上離下坤(晋卦第三十五)
晉:康侯用錫馬蕃庶,晝日三接。初六,晉如摧如,貞吉;罔孚,裕無咎。六二,晉如愁如,貞吉,受茲介福于其王母。六三,眾允,悔亡。九四,晉如鼫鼠,貞厲。六五,悔亡,失得勿恤;往吉,無不利。上九,晉其角,維用伐邑,厲吉,無咎,貞吝。
《晋》卦。安泰の諸侯天子の賞賜する大批の車馬を獲て、一天の内三度蒙受して接見せらる。初六。上進せんと想うも挫折を受く、正を守れば則ち吉祥。一時信頼を得る能わざれば、寛裕従容にして、則ち過有らざらん。六二。上進せんと想うも心に憂愁を生じ、正を守れば則ち吉祥、王母あの処より此の一份の大福を承受するを得ん。六三。衆人倶にそれに信從し、悔恨消失す。九四。上進するも碩鼠の一般に鬼崇たり、即かり正を守るも亦た危険。六五。悔恨消失し、得と失と倶に憂慮するを必とせず。前往すれば吉祥、利あらざる何も無し。上九。上進獣角の尽頭に到る、只だ用いて自己の采邑を討伐する可し。雖も危厲有るも終に吉祥を得、過有らざらん。但し此の如き正を守着するも亦た免れず憾惜有り。
晉者,進也。卦德上離明、下坤順,由順而生明,用明而行順,順時順理,其明日增,故謂晉。此自誠而明,進火之卦,承上遯卦而來。遯者,止其健,而不輕用健也。不輕用健則心虛,心虛則燭照覺察,戒慎恐懼,不為物慾所瞞,黑中有白,神明自來矣。
「晋」の意思是れ前進。卦徳に就きて言えば、上卦離は明・下卦坤は順。順に由りて明を生出し、又た此の份の明を用いて順を行い去り、天時に順応し・事理に順応し、光明便ち一天天に增加す。だから「晋」と呼ばれる。これは一個の誠に由りて明、講ずる「火を進め」(陽火を進め、すなわち是れ前に向かって功を推進し・陽気を増長す)の卦で、上一卦《遯》を承接して来る。《遯》の講ずるは自己の剛健を止住し、軽易に剛健を動用せざるなり。軽易に健を用いざれば、心は則ち虚し。心一たび虚なれば、便ち能く燭照して覚察し、戒慎恐懼して、物欲に蒙騙せられず、黒暗の中に一点の白光を透出し、神明自然に就きて來る。
人之本來良知良能之性,炯炯不昧,其德本明,因交後天,識神用事,人心起而道心藏,良知之健,變為不良之健,良能之順,變為不良之順。心與物交,錮閉靈竅,神明有昧矣。
人本来あの一点の良知良能の天性は、炯炯然として昏昧せらるる能わず。其の徳性本来自ら光明なり。只だ後天に落入するに因りて、「識神」(後天見聞分別の妄識)家に当たり主を為し、人心一たび起これば、道心便ち蔵して起きたり。良知の剛健は変じて不良の剛健と成り、良能の柔順は変じて不良の柔順と成る。心一たび外物と交接すれば、則ち霊竅を錮閉して住め、神明ここにおいて昏昧有るに至れり。
聖人教人進火者,由不明而復進於明耳。進明之功,非順道不能。順者,順時順理,常存道心,不生人心,知之能之,無一不良。天之賦人者良,人之順天者亦良。天人合發,元神不昧,自誠而明,其明日增,由小而大,自微而著,漸進於高明遠見之處,有象於康侯,用錫馬蕃庶,晝日三接也。
聖人人を教えて「火を進め」せしむるは、為す所は不明より再び明に回進せんとするなり。而して光明を増長する此の番の功夫は、順道に循わざれば則ち成る能わず。いわゆる順とは、是れ天時に順い・事理に順い、常に道心を存み、人心を生ぜず、知る所能る所一様として良善ならざる無し。天の人に賦与するは是れ良、人の天に順從するも亦た是れ良。天と人と一斉に発動し、「元神」(先天本有の神明)復た昏昧せず、誠に由りて明を生じ、光明一天天に増長し、小より大に由り・隱より顕に到り、漸漸高明遠見の境地に進入す。正に卦辞の取る所の康侯車馬を獲賜り・一日三度接を受くるの景象に合す。
康侯者,安泰寧靜之侯。馬在午,屬於離明之象。蕃庶者,地所生,屬於坤順之象。晝日者,日之明,明在上也。三接者,地之順,順在下也。人之良知良能之真心,為一身之主,如一國之有康侯也。真心不背於天良,用明用順,如康侯用錫馬蕃庶也。
「康侯」は是れ安泰寧静の諸侯。馬は地支の午に配し、取るは是れ離明の象。「蕃庶」は是れ大地の生養する所の衆多の物、取るは是れ坤順の象。「昼日」は是れ白日の光明、明は上卦に在り。「三接」は是れ大地の柔順、順は下卦に在り。人あの点の良知良能の真心は、是れ一身の主宰、好比一国此の如き一位の康侯有るが如し。真心天の賦与する良善に違背せず、既に明を用い又た順を用いれば、則ち如同康侯大批の車馬を獲賜るが一般なり。
由順而生明,以明而行順,如晝日三接也。三接者,乃再三之順,不順而必至於順,其中有閒邪存誠之功。閒邪存誠,人心順、道心彰,誠則明矣,明則誠矣。誠明兼該,明明德而止於止善,進火之功盡矣。
順に由りて明を生出し、再以て明を以て順を行い去る。これがすなわち「昼日三接」なり。いわゆる三接とは、是れ再三に順うなり。本来順ならざるも亦た一定して順を做り到らんと要す。此の裏頭に一番の「邪を閑し誠を存す」(邪念を防ぎ住み・誠実を存み住め)の功夫有り。邪を閑し誠を存せば、人心便ち順服し、道心便ち彰顕す。誠なれば則ち明、明なれば亦た則ち誠。誠と明と两下兼備して、本有の明徳を彰明して至善に安止せば、火を進める此の番の功夫も亦た則ち做り尽せり。
初六,在明之初,大理未明,宜靜不宜動,是以晉如摧如,守貞而吉也。夫守貞而吉者,以其未能至信,先須窮理,充裕於內,運火自無差錯之咎矣。此未進明,先求其明也。
