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蠱卦第十八(上艮下巽)

清 · 刘一明 · 第8巻 / 19

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

蠱:元亨,利涉大川。先甲三日,後甲三日。初六,幹父之蠱,有子,考無咎。厲終吉。九二,幹母之蠱,不可貞。九三,幹父之蠱,小有悔,無大咎。六四,裕父之蠱,往見吝。

《蠱》卦の卦辞に曰く。大いに亨通、大河を渡越するに適宜。甲の日の前の三天に於り、甲の日の後の三天に於り。初六爻。父輩の遺留した弊壊の事を整治す、此の如き児子有れば、去世せる父は便ち過なし。雖も危厲有るも、最終吉利。九二爻。母輩の遺留した弊壊の事を整治す、一端に固執すべからず。九三爻。父輩の遺留した弊壊の事を整治す、稍く悔恨有るも、却って大きな過なし。六四爻。父輩の遺留した弊壊の事に対して一味に寛縦す、此の様子に下去れば便ち困吝に遇わん。

六五,幹父之蠱,用譽。上九,不事王侯,高尚其事。

六五爻辞に曰く。父輩の遺留した敗壞の事を整治し去るは、他人の美名と声譽を借重するに憑る。上九爻辞に曰く。王侯に侍奉せず・功名利禄を求図せず、而して自己の従事する所の道徳修養一事を一切より高しと看做す。

蠱者,敗壞之義。卦德上艮止、下巽入,有一陰入而陽止之象,故曰蠱。又巽在止中,止其陰而不上進,兼有飭蠱之義。此棄假歸真之卦,承上豫卦而來。

「蠱」の字の意思は敗壞・腐壞なり。卦徳に就きて言えば、《蠱》卦の上体は艮、艮の性情は「止」、下体は巽、巽の性情は「入」。合せて便ち一股の陰気侵入して来りて、而も陽気それを止住するの象有り。だから《蠱》と呼ばれる。再び言えば、巽は艮止の籠罩の中に処り、あの股の陰気を止住して更に上に侵蝕せしめず。因ってまた兼ねて「蠱を飭す」(敗壞を整治する)の含義有り。これは一卦の後天の偽物を丢開し・先天の真体に回帰するを講ずる卦で、上一卦《豫》を承接して来る。

豫者,順而動之,順動則順時、順理,非禮不動,防其動之有蠱也。人之生初,至善無惡,渾然天理,本無可修,亦無可證,既無所傷,亦無所飭,及至二八之年,陽極生陰,性相近而習相遠,如巽之一陰,生於二陽之下,陰氣進步,由是本來面目有蠱矣。

《豫》卦の講ずるは理に順って発動するなり。順って発動するは、すなわち時機に順応し・事理に順応し、礼に合せざる事は一概に為さず、一動すれば則ち敗壞を動き出さんとするを防備するが為なり。人剛かに出生するの時、純善にして悪無く、渾然として是れ一団の天理、本来修むべき何も無く、亦た証すべき何も無し。既に損傷を受けざれば、亦た整治を須要する何も無し。十六歳上下(「二八之年」)に及ぶを待って、陽気極処に盛んなれば便ち陰気を生出し、人の本性は原本相近いるも、習染は却って人をして越えて離れて越えて遠からしむ。正に巽卦あの一根の陰爻の、两根の陽爻の底下より生出して来るが如し。陰気一歩一歩進逼し、ここにおいて人の「本来の面目」(先天本真の性)は便ち敗壞有らん。

然天道未有陰而不能陽,人事未有壞而不能修者,此飭蠱之道,所由貴也。飭蠱之道,如艮之一陽,止於二陰之上。不為陰氣所傷,藉此一陽,歸根復命,此務本之學。君子務本,本立而道生,一念回機,如同本得此蠱中,而反得元亨者也。

然而天道の中に於いて、一段として重新に陽に転ずる能わざる陰気無く、人事の中に於いても、一件として敗壞せりと雖も修整する能わざる無し。「蠱を飭す」の道の可貴は正にここに在り。敗壞を整治するの弁法は、猶艮卦あの一根の陽爻の、穏々として两根の陰爻の上に停在りて、陰気に侵傷せられざるが如し。此の一点の残存する陽気に憑藉して「根に帰り命に復す」(生命の根本に回到し・本有の天命の性を復還す)するは、これがすなわち根本を抓むの学問なり。君子は専ら根本の上に工夫を下し、根本一たび立てば、大道自然に其の中より生出す。一個の念頭回転すれば、機関は便ち扭転して来る。就好比敗壞の中に於いて反って「元亨」(大いに通達す)を得たるが如し。

元亨不在於蠱,而在於飭蠱。飭蠱之道,不在於空寂無為,須要在大險大難中修持,龍潭虎穴裡作為,方能復我本來真體,煉成金剛不壞之物,是以蠱之元亨,又利涉大川也。大川至險而難涉,大川涉利而不傷,則其小險無險之處,不得而傷,又可知矣。但涉川之利,有作用、有火候,毫髮不容有差。

「元亨」は敗壞本身に在らずして、敗壞を整治する此の件事の上に在り。敗壞を整治するの道は、枯坐空寂・一味無為に在らずして、必ず極険極難の境地の裏に於いて修持し、龍潭虎穴の一般なる処境の中に於いて工夫を做して、はじめて我本有の真体を恢復し、金剛の一様に壞れざる物を錬成する能う。だから《蠱》卦は既に元亨と称し、また「大川を渉るに利し」(大河を渡るに宜し)と曰う。大河は最も険にして最も渡り難し。大河をも渡り過ぐる能くして傷害を受けざれば、則ちあの些かの小険乃至根本に険無きの地方は彼を傷つけ得ざるは、亦た推知し得べし。ただ河を渡るの利有る所以は、其中有りて具体の作用方法有り、「火候」(功を用うの時節と分寸)有り、一絲一毫を差すも行く可からず。

先甲三日,後甲三日,正作用火候之秘訣,人之陰陽,如月之盈虧,月白初三傍晚,陽光發現於西南庚地,在卦為震,所謂震納庚也。至於十五傍晚,現於東方甲地,在卦為乾,所謂乾納甲也。十三、十四、十五,此三日光輝方圓,即先甲三日;十六、十七、十八,此三日光輝已虧。即後甲三日。人之陽氣方純,亦先甲三日,陰氣已生,亦後甲三日,甲前是陽,甲後是陰,此先天後天陰陽之界。

