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上艮下離(賁卦第二十二)

清 · 刘一明 · 第9巻 / 19

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

賁:亨。小利有攸往。初九,賁其趾,舍車而徒。六二,賁其須。九三,賁如濡如,永貞吉。六四,賁如皤如,白馬翰如;匪寇,婚媾。六五,賁于丘園,束帛戔戔,吝,終吉。上九,白賁無咎。

《賁》卦の卦辞。亨通、小さく往く所有れば則ち利有り。初九爻辞。其の脚趾を修飾し、車子を舎てて歩行す。六二爻辞。其の鬚鬢を修飾す。九三爻辞。文飾して潤沢光有り、長久に正を守れば則ち吉利。六四爻辞。文飾して一片の素白、白馬奔馳して来る。来るは強盗に非ず、婚配を求め来るなり。六五爻辞。山丘園圃の間に於いて文飾を受く、成束の帛少なくして可憐なり。雖も羞吝を顕るも、最終は還た吉利。上九爻辞。純白無色を以て文飾と為す、過なし。

賁者,文飭之義。卦德上艮止、下高明,明乎其所止,止於其所明,自明明德,而止於至善,故謂賁。此潛修密煉之卦,承上觀卦而來。觀者,隨時漸進,神明覺察之道,能覺能察,迴光返照,大智若愚,大巧若拙,止其明而明有養,明於止而止其所,明止相賁,明而不至於誤用,止而不落於空寂。止以明為體,明以止為用,明不傷而止得正,明之止之,未有不亨者也。

「賁」は文飾・修飭の意。卦徳に就きて言えば、上体は艮、艮の性情は止、下体は離、離の性情は明。自己の停まるべき何処かを明白し、又た自己の明白する所に停まり、自己の本有の明徳を彰明して至善の地に停まる。だから《賁》と呼ばれる。これは潜修密錬を講ずる一卦で、上一卦《観》を承接して来る。《観》卦の講ずるは時機に随って漸漸前進するの神明覚察の道なり。能く覚え能く察すれば、光を回して返照し、大智慧は看去れば愚鈍に像り、大霊巧は看去れば笨拙に像る。あの点の明を止住すれば、明は則ち涵養を得。明の処に於いて停住すれば、則ち停まりて其の所を得。明と止と互相に文飾して、明は便ち誤用するに至らず、止も亦た空寂に落ち込むに至らず。止は明を以て本体と為し、明は止を以て運用と為し、明は損傷を受けずして止は又た其の正を得。此の如く又た明にして又た止なれば、亨通せざる無し。

然雖明止相賁,尤必以止明為貴。止明,非空空無為,全不用明之謂,特明於內而不明於外,止於明而不止於不明,明在止中,不輕用明,自小之義也。自小,則戒慎恐懼,黜聰毀智,神明內守,虛靈不昧,一切外物不得而移之,其利居多。但太過於小,是止而不明,非本卦明止相合之象,如何得亨、得利乎?

然而雖も明と止と互相に文飾すると説くも、尤も還た「明を止む」(明を収め住めて外に露わさず)を以て貴しと為すを須す。いわゆる明を止むとは、並びて空空洞洞として為す所無く・完全に明を用いざるに非ず、而も是れ明は裏面に在りて外面に顕れず、明の処に停まりて明ならざるの処に停まらず。明は止の中に蔵れ、軽易に動用せず。これがすなわち自ら小に居るの意思なり。自ら小に居れば、則ち能く戒慎恐懼し、聡明を屏去し・機巧を毀棄し、神明内に向かって固守し、虚霊にして昏昧せず、一切の外物皆彼を動揺する能わず。好処は大半を占めたり。但しもし小に得ること太も頭を過ぐれば、則ちただ止みて明ならざると成り、本卦の明と止と相配するの象に合せず。あれは則ち又た怎様にして亨を得・怎様にして利を得べきや。

夫所謂止者,止於至善,寂然不動也。所謂明者,明其明德,感而遂通也。靜則無為,動則有作,明於止而止行明,得於心而驗於事,方謂真止,方謂真明。辭曰“利有攸往”者,所以驗此止、驗此明耳。

いわゆる「止」とは、是れ至善の地に停まり、寂然として動かず。いわゆる「明」とは、是れ自己の本有の明徳を彰明し、一感すれば便ち通ず。静の時は是れ無為、動の時は是れ有作。明の処に於いて停住して停住の中に於いて仍ほ其の明を行い、心裡得着して又た事の上に於いて験証し出す。これがはじめて真止と呼ばれ、はじめて真明と呼ばる。卦辞に「往く所有れば利し」と曰うは、正に実事を拿って来て此の個の止を検験し・此の個の明を検験せんと欲するなり。

凡人當無事之時,每心地明亮,知其所止,及至有事,即便昏迷,不知其所止矣。若能由明而止以養明,由止而明以通明,明止不拘,隨時而用,大火裡栽蓮,泥水中拖船,一靈妙有,法界圓通,明於止而止其所當止矣。

一般人は事無きの時、往往として心地明亮にして、自己の停まるべき何処かを知る。一たび事有らば、立刻に則ち昏迷して、停まるべき何処かを知らず。もし能く明に由りて止みて以て此の点の明を涵養し、止に由りて明にして以て此の点の明を貫通し、明と止と倶に一辺に拘り死せず、時機に随って運用し去れば、あれは便ち是れ烈火の裏に於いて蓮花を栽え・泥水の中に於いて船を拖く――最も行き難きの処も亦た行き過ぎ得、一点の霊性妙然として常に在り、整個の法界円融貫通す。これがはじめて明の処に於いて停住し、而且其の停まるべき所に停まり着きたると算う。

初九,剛而能明,自卑自下,抱道而居,如賁其趾也。賁趾之剛,不以外假而傷內真,是以舍其車,而甘於徒行。此剛而守正之賁也。六二,居於二陽之中,虛己求人,知其一己之明有限,眾人之明無窮,必有所須,而識見始能擴充,此柔而借剛之賁也。

