨,一概革之,入於頑空寂滅之學,不正即不利,不利仍是不元亨,惟以正而革,克己復禮,去妄存誠,煅去後天一切滓質,現出先天一靈真性。到此地位,還原返本,渾然天理,純白無玷,有己之悔可亡矣。是道也,非知之艱,行之維艱,是在人之能信於革耳。

「日」は是れ光明の象、「孚」とは則ち是れ信なり。明白せざれば則ち能く信服する能わず、能く明白してはじめて能く信服す。明白して・信服せば、最初の一念已に真切にして、自己を革し掉る能わざる無し。だから《革》卦大いに亨通の道理有り。但し变革雖も元亨の道理有るも、還た必ず革するを正当ならしめんを須す。もし是非分かたず・真假辨えず、一概に革除せば、則ち頑空寂滅の学問に落入らん。正ならざれば則ち利あらず、利あらざれば仍ほ元亨と算せず。唯だ正道を以て去りて革し、己を克して礼に復り、妄を去りて誠を存し、後天の一切の渣滓雑質を煅し去り、先天あの一点の霊明真性を顯し出さば、此の個の地步に到りて、元に還り本に返り、渾然一片の天理、純白瑕無し。「己有る」に因って來るの悔恨則ち可に消失せん。此の条の路は、是れそれを知ること難きに非ず、而も是れそれを実行すること難きなり。全て人の能く变革を信服するや否やに在るのみ。

初九,剛而不明,不能逆革其內,乃順革於外,如鞏用黃牛之革,顧外失內,固執不通。此舍本逐末之革也。六二,虛心自處,明於革而先能去其私慾,私慾能去,則無己,無己則有人,有人則以己求人,即能實腹,實腹而己愈明,是以征吉,而且無咎。此虛心求明之革也。

初九一爻、陽剛にして明白せず、能く逆向に自己の内裡を变革する能わず、却って順って去りて外表を变革す。好比黄牛の皮を用いて外面を把って縛り牢めるが如く、外面を顧みて裏面を失い、固執して通達せず。此一爻は是れ本を舍てて末を逐うの变革なり。六二一爻、虚心して自ら処り、变革の道理を明白して先ず能く自己の私欲を去掉す。私欲能く去れば、則ち「己」無し。己無くば、はじめて人を容れ下すを得。人を容れ下すを得れば、はじめて能く自己を以て人に於いて求め、亦た則ち能く「腹を実に」せん――真気をして丹田に充盈せしむ。腹既に充実せば、自己越えて明白なり。だから前往して吉利、而且過咎無し。此一爻は是れ虚心して明を求むるの变革なり。

九三,剛而太過,只知革人,不知革己,雖革事得正,亦有凶屬。蓋以不能革己,即欲革人,不但人不受我革,且將有言來革我,雖欲不自革而不能。是以革言三就也。三就之革,可信其終於不能革己矣。此自大自尊之革也。

九三一爻、陽剛太も過ぎて、只だ別人を革するを知りて、自己を革するを知らず。雖も革する所の事情正当なれども、亦た仍ほ凶険の一面有り。能く先ず自己を革せずして則ち別人を革せんと想うに因れば、但だ別人我の变革を接受せざるのみならず、而且將に言語有りて反って來りて我を变革せん。あの時想う自ら革せざらんとするも亦た辦じ到る能わず。だから爻辞に变革の主張応に反復して商議すること三次して而る後に定まらんを要すと曰う。三次の商議を経てはじめて定まり下せるの变革は、見るべしそれ終究に還た是れ自己を革する能わざるなり。此一爻は是れ自ら大として尊ぶの变革なり。

九四,有剛不用,是以有悔可亡,悔出於不信革己。若信革己,剛即能柔,可以變化氣質,而不為陰陽所拘,豈僅有己之悔可亡,方且有改命之吉。此剛以柔用之革也。

九四一爻、剛強有りて濫用せず。だから悔恨有りて消失する可し。悔恨本来則ち肯んじて「己を革する」を信服せざるより出づるなり。もし己を革するを信服せば、剛強則ち能く転じて柔順と為り、可に気質を變化して陰陽に拘限せられず。豈に止まらんや「己有る」の悔恨可に消失せんのみ、而且復た天命を改換するの吉利有らん。此一爻は是れ柔を以て來りて剛を運用するの变革なり。

