洛書
古來聖師,大慈大悲,以抱一無為之道,留於後世,蓋欲人人成道,個個了真耳。一者,先天真一之氣,即陰陽混合不二之氣,即性命凝結不散之氣。此氣在人身中,四大不著,五行不到,無形無象,至虛至靈,活活潑潑的,號日谷神。此神主宰萬象,掌握陰陽,所云谷神不死,是謂元牝。元牝之門,是謂天地根心。
古来の聖師の大慈大悲が「抱一無為」の道理を後世に留めたは、無非は人人皆成道し、个个皆その真性を了えしめんと欲するのみ。いわゆる「一」とは、すなわち先天真一の気、すなわち陰陽が混合して一となり二に分作せぬ気、すなわち性命が凝結して一処に在りて渙散せぬ気である。この股の気は人身の中に在り、地水火風の四大は粘着し得ず、五行はその処に至らず、無形無象、極虚極霊、活々潑々として、名づけて「谷神」と曰う。この神は万象を主宰し陰陽を掌握する。すなわち《老子》のいう「谷神は死せず、是を元牝と謂う。元牝の門、是を天地の根と謂う」というあの天地根本の心である。
抱者,持守也。抱一者,即持守此一氣,綿綿常存而不失,所云守黃庭、養谷神也。但抱一非空空無為之說,乃逆退先天真陽,不為後天假陰所傷也。逆退真陽,自有真陰溫養,真陰真陽相會,健順合,元牝交,動不離靜,靜不離動,自有天然真火,爐中赫赫長紅,先天漸凝,後天漸化,谷神堅固,即成無漏真人。
「抱」とはすなわち持守である。いわゆる「抱一」とは、すなわちこの一股の気を持守し、綿綿として断えず常に存して失わぬこと、すなわち丹家のいう「黄庭を守り、谷神を養う」である。しかし抱一は空しく坐って何事も幹さぬことではなく、「先天真陽」(污染を受けぬ本元の陽気)を逆って収め退けて帰し、「後天仮陰」(生身以後の陰濁の気)にそれを損傷させぬことである。真陽が逆退して帰れば、自然に「真陰」(先天純静の陰)が来たりてこれを温養する。真陰真陽が会合し、剛健と柔順とが相合し、元牝が相交り、動中に静を離れず、静中に動を離れず、自然に天然の真火が丹炉の中に赫赫として長く紅し。先天の気は漸漸に凝結し、後天の気は漸漸に化し尽くし、谷神は堅固にして揺らがず、すなわち渗漏なき真人となる。
所謂要得谷神長不死,須憑元牝立根基。真精既返黃金屋,一顆靈光永不離也。真精、靈光,皆谷神之別名。靈光不離,即谷神不死,谷神不死,則得長生矣。
丹経のいうところ。谷神をして長く死せざらんと欲せば、必ず元牝というこの門戸に憑って根基を立つべし。真精すでに黄金屋(丹田本位)に返れば、あの一顆の霊光は永く復た離散せず――講ずるはまさにこの事である。「真精」「霊光」は皆谷神の別名である。霊光が離散せざれば、すなわち谷神死せず。谷神死せざれば、すなわち長生を得る。
是谷也,在圓圖,則乾坤中虛處是;在方圖,則十字中分處是;在人身,則四象和合處是。是神也,在圓圖,則乾坤交代處是;在方圖,則十字交接處是;在人身,則四象動靜處是。有谷則神存,失谷則神亡,生之在此,死之在此,陰生在此,陽長在此,古人號曰生門、死戶,又曰造化爐、陰陽戶。儒曰道義之門,釋曰不二法門,道曰眾妙之門。總而言之曰這個而已。
この「谷」とは、円図上では《乾》《坤》の当中のあの一段の空虚処であり、方図上では十字正中の分界処であり、人の身上では四象の和合する処である。この「神」とは、円図上では《乾》《坤》の交接更替する処、方図上では十字の交叉する処、人の身上では四象動静の機の在る処である。谷あれば則ち神存し、谷失えば則ち神亡す。生はここにあり、死はここにあり、陰はここに生じ、陽はここに長ず。古人はこれを「生門」「死戸」と呼び、また「造化炉」「陰陽戸」と呼ぶ。儒家はこれを「道義の門」と呼び、仏家は「不二法門」と呼び、道家は「衆妙の門」と呼ぶ。総じて言えば、ただ「これ」と呼ぶのみである。
若有上智者得遇明師,指示這個端的,逆而修之,聖胎現成,不使陽極生陰,直登彼岸,再加向上工夫,煉神還虛,逆於父母未生以前面目,打破虛空,跳出陰陽之外,聖而不可知之之謂神矣。噫!順去死,逆去活,往往教君尋不著,不遇真師,逆之一宇,豈易知哉!