初六明の開端に処り、大道理還た未だ明白を弄らず、静に宜しくして動に宜からず。だから「晋如として摧如」と曰う――上進せんと想うも反って挫え住められ、唯だ正を守るのみはじめて吉祥。何を以てか正を守れば則ち吉祥なる。それは還た能く人に信を取る能わざるに因る。先ず義理を把って窮究して透徹せしめ、内裡をして充裕して起らしめ、將來火を運ぶも自然に差錯の過失有らざらんを須す。これは還た未だ明を進めず、先ず去りて明を把って手に到るを求むるなり。
六二,處於三陰昏暗之中,不但不能增明,而且有以蔽明,是以晉如愁如也。然柔而守正,不為假陰所惑,不進而亦不愁,是以貞而得吉。蓋能貞則致虛守靜,真陰現象,假陰自化,如受茲介福于其王母矣。此處不明,不遽進明也。
六二三個の陰爻の昏暗の当中に処り、但だ能く光明を増長せざるのみならず、反って光明を遮蔽するの危険有り。だから「晋如として愁如」と曰う。然而それは柔順にして正を守り、虚偽の陰気に迷惑せられず。雖も前進せざるも却って亦た憂愁せず。だから正を守りて吉を得。能く正を守れば則ち能く虚を致し静を守るに因る。虚静極処に到れば、「真陰」(先天本有の一分の陰精)自然現象し、「假陰」(後天情識雑念の陰)自然消化す。正に爻辞のいう王母あの処より此の份の大福を承受するが如し。これは身明ならざるの地に処りて、急ぎて去りて明を進めざるなり。
六三,不能自下而順,乃自上而順,似乎不正而致悔。然性柔志剛,不順陰而順陽,借他家之明,以濟我家之暗,我順他而他即順我,是以眾允其進,有悔可亡。此己不明,順人之明也。
六三能く下より上に自りて順わず、反って是れ上より下に自りて順う。看れば正ならざるも悔恨を招來せんと要するに似たり。然而それは性情柔和にして志気剛強、陰に順從せずして陽に順從し、「他家」の光明を借りて来て「我家」の昏暗を救う――丹道は自身後天此の一辺を以て「我家」と為し、先天真陽の在る所あの一辺を以て「他家」と為す。我彼に順えば、彼も亦た則ち我に順う。だから衆人倶に其の上進に信從し、本有の悔恨消掉し得べし。これは自己明ならずして別人の明に順從するの一類なり。
九四,居於明體,已進於明矣。但在二陰之內。明藏暗中,又應初陰,明而有私,邪正不分,是非相雜,以是進明如鼫鼠夜行,所見不大,其行不遠。雖用明得正,終有危厲。此剛而有私之明也。
九四已に離明の体に居り、算す明に進み到れりと。可是それは两個の陰爻の内に夾まれ、明暗の裏に蔵せり。又た初六の陰と相応じ、明中私心を帯び、邪正分かれず・是非夾雑す。此の如くして去りて明を進めば、猶碩鼠夜裡出行するが如く、看るに大ならず・走るに遠からず。雖も明を用うるは還た算す其の正を得れども、終究に危厲有り。これは剛にして私心を夾帯するの明なり。
六五,居於二陽之內,既明其我家不明,又明其他家有明,借剛濟柔,本有悔者而悔可亡。悔由於心之不虛,若知虛心,則以己求人,即能實腹,既實其腹,則吉凶止足,如在掌上,可以失得勿恤,直行無疑,往而進火下功。吉無不利者。此虛以招實之明也。
六五两個の陽爻の間に居り、既に明白して我家自身の明ならざるを知り、又た明白して他家あの辺に明有るを知り、剛を借りて来て自己の柔を濟す。本有悔恨も悔消掉し得べし。悔は是れ心肯んじて虚ならざるより來る。もし虚心を懂れ、自己を拿って去りて人に求教せば、則ち能く「腹を実に」(真気内に充実す)せん。腹既に充実せば、吉凶止足便ち自己の掌紋を看るが如く清楚なり。可に得失倶に憂慮せず、一直に走下去りて復た遲疑せず、放手して前往して去りて火を進め功を下し、吉祥にして利あらざる所無し。これは虚を以て実を招くの明なり。
上九,剛強自勝,只知進明,不知虛明,是以維用伐邑也。邑為私邑,伐邑即克己之功。克己之功,虛人心也。若不虛心,獨恃其剛,強制強伏,必危厲而後得吉,得無咎,以是用明,雖克己得正,亦屬勉強,不由自然,未免取吝於大方。此剛而高亢之明也。
上九剛強好勝にして、ただ往きて前に明を進めるを知るのみ、此の份の明を把って虚し下げるを知らず。だから「維れ邑を伐つを用う」と曰う。「邑」は是れ自家の私邑、邑を伐つは則ち是れ己を克すの功夫。己を克すの功夫は、説き到底に至れば則ち是れ人心を把って虚掉し去るなり。もし肯んじて虚心せざれば、単に自己一身の剛に靠り、強を以て強を壓伏するの办法を用いれば、必定して先ず一番の危厲を経て而る後にはじめて吉を得・はじめて咎無からん。此の如くして明を用うれば、雖も己を克すも亦た算す正を得れども、終究に勉強に属し、是れ自然より出ずるに非ず。難を免れずして行家の跟前に於いて一個の憾惜に落ちん。これは剛強にして高亢の明なり。
然則,進明運火之道,未明必先求其明,既明又當虛其明,虛實並用,剛柔相當;自誠而明,明本於誠,其明日進日高,用之不盡,取之不竭,大地裡黃芽長遍,滿世界金花開綻,無處不可用明,無處能傷其明矣。
こく如く視れば、明を進め火を運ぶの門徑は是れ。還た未だ明ならざれば、必ず先ず去りて明を求めんを須す。已に明れば、又た応に此の份の明を把って虚し下ぐべし。虚と実と並びて用い、剛と柔と相当し、誠に由りて明を生じ、明は誠を以て根本と為せば、あの份の光明便ち一天天に長進し・一天天に高明し、之を用いて尽きず・之を取って竭きず。遍地に「黄芽」長出し、満世界に「金花」開出す――此の两個倶に是れ丹道の先天真陽の萌動し・丹光の顕現するを形容するの比喻なり。あの時に到れば、何処に走り到るも倶に明を用うる能く、何処に走り到るも亦た此の份の明を傷つくる能わざらん。