卦辞裏の「甲に先だつ三日、甲に後るる三日」は、正に作用と火候との秘訣を講ずるなり。人身の陰陽消長は、月亮の圓缺の同じ。月亮は初三の傍晚より起りて、陽光は西南方庚の方位に出現し、卦に於いては震と為す。これがすなわち納甲法のいう所の「震は庚を納る」。十五の傍晚に至りて、月光は東方甲の方位に満現し、卦に於いては乾と為す。これがすなわち「乾は甲を納る」。十三・十四・十五此の三天は月光正しく圓、便ち是れ「甲に先だつ三日」。十六・十七・十八此の三天は月光已に虧缺を開始せり、便ち是れ「甲に後るる三日」。人身の陽気剛かに純全の時は、先甲三日に相当す。陰気已に萌生して之後は、後甲三日に相当す。甲の前は陽に属し、甲の後は陰に属す。これがすなわち「先天」(未だ後天の污染を受けざる本元)と「後天」(形質既に成り・陰気已に雑る)との两段陰陽の分界なり。

修道者,須知的事之蠱與不蠱,皆在此先甲後甲之際。當陽氣將純之時,防陰以保陽,及陰氣已生之後,退陰以復陽,防陰氣於未生之時,退陰氣於已生之後,則陽氣未益者可以保,已蠱者可以還,此去假歸真,務本之實學,貞而未有不元亨,元亨而未有不利者也。

道を修する人は必ず明白せんを須す。事情の敗壞するか敗壞せざるかは、皆先甲・後甲此の個の交界の処に在る。当に陽気将に純全ならんとする時、則ち陰気を防住して以て陽気を保住せんを須す。陰気已に生出して之後に及ぶを待っては、則ち「陰符を退け」(陰柔の功を用いて後天の陰気を退去す)て以て陽気を恢復せんを須す。陰気未だ生ぜざるの時に於いて先ずそれを防住し、陰気已に生ぜるの後に於いて再びそれを退去すれば、こく如くして陽気は還た虧損せざるは保全し得、已に敗壞せるは追回し得。これがすなわち後天の偽を去掉し・先天の真に回帰するの務本の実学なり。正を守る(「貞」)に大通せざる無く、大通すれば亦た吉利ならざる無し。

初六,在蠱之始,根本圓成,若防陰於未蠱之先。如干父之蠱,有子隨之,考宜有咎者,即可無咎。但飭蠱之道,非是空空無為,必須危厲戒懼,庶乎客氣不生,根本不傷,能謹於始,自吉於終。此防陰於未蠱之先者也。

初六此の一爻は敗壞剛かに起頭するの時候に処り、根本は還た圓満完具す。もし能く未だ敗壞せざるの先に於いて則ち陰気を防住せば、就如同父輩の留下した敗壞の事を整治し去りて一個の好兒子有りて接續して做すが如く、本来責咎を受くべき父輩は反って責咎を受けざるを得べし。但し敗壞を整治するの道は、並びて空空洞洞として為す所無きに非ず。必ず心に危懼を存み・時時戒備して、こく如くしてはじめて「客気」(後天外来の雑擾の気)は生起せず、根本はじめて損傷を受けず。開頭能く謹慎なれば、結局自然吉利。此一爻の講ずるは未だ敗壞せざるの先に於いて先ず陰気を防住するの工夫なり。

九二,剛以柔用,柔為本而剛為乾,不過於剛,不傷其柔,剛柔如一,通權達變,如干母之蠱不可貞。此飭蠱不過於剛者也。九三,以剛乾剛,剛之太過,如父剛子剛。幹父之蠱,未免小有所悔。然在飭蠱得正,雖有小悔,可無大咎耳。此傷蠱太過於剛者也。

九二此の一爻は剛強の力量を柔順の方式の上に用いるを把る。柔を以て根本と為し・剛を以て弁事の手段と為し、剛は頭を過ぐらず、亦た柔を傷せず、剛と柔と合して一体を成し、能く権に通じ変に達す。猶母輩あの辺の敗壞の事を整治し去るも一端に固執すべからざるが如し(爻辞のいう所の「貞すべからず」)。此一爻の講ずるは敗壞を整治して剛に過ぐるを失わざるなり。九三此の一爻は剛を用いて剛事を干るを用い、剛得ること太も頭を過ぎ、好比父は剛強・兒子も亦た剛強、此の如くして父輩の留下した敗壞を整治し去れば、難を免れずして些かの小さな懊悔有り。ただ彼の整治するは還た端正を算し、雖も小悔有るも、大きな災禍無きを得べし。此一爻の講ずるは敗壞を整治する時に於いて太も剛なるを失するなり。

六四,獨柔無剛,有蠱而不即飭,姑息養奸,如父有蠱而子裕之,以是往而修道,邊以自取羞吝耳。此飭蠱太過於柔者也。六五,柔順虛心,示己之無,稱人之有,如干父蠱而用譽也。以譽而用,借他家之剛明,以破我家之昏暗,有蠱即可歸於無蠱。此飭蠱善用其柔者也。

六四此の一爻はただ柔有りて剛無し、已に敗壞有るも却って即上に整治せず、一味に姑息して、反って禍患を養い大ならしむ。猶父輩に敗壞の事有るも兒子はただそれを寛縦するを知るが如し。此の如き態度を拿って道を修めば、ただ自ら羞辱悔恨を取る能うのみ。此一爻の講ずるは敗壞を整治する時に於いて太も柔なるを失するなり。六五此の一爻は柔順にして虚心、肯んじて自己の所有無きを承認し、肯んじて別人の確かに所長有るを称許す。猶父輩の敗壞を整治して美譽を借重するが如し。美譽を借重するの作用は、「他家」(彼方、真陽の所在する一辺を指す)の剛強明白を借りて、来たりて「我家」(此方、自己の一辺を指す)の昏昧黒暗を破らんが為なり。敗壞有るも亦た便ち敗壞無きと変じ得べし。此一爻の講ずるは敗壞を整治する時に於いて善く柔道を運用するなり。

上九,剛居於柔,無貪無求,根本不傷,無蠱而亦不飭,是以不事王侯,高尚其事也。不事王侯者,不圖名利之事也。高尚其事者,尚其道德之事也。尚道德而不圖名利,其居高、其事大,止於至善之地而不遷,俯視一切,萬物皆空,根本堅固,不待修為,而自無蠱。此無蠱而亦不飭者也。