もし上等の智慧ある人が明師に遇い、「これ」の真実の下落を指点されて、彼が逆って修して行けば、聖胎は自然に現成し、陽をして極処に至ってまた陰を生ぜしめず、直ちに彼岸に登る。さらに一層向上の工夫を加え、「神を錬して虚に還し」、逆って父母未生我以前の本来の面目に回帰し、虚空を打破し、陰陽の外に跳出すれば、すなわち「聖にして測知すべからざるを神と謂う」である。ああ、順って走るは死、逆って走るは活、この句は往々にして汝をして門路を尋ね得ざらしむ。真師に遇わずんば、単に一つの「逆」の字、どこが容易に解せるや。
文王後天八卦
文王索生八卦圖,文王後天八卦方位,後天順行造化圖,後天逆運變化圖,金木交併圖,坎離顛倒圖,乾坤顛倒圖,解脫本面。
この節は全部で八幅の図を列ねる。「文王索生八卦図」は《乾》《坤》の父母が互いに求索して六つの子女卦を生ずるを画く。「文王後天八卦方位」は後天八卦の方位排列を画く。「後天順行造化図」は後天が順って走り、陽消陰長して生老病死に至る過程を画く。「後天逆運変化図」は逆って修め帰り、後天の中に先天を返す次第を画く。「金木交并図」は《兌》金と《震》木とが相合し、性情合一の工夫を画く。「坎離顛倒図」は《坎》中の陽を抽き《離》中の陰を填むる工夫を画く。「乾坤顛倒図」は《乾》《坤》が位に復し、健順が元に帰する景象を画く。「解脱本面」は最後に一切の束縛を解脱し、本来の面目を露出する境地を画く。
文王後天八卦,仍是羲皇所畫之卦,不過於已成卦中,看出有此一番道理,故變其卦之義,卦之氣,發羲皇未發,非強作也。如乾為老陽,乃諸陽之宗,為父。坤為老陰,乃群陰之主,為母。
文王の後天八卦が用いるのは、依然として伏羲の画いたあの卦々であり、ただすでに画成した卦の裡に、なおこの一層の道理あるを看出したがゆえに、卦の意義と卦の気脈とを変換し、伏羲の発揮せざる所を発揮したのであって、強いて造作したのではない。例えば《乾》は老陽であり、衆陽の宗主であるから父とする。《坤》は老陰であり、群陰の主宰であるから母とする。
父母相配,陰陽相交,必生男女,故乾一索坤,得坤之初爻而生巽,為長女;坤一索乾,得乾之初爻而生震,為長男。乾再索坤,得坤之中爻而生離,為中女;坤再索乾,得乾之中爻而生坎,為中男。乾三索坤,得坤之上爻生兌,為少女;坤三索乾,得乾之上爻而生艮,為少男。
父母相配し、陰陽相交れば、必ず児女を生ず。だから《乾》が第一次《坤》に向かって求索し、《坤》の初爻(陰爻)を取得して《巽》を生ずれば、長女となる。《坤》が第一次《乾》に向かって求索し、《乾》の初爻(陽爻)を取得して《震》を生ずれば、長男となる。《乾》が第二次《坤》に向かって求索し、《坤》の中爻を取得して《離》を生ずれば、中女となる。《坤》が第二次《乾》に向かって求索し、《乾》の中爻を取得して《坎》を生ずれば、中男となる。《乾》が第三次《坤》に向かって求索し、《坤》の上爻を取得して《兌》を生ずれば、少女となる。《坤》が第三次《乾》に向かって求索し、《乾》の上爻を取得して《艮》を生ずれば、少男となる。
乾索坤之三陰,陽變為陰而生三女;坤索乾之三陽,陰變為陽而生三男。男女既生,於是男從父而女從母,乾統三男,居於東北;坤統三女,居於西南。乾老父三陽真氣,為三男所得,健德收斂,故得藏於西北寒盛之方;坤老母三陰真氣,為三女所得,順性失常,故遷於西南殺機之鄉。
《乾》が《坤》に向かって求めて三つの陰爻を得、陽位が陰に変じて三人の娘を生じ、《坤》が《乾》に向かって求めて三つの陽爻を得、陰位が陽に変じて三人の息子を生じた。児女がすでに生じると、ここにおいて息子は父に従い、娘は母に従う。《乾》は三つの男卦を統領して東北の一帯に居り、《坤》は三つの女卦を統領して西南の一帯に居る。老父《乾》の三陽の真気は三人の息子に分け取られ、剛健の徳は収斂して顕れず、だから西北の寒気最も盛んな方位に蔵れるほかない。老母《坤》の三陰の真気は三人の娘に分け取られ、柔順の性は常度を失い、だから西南の粛殺の機を主る所に遷った。
離得坤之中陰,陰麗陽中,陰借陽而生明,故居正南火旺之方。坎得乾之中陽,陽陷陰中,陽入陰而生潮,故居正北水旺之方。
《離》は《坤》の中間の一陰爻を得て、陰が両陽の中に附麗し、陰が陽を借りて光明を生ずるから、正南の火気最も旺な方位に居る。《坎》は《乾》の中間の一陽爻を得て、陽が両陰の中に陥落し、陽が陰に入って潮汐の漲落を生ずるから、正北の水気最も旺な方位に居る。
震得乾之初陽,初陽主生長,故居正東木旺之方。兌得坤之末陰,末陰主消化,故居正西金旺之方。艮得亁之末陽,末陽主靜養,故居東北陽弱之方。巽得坤之初陰,初陰主潛進,故居東南陽盛之方。
《震》は《乾》の初爻の陽を得て、初陽は生発長養を主管するから、正東の木気最も旺な方位に居る。《兌》は《坤》の上爻の陰を得て、末陰は消損化尽を主管するから、正西の金気最も旺な方位に居る。《艮》は《乾》の上爻の陽を得て、末陽は安静休養を主管するから、東北の陽気微弱な方位に居る。《巽》は《坤》の初爻の陰を得て、初陰は潜蔵漸進を主管するから、東南の陽気正に盛んな方位に居る。