上坤下離(明夷卦第三十六)
明夷:利艱貞。初九,明夷于飛,垂其翼;君子于行,三日不食。有攸往,主人有言。六二,明夷,夷于左股,用拯馬壯,吉。九三,明夷于南狩,得其大首;不可疾,貞。六四,入于左腹,獲明夷之心,于出門庭。六五,箕子之明夷,利貞。上六,不明,晦;初登于天,後入于地。
《明夷》卦。艱難の中に於いて正固を守持するに利し。初九。光明傷ついたる鳥飛び在り、翅膀を垂下せり。君子路を趕り、三天飯を喫い上ぐる能わず。往く所有れば、主人還た閑話を説かん。六二。光明傷つき、傷は左腿の上に在り。一匹の健壮の馬に靠りて來り救援し、吉祥。九三。南方に巡狩するの際に於いて光明傷つき、却ってあの個の首惡を擒住せり。操ること過急する可からず、正固を守持せんを須す。六四。左辺の腹地に進入し、明夷の用心を探り得、ここにおいて門庭の中より走出せり。六五。箕子あの様子の如く自己の光明を把って収蔵して起き、正固を守持するに利し。上六。但だ明ならざるのみならず、反って昏暗。起初天上に升り、後來地下に堕ち入る。
明夷有二義。一夷者,藏也。一夷者,傷也。卦德上坤順、下離明,明在順中,明而順時,以順養明,故謂明夷。又明在暗中,明而有傷,亦謂明夷。此自明而誠,退火之卦,承上大壯而來。大壯者,健於動也。健於動,須要知其進退,若有進無退,壯之太過,必傷其明,明傷而壯,未有不敗者,此退火之功所由貴。
「明夷」は两重の意思を含着す。一個の「夷」は是れ収蔵、一個の「夷」は是れ損傷。卦徳に就きて言えば、上卦坤は順・下卦離は明。明順の中に在り、明にして能く時勢に順応し、順を用いて明を涵養す。だから「明夷」と呼ばれる。又た明暗に落ちるに因りて、明にして傷を受く、亦た「明夷」と呼ばれる。これは明に由りて返りて誠に帰し、講ずる「火を退け」(陽火を収退し・火候を把って降げ下る)の卦で、上一卦《大壮》を承接して来る。《大壮》の講ずるは剛健にして動を好むなり。剛健にして動を好めば則ち必ず進退を懂れんを須す。もしただ進を知りて退を知らざれば、壮太も過ぎて、必定して自己の明を傷つけん。明已に傷を受けて還た一味に壮を逞ぶせば、敗せざる無し。火を退くる此の番の功夫の可貴なるは正に此の裏に在り。
退火者,藏明於至幽至密之處,而不輕自用也。修道之所以進火用明者,以其不明而進至於明耳。既進至於明,內外不昧,可以韜明養晦,必至於至善無惡之地,使明無一點有傷,方謂火返其本,有氣無質,一團和氣,良知良能,元神不昧,非色非空,即色即空,色空不拘,如日在地上能照外,日在地下能照內。內之外之,無一不明,不明之明,勝於用明,明而無形跡可窺矣。無形跡可窺,方是火退,而火返本。但此火退、返本之道,亦逆道也。
いわゆる火を退くるとは、是れ光明を把って極幽極密の地方に蔵めて、肯んじて軽易に自ら用いず。道を修するの火を進め明を用いるを要する所以は、是れ原本明ならざるに因りて、一歩一歩に明に進み到らんと要すればなり。既に明に進み到りて、内外倶に昏昧せざれば、則ち応に光を韜め晦を養い、一直に做りて至善悪無きの地步に到り、此の份の明をして一点の損傷も無からしめて、はじめて「火其の本に返る」と呼ばるべし。只だ気有りて質無く、渾然として一団の和気、良知良能倶に在り、元神昧ならず、色に非ず空に非ずして而又た即色即空にして、色と空と倶にそれを拘え住む能わず。好比太陽地の上に在れば能く外面を照らし、太陽地の下に在れば能く裏面を照らすが如し。内に向かうと外に向かうとを論ぜず、一処として明ならざる無し。此の種の「明らずの明」は、反って刻意に明を用い去るに勝り、明して窺い探るべき形迹無きに到る。形迹窺う可き無きの地步に到って、はじめて火退けり・火本に返れりと算す。ただ是れ此の条の火退き本に返るの路は、亦た是れ一条の「逆」修の路なり。
逆者何逆?逆其所生之明於內,有明而不自用也。有明不用,非空空無為便能了事,其中有防危慮險之功,隨時收斂之道,要在於艱難不能自由處返來,若返於順,而不能返於逆,則火不歸元,明不入真,終必有傷,故明夷利於艱貞也。艱難守正,順時而退,明不受傷,丹元無滲漏之患,所謂“縱識殊砂與黑鉛,不知火候也如閒,大都全借修持力,毫髮差殊不結丹”。
逆するは是れ何ぞや。是れ自己の生出したる明を把って逆らいて収め回して内裡に到らしめ、明有りて自ら用いざるなり。明有りて用いずは、並びて是れ空空として一味無為にすれば則ち了事する能くに非ず。此の裏頭に危を防ぎ険を慮るの功夫有り、随時に収斂するの門道有り、緊要の処は艱難自由を得ざるの地方より返り來るに在り。もし只だ能く順いて返り・能く逆らいて返る能わざれば、あれは則ち火元に帰せず・明真に入らず、最終に必定して損傷を受けん。だから《明夷》は「艱貞」に利する在り。艱難の中に於いて正を守り、時勢に順って収退せば、明は則ち傷を受けず、「丹元」(内丹の根本元気)も亦た渗漏の患無し。張伯端《悟真篇》に説く明白なり。縦い朱砂と黑鉛此の两味の薬物を認得するも、火候を懂れざれば亦た仍ほ是れ白搭なり。此の樁の事は全て一分の実修の功力に靠り、毫厘に差しなば則ち丹を結成する能わず。
蓋以修丹之道,全要以火為準則,少於火而丹不成,過於火而丹即傷,及丹已成,急須住火停輪,沐浴溫養,守中抱一,深藏其明於無聲無臭之地,不使有一點火氣耳。