初九此の一爻は剛強にして能く明白、自ら卑下に居り、大道を抱守して処る。猶其の脚趾を文飾するが如し。脚趾を文飾する此の種の剛は、肯んじて外面の偽物を拿って裏面の真物を傷害せず。だから寧ろ車子を舎掉して、甘んじて歩行す。此一爻の講ずるは剛強にして正を守るの賁なり。六二此の一爻は两根の陽爻の間に処り、肯んじて自己を放空して人に求教し、一人の明は有限・衆人の明は無窮なるを知り、必ず依傍する所有らんを須す(爻辞のいう所の「須」)、識見はじめて拡充し得べし。此一爻の講ずるは柔弱にして剛強を借重するの賁なり。

九三,剛明太過,只知用明,不知虛明,明必不能達遠,是以賁如濡如也。幸其剛而得正,永久不變其所守,雖不能賁於外,而能賁於內,亦致吉之道。此剛而用明之賁也。

九三此の一爻は剛と明と倶に太も頭を過ぎ、ただ明を使い出すを知りて、明を虚し下げるを知らず。此の如き明は必定して照らす遠からず。だから文飾して潤沢光有りて表面に止まると曰う。幸いに彼は剛にして正を得、長久にして自己の守る所を改変せず。雖も外に於いて文飾する能わざるも、却って能く内に於いて文飾す。亦た是れ吉利を招致するの路子なり。此一爻の講ずるは剛強にして一味に明を用うるの賁なり。

六四,居於上體,柔而不明,有應初陽,不恥下問,是以賁如皤如,白馬翰如,以不明而急求其明也。但以上求下,有挾貴自尊之嫌,多不誠信。幸其柔而得正,真心實意,出於自然,不是勉強,匪有寇傷,乃欲求其婚媾耳。此柔而求明之賁也。

六四此の一爻は上体に居り、柔弱にして明白せず、下面の初九陽爻と相応じ、肯んじて下に問うを恥とせず。だから文飾して一片の素白・白馬奔馳して来ると曰う。これは明白せざるに因って急に明白を求むるなり。但し上位を以て下位を求め去れば、難を免れずして尊貴の身份を挟みて発問し・心誠懇ならざるの嫌疑有り。幸いに彼は柔順にして正を得、真心実意は自然より出で、是れ勉強して做し出すに非ず、並びて強盗の来たりて加害する有らず、ただ婚配を求め得たらんと欲するのみ。此一爻の講ずるは柔弱にして明を求むるの賁なり。

六五,柔而不剛,執中無權,孤寂守靜,是以賁于丘園,束帛戔戔也。丘園者,曠遠無人之處,絕無人事可知,戔戔之帛,而又束之,絕無威儀可知。無人事、無威儀,過於澹泊,不近人情,乃修道者羞吝之事。然柔而得中,雖不明乎大道,亦不失為養靜之人,終得以吉全之。此柔而自得之賁也。

六五此の一爻は柔弱にして剛ならず、雖も中道を守着するも却って権変の本事無し、孤零零として清静を守着す。だから山丘園圃の間に於いて文飾を受け・成束の帛少なくして可憐なりと曰う。いわゆる丘園とは、是れ空曠偏遠にして人煙無きの地方、見るべし彼は絶対に人事往来無し。あの点の少なくして可憐なる帛は還た捆束して散用するを肯んぜず、見るべし彼は絶対に威儀排場無し。既に人事無く又た威儀無ければ、淡泊のこと太も頭を過ぎ、人情に近からず。此れは道を修る人に於いて是件の羞吝の事なり。然而彼は柔順にして中道を得、雖も大道を通暁する能わざるも、亦た一個の善く静を養うの人を失わず。最終に能く吉利を以て保全す。此一爻の講ずるは柔弱にして自ら其の楽を得るの賁なり。

上九,剛柔相當,自明明德,而止於至善,不賁而賁,賁至於無色,是謂白賁也。賁而至白,明止如一,氣質俱化,渾然天理,而無一毫人慾之咎矣。此剛柔混合之賁也。然則,賁之為道,必以明止相需為貴,明於止而止其所,止其明而明不昧,明之止之,隨時而用,潛修密煉之功是矣。

上九此の一爻は剛と柔と恰好相当し、自己の本有の明徳を彰明して至善の地に停まり、文飾し去らざるに反って真の文飾と成り、文飾して一点の顔色をも着けざるの地步に至る。これを「白賁」と呼ぶ。文飾して純白に至れば、明と止と合して一個を成し、気質完全に化尽し、渾然としてただ一団の天理、再び一絲一毫の人欲の過咎無し。此一爻の講ずるは剛柔混合の賁なり。こく如く説き来れば、賁の道理は必ず明と止と互相に為すを用うるを以て貴しと為す。明の処に於いて停住して停まりて其の所を得、あの点の明を止住して明は又た昏昧せず、又た明にして又た止、時機に随って運用す――潜修密錬の工夫は即ち是れ此れなり。

上艮下坤(剥卦第二十三)

剝:不利有攸往。初六,剝床以足,蔑。貞凶。六二,剝床以辨,蔑。貞凶。六三,剝之,無咎。六四,剝床以膚,凶。六五,貫魚以宮人寵,無不利。上九,碩果不食。君子得輿,小人剝廬。

《剥》卦の卦辞。往く所有るに宜からず。初六爻辞。牀榻を剥落し、先ず牀脚より剥き起す、正道は滅棄せられ、正を守るも凶険。六二爻辞。牀榻を剥落し、牀身と牀脚と相接するの処に剥き到る、正道は滅棄せられ、正を守るも凶険。六三爻辞。身剥落の中に処りて能く自守す、過なし。六四爻辞。牀榻を剥落し、牀上の人の肌膚に剥き到る、凶険。六五爻辞。一串の魚の如き領いて衆宮女を君王の寵幸を承受せしめに行く、一様として利あらざる無し。上九爻辞。一顆の大きな果子残りて喫い尽くされず。君子は此に因って車輿の承載を得、小人は却って房屋をも剥がれん。