乾、坎、艮、震屬陽,造生萬物;巽、離、坤、兌屬陰,化成萬物。父母男女,自相配合,以行卦氣,後天六十四卦亦於此而生。六十四卦生,造之化之,生之成之,造而又化,化而又造,生而又成,成而又生,消息盈虛,無有停息,此已生出者,故謂後天。後天者,順生之道也。而逆運之道亦在內。
《乾》《坎》《艮》《震》は陽に属し、万物を創造生発する責めを負う。《巽》《離》《坤》《兌》は陰に属し、万物を化育成就する責めを負う。父母と児女が各々配合して卦気を運行し、後天の六十四卦もまたここから生ずる。六十四卦が一たび生産すれば、造あり化あり、生あり成あり。造りてまた化し、化してまた造り、生じてまた成り、成りてまた生ず。消長盈虚、停歇の時なし。これらは皆「すでに生出した」一面に属するから、「後天」と呼ばれる。後天とは、順って万物を生出する路であり、そして逆って修め返る路もまたこの中に蔵されている。
離本陽而反為女者,外陽而內陰,陰居中位,真陰也。坎本陰而反為男者,外陰而內陽,陽居中位,真陽也。外陽者,後天之陽;內陰者,先天之陰;外陰者,後天之陰,內陽者,先天之陽。先天是主,後天是賓,坎離輻輳,水火相濟,寒暑有時,故足以代乾坤而行造化。
《離》は本来陽卦であるのに、反って女と算えられるのは、その外の二爻が陽で裏の一爻が陰だからであり、この中位に居る陰こそまさに「真陰」である。《坎》は本来陰卦であるのに、反って男と算えられるのは、その外の二爻が陰で裏の一爻が陽だからであり、この中位に居る陽こそまさに「真陽」である。外の陽は後天の陽、裏の陰は先天の陰、外の陰は後天の陰、裏の陽は先天の陽である。先天は主人、後天は客人である。《坎》《離》が輻湊して相聚まり、水火が互いに調済し、寒暑が往来して節があるから、《乾》《坤》に代わって造化を推行するに足る。
震,陰多陽少,而為男者,震乃陽氣方升。陽氣升而足以破陰氣。兌,陽多陰少,而為女者,兌為陰氣外現。陰氣現而足以滅陽氣。震為生機,兌為殺機,金木相併,生殺分明,故足以代乾坤而成造化。
《震》卦は陰爻多く陽爻少ないのに、男と算えられるのは、《震》が初陽の剛かに上昇するもので、陽気が一たび升ればすなわち陰気を冲破するに足るからである。《兌》卦は陽爻多く陰爻少ないのに、女と算えられるのは、《兌》が陰気を外に顕露するもので、陰気が一たび現れればすなわち陽気を消滅するに足るからである。《震》は生機を代表し、《兌》は殺機を代表する。《兌》金と《震》木とが両下相合すれば、生と殺とが分明に分かれるから、《乾》《坤》に代わって造化を成就するに足る。
乾與巽交不合,坤與艮交不正。乾老陽,坤老陰,不能生育,艮僅交接巽陽,巽只順生其陰,故八卦方位,乾坤艮巽居於四隅,坎離震兌居於四正也。此後天逆順之道。聖賢盡性至命之學,亦不外此。
《乾》と《巽》とは相交っても契合せず、《坤》と《艮》とは相交っても端正でない。《乾》は老陽、《坤》は老陰で、すでに生育することができない。《艮》はただ《巽》の余した陽に接続し得るのみで、《巽》もまたただそれを生ずる陰に順うのみである。だから後天八卦の方位は、《乾》《坤》《艮》《巽》を四隅(西北・西南・東北・東南)に排し、《坎》《離》《震》《兌》を四正(正北・正南・正東・正西)に排する。これが後天に逆あり順ある道理であり、聖賢の「性を尽くし命に至る」学問もまたこの範囲を出ない。
人之本來,陰陽混成,性命一家,健順相合,純是先天,一交後天,真中有假,假陷其真,健體有虧,順體有傷,性命分為兩處,於是健德不彰,靈明而誤用,元神昧而識神出矣。順德不真,昏暗而有險,元精藏而濁精生矣。如圖坎離居中正位,乾移西北,坤遷西南也。
人の本来の様子は、陰と陽とが渾然として一片に合成し、「性」(心性)と「命」(精気)とが一家に同居し、乾の「健」と坤の「順」とが彼此契合して、純に「先天」の境界である。一旦「後天」に交じり入れば、真の裡に偽が攙じ込み、偽がまた真を陥没する。剛健の本体に虧欠が生じ、柔順の本体が損傷を受け、性と命とが二処に分かれて安放される。ここにおいて「健徳」はもはや彰顕せず――本有の霊明が反って誤用され、「元神」(先天の思索を仮らぬ自然の覚照)は昏昧し、「識神」(後天の分別計較する心思)が便乗して出る。「順徳」もまたもはや真純でなく――一片昏暗にして暗に凶険を蔵し、「元精」(先天真精)は深蔵して露われず、濁精が便乗して滋生する。後天八卦図に落とせば、すなわち坎・離の二卦が南北正中の位を占め、乾卦は西北の一隅に押しやられ、坤卦は西南の一隅に遷されたのである。
後天精神用事,動而暴燥,氣性發矣。和而同流,妄情起矣。如圖震居於正東卯地,陽變為陰,兌居於正西酉地,和變為殺也。精神性情變幻,陰氣潛入而進,陽氣衰弱而止,如圖巽居東南陽旺之地,艮居東北陽暗之鄉也。
後天の精と神とが一旦家を当って主を為せば、一動すれば急躁暴烈となり、「気性」(禀受の血気脾性)が発作する。一味随和して流俗と汚を同じくすれば、「妄情」(虚妄の情識)が生起する。図に落とせば、すなわち震卦が正東の卯位に坐り、本来純陽の震が反って陰に変じ、兌卦が正西の酉位に坐り、本来和悦の兌が反って粛殺に変ずる。精・神・性・情がこのように変幻して定まらなければ、陰気は悄悄と侵入して歩歩進逼し、陽気は日々衰弱して停滞する。図に落とせば、すなわち巽卦が東南のこの陽気正に旺な地方を占め、艮卦が東北のこの陽気暗晦の角落を占める。