上九此の一爻は剛爻を以て柔位に居り、貪むる無く・求むる無く、根本に於いて傷を受けず。既に敗壞無ければ、亦た整治を用いず。だから「王侯に事えず、其の事を高尚にす」と曰う。いわゆる王侯に事えずとは、すなわち功名利禄を求図し去らざるなり。いわゆる其の事を高尚にすとは、すなわち道徳修養此の件事を把って最高と看做すなり。道徳を崇尚して名利を図らざれば、其の居る所の位分は則ち高く、做す所の事情は則ち大なり。至善の境地の上に停在りて復た遷移せず、世間の一切を俯視し、万物は彼の眼裡に於いて皆是れ空なり。根本既に堅固なれば、刻意の修為を用いず、自然に便ち敗壞無し。此一爻の講ずるは本来敗壞無く、因って亦た整治を須とせざるの境界なり。

然則飭蠱務本之道,總以陰陽混合,止於至善為歸著。若未到至善之地,雖無大蠱,難免小蠱,故蠱之元亨,利於涉大川。大川涉而利,自有為而入無為,性命皆了,形神俱妙,與道合真,永為堅久不壞之物,飭蠱之道盡矣。

こく如く視れば、敗壞を整治し・返って根本を求むるの道理は、総帰して陰陽混合して一を為し・至善の地に停在る此の一点に落つんを要す。もし還た至善の地步に到らざれば、縦い大きな敗壞無くとも、亦た難を免れずして小さな敗壞有り。だから《蠱》卦は元亨を講じ、また大河を渡るに宜しと曰う。大河渡り過ぎてその利を得れば、則ち「有為」(意を著けて工夫を做すの段階)より転じて「無為」(自然に運化するの段階)に入り、性と命と倶に了結完畢し、形体と精神と一斉に神妙に帰し、大道と合して真と為り、永遠に堅固長久壞れざるの物と為る――敗壞を整治するの道は、此に至って則ち講じ尽くせり。

上坤下兌(臨卦第十九)

臨:元亨,利貞。至于八月有凶。初九,咸臨,貞吉。九二,咸臨,吉無不利。六三,甘臨,無攸利;既憂之,無咎。六四,至臨,無咎。六五,知臨,大君之宜,吉。上六,敦臨,吉,無咎。

《臨》卦の卦辞。大いに亨通、正を守るに宜し。八月に至って凶険有らん。初九爻辞。真情を以て感通して下に臨み、正を守れば則ち吉利。九二爻辞。真情を以て感通して下に臨み、吉利、一様として利あらざる無し。六三爻辞。甜言蜜语を用いて下に臨みに行けば、一様として利有るは無し。もし能く此の為に憂懼警醒せば、則ち過有ることなし。六四爻辞。親身に切近に下に臨み、過なし。六五爻辞。明智を以て下に臨みに行けば、此れ正に大君の応有の做法、吉利。上六爻辞。敦厚篤実を以て下に臨み、吉利、過なし。

臨者,監察也。卦德上坤順、下兌悅,悅而順理,順行其悅,故謂臨。此臨爐採藥之卦,承上隨卦而來。隨者,以震家而求兌家,以兌家而歸震家,所謂金來歸性初,乃得稱還丹。陽氣已復,從微而著,漸次增長,於是臨爐下功,扶陽抑陰,陽氣未有不長,陰氣未有不消者。此臨所以有元亨之道也。

「臨」は高く居りて下に臨み・監視察看するの意。卦徳に就きて言えば、上体は坤、坤の性情は順、下体は兌、兌の性情は悦。喜悦にしてまた理に合し、理に順って其の喜悦を施行す。だから《臨》と呼ばれる。これは「炉に臨み薬を采る」(丹炉に臨近し・先天真陽の気を采取する)を講ずる一卦で、上一卦《随》を承接して来る。《随》卦の講ずるは震此の一家を以て兌此の一家を求取し、再び兌此の一家を以て震此の一家に帰還し去るなり。亦たすなわち丹経のいう所の「金来りて性初に帰し、乃ち還丹と称するを得」――真金の気本性の初に回帰して、はじめて還丹と称呼するに配す。陽気既に回復せり、微弱より顕著に転じ、一層一層増長し、ここにおいて炉に臨みて動手して工夫を做し、陽気を扶助し・陰気を抑制すれば、陽気増長せざる無く、陰気消退せざる無し。これがすなわち《臨》卦の元亨の道有る所以の縁故なり。

元者,一陽初回。亨者,二陽增升。臨爐下手即採此二陽也。但二陽浸長,陰氣猶盛,陽氣猶弱,必須防危慮險,勿忘勿助,以和為體,以順為用,隨時而行,欲取於彼,不失於我,惟利於貞耳。

いわゆる「元」は、一陽剛かに返回し、即ち《復》卦の一陽来復のあの一歩なり。いわゆる「亨」は、二陽継続して升長し、即ち《臨》卦の二陽浸長の此の一歩なり。炉に臨みて動手するは、采る正に此の二陽の気なり。但し二陽雖も漸長に在るも、陰気還た盛んにして陽気還た弱し。必ず危を防ぎ険を慮り、忘るることなく亦た助長せず(「忘れず助けず」)、中和を以て本体と為し、柔順を以て運用と為し、時機に随って行事し、彼処より取り来たらんと欲して、又た自己此の辺の根本を失掉せざらんとす――だから唯だ正を守るのみ利有り。

貞者,正也。以正而臨,時未至而不強求,時已至而不錯過,火候爻銖不差,元氣不洩,生機不息,其行亨通,而無所阻矣。否則,不知藥物老嫩,不明功夫急緩,冒然下手,速欲成功,藥物不真,火候有差,其進銳者其退速,必至二陽順長者,未幾而二陽又消,臨反為觀。至于八月有凶,不貞即不利,不利則元而不亨,得而復失,大事去矣。故臨爐之道,必以和緩順時,不失火候為貴歟。