丹を修する此の条の路は、全て「火」を拿って準則を做さんを須するに因る。火候足らざれば、丹結び成らず。火候太も過ぎれば、丹則ち傷を受く。丹已に結成するに及ぶを待って、則ち得て赶紧に「火を住め輪を停め」(火を運び周天を行うの功夫を停下す)し、沐浴温養に転入し、中を守り一を抱き、此の份の光明を把って声無く臭無きの地方に深蔵し、それをして一点の火気を留下せしめざらん。
初九,在明夷之初,雖無傷之形,已有傷之幾,急須退火,以免其害。以象取之,如明夷于飛垂其翼;以人取之,如君子于行,三日不食,有攸往。垂翼之飛,不食而往,明於退而急退者。然主人有言者,退火乃聖胎凝結以後之事。聖胎凝結,自有真火,不用假火,如愚如訥。人所嫌忌,有言毀謗,必不能免。然雖有毀有謗,外傷而內不傷。此退火於未傷之前也。
初九明夷の開頭に処り、雖も還た未だ傷を受くるの形迹無しと雖も、却って已に傷を受くるの苗頭有り。必ず赶紧に火を退けて、好くして後患を免れんを須す。物象の上に就きて譬を取れば、好比光明傷ついたる鳥飛び在りて翅膀を垂下せるが如し。人事の上に就きて譬を取れば、好比君子路を趕りて・三天飯を喫い上ぐる能わず・還た往く所有らんと要するが如し。翼を垂れて飛び・食わずして行くは、倶に是れ応に退くべきを明白して則ち赶紧に退くの人なり。爻辞の「主人言有り」と曰うに至っては、是れ火を退くる本は是れ「聖胎」(内丹の凝成したる胚胎)結成の以後の事に因る。聖胎既に凝結せば、裏面自ら「真火」有り、假火を用うるに及ばず。外表看去鈍に似たり・木訥に似たり。此れ正に是れ旁人の嫌忌する所、人に議論せられ・毀謗に遭う、必定して免るべからず。不過縦い毀有り謗有るも、傷つくるも只だ是れ外面、裏面は並びて傷を受けず。これは還た未だ傷を受けざる以前に就きて先ず火を退くるなり。
六二,退火稍遲,而即見傷,如明夷于左股也。然柔順虛心,見傷即知。用壯馬急拯其不能早退之失,可不至於大傷其明,亦致吉之道。此退火於見傷之時也。
六二火を退くること稍々一歩遲れ、ここにおいて当下に則ち傷を見たり。好比光明傷つきて傷左腿の上に在るが如し。幸いなるにそれは柔順虚心にして、一たび傷を受くれば立刻に則ち察覺し、一匹の壮馬を用いて急々として去りて自己の能く早退せざりしの過失を補救すれば、則ち大いに其の明を傷るに至らず。此も亦た一条の吉祥を招致するの路なり。これは已に傷を見るの時候に於いて火を退くるなり。
九三,剛明兼備,運天然真火,煅去人心之首惡,人心一去,邪火自化,如明夷于南狩,得其大首也。但人心有識神居之,為歷劫輪迴之種子,不易去之,若去太猛,反激邪火妄動。真人有傷,惟不可疾貞,漸次化之,人心終有消滅之時。此運真火而明不傷也。
九三剛と明と两样兼備し、能く「天然真火」(造作を假らず・本自具足のあの一点の陽火)を運用して、人の心中の首惡を把って煆焼して掉る。人心一たび去れば、邪火自然消化す。正に爻辞のいう南方に於いて巡狩して首惡を擒住したるが如し。ただ是れ人の心裡に「識神」を住着せり。あれは是れ歷劫輪廻の種子、容易に去り掉る能わず。もし去ること太も猛ければ、反って邪火を激起して妄動せしめ、身中の真人を連ねて亦た傷を受けんを要す。だから只だ能く爻辞のいう所に照らして「疾くする可からず、貞なれ」、急燥せずして正を守り、一層一層にそれを化し去れば、人心終究に消滅の一天有らん。これは真火を運びて光明傷を受けざるなり。
六四,養明於幽深至密之處,如入于左腹矣。左腹之明,視之不見,不識不知,可獲明夷之心,于出門庭,出有心而入無心,一切邪火,焉得而發之。此退假火而明不傷也。
六四光明を把って幽深至密の地方に養い起き、好比左辺の腹地に進入したるが如し。左腹の中の明は、看るも看えず、識を用いず・知を用いず。此に因って能く明夷の用心を探り得、門庭の中より走出せり。出で去るは是れ有心、回り來るは是れ無心。一切の邪火どこが還た発き起さるを得んや。これは假火を退け掉りて光明傷を受けざるなり。
六五,守中抱一,絕不用明,而明常存,所謂內有天然真火,爐中赫赫長紅,如箕子之明夷,利在於貞也。利貞之明夷,外不足而內有餘。此養真火而明不傷也。
六五中を守り一を抱き、全然として去りて明を用いざるも、而も明は却って常に存す。これがすなわちいわゆる裏面に一団の天然真火有りて、丹炉の中赫赫として長紅なり。正に箕子あの様子の如く光明を把って収蔵して起き、正固を守持するに利する在り。此の種の「貞に利す」の明夷は、外面不足を顕すも内裡綽綽として余有り。これは真火を涵養して光明傷を受けざるなり。
上六,不明火候,只知順用其明,不知逆退其明,是不明而反晦也。不明反晦,無益有損,自招其災,如初登于天而進明,後入于地而傷明,金丹得而復失,前功俱廢矣。此不知退火而明終傷也。
上六火候を懂れず、ただ順いて去りて自己の明を用うるを知り、逆らいて明を把って収退して回るを知らず。結局但だ明ならざるのみならず、反って昏晦に転成す。明ならずして反って昏晦は、損有りて益無く、自己災を招く。正に爻辞のいう起初天上に升るは是れ明を進め、後來地下に堕ち入るは是れ明を傷つくるが如し。「金丹」手に到りて了又た丢き掉り、従前の功夫全部作廃す。これは火を退くるを知らずして光明終に傷を受くるに帰すなり。
噫!養火即養明。退火即藏明,明藏於內,火返其真,虛靈不昧,期其神化,歸於無形無色而後已。但須要知得養明、退火之火候耳。若不知火候,不特不能養明,而且有以昧明,是亦明夷而已,何能濟事乎!