九五,陽剛中正,主宰在內,扶陽抑陰,開生門、閉死戶,留人道、塞鬼路,一切客氣,自消自化,如虎威常在,不變之變,無容占信其已革矣。此大人用剛有為之革也。

九五一爻、陽剛にして中に居りて正を得、主宰内に在り、陽気を扶助し・陰気を抑制し、「生門」を打ち開き・「死戸」を関閉す――「生門」は是れ先天真陽の生発するの処、「死戸」は是れ後天陰気の漏泄するの路――人を為るの正途を留住し、鬼趣に堕ち入るの邪路を堵塞し、一切の「客気」自消自化す。好像虎威長に在るが如く、看れば未だ變せざるに似たるも実已に大いに變せり。占問するを用いずして則ち可に信ず、それ已に革し尽せりと。此一爻は是れ大人剛を用いて有為有るの变革なり。

上六,在革之終。柔而得正,煉己功勤,虛極靜篤,如豹不威之變,誠中達外,氣質俱化,根塵全消,淨倮倮、赤灑灑,形神俱妙,與道合真矣。此君子用柔無為之革也。然用柔無為之革,惟有信心之君子能之,一切不信心之小人,則不能。蓋小人者,革面不革心,志念不堅,有始無終,必落空亡而致凶。君子者,永居於貞,志念良久,愈久愈力,終必成道而得吉。此邪正結果之革也。

上六一爻、变革の終結の処に処り、陰柔にして居位正を得、「己を錬る」の功夫下すこと勤く、虚極処に到り・静篤実に到る。好像豹の紋變化して威猛を顯さざるが如く、中に誠にして外に達し、気質全部転化し、六根六塵全て倶に消尽し、乾乾浄浄・赤条々として毫も牽挂無く、形と神と倶に神妙に臻り、道と合して真と為る。此一爻は是れ君子柔を用いて無為の变革なり。然而柔を用い無為の变革は、唯だ信心有るの君子の做り到る能く所、一切の信心無きの小人は則ち做り到る能わず。小人只だ外表を革して内裡を革せず、志念堅ならず、始有りて終無し、必定して空しく落ちて凶険を招致すに因る。君子永遠に貞正の上に於いて守り、志念持久して、越久しければ越えて力有り、最終に必定して道を成して吉を得ん。此一爻の講ずるは邪正两途各々其の結果を得るの变革なり。

六爻俱有革道,是非不等,總以無己為歸著,若稍有一點己在,革去而又來,陰氣不盡,陽氣不純,古經所謂“七返還丹,在人先須煉己待時”者,正欲其革去一切舊染之行,不使有絲毫之疵,留於方寸之中也。

六爻倶に变革の道有り、是非各々相同ならず。但し総帰して「己無き」を以て落脚の点と為す。もし還た一点の「己」を剩して在らば、革し掉て復た會して再び來らん。陰気尽きざれば、陽気則ち純ならず。古丹経のいう所の「七返して丹を還すは、人に在りて先ず己を錬り時を待つを須す」――還丹を錬らんと要せば、先ず己を錬りて而る後に時機を等候せんを須す――正に是れ人に一切の旧染の習行を革し去り、絲毫の瑕疵を方寸の心の裡に留下せしめざらしめんと要するなり。

上離下巽(鼎卦第五十)

鼎:元吉,亨。初六,鼎顛趾,利出否。得妾以其子,無咎。九二,鼎有實,我仇有疾,不我能即,吉。九三,鼎耳革,其行塞;雉膏不食,方雨虧悔,終吉。九四,鼎折足,覆公餗,其形渥,凶。六五,鼎黃耳、金鉉,利貞。上九,鼎玉鉉,大吉,無不利。

《鼎》卦。大いに吉利、亨通。初六。鼎の足顛倒して上に向かい、鼎の中の汚穢を倒出するに利し。妾を娶りて儿子を生下す、過咎無し。九二。鼎の中実物を盛り、我の対頭病有りて、能く我に靠近する能わず、吉利。九三。鼎の耳革し去られ、行動阻受阻る。肥美の雉肉喫し上ぐる能わず、雨を降らすを待って、缺憾と悔恨と倶に消解し、終に吉利に帰す。九四。鼎の足折れ断じ、王公の美食を打ち翻し、鼎の身汚漬を沾み満たす、凶険。六五。鼎黄色の鼎耳・金屬の鼎を擧ぐるの横杠を配上し、正を守るに利し。上九。鼎玉製の鼎を擧ぐるの横杠を配上し、大いに吉利、利あらざる何も無し。