「貞」とはすなわち正。正道を以て臨み去れば、時機未だ到らざれば強求せず、時機到れば錯過せず、火候の分毫斤両皆差えず、元気は外に洩れず、生機は停息せず。此の様に行き去れば自然に亨通して、阻礙無し。否れば、「薬物」(采る所の先天真陽の気)の是れ老是れ嫩を懂れず、工夫の該急該緩を明白せず、冒冒失失に則ち動手し、一心に快を求め、薬物真ならず、火候誤有り、進むること越えて猛ければ退くること越えて速く、必定して本来順利に増長する二陽を、多久しからずして又た消退して回去するに弄り至らん、《臨》卦倒転して《観》卦と成る。いわゆる「八月に至って凶有り」とは、即ち正を守らざれば便ち利なく、利なければ則ち雖も「元」有るも「亨」する能わず、手に到りて了又た失掉し、大事は則ち了えり。だから炉に臨むの工夫は、必ず和緩・時機に順応し・火候を錯えざるを以て貴しと為さんを須す。

初九,在臨爐之始,陽氣方生,而能剛以處之,一念純真,有感即臨,以正而感,不正不感,正而未有不吉者。此謹慎於初之臨也。九二,陽氣浸長,剛柔如一,寂然不動,感而遂通,陽戀陰而陰戀陽,大小無傷,生機不息,自微而著,終必至於陽氣純全之地。此剛氣吉利之臨也。

初九此の一爻は炉に臨むの開頭に処り、陽気剛かに生出し、而して能く剛健の徳を以て自処し、一個の念頭純真雑無く、一たび感応有れば則ち臨み上がる。正道を以て感じ、正ならざれば則ち感じ去らず。端正なれば則ち吉利ならざる無し。此一爻の講ずるは開頭に於いて就きて謹慎なるの臨なり。九二此の一爻は、陽気漸漸増長し、剛と柔と渾然として一体を成し、寂然として動かずして一感すれば便ち通ず。陽は陰を戀し・陰は陽を戀し、大なる小なる倶に損傷を受けず、生機停まらず、微弱より顕著に由りて、最終に必ず陽気純全の地步に到達す。此一爻の講ずるは剛気当を得て・吉にして利有るの臨なり。

六三,柔而無知,口是心非,務外失內,是謂甘臨。臨至於甘,能言不能行,一無所利可知,既無所利,甘變為苦,憂所必有。然既悅之,自卑自下,虛己求人,則回頭是岸,有咎者亦可以無咎。此棄假就真之臨也。

六三此の一爻は柔弱にして見識無く、口裡の説くと心裡の想うと一致せず、ただ外面に於いて功を用いて裏面を丢了す。これを「甘臨」と呼ぶ、即ち甜き話を用いて臨みに行くなり。臨みて只剩甜言蜜語の地步に到れば、説き出す能くして做り到る能わず、一様の好処も有らず。これは明らかに擺れたるなり。既に一の利も無き所に在れば、甜きも亦た苦に変じ、憂愁は免るべからざるなり。しかるに彼既に能く此に対して心から悦服し、肯んじて自ら卑く自ら下にして、自己を放空して人に求教せば、則ち回頭は是れ岸、本来過有るも亦た過無きと変じ得べし。此一爻の講ずるは虚偽を丢開し・真実に帰就するの臨なり。

六四,柔而守正,煉己持心,以待初生之陽,是為至要之臨。臨於至要,大藥發現,自無當面錯過之咎。此乘時採藥之臨也。六五,柔順得中,以無求有,以虛求實,是謂能知其臨。能知其臨,則心君清泰,神明內照,彼到而我待之,陽來則陰受之,急緩止足,無不合宜,先天之氣,自虛無中結就矣。此混合陰陽之臨也。

六四此の一爻は柔順にして能く正を守り、先ず「己を錬り心を持す」(心性を鍛煉して把持し得住せしむ)の工夫を做して、以てあの初生の一点の陽気を等候す。これは最も緊要なる一歩の臨なり。此の個の緊要の処に臨み住めば、「大薬」(先天一気の凝成した丹母)一たび発見すれば、自然に当面錯過の過失を犯さず。此一爻の講ずるは時に乗じて薬を采るの臨なり。六五此の一爻は柔順にして中道を得、自己の「無」を以て彼処の「有」を求め、自己の「虚」を以て彼処の「実」を求む。これを能く怎様に臨むを知ると呼ぶ。能く怎様に臨むを知れば、則ち心君清寧安泰にして、神明内に向かって照察し、彼方到來して我が此の辺静静としてそれを等待す。陽気一たび来れば、陰は則ちそれを接納して来る。該急該緩・該停該足に恰当ならざる無く、「先天之気」(未だ形質に落ちざる本元の真気)自然に虚無の中より凝結成就す。此一爻の講ずるは陰陽を混合するの臨なり。

上六,在臨之終,自有為而入無為,返樸歸醇,至善無惡,不識不知,順帝之則,是謂敦臨。臨至於敦,則如如穩穩,有無不立,物我皆空,本來面目全現。此全始全終,有吉無咎之臨也。

上六此の一爻は《臨》卦の末尾に処り、有為の段階より無為の段階に進入し、質朴に返回し醇厚に帰し、純善にして悪無く、刻意に認識し去らず・刻意に知解し去らず、ただ天然の法則に順って行うのみ。正に《詩経・大雅・皇矣》のいう所の「識らず知らず、帝の則に順う」なり。これを「敦臨」と呼ぶ。臨みて敦厚の地步に至れば、則ち如如として穏々、「有」と「無」の両辺倶に立てず、外物と自我と一斉に空に帰し、「本来の面目」全部顕現す。此一爻の講ずるは始有り終有り・吉有り咎無きの臨なり。

觀於六爻,各有臨道,惟三爻甘臨不利,其餘五爻,皆隨時而行,進退急緩,俱有妙用,實為臨爐火候之指南。學者能於臨卦中鑽研出個消息,則金丹火候,可得其大半矣。

通観六爻、毎一爻皆各々其の臨の道理有り、ただ第三爻の甜言蜜語の臨のみ是れ利ならず。其の余の五爻は皆能く時機に随って行動し、進むも好し退くも好し・急ぐも好し緩めるも好し、皆妙用有り。実在に是れ炉に臨む火候の一份の指南なり。道を学ぶ人もし能く《臨》卦の裏より一点の消息を钻研し出せば、則ち金丹の火候は、就きて一大半を掌握し得べし。

上巽下坤(観卦第二十)

觀:盥而不薦,有孚顒若。初六,童觀,小人無咎,君子吝。六二,窺觀,利女貞。六三,觀我生,進退。六四,觀國之光,利用賓于王。九五,觀我生,君子無咎。上九,觀其生,君子無咎。