唉!火を養うは則ち是れ明を養い、火を退くるは則ち是れ明を蔵む。明裏面に蔵まり、火其の真源に返帰し、虚霊にして昏昧せず、一路それを指望して神化して下去り、無形無色に帰してはじめて完と算す。ただ是れ必ず明を養い・火を退くるのあの一段の火候を懂れんを須す。もし火候を懂れざれば、但だ明を養い成さざるのみならず、反って明を把って昏に弄りて、あれも亦不過又た一場の「明夷」――光明傷を受くるのみ、怎様にして事を濟すを得んや。
上巽下離(家人卦第三十七)
家人:利女貞。初九,閑有家,悔亡。六二,無攸遂,在中饋,貞吉。九三,家人嗃嗃,悔厲,吉。婦子嘻嘻,終吝。六四,富家,大吉。九五,王假有家,勿恤,吉。上九,有孚威如,終吉。
《家人》卦。女子正固を守持するに利し。初九。一開頭に就きて家裡に於いて防閑の規矩を立下す、悔恨消失す。六二。擅自に外面に到りて何を成就し去らず、只だ家中に於いて飲食の事を操持し、正を守れば則ち吉祥。九三。家を治むること過嚴にして、家人嗷嗷として苦しみを叫ぶ。雖も悔恨危厲有るも、終究に吉祥。もし婦人孩子嘻嘻哈哈として全て規矩無ければ、最後に必ず憾惜有らん。六四。家道をして富足せしむ、大いに吉祥。九五。君王至誠を以て感格して来て其の家を治理す、憂慮するを必とせず、吉祥。上九。心に誠信を存して又た威厳有り、最終に吉祥。
家人者,家中有人,治內之道。卦德上巽入、下離明。明則可以巽行其道,巽則能以漸通其明,巽明相需,如以風吹火,火隨風生。有治家之道,故謂家人。此煉己持心、迴光返照之卦,承上晉卦而來。晉者,明由順生,進火用明之功。進火用明,須先明內,明內者煉己也。
「家人」は則ち家中に人有るなり。講ずるは内部を治理するの道理なり。卦徳に就きて言えば、上卦巽は入・下卦離は明。明有れば、則ち能く巽順の方式を用いて道を把って推行して下去る能く。能く巽順なれば、則ち能く一歩一歩に明を把って通達して開ける能く。巽と明と彼此相需し、好比風を用いて去りて火を吹くが如く、火風に随って則ち旺に起これり。其中治家の道理を含着す。だから「家人」と呼ばれる。これは一個の「己を錬り心を持す」「光を回して返照す」を講ずる卦で、上一卦《晋》を承接して来る。《晋》の講ずるは明順の中より生出す、是れ火を進め明を用うるの功夫なり。而して火を進め明を用いんと要せば、必ず先ず其の内を明らかにせんを須す。内を明らかにするは亦たすなわち己を錬るなり。
煉己者,煉我家之陰耳。我家之陰為何陰?人心是也。人身精、神、魂、魄、意,皆屬陰,聽命於人心,人心靜而五者皆靜,人心動而五者皆動,煉己即煉此人心耳。煉去人心,道心自現,道心現而心明,則精、神、魂、魄、意,皆化而為護法神矣。
いわゆる己を錬るとは、錬るは是れ「我家の陰」――丹道は自身後天此の一辺を把って「我家」と呼び、其中陰に属するの成分は則ち錬化せんと要するの対象なり。我家の陰究竟是れ何の陰ぞや。則ち是れ人心なり。人身上の精・神・魂・魄・意此の五様倶に陰に属し、全て人心に聴命す。人心一たび静なれば、此の五様跟って倶に静なり。人心一たび動けば、此の五様跟って倶に動く。だから己を錬るは説き到底に至れば則ち是れ此の個の人心を錬るなり。人心を把って錬化して掉れば、道心自然顯現す。道心一たび現れば、此の心便ち光明透亮にして、則ち精・神・魂・魄・意も亦た則ち一斉に転化し、大道を護持するの神明と成れり。
人之身,如家也。人之精、神、魂、魄、意,如一家之人也。煉人心而生道心,精、神、魂、魄、意,各安其位,各伺其事,喜、怒、哀、樂,皆和而中節,如一家治也。取象利女貞,女以守貞為貴,煉己如女之守貞不字,則我家之真陰現象。真陰現象,則心虛靈不昧,外物不得而入,可以循序漸進,以求他家之陽,無有不利者。
人の此の個の身子好比是れ一個の家、人の精・神・魂・魄・意好比是れ一家の人口。人心を把って錬掉して道心を生出せば、精・神・魂・魄・意便ち各々其の位に安んじ・各々其の事を管し、喜・怒・哀・楽倶に調和して節度に合す。猶一個の家治理して井井条々たるが如し。卦辞象を取りて「女貞に利す」と為す。女子は貞を守るを以て貴しと為し、己を錬るは猶女子の貞を守りて軽易に嫁を許さざるが如し。此の如くして我家の「真陰」はじめて顕象せんを會す。真陰一たび顕象すれば、心は則ち虚霊昧ならず、外物侵し入る能わず。便ち可に循序漸進して、去りて「他家の陽」(先天あの一点の真陽)を求め、利あらざる無し。