剝者,消化也。卦德上艮止、下坤順,陰順生而陽止息,且卦體五陰而消一陽,陽氣將盡,陰氣將純。故謂剝。此後天陰消其陽之卦,承上噬嗑而來。噬嗑者,動而必明,所以先窮理也。窮理者,窮其陰陽消長之理耳。

「剥」は消蝕・化去の意。卦徳に就きて言えば、上体は艮、艮の性情は止、下体は坤、坤の性情は順。陰気は勢いに順って滋生して陽気は停息して前進せず。再び卦体に就きて言えば、五根の陰爻は一根の陽爻を消蝕し、陽気将に耗尽せんとし、陰気将に純全ならんとす。だから《剥》と呼ばれる。これは後天の陰気が陽気を消蝕するを講ずる一卦で、上一卦《噬嗑》を承接して来る。《噬嗑》の講ずるは一動すれば則ち明を帯びるなり。だから先ず理を窮めんを要す。いわゆる理を窮むるは、窮むる正に陰陽消長の道理なり。

人秉天地陰陽五行之氣而生身,有命而即有性,性命寓於一身之中矣。當人生之初,性命一家,先天後天混而為一,陰陽未分,邪正未判,圓成之象。及其成人氣足,先天陽極,交於後天,一陰潛生,日復一日,年復一年,陰氣漸盛,陽氣漸弱,不至消盡其陽而不止。如卦體五陰而剝一陽,當此之時,陽不勝陰,其所餘者,幾希之陽耳。

人は天地陰陽五行の気を禀受して此の個の身体を生成し、「命」有れば則ち同時に「性」有り、性と命と皆此の一身の中に寄托す。人剛かに出生するの時、性と命と還た是れ一家、先天と後天と混融して一を為し、陰陽未だ分れず、邪正未だ判別せず、是れ一派の圓満完具の気象なり。長じて人と成り・気血充足するに及ぶを待って、先天の陽極点に至れば便ち後天に交入し、一点の陰気暗暗として生出し、一天に一天を接し、一年に一年を接して、陰気漸漸強盛に、陽気漸漸衰弱に、陽を消耗して乾浄せざれば決して止まず。猶此の一卦の五根の陰爻が一根の陽爻を剥蝕するが如し。此の時に至りて、陽は陰に敵せず、剩る所は不過是れあの一星半点の陽のみ。

人若不知,而猶認假為真,有攸往而自恃其強,必至陽氣消盡,不利甚矣。至人於此,有抑陰扶陽之道,不使陰氣消陽於盡,即於此一點陽氣未盡處,順而止之,黜聰毀智,緊閉靈竅,以為返本還元之基。

人もし此の個の道理を明白せずして、還た偽を認めて真と作し、一味に往く所有りて自ら強壮を恃めば、必定して陽気消耗して殆ど尽きるに弄り至らん。あれは則ち太も利ならず。修養有るの至人はここに於いて別に一套の陰を抑え陽を扶くの弁法有り、陰気をして陽を消し尽くせしめず。則ち此の一点の陽気未だ耗え尽くさざるの地方に於いて、それに順ってそれを止住し、聡明を屏去し・機巧を毀棄し、霊竅を緊緊として閉鎖して、此を以て本に返り元に還るの根基と為す。

蓋不能使陽而不陰者,天地循環之氣機;而能於陰中保陽者,聖人逆運之功力。特以聖人有先天而天弗違之道,能以奪造化、轉生殺也。至於一切常人,順行造化,以陰剝陽,陽氣消盡化為純陰,不死豈能之乎?聖人於剝之一卦,直彖曰:“不利有攸往。”凡惜性命者,可以早悟矣。

大抵説き来れば、能く陽をして永遠に陰に転ぜざらしむる能わざるは、あれは天地循環の気機の然らしむる所なり。而して能く陰気の中に於いて陽気を保住するは、則ち是れ聖人の逆って運転するの功力なり。正に聖人に《周易・乾・文言》のいう所の「先天にして天も違わざる」の本事――天時の先に行いて天も彼に違背せず――有るに因る。だから能く造化を奪取し・生殺の権を扭転す。一般の常人に至っては、造化に順って走り、陰を以て陽を剥き、陽気消尽して純陰と化成す。死せざれば又た怎様にして可能ならんや。聖人は《剥》此の一卦に対して、直截に彖辞の裡に於いて「往く所有るに利あらず」と説く。凡そ性命を愛惜する人は、此処を読みて応に早く醒悟すべし。

初六,一陰潛生,自下消陽,如剝床以足也。床足之剝,其氣雖微,其害最大,蔑貞之凶,即於此始。此陰氣方進之剝也。六二,陰氣浸長,自下而上,如剝床以辨也。辨不是足,辨上是床,陰氣漸升,將上於床,與陽爭權,蔑貞之凶,不旋踵而至矣。此陰氣漸盛之剝也。

初六此の一爻は一点の陰気暗暗として生出し、最も下面より開始して陽気を消蝕す。猶牀を剥くは先ず牀脚より剥き起すが如し。牀脚剥がるれども、あの股の陰気雖も還た很く微弱なれども、害を為すは却って最大なり。正道を滅棄するの凶険は則ちここより頭を開く。此一爻の講ずるは陰気剛かに進逼するの剥なり。六二此の一爻は陰気漸漸増長し、下より上に向かって走る。猶牀を剥きて牀身と牀脚と相接するの地方に剥き到るが如し。「辨」は是れ牀脚に非ず、辨の上面は則ち是れ牀身。陰気一層一層上升して、将に牀に爬上して陽と権柄を争奪せんとす。正道を滅棄するの凶険は転眼に則ち到らん。此一爻の講ずるは陰気漸漸強盛の剥なり。

六三,在順體之上,不順陰而順陽,與陽相應,乃安靜之陰,雖在剝時可以無咎。此陰氣順止之剝也。六四,陰氣結聚,順升而上,六陽已剝去四陽,陰盛陽弱,上床用事,乃切近之災,如剝床以膚,凶之至矣。此陰氣用事之剝也。

