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金丹図

清 · 刘一明 · 第4巻 / 19

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

悟真曰:「道自虛無生一氣,便從一氣產陰陽,陰陽再合成三體,三體重生萬物張。」

張伯端《悟真篇》にいう。大道は虚無の中より一気を生じ、再びこの一気より陰と陽とを分け出し、陰陽交合して天・地・人三才の体を成し、三体重々相生して、万物は便ち鋪張開く。

所謂虛無一氣者,乃天地之根,陰陽之宗,萬物之祖,即金丹是也。世人不知金丹是何物事,皆於一身有形有象處猜量,或以為金石煅煉而成,或以為男女氣血而結,或以為心腎相交而凝,或以為精神相聚而有,或以為在丹田氣海,或以為在黃庭泥丸,或以為在明堂玉枕,或以為在兩腎中間,如此等類不可枚舉,皆是拋磚弄瓦,認假作真。故學道者如牛毛,成道者如麟角。殊不知金者,堅久不壞之義,丹者,圓明無虧之義。丹即本來先天真一之氣,此氣經火煅煉,歷劫不壞,故謂金丹。

いわゆる「虚無一気」は、天地の根・陰陽の宗・万物の祖、すなわち「金丹」である。世人は金丹がなんのものかを知らず、一味にこの肉身の有形有象の処に乱猜する。ある者は金石に焼錬して出でたると為し、ある者は男女の気血が結成したると為し、ある者は心火腎水が相交り凝住したると為し、ある者は精と神とが攅聚してはじめて有ると為す。ある者は丹田気海に在りと言い、ある者は黄庭泥丸に在りと言い、ある者は明堂玉枕に在りと言い、ある者は両腎の中間に在りと言う。この類の説法は挙げても挙げ尽くせず、全て是れ磚を抛ち瓦を弄し、偽を真と認作する。だから道を学ぶ人は牛毛の如く多く、道を成す人は麟角の如く少し。彼らはなんぞ暁けんや。「金」は堅固久遠・敗壊せざるの意を取り、「丹」は円満光明・虧欠なきの意を取る。丹はすなわち人の本有の先天真一の気であり、この股の気は火の煅錬を経て、劫数を歴尽しても敗壊せず。だから「金丹」と呼ばれる。

是丹也,至無而含至有,至虛而含至實,無形無象,先天而立其體,後天而發其用,不可以知知,不可以識識。擬之則失,證之則非,古人強圖之以○,強名之曰道,曰虛無、曰先天一氣、曰無極、曰太極。

この顆の丹は、至無の中に至有を含み、至虚の中に至実を含み、形なく象なし。先天に於いてその本体を立て、後天に於いてその功用を発す。それは知見を憑って認知し得べからず、また識心を憑って分弁し得べからず。一たび擬議すれば則ち様を走り、一たび指証すれば則ち空に落つ。古人は已むを得ず、強いて一個の円圈「○」を画きてもってそれを標示し、強いてそれに取名して「道」と呼び、「虚無」と呼び、「先天一気」と呼び、「無極」と呼び、「太極」と呼ぶ。

曰道者,無名之名也。曰虛無、無極者,自未生物時言之。曰太極一氣者,自方生物時言之。其實虛無一氣,無極太極,總是道之一個物事,非有二件。這個物事,即是金丹。在河圖洛書,即中五之中一點;在先天後天,即陰陽相交之中一竅,人人具足,個個圓成,處聖不增,處凡不減,只緣秉氣所拘,積習所染,順其後天之陰,迷失本宗,流蕩忘返,莫知底止矣。

それを「道」と呼ぶは、ただ無名のものに強いて一個の名を安んずるのみ。「虚無」「無極」と呼ぶは、万物未だ生出せざるあの一頭より言う。「太極」「一気」と呼ぶは、万物まさに生出せんとするあの一頭より言う。実は虚無と一気、無極と太極、総じて「道」この一件のものに帰し、決して二件に非ず。そしてこの一件のものこそ、すなわち金丹である。河図洛書上に於いては、それは中央五数の当中のあの一点。先天後天卦図上に於いては、それは陰陽相交の処のあの一竅。人人本来具足し、个个本来円成し、聖人の身上に於いて曾て多く出る一分なく、凡夫の身上に於いても曾て少なく掉る一分なし。ただ禀受の気質に拘えられ、日積月累の習気に染汚され、一味に後天の陰に順って走り、本来の宗根を迷失し、流蕩して外に在りて回頭を知らざるがゆえに、便ち底止する個所なし。

古來聖賢,慈悲度世,設金丹有為之道以覺人,蓋欲人人歸根復命,還其當初一個原物而已。其法有二:一有為,一無為。無為者,即河圖陰陽相合,先天圖陰陽對交,一氣渾然之理;有為者,即洛書陰陽錯綜,後天圖陰陽生克,兩儀變化之理。上智之人,行無為之道,以溫養這個○;中下之人,行有為之道,從無守有,以復還這個○。其實這個到復還來時,仍歸無為,無為到盡頭時,圓陀陀、光灼灼、淨倮倮、赤灑灑,堅固穩定,長久不壞,跳出五行,脫出陰陽,我命由我不由天矣。

古来の聖賢は慈悲救世し、金丹この一套の「有為」の法門を立てて世人を点醒するは、無非は人をして人人根に帰り命に復し、当初のあの一件の原物を還来せしめんと欲するのみ。方法は二種あり。一種は有為、一種は無為。無為の一路は、すなわち河図の陰陽相合・先天卦図の陰陽対交・一気渾然の道理。有為の一路は、すなわち洛書の陰陽錯綜・後天卦図の陰陽生克・両儀変化の道理。上等根器の人は無為の路を走り、直ちにこの円圈の標示する本体を温養する。中下根器の人は有為の路を走り、「無」の処より下手して「有」を守り、一歩一歩この本体を復還して来る。実は復還して来るに及んで、依然として無為に帰す。無為を做し尽くせば、あの本体は便ち円滾滾・光燦燦・浄潔潔・赤条々として、堅固安穏にして長久不壊、五行の外に跳出し、陰陽の表に脱出す――我がこの条の命は我が自己より主を作し、老天に擺布せられず。

但聖賢大道,窮理盡性至命之學,有工程,有次序,有文烹,有武煉,有急緩,有先後,有止足,毫髮之差,千里之失,欲要行得,先須知得,知得一分事,行得一分事,知得十分事,行得十分事,世間迷人在皮囊上強扭捏,自以為修持性命,非修性命,乃是傷性命也。

但し聖賢の大道は、《説卦伝》の講ずる「理を窮め、性を尽くし、以至て命に至る」の学問である。工程あり、次序あり、文火の温烹あり、武火の猛錬あり、該緩該急の分寸あり、該先該後の順序あり、該停該止の界限あり。毫髪を差せば、便ち千里を失う。行い得んと要せば、先ず知るを須す。一分知ってはじめて一分做し得、十分知ってはじめて十分做し得。世上のあの迷人はただこの張皮囊の上に硬扭硬捏して、自ら性命を修持すると為す。実はどこが性命を修するや、分明是れ性命を傷するなり。