鼎者,烹煎鍛鍊之器,所以取新也。卦德上離明、下巽入,累進而生明,其心日下,其明日增,下而又下,增而又增。且卦體二五,虛實相應,明中能虛,巽中能實。虛明,則明無不照,而富貴窮通不能動其心。實巽,則德無不修,而吉凶禍福不能亂其性。巽進而生明,虛明而巽進,虛實相濟,如火得木而光華倍增,如木遇火而濁氣悉化,有煅煉烹煎之義,故謂鼎。

「鼎」は是れ烹煮煅錬の器具、用いて新を取る。卦徳に就きて言えば、上卦離は明・下卦巽は入。一層一層に深入して光明を生出し、其の心一天一天に謙下し、其の明一天一天に増加し、下して又た下し・増して又た増す。再び卦体に就きて言えば、九二と六五と虚実相応じ。明の中能く虚にし、入の中能く実にす。虚にして明なれば、則ち光明照らさざる所無く、富貴窮通其の心を動搖する能わず。実にして巽なれば、則ち徳行修せざる所無く、吉凶禍福其の性を擾乱する能わず。深入して明を生じ、虚明にして又た深入し、虚実互相濟助す。好比火木を得て光華倍増し・木火に遇えりて濁気全て消ゆるが如し。煅錬烹煮の意を含有す。だから《鼎》と呼ばる。

此煅煉大藥之卦,承上井卦而來。井者,巽進而通險,險通則後天所陷之真陽已出,大藥已生,可以巽進其明,運火煅煉矣。鍛鍊之功,所以消化陰氣、堅固陽氣,使生者而熟,舊者而新,能以明心,能以凝命,是以鼎本元吉,而又有亨道也。

これは一卦の大薬を煅錬するを講ずる卦で、上一卦《井》を承接して来る。《井》の講ずるは柔順深入して険難を通過すなり。険難一たび通ぜば、後天の裏に陷り在るの「真陽」已に出で來り、大薬已に產生せり。則ち可に柔順深入して其の明を増益し、火を運んで煅錬せん。煅錬の功夫は、是れ用いて陰気を消化し・陽気を堅固にし、生をして熟に變え・旧をして新に變え、既能く心を明らかにし、又能く命を凝す。だから《鼎》卦本来大きな吉にして、而且復た亨通の道理有り。

元者,善之長生之機。鼎之烹煎大藥,即烹煎此生機不壞,萬劫長存耳。但是道也,有火候,有次序,毫毛差殊,金丹不成,是在人先須窮究實理耳。

「元」は是れ衆善の首・生生不已の機括なり。鼎の烹煮する所の大薬は、則ち是れ此の一点の生機を烹煮してそれを壊らざらしめ、万劫を経歷して長に存せしむ。但し此の条の路に「火候」有り、次序有り。之を差うること毫厘なれば、金丹便ち錬り成る能わず。だから人必ず先ず其中の実理を窮究して明白せしめんを須す。

初六,在鼎之下,為下德之人,性質昏愚,其趾多顛而不正,欲立其鼎,不利於取新,利於去舊,能去其舊,則否出而趾不顛,周周正正,止於其所而不遷,如妾本下賤,生子則貴,亦可無咎,其初之有顛矣。此煉己之事,為立鼎之初功也。

初六一爻、鼎の最も下の面に処り、是れ徳行低下の人、性質昏愚にして、鼎の足多く顛倒正ならず。此の個の鼎を立て起さんと想うも、新を取るに利あらず、只だ旧を去るに利す。能く旧を去掉せば、汚穢便ち倒出して鼎の足復た顛倒せず、周正端穏にして、在るべき位置に安止して遷移せず。好比妾の身份本来低賤なれども、儿子を生めば便ち貴重に起來るが如く、亦可に過咎無からん。当初の顛倒反って好事と成れり。此一爻の講ずるは「己を錬る」の事、是れ鼎を立つるの頭一歩の功夫なり。