卦體二虛於下,五實於上。虛心即能以實腹,利女貞,正所以致虛守靜,以為成家立業計耳。故修道者,戒慎恐懼,於不睹不聞之內,不使有一毫陰氣潛藏於方寸之中也。
卦体に就きて言えば、六二陰を以て下に居りて中虚、九五陽を以て上に居りて中実なり。能く「虚心」すれば則ち能く「実腹」す。いわゆる「女貞に利す」とは、正に是れ人をして虚を致し静を守らしめ、將來家を成し業を立つるの打算を作さんと替うるなり。だから道を修する人は応に戒慎恐懼して、別人の看えざり・聴えざるの地方に於いて功夫を下し、一絲一毫の陰気をして方寸の心の裡に偷偷蔵せしめざらん。
初九,在家人之初,剛於煉己,如閒有家也。有己即能防閒剋制,方寸之中,空空洞洞,內念不生,外物不入,本有悔而悔可亡。此煉已於有己之初者也。
初九家人卦の開頭に処り、能く剛毅に己を錬るの功夫を下す。正に爻辞のいう一開頭に就きて家中に於いて防閑の規矩を立起するが如し。既に尚あの個の「己」有る在り、則ち要して防閑剋制して、方寸の間をして空空洞洞とし・裏面の念頭生ぜず・外面の物欲入らざらしめ、本来悔有るも悔消掉し得べし。これは「己有る」の最初の階段に於いて就きて己を錬るの功夫を下すの一類なり。
六二,柔而中正,返觀內照,心清意靜,不專遂於外,而謹慎於內,以靜制動,以一御紛,外物不納,客氣難入,如婦人在中饋而居貞,未有不得吉者。此煉己而用柔道者也。
六二柔順にして中正、返りて觀じ内に照らし、心清く意静かにして、一味に外面に到りて成就を求め去らず、而も裏面に於いて処処謹慎し、静を以て動を制し、専一を以て紛雑を駕馭す。外物納れ入る能わず、客気も亦た侵入し難し。好比婦人家に在りて飲食を操持して貞正に安守するが如く、吉を得ざる無し。これは己を錬りて柔道を用うるの一類なり。
九三,煉己功勤,雜念不生,如家人嗃嗃,悔厲驚懼,不敢為惡,自然得吉。否則有念不去,姑息養奸,恣情縱欲,如婦子嘻嘻,略無家法,焉能到得無己之時?如此修道,終不成道,取吝而已。此煉己當用剛道者也。
九三己を錬り功を用うること勤苦にして、雑念生ぜず。好比家を治むること厳厲にして家人嗷嗷として苦しみを叫ぶが如く、雖も悔恨危厲有り・心中驚懼するも、却って敢えて惡を為さず、自然に吉を得。反って、もし是れ念頭有りて肯んじて除去せず、姑息して奸を養い・情を恣にし欲を縦にせば、好比婦人孩子嘻嘻哈哈として・一点の家法も皆な無きが如く、どこが還た「己無き」の地步に到るを得んや。此の如くして道を修すれば、終究に道を成す能わず、只だ一個の憾惜に落つるのみ。これは己を錬る応に剛道を用いるべきの一類なり。
六四,以柔求剛,借剛濟柔,不即不離,漸次導引。虛心即能實腹,富有日新,方且積法財、聚天寶,其吉之大,不僅無己而已。此煉己柔而用剛者也。九五,陽剛得中,心正而身修,如王者假家施治,而天下自平,其吉出於自然,非有勉強,何憂恤之有?此煉己而剛柔如一者也。
六四柔を以て去りて剛を求め、剛を借りて来て自己の柔を濟し、既に急切に貼り上がらず、亦た撒手して離去せず、一層一層に引導して推進す。能く虚心すれば則ち能く実腹し、富有にして且つ日新にして、正に彼処に於いて「法財」を積攢し・「天寶」を聚集し在り(倶に是れ道を修するに需要するの功行と先天真気を指す)。それの吉祥の大は、則ち不止是れ「己無き」を做り到るに已まるのみなり。これは己を錬りて柔を以て剛を用うるの一類なり。九五陽剛にして上卦の中に居り、心正しく身修まり、好比君王至誠を以て感格して来て自己の家を治理し、天下自然太平なり。其の吉祥自然より出で、一点の勉強を帯びず。還た何の憂慮すべきか有らん。これは己を錬りて剛柔一片に打ち成るの一類なり。
上九,剛而居於巽體之上,可信其煉己有威如矣。煉己威如,嚴之於初,自能吉之於終,此煉己而有始有終者也。子書云:煉己不熟,還丹不結。還丹頭一步功夫,先要煉己,煉己煉到無己時,虛室生白,先天之氣,自虛無中來,凝結而成黍米之珠,其光通天徹地,一切魍魎邪魔,焉得而近之,煉己之功豈小焉哉!