性命且不知,妄想長生,豈不愚哉?夫命者,先天正氣。性者,先天元神,命屬陽,性屬陰,性命相合,陰陽混一,是謂金丹。金丹者,性命之別名,乃虛無中結就,非後天一身所產之物。不知性命,焉能修持性命?不識金丹,焉能凝結金丹?故窮理工夫,最為先著。果是窮透河圖洛書奧妙,先天後天機密,則宇宙在乎手,萬化生乎身,大地裡黃芽長遍,滿乾坤金花開綻,一步一趨,皆是大道,攢簇五行,和合陰陽,還我生初本來面目。

性命がなんのものかをも尚知らざるに、妄に長生を想うは、豈に糊塗ならずや。いわゆる「命」は先天の正気、いわゆる「性」は先天の元神。命は陽に属し、性は陰に属す。性と命と相合し、陰と陽と混成して一片を為し、これをはじめて金丹と呼ぶ。金丹は不过性命の另一個の名字にすぎず、虚無の中に結成せるもので、決して後天のこの身子の裡に生産せられたるものに非ず。性命をも尚知らざれば、どうして性命を修持するを談じ得んや。金丹をも尚認得せざれば、どうして金丹を凝結するを談じ得んや。だから「理を窮む」この一歩の功夫は、最先に下すを要するものなり。果真に河図洛書の奥妙・先天後天の機密を皆窮究し透徹せば、あれは便ち宇宙手中に握り、万般の造化自身より生出す。大地上到る処黄芽を冒出し、天地間処々に金花を開遍し、一挙一動として大道に合せざるなく、五行攅聚して中に帰し、陰陽調和して一を為し、我に出生の初の本来の面目を還す。

金丹凝結,洛書後天有為之功畢,再行溫養之功了河圖先天之道,以復其父母未生以前面目。打破虛空,至於無聲無臭,大丈夫之能市畢矣。盡性由自悟命,祖師傳不得口訣,徒自猜量耳。

金丹一旦凝結すれば、洛書後天のこの一段の「有為」の功夫は便ち做し完ると算う。続けて再び温養の功夫を下して、河図先天のあの一段の道業を了結し、もって父母未生以前の面目を恢復せんがため。直に虚空を打破し、無声無臭の境に入るに至って、大丈夫の能事は便ち了畢す。「性を尽くす」この一歩に至っては、全く自己より悟るに憑る。「命を了ずる」この一歩は、祖師の親授する口決なくば、ただ徒にあそこに在りて瞎猜するのみ。

炉鼎薬物火候六十四卦全図

金丹有為之道,後天變易之道也。變易之道,以乾坤為體,以坎離為用,以屯蒙六十四卦為氣候,周而復始,一氣流行也。金丹之道,以乾坤為鼎爐,以坎離為藥物,以屯蒙六十四卦為火候,陰而陽,陽而陰,陰陽迭運,亦一氣流行也。

金丹の「有為」の道は、すなわち後天の変易の道。変易の道は乾・坤両卦をもって本体と為し、坎・離両卦をもって功用と為し、《屯》《蒙》以下の六十四卦をもって気候と為し、周して始に復し、一気流転して停まず。金丹の道は則ち乾・坤両卦をもって鼎炉と作し、坎・離両卦をもって薬物と作し、《屯》《蒙》以下の六十四卦をもって火候と作す。陰より陽に転じ、陽より陰に転じ、陰陽交替運行して、同じく是一気流転して停まざるなり。

徐從事《參同箋註》云:「乾坤者,易之門戶,眾卦之父母。坎離,匡廓運轂正軸牝牡牡,四卦以為橐籥,復冒陰陽之道。」

徐従事の《参同契箋注》にいう。乾・坤両卦は《易》の門戸、衆卦の父母。坎・離両卦は譬えば車輪の外框と転動する車轂の正軸の如く、一牝一牡彼此配対す。この四卦は風箱の皮橐と吹管を充当し、陰陽の道全体をその裡頭に籠罩す。

又云:「月節有五六,經緯奉日使,兼併為六十,剛柔有表裡,朔旦屯值事,至暮蒙當受,晝夜合一卦,用之依次序,既未至晦爽,終則復更始,日月為期度,動靜有早晚,春夏據動體,促子到辰巳,秋冬當外用,自午訖戌亥,賞罰應春秋,昏明順寒暑,爻辭有仁義,隨時發喜怒,如是應四時,五行得其理。」此言金丹之道,不外乎變易之道。變易之道,不外乎天地、日月、陰陽造化之道。

また言う。一月の節候は五個の六共三十日、経と緯との両班は皆日頭の調遣を聴き、合せて正に六十卦、剛爻柔爻は各々表裏あり。初一の清晨は《屯》卦に値り当直し、傍晚に至っては《蒙》卦を換え接手し、一昼一夜は合して一卦を用い、次序に依って挨排して下る。《既済》《未済》に排し至れば、正に月晦と天明と交接する際に当たり、一輪走り完れば重ねて起頭す。日月の運行をもって期限尺度と為し、動と静と各々早晚あり。春夏は発動の一面に属し、子時より辰巳に催し至る。秋冬は収斂在外の一面に属し、午時より戌亥に至るまで。賞と罰と春生秋殺に合し、昏と明と寒来暑往に順い、爻辞の裡に仁義を含み、時機に随って喜と怒とを発す。こく如く四時と相応すれば、五行もまた各々その理を得。此の段の話が説くは、金丹の道は変易の道を跳出さず、而して変易の道は、また天地・日月・陰陽造化の道理を跳出さざるなり。

人能以剛健為鼎,柔順為爐,則乾坤鼎爐立矣。人能虛人心,靈性不昧,振道心;正氣常存,則坎離藥物得矣。鼎爐立,藥物得,法天地,效日月。當剛健而即剛健,剛健必歸於中正;當柔順而即柔順,柔順必歸於中正,仁義並行,動靜如一,日乾夕惕,其功不缺,與時偕行,隨機應變,即是乾坤坎離四卦,以為橐籥始於屯蒙,終於既未,即是賞罰應春秋,昏明順寒暑,爻辭有仁義,隨時發喜怒,一部易理,在吾方寸之中,又何患乎大道不成,性命不了耶?

