上坎下艮(蹇卦第三十九)
蹇:利西南,不利東北。利見大人,貞吉。初六,往蹇,來譽。六二,王臣蹇蹇,匪躬之故。九三,往蹇,來反。六四,往蹇,來連。九五,大蹇,朋來。上六,往蹇,來碩,吉。利見大人。
《蹇》卦。西南の方に往くに利し、東北の方に往くに利からず。大人を見るに利し、正を守れば則ち吉祥。初六。前往すれば蹇難有り、回り來れば則ち美譽を得。六二。王臣一再として険を蹈みて難を救い、並びて是れ自己一身の故の為めに非ず。九三。前往すれば蹇難有り、還た是れ返り回り來るを好しと為す。六四。前往すれば蹇難有り、回り來れば則ち能く人と連合す。九五。身大蹇難の中に処り、朋友前來して相助けん。上六。前往すれば蹇難有り、回り來れば則ち功業碩大にして、吉祥。大人を見るに利し。
蹇者,前進屯難之義。卦德上坎險、下艮止,止於險中,故謂蹇。此後天中保先天之卦,承上家人而來。家人者,明不外用,煉己之功也。煉己者,煉其後天之陰耳。
「蹇」は是れ前進阻受阻まれ・屯滞艱難の意。卦徳に就きて言えば、上卦坎は険・下卦艮は止。険中に於いて止む。だから「蹇」と呼ばれる。これは一個の後天の中に於いて先天を保全するの卦で、上一卦《家人》を承接して来る。《家人》の講ずるは明外に向かって発用せざる、あれは己を錬るの功夫なり。而して己を錬るは、錬るは正に是れ後天此の一分の陰なり。
人自先天失散,後天用事,人心惟危,如坎卦二陰在於一陽之外也。道心惟微,如坎卦一陽陷於二陰之中也。陽陷陰中,道心為人心所累,而不能振發,全是人心用事,險之極矣。但有險須要能止於險。能止於險,則人心漸消,道心漸生,可以處險,可以出險,而不為後天陰氣所傷矣。
人自ら先天散失し・後天家に当たる以後、「人心惟れ危く」、猶坎卦两個の陰爻一個の陽爻の外面に在るが如し。「道心惟れ微し」、猶坎卦一個の陽爻两個の陰爻の当中に陷るが如し。此れ正に是れ丹道のいう所の「坎中満」なり。外面の两画の陰は是れ後天の形殼、当中のあの一画の陽は、はじめて是れ先天真陽後天の裡に落ちて在るの一点の種子なり。陽陰中に陷り、道心人心に拖累せられて振作して起きる能わず、全て人心の家に当たるに憑る。険極点に到れり。但し既に険有れば、則ち要して能く険中に於いて止まらん。能く険中に於いて止まれば、人心便ち漸漸消去し、道心便ち漸漸生起し、既可に険境に安処し、亦可に険境に走出して、後天の陰気に傷せられざるに至らん。
辭曰:“賽利西南,不利東北”者,正處險出險之訣。西南屬坤,虛極靜篤之鄉,虛極招實,靜篤則動,先天之氣自虛無中來,道心發現,人心自退,乃生我之處,故利。東北為艮,陰氣剝陽將盡之方,陰氣剝陽,順其所欲,人心用事,道心將亡,乃死我之處,故不利。
卦辞に「蹇は西南に利し、東北に利からず」と曰う。此れ正に是れ険に処り・険を出るの口訣なり。西南は坤に属し、是れ虚極処に到り・静極篤に到るの地方。虚極処に到れば則ち能く実を招き來り、静極篤に到れば則ち動に転じ出づ。先天の気虚無の中より來り、道心一たび発現せば、人心自然退去す。あれは是れ我を生ずるの所在、だから利と曰う。東北は艮に属し、是れ陰気陽気を剥蝕して將に剥し尽くさんとするの方位。陰気陽を剥し、一味に自己の欲望に順い、人心家に当たり、道心將に亡びんとす。あれは是れ我を死するの所在、だから不利と曰う。
利於生道心而退人心,不利於起人心而傷道心。生道心即能處險,退人心即能出險。然必利見大人,貞吉者,特以大人者,不失其赤子之心者也。赤子之心,不識不知,無貪無求,即是道心。有道心即為大人,無道心即為小人,去人心,非見道心不能。見得道心,方能去得人心。
見るべし利有るは是れ道心を生じ・人心を退け、利あらざるは是れ人心を起き・道心を傷つくるなり。道心を生出せば則ち能く険境に安処し、人心を退去せば則ち能く険境に走出す。「利して大人を見、貞にして吉」に至って説く必ずせんを須するは、是れいわゆる大人と為すは、則ち是れ赤子の心を失掉せざるの人に因る。赤子の心は、識を用いず・知を用いず、貪無く求無し。あれは則ち是れ道心なり。道心有れば便ち是れ大人、道心無ければ便ち是れ小人。人心を去掉せんと要せば、道心を見ずんば是れ做り到る能わず――先ず道心を見て、はじめて去り得て人心を去掉せん。
利見大人者,即利見於道心耳。道心一見,邪正即分,穩穩當當,性定情忘,不為人心所誘,止則能以御險,動則能以濟險。止之動之,皆是道心運用,以正遇險,險中守正,終必出險解險,完成大道,以吉全之矣。