六三此の一爻は坤順の体の最も上面に居り、陰に順從せずして陽に順從し、上九の陽爻と相呼応し、是れ一种の安静の陰、雖も身剥落の時に処るも、仍ほ過無きを得べし。此一爻の講ずるは陰気順服して止住するの剥なり。六四此の一爻は陰気聚結して団を成し、勢いに順って上に往きて升る。六爻の中已に四爻の陽を剥掉せり、陰盛陽弱にして、陰気牀に爬上して当権して主を為す。眉睫に迫るの災禍と成り、猶牀を剥きて人の肌膚に剥き到るが如し。凶極点に到れり。此一爻の講ずるは陰気当権して主を為すの剥なり。

六五,在止體之中,與陽相親,乃客氣中發現之真陰。真陰現象,不但不傷於陽,而且能統群陰,皆順其陽。以物取之,如一魚前領,而群魚貫後;以人取之,如後以眾宮人進寵於君王。知之者,借真陰以保真陽,則一真百真。剝者不剝,吉無不利,信有然者,此陰氣順陽無剝也。

六五此の一爻は艮止の体の中間に居り、上九の陽爻と相親近し、是れ「客気」(後天雑擾の気)の中に顕露出したる一点の「真陰」(先天本有にして能く真陽に順承するあの一分の陰)。真陰一たび顕現すれば、但だ陽を傷害せざるのみならず、反って能く衆陰を統領して一斉に陽に順從せしむ。物を拿って象を取れば、猶一条の魚前面に於いて領頭し・一群の魚貫串して後面に跟って随くが如し。人を拿って象を取れば、猶王后が衆宮女を帯いて君王の寵幸を承受せしめに往くが如し。此の一層を懂れる人は、「真陰」を借りて来て「真陽」(先天本元のあの一分の陽)を保住す。一処真なれば便ち処々皆は真、本来剥落せらるべきは反って剥落せられず。吉利にして一様として利あらざる無し――此の話確実に偽らず。此一爻の講ずるは陰気陽に順從して剥と為るを成さざるなり。

上九,在剝之終,諸陽剝去,尚留一陽,猶未剝盡,知之者順而止之,不為群陰所傷,如碩果不食也。果中有仁,存此一仁則生,失此一仁則死,生之死之,只在此一仁得失之間。但此一仁,庶民去之,君子存之。蓋君子知此一仁為生生化化之本,保之守之,不但陰氣不能傷,而且借陰以全陽,如得其輿,安而行之。至於一切小人,順其所欲,知進而不知退,消陽至盡,終歸大化,如剝其廬,自失所庇矣。此聖功能止其剝也。

上九此の一爻は《剥》卦の最後に処り、衆陽皆已に剥掉せられ、還た一根の陽爻を留着し、畢竟として未だ剥き尽くさず。此の一層を懂れる人はそれに順ってそれを止住し、衆陰に傷せられず。猶一顆の大きな果子残りて喫い尽くされざるが如し。果核の裏面に仁有り、此の一点の仁を保住すれば則ち活き、此の一点の仁を丢きれば則ち死す。是れ生是れ死は、ただ此の一点の仁の得失の間に在るのみ。しかるに此の一点の仁は、普通百姓はそれを丢き掉り、君子はそれを保存して下来る。君子此の一点の仁の是れ生生化化の根本なるを知るに因る。それを保ち守住すれば、但だ陰気傷害し得ざるのみならず、而且還た能く陰を借りて来て陽を成全す。猶車輿に載せられて、安々穏々として走り下去るが如し。あの些かの小人に至っては、自己の欲望に順って走り、ただ進を知りて退を知らず、陽を消耗して一点をも剩さざるに至り、最終に大化消散に帰す。猶房屋をも剥がれて、自己は遮蔽を失去するが如し。此一爻の講ずるは聖人の功夫能く剥落を止住するなり。

六交之剝,陰傷陽者凶,陰順陽者吉。修道者可不順而止之,以保其陽乎?順而止之,顛倒之間,剝即變復,人能知剝中藏復,於此一陽未盡處下手,則後天中返先天之道得矣。噫!此天機也,知之者能有幾人哉!

六爻の講ずる所の剥は、凡そ陽を傷害する陰は則ち凶、陽に順從する陰は則ち吉。道を修する人怎様にしてそれに順ってそれを止住し、以て自己の陽を保住せざるを得んや。それに順ってそれを止住すれば、一個の顛倒の間に於いて、《剥》は則ち《復》と変ず。人もし能く剥卦の中に復卦を蔵するを懂れば、此の一点の陽気未だ剥き尽くさざるの地方に於いて下手せば、則ち「後天中より先天に返る」の道は手に到り了せり。ああ。これは是れ天機なり。能く懂れるは又た幾人か有らん。

上坤下震(復卦第二十四)

復:亨。出入無疾,朋來無咎。反復其道,七日來復。利有攸往。初九,不遠復,無祗悔,元吉。六二,休復,吉。六三,頻復,厲,無咎。六四,中行獨復。六五,敦復,無悔。上六,迷復,凶;有災眚。用行師,終有大敗;以其國君凶,至于十年不克征。

《復》卦の卦辞。亨通。出去し進入するも病害無く、同類の朋友前来するも過なし。往返循環して其の本来の路を走り、七天に就きて一次返回す。往く所有るに宜し。初九爻辞。走ること遠からずして則ち返回り来る、大きな悔恨有るに至らず、大いに吉利。六二爻辞。美好に返回り来る、吉利。六三爻辞。屢々返回して又た屢々失去す、雖も危厲有るも、過無し。六四爻辞。衆陰の中間を走りて独自返回り来る。六五爻辞。敦厚篤実に返回り来る、悔恨無し。上六爻辞。迷失して返回るを知らず、凶険、災禍有らん。此の如き人を用いて兵を帯びて打仗せしむれば、終究に大いに敗れ、其の国君をも連れて凶に遭い、以至十年の久しきに至るも倶に出征する能わず。