上九陽剛にして巽体の最上に居り、可に信ず、それの己を錬る已に威厳を錬出して來たるを。己を錬るに威厳有れば、一開頭に就きて厳格に要求し、自然に能く最後に於いて吉を得ん。これは己を錬りて始有り終有るの一類なり。道書の上に説く。己を錬ること熟ならざれば、還丹は則ち結び成らずと。還丹の頭一歩の功夫先ず応に己を錬らんを須す。己を錬ること「己無き」の時候に錬り到れば、空虚の心室の裡自然白光を生出し、先天の気虚無の中より來りて、一粒の「黍米の珠」(丹家の金丹初結の時黍米の般の大小なるあの点の真種を形容する)に凝結し成り、其の光天を通じ地を徹し、一切の魍魎邪魔どこが還た敢えて靠近せんや。己を錬る此の番の功夫は、豈に是れ小事ならんや。
上離下兌(睽卦第三十八)
睽:小事吉。初九,悔亡。喪馬勿逐自復,見惡人,無咎。九二,遇主于巷,無咎。六三,見輿曳,其牛掣,其人天且劓。無初有終。九四,睽孤,遇元夫,交孚,厲無咎。六五,悔亡,厥宗噬膚,往何咎?上九,睽孤,見豕負塗,載鬼一車,先張之弧後說之弧。匪寇婚媾,往遇雨則吉。
《睽》卦。小事吉祥。初九。悔恨消失す。馬を丢き了るも追い去るを必とせず、それ自己会うて回り來らん。面目憎悪すべきの人を見るも、亦た過有らざらん。九二。小巷の裡に於いて主人に遇上せり、過有らざらん。六三。大車の拖え住めらるるを見・車を拉するの牛も亦た牽掣せられ・車を趕るの人還た額を刺し鼻を割かるるの刑罰に遭うを見る。起初順ならず、終究に好き結果有らん。九四。乖離孤立の中、一位の陽剛の大丈夫に遇上し、彼此誠を以て相交わり、雖も危厲有るも亦た過有らざらん。六五。悔恨消失し、同宗の人相合するは一塊の軟肉を咬み開くが如き容易、此の如くして前往すれば還た何の過咎か有らん。上九。乖離孤立の中、猪の背上泥污満ちたるを見、又た一車鬼怪を載せたるを見る。先是れ弓を張りて射んと要し、随後又た弓を把って放下せり。元來対方是れ強盗に非ず、而も是れ婚配を求めに來るなり。前往もし一場の雨に遇上せば則ち吉祥。
睽者,彼此相違之義。卦德上離明、下兌悅,悅生於內,明用於外,悅非所悅,明非所明,悅明不當,故謂睽。此陰陽相隔,和緩調理之卦,承上明夷而來。明夷者,真明有昧之義。真明有昧,假明即出,識神用事,順其所欲,明於外而不明於內,性亂命搖,與道相隔,此睽之所由來也。然睽則睽矣。又有致合之道,特以明雖在外,若能虛其心,可以返明於內。欲雖起內,若能實其腹,可以掃欲於外。明返欲掃,神定情忘,則陰陽隔礙潛通,睽者亦可以致合,故小事吉也。
「睽」は彼此相違背するの意。卦徳に就きて言えば、上卦離は明・下卦兌は悦。悦裏面より生出し、明外面に向かって発用す。偏偏として悦ぶ所は悦ぶべきに非ず、明らかにする所は明らかにすべきに非ず。悦と明と倶に用いること当を得ず。だから「睽」と呼ばれる。これは一個の陰陽彼此相隔たりて・和緩に調理せんを須するの卦で、上一卦《明夷》を承接して来る。《明夷》の講ずるは真明昏昧有るを得たるなり。真明一たび昏昧すれば、假明就きて冒出し來り、「識神」家に当たり主を為し、一味に自己の欲望に順い、明は外面に在りて明は裏面に在らず。ここにおいて性乱れ・命搖れて、道と相隔たる――これがすなわち睽の來由なり。不過睽雖も是れ睽れたりと雖も、還たそれをして重新合攏せしむるの路子有り。明雖も外面に跑り到り去るも、ただ能く心を把って虚し下げれば、則ち可に明を把って内裡に返回到らしめん。欲雖も裏面より起き自るも、ただ能く腹を把って充実して起かば、則ち可に欲を把って外頭に掃き去らん。明返り回り・欲掃き出せば、神安定し・情忘掉し、則ち陰陽縦い隔礙有るも亦た能く暗中相通じ、乖離するも亦た可に重新合攏せん。だから卦辞に「小事吉」と曰う。
小事者,陰之事。人心用事已久,道心埋沒,大事已去,今欲致合,必先去人心而後生道心,道心復後,大事方吉。正在睽中,求其人心不壞,其事足矣。安敢望其大事之吉乎。試就小事吉者論之。
いわゆる小事とは、是れ陰に属するあの一辺の事なり。人心家に当たり已に很に久し、道心埋没して見えず、性命此の樁の大事早就きて丢き了れり。如今重新合攏せんと想わば、必ず先ず人心を去掉して、然る後にはじめて道心を生出し得るを得んを須す。道心恢復の以後に、大事はじめて談じ上ぐる吉を得。眼下正に乖離の中に在り、只だ人心の復た壞れ下去らざるを求むれば、此れ則ち足れり。どこが還た敢えて大事の吉を指望せんや。現在則ち単に「小事吉」此の一層に就りて來りて講ずる。
初九,在睽之初,道心方去,人心方來,若能剛而守正,不為人心所惑,道心自復,有悔者可以悔亡,如喪馬勿逐自復也。然必見惡人無咎者,惡人即人心,人心俱有五賊,足以敗道,不見人心,不知五賊作禍,見人心而順其所欲,漸次導引,五賊不得張狂,所以避害耳。此濟睽於方睽之時也。
初九睽卦の開頭に処り、道心剛かに離去し、人心剛かに到來す。此の時もし能く剛毅に正を守り、人心に迷惑せられざれば、道心自然回り來り、本有の悔恨消掉し得べし。正に爻辞のいう馬を丢きて追うを必とせず・それ自己会うて回り來るが如し。「惡人を見て咎無し」と説くに至っては、あの「惡人」は則ち指すは人心なり。人心の裡「五賊」(眼・耳・鼻・舌・意の五者外に向かって真気を劫奪するの作用)を帯びて、以て道業を敗壞するに足る。去りて人心を正視せざれば、則ち五賊の作祟して在るを知らず。人心を正視し、暫く其の欲望に順い、一歩一歩に引導を加えれば、五賊便ち張狂して起きる能わず。これがはじめて害を避くるの办法なり。これは剛かに乖離するの時候に就きて着手して補救するなり。
九二,當陰陽正睽之時,邪氣盛而正氣弱,道心未易相遇。然剛以柔用,從小道中進步,借人心生道心,如遇主于巷,本有咎者,即能無咎。此濟睽於正盛之時也。