いわゆる「利して大人を見」とは、則ち是れ自己の道心を見るに利する在り。道心一たび現れば、邪と正と立刻に分明し、穏穏当々として、性定まり情忘れ、人心に引誘せられず。静止の時は能く険難を抵御し、行動の時は能く険難を救濟す。一止一動、全て是れ道心の運用して在る。正を以て去りて険を迎え、険中に於いて正を守れば、最終に必定して険を出で険を解し、大道を成就して、一個の「吉」の字を以て円満に場を収めん。
初六,在蹇之初,與物未交,人心未起之時,若往而交物,即起人心而有蹇,不往而來,人心不起,道心常存,而美譽之德在是矣。此柔而謹慎於未蹇者也。
初六蹇の開頭に処り、還た未だ外物と交接せず、人心尚未だ生起せず。此の時候もし前に往きて去りて外物と交接すれば、人心一たび起これば則ち蹇難有り。往かずして返り回り來れば、人心起きず、道心常に存し、あの份の美譽の徳は則ち此の裏に在り。これは陰柔にして能く未だ蹇ならざるの先に於いて便ち謹慎なるの一類なり。
六二,與五相應,五為坎中真陽,如王。二為艮中真陰,如臣。真陽有險,即真陰有險,如王臣蹇蹇也。有蹇而能止於其所,虛人心、求道心,不以艱難困苦移其志,所謂匪躬之故歟?此柔而能處於蹇者也。
六二九五と相応じ。九五是れ坎卦当中のあの一点の「真陽」、好比是れ君王。六二是れ艮卦当中の「真陰」、好比是れ臣子。真陽険有れば、真陰も亦た則ち跟って険有り。だから「王臣蹇蹇」と曰う。蹇難有りて能く自己の在るべき地方に止まり、人心を虚掉し・道心を求取し、艱難困苦に因って志向を改変せず。此れ大概是れ爻辞のいう所の「躬に匪ざるの故」の意思ならん。これは陰柔にして能く蹇難の中に安処するの一類なり。
九三,剛躁太過,與險為鄰,往即有蹇,幸其剛而得正,見險能止,不往來反,掃去人心,把持道心,遇蹇而無蹇。此剛而不入於蹇者也。六四,獨柔不剛,本自有險,強欲出險,往必有蹇,幸其屈己求人,不恥下問,來連有道之士,擴充其識見,道心漸生,人心漸去,終必出險而無蹇,此柔而借剛濟蹇者也。
九三剛強躁進太も過ぎて、又た険境と隣を為し、一たび前に往き去れば則ち蹇難有り。幸いなるにそれは陽剛にして正位に居り、険を見れば則ち能く止住し、前に往かずして返り回り來り、人心を掃き去り、道心を把え住めば、蹇難に遇上するも亦た蹇難無きに等し。これは剛強にして蹇難の裏に陷り進まざるの一類なり。六四独り柔有りて剛無く、本身則ち険中に在りて、硬として険を出でんと要すれば、前に往き去れば必定して蹇難有らん。幸いなるにそれは肯んじて己を屈し人を求め・下に問うを恥とせず、回り來りて道有るの士と連結し、自己の識見を拡充し、道心漸漸生起し・人心漸漸去掉して、最終に必定して険を出でて蹇難無からん。これは陰柔にして剛を借りて来て蹇難を救うの一類なり。
九五,陽陷於陰中,道心為人心所蔽,是謂大蹇。然剛中而正,借人心修道心,道心一來,人心即化,剛柔混合,先天之氣,從虛無中凝結成丹,大蹇而能大濟。此剛柔一氣,而無蹇者也。
九五一陽陰中に陷り、道心人心に遮蔽せられん。これを「大蹇」と呼ぶ。然而それは陽剛中に居りて正を得、能く人心を借りて来て道心を修す。道心一たび來れば、人心当下に則ち化し、剛と柔と渾然として混合し、先天の気虚無の中より凝結して丹と成り、大蹇の中に処りて反って能く大いに救濟有らん。これは剛柔合して一気と成りて蹇難と謂う所無きの一類なり。
上六,在蹇之終,正當人心安靜,道心發現之時,若不明火候,強制人心,反昧道心,往有蹇矣。不制人心,來養道心,而碩大之德在是矣。然必利見大人者,大人為了道成真,出險之人,從險地一一經歷過來,藥物火候,無不通曉。蹇終之時,正是生門死戶,可言可凶之處,須要真師大人口傳心授,方能殺裡求生,出蹇濟蹇,而不為陰陽所拘矣。此求師口訣,而濟蹇者也。
上六蹇の末尾に処り、正に人心安静し・道心発現するの時候に当たる。此の時もし火候を明白せずして、硬として去りて人心を壓制せば、反って道心を昏昧せしめ、前に往き去れば則ち蹇難有らん。去りて人心を壓制せず、頭を回して來りて道心を涵養せば、あの碩大の徳業は則ち此の裏に在り。必ず「利して大人を見」と説くに至っては、是れ大人は是れ已に道を了して真と成り・険境に走出したるの人、険地の裏より一一に経歴して過り來り、「薬物」と「火候」と通暁せざる無し。蹇卦終了するの時は、正に是れ生門と死戸と交界するの関口、吉とも凶ともなるべきの処、必ず真師大人の口傳心授有りて、はじめて能く殺機の裡に於いて生機を求得し、蹇を出で・蹇を濟し、而して陰陽に拘束せられず。これは師に求めて口訣を得て蹇難を救濟するの一類なり。
然則,出蹇濟蹇之道,須要真師訣破生門死戶,方能濟事。不知生門死戶,不但道心識不得,即人心亦識不得。識不得道心,焉能生得道心?認不得人心,焉能去得人心?道心不生,人心不去,縱然弄盡旁門,不蹇而自致蹇,無益於性命,反傷於性命,可不畏哉!