噫!後天一發,陰漸長,陽漸消,不至消盡其陽而不止。圖之乾遇巽而垢,坤逢艮而剝,離上坎下,火水不濟。震東兌西,雷澤歸妹之所由來也。是道也,天地自然順行之道,陽極必陰,陰極必死,亦人之無可如何者。但聖人又有逆運之道,善能竊陰陽、奪造化、轉乾坤、扭氣機於後天中返先天,死裡逃生,其道何在?仍不外乎後天八卦之理。
ああ、後天が一旦発動すれば、陰は日々生長し、陽は日々消減し、陽気を耗尽せずんば決して罷まない。図上で乾卦が巽卦に碰上れば、すなわち《姤》卦となる――一陰が悄然として五陽の下に生ず。坤卦が艮卦に碰上れば、すなわち《剥》卦となる――一陽が孤懸して五陰の上に在る。離が上に在り坎が下に在れば、火性は炎上し水性は潤下し、両なりに交わらず、まさに《未済》の象である。震が東に在り兌が西に在れば、長男少女がその次序を失い、これが《帰妹》卦の由来である。この一套は、天地自然の「順行」の路数である。陽は極点に至れば必ず陰に転じ、陰は極点に至れば必ず死に趨く。これもまた人力の奈何すべからざる事である。しかし聖人には別に一套の「逆運」の工夫があり、善く陰陽を窃取し、造化を奪回し、乾坤を扭転し、気機を撥動して、後天の裡に先天を返し、死路の中から生路を逃出す。この路はどこに在るか。依然として後天八卦の道理を跳出さない。
圖之坎、離、震、兌居於四正,乾、坤、艮、巽居於四隅,此中天機,非師難知。離中一陰,人心是也;坎中一陽,道心是也。道心本是乾家中陽,因交後天,入於坤宮,陽陷陰內,健者不健矣。人心本是坤家中陰,因失先天,入於乾宮,陰竊陽位,順者不順矣。若能虛其心,則人心化。人心化,則陰順而仍還於坤火,返其真矣。若能實其腹,則道心生。道心生,陽則健而仍還於乾,水歸於源矣。
図上、坎・離・震・兌の四卦が東南西北の四つの正位を占め、乾・坤・艮・巽の四卦が四つの角落に退居する。この裡頭の天机は、明師の指点なくば看透了がたい。離卦の中間のあの一画の陰爻は、すなわち「人心」――後天の知見情欲の心である。坎卦の中間のあの一画の陽爻は、すなわち「道心」――先天の良知天理の心である。道心はもともと乾卦の家の裡のあの一画中陽であり、後天に交じり入ったがゆえに、坤宮の中に落ち込み、陽が陰の裡辺に陥れられて、剛健なるものはもはや剛健でなくなった。人心はもともと坤卦の家の裡のあの一画中陰であり、先天を失ったがゆえに、乾宮の中に闖入り、陰が陽の位を窃取して占めて、柔順なるものはもはや柔順でなくなった。もし「その心を虚にする」――胸中の私欲成見を掏空する――ことができれば、人心は自然に化去する。人心が一たび化すれば、陰は分を安んじ順を守り、依然として坤位に退還し、その本真に返回する。もし「その腹を実にする」――腹中の真気を充養する――ことができれば、道心は自然に生発する。道心が一たび生じれば、陽は剛健有力となり、依然として乾位に帰還し、水は便ち源头に流れ返る。
兌為金,他家客氣也。震為木,我家主氣也。震本陽,其中有陰;兌本陰,其中有陽。主氣為客氣所盜,東虛而西實,若於殺中求生,殺氣變而為和氣,金情戀木慈仁,金還其元矣。木性愛金順義,木返其本矣。
兌卦は金に属し、他家の「客気」――外来の侵扰の気である。震卦は木に属し、我が自家の「主気」――本有の主宰の気である。震は本より陽卦であるのに、中に一画の陰を挟み、兌は本より陰卦であるのに、中に一画の陽を含む。自家の主気が外来の客気に盗まれて、ここにおいて東辺は空虚、西辺は充実となる。もし粛殺の中に生機を求める能くば、粛殺の気は転じて和悦の気となる。金の「情」は木の慈仁を愛慕して、金は便ちその本元に回帰する。木の「性」は金の道義に親近して、木は便ちその根本に返回する。
取坎填離,健復本命,借離煉坎,順還本性,以震求兌,健動而能和順;以兌求震,和順而能健動,健順如一,乾坤相合,四象相和,五行攢簇,後天精、神、魂、魄、意歸真,五德五元,渾然圓成,還原返本,金丹有象,所謂「乾坤交媾罷,一點落黃庭」。
「坎を取りて離を填む」とは、坎卦の中間のあの一画の真陽を取り返して、離卦の当中の空缺を填補し、剛健が一たび復すれば、本来の「命」は帰って来る。「離を借りて坎を錬る」とは、離卦の虚明を借りて坎中の沉滞を鍛錬し、柔順が一たび復すれば、本来の「性」は還元する。震を用いて兌を求むるは、剛健に発動してまた和悦柔順し得るがゆえん。兌を用いて震を求むるは、和悦柔順してまた剛健発動し得るがゆえん。健と順とが一体に合し、乾と坤とが重ねて交合し、四象は彼此調和し、五行は攅り聚まりて中に帰し、後天の精・神・魂・魄・意の五者は各々その真に帰り、五徳と五元とは渾然として円満する。還元して本に返り、「金丹」が形象を現出す。これがすなわち丹経のいう「乾坤交媾罷み、一点黄庭に落つ」である。
一點者,丹元也。黃庭者,中央也。丹落中央,陰陽一氣,還我娘生本來面目,基址堅固,所謂「一粒金丹吞入腹,始知我命不由天」。噫!健順一失,性命分離,五行錯亂。健順一復,性命凝結,五行攢簇。一失無不失,一復無不復,後天變化有為之道大矣哉!