《観》卦の卦辞。猶祭祀の時に剛かに手を洗い過ぎて・未だ祭品を献上せざるのあの一刻、心中誠信にして外貌荘敬なるが如し。初六爻辞。児童の如き浅陋に観看す、小民の身上に於いては過と算せず、君子の身上に於いては則ち羞吝と成る。六二爻辞。門縫の裏より偸看す、此れは女子の正を守るに利有り。六三爻辞。自己の所為所作を省察し、拠って以て進むか還た退くかを決定す。六四爻辞。一国の光輝気象を観看す、君王の賓客を為すに宜し。九五爻辞。自己の所為所作を省察す、君子此の如くせば過なし。上九爻辞。他人の所為所作を観察す、君子此の如くせば過なし。

觀者,覺察戒慎之義。卦德上巽入、下坤順,順時而漸進,進之而不猛,有覺察之義,故謂觀。此神明覺察之卦,承上蠱卦而來。蠱者,巽在止中,止其陰氣不能入,所以飭蠱也。飭蠱之道,非神明覺察之功不能。覺察之功全在於後天中返先天,順道中行逆道。人當陰盛陽弱之時,如本卦四陰順生,二陽漸消,陽氣勢必為陰氣所消盡。

「観」は覚察・戒懼謹慎の意。卦徳に就きて言えば、上体は巽、巽の性情は入、下体は坤、坤の性情は順。時機に順って一層一層漸進し、進みて猛からず、覚察の義を含む。だから《観》と呼ばれる。これは「神明覚察」(精神明澈にして時時内省照察す)を講ずる一卦で、上一卦《蠱》を承接して来る。《蠱》卦は巽が艮止の籠罩の中に処りて、陰気を止住してそれを侵し入る能わざらしめたるなり。だから能く敗壞を整治す。而して敗壞を整治するの道は、非ずんば神明覚察の工夫有らざれば可ならず。覚察の工夫は、全て「後天中より先天に返る」――形質已に成れる後天の身心の裏より未だ污染を受けざる先天の本元に返回し、順行の造化の中に於いて逆修の路を走る――に在り。人は陰盛陽弱の時候に処れば、猶此の一卦の四根の陰爻が勢いに順って生長し・两根の陽爻が漸漸消退するが如く、陽気は勢い必ず陰気に消磨して乾浄せられん。

神明覺察者,逆此弱陽,而不為陰氣所傷也。但人氣質有拘,積習已深,陰氣不能遽然而順,是必用漸修之功,順其欲而徐緩導之,使其自消自化,自順自退耳。何則?真者來而假者自化,內能誠而客氣自無。陽漸進於上,陰順退於下,陽統陰而陰順陽,陰陽相應,內外如一,猶如祭神盥而不薦,有孚顒若也。

いわゆる神明覚察とは、則ち此の一点の微弱の陽気を逆って運び回し、それをして陰気に傷せられざらしむるなり。但し人は気質の拘限を受け、積習已に很く深し。陰気は一下子に順服する能わざるを肯んぜず。だから必ず漸修の工夫を用い、其の欲望に順って慢慢と引導して、それをして自ら消し・自ら化し、自ら順服し・自ら退去せしむ。何を為にや。真の一來すれば、偽は自然化去し、内心能く誠なれば、「客気」(後天外来の雑擾の気)自然消失す。陽は一層一層上に向かって進み、陰は順服して下に向かって退き、陽は陰を統摂して陰は陽に順從し、陰陽互いに呼応し、内外渾然として一体を成す。猶神を祭る時に手を洗い浄め了れども未だ祭品を献上せざるのあの一刻、心中に誠信有りて外貌粛穆恭敬なるが如し。

盥者,以水淨手也。薦者,以物供祭也。有孚者,誠信於中也。顒若者,溫恭於外也。凡祭神先淨手,誠信於中;後供物,溫恭於外。取其用誠漸感,以神交而不以形交,神觀之義。

「盥」は水を用いて双手を洗い浄むるなり、「薦」は祭品を拿って供奉するなり、「有孚」は内心誠実守信するなり、「顒若」は外表温和恭敬するなり。凡そ神を祭るは、先ず手を洗い、取る所は内心の誠信なり。後に物を供え、取る所は外表の温恭なり。看重する所は誠意を用いて慢慢と感通し、精神を以て交接して形迹を以て交接せざるを用いるに在り。これがすなわち「神観」(神を以て照察し、而も眼睛を用いて去看せず)の意思なり。

修真之道,如祭神也,先誠信於心,而後行持於身,神明默運,不疾而速,以誠而入,以柔而用,陰陽隔礙潛通,虛室生白,由神觀而至大觀,一粒黍珠懸於太虛之中,光輝朗耀,山河大地,如在掌上,一步一趨,皆合妙道,更何有陰不順,而陽不還哉?

真を修るの道は猶神を祭るが一般。先ず心裡に於いて誠信を立定し、然る後に身上に於いて切実に行持す。神明は暗中に於いて運転し、急促を見ずして自然迅速なり。誠意を以て進入し、柔道を以て運用すれば、陰陽の間の原本隔閡する地方暗暗として貫通し、空虚の心室の裡に自然に光明を生出す。亦たすなわち《荘子・人間世》のいう所の「虚室白を生ず」なり。「神観」より進みて「大観」に至れば、一粒の黍米大小の丹珠太虚の中に懸り、光輝朗照して、山河大地皆手掌の上に擺れるが如し。一挙一動妙道に合せざる無し。どこが尚陰気の順服せざる・陽気の返還せざるの事有らんや。

噫!神而明之,存乎其人,須要知的本卦順而巽進,進本於順之妙義,知之則神觀大觀,保真除假而長生;不知則小觀近觀,認假棄真而傷生,只在觀之真假上分別耳。

ああ。《周易・繫辞上》に曰く「神にしてこれを明らかにするは、其の人に存す」。能く神妙に領会して施行するや否やは、全て此の個の人の自己を視る。必ず此の一卦の「順にして巽進し」・進歩は順服の上に建立せらるるの妙義を懂れんを須す。懂れば、則ち是れ神観・大観、真を保住し・偽を除掉して長生を得。懂れざれば、則ち小観・近観と成り、偽を認めて真と作し・真を丢きて生機を戕害す。分別はただ観る所の是れ真是れ偽に在るのみ。