こく如く視れば、艱険に走出し・艱険を救濟するの門徑は、必ず「真師」――即ち真正に口訣傳承を得過るの明師――当に面して「生門死戸」を点破せしめて、はじめて事を辦じ成すを得。「生門」は指すは先天真陽生発して・下手して採取し得べきのあの一処の機竅。「死戸」は指すは後天陰気泄漏して・性命を耗散するあの一条の路徑。生門死戸の何処に在るかを懂れざれば、但だ「道心」を認み出す能わざるのみならず、「人心」に連ねても亦た一様に認み出す能わず。「道心」は是れ天理良知・先天真一の心、「人心」は是れ情識欲念に随って動くの後天の心。道心を認み出す能わざれば、怎様にして道心を把って生発して出來しむるを得ん。人心を辨え清むる能わざれば、又た怎様にして人心を把って除去せん。道心生じ出來せず・人心去掉せざれば、即かり傍門左道の法門を把って統統折騰して一遍を過すも、本来艱険の中に処らざるも、亦た要して自己で艱険を招き來り、性命の学に於いて毫も益処無く、反って性命を戕害す。此れ豈に可怕ならざらんや。
上震下坎(解卦第四十)
解:利西南。無所往,其來復吉;有攸往,夙吉。初六,無咎。九二,田獲三狐,得黃矢,貞吉。六三,負且乘,致寇至,貞吝。九四,解而拇,朋至斯孚。六五,君子維有解,吉,有孚于小人。上六,公用射隼于高墉之上,獲之,無不利。
《解》卦。西南の方に往き去るに利し。もし往くべきの処無くんば、あれは則ち本位に返回して、吉利。もし往くべきの処有れば、則ち要して早く趁りて身を動かし、吉利。初六。過咎無し。九二。田猟の中三隻の狐狸を捕獲し、又た黄銅の箭矢を得。正道を守持すれば則ち吉利。六三。財貨を背負えりて又た大車に乘坐し、強盗を招き來り。雖も行事正を守るも、亦た免れず惋惜有る所。九四。爾の脚上の大拇指の束縛を解き開けば、同道の友前來して、彼此誠を以て相信ず。六五。君子只だ能く糾結を解き開かば、則ち吉利。此の份の誠信は小人を連ねても亦た能く感受し到る。上六。王公高墻の上に於いて鷹隼を射猟し、一擧に射獲す。利あらざる何も無し。
解者,脫散之義。卦德上震動、下坎險,陽氣動而出險,險外之動,動之遂心,故謂解。此乘時採藥之卦,承上睽卦而來。睽者,陰陽不和,悅明不當,陰氣用事,陽氣有陷,此解脫陽氣之功不可缺。解脫陽氣者,採藥也。採藥貴乎知時,若不知時,當面錯過,陰氣仍在,陽氣又去。雖藥在咫尺,未許我得。
「解」は是れ解脱・散去の意。卦徳に就きて言えば、上卦震は動・下卦坎は険。陽気一たび動けば便ち険陷を脱して出づ。動作険境の外に於いて発生す。だから動き起これば称心如意、因って《解》と呼ばる。これは一卦の「時に乗じて薬を採る」を講ずる卦――「採薬」は指すは火候の到來するあの一刻を趁いて先天真陽を攝取す――それは上一卦《睽》を承接して来る。《睽》の講ずるは陰陽不和・喜悦と明察と倶に用いること当を得ず、陰気権を当たり、陽気陷落す。此の一歩に到って、陷住したる陽気を把って解脱して出來すの功夫は則ち欠くる能わず。いわゆる陽気を解脱すとは、則ち是れ採薬なり。採薬最も緊要なるは是れ時機を懂るるに在り。もし時機を懂れざれば、機会当面に錯過し、陰気照らして旧に盤踞し、陽気又た已に散去し、薬物即かり咫尺に近在するも、亦た自己の手に得るに輪じ到らず。
悟真云:“鉛遇癸生須急採,金逢望後不堪嘗”。當其一陽生於坤地,先天之氣,自虛無中來,天地之心迴轉,所謂西南得朋,正鉛遇癸生,大藥發現,道心震動,人心安靜之時,此自然之解,吉之先見者也。是以解利西南,無所往,其來復,吉。無所往而來復,非人所勉強而然,乃一時自然之現露,出之於天。但天時已到,尤賴人力,急須下手扶陽抑陰,天人合發,藉此一點陽氣,復而又復,復於純陽無陰之地,道心常存,人心永滅,方是解去危難,縱橫逆順,無不如意,是以有攸往夙吉也。