いわゆる「一点」とは、「丹元」を指す――金丹が最初に凝成したあの一顆の種子である。いわゆる「黄庭」とは、身中の正当中の処を指す。丹が正中に落ちれば、陰と陽とが一気に合成し、我に娘胎より生下した時の本来の面目を還し、根基はここから穏固となる。これがすなわち丹経のいう「一粒の金丹腹に呑み入れ、はじめて我が命は天に由らざるを知る」である。ああ、健と順とが一旦失守すれば、性と命とは便ち分離し、五行は便ち錯乱する。健と順とが一旦恢復すれば、性と命とは便ち凝結し、五行は便ち攅聚する。一処失守すれば処として失せざるなく、一処恢復すれば処として復せざるなし――後天の裡に変化を作すこの「有為」の道は、実に了不起である。
但還原返本,乾坤相合,只完得前半工夫,還有後半工夫,猶未完的。蓋道至乾坤相合,是將後天已返成先天矣。既返成先天,從此再立鼎爐,別置鉗錘,用無為逆運之道,顛倒乾坤,乾逆退而坤順生,借陰以全陽,溫之養之,用天然真火烹煉,消盡一身後天陰濁之氣,煅成一個金剛不壞之物,從虛無中透出,入於無聲無臭之境,還我未生身以前面目,方是大解大脫,逍遙自在,無拘無束之天矣。
ただし、還元返本・乾坤相合は、ただ前半段の功夫を做し終えたと算えるのみで、後半段はまだ了えていない。乾坤相合のこの歩みに修め至るは、すでに後天を先天に返し成したがゆえんである。すでに先天に返し成した以上、ここより別に鼎炉を立て、別に鉗錘を換え、改めて「無為」の逆運の法を用いる。乾坤を顛倒して、乾をして逆って退蔵させ、坤をして順って生発せしめ、陰気を借りて陽気を保全し、慢慢地に温め養い、「真火」――意念の催迫を仮らぬ自然の火候――を用いて烹錬し、一身の後天の陰濁の気を消磨し尽くして、一個の金剛不壊のものに煅し上げ、虚無の裡より透脱して出で、無声無臭の境界に入り、我に未曾だ出生せざる以前の本来の面目を還す。この歩みに至って、はじめて大解大脱と算え、一片の逍遥自在・無拘無束の天地である。
先後八卦合一図
先天八卦,一氣循環,渾然天理,從太極中流出,乃真體未破之事;後天八卦,分陰分陽,有善有惡,在造化中變動,乃真體已虧之事。
先天八卦は一気の循環・渾然一片の天理で、直ちに太極の裡より流出したものであり、「真体」――人の本来完整無欠の性命本体――がまだ破損せぬ時の事を説く。後天八卦はすなわち陰陽分家し善あり悪あり、造化の流転の中に変動して止まず、真体すでに虧損した後の事を説く。
真體未破,是謂生出者,須當無為。無為之妙,在乎逆中行順,逆藏先天之陽,順化後天之陰,歸於父母未生以前面目,不使陰氣有傷真體也。真體有傷,是已生出者,當須有為,有為之竅,在乎順中用逆,順退後天之陰,逆返先天之陽,歸於娘生本來之面目,務使陽氣還成真體也。
真体のかつて破損せざるは、先天真機のまだ発露せざる類に属し、まさに「無為」の功夫を用いるべきである。無為の妙処は「逆中に順を行う」に在り。逆って先天の陽気を収蔵し、順って後天の陰気を化解し、父母未曾だ我を生ぜざる以前の本来の面目に帰回し、陰気をして真体を傷つけしめぬ。真体のすでに受傷せるは、後天気機のすでに発動せる類に属し、必ず「有為」の功夫を用いなければならない。有為の竅門は「順中に逆を用う」に在り。順って後天の陰気を退去し、逆って先天の陽気を返還し、娘胎が我を生じた時の本来の面目に帰回し、務めて陽気をして重ねて凝聚して真体と成さしむる。
但先天未生出者,猶有分別;後天已生出者,亦有分別。當在胞胎之時,先天陰陽,五行一氣,包含無形無跡不可見。未生出者,及其生身以後,未交後天,不識不知,順帝之則,至善無惡,雖有陰陽五行之性,而無陰陽五行之質,一氣渾然,亦未生出者也。
ただし、先天の「未だ生ぜざる者」の中にもなお分別があり、後天の「已に生じた者」の中にもまた分別がある。まだ母胎の裡に在る時、先天の陰陽五行は合して一気を為し、内に包裹して、無形無迹・視るべからず摸るべからず――これが一種の未だ生ぜざる者である。出生以後、まだ後天に交じり入らず、渾渾噩噩として、識らず知らず、自然に天則に合す――《詩経・大雅・皇矣》のいう「識らず知らず、帝の則に順う」――純に至善にして悪なく、すでに陰陽五行の「性」を具備するも、まだ陰陽五行の「質」を結成せず、一気渾然――これもまた一種の未だ生ぜざる者である。
先天逆中順行者,即逆藏先天陰陽五行,而歸於胞胎一氣之中,順化後天之陰,而保此一氣也。當生身之初,後天陰陽五行,入於軀殼之中,與先天陰陽五行相合,先天之內,即雜後天之氣。雖後天之氣未發,而形跡已露,如嬰兒善惡剛柔,本於性成,但後天為先天所統攝,性相近耳。此已生出者也。
先天一路のいう「逆中に順を行う」とは、すなわち逆って先天の陰陽五行を収蔵して、胞胎のあの一団の渾然の気の裡に帰回し、同時に順って後天の陰気を化し去り、もってこの一団の気を保するに好し。人が剛か生まれた時、後天の陰陽五行はこの躯殻の中に入り、先天の陰陽五行と攙和して一処に在り、先天の裡面に便ち後天の気を攙じ込んだ。この時後天の気は未だ発作せざるも、形迹はすでに露出した――譬えば嬰児の身上の善悪剛柔は、本より生と倶に来る禀性である。ただ後天がなお先天に統攝されるがゆえに、孔子はただ「性相近なり」と言うのみである。これがすなわち一種の已に生じた者である。