九二,剛而得中,真陽返回,已實其腹矣。腹既能實,道心常存,人心不生,如我仇有疾,不我能即矣。此養道心,自無人心也。

九二一爻、陽剛にして中に居り、「真陽」返回し、已に「腹を実に」せり。腹既能く実なれば、「道心」長に存し、「人心」生ぜず。正に爻辞のいう我の対頭病有りて・能く我に靠近する能わざるが如し。此一爻の講ずるは道心を養い住めば、人心自然に生ぜざるなり。

九三,獨剛無柔,實腹之後,不知虛心,是革去鼎耳,雖能了命,未能了性,其行塞窒,不能通前達後,壽同天地一愚夫,如不食雉膏也。幸其剛而守正,方雨行塞,有虧即悔,悔則自能虛心,既能虛心,其行不塞,由了命而又了性,終得以吉全之。此有道心,又虛人心也。

九三一爻、一味に剛強にして柔順無く、「腹を実に」する之後「心を虚に」するを懂れず、等しく鼎の耳を把って革し掉たるにし。雖も能く「命を了す」――命功を修し完す――も、却って能く「性を了す」――性功を修し完す――能わず。行動堵塞して通ぜず、前後気を打ち通ずる能わず。寿命縦い天地と同じく長久なるも、亦た不過是れ一個の愚夫なり。正に爻辞のいう肥美の雉肉喫し上ぐる能わざるが如し。幸いなるにそれは陽剛にして正を守り、正に路を行きて堵塞するの際に当たりて天甘雨を降らし、一たび缺憾有れば則ち悔意を生ず。一たび悔いれば、自然則ち能く虚心す。既能く虚心せば、行動便ち復た堵塞せず、命を了して由りて又た性を了し、最終に以て吉利保全を得。此一爻の講ずるは既に道心有り、又能く人心を虚掉するなり。

九四,由巽入明,金丹有象,正當防危慮險,用天然真火,煅盡後天群陰之時,乃剛為柔牽,鼎足又折,起人心而傷道心,如公餗覆傾命寶,得而復失,形雖存而神已喪,其凶不可言矣。此起人心,有昧道心也。

九四此一爻、工夫已に柔順漸進より明覺照察に転入し、内丹凝結して「金丹」初めて形象を具え、正に応該小心して危険を提防し・本性の中の自然発動するの「天然真火」を動用し、後天沾染の一切の陰濁習気を把って全部煅焼して乾浄にするの時候なり。偏偏此の爻陽剛なれども却って下面の陰柔に牽き住められ、成って「剛柔に牽かる」と為る。本来応に穩立すべきの鼎の足再び一度折れ断じ、「人心」の私意頭を擡げて「道心」を傷つけ、猶鼎足を折りて王公の美食を打ち翻すが一様に、性命の寶を把って傾覆して掉て、已に手に到るの丹重新又た失い、形体雖も在るも元神已に散じ、凶険形容する能わざるに到れり。此一爻の配するは正に是れ人心一たび起これば・道心便ち昏昧するあの一歩なり。

六五,柔順得中,虛人心而用道心,如鼎黃耳、金鉉也。黃耳者,鼎耳之中虛。金鉉者,鼎扃之中實,鼎耳貫鼎扃,剛柔相濟,虛實相應,火即是藥,藥即是火。當此之時,利於貞一不二,防危慮險,不必分外增減矣。此虛人心而養道心也。

六五此一爻柔順にして上卦の中に居り、能く「人心」の私意を把って空に騰げ・専ら「道心」を用いて主を為す。猶鼎の上の黄耳金鉉を配するが如し。黄耳とは、指すは鼎の耳中間是れ空なり。金鉉とは、指すは耳を貫くの横杠中間是れ実なり。鼎耳鼎扃を套り住め、一虚一実、剛柔互相補い・虚実相応じ。此の一層に到りて、火候と薬物と已に合して一片と成り、火を起これば則ち是れ薬を養い、薬を養えば則ち是れ火を行う、復た两截に分け作さず。此の時最も緊要なるは是れ純一不二の心志を守り定め、時時に危険を提防し、火候の上に於いて別に増添或いは减損するを必とせず。此一爻の配するは是れ人心を空に騰げ・道心を涵養するのあの一歩の工夫なり。