張伯端《悟真篇》に曰く「鉛癸生に遇えば急採せんを須し、金望後に逢えば堪えて嘗むる能わず」。「鉛」は指すは先天の「真陽」、「癸生」は指すは真陽初動のあの一瞬、「望後」は指すは月満の後陽気衰に転ずるを。当に一陽坤地に生ずるに――即ち一片の純陰の静定の裏に於いて忽然として一点の先天真陽萌動すに――先天の気虚無の中より來り、天地の心回転す。これがすなわち《坤》卦のいう所の「西南朋を得」、正に是れ鉛癸生に遇い・大薬顕現し・「道心」震動して「人心」安静するの時候なり。これは是れ自然而然の解脱、是れ吉兆最も先ず頭を露わすの処なり。だから《解》卦に西南に利すると説き、往くべき処無くんば則ち本位に返回して吉利と。此の種の「往く所無くして來復す」は、是れ人の硬として做し出すに非ず、而も是れ一時の間自然に顯露し、天機より出づ。不過天時雖も到るも、還た人力の配合に靠らんを須す。必ず赶紧に下手して陽気を扶助し・陰気を抑制し、天機と人事と同時に発動し、此の一点の陽気を借りて反復して温養し、一復再復して、一直に純陽陰無きの境地に復し到り、道心長に存し・人心永く滅し、これがはじめて真に危難を解除したると算し、此の後縦横順逆倶に称心せざる無し。だから「攸往有り、夙に吉」と曰う。
夙者,早也。早則藥氣方生,屬於先天;遲則藥氣已過,屬於後天。藥氣方生而急採,則先天堅固而得吉;藥氣已過而始採,則後天又發而不吉。夙吉二字,大有深意,有不得不早者,所謂“若到一陽才動處,便宜進火莫延遲”者是也。
「夙」とは則ち是れ早なり。早ければ、則ち薬気剛かに萌生し、先天に属す。遲ければ、則ち薬气已に過去し、後天に落入す。薬气剛かに生ぜれば赶紧に採取して、先天真陽便ち以て堅固を得て吉利。薬气過去してはじめて手を動かせば、後天の識神情欲又た発動して起き、則ち吉利ならず。「夙吉」两個の字大いに深意有り、其中有るは不得不早く趁らざるを得ざるの道理。正に丹経のいう所の「もし一陽纔かに動くの処に到らば、便ち宜しく火を進めて遲延する莫かれ」――一陽初動の際に就きて則ち応に「陽火を進め」、即ち意念と呼吸の功を以て陽気を助長し、一刻も亦た拖延する能わざるが如し。
初六,居於至險之地,柔弱無能,不能自出,而知親近有道之士,借他人之智慧,以解自己之昏暗,有咎者亦能無咎。此柔而借剛解險者也。
初六一爻、最も危険の位置の上に処り、本身陰柔無能にして、自己に靠りて険を出る能わず。但しそれは能く道有るの士に親近するを懂れ、別人の智慧を借りて自己の昏昧を解き開く。本来過咎有るべきも、亦た能く変じて過咎無きと成れり。此一爻は是れ陰柔の質を以て他人の剛健の力を借助して険難を解脱するの一歩、相当して道を修する入門の時の師を訪し訣を求むるの工夫なり。
九二,以一陽而居於二陰之內,剛而能柔,惟精惟一,允執厥中,既不使人心為惡,如田中獲狐,而不縱放其狐,又不求人心強滅,如得黃矢,而不傷害其狐。不縱不傷,順其所欲,漸次導之,使其自消自化,不解而解,解之而最吉者。此剛而用柔解險者也。
九二一爻、一個の陽爻を以て两個の陰爻の中に処り、剛健にして能く柔順、正に《尚書・大禹謨》のいう所の「惟れ精惟れ一、允に厥の中を執る」に合す。それは既に「人心」をして放縦して惡を作さしめず、好比田中に於いて狐狸を捕獲して狐狸を把って放し走らせざるが如し。又た強求して人心を把って一擧に撲滅せんとせず、好比黄銅の箭矢を得るも却って並びてそれを用いて狐狸を射傷せざるが如し。放縦せず、亦た傷害せず、人心の欲望に順って慢慢と引導し、それをして自己で消解し・自己で転化せしめ、看れば刻意に解き去る無きに似たるも実際已に解けり。これは解くること最も吉利なるの一种なり。此一爻は是れ剛中柔を用いて険難を解脱するの工夫、亦たすなわち丹家のいう所の人心を馴伏してそれと硬として争わざるなり。