及其先天陽極,交於後天,知識開而靈竅閉,其機已發,大肆張狂,亦已生出者也。後天順中用逆者,即順退已發之陰,歸於初生未發之處,返出先天之陽,以還此初生也。
先天の陽が長じて極処に至り、転じて後天に交じり入るに及んで、知見識慮が一たび開けば、霊明の竅門は便ち閉ざされる。後天の機関すでに発動すれば、便ち大肆に張狂する――これまた一種の已に生じた者である。後天一路のいう「順中に逆を用う」とは、すなわち順ってすでに発作した陰気を退け去り、初生の時の未だ発動せざるあの地步に帰回し、再び先天の陽気を返還して、もってこの初生の本来を還元するに好し。
陽健陰順,復見本來面目,仍是先天後天兩而合一之原物,從此別立乾坤,再造鼎爐,行先天逆中用順之道,即為九還七返大還丹矣。今以先天圖,移於後天圖內者,使知真體未破者,行無為自然之道,以道全形,逆中行順,以化後天之陰;真體已虧者,行有為受化之道,以術退命,順中用逆,以復先天之陽,先後合一,有無兼用,九還七返,歸於大覺,金丹之事了了。
陽は能く剛健し、陰は能く柔順して、重ねて本来の面目を見れば、あれは依然として先天と後天とが合して一を為す原物である。ここより別に乾坤を立て、再造鼎炉して、改めて先天の「逆中に順を用う」の功夫を行えば、すなわちいわゆる「九還七返」の大還丹を成就する。今、先天卦図を後天卦図の裡面に移し入れるは、人をして明白せしめんがためである。真体未だ破損せざるは、「無為自然」この路を走り、大道に憑って形体を保全し、逆中に順を行い、もって後天の陰を化去する。真体すでに虧損せるは、「有為受化」この路を走り、方術に憑って性命を接続し、順中に逆を用い、もって先天の陽を恢復する。先天後天合して一片を成し、「有」と「無」の両法併用して、九還七返、大覚に帰し、金丹この桩の事は便ち了結する。
河図洛書先天後天合一図
何圖形圓,陰陽合一,無為自然之道也。洛書形方,陰陽分位,有為變化之道也。先天形圓,陰陽一氣,用逆全順,亦無為自然之道也。後天形方,陰陽分判,順中用逆,亦有為變化之道也。
河図の形状は円で、陰と陽とが合して一を為す、「無為自然」の路数を講ずる。洛書の形状は方で、陰と陽とが各々方位を占む、「有為変化」の路数を講ずる。先天八卦図の形状は円で、陰陽は共に一気を為し、逆の手段を用いて順の本然を成全するも、また無為自然の路数に属する。後天八卦図の形状は方で、陰陽は判然として分かれ、順行の中に逆を用いるも、また有為変化の路数に属する。
河圖先天,皆以道全形之事;洛書後天,皆以術延命之事。先天後天者,即河圖洛書之註釋。河圖洛書,是先天後天之數,先天後天是河圖洛書之理,數得理而始明,理得數而有本。
河図と先天八卦とは、皆「道をもって形を全うす」――大道に憑ってこの形体を保全する事を講ずる。洛書と後天八卦とは、皆「術をもって命を延ばす」――方術に憑ってこの性命を接続する事を講ずる。先天と後天の両幅の卦図は、実は河図洛書の注解である。河図洛書は先天後天の「数」、先天後天は河図洛書の「理」。数は理を得てはじめて明らかに説き得、理は数を得てはじめて落脚の根基がある。
河圖洛書,相為表裡,先天後天,相為表裡。無洛書,則河圖無變化,無後天,則先天不成全。河圖為洛書之體,洛書為河圖之用。先天為後天之體,後天為先天之用。體用俱備,理數兼該,性命雙修之道,無餘蘊矣。
河図と洛書とは互いに表裏を為し、先天と後天ともまた互いに表裏を為す。洛書なくんば、河図は便ち変化を生出し得ず。後天なくんば、先天もまた円満に修め至ること能わず。河図は洛書の「体」、洛書は河図の「用」。先天は後天の体、後天は先天の用。体と用と倶に備わり、理と数と皆其の内に包含せり。「性命双修」の道理は便ち更に遺漏なし。
今仿邵子內方外圓之圖,移河圖於洛書之中,移先天於後天之中,河圖洛書為一圖,先天後天為一圖,成內圓外方二圖,以變化內圓外方之義。又以四圖合為一圖,以示圖為活圖,理為活理,不得以圖說圖,以卦說卦也。
今、宋代邵雍の内方外円の画法を彷彿して、河図を洛書の中に移し入れ、先天卦位を後天卦位の中に移し入れ、河図洛書を合して一幅と為し、先天後天を合して一幅と為し、内円外方の二幅の図を做出して、もって内円外方彼此変化の意を顕示する。再びこの四幅を併せて一幅と為すは、表明せんと欲するにある。図は活図、理は活理、死に図を摳って図を解すべからず、死に卦を摳って卦を解すべからず、と。
以道全形者,圓成無虧,防危慮險之功,誠之者性也。以術延命者,陰陽錯綜,返本還原之道,明之者教也。內方外圓者,自誠而明,無為而抵有為也;外方內圓者,自明而誠,有為而歸無為也。無為了性,有為了命。了性所以成後天之功,了命所以復先天之氣,先天全,後天化,有無不立,性命俱了,現出父母未生以前面目,露出無始五行不到的本橡。圖書,先後八卦,一以貫之,渾然太極,萬象歸空,陰陽混化,無聲無臭至矣。