人がもし剛健の徳を拿して鼎に当て、柔順の徳を作して炉と為さば、乾坤この副の鼎炉は便ち立ち起る。もし「人心」を放空し、霊性をして昏昧せざらしめ、同時に「道心」を振作して、正気をして常に身中に在らしめば、坎離この味の薬物は便ち手に到る。鼎炉立定し薬物手に到れば、再び天地に取法し日月に效仿す。剛健すべき時は則ち剛健し、剛健は必ず不偏不倚の中正に帰す。柔順すべき時は則ち柔順し、柔順もまた必ず中正に帰す。仁と義と并行して悖らず、動と静と始終如一、白天勤勉して懈らず、夜晚警惕して自省し、功夫は一天も缺えず。時機に随って同行し、変に遇えば便ち変に応ず――これがすなわち乾・坤・坎・離四卦をもって風箱と為して用うるなり。《屯》《蒙》より起手し、《既済》《未済》に至って收尾す――これがすなわち賞罰春秋に合し、昏明寒暑に順い、爻辞仁義を含み、時に随って喜怒を発するなり。《易経》整部の道理は、皆我がこの方寸の心に装い込められ、なお何をか大道成らざる・性命了せざるを愁えんや。

紫陽翁云:「先把乾坤為鼎器,次搏烏兔藥來烹,既驅二物歸黃道,爭得金丹不解生。」此詩洩盡丹法天機,而無餘蘊矣。今立鼎爐、藥物、火候全圖,以乾在上為鼎,坤在下為爐,坎離居中為藥物。四卦列之於外,以象陰陽之橐籥。其餘六十卦,屯蒙為始,既未為終,列之於內,以象朝暮之火候。

張伯端に一首の詩ありて言う。先ず乾坤両卦を立てて鼎器と作し、再び日中の金烏・月中の玉兔この両味の薬を捉え来たりて烹錬す。すでにこの両様のものを皆趕りて黄道上に会合せしめたれば、金丹なんぞ生出せざるの道理あらん。この詩は丹法の天机を全て泄尽し、更に何の余地をも留下せず。今この幅の鼎炉・薬物・火候全図を画く。乾は上頭に在りて鼎を作し、坤は下頭に在りて炉を作し、坎・離は中に居りて薬物を作す。この四卦は外圈に排して、陰陽この具の風箱を象徴す。其の余の六十卦は《屯》《蒙》をもって開頭とし、《既済》《未済》をもって收尾とし、内圈に排して、早晚両班の火候を象徴す。

屯者,陽氣動於陰中也。蒙者,陽氣陷於陰中也。既濟者,陰陽已合也。未濟者,陰陽不交也。陽氣初動即扶陽,所以進陽火,朝之功也;陽氣有陷即養陽,所以運陰符,暮之功也。

《屯》卦は、陽気が陰中に剛かに萌動する。《蒙》卦は、陽気が陰裡に陥せられて出る能わざる。《既済》は、陰と陽とすでに交合せる。《未済》は、陰と陽と彼此交らざる。陽気剛かに一たび萌動すれば則ちそれを扶助せんと要す。だから「陽火を進む」――意を加え提振し、歩歩陽を進む、これは早晨のあの一班の功夫。陽気一たび陥落有らば則ちそれを涵養せんと要す。だから「陰符を運ぶ」――収斂静守して、柔をもって陽を護る、これは傍晚のあの一班の功夫。

既濟,陰陽已合,須當隨時而保濟,保濟者,借陰全陽也;未濟,陰陽不交,須當待時而求濟,求濟者借陽益陰也。借陽益陰,進陽火,自屯至既濟三十卦,所以致其濟也;借陰全陽,運陰符,自蒙至未濟三十卦,所以防不濟也。始於屯蒙,終於既未,其餘五十六卦,俱皆陰符陽火之事,可以類推而知。然其妙用處,總在坎離、陰陽、健順,歸於中正耳。健順中正,則始而屯蒙,終而既未,皆自然而然,豈容勉強也。

《既済》は陰陽すでに交合せれば、則ち時機に随ってこの一分の「済」を守護すべし――いわゆる守護とは、陰気を借りて陽気を保全するなり。《未済》は陰陽彼此交らざれば、則ち時機を等待してこの一分の「済」を求めんとすべし――いわゆる求済とは、陽気を借りて陰気を補益するなり。陽を借りて陰を益するは「陽火を進む」に属し、《屯》卦より《既済》に排し至るまで共三十卦、あの「済」を促成せんと要するなり。陰を借りて陽を全うすは「陰符を運ぶ」に属し、《蒙》卦より《未済》に排し至るまで共三十卦、あの「不済」を防住せんと要するなり。《屯》《蒙》をもって起頭とし、《既済》《未済》をもって收尾とし、中間其の余の五十六卦は、講ずる皆陰符と陽火の事、この例に照らして一推すれば明白なり。ただその妙用の在る所、総帰是要坎と離・陰と陽・健と順と皆中正に帰せんことを。健と順と中正に帰すれば、則ち《屯》《蒙》より開頭し《既済》《未済》に收尾するまで、処々皆自然而然、どこに半点半点の勉強を容れんや。

陽火陰符六陰六陽全図

金丹大道,始終兩段功夫,一進陽火,一運陰符。進陽火者,陰中返陽,進其剛健之德,所以復先天也。運陰符者,陽中用陰,運其順柔之德,所以養先天也。進陽火,必進至於六陽純全、剛健之至,方是陽火之功盡;運陰符,必運至於六陰純全,柔順之至,方是陰符之功畢。

金丹大道は頭より尾に至るまでただ両段の功夫あり。一段は「陽火を進め」、一段は「陰符を運ぶ」。陽火を進めるとは、陰裡に陽を返還して来て、あの份の剛健の徳を増進し、先天を恢復せんが為なり。陰符を運ぶとは、陽中に陰を用い、あの份の柔順の徳を運化し、先天を涵養せんが為なり。陽火を進めるに、必ず六爻純陽・剛健至極に進み至って、はじめて陽火この一段の功夫を做し尽くしたと算う。陰符を運ぶに、必ず六爻純陰・柔順至極に運び至って、はじめて陰符この一段の功夫を做し完えたと算う。

陽火陰符,功力俱到,剛柔相當,健順兼全,陽中有陰,陰中有陽,陰陽一氣,渾然天理,圓陀陀、光灼灼、淨倮倮、赤灑灑,聖胎完成,一粒黍米寶珠,懸於太極空中,寂然不動,感而遂通,感而遂通,寂然不動,常應常靜,常靜常應,本來良知良能,面目全現,所謂「一粒金丹吞入腹,始知我命不由天」也。

陽火と陰符の両段の功力倶に家に下到れば、剛と柔と分量相当し、健と順と両面俱全し、陽裡に陰を含み、陰裡に陽を含み、陰陽合成して一気を為し、渾然一片の天理、円滾滾・光燦燦・浄潔潔・赤条々として、「聖胎」ここに就て結成す。それは一粒の黍米大の宝珠の如く、太極の虚空の当中に懸る。寂然として動かずして一感すれば便ち通じ、一感すれば便ち通じて仍ほ寂然として動かず。常に物に応ずるも常に自ら安静、常に自ら安静なるも常に物に応ずる能う。本有の良知良能・本来の面目全部顕現す。これがすなわち丹経のいう「一粒の金丹腹に呑み入れ、はじめて我が命は天に由らざるを知る」なり。

再加上向上工夫,煉神還虛,打破虛空,脫出真身,永久不壞,所謂「聖而不可知之之謂神」,進於形神俱妙,與道合真之境矣。

この上に更に一層の更高き功夫を添う。神を錬して虚に還し、虚空を打破し、真身を脱出して、永久に壊れず。《孟子・尽心下》のいう「聖にして知るべからざるを神と謂う」は、正にこの地步を指す。ここより形と神と倶に微妙に臻り、大道と合して真と為る境界に入る。