初六,昏暗至極,自暴自棄,甘居於下愚不移之地,此頑童無知之見。在衣食小人,亦無足咎,至於修道君子,所當觀大不觀小,而亦甘居於人下,適以羞吝而已。此至下之觀也。

初六此の一爻は昏昧極点に至り、自暴自棄して、甘んじて下愚移らざるの地位の上に待在るを心とす。これは頑劣児童の一般なる無知の見識なり。ただ衣食の為に奔忙する小民の身上に於いては、還た責怪するに値せず。道を修するの君子に至っては、本来応に其の大を観て其の小を観ざるべし。もし亦た甘んじて別人の下に落ちんか、則ちただ自ら羞辱を取るのみ。此一爻の講ずるは最も下等の観なり。

六二,柔而中正,處於小人之中,而不為小人所誘矣。然雖不為所誘,獨修一己之陰,不求他家之陽,所見不遠,如門內窺觀,不敢出門,在女子守貞則利。至於丈夫修德立業,則非所利矣。此不遠之觀也。

六二此の一爻は柔順にして中に居り正を得、雖も小人の中間に処るも小人に引誘せられず。然而雖も引誘を受けざるも、却ってただ自己の一身の陰を修めて、去りて「他家」(彼方)の陽を求めず、見る所遠からず。好比門の裏に於いて門縫より外に向かって偸看し、門を跨ぎ出で去るを敢えてせざるが如し。此れは女子の貞を守るに於いては利有る。大丈夫の徳を修め業を立つるに至っては、則ち利有るを談ずるに及ばず。此一爻の講ずるは見識遠からざるの観なり。

六三,在觀上下之際,是觀其我生之善否,而進退之也。觀我生者,果善則進,而再觀人之善,以增我之善不到處;觀我生者,不善則退,而不遽觀人之善,先去我之所不善。此知進退之觀也。

六三此の一爻は上下两体の交界の地方に処り、是れ自己の所為所作の好きか否かを省察し、拠って以て進むべきか還た退くべきかを決定す。自己を省察して、もし確実に是れ善なれば、則ち前に往きて進み、再び別人の善処を看て、以て我自己の善きて尚足らざるの地方を補足せん。自己を省察して、もし是れ善ならざれば、則ち退回り来て、別人の善を看るを急がず、先ず自己の身上の善ならざるの地方を去掉す。此一爻の講ずるは進退を懂れるの観なり。

六四,柔而得正,親近有道之士,是謂觀國之光。能觀國光,借彼之大觀,以濟我之小觀,小即能大,饒他為主我為賓,如用賓于王之利。此以小借大之觀也。

六四此の一爻は柔順にして正を得、能く道有るの士に親近す。これを「国の光を観る」と呼ぶ。能く一国の光輝気象を見れば、則ち人家の大観を借りて来て我が小観を補救し得、小なるも亦た能く大と変ず。妨げず彼をして主人を為さしめ・我は賓客を為せば、正に爻辞のいう所の君王の賓客を為すに宜しきが如し。此一爻の講ずるは小を以て大を借るの観なり。

九五,巽進於中正之位,剛柔相當,正大藥發生凝結命寶之候。觀我生者,正觀其我生之大藥,歸於中正耳。藥歸中正,藥即是火,火即是藥,一時辰內管丹成。但此一時之功,難得易失,必須深明火候大觀之君子,方無當面錯過之咎。此有為之大觀也。

九五此の一爻は巽順の徳を以て中正の位置上に進み、剛と柔と恰好相当す。正に「大薬」発生し・凝結して「命宝」(性命の根本の至宝)を成すの時候なり。いわゆる「我が生を観る」とは、正に我がここに生出したる大薬を省察し、それをして中正の上に帰せしむるなり。薬中正に帰せば、薬は則ち是れ火、火は則ち是れ薬、一個の時辰の内に於いて則ち能く丹を保して結成せしむ。但し此の一個の時辰の工夫は得難くして失い易し。必ず是れ火候を深明するの大観の君子にして、はじめて当面錯過の過失を犯さざるを得。此一爻の講ずるは有為段階の大観なり。

上九,在觀之終,是聖胎已結,可以剛居於柔,由大觀而又神觀,棄有為而入無為矣。觀其生者,正觀其陰氣潛生以退之耳。陰氣退盡,陽氣純全,真人出現,不為造化所拘,方是修道君子,成始成終,一無所咎之觀矣。此無為之神觀也。

上九此の一爻は《観》卦の末尾に処り、「聖胎」(内丹凝結の象)已に結成し、剛を以て柔に居り、大観より再び進みて神観に至り、有為を丢開して無為に進入する能う。いわゆる「其の生を観る」とは、正にあの陰気の暗処に於いて萌生するを察看し、以て及び時にそれを退掉せんとするなり。陰気退け尽くし、陽気純全なれば、「真人」(修成せる本真の体)顕現して、復た造化の拘束を受けず。これがはじめて道を修る君子の始有り終有り・一も過咎無きの観なり。此一爻の講ずるは無為段階の神観なり。

然則神觀大觀,覺察之道,修道者始終不可離者也。始而有為以大觀,終而無為以神觀,神觀大觀,兩而合一;藥物得真,火候有準,金丹焉得不成。觀之為用大矣哉。

こく如く説き来れば、神観と大観と此の一套の覚察工夫は、道を修る人の頭より尾まで離れ去る能わざるなり。開頭は有為段階に於いて大観を用い、末了は無為段階に於いて神観を用い、神観と大観との两者合して一個を成す。薬物采り得て真に、火候拿り得て准なれば、金丹成らざるの道理有らんや。観の作用は真に太も大なり。

上離下震(噬嗑卦第二十一)

噬嗑:亨,利用獄。初九,屨校滅趾,無咎。六二,噬膚,滅鼻,無咎。六三,噬臘肉,遇毒,小吝,無咎。九四,噬乾胏,得金矢,利艱貞,吉。六五,噬乾肉,得黃金,貞厲,無咎。上九,何校滅耳,凶。

《噬嗑》卦の卦辞。亨通、刑を用いて獄を断ずるに宜し。初九爻辞。脚上に木枷を戴き、脚趾を遮没す、過なし。六二爻辞。皮肉を咬み、深くして鼻子をも陥没す、過なし。六三爻辞。風干したる腊肉を咬み、毒物を吃到す、小さな悔吝有るも、過無し。九四爻辞。骨帯びたる干肉を咬み、金属の箭鏃を咬み出す、艱難の中に正を守るに宜し、吉利。六五爻辞。風干したる瘦肉を咬み、黄金を得、正を守りて心存に戒懼し、過なし。上九爻辞。肩上に木枷を扛ぎ、耳朵を遮没す、凶険。