九二正に陰陽大いに相乖離するの時候に当たり、邪気盛んにして正気弱し、道心容易に遇上せ難し。然而それは陽剛にして能く柔を以て運用し、小路より一歩一歩に進取し、人心を借りて道心を生出す。正に爻辞のいう小巷の裡に於いて主人に遇上せるが如し。本来過咎有るも、ここにおいて能く過咎無からん。これは乖離正に盛んなるの時候に於いて着手して補救するなり。
六三,愚而自用,順其所欲,如輿曳而牛掣也。不悅於內而悅於外,未得於彼,早失於己,如天頭而劓鼻也。如此之人,務外傷內,認假失真,到頭一著,窮無所歸,始悔自錯,故無初有終也。但不能悔於初,而悔於終,悔之無益。此不睽而自致其睽也。
六三愚昧にして剛愎自用し、一味に自己の欲望に順う。好比大車拖え住められ・車を拉するの牛牽掣せらるるが如し。裏面悦ばずして只だ外面に於いて悦を求むれば、還た未だ対方あの処より何を得るに到らざるに、自己早已に先ず失掉せり。好比額の上に刺され・鼻子割かるるが如し。此の如き人は只だ外面を顧みて裏面を傷つけ、偽を認めて真を丢き、臨了の一着に到り、路に走り投ぐる無く、はじめて自己の走り錯えたるを後悔す。だから「初無くして終有り」と曰う。ただ是れ能く開頭に於いて則ち悔いる能わずして、偏りて末了に到るを要してはじめて悔いれば、悔いるも亦た用無し。これは本来睽れずして自己乖離を招き出したるなり。
九四,陽在陰中,道心為人心所陷,人心惟危,道心惟微,孤陽無依,是睽孤也。然道心雖微,若能敏而好學,不恥下問,交孚抱道之君子,彼此資益,人心日去,道心日增,久之人心化,道心存。陰陽混合,孤者可以不孤,有咎者可以無咎。此以尊交卑,能濟其睽也。
九四一陽を以て陰中に処り、道心人心に陷せられ、正に《尚書・大禹謨》のいう「人心惟れ危く、道心惟れ微し」に応えり。孤零零として一点の陽依傍する所無し。これがすなわち「睽孤」なり。然而道心雖も微弱なれども、ただ能く敏にして学を好み・下に問うを恥とせず、道を抱くの君子と誠を以て相交わり、彼此資益せば、人心便ち一天天に減去し、道心便ち一天天に増長し、久しきこと積もりて人心化尽き・道心長に存し、陰陽渾然として混合し、孤单する可に復た孤单せず・過咎有る可に過咎無からん。これは尊位を以て去りて卑下を結交し、因って能く乖離を補救するなり。
大五,柔順虛心,居二陽之中。既明其我家純陰,又明其他家有陽,虛人心而求道心,本有悔者,而悔可以亡矣。夫道心者,人心之宗,厥取道心之宗,點化人心之假,如噬膚之易,以是往而行道,有何睽之咎乎?此以虛求實,能濟其睽也。
六五陰柔虚心にして、两個の陽爻の間に居り、既に明白して我家自身純粋に是れ陰なるを知り、又た明白して他家あの辺に陽有るを知り、人心を把って虚掉して去りて道心を求む。本来悔恨有るも、悔恨消掉し得べし。知るを須す、道心は是れ人心の本宗なり。此の個の本宗の道心を取って去りて人心の虚偽を点化するは、猶一塊の軟肉を咬み開くが如き容易なり。此の如き心を帯いて前往して道を行えば、還た何の乖離の過咎か有らん。これは虚を以て実を求め、因って能く乖離を補救するなり。
上九,處睽之極,道心埋沒已久,人不反顧,是睽孤也。道心埋沒,人心用事,習染成性,疑慮百出,如豕負塗,載鬼一車矣。若欲復道心,須先明人心,但明之貴於見之,見豕見鬼,實見的人心為害甚大。既能見得,即能明得,先不明而用心,如先張之弧也。後能明而復道心,如後說之弧也。無人心而不見道心,無道心而難知人心,借人心復道心。
上九睽の極点に処り、道心埋没すること已に久しく、人も亦た肯んじて頭を回して一眼を看るもせず。此れ同じく是れ「睽孤」なり。道心埋没し、人心家に当たり、習染して性と成り、疑虑百般に叢生す。好比猪の背上泥污満ちたるを見・一車鬼怪を載せたるを見るが如し。もし道心を恢復せんと想わば、必ず先ず人心を看清めんを須す。而して看清むるの関鍵は真実にそれを「見」到るに在り。猪を見鬼を見るは、正に是れ実実在在として人心の為害の大なるを見到るなり。既に見るを得れば、亦た則ち明るを得。先前明ならずして妄に其の心を用いたるは、好比先ず弓を張りて射んと要するが如し。後來明白して回りて道心を恢復するは、好比随後又た弓を把って放下したるが如し。人心無くんば則ち道心を照見する能わず、道心無くんば亦た難し人心を認識せんとするは。だから人心を借りて来て道心を恢復せんを須す。
人心雖罪之魁,亦功之首,匪寇而實婚媾也。人心既見,道心即復,於是虛人心,振道心,往而濟睽,則陰陽和合,如遇其雨,洗去一切舊染之汙,仍是當年圓成無虧之物,其吉為何如乎。此睽終必合,乘時而濟睽也。
人心雖も是れ罪魁なれども、却って亦た是れ頭功なり。正にいわゆる「寇に匪ざれば婚媾なり」――それは是れ劫奪しに來るの強盗に非ずして、倒れて実在に是れ親を結びに來るなり。人心一たび看破せられれば、道心則ち跟って恢復し、ここにおいて人心を虚掉し・道心を振起し、前往して去りて乖離を補救せば、陰陽便ち和合す。好比一場の好雨に遇上して、一切の旧日の染污を洗い去り、仍ほ是れ当年あの個の円満虧無きの本体なり。あの份の吉祥は還た説かんを用いんや。これは乖離最後に到りて必定して重合し、時機を趁いて去りて乖離を補救するなり。
六爻俱有睽而致合之道,僅得免其陰陽不睽,而不能陰陽有濟,故彖曰:“小事吉。”然小事能吉,大事即能吉,睽終而合,陰陽相通,至此而求,大事未有不致吉者。修道者,可不先求其小事之吉乎。
六爻倶に乖離に由りて和合に転向するの路子有り。不過僅かに能く陰陽の繼續して乖離するを免るるのみ、還た陰陽の彼此成就するを談じ上ぐるに及ばず。だから彖辞に「小事吉」と曰う。然而小事能く吉なれば、大事も亦た則ち能く吉なり。乖離頭を尽せば終に和合に帰し、陰陽彼此貫通し、此の個の地步に到って再び求むれば、大事吉を得ざる無し。道を修する人、怎様にして先ず去りて此の個の「小事の吉」を求めざるを得んや。