今立六陽六陰,陽火陰符全圖,以復臨、泰、大壯、夬、乾、姤、遯、否、觀、剝、坤十二卦。列之於外,其餘五十二卦,列之於內。雖是六十四卦,總是十二卦統之。復之一陽進,而凡一陽之卦,皆在其中。臨之二陽進,而凡二陽之卦,皆在其中,至於三陽、四陽、五陽,俱皆如此。運陰亦然,左陽卦者,先進陽火以復先天也。右陰卦者,後運陰符以養先天也。

今、この六陽六陰・陽火陰符全図を画き、《復》《臨》《泰》《大壮》《夬》《乾》《姤》《遯》《否》《観》《剥》《坤》という十二消息卦を外圈に排し、其の余の五十二卦を内圈に排する。六十四卦と言うても、実は悉くこの十二卦に管轄される。《復》は一陽の来り進むであって、凡そ一陽に属する卦は皆その中に包まれる。《臨》は二陽の来り進むであって、凡そ二陽に属する卦は皆その中に包まれる。三陽・四陽・五陽に至っても、皆この様子に照らして類推される。陰を運ぶ一辺もまた同じくこの如し。左半辺の陽卦は、先ず「陽火を進め」て以て先天を恢復する。右半辺の陰卦は、後に「陰符を運び」て以て先天を涵養する。

先復後養,先天凝結,性命堅固,金丹有為無為之事了了。此圖與前圖相為表裡,前圖是火候之功力,此圖是火候之次序,用功力而依次序,依次序而用功力,步步腳踏實地行去,自有進益,庶不至毫髮之差,千里之失也。

先に恢復し、後に涵養すれば、先天の気は便ち凝結して形を成し、性と命とは倶に穏固となり、金丹上の「有為」「無為」この两桩の事は就都結する。この幅の図は前面のあの幅と互いに表裏を為す。前の一幅は火候の功力を講じ、この一幅は火候の次序を講ずる。功力を使う時は次序に依り、次序に依る時はまた真に功力を下す。一歩一歩地に脚を踏みしめて做し去れば、自然に日に長進あり、はじめて毫髪を差して千里を失うに至らず。

巻一

素樸散人悟元子劉一明述注,門人沖和張陽全校閱,後學黃燮榳重刊。

本巻は自ら素朴散人と号し、道号を悟元子とする劉一明が撰述し併せて注を作し、門人の冲和道人張陽全が校閲を負い、後学の黄燮榳が重ねて刊印したものである。

乾上乾下(乾卦第一)

乾:元、亨、利、貞。初九,潛龍勿用。九二,見龍在田,利見大人。九三,君子終日乾乾,夕惕若,厲無咎。九四,或躍在淵,無咎。九五,飛龍在天,利見大人。上九,亢龍有悔。用九,見群龍無首,吉。

《乾》卦の卦辞。元・亨・利・貞――創始・亨通・和宜・貞固。初九爻。潜伏する龍、しばらく施展すべからず。九二爻。龍すでに田野に現る、徳ある位ある大人に見ゆるに宜し。九三爻。君子は終日勤勉して懈らず、夜に至ってもなお警惕戒懼す、危難あるも過たず。九四爻。或いは騰躍して上り、或いは深淵に退処す、倶に過たず。九五爻。龍天上に飛ぶ、徳ある位ある大人に見ゆるに宜し。上九爻。龍昇ること過度高し、必ず悔恨あり。用九。群龍の首領を以て自ら居らざるを見る、吉。

乾者,健也。剛強不屈之義。卦體六爻皆奇,純陽之象,故謂乾。此進陽火之卦,造命之學,所以行健而用剛道也。健莫健於天,天之為道,一氣流行,循環無端,經久不已,無物不復,無物能傷,健之至矣。

「乾」とはすなわち「健」、剛強不屈の意を取る。この一卦の卦体は六爻皆陽爻、純陽の象であるから乾と呼ばれる。それは「陽火を進む」ことを講ずる一卦で、「命を造る」の学問に属する――後天の裡に自家の性命の主権を奪回する功夫である。だから剛健の徳を行い剛強の道を用いるを要す。天下に天より剛健なるはなし。天の行う道は、一気流転して停まず、循環して起訖なく、経久にして間断せず。一様としてそれに周流復せられざるなく、一様としてそれを傷つけ得るなく――剛健極処に至れり。

故當春而生物者,健之元也。元者,初也。陽氣之初生,而萬物俱皆萌甲,元何其健乎?夏而長物者,健之亨也。亨者,通也,陽氣之通暢。陽氣通暢,而萬物俱皆發旺,亨何其健乎?秋而成物者,健之利也。利者,宜也,陽氣之便宜。陽氣便宜,而萬物俱皆成實,利何其健乎?冬而藏物者,健之貞也。貞者,靜也,陽氣之寧靜。陽氣寧靜,而萬物俱皆歸根,貞何其健乎?

だから春は万物を生発す、剛健の「元」なり。元とはすなわち初始。陽気初生して、万物斉しく土を破り芽を抽く。この元、なんぞの剛健ぞ。夏は万物を長養す、剛健の「亨」なり。亨とはすなわち通暢。陽気一たび通暢すれば、万物斉しく発旺茂盛す。この亨、なんぞの剛健ぞ。秋は万物を成就す、剛健の「利」なり。利とはすなわち适宜。陽気恰好の処に至りて、万物斉しく果実を結ぶ。この利、なんぞの剛健ぞ。冬は万物を収蔵す、剛健の「貞」なり。貞とはすなわち寧静。陽気安寧沉静して、万物斉しく本根に帰帰す。この貞、なんぞの剛健ぞ。

元、亨、利、貞,四時迭運,總是一健行之,一為體而四為用。體以施用,用以全體,體用如一,故天道健行而不息也。惟人也,資天之氣而始形,即具此天之健德,即有此元亨利貞之健用。人之健德,即本來之良知、先天之正氣,名曰真陽,又曰真一之精,又曰真一之氣;儒曰精一;道曰抱一;釋曰歸一。無非教人修此一點剛健正氣耳。

元・亨・利・貞は四季に随って番番に運転し、言い尽くせばただ一個の「健」が推行するにすぎぬ。一は体、四は用。体を拿出して発して用と為し、用は回頭して体を保全し、体と用と合して一片を成す。だから天道剛健運行して永く停息せず。唯だ人のみ、天の気を禀受してはじめて形体を成したがゆえに、すなわち同時に天のこの份の剛健の徳を具備し、元・亨・利・貞この四様の剛健の功用を具備せり。人の健徳とは、すなわち本有の良知・先天の正気。丹家はこれに取名して「真陽」と呼び、また「真一之精」と呼び、また「真一之気」と呼ぶ。儒家は「惟精惟一」と講じ、道家は「一を抱く」と講じ、仏家は「一に帰す」と講ず――無非は皆人をしてこの一点の剛健の正気を修養せしめんと欲するのみ。