六三,愚而自用,妄想天寶,無道心而強制人心,以心制心,不但不能去人心,而且有以招人心。如負物者欲乘車,自致寇傷,雖解事屬正,然恃一己之陰,不求他家之陽,亦修道者取吝之事。此柔而強欲解險者也。
六三一爻、愚昧にして又た自ら以て是と為し、妄想して「天寶」――即ち先天大薬――を得んとす。可是自己並びて「道心」有りて主を為す無く、却って硬として「人心」を壓制せんと要し、後天の心を用いて去りて後天の心を管し、結果但だ人心を除き掉る能わざるのみならず、反って人心を把って招引して出來せり。これは猶物を背負うの人偏りて去りて車に乘らんと要するが如く、自己強盗を招きて劫傷せしむ。雖も解脱せんと要する此の件の事本身是れ正当なれども、但だ自己一身の陰質を倚仗し、去りて「他家」の真陽を求取せず――「他家」は指すは自身識神の外・先天の來る所のあの一点の真陽――此も亦た是れ道を修する人自ら困厄を取るの做法なり。此一爻は是れ陰柔の質を以て勉強して険難を解脱せんと想うの一歩、閉門して盲修するに属す。
九四,剛而不正,又應初陰,道心中人心相雜,解陰而不果,如解而拇矣。夫解散人心,所以振道心也。人心解去於道心來至,信之解之,在拇能動不能行,可見人心惟危,道心惟微矣。此剛為柔牽不解險者也。
九四一爻、雖も陽剛に属するも居位正ならず、又た初六の陰爻と相応じ、「道心」の裡「人心」を夾雑し、陰気を解き去らんと想うも却って決断を下す能わず。猶爻辞のいう只だ脚の拇指の束縛を解き開けたるのみの如し。知るを須す、人心を解散するは、正に是れ道心を振起せんが為めなり。人心解き去れば、道心はじめて會して到來せん。雖も亦たそれを信じ・亦た去りてそれを解くも、却って只だ拇指の上に於いて能く動き一動するのみ、還た歩子を邁し開く能わず。此に由りて正に見得るは《尚書・大禹謨》のいう所の「人心惟れ危く、道心惟れ微し」――人心危殆にして制し難く、道心幽微にして存し難し。此一爻は是れ陽剛陰柔に牽累せられ・険難を解き掉る能わざるの一歩の工夫なり。
六五,虛人心而求道心,是君子維有解也。道心為君子之心,人心為小人之心。道心之解與未解,可於人心驗之,人心化盡,方是道心之難解,若稍有一點人心,而道心之難猶未解去,故修道者必使宥密之中,而無絲毫滓質為極功。此點化群陰之解險者也。
六五一爻、「人心」を把って虚掉して「道心」を求取す。これがすなわち爻辞のいう所の「君子維れ解有る」なり。道心是れ君子の心、人心是れ小人の心。道心の困結解き開けたりや否やは、可に人心の上に於いて検験すべし。人心化して乾々浄々たれば、はじめて道心の難関真に解き開けたりと算す。只だ還た一絲の人心剩るあれば、道心の難関は則ち還た未だ解き去らざるなり。だから道を修する人は必ず深密隱微の処に於いても亦た一絲一毫の渣滓雑質を留下せざるを做り到らんを須し、はじめて功夫家に到ると算す。此一爻は是れ一身の群陰を点化し・険難を解脱するの工夫なり。
上六,在解之終,一切客氣盡消,只有人心未死,此一點人心,貪圖無比,即罪之魁,如隼鳥棲於高墉,所當急須解去者。幸在解終,正氣盛而邪氣弱,以道心而解人心,直下斷絕,無不利者。此大公無私之解險者也。
上六一爻、《解》卦の終結の処に処り、一切の「客気」――即ち後天染習して生ずるの雑気――倶に已に消尽し、只剩「人心」還た未だ死せず。此の一点の人心貪求比無し、正に是れ衆惡の首、好比鷹隼高墻の上に盤踞するが如く、是れ最も応に赶紧に解除すべきなり。幸いなるに解卦の最後に到りて、正気強盛にして邪気衰弱し、「道心」を用いて去りて人心を解除し、一刀両断して、利あらざる何も無し。此一爻は是れ大公無私・徹底して険難を解脱するの收功の工夫なり。
然則,解難出險之道,貴於知時,尤貴於剛柔相當,不先不後,不急不緩,乘時下手,未有不獲利者。然所以獲利處,總要知的西南坤位耳。噫!藥出西南是坤位,欲尋坤位豈離人,分明說破君須記,只恐相逢認不真。西南坤位,豈易知哉!