復者,還返之義。卦德上坤順、下震動,動作順心,天運轉,人事通,又卦體一陽動於群陰之下,陽氣始回,二者均有復道,故謂復。此先天陰中復陽之卦,承上賁卦而來。賁者,明而止所以養明運火,採取先天真陽耳。採取真陽,乃陰中返陽,重整家事,別立鼎爐之道,能以奪造化、了生死,復而未有不亨者也。

「復」は回還・返帰の意。卦徳に就きて言えば、上体は坤、坤の性情は順、下体は震、震の性情は動。動き起きて処々心に順い、天時運転し、人事通達す。再び卦体に就きて言えば、一根の陽爻衆陰の下に於いて震動を開始し、陽気回還を開始す。此の両方に倶に「復」の道理を含む。だから《復》と呼ばれる。これは先天真陽陰中に於いて回復するを講ずる一卦で、上一卦《賁》を承接して来る。《賁》卦は明にして能く止まり、用いて此の点の明を涵養し・火候を運行して、以て先天真陽を采取す。真陽を采取するは、即ち陰中に於いて陽を返り来らしめ、重新に家業を整頓し・別に鼎炉を立つるの弁法なり。能く造化を奪取し・生死を了却し、一復して亨通せざる無し。

復道雖亨,但人認假棄真,多不知其復耳。若知其復,則回頭是岸,道心發現,人心自退,可以出入乎陰陽之中,而不為陰陽所疾傷矣。然雖無疾傷,須要復之知時,時未至而不可強求,時已至而不可錯過,方能得真。

復の道路雖も亨通すれども、但し人は偽を認め真を棄て、多半復せんと要するを知らず。もし復せんと要するを懂れば、あれは則ち回頭は是れ岸。「道心」(先天本元にして天理に合するあの一点の真心)顕現して、「人心」(後天情識欲念の心)自然退去し、ここにおいて陰陽の中に於いて出出入入して陰陽に病傷せられざるを得べし。然而雖も病傷を受けずと説くも、還た須く復の時機を懂れんを須す。時機未だ到らざれば強求すべからず、時機到れば錯過すべからず。こく如くしてはじめて真を得着する能う。

夫人當初生之時,至善無惡,及交後天,陰傷其陽,本來天真有失矣。雖是失去,未嘗全無,猶有一息生機在內,間或發現為私慾所瞞,為世事所混,當面不識耳。復之,必乘此生機發現之時,下手急採,方能為我所有。若生機未現,空寂守靜,將何而復乎?是以朋來而復,方能無咎。朋者,二月相合,其一為陽,其一為陰,陰極陽生,陰中有陽,是謂朋來。陰不極,陽不生,而朋不來。若朋不來,陰陽不交,生氣自何而有?故必朋來而生機方發,生機發而不先不後,收入造化爐中,片刻之間,災變為福,刑化為德,先因真陽失而有咎者,今則真陽還而可以無咎矣。

人は剛かに出生するの時に於いて、純善にして悪無し。後天に交入するに及ぶを待って、陰気は陽気を傷つけ、本有の天真は便ち虧失有らん。雖も虧失せりと説くも、却って未だ嘗て全然無きに非ず、還た一息の生機裏面に留在り、偶々顕露出すること有るも、ただ私欲に蒙蔽せられ・世事に攪混せられ、当面碰上するも認め出だす能わざるのみ。それを復せんと要せば、必ず此の生機顕露するの当口に趁りて赶紧に下手して采取して、はじめて真に我が所有に帰すことを得。もし生機還た顕露せざれば、只管枯坐して静を守り、何を以て復せんとするか。だから卦辞に「朋來」せんを須してはじめて過なしと曰う。いわゆる「朋」とは、是れ两個の月字相合し、一個は陽に属し・一個は陰に属す。陰極処に至れば陽は則ち生出し、陰中に陽を含着す。これを朋來と呼ぶ。陰極処に至らざれば、陽は則ち生ぜず、朋も亦た則ち來らず。朋もし來らざれば、陰陽交わらず、生気は何処より來るか。だから必ず朋來を得て、生機はじめて発動す。生機一たび発動すれば、早き一步せず亦た晚き一步せず、それを収めて造化炉の中に入れ、片刻の間に於いて災は則ち福と変じ、刑は則ち徳と化成す。先前真陽失去に因って過咎有るも、如今真陽返還せれば、亦た就きて過咎無きを得べし。

但復之雖能無咎,其道有功力,有次序,漸以復之,不能速復,即復之也不能堅固,必先煉己持心,待時而動,是以反復其道,七日來復也。反覆者,顛倒道運之義。七日者,陽火之數。人之性情和氣,陽火也,為真;人之客氣躁性,陰火也,為假。真者全生,假者傷生。反復其道者。先返此假火復歸於真火,七日而陽火生,陰火滅,虛極靜篤,黑中有白,先天之氣,自虛無中現象,漸採漸煉,還丹可結。但是道也,非知之艱,行之維艱,知之尤貴於行之。若知而不行,猶如無知。有攸往而下手速修,必自一陽而漸復,至於六陽純全,其復之亨利,為何如耶。

但し復雖も能く過咎無きを得べしと雖も、此の条の路は却って功力の深淺有り・次序の先後有り。ただ一層一層に復する能くして、一下子就に復する能わず。就かり一下子に復するも、亦た能く堅固ならず。必ず先ず「己を錬り心を持す」の工夫を做して、時機到るを待って再び動かんを須す。だから卦辞に「其の道に反復す、七日にして來復す」と曰う。「反復」は順行の造化を把って顛倒して運転するの意。「七日」は陽火の数目なり。人の性情平和の気は陽火に属し、是れ真。人の客気躁性は陰火に属し、是れ偽。真は能く生命を保全し、偽は生命を戕害せん。いわゆる其の道に反復すとは、則ち先ず此の偽火を返り来らしめ・真火の上に帰せしむるなり。七天之後陽火生じ・陰火滅し、虚は極処に至り・静は篤処に至り、黒暗の中に一線の白光を透出し、「先天之気」虚無の裏より形象を現出し、慢慢として采り・慢慢として錬れば、還丹は就きて結成し得べし。ただ是れ此の条の路は、難きは知るに在らずして、難きは做し去るに在り。知りて尤も実際に行うを貴ぶ。もしただ知るのみにして做し去らざれば、知らざると一様なり。往く所有りて動手して快く修めば、必定して一陽より漸々として復し、一直に復して六陽純全に至り、あの時に復の亨通と利益とは、該に何等の光景ぞ。