是氣也,本於先天,藏於後天,處聖不增,處凡不減,有生之初,不垢亦不淨,不生亦不滅,不色亦不空,寂然不動,感而遂通,處於萬物之中,不為萬物所屈,本自元,本自亨,本自利,本自貞,皆在無心中運用,不待勉強,出於自然,不健而健,健而不健,健之無形跡可窺,所謂天人者是也。

この股の気は、根子を先天に在り、身を蔵めて後天に在り。聖人の身上に於いて曾て多く出る一分なく、凡夫の身上に於いても曾て少なく掉る一分なし。人初生の時、それは垢ならず浄ならず、生ぜず滅せず、色に属せず空に属せず。寂然として動かず、一感すれば便ち通ず。万物の当中に処るも、万物に圧屈せられず。それは本来元、本来亨、本来利、本来貞、全て無心の中に自然運作し、勉強を用いず、純に天然より出づ。見れば健ならざるに似るも実は極健、極健なるもその健たるを見えず、あの剛健には形迹として窺探すべきなし――これがいわゆる「天人」なり。

一交後天,氣質發而外物誘,性相近而習相遠,棄真認假,良知有昧,於是元者不元,亨者不亨,利者不利,貞者不貞,健之德已虧,健之用已非,神昏氣濁,性亂命搖,身雖動而陽氣消,不死豈能之乎?

一旦後天に交じり入れば、禀受の気質発作し起き、外面の事物また来たりて引誘す。ここにおいて孔子のいう「性相近し、習相遠し」の分化有り。真を丢き、偽を認取し、良知は一層の昏昧を蒙る。ここより元なるべき元ならず、亨なるべき亨ならず、利なるべき利ならず、貞なるべき貞ならず。剛健の徳すでに虧損し、剛健の用すでに変質し、精神昏昧、気息渾濁、性情紊乱、命根動揺し、身子は猶活動すれども、陽気は一天天に消磨す――こく如くにしてなお死なざるを得んや。

故聖人有造命之學,於後天中返先天,能以修持本來乾健之德,永久不壞耳。修持之道,仍不外此元、亨、利、貞之用。人能看破一切,猛醒回頭,志於性命,恍惚杳冥之中,便有一點生機潛發,此健之元也。人能一心修養,真履實踐,經久不殆,行以達其所欲,即健之亨也。人能振發精神,勇力前進,剛氣凝聚,諸緣不礙,生死如一,即健之利也。人能格物致知,辨別是非耶正,止於其所而不遷,即健之貞也。

だから聖人は別に一套の「命を造る」の学問有り、後天の裡に先天を返し、本来の乾健の徳を修持して帰り、それを永久に壊れざらしむる能う。修持の門路は、依然として元・亨・利・貞この四様の功用を跳出さず。人がもし世間の一切を看破し、猛然として醒悟して回頭し、心志を性命の上に立定せば、則ち恍恍惚惚・杳杳冥冥の中に、一点の生機悄然として発動有り――これが剛健の「元」。人がもし一心に修養し、実実在在に履行して下り、長久懈らず、一路做して所求の達成に至れば――これが剛健の「亨」。人がもし精神を振作し、奮勇前進し、剛気凝結して団を成し、種種の外縁皆彼を碍ぐる能わず、生と死とを一事と看做せば――これが剛健の「利」。人がもし事物を推究し真知を増長し、是と非・邪と正とを弁明し、該処の位置上に安住して遷移せざれば――これが剛健の「貞」。

元以生其健,亨以通其健,利以成其健,貞以固其健。元、亨、利、貞一氣運用,由勉強而歸自然,渾然天理,仍是良知本來面目,可以與天同功用,與天同長久矣。但是道也,有藥物,有火候,有功力,有急緩,有止足。修之合法,養之隨時,方能進於佳境。倘差之毫髮,失之千里。元亨利貞,四者缺一,則健德不成,命非我有。此進陽之火候,不可不知也。

「元」はもってこの份の剛健を生起し、「亨」はもってこの份の剛健を通暢し、「利」はもってこの份の剛健を成就し、「貞」はもってこの份の剛健を固守す。元・亨・利・貞の四者合して一気を成して運用し、起初の勉強より後来の自然に做し至り、渾然としてただ一片の天理、依然として良知の本来の面目。こく如くすれば便ち天とその功用を同じくし、天とその長久を同じくす可し。ただしこの条の路上には薬物あり、火候あり、功力あり、該急該緩の分寸あり、該停該止の界限あり。修めて法に合し、養いて時に応じて、はじめて佳境に渐入す。もし一糸一毫を差せば、則ち千里を失わんとす。元・亨・利・貞の四様、一様を缺けば剛健の徳は便ち成就し得ず、性命もまた自己の所有に帰せず。これは「陽火を進む」の火候、知らざるべからざるなり。

初九,在健之初,健德方振,如潛藏之龍,正當培養正氣之時,未可自恃其健,故曰「勿用」。九二,健而得中,不偏不倚,剛柔相當,如見龍在田,生氣常存,天良不昧,聖胎有象。所謂大人者,不失其赤子之心者也,故曰「利見」。

「初九」この一爻は剛健の起頭に処り、健徳剛かに振作し、譬如一條の尚潜蔵する龍、正に正気を培養する時、未だ自ら恃みて剛健に妄動すべからず。だから爻辞に「用うる勿れ」と曰う――この一歩の工夫は筑基蓄気、蓄えて発せざるなり。「九二」この一爻は剛健にしてまた下卦の中に居り、不偏不倚、剛と柔と分量相当し、譬如龍すでに田野に現る。生機常に在り、天賦の良知復た昏昧せず、「聖胎」すでに形象を初具す。爻辞のいう「大人」は、正に《孟子・離婁下》の講ずる「その赤子の心を失わざる者」なり。だから「見ゆるに利し」と曰う――この一歩の工夫は中和すでに立ち、本来の良知現前す。

九三,浩氣充塞,剛而得正,日則勉於行,夕則察其過,日乾夕惕,健行不息,雖有危厲,故能無咎。九四,健德已成,聖胎完全,待時脫化,如龍或躍而起,或在於淵,審查氣候,防危慮險,故可無咎。

「九三」この一爻は、浩然の気胸中に充塞し、剛強にしてまた居位正を得、白天勉力して做し、夜に至って過失を省察し、白天勤勉・夜晚戒懼して、剛健運行して歇まんことを肯んぜず。縦い処境危険なるも、終に過あることなし――この一歩の工夫は昼夜断えず保任し、火力は一刻も間断を許さざるなり。「九四」この一爻は、健徳すでに修成し、「聖胎」すでに完足し、ただ時機の到來を待って胎を脱し変化せんとするに似り、龍の或いは騰躍して起き或いは深淵に退処するが如し。この時要に仔細に火候気機を審察し、危を防ぎ険を慮るを要す。だからまた過あることなし――この一歩の工夫は丹すでに結びて未だ脱せず、進退全て時候を視るなり。

九五,剛健中正,陰陽混化,身外有身,形神俱妙,與道合真,不但成己,而且成物,如飛龍在天,隱顯不測,隨時濟物。所謂大人者,正己而正物者也。放曰「利見」。上九,進健太過,獨剛不柔,知進而不知退,如亢旱之龍,龍至於亢,不能生物。健至太過,必敗其事。陽極必陰,天寶得而復失,理有可決,故曰「有悔」。