こく如く視れば、危難を解除し・険境に走出するの門徑は、貴ぶは時機を懂るるに在り、更に貴ぶは剛柔配合得当なるに在り。先を搶えず・後に落ちず、急燥せず・遲緩せず、時機を趁いて下手すれば、利を得ざる無し。可是利を得るの関鍵は、総帰して還た要して「西南坤位」――即ち真陽の発生するあの一処の方位と時候――を認得せんを須す。唉!薬物西南の坤位より出づるも、可に此の個の坤位を尋ぬるに要して又た何処が人身を離れ開くを得んや。話已に説き到りて明明白白なり、諸君に牢記せらるるを請う。只怕真に相逢するの時候に到りて仍ほ認み真切ならざらん。西南の坤位、どこが是れ容易に認め得るのならんや。
上艮下兌(損卦第四十一)
損:有孚,元吉,無咎,可貞,利有攸往。曷之用?二簋可用享。初九,已事遄往,無咎,酌損之。九二,利貞,征凶。弗損益之。六三,三人行則損一人,一人行則得其友。六四,損其疾,使遄有喜,無咎。六五,或益之十朋之龜,弗克違,元吉。上九,弗損益之,無咎,貞吉。利有攸往,得臣無家。
《損》卦。心に誠信を懐き、大いに吉利、過咎無く、可に正道を守持し、往く所有るに利し。用いて何を以て奉献せん。两簋の薄食則ち可に用いて祭享せん。初九。事情辦じ完れば則ち赶紧に前往せよ、過咎無し。但し要して斟酌して减損せん。九二。正を守るに利し、急進すれば則ち凶険有り。復た减損するを必とせず、反って応に増益すべし。六三。三個人同行すれば、則ち要して一人を减ず。一個人独行すれば、反って伴侶を得ん。六四。其の疾病を减損し、それをして快く好転せしめば則ち喜慶有り、過咎無し。六五。人有りて價値十朋の大亀を贈送す、推辞する能わず、大いに吉利。上九。减損するを必とせず、反って増益す、過咎無し、正を守れば則ち吉利。往く所有るに利し、臣僕を得て彼此の家門を分かたず。
損者,減其有餘也。卦德上艮止、下兌悅,有所說而即止之,止其悅而無妄念。卦體二五,剛柔得中,虛實相應,剛而不至於躁,柔而不至於懦,減其有餘,增其不足,故謂損。此損中有益之卦,承上蹇卦而來。蹇者,有險能止,後天中保先天之道。然欲保先天,非去後天不能。去後天者,行損道也。
「損」とは則ち是れ多余の部分を减去するなり。卦徳に就きて言えば、上卦艮は止・下卦兌は悦。心中一たび喜悦有れば便ち立刻に止住し、喜悦を止住すれば則ち妄念を生ぜず。卦体に就きて言えば、九二と六五と两爻剛柔各々其の中を得、一虚一実彼此呼応し、剛強にして躁動に至らず・柔順にして懦弱に至らず、有余を减去し・不足を補上す。だから《損》と呼ばる。これは一卦の减損の中に増益を含有するを講ずる卦で、上一卦《蹇》を承接して来る。《蹇》の講ずるは険に遇えば能く止まる、是れ後天境地の中に於いて先天真陽を保全するの道理なり。然而先天を保住せんと要せば、後天を除去せざれば可ならず。後天を除去するは、走るは則ち是れ减損此の条の路なり。
但損之為道,是不順其欲而止其欲。人多不能誠信於中,不能誠信,有始無終,不但不得吉,而且致其咎。若能誠信,則起念即真,信之於心,自能見之於行,不致吉而吉即在,不致咎而咎自無。
但し减損此の門の功夫は、是れ欲望に順って走らずして、而も欲望を把って止住せんと要す。人大多能く心裡に於いて真に此の一点を篤信する能わず。能く篤信せざれば、則ち開頭有りて結尾無く、但だ吉利を得ざるのみならず、反って過咎を招來す。もし能く篤信せば、則ち念頭一たび起これば則ち是れ真、心裡信じ得て過し、自然行動の上に表現して、去りて吉利を求めずして吉利自在りて其中に在り、去りて過咎を躲けずして過咎自然無し。
雖然信於損固吉,固無咎,尤貴於信之得正,損之得正。世間觀空守靜,忘物忘形,至死不變之輩,何嘗不是信於損?但信非所信,損非所損,有損無益,仍是不吉,仍是有咎。是以可貞於信,辨其是非,分其邪正,明於心而驗於事,有攸往而無不利矣。
雖も篤信して减損すれば自然吉利・自然過咎無しと説くも、但し更に緊要なるは是れ信ずる所必ず正当・减ずる所必ず正当ならんを須す。世上あの些かの一味に空を觀じ静を守り・外物を忘掉し又た形骸を忘掉し・死に到るも改めざるの人は、何嘗か是れ篤信して减損せざらんや。可惜彼らは信じ錯えたるを対象・减じ錯えたるを地方、只だ减損有りて増益無く、結果仍ほ吉利ならず・仍ほ過咎有り。だから要して篤信の上に於いて正道を守持し、是非を辨明し・邪正を分け清め、心裡明白にして、還た要して事の上に於いて検験し、此の如くして往く所有りてはじめて利あらざる無からん。
但有往之利,雖利於信之正、損之正,尤貴乎真履實踐,有始有終。若未到從容中道之地,而功不可歇,必須為道日損,為功日益,損之又損,益之又益,直至損無可損,益無可益,剛柔相應,內外合道,至善無惡,渾然天理,而損益之功,方無所用矣。故曰曷之用二簋,可用享。
不過往く所有るの利益は、雖も信ずる所正当・减ずる所正当より來ると雖も、更に緊要なるは還た真実に履行し・始有り終有るに在り。もし還た未だ従容迫らず・自然に中道に合するの地步に到らざれば、功夫は則ち一刻も亦た停まる能わず。必ず《老子》のいう様子の如く「道を為して日に損す」にして、同時に功を為して日に益し、减じて又た减じ・増して又た増し、一直に减じて减ぐべき何も無きに到り・増して増ぐべき何も無きに増じ、剛と柔と彼此呼応し、内と外と倶に道に合し、純善惡無く・渾然一片の天理。あの時候に到って、損と益との功夫はじめて用処無し。だから卦辞に「曷が之を用いん。二簋可用ちて享れ」と曰う――何を拿って奉献せん。两簋の薄食則ち夠了なり。
簋為虛圓之物,二簋即二五剛柔之中。剛柔歸中,剛中有柔,柔中有剛,剛柔如一,二五之精,妙合而凝,還原反本,聖胎有象,由是享自在無為之樂,我命由我不由天,信乎損而損中有益,豈小焉哉!