初九,在復之初,真陽未失,稍有客氣潛入而即退之;至容且易,是不遠之復。不遠復,而人心不生,道心常存,自無祗悔,能謹於始,自吉於終,此元陽不失之復也。

初九此の一爻は《復》卦の開頭に処り、真陽還た失去せず、稍々一点の客気偷偷侵入する有れば則ち马上にそれを退掉す。做し起きて極めて従容にして極めて容易なり。これがすなわち走ること遠からずして則ち返回す。走ること遠からずして則ち返回れば、則ち「人心」(後天情識欲念の心)生ぜず、「道心」(先天天理に合するあの点の真心)常に在り。自然に大きな悔恨有らざらん。開頭能く謹慎なれば、結局自然吉利。此一爻の講ずるは元陽曾て失去せざるの復なり。

六二,知識有限,本不能明善復初者,然柔順得正,見賢思齊,與有道之君子同處,借彼之明智,以破己之昏暗,不知復者亦知復,不能復者亦能復,是謂休善之復。此柔而借剛之復也。

六二此の一爻は見識有限にして、本来は能く善を明かにし初に復する能わざるなり。然而彼は柔順にして正を得、賢人を見れば則ち彼に向かって斉しくならんと想い、道有るの君子と相処し、人家の明智を借りて来て自己の昏暗を破る。ここにおいて本来復を懂れざるも亦た復を懂れ、本来復する能わざるも亦た復する能うに至る。これを美善の復と呼ぶ。此一爻の講ずるは柔弱にして剛強を借重するの復なり。

六三,復善不固,旋復而旋失,是謂頻復。然性柔志剛,一心於復,危厲自處。人一能之,己百之,人十能之,已千之,雖愚必明,雖柔必強,始而有咎者,終而可以無咎。此困而學,勉強而行之復也。

六三此の一爻は善を復すること牢固ならず、剛かに復り来るも又た马上に失掉す。これを屢復屢失と呼ぶ。然而彼は性情雖も柔なれども心志剛強にして、一心ただ復の上に在り、時時危厲を以て自処す。《中庸》に曰く。別人一遍能く行うは、自己は一百遍の工夫を下し、別人十遍能く行うは、自己は一千遍の工夫を下す。こく如くすれば再び愚鈍なるも必ず明白に変じ、再び柔弱なるも必ず剛強に変ず。開頭過咎有るも、末了に於いて過咎無きを得べし。此一爻の講ずるは困に遇いて学び・勉強して行うの復なり。

六四,柔而得正,居於群小之中,而不為群小所惑,借世法而修道法,獨能明善復初者,此學而知,利而行之復也。六五,柔順得中,循規蹈矩,素位而行,不願乎外,是謂敦厚。其復者,復於敦厚,不思而得,不勉而中,出於性成,既無所失,亦無可復,不致悔而自無悔,此生而知,安而行之復也。

六四此の一爻は柔順にして正を得、身一群の小人の中に処りて彼らに迷惑せられず、世間法を借りて道法を修め、独り能く善を明かにし初に復す。此一爻の講ずるは学びて而る後に知り・其の利有るを見て行うの復なり。六五此の一爻は柔順にして中道を得、規に循い矩に蹈み、自己の処する所の位分に安んじて做し、分外の妄想を生ぜず。これを敦厚と呼ぶ。其の復は、是れ敦厚の上に復るなり。思索を用いずして得、勉強を用いずして中に合し、本性より出でて自然に成る。既に失去する何も無ければ、亦た復すべき何も無く、悔恨を招來するを用いずして自然に悔無し。此一爻の講ずるは生まれて之を知り・安んじて行うの復なり。

上六,在復之終,順其後天之陰,不知先天之陽,人心用事,道心全味,是迷於復,而終不知回頭者,招凶致災,勢所必有,如此之人,途而不悟,外而爭勝好強,內而心神大傷,如用行師,終有大敗,禍及國君。雖十年之久,必有克徵,終亦必亡而已。此始終不知有復也。

上六此の一爻は《復》卦の末尾に処り、後天の陰に順って走り、先天の陽有るを知らず、「人心」当権して主を為し、「道心」完全に昏昧せり。これは迷失して返回るを知らず・始終として肯んじて回頭せざるの人なり。凶を招き災を致すは、是れ勢いの必ず至る所なり。此の如き人は、一路迷い下去りて覚悟せず、外に於いて強を争い勝を好み、内心に於いて神大いに傷つく。猶兵を帯びて打仗して終究に大いに敗れ、禍患は還た国君に牽連するが如し。縦い十年の久しきを過ぐるも、亦た仍ほ出征して勝を取る能わず、最後に亦不過滅亡に帰するのみ。此一爻の講ずるは自始至終復此の回事有るを知らざるなり。

復有天時之復,有人事之復。天時之復,真陽發現,出於自然;人事之復,真陽堅固,出於功力。天時人事,兩而合一,方能有濟。六爻除上爻迷復,其餘五爻,皆有復道,或安而行,或利而行,或勉強而行。總以復於元初本來面目為極功。

復は天時の復有り、亦た人事の復有り。天時の復は、是れ真陽自己顕現し、自然より出ず。人事の復は、是れ真陽を守り得て堅固、功力より出ず。天時と人事の两者合して一個を成して、はじめて真に事を成し得べし。六爻の中上爻を除きて是れ迷失して復せざる、其の余の五爻は皆各々其の復の門路有り。或いは安んじて行い、或いは其の利有るを見て行い、或いは勉強して行う。総帰して最初の「本来の面目」に復るを以て最高の功夫と為す。

上乾下震(无妄卦第二十五)