「九五」この一爻は、剛健にしてまた中正、陰と陽と混化して一を為し、肉身の外に別に一個の法身あり、形と神と倶に微妙に臻り、大道と合して真と為る。但だ自己を成就するのみならず、また万物を成就する能う。譬如飛龍天に在り、或いは隠れ或いは顕れ、変化測りがたく、時と処とに随って他人を済助す。爻辞のいう「大人」は、正に《孟子》の講ずる「己を正して物正しき者」なり。だから「見ゆるに利し」と曰う――この一歩の工夫は丹成り胎を脱し、自度より度人に転ず。「上九」この一爻は、陽を進め進めて頭を過ぎ、一味に剛強にして柔を肯んぜず、前進のみを知りて退守を知らず、譬如一條の亢旱の龍。龍一たび亢の地步に至れば、則ち復た万物を生養すること能わず。剛健頭を過ぐれば、必ず事を敗壊す。陽極点に至れば必ず陰に転じ、好不容易得たる天賜の至宝を重ねて失掉す。この道理は断定し得べきなり。だから「悔有り」と曰う――この一歩は火候頭を過ぎ功敗れて成り垂んとするの告誡なり。

大抵行健用剛之道,貴乎隨時,隨時之健,能剛能柔,元、亨、利、貞,無往而不可健,無往而有傷健矣。聖人恐人不知用健之道,大書特書曰:「用九,見群龍無首,吉。」此言太煞分明。九為河圖一三五,陽生之數。用九者,即用健也。龍之為靈昭昭也,變化不測,能上能下,能大能小,能隱能顯,迎之不見其首,隨之不見其後。

大凡剛健を行い剛強を用うる路数は、最も緊要なるは時機に随って定まるなり。時に随って健なれば、則ち剛すべきは則ち剛、柔すべきは則ち柔。元・亨・利・貞、いずれの歩みに走り至るも健を用い得、いずれの歩みに走り至るもまた健を傷せざるなり。聖人は人の健を用うる分寸を解せざらんを怕れ、特に鄭重に一句を写下す。「九を用う、群龍首無きを見る、吉」と。此の話は再び明白ならざるなし。「九」は河図中の一・三・五相加して成る陽生の数なり。いわゆる「九を用う」とは、すなわち健を用うるなり。龍此の霊物は、霊異分明にして変化測りがたし。上る能く下る能く、大なる能く小なる能く、隠る能く顕る能く。それに迎えてその首を見ず、それに随いてその尾を見ず。

修健之道,如御龍也。用健而能隨時,如群龍之變化也。當潛而潛,當見而見,當乾而乾,當躍而躍,當飛而飛,健而不至過,高而不至亢,緩急止足,各隨其時,此無首之健,用之而未有不取吉者。

剛健の道を修持するは、猶龍を駕馭するが如し。健を用いて能く時に随り変に応ずるは、猶あの一群の龍の千変万化するが如し。潜蔵すべき時は便ち潜蔵し、現身すべき時は便ち現身し、乾乾勤勉すべき時は便ち乾乾勤勉し、騰躍すべき時は便ち騰躍し、高飛すべき時は便ち高飛す――剛健にして頭を過ぐるに至らず、升高にして亢極に至らず。或いは緩やかに或いは急ぎ、いずれの時に停まりいずれの時に止むべきか、皆各々当下の時機に依る。これがすなわち「首無き」の剛健、某一種の姿態を頭裏に擺して主を為さず。用うれば吉を得ざるなし。

但無首變化之道,須要真知灼見,若不見而猜想做作,雖天寶在望,未許我得。用之必先見之,見而後用,則有用,用中無用,無功,功裡施功,有無不立,順逆不拘,大地裡黃芽長遍,滿世界金花開綻,信步走去,頭頭是道,取之左右逢其原,用九而不為九所用,方且進於剛健中正純粹之精,我命由我不由天,與天為徒矣。

ただこの一套の「首無き」変化の道理は、真知灼見有るに非ずんば不可なり。もし並びて真に切りて看見せず、ただ猜想に憑って做作せんとするならば、天賜の至宝は眼前に近在するも、未だ必ずしも我が手に到るを得ざらん。それを用いんと欲せば、先ずそれを看清せんを須す。看清して用いて、はじめて真に用うる所有りと算う。用有るの中に於いて並びて用に着意せず、見れば功無きの処に似たるも却って功の上に功を加う。「有」と「無」の両辺は倶に安立せず、順行と逆運とも倶に拘執せず。あの時に至れば、大地上処々に黄芽を生出し、満世界処々に金花を開遍し、信歩として走去り、頭頭皆是れ道、正に《孟子・離婁下》のいう「これを取るに左右にその原に逢う」が如し。これがはじめて「九」を用いて「九」に用いられざる、方に剛健・中正・純粋の精気に進み得、我がこの条の命は我が自己より主を作し、老天に擺布せられず、天と同伴を做し得べきなり。

上坤下坤(坤卦第二)

坤:元亨,利牝馬之貞。君子有攸往,先迷後得主,利西南得朋,東北喪朋。安貞吉。初六,履霜,堅冰至。六二,直方大,不習無不利。六三,含章可貞,或從王事,無成有終。六四,括囊,無咎無譽。六五,黃裳元吉。上六,龍戰于野,其血玄黃。用六,利永貞。

《坤》卦の卦辞。元・亨。母馬の如く貞固を守持するに宜し。君子往く所有り、起先は方向を迷失し、後来はじめて主人を尋得す。西南方に往けば朋友を得、東北方に往けば則ち朋友を喪う。正道に安んずる、吉。初六爻。脚下霜を踩めば、則ち堅氷のまさに来たらんとするを知る。六二爻。正直・方正・宏大、刻意の造作を須とせずして利あらざるなし。六三爻。内に含む文采を蔵して正固を守持する能く、倘若出でて君王の事業を輔佐せんか、自らその功に居らず、然而好结局有り。六四爻。口袋の口を扎緊するが如く自己を収斂す、既に過なく、また称誉を得ず。六五爻。黄色の下裳を穿くが如く、大吉。上六爻。龍郊野の上に戦い、流出の血は又黒く又黄なり。用六。永久に正固を守持するに宜し。

坤者,順也。柔順卑下之義,卦體六爻皆偶,純陰之象,故謂坤。此運陰符之卦,修性之學,所以行順而用柔道也。順莫順乎地,地本至陰,無陽不能生成萬物。其所以生成萬物者,順乎天之陽氣,進退而生成之,是地本不元亨,而元亨之利,在於能貞耳。地之順天不可見,觀於牝馬之順,而地之順可知矣。