上九,在鼎之終,鼎新之功已盡,有無俱不立,物我悉歸空,靜則無為,動則自然,剛即是柔,柔即是剛,不用剛而剛全,不用明而明通,已到至誠可以前知地位,如鼎之玉鉉也。鉉而至玉,剛柔如一,氣質俱化,形神俱妙,與道合真,乃修道之極功,聖賢之全能,超出乎陰陽之外,而不為陰陽所拘,是以大吉無不利。此道心人心俱皆混化也。

上九此一爻鼎卦の最も末に処り、故を革め新を鼎くの工夫已に做し尽せり。有と無と两辺倶に復た執着せず、外物と自我と一斉に化空す。静まれば是れ無為、動けば是れ自然。剛則ち是れ柔、柔則ち是れ剛。刻意に剛を用いずして剛健完足し、刻意に明を用いずして明照通徹す。已に《中庸》のいう所の至誠にして能く前知するの地位に到れり。猶鼎の上玉鉉に換え成したるが如し。鉉玉の地步に做り到れば、剛柔渾然一体、後天の気質習性全部化尽し、形体と元神と一同に神妙に入り、大道と合して真と為る。これは是れ道を修するの最高の成就・聖賢の完満の能力、陰陽の範囲を跳出して復た陰陽に拘束せられず。だから大吉にして利あらざる所無しと曰う。此の一歩に到りて、「道心」と「人心」と已に徹底に混融して一と為れり。

修鼎之功,有剛有柔,有進有退,有增有減,不到有無不立,神化不測之地,不為極功。若不知剛柔、進退、增減之法,不落於三之鼎耳革,即歸於四之覆公餗,毫髮之差,千里之失。修道者,可不巽緩進明、謹慎火候乎。

此の一鼎の丹を烹錬するの工夫は、応に剛なるべきの地方有り、亦た応に柔なるべきの地方有り。応に火を進むべきの時候有り、亦た応に符を退くべきの時候有り。応に増添すべきの分寸有り、亦た応に减損すべきの分寸有り。有無两辺倶に執着せざる・變化神妙測る難きの地步に到らざれば、則ち究竟の成就と算するを得ず。假如剛柔・進退・増減の法度を懂れざれば、九三の如き鼎耳變質し・歩を擧ぐるも阻受阻るに落つるが非ざれば、則ち九四の如き鼎中の食を打ち翻し・前功尽く廃するに落つらん。之を差うること毫厘、之を失うこと千里。道を修する人、怎様にして柔順緩進にして明覺を生じ・謹慎に火候を守住せざるを得んや。

上震下震(震卦第五十一)

震:亨。震來虩虩,笑言啞啞;震驚百里,不喪匕鬯。初九,震來虩虩,後笑言啞啞,吉。六二,震來厲,億喪貝,躋于九陵,勿逐,七日得。六三,震蘇蘇,震行無眚。九四,震遂泥。六五,震往來厲,億無喪,有事。上六,震索索,視矍矍,征凶。震不于其躬,于其鄰,無咎,婚媾有言。

《震》卦。亨通。雷震忽然而して來り、人驚懼して四顧す。過後談笑自如にして、啞啞の笑い声を発す。雷声百里の遠きを震動すれども、主祭者手中の匕匙と鬯酒とは却って曽て失落せず。初九。雷震到來するの時驚懼不安、其の後却って能く談笑自如、吉祥。六二。雷震到來して危険有り、財貨を喪失せんとするを估量し、只だ高き九陵に登上って躲避するを得。去りて追うを必とせず、七天の後自ら會して失い復た得せん。六三。雷震人をして蘇醒警覺せしめ、震動の中に於いて前行して災患有らざらん。九四。雷震泥淖の裡に陷り進めり。六五。雷震往來倶に危険有り、損失有らざらんと估量するも、仍ほ事有りて辦ぜんを要す。上六。雷震の時索索として発抖し、両眼驚惶して四顧し、出行凶険。雷震自己の身の上に落ちずして隣人の身の上に落つれば、過咎無し。只だ是れ婚配の親家會して閑話有らんのみ。

震者,動也。取象為雷,卦體一陽生於二陰之下,靜中有動,二震相合,由此動而達彼動,由彼動而生此動,千動萬動,總是一動,故謂震。此動而行道,恐懼修省之卦,承上革卦而來。革者,由明得悅,以火鍊金,革去舊染也。革去舊染,非是忘物忘形,灰心息念之謂,須要在動中革去,方能濟事。