噬者,食也。嗑者,合也。食物口合之義。卦體上下二陽象唇,三陰象齒,中一陽象口中有物。又卦德上離明、下震動,動而必明,明而後動,有不空於動之義,故謂噬嗑。此格物致知窮理之學,承上臨卦而來。臨者,二陽而臨四陰,所以進陽採藥也。但藥物有老嫩,火候有時刻,毫髮之差,千里之失,此窮理功夫不可缺也。

「噬」は即ち是れ喫す、「嗑」は即ち是れ合す。合せて是れ口中に物を含み・上下咬合するの意。卦体に就きて言えば、上下两头の陽爻は嘴唇に像り、当中の三根の陰爻は牙歯に像り、中間あの一根の陽爻は口裡に物を含むに像る。卦徳に就きて言えば、上体離は明と為り、下体震は動と為る。一動すれば則ち必定して明を帯び、明白して之後に動く。空動せず・妄動せざるの意を含む。だから《噬嗑》と呼ばれる。これは格物致知・事理を窮究するを講ずる一卦で、上一卦《臨》を承接して来る。《臨》卦は二陽四陰に臨み、講ずるは陽を進め薬を采るなり。但し薬物は老有り嫩有り、火候は厳格の時刻有り、毫髪を差せば便ち千里を失う。だから理を窮むる此の一層の工夫は決して缺くべからざるなり。

蓋了性了命之學,全在窮理上定優劣,明得一分,行得一分,明得十分,行得十分,或知性而不知命,或知命而不知性,或知有為而不知無為,或知無為而不知有為,或知藥物而不知火候,或知下手而不知結果,凡此皆是窮理不徹,而行持必不通,惟欲動之,須先明之,先明後動,動而無不如意,是以噬嗑用明中之動,有亨道也。明中之動,動必本明,其亨其利,有象治獄。天下難治之事,莫如獄,獄之真情不明,是者為非,非者為是,冒然用刑,殃及無辜,誤傷性命。

大凡性を了し命を了するの学問は、優劣全て理を窮むるの上に於いて高下を分つ。一分明白せば則ち一分做し得、十分明白せば則ち十分做し得。人ありて性を知りて命を知らず、人ありて命を知りて性を知らず。人ありて有為を知りて無為を知らず、人ありて無為を知りて有為を知らず。人ありて薬物を知りて火候を知らず、人ありて怎様に下手するを知りて怎様に收成するを知らず。凡そ此の種種は、皆是れ理を窮めて窮め透らざるなり。行持して起き来れば必定して処々通ぜず。動かんと要せば、則ち先ず明白せんを須す。先ず明白して而る後に動けば、一動して称心如意せざる無し。だから《噬嗑》卦の用いる所は「明中の動」(明白の基礎の上に於いて発動す)なり。因って亨通の道有り。明中の動は、動は必ず明を以て本と為す。其の亨・其の利は、獄を断ずるに取象す。天下最も弁み難きの事は獄訟に過ぐる莫し。案情の真相明ならずんば、对なるを錯りと成し、錯れるを对と成し、冒冒失失に則ち刑を用いて、無辜に殃及し、白白と人の性命を傷つく。

修道如治獄也。辨別真假是非,如治獄之審斷善惡,去假存真,而保性命,如治獄之賞善、罰惡,而伸冤屈。人能以治獄之道窮究其實理,則明於心而見於行,盡性至命,未有不亨不利者也。

道を修るは猶獄を断ずるが一様。真偽是非を辨別するは、好比獄を断ずる時に善悪を審断するなり。偽を去掉し・真を留住して以て性命を保全するは、好比獄を断ずる時に善を賞し悪を罰して以て冤屈を伸雪するなり。人もし能く獄を断ずるが如き態度を用いて其中の実理を窮究し去れば、則ち能く心裡に於いて明白し・行事の上に於いて体現し出し、性を尽し命に至りて、亨通せず・順利せざる無し。

初九,剛而不明,冒然前進,進必至咎,是以屢校滅趾,以戒其足,勿妄動。不變動於初,自不致咎於終。此行道先貴窮理也。

初九此の一爻は剛強にして事理を明白せず、冒冒失失に則ち前に往きて闖る。一進すれば必定して過失を招来す。だから爻辞は脚上に枷を戴き・脚趾を遮没するの象を用いて彼の脚を警戒し、彼をして妄動せざらしめんと叫ぶ。開頭乱動せざれば、末了自然に過失有るに至らず。此一爻の講ずるは道を行うは先ず理を窮むるを以て貴しと為すなり。

六二,柔而不剛,見理未真,僅得其膚廓,未得其肯綮,若急欲行之,不但無補於內,而且有傷於外,如噬膚滅鼻矣。鼻所以辨香臭,口食物而鼻先臭之。口不知味,雖鼻能辨,亦屬於無用。幸其柔而中正,見理未真,不敢行持,得以無咎。此窮理未入者也。

六二此の一爻は柔弱にして剛ならず、理を見ること還た真切ならず、ただ一層の表皮を摸り到るも、筋骨要害の処(「肯綮」)を摸り到らず。もし急ぎて実際に行かんと要せば、但だ内に向かって補益無きのみならず、反って外に向かって損傷有らん。猶皮肉を咬みて鼻子をも陥没するが如し。鼻子は香臭を辨別するを用いる、口物を喫せんと要せば、鼻先ずそれを聞く。口既に味道を嘗め出す能わざれば、縦い鼻子能く辨ずるも、亦た用無きに等し。幸いに彼は柔順にして中に居り正を得、理を見るに真ならざれば則ち敢えて贸然として行持せず。因って過無きを得るを以てす。此一爻の講ずるは理を窮むる還た門に入らざるなり。

六三,居二之上,識見稍高於二,較二更進一層,如噬臘肉也。肉在膚內,肉至於臘,須剛烈深入而後知味。三雖進益,猶未得真,似是而非,若有妄動,必反招凶,如噬臘肉遇毒矣。然志剛而性柔,不能成事,亦不敗事,雖有小吝,終得無咎。此窮理漸入者也。