簋は是れ中空にして円なるの礼器。「二簋」は正に指すは九二・六五两爻の剛柔各々中道を守るを。剛柔倶に中に帰し、剛裡に柔を含み・柔裡に剛を含み、剛柔合して一と為る。正に是れ周敦頤《太極図説》のいう所の「二五の精、妙に合して凝す」、此に由りて本原に返回し、「聖胎」――即ち内丹凝結して形と成るの象――已に迹象有り。從って自在無為の快楽を享受し、我の性命は我に由りて自ら主宰を為して天に由らず。見るべし篤信して减損し・而して减損の中自ら増益有る、其の功用どこが算す小なるを得んや。
初九,剛決勇猛,信於損而即欲行其損,是以已事遄往,損之必能無咎矣。但損之在初,恐其勇猛太過,有損而不正之失,必酌其是非可否,而後損之,方是損中有益,而無一咎之損。此損之須謹於初者也。
初九一爻、剛強果決・勇猛精進にして、一たび减損の道を信服すれば立刻に則ち要して手を動かして去りて减じん。だから爻辞に事情辦じ完れば便ち赶紧に前往すと曰う。此の如くして减損すれば必定して過咎有らざらん。但し减損還た起手の階段に在りて、怕れるは是れ勇猛太も過ぎて、减じ錯えたるを地方・正道に合せざるの毛病を出現す。必ず其中の是非可否を斟酌して、然る後に再び减じて、はじめて是れ减中に益有り・毫も過咎無きの减損なり。此一爻の講ずるは下手して减損するは必ず開頭に於いて就きて謹慎ならんを須す、亦たすなわち「己を錬り基を築く」の頭一歩は孟浪なる可からず。
九二,剛而有得於中,道心常存,人心不生,陰陽和合,金丹有象,正宜謹固牢藏之時,若不知止足而又損益,反起人心,有昧道心,不利且凶。蓋以剛氣歸中,不偏不倚,弗可損益矣。此不損而亦不益者也。
九二一爻、陽剛にして又た中に居りて得有り、「道心」長に存し、「人心」起きず、陰陽和合して、「金丹」――即ち先天真一の気凝結の象――已に形を顯し、正に是れ応当に小心して固守し・深蔵して露わさざるの時候なり。此の時もし止まるを知り足るを知るを懂れずして、還た要して再び加減し去れば、反って人心を撩動し・道心を蒙昧せしめ、既に利ならず又た凶険なり。剛気已に中正に帰し、偏らず倚らざるに因れば、則ち応に復た减損増益有るべからざるなり。此一爻の講ずるは既に减ぜず亦た増せざるの一歩の工夫、即ち丹家のいう所の温養固濟なり。
六三,愚而無知,見景生情,不能損人心,而反用人心,求益而反有損,如三人行,則損一人矣。若知益中有損,而能損去人心之二心,益其道心之一心,陰陽相當,損中有益,如一人行,則得其友矣。此求益而必用損者也。
六三一爻、愚昧無知にして、一たび境遇に遇えば便ち情識を動かし、能く「人心」を减損せず、反って人心を使用す。本想増益を求めんとするも却って反って損を受く。正に爻辞のいう三人同行すれば則ち要して一人を减ずるが如し。假如能く増益の中本来减損を含むを懂れ、能く人心あの種の三心二意の雑念を减去し、道心あの一片の純一の心を増益せば、陰陽分量相当して、减損の中便ち自ら増益有り。正に爻辞のいう一人独行して反って伴侶を得るが如し。此一爻の講ずるは増益を求めんと想わば必ず先ず减損の工夫を動かさんを須す。
六四,純陰無陽,其疾已深,幸其柔而得正,以陰順陽,誠求他家不死之方,以損我家之沉痾。不能損者亦能損,不速損者亦速損。損中有益,不但有喜,而且無咎。此損柔而求剛益者也。
六四一爻、一身純陰にして陽無く、病根已に深し。幸いなるにそれは陰柔にして居位正を得、能く陰を以て陽に順從し、誠心に「他家」の不死の方子を求取す――「他家」は指すは自身識神の外先天真陽の在る所、「不死の方」は即ち先天真一の気――用いて「我家」の沈重の旧疾を医治せんと。原本减じ掉る能わざるも亦た能く减じ掉り、原本减じること快からざるも亦た能く快く减ず。减損の中増益有り、但だ喜慶有るのみならず、而且過咎無し。此一爻の講ずるは自身の陰柔を减去し・真陽を求取して来て増益するの工夫なり。