震の意思是れ動、象を取るは雷と為す。卦体是れ一個の陽爻两個の陰爻の下に生じ、静の中動機を含着す。上下两個の震卦相重ね、此の一辺の動に由りてあの一辺の動に通じ、又たあの一辺の動に由りて此の一辺の動を引出す。千動万動、根に帰すれば只だ一個の動なり。だから震と呼ばる。これは是れ動の中に於いて道を行い・心恐懼を存して身を修め省察するの一卦、上面の革卦を承接して來る。革卦の講ずるは明覺に由りて喜悦を生じ、火を用いて來りて金を錬り、積久の旧習染を革除すなり。旧習染を革除するは、並びて是れ外物を忘掉し・形体を忘掉し・心死灰の如く・念頭を断絶するに非ず。必ず日常の動作應事の中に於いて革除して、はじめて真に事を濟し得ん。

蓋大道活活潑潑,不色不空,依世法而修道法,借人事而修天德,有為無為,了性了命,無窮事業,盡要在動中做出,是以震有亨道也。但動有內動、有外動。內動者,內念之動;外動者,物來之動。內動屬我,外動屬彼。內動真,則外動亦真;內動假,則外動亦假。君子戒慎乎其所不睹,戒慎乎其內動也。恐懼乎其所不聞,恐懼乎其內動也。

大道本是れ活溌溌たり。既に有形の色相の上に落ちず、亦た空無の上に落ちず。要して世間法に依って出世の道法を修し出し、人間事を借りて去りて天賦の徳性を修せんを須す。有為の一段の工夫・無為の一段の工夫、性を了すの一節・命を了すの一節、無窮無尽の事業、全て要して動の中に於いて做し出來さんを須す。だから震卦本身則ち亨通の道を含着す。不過動は两种に分かつ。一种是れ内動、一种是れ外動。内動是れ自己の念頭の発動、外動是れ外物の到來して引起すの應接なり。内動自己に属し、外動相手方に属す。内動真なれば、外動も亦た之に随って真なり。内動偽なれば、外動も亦た之に随って偽なり。《中庸》に説く、君子は別人の見えざる処に於いても亦た戒慎す、戒慎するは正に是れ此の個の内動なり。別人の聴こえざる処に於いても亦た恐懼す、恐懼するも亦た正に是れ此の個の内動なり。

內無妄動,自有真動,真動之動,終日動未嘗動,以是而應外來之動,皆以無心應之,是以震來虩虩、笑言啞啞也。震來者,靜中忽有動來也。虩虩者,懼貌。啞啞者,笑聲。人之一念之善,道心發現,便是天堂;一念之惡,人心做作,便是地獄。地獄天堂,非世間所有,皆在人心生出,念之善惡,邪正分之,生死關之,有念而能修省之。

内裡妄動起こさざれば、自然會して真動有らん。真動此の種の動は、整天動きて在るも却って曽て動いたること無きが如し。それを用いて去りて外來の動に應付するは、全て無心を以て應ず。だから爻辞に雷震來るの時驚懼四顧し・過後笑語啞啞たりと曰う。震來とは、是れ静の中忽然として動機の到來有るなり。虩虩とは、是れ驚懼の様子なり。啞啞とは、是れ笑うの声音なり。人一個の善念を起こせば、「道心」顯露して出來し、当下則ち是れ天堂。一個の惡念を起こせば、「人心」造作出來し、当下則ち是れ地獄。地獄天堂並びて是れ世間別に其の処有るに非ず、倶に人の此の一点の心の上より生出す。念頭の善惡は、邪と正とを分け開き、亦た生と死とに関係す。正に念頭有るに因りて、はじめて身を修め省察するの余地有らん。

惡念漸去,善念漸生,久之念念相續,皆歸於正,則道心常存,人心不起,浩氣充塞,主人公穩坐中央,寂然不動,感而遂通,一切事物之來,言笑自若,啞啞應之,付於無心而已。雷震驚百里,亦不喪匕鬯矣。匕者,箸也。鬯者,美酒也。雷震百里,其聲至大,易足驚人,遇此而能不喪匕鬯,則其聲色貨利,富貴窮通,一切逆順境遇,必不能動於中矣。