「坤」とはすなわち「順」、柔順謙下の意を取る。この一卦の卦体は六爻皆陰爻、純陰の象であるから坤と呼ばれる。それは「陰符を運ぶ」ことを講ずる一卦で、「性を修する」の学問に属する。だから柔順の徳を行い柔和の道を用いるを要す。天下に地より柔順なるはなし。地は本より至陰の物、陽なくんば万物を生養し出す能わず。それが万物を生養し得る所以は、全く天の陽気に順い、陽気の進退に随って生養するに憑る。見るべし、地本身は並びて元と亨とを自具せず、その元亨の好処は、ただ能く「貞」――守得住・承得起――に在るのみ。地が天に順う模様は見えず、母馬が公馬に順う模様を視れば、地の順もまた推知し得べし。

牝者,陰柔之總名。凡物之陰者,皆屬北。馬為健行之物,牝馬順牝(疑為牡)馬而行,則牝馬所到之處,即是牝(疑為牡)馬能到之處,雖柔亦剛,地順之利貞,亦如牝馬之利貞耳。

「牝」は一切陰柔の物の総名、凡そ陰に属するものは皆この類に帰す。馬は善く健行する牲口、母馬が公馬に随いて走れば(原書この両処の「牝」の字、校者は文義に拠りて「牡」と作すべきと注明す)、則ち母馬の到り得る所は、すなわち公馬の到り得る所なり――柔なるも、亦た剛の效能を具備せり。地あの份の「順」の利有り貞有る所以は、正に母馬の利と貞との如きなり。

人受地之陰氣以成形,即具此柔順之德。柔順之德,即人生之初,秉彝之良能,此能交於後天,為氣質所拘,積習所染。順非所順,順其所欲,良能變為假能矣。聖人教人行順道者,由假順而變為真順,還其當日不識不知,順帝之則之本面耳。故曰「君子有攸往,先迷後得主。」

人は地の陰気を承受してはじめて形体を凝成したがゆえに、天生よりこの份の柔順の徳を具備す。いわゆる柔順の徳とは、すなわち人の初生の時に秉受したあの一点の天然良能。この份の良能は一たび後天に交じり入れば、禀受の気質に拘えられ、日積月累の習気に染汚され、ここにおいて順う対象を錯まる――一味に自己の私欲に順いて走り、良能は便ち仮能と変ず。聖人が人に「順の道」を行わしむるは、正に人をして仮順より真順に転回せしめ、彼に当初の「識らず知らず、帝の則に順う」の本来の面目を還さんと欲するなり。だから卦辞に曰う。「君子往く所有り、先に迷い後に主を得」。

夫剛為柔之主,剛能統柔,柔不能統剛,亦只順承其剛而已。以柔順剛,不但無能者順有能,凡返邪歸正,改惡遷善,存誠去妄,以人心順道心之事,皆係以柔順剛之義。先迷者,人心用事,道心埋藏,順其人慾,以假傷真,由迷而失主也。後得主者,道心用事,人心安靜,順其天理,以真滅假,得主而不迷也。

剛は柔の主人。剛は能く柔を統率す、柔は剛を統率すること能わず、ただ順って剛を承接するのみ。柔をもって剛に順うは、単に本事なきが本事有るに順従するを指すに非ず。凡そ邪を棄てて正に帰り、悪を改めて善に従い、誠意を存養して妄念を除去し、および「人心」をして「道心」に順従せしむるこの類の事は、皆柔をもって剛に順う道理に属す。いわゆる「先に迷う」とは、人心家を当り道心埋没し、一味に人の私欲に順いて走り、偽を以て真を傷つけ、迷失に因って主人を丢くるなり。いわゆる「後に主を得」とは、道心家を当り人心安伏し、一味に天理に順いて走り、真を以て偽を滅し、主人を尋回して復た迷失せざるなり。

人能由迷生悟,以陰順陽,借人心復道心,以道心制人心。先失主而後得主,雖愚必明,雖柔必強,何病於柔乎?順之道,莫大於地。順之象,莫著於月。月本純陰無陽,與日會於虛危之處,行至西南坤位,初三吐蛾眉之光,魄中生魂,是謂得朋。至於十五,光輝盈輪。十六日景自此漸錯,月光至此漸退;魂中生魄,行至東北艮地,二十八餘光於此全消,所謂喪朋。

人がもし迷惑の裡より覚悟を生じ、陰をもって陽に順い、「人心」を借りて「道心」を找回して来て、再び道心を用いて人心を管住せば、あれはすなわち先に主人を丢いて後にまた主人を尋回するなり。《中庸》に「愚なりと雖も必ず明、柔なりと雖も必ず強」と曰う。こく如くなれば、柔はまた何の憂うべきか有らん。「順」の道理を講ずるに、地より大なるはなし。「順」の物象を講ずるに、月より顕明なるはなし。月は本より純陰無陽の体、先に太陽と虚・危二宿の処に会し、行きて西南坤位に至り、初三に便ち一鉤の蛾眉の如き光を吐出す――魄中に魂を生出す、これを「朋を得」と呼ぶ。十五に至りて光輝整輪に盈満し、十六以後日影漸漸偏移し、月光ここより一天天退減す――魂中に魄を生出す、行きて東北艮位に至り、二十八日あの余光全部消尽す、これがいわゆる「朋を喪う」なり。

西南月光方生,陰順其陽之進也。東北月光全消,陰順其陽之退也。陽進則月明,陽退則月昏。月之昏明,亦順其日之進退耳。修道君子,用順而行柔道,能如月之順日,則知得知喪,進之退之,無有不利者也。利者何利?利其順之得正,尤利其安居於正。方是全始全終之吉道。

西南方向月光剛かに生起するは、陰が陽に順うて前進するなり。東北方向月光完全に消尽するは、陰が陽に順うて退蔵するなり。陽進めば則ち月明、陽退けば則ち月昏。月の明と昏とは、亦た不过太陽の進退に順うのみ。道を修する君子は「順」を用いて柔和の道を行う。もし月亮の太陽に順従するが如く能わば、便ちいずれの時に「得」べき、いずれの時に「喪」べきかを暁け、進むべきは便ち進み、退くべきは便ち退き、利ならざるなし。いわゆる「利」、利はどこに在るか。利はこの份の順がその正に順い得るに在り、尤も利は能く安穩としてこの正を守り得るに在る。これがはじめて始有り終有りの吉道なり。

曰安貞者,安正也。以正而安,止於其所,不順而必期其順,不正而必至於正。煉己持心,拔去一切輪迴種子,不使有一點滓質留於方寸之中。虛極靜篤,人心不起,道心即生,貞下起元,柔即是剛,順即能健,元而未有不亨,亨而未有不利,利而未有不吉者。安貞之順,豈小焉哉!