六三此の一爻は六二の上に居り、識見は六二に比して略かに高く、六二に比して更に一層進めり。好比風干したる腊肉を咬むが如し。肉は皮の裏面に長じ、肉は又た干りて腊と成り、須く剛烈に深く咬み入りてはじめて味道を嘗め出し得べし。六三雖も長進有るも、還た真を得着せず、是に似て而も非なり。もし此の時に於いて妄動せんか、反って必定して凶を招かん。正に腊肉を咬みて却って毒を吃到するが如し。ただ彼心志剛にして性情柔、事を成す能わず、亦た事を敗る能わず。雖も小さな羞吝有るも、終究として過無きを得。此一爻の講ずるは理を窮むる漸漸門に入るなり。

九四,居於明體,在三之上,窮理較三更進一層,如噬乾胏矣。胏為貼骨之肉,絲膜相雜,骨肉相連,又至於乾,不易剝去,若不刻入深進,而不能見真。以象取之,得金矢;以理取之,利艱貞。艱貞之利,不能辨而強辨,深造自得,如用金矢,而無微不入,似是而非之假,可以一概剝去,而得其真。明明朗朗,明於動而動之,無有不吉者。此窮理見真者也。

九四此の一爻は離明の体中に居り、又た六三の上に在り、理を窮むるは六三に比して更に一層進めり。好比骨帯びたる干肉を咬むが如し。「胏」は骨頭に貼り着ける肉、絲絲の筋膜其の間に夾雑し、骨肉相連なり、又た干硬し、剥き下ろすに容易ならず。もし刻苦して深入せざれば、則ち真を見る能わず。象の上より取れば、是れ金属の箭鏃を咬み出すなり。理の上より取れば、是れ艱難の中に正を守るに宜しきなり。艱難に正を守るの利有る所以は、辨え清め難きの地方に於いて硬として辨え清めんと要し、深深と造就して自ら所得有るに在る。猶金箭鏃を用うるが一様、再び細微なるの地方も亦た鑽り入り得、あの些かの是に似て而も非なるの偽物は一概に剥掉し得、従って真を得着す。心裡明明朗朗として、明白して再び動けば、吉利ならざる無し。此一爻の講ずるは理を窮むる已に真処を見たるなり。

六五,居於四上,柔而虛中,窮理較四更進一層,如噬乾肉矣。窮理至四之金矢,是非邪正,判然分明,如干肉而噬之無味,無容再嚼矣。然雖無味,猶當溫故知新,於已明之理,更下一層功夫,已明而益求其明,必無一毫疑惑,而後篤行之。以象取之得黃金,以理取之為貞厲。黃金者,明而歸中。貞厲者,正而驚懼,虛中驚懼,實見得有些一番道理。明於內而驗於外,無行不合道,無事不得吉。此窮理絕無一疑者也。

六五此の一爻は九四の上に居り、柔順にして中間空虚、理を窮むるは九四に比して又た一層進めり。好比風干したる瘦肉を咬むが如し。理を窮めて九四金箭鏃あの一歩に至れば、是非邪正已に判然として分明、猶干肉咬み起きて已に味道無く、再び嚼むを用いざるが如し。然而雖も已に味無しと雖も、還た応に故を温めて新を知り、已に明白せる道理の上に再び一層の工夫を下し、明白して還た更に明白を求め、必ず一絲一毫の疑惑無くして、然る後に乃ち篤実に做し去るべし。象の上より取れば是れ黄金を得るなり、理の上より取れば是れ正を守りて戒懼すなり。いわゆる黄金とは、是れ明白にして中道に帰すなり。いわゆる貞厲とは、是れ端正にして心に驚懼を存すなり。中間空虚・心に驚懼を存して、はじめて真に其中の一番の道理を見出す能う。裏面明白して再び外面に到りて験証せば、行は道に合せざる無く、事は其の吉を得ざる無し。此一爻の講ずるは理を窮むる一点の疑惑も無きの地步に到るなり。

上九,剛而不明,不知辨別實理,誤用聰明,入於旁門,空空一世,終歸泯滅,是以何校滅耳也。目明而耳聰,不能明理,應滅其目,何至來耳。蓋以迷人不明大道者,皆由亂學亂問,聽信盲師,不辨真假,著空執相,每多招凶受害,其禍根在耳。出乎爾旨反乎爾,不明於始,受傷於終,理有可決。此絕不知窮理者也。

上九此の一爻は剛強にして明白せず、真実の道理を辨別するを懂れず、聡明を錯った地方に用い、傍門左道に走進し、空しく一生を過ぎ、最終に泯滅に帰す。だから爻辞に肩上に枷を扛ぎ・耳朵を遮没すと曰う。説くに依れば眼睛は明を主り・耳朵は聡を主る。既に理を明らかにする能わざれば、遮没すべきは応に眼睛なるべし、怎様にして反って耳朵の上に説き到るや。これは迷途の人の大道を明白せざる所以は、皆乱学乱問に由り、瞎眼の師父を聴信し、真偽を辨えず、或いは空に執着し・或いは相に執着し、往往として凶を招き害を受くるに因る。禍根は則ち耳朵の上に在り。《孟子・梁惠王下》の曽子の話を引く所に曰く「爾より出づる者は、爾に反る者なり」。開頭明白せざれば、末了則ち傷害を受くべし。これは道理の上に於いて断定し得べきなり。此一爻の講ずるは完全に理を窮むるを懂れざるなり。

然則窮理功夫,須要剝去一層又一層,直剝到道之骨髓處,無些子疑惑,方是真知灼見。若未到道之骨髓處,猶有隔礙,未云得真,不可妄動自招其禍。噫!縱識硃砂與黑鉛,不知火候也如閒,大都全借修持力,毫髮差殊不結丹。窮理工夫,豈小焉哉!

こく如く説き来れば、理を窮むるの工夫は必ず一層一層に剥き、一直に剥きて大道の骨髓の処に到り、一点の疑惑も無くして、はじめて真知灼見と算うべし。もし還た大道の骨髓の処に剥き到らざれば、中間還た障礙を隔て、則ち已に真を得着せりと説く能わず、妄動して自ら禍患を招くべからず。ああ。丹経の上に几句の話有り。縦い朱砂と黒鉛と此の両様の薬物を認得すれども、火候を懂れざれば還た是れ白搭。大抵全て修持の功力に憑り、一絲一毫を差せば則ち丹を結ぶ能わず。理を窮むる此の一層の工夫は、難ぞ還た小事と算さんや。

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