惡念一点々々减去し、善念一点々々生長し、日久の之後念念相接して倶に正に帰せば、「道心」便ち常に在り、「人心」便ち起こらず。浩然の気周身に充満し、元神此の位の主人公穏穏として中央に坐し、寂然として動かずして一たび感ずれば則ち通ず。一切の事物到來するの時、談笑自如にして、啞啞の従容を用いて去りて應対し、無心に交えて去りて処置せしむるのみ。此の如くなれば、即かり雷声百里を震動するも、手中の匕と鬯とも亦た會して失落せざらん。匕則ち是れ食を取るの匙箸、鬯是れ祭祀の用うる所の香酒なり。雷震百里、声勢極めて大にして、最も容易に人を驚かす。此の如き動静に遇上して還た能く手中の匕鬯を失わざれば、則ち声色貨利・富貴窮通、一切の順境逆境、則ち倶に其の内心を動搖する能わざらん。

蓋君子懼內動,不懼外動。懼內動者,養其氣也。不懼外動者,不動其氣也。內能養氣,外不動氣,時動則動,時不動則不動,與雷同道,與時偕行,千動萬動,懼是真動,何礙於動。震之亨者,正在此也。

君子の怕るる所は是れ内動、外動を怕れず。内動を怕るるは、是れ為めに自己の元気を涵養せんと。外動を怕れざるは、是れ為めに元気をして外境に牽き走らせざらんと。内に能く気を養い、外に気を動かさず。動くべきの時候は則ち動き、動くべからざるの時候は則ち動かず。雷と同一個の道理、時機に随って一起に運行す。此の如くなれば千動万動倶に是れ真動、動は又た何の妨げか有らん。震卦の亨通なる所以は、正に此の裏に在り。

初九,在動之初,而能戒慎恐懼,於不睹不聞之中,是以震來虩虩,後笑言啞啞也。先虩虩者,辨別是非,謹之於始也。後啞啞者,得心應手,全之於終也。先懼後喜,動之而最吉者。此剛而得正之動者也。

初九此一爻動の開頭に処り、能く別人の見えざる・聴こえざるの地方に於いて則ち先ず戒慎恐懼を做り到る。だから爻辞に震來るの時虩虩として驚懼し・其の後笑語啞啞たりと曰う。先ず虩虩とは、是れ先ず是非を辨明し、起頭の処に於いて則ち謹慎なり。後に啞啞とは、是れ工夫心と手に應じ得るに做り到り、収尾の処に於いて能く保全す。先ず懼れて而る後に喜ぶは、是れ六爻の中動くること最も吉なるの一爻なり。此一爻の配するは是れ剛健にして又た正位に居るの動なり。

六二,以柔乘剛,妄想太高,行其所不能行,是有失主意,動其危厲之億,如喪貝登躋于九陵之上矣。幸其柔而守正,雖億而不敢妄行,即此便是生意,不必再尋生意,而危厲可無,是以勿逐七日得。此柔而恐懼於內動者也。

六二此一爻陰柔を以て陽剛の上に凌駕し、妄想して定まること太も高く、去りて自己の力の及ばざるの事を做せんとし、ここにおいて主意を失い、心裡危険に対するの種種の估量を生出す。猶爻辞のいう財貨を喪失し・九陵に登上るが如し。幸いなるにそれは柔順にして能く正を守り、雖も心中估量定まらずと雖も、却って敢えて軽擧妄行せず――此の份の敢えて妄行せざるは本身就きて是れ生機の在る所、別に別の処に到りて去りて生機を尋ぬるを必とせず、危厲自然可に免去せん。だから追い逐うを必とせず・七日の後失物自ら還らんと曰う。此一爻の配するは是れ柔弱にして内動に対して心恐懼を存するのあの一等の人なり。

六三,柔居剛位,既懼己之無能,又懼事之犯難,內外一懼,蘇蘇戰傈,身心不能自主矣。然性柔志剛,能親有道之士,借剛濟柔,不能行者亦能行,是以震行而得無眚。此柔而恐懼求人者也。

六三此一爻陰柔を以て陽剛の位に居り、既に自己の本事無きを怕れ、又た事情辦じ難きを怕れ、内外倶に是れ一個の怕の字なり。蘇蘇然として戦慄不安、身心主を作すを得ず。好在是れ其の性情柔順にして志向剛強、能く道有るの人に親近し、別人の剛健を借りて來りて自己の柔弱を補えば、原先做り到る能わざりしの事も亦た做り到るを得。だから爻辞に震動の中に於いて前行して災患無しと曰う。此一爻の配するは是れ柔弱にして恐懼に因って転じて去りて人を求むるのあの一等の人なり。