いわゆる「安貞」とは、すなわち正道に安んずる。正に憑って安を得、自己の在るべき地方に安住す。本来順ならざるは、必ずそれに順に帰せんことを求め、本来正ならざるは、必ずそれに正に帰せしむ。ここにおいて「己を錬り心を持す」――自己を磨錬し此の心を把持し、一切の輪廻を招致する種子を根を連ねて拔き去り、一星半点の渣滓をも方寸の間に留下せざらしめぬ。虚は極処に至り静は篤処に至り、人心復た興起せず、道心自然生発し、「貞」の尽頭にまた「元」を生出す。柔は便ち剛、順は便ち健なる能う。元なれば亨ならざるなく、亨なれば利ならざるなく、利なれば吉ならざるなし。「安貞」この一份の順、意義豈に小さからんや。

初六,在順之初,繫可真可假之際,稍有不正,客氣潛入,必至一陰生而群陰畢集,即有履霜堅冰至之象,故順之須謹於始也。六二,柔順中正,中則其心直而能謹慎。正則其行方而有裁制,內直外方,循規蹈矩,自能大其德業,故不習無不利也。

「初六」この一爻は柔順の起頭に処り、正しく真なるべき偽なるべきの関口に当たる。稍く一點の正ならざる有れば、外来の「客気」便ち悄悄侵入し、必ず一陰はじめて生じ群陰斉集す。ここにおいて「霜を履み堅氷至る」の象有り。だから順の道を行うは最も開頭の処に於いて謹慎を要す。この一歩の工夫は微を防ぎ漸を杜ぐなり。「六二」この一爻は、柔順にしてまた中正。「中」を得れば心地正直にして謹慎し得、「正」を得れば行事方正にして裁断節制有り。内裡正直・外表方正、一挙一動皆規矩に合し、自然に徳業を做大する能う。だから刻意の造作を須とせずして利あらざるなしと曰う。この一歩の工夫は内直外方、柔順にして中正を得るなり。

六三,性柔志剛,含藏章美,順守其正,不以外假而傷內真。即有事而不得不外順者,其必或從王事,欲順於人,不失於己,故無成而能有終也。六四,以柔居柔,內念不出,外念不入,順時順命,不致禍而不求福,如括結囊口,內外一空,故無咎而亦無譽也。

「六三」この一爻は、性情柔和にして志向剛強、内に含む文采美質を蔵して、自己の正道を順守し、外面の仮象に因りて裏面の真を傷せず。縦い事に遇いて外面に於いて随順せざるを得ずとも、あれは亦た「或いは王事に従う」――出でて一份の差事を担うのみ。人には順い得て、また自己を失せず。だから自らその成に居らずして好结局有り得るなり。この一歩の工夫は含蔵して露われず、世に応ずる中に真を守るなり。「六四」この一爻は、柔爻をもって柔位に居り、裏面の念頭は外に放出さず、外面の念頭は内に放い入れず、時に順い命に順い、禍を招くことなく福を求むることなく、譬如口袋の口子を扎緊するが如く、内外倶に一片の空なり。だから既に過なく、また称誉を得ず。この一歩の工夫は内外双く泯し、一意に封固す。

六五,柔順虛中,德足服人,不言而信,不教而化,如黃裳著體,喑然日章,美德在內,自著於外,故為順道之元吉也。上六,自尊自大,以柔為剛,不能順人,欲人順己,如龍戰于野,乖和失中,陰差陽錯,未得於人,早傷其已,故其血玄黃也。

「六五」この一爻は、柔順にして中間虚空にして容るる能く、徳行は人をして心服せしむるに足る。口を開くを須とせずして人自ら相信じ、教導を須とせずして人自ら感化す。譬如身上黄色の下裳を穿くが如く、正に《中庸》のいう「暗然として日に章む」――炫耀せずして光彩一天天透出す。美徳は裏面に蔵り、自然に外面に顕露す。だからこれは順の道を行うの大吉なり。この一歩の工夫は中を虚にして徳を養い、言わずして人を化すなり。「上六」この一爻は、自尊自大にして、柔を硬に剛と装い、人に順従することを肯んぜず、反って人に己に順従せんことを要す。譬如「龍野に戦う」、和気に乖違し中道を失掉し、陰陽彼此錯位し、未だ人の便宜を占めざるに、先に已に自らを傷つけたり。だから流出の血は又黒く又黄なり。この一歩は柔にして強を逞ぶし、陰陽両傷の敗象なり。

觀於六爻之順,是非不等,邪正各別,求其順之而得利於己者,其惟六二;順之而能感化人者,其惟六五乎。噫!順道豈易能哉?毫髮之差,千里之失,不謹於始,必敗於終。聖人大書特書曰:「用六,利永貞。」為後人開一大道,使行順道者永於貞,方能順之得真,方能順之得利。

通観六爻の講ずる「順」、是非は一様ならず、邪正も各々分別あり。順い得て自己を受益せしむるを尋ぬれば、ただ「六二」有り。順い得て他人を感化し得るを尋ぬれば、ただ「六五」有り。ああ、順の道はどこが容易に做し得べきや。毫髪を差せば則ち千里を失う。開頭謹慎ならざれば、收尾は必ず失敗す。だから聖人は鄭重に一句を写下す。「六を用う、永貞に利し」と。これは後人の為に一条の大路を開出し、順の道を行う人をして「貞」の字の上に守り底せしめ、はじめて真に順い得、はじめて利に順い得べし。

夫用六之道,用順道也。六為河圖二四陰生之數,陰主順用。六者用順也,用順所以以虛求實,以無求有耳。古今學人,自恃聰明,依一己之見,妄猜私議,不肯低心下氣,求人請益,以故皓首窮年,一無所得;或亦有尋師訪友,不能辨別邪正,入於旁門曲徑,至死不悟者;或有能辨別其邪正,究明性命之理,遵道而行,又半途而廢,不永於貞者。凡此皆非用六之道,俱不能成道。

いわゆる「六を用う」の道とは、すなわち順を用うの道。「六」は河図中の二と四と相加して成る陰生の数、陰は柔順を主る。だから六を用うとはすなわち順を用うなり。順を用うとは、虚に憑って実を求め、無に憑って有を求めんとするに要するなり。古往今来の道を学ぶ人。ある者は聡明を自恃し、ただ一己の見に憑って胡乱に猜测し私下に議論し、心気を低くして人に請教せんことを肯んぜず。ここにおいて頭を白くし一生を耗尽し、何も得ず。また人ありて師を尋ね友を訪うを肯んずれども、邪と正とを分弁し清さず、一頭に傍門小路に鑽り込み、死に至るも醒悟せず。また人ありて既に邪正を分弁し得、また性命の道理を弄明白して、道に依って行うも、半途にして廃し、「貞」の上に守り底すること能わず。これら皆六を用うの道に非ず。だから皆道を成す能わず。

若欲成道,須要知順,又須要順其正,更需要永順其正。能永順其正,柔中即有剛,不隱不瞞,至死不變,脫去後天氣質之性,露出先天不識不知、順帝之則之本面,性了而命亦可了,一永貞而柔順之道至矣,盡矣。

もし道を成さんと欲せば、先ず何をか順と謂うを暁けんを要し、またその正に順い得んを要し、更に永くこの正の上に順うを要す。能く永く正の上に順えば、柔の裏面に自然剛を含む。隠瞞せず、遮掩せず、死に至るも改変せず。後天気質の帯来した習性を脱去し、先天の「識らず知らず、帝の則に順う」の本来の面目を露出す。性は了結を得、命もまた了結し得べし。一個の「永貞」、柔順の道は便ち頂に算し至り、尽頭に説き至れり。

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