「道をもって形を全うす」る人は、本体円満にして虧なく、下す所は防危慮険・保任不失の功夫であり、《中庸》のいわゆる「之を誠にする者」、由りて性より入手する路を走る。「術をもって命を延ばす」人は、陰陽錯綜の中に返本還元の功夫を做し、《中庸》のいわゆる「之を明らかにする者」、由りて教より入手する路を走る。内方外円は「誠より明となる」、無為より出発して有為に抵達す。外方内円は「明より誠となる」、有為より出発して無為に帰す。無為は「了性」、有為は「了命」。了性は後天のこの一段の功夫を成就する所以、了命は先天のあの一点の真気を恢復する所以。先天保全せられ、後天化し尽くせば、「有」と「無」の両辺はもはや執着せず、性と命とは一斉に了結し、父母未生以前の面目は便ち顕現し、无始以来五行も及ばざるあの本象は便ち露出する。河図洛書と先後天八卦とは、一条の道理をもって貫穿して底に至り、渾然として則ち一個の太極。万象は空寂に帰し、陰陽は混化して一を為し、無声無臭、ここに至って便ち到頭である。
中図
儒曰,執中;道曰,守中,釋曰,虛中。中之一字,乃三教聖人之心法,所以修性命而成大道。千經萬典,說來說去,只說的這一字,篆文中字從○、從|,在人即秉□之良,為至善無惡,圓明不昧之物,所謂先天真一之氣者是也。
儒家は「中を執る」と言い、道家は「中を守る」と言い、仏家は「中を虚にす」と言う。「中」この一字は、三教聖人の共同の心法であり、これに憑って性命を修し大道を成す。千経万典、繰り返して説く所は、ただこの一字にすぎない。篆書の「中」の字は一つの円圈「○」と一竪「|」とより構成される。人の身上に落とせば、すなわち天生禀受のあの一点の良知良能、至善にして悪なく、円明にして昏昧ならざるもの、すなわちいわゆる「先天真一之気」である。(原書ここに一字を欠き、方框と作す。臆して補うべからず。)
○中有|,渾然天理,一氣上下,流行不息之義,且|在○之當心,左為陽,右為陰,即河圖左陽右陰。一氣上下之象,薛道光曰:「有物先天地,無名本寂寥,能為萬象主,不逐四時調。」寂寥者,即○。萬象主,即|。至無而含至有,至虛而含至實,故謂中。
円圈の当中に一竪を立つるは、渾然一片の天理・一気上下流行して息まざるの意である。しかもこの一竪は正しく円圈の当心に立ち、竪の左辺は陽に属し右辺は陰に属し、正しく河図の左陽右陰の格局に合し、一気上下往来の象である。宋代の丹家薛道光に四句の詩あり、一様の物ありて天地より先に在り、無名無相・本より寂寥にして、然而万象の主宰を為し、四時の消長に随って更改せず、と。詩中の「寂寥」とは、あの円圈を指す。「万象主」とは、あの一竪を指す。至無の中に至有を含み、至虚の中に至実を含む。だから「中」と呼ばれる。
是中也,不偏不倚,無前無後,無背無面,無頭無尾,非有非無,非色非空,虛圓不測,無象而能主宰萬象,無形而能造化有形,生天生地生人物。在人,非四大一身之中,非中外之中,無方所、無定位,視之不見,聽之不聞,摶之不得。古人推其理而肖其形,強名之曰「十字街」,曰「四會田」,曰「通衢路」,曰「戊己門」,曰「元牝門」,曰「元關竅」,曰「生殺舍」,曰「刑德門」,曰「生死關」,曰「陰陽戶」,曰「性命竅」,曰「天地根」,曰「人獸關」,曰「懸胎鼎」,曰「造化爐」,名號多端,總而言之,曰「中」。
この「中」は、いずれの一辺にも偏せず、いずれの一頭にも倚らず。前後なく、背面なく、頭尾なし。有にも非ず、無にも非ず。色にも非ず、空にも非ず。それは虚霊円融にして測度する由なく、本身無象にして万象を主宰し得、本身無形にして有形を造化し出し、天・地・人・物は皆それより生出す。人の身上に落とせば、それは地・水・火・風四大の結ぶこの肉身裡の某一処に非ず、また「裏辺」が「外辺」に対するあの当中にも非ず。方所なく、定位なく、視るも視るべからず、聴くも聴くべからず、抓むも抓むべからず。古人はその道理を推究しその形状を比擬して、強いてこれに許多の名字を取った。「十字街」と呼び、「四会田」と呼び、「通衢路」と呼び、「戊己門」と呼び、「元牝門」と呼び、「元関竅」と呼び、「生殺舍」と呼び、「刑徳門」と呼び、「生死関」と呼び、「陰陽戸」と呼び、「性命竅」と呼び、「天地根」と呼び、「人獣関」と呼び、「懸胎鼎」と呼び、「造化炉」と呼ぶ。名目は多しと雖も、総じてただ一句の話、「中」と呼ぶのみ。
中也者,天下之大本也,亙古聖賢仙佛,皆從此中生出。其大無外,其小無內,放之則彌六合,卷之則退藏於密,悟之者立躋聖位,迷之者萬劫沉淪。蓋此「中」,乃性命之根,在先天,性命如一,而為中(圖);在後天,中分而為性命(圖),其實後天中返出先夭,性了命凝,性命歸根,仍是一中。
「中」は天下万事万物の大根本であり、古より今に至る聖賢仙仏は、皆この中の裡より生出した。それは大きくして外なく、小さくして内なし。放てば上下四方に弥満し得、収めれば極隠微の処に退蔵し得。それを悟透する者は当下に聖位に登り、それに迷失する者は万劫に沈淪す。元来この中は正に性と命の総根。先天において、性と命とは本より一体、合すればただ一個の中(原書ここに図を附す)。後天に至って、この中は分裂開けて、はじめて性と命の両頭有り(原書ここに図を附す)。実はただ後天の裡に先天を返出さば、性は了結し命は凝聚し、性と命とは一斉に根に帰し、依然として還たあの一個の中である。
老子云:「谷神不死,是謂元牝。元牝之門,是謂天地根。」紫陽云:「要得谷神長不死,須從元牝立根基。」谷神,即中也。元牝為陰陽,即性命也。谷神不死,中含性命,元牝之基,性命成中。守此中者,聖人也;失此中者,凡人也。聖凡之分,只在得失之間耳。