九四,剛居不正,又在二陰之間,日與小人為伍,有行道之力,而無行道之志,是遂泥之動,一步不能前進矣。此剛而不知恐懼者也。六五,獨柔無剛,有動之時,無動之德,往億來億,億而不果,恐懼危厲之億,何濟於事?幸其柔而得中,不敢妄為,無喪行於外,有懼事於內,亦不失其柔之本質。此柔而恐懼謹外者也。

九四此一爻陽剛にして居位正ならず、又た两個の陰爻の中間に夾まり、天天小人と伍を為し、道を行うの力量有りて道を行うの志向無し。成って爻辞のいう所の泥淖の裡に陷り進めたるの動、一歩も亦た前進するを得ず。此一爻の配するは是れ剛強にして恐懼修省を懂れざるのあの一等の人なり。六五此一爻孤柔にして剛無く、赶上ぐるは応に動くべきの時候、却って能く動くの徳行無し。來來回回反復して估量し、估量するも半天なるも亦た結果を拿出する能わず。此の種の只だ危険の上に於いて転を打つの估量は、事情に対して何の幇助か有らん。幸いなるにそれは柔順にして上卦の中に居り、敢えて胡來せず、外面真の損失無く、裏面還た一份の事を出さんを怕るるの警惕を存す。亦た算す陰柔の本分を失わざるに。此一爻の配するは是れ柔弱にして只だ外事の上に於いて謹慎恐懼するのあの一等の人なり。

上六,在重震之上,內外一懼,而無實行,是以震索索,視矍矍也。索索矍矍,懦弱無能,以一懼而終其事,不能遠達,無凶而亦有凶。然在外動之極,震不于其躬,于其鄰,本有咎者,亦可無咎。無咎者,以其懼人,不敢為惡。則賢人君子,必將導引為善,是以婚媾有言矣。此柔而恐懼於人者也。

上六此一爻两個の震卦相重ねるの最も上の面に処り、内外倶に只だ是れ一味に害怕して、却って実際の行動を拿出する能わず。だから爻辞に震動するの時索索として発抖し・両眼矍矍として四顧すと曰う。索索矍矍は、是れ懦弱無能の様子、一輩子の事則ち一個の怕の字の裏に了結せり。走ること遠からず、本来応に凶ならざるも亦た落ち得て凶有り。不過それは外動の極処に処り、雷震自己の身の上に落ちずして隣人の身の上に落つれば、原本応に過失有るべきも、亦可に過失を免るるを得。過失を免るる所以は、是れ他の人を怕れ、敢えて惡を作さざるに因る。此の如くなれば賢人君子必然に會して來りて彼を引導して善に向かわしめん。だから爻辞に婚配の親家會して閑話有らんと曰う。此一爻の配するは是れ柔弱にして只だ人を怕るるを知るのあの一等の人なり。

六爻皆有懼道,或內懼,或外懼,或致凶,或無咎,皆為修省得吉之道。求其懼於內,而不懼於外,謹於始而能全於終者。其惟初九之一爻乎?然則,修省之道,必以內懼外不懼為貴。內懼者,謹之於內也。外不懼者,見之於行也。先恐懼而後修持,一切外物,不得而動之,可以盡性,可以至命,順之逆之,無可無不可矣。

六爻各々一种の怕法有り。或いは怕るるは内に在り、或いは怕るるは外に在り、或いは凶険を招來し、或いは過失を免る。但し倶に可に身を修め省察して吉を得るの門徑と成るを得。もし找出せんと要するは既能く内に怕れ・又た外に怕れず、起頭謹慎にして結尾も亦た能く保全するをば、大概唯だ初九此一爻ならんか。こく如く視れば、身を修め省察するの道理は、一定に要して内裡怕るるを知り・外面怕れざるを以て可貴と為すを須す。内に怕るるは、是れ念頭の上に於いて謹守す。外に怕れざるは、是れ行事の上に於いて顯し出す。先ず恐懼の心を存し、然る後一歩一歩に修持せば、一切の外物則ち彼を動搖する能わず。此の如く可に本性を窮尽し、可に天命を了達し、順って做すも好く・逆らいて做すも好く、做さざるを得ざる何も無く、亦た做す可からざる何も無し。

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