無妄:元亨,利貞。其匪正,有眚。不利有攸往。初九,無妄,往,吉。六二,不耕獲,不菑畬,則利有攸往。六三,無妄之災,或繫之牛,行人之得,邑人之災。九四,可貞,無咎。九五,無妄之疾,勿藥有喜。上九,無妄,行有眚,無攸利。

《无妄》卦の卦辞。大いに亨通、正を守るに宜し。もし行う所正ならざれば、則ち災殃有り、往く所有るに宜からず。初九爻辞。虚妄を存せず、前往すれば則ち吉利。六二爻辞。収穫を求めんが為に耕さず、熟田を求めんが為に荒を開かず、此の如くすれば便ち往く所有るに宜し。六三爻辞。虚妄を存せずして仍ほ災禍に遭う――人の牛を彼処に拴ぎ着け置き、過路の人は牛を牽き去りて、同邑の人は反って牽連の災を受く。九四爻辞。正を守る可し、過なし。九五爻辞。虚妄を存せずして却って病を生ず、薬を喫せずとも亦た自ら愈えて喜有らん。上九爻辞。虚妄を存せざるも、但し此の時再び行動すれば則ち災殃有り、一様として利有る無し。

無妄者,誠一不二之義。卦德上乾健、下震動,動而剛健,志之所在,外即行之,故謂無妄。此勇猛進陽之卦,承上剝卦而來。剝者,順其所欲,陰剝其陽也。剝陽皆由不知進陽,而為陰所剝。若知進陽,一念純真,十二時中,無有間斷,以性命為一大事,外物不得而屈,漸可至於真實無妄,渾然天理地位,是無妄而即有元亨之道也。

「无妄」は誠一不二・半点の虚妄無きの意。卦徳に就きて言えば、上体は乾、乾の性情は健、下体は震、震の性情は動。一動すれば則ち剛健にして、心志何れの処かを指向すれば、外面立刻に做し出さる。だから《无妄》と呼ばれる。これは勇猛に陽を進むるを講ずる一卦で、上一卦《剥》を承接して来る。《剥》卦は自己の欲望に順って走り、陰気をして陽気を剥蝕せしむるなり。陽の剥がるる所以は、皆「陽火を進め」(剛陽の功を用いて陽気を増進す)を懂れざるに因りて陰に剥がるるなり。もし陽を進むるを懂れば、一個の念頭純真雑無く、一天十二個の時辰間断無く、性命を把って頭等の大事と為し、外物彼を動揺する能わざれば、則ち漸々として真実無妄・渾然一団の天理の地位に到達し得べし。これがすなわち无妄本身便ち元亨の道を含有するなり。

卦之動在內,志於道也,志於道而生機已振,元氣即復。健在外,篤於行也,篤於行而天德可修,元氣能通,能復能通,所以元而亨。然無妄之道,雖能元亨,尤必利於動之正、健之正。動之正,則元氣不傷。健之正,則元氣增長。以正無妄,道心常存,人心永滅,復見本來面目,如如穩穩,不為萬物所移矣。若無妄匪正,則動而失時,健而不當,本欲無妄,反致有妄,是謂災眚,不利有攸往矣。

此一卦の「動」は内卦に在り、是れ道に志を立つるなり。道に志を立てれば、生機已に振作し、元気之に随って回復す。「健」は外卦に在り、是れ篤実に行い去るなり。篤実に行い去れば、天徳は便ち修成し得、元気は便ち貫通し得。能く回復し又た能く貫通すれば、だから既に「元」にして又た「亨」なり。然而无妄の道雖も能く元亨すれども、尤も還た動くこと正に・健なること正ならんを須してはじめて利有り。動くこと正なれば、元気は則ち損傷を受けず。健なること正なれば、元気は則ち不断に増長す。正道を以て无妄に去れば、則ち「道心」常に在り、「人心」永く滅し、重新に「本来の面目」を見るに至り、如如として穏々、万物に動揺せられず。もし无妄にして行う所正ならざれば、則ち動くこと時に合せず・健なること恰当ならず、本想虚妄無からんとするも反って虚妄を生出す。これを災殃と呼び、亦た則ち往く所有るに宜からず。

夫進陽者,以其有妄而期必於無妄。匪正之無妄,人心用事,順其所欲而行。藥物不真,火候失度,何能完成大道乎!故無妄本有元亨之道。尤利於正,方是真實無妄矣。

いわゆる陽を進むるは、是れ原本還た虚妄有るに因りて、はじめて必ず无妄に到達せんと期望す。あの種の正ならざるの无妄は、是れ「人心」当権して主を為し、自己の欲望に順って行い去るなり。薬物真ならず、火候度を失えば、怎様にして大道を完成する能わんや。だから无妄本来便ち元亨の道を含有すれども、尤も正を守るを以て利と為すを須す。あれがはじめて真実の无妄なり。

初九,在無妄之始,剛而得正,是動而無敢有妄者。人事吉凶,全在起念之初,起念正則行正,起念邪則行邪,能無妄於內,自無妄於外,以是往而修道,未有不得其吉者。此能謹於初之無妄也。

初九此の一爻は《无妄》卦の開頭に処り、剛強にして正を得、是れ一動すれば則ち敢えて半点の虚妄有らざるの人なり。人事の吉凶は全て念を起こすあの一刻に在り。念頭起きて正なれば、行事は則ち正。念頭起きて邪なれば、行事は則ち邪。能く裏面に於いて虚妄無ければ、外面自然虚妄無し。此の如き態度を拿って道を修めば、吉利を得ざる無し。此一爻の講ずるは開頭に於いて就きて能く謹慎なるの无妄なり。

六二,柔而不剛,宜靜不宜動,如不耕穫,不菑畬也。耕穫菑畬,須有力有種者為之,柔而不剛,無力無種,何敢妄為?然柔而中正,虛心自處,能借他家之陽,以濟我家之陰。虛心即能實腹,以是用柔,則利有攸往,有妄者可以無妄。此以柔順剛之無妄也。