《老子》第六章にいう。「谷神は死せず、是を元牝と謂う。元牝の門、是を天地根と謂う」。宋代の張伯端(号は紫陽)もまた言う。「谷神を得て長く死せざらんと要せば、須く元牝より根基を立つべし」。ここの「谷神」とは、「中」を指す。「元牝」は本より「玄牝」と作す。清人は聖祖の名諱を避けて「玄」を「元」に改作した。一玄一牝は正しく一陽一陰を代表し、人の身上に落とせばすなわち性と命である。谷神死せずとは、この中の裡に性命を含蔵することを説く。元牝基を立つとは、性命合攏してはじめて中と為り成ることを説く。この中を守り得るは便ち聖人、この中を丢くるは便ち凡人。聖と凡の分界は、ただ得と失のこの一線の間に在るのみ。
一切常人,為氣質所拘,為積習所染,性命分居兩處,中有虧損,日虧日損,性亂命搖,神昏氣濁,將中之原物全然失卻。中一有失,性命無本,形雖動而神已喪,焉能長久乎?三教聖人,以中為本者;欲人執守此中,保全性命耳。
一切の尋常人は、皆禀受の気質に拘えられ、日積月累の習気に染汚され、性と命とは二処に分居し、中間のあの「中」は便ち虧損有り。一天天に虧き、一天天に損じ、性情は紊乱し命根は動揺し、精神は昏昧し気息は渾濁し、終に「中」この一件の原物を完全に丢失した。中が一たび失去すれば、性命は便ち根本を没し、形体は猶動き在るも、神は已に喪尽し、どうして長久なるを得んや。三教聖人は皆中をもって根本と為す。正に人をして牢牢としてこの中を守り、もって自己の性命を保全せしめんと欲するに他ならない。
中之一字,為修道者始終之要著,築基在此,採藥在此,烹煉在此,溫養在此,進陽在此,退陰在此,結丹在此,脫丹在此,七返九還,無一不在此。但這個「中」,人不易見,亦不易知,不可以有心求,不可以無心守。有心求之,則落於色相;無心守之,則入於空寂,均非中道。真正中道,非有非無,即有即無,非色非空,即色即空,不落偏,於恍惚中求,於杳冥內尋,庶乎近焉?
「中」この一字は、道を修する人の頭より尾に至る緊要の着落である。根基を打つはここに在り、薬を采るはここに在り、烹錬するはここに在り、温養するはここに在り、「陽火を進める」はここに在り、「陰符を退める」はここに在り、丹を結ぶはここに在り、丹を脱するもここに在り。いわゆる「七返九還」、一歩としてここに在らざるなし。ただこの中は、人が容易に看見し得ず、また容易に知覚し得ず。有心をもって求むべからず、また無心をもって守るべからず。有心をもって求めば、便ち色相に落ち込む。無心をもって守れば、また空寂に堕入る――両頭は倶に中道に非ず。真の中道は、有にも非ず無にも非ず、而してまた即有即無。色にも非ず空にも非ず、而してまた即色即空、一辺にも偏落せず。恍惚惚恍の中に於いてこれを求め、杳杳冥冥の内に於いてこれを尋ぬべし。ここに至ってほぼこれに近づくを得んか。
天下學人,不知此中是個什麼物事,或謂黃庭穴,或謂天谷穴,或謂百會穴,或謂絳宮,或謂明堂,或謂咽喉,或謂兩腎中間,執守幻身穴竅,便謂守中抱一,妄冀長生,不但不能長生,反而促死,哀哉!
天下の道を学ぶ人は、この中が究竟なんのものかを明白せず。ある人は黄庭穴と言い、ある人は天谷穴と言い、ある人は百会穴と言い、ある人は絳宮と言い、ある人は明堂と言い、ある人は咽喉と言い、ある人は両腎の当中と言う――一味にこの幻化肉身の上のある穴竅を死守して、便ち自ら「中を守り一を抱く」と称し、妄にこれに憑って長生せんと想う。結果は但だ長生する能わざるのみならず、反って死期を催近し、悲しむべきかな。
儒曰:「喜、怒、哀、樂之未發,謂之中。」又曰:「不偏不倚之謂中。」道曰:「前弦之後後弦前,藥味平平氣象全。」又曰:「陰陽得類歸交感,二八相當自合親。」釋曰:「吾有一物,上柱天、下柱地,無頭無尾,無背無面。」又曰:「舍利子,色不異空,空不異色,色即是空,空即是色。」此皆言中之實落處也。
儒家は言う。喜・怒・哀・楽の未だ発動せざる時、これを「中」と名づく――《中庸》に語出す。また言う。偏らず倚らざるをはじめて中と呼ぶ――これは朱熹《中庸章句》の訓解である。道家は言う。上弦過ぎ後・下弦以前、薬味は平和均匀にして、気象はじめて周全と算う。また言う。陰と陽と各々その類を得て相交り相感じ、二と八とは分量相当して自然親合す――皆張伯端《悟真篇》より出で、火候の老ならず嫩ならず、陰陽各半なるあの中点を講ず。仏家は言う。我に一件の物あり、上は天を撑え下は地を撑え、頭尾なく、背面なし――これは禅門の機語。また言う。舎利子よ、色と空とは並びて両様なく、空と色ともまた分別なく、色は則ちこれ空、空は則ちこれ色――《般若心経》より出づ。これらの話は、皆「中」の実実在在の落脚処を説く。
若人能於此等處留心,極深研幾,就正於真師,認得真正之中。將柱扙子穿在中鼻孔內,主登彼岸,絕不費力,從此直進大路,緩步而行,終有到家之日,經云:「得其一,萬事畢。」豈虛語哉!
もし人有りてこれらの処に心を留め、その中の幾微の処を深く鑽研し透り、再び持ちて真の明師に向かって印証し、あの真の「中」を認得せば、譬えば拄杖を牛の鼻孔に穿ち入れ、牽きてこれを行くが如く、彼岸に登らんと要すれば絶えて力を費さず。ここより一直に大路に走上り、慢慢として行き去り、終に家に到るの一日あり。道経にいう。「その一を得れば、万事畢わる」と。これ豈に空話ならんや。