六二此の一爻は柔弱にして剛ならず、静に宜しくして動に宜からず。だから収穫の為に耕さず・熟田の為に墾かずと曰う。耕種開荒は、気力有り・種子有るの人を得てはじめて做り来る能う。柔弱にして剛ならざれば、既に気力無く又た種子無し。どこが敢えて乱動せんや。然而彼は柔順にして中に居り正を得、心を虚にして自処し、能く「他家」(彼方)の陽を借りて来て「我家」(此方)の陰を補済す。心一たび虚なれば、腹は則ち能く実なり――「虚心実腹」正に丹道虚心を以て体と為し・実腹を以て用と為すの常語なり。此の如くして柔を用いれば、便ち往く所有るに宜し。本来虚妄有るは能く无妄と変じ得べし。此一爻の講ずるは柔順を以て剛に承くるの无妄なり。

六三,智小而謀大,妄冀天寶,非徒無益,而又害之,是無妄之災也。無妄而致災,隨心造作,固執不通,如或繫之牛,行人之得,邑人之災,未取於彼,先失其己,縱真陽在望,未為我有。此順其所欲之無妄也。

六三此の一爻は智慧小にして図謀大、痴心妄想して天賜の至宝を望む。但だ益処無きのみならず、反って其の害を受く。これがすなわち虚妄を存せずして仍ほ災禍に遭うなり。无妄にして災禍を招来するは、是れ心意に任せて胡乱に造作し・固執して通達せざるに由る。正に爻辞のいう所の人の牛を彼処に拴ぎ着け置き・過路の人は牛を牽き去りて同邑の人は災を受くるが如し。未だ彼処より何を取得するに及ばずして、先ず自己此の辺を丢き了り。縦い真陽眼に見て望に在るも、亦た終究として曾て我が所有に帰せず。此一爻の講ずるは自己の欲望に順って做し去るの无妄なり。

九四,由動進健,正當調和丹頭之時,稍有不謹,藥火飛揚,無妄而即有妄。然剛以柔用,可貞而即守貞,防危慮險,以靜待動,借陰養陽,自無得而復失之咎。此剛而能柔之無妄也。

九四此の一爻は内卦の動より外卦の健に進み、正に「丹頭」(丹を結ぶに憑るの起始の薬物)を調和するの時候に当たる。稍々一点の不謹慎有れば、薬と火と則ち飛散上揚して、本来无妄立刻に有妄と変ぜん。然而彼は剛強の力量を柔順の方式の上に用い、正を守る可ければ則ち立刻に正を守り、危を防ぎ険を慮り、静を以て動を待ち、陰を借りて来て陽を養えば、自然に手に到りて又た失掉するの過咎無し。此一爻の講ずるは剛強にして能く柔を用うるの无妄なり。

九五,剛健中正,從心所欲,不渝矩。聖胎已結,有為事畢,無為事彰,如無妄之疾,勿藥有喜也。夫聖胎凝結,先天已復,本自無疾,其疾不過後天未化之餘陰。然本固邦寧,至誠自歸無妄,此剛柔混合之無妄也。

九五此の一爻は剛健にして中に居り正を得、心に随って欲するも皆規矩を越出せず。「聖胎」已に結成し、有為の事情は弁み了り、無為の事情は顕れ出したり。正に爻辞のいう所の无妄にして病を生じ・薬を喫せずして自然に喜有るが如し。聖胎既に凝結し、先天之気已に回復せれば、本来病と言うべき無し。あの点のいわゆる病とは、不過是れ後天還た化け尽くさざるの残余の陰気のみ。然而根本既に固ければ、一国自ら安んじ、至誠の極は自然に无妄に帰す。此一爻の講ずるは剛柔混合の无妄なり。

上九,在無妄之終,已健而猶用健,知進而不知退,持盈未已,直以一位之無妄,而欲了性了命,必致火候有差,得而復失,是以無妄行有眚,無攸利,此不知止足之無妄也。然則無妄之道,總以得其中正為利,若不中正,動之健之,皆失其則,不能致福,反招其災。

上九此の一爻は《无妄》卦の末尾に処り、已に健たりと雖も却って還た健を用い、ただ進を知りて退を知らず、満を持して止まらず、硬として此の一個の位次の上の无妄を憑って則ち性を了し命を了せんと想う。必定して火候差錯を出だし、手に到りて又た失掉するに弄り至らん。だから无妄の時再び行動すれば則ち災殃有りて一様として利有る無しと曰う。此一爻の講ずるは適可に止まるを懂れざるの无妄なり。こく如く説き来れば、无妄の道は総じて中正を得るを以て利と為す。もし中正ならざれば、動くも好し健なるも好しと雖も、皆其の準則を失い、非但福を招き来る能わざるのみならず、反って災禍を招來す。

噫!月至圓,存乎口訣;時至子,妙在心傳。不得師指,枉自猜量。震之一陽,生於陰下,即時至子也。乾之三陽,復於純全,即月至圓也。子時而進陽,月圓而運陰,進陽有時,運陰有日,知陽而不知陰,知進而不知退,縱金丹到手,必至得而復失,無妄之災,理有可決。修道者,可不急求明師口訣乎。

ああ。月亮何れの時か圓に到るかは、全て口訣に憑る。時辰何れの時か子に到るかは、妙処は心伝に在り。明師の指點を得ざれば、白白と自己で瞎猜す。震卦あの一根の陽爻陰爻の底下より生出して来るは、則ちいわゆる「時子に至る」――一陽初動の時節なり。乾卦三根の陽爻恢復して純全に至るは、則ちいわゆる「月圓に至る」――陽気圓満の時節なり。子の時は該に「陽火を進め」、月圓は該に「陰符を運ぜ」(陰柔の功を用いて運化して陰を退く)しむべし。陽を進むるに其の時辰有り、陰を運ぶに其の日子有り。ただ陽を知りて陰を知らず、ただ進を知りて退を知らざれば、縦い金丹手に到るも、亦た必定して手に到りて又た失掉し、无妄の災は道理の上に於いて断定し得べきなり。道を修する人は、怎様にして赶紧に明師の口訣を求め去らざるを得んや。

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