六五,柔而得中,止於其所,虛心即能實腹,虛實相應,剛柔相濟,二五之精,妙合而凝,或益之十朋之龜矣。或益者,不求益而益,益出自然,非有勉強,乃返本還原之吉道,所謂“敲竹喚龜吞玉芝,鼓琴招鳳飲刀圭”者在是。此損柔而剛自益者也。
六五一爻、陰柔にして中に居り、在るべき位置の上に安止し、心一たび虚し下がれば、腹自然充実す――「虚心」は是れ識神雑念を化去し・「実腹」は是れ真気丹田に充盈す――一虚一実彼此呼応し、剛柔互相調濟し、「二五の精、妙に合して凝す」。ここにおいて則ち猶爻辞のいう人有りて價値十朋の大亀を贈送するが如し。いわゆる「或いは益す」とは、是れ去りて増益を求めずして増益自ら來り、益すること自然にして、毫も勉強せず。これは是れ本に返り元に還るの吉利の路徑、正に是れ《悟真篇》のいう所の「竹を敲きて亀を喚び玉芝を吞み、琴を鼓して鳳を招き刀圭を飲む」――静定を以て先天の気を招攝して服食す。此一爻の講ずるは陰柔を减去し・真陽自然増益するの工夫なり。
上九,在損之終,是損之於無可損,益之於無可益,由明明德而止於至善。弗損益之,已是無一行之有咎,無一事之不正,全始全終,而得其吉矣。修道至於止至善,道心常存,金丹凝結,以是往而點化人心,無有不利者。
上九一爻、《損》卦の終結の処に処り、已に减じて减ぐべき何も無きに到り・増して増ぐべき何も無きに到り、《大学》のいう所の「明徳を明らかにする」より「至善に止まる」に進み到れり。既に復た减ずるを必とせず亦た復た増すを必とせず、則ち已に一件として行為過咎有る無く・一件事情正道に合せざる無く、始有り終有りて、因って吉を得。道を修して至善に止まるの地步に到れば、「道心」長に存し、「金丹」凝結し、此の如き境界を用いて去りて「人心」を点化すれば、利あらざる何も無し。
蓋道心者主人,人心者奴僕,道心用事,一步一趨,皆是天理,私慾不生,雖人心亦化為道心,得臣無家,滓質俱消,“群陰剝盡丹成熟,跳出凡籠壽萬年。”此損益而歸於至善者也。
「道心」は是れ主人、「人心」は是れ奴僕に因る。道心権を当たり主を為せば、一擧一動倶に天理に合乎し、私欲生ぜず、人心を連ねても亦た道心に転化す。正に爻辞のいう臣僕を得て彼此の家門を分かたざるが如く、一身の渣滓雑質全部消尽す。いわゆる「群陰剥し尽せば丹成り熟し、凡籠を跳出して寿万年」――陰質剥落して乾浄なれば、丹は則ち熟し、此より凡俗の牢籠を跳出す。此一爻は是れ損益の功至善に帰結するの一歩なり。
損之功用,至精至微,不拘成規,隨時變通,總以剛柔如一,止於至善無惡之地為極功。行損道者,可不誠信於損,全始全終乎。
减損此の門の功夫は、極めて精細幽微にして、成法に拘泥せず、要して随時に変通し、総じて剛柔合一し・純善惡無きの地步に抵达するを以て最高の成就と為す。减損の道を修行する人は、怎様にして篤信して减損し・而且始有り終有りに做り到底せざるを得んや。
上巽下震(益卦第四十二)
益:利有攸往,利涉大川。初九,利用為大作,元吉,無咎。六二,或益之十朋之龜,弗克違,永貞吉。王用享于帝,吉。六三,益之用凶事,無咎。有孚,中行,告公用圭。六四,中行,告公從,利用為依遷國。九五,有孚惠心,勿問元吉,有孚惠我德。上九,莫益之,或擊之,立心勿恆,凶。
《益》卦。往く所有るに利し、大河を渡るに利し。初九。大きな事業を興辦するに利し、大いに吉利、過咎無し。六二。人有りて價値十朋の大亀を贈送す、推辞する能わず、長久に正を守れば則ち吉利。君王それを用いて上帝に祭享す、吉利。六三。増益を把って凶険艱難の事情の上に用いれば、過咎無し。心に誠信を懐き、行事中を守り、圭玉を手持して去りて王公に稟告す。六四。行事中を守り、王公に稟告して聴從を得、大国に依託して国都を遷移するに利し。九五。心に誠信を懐きて仁恵の心を存み、占問するを必とせずして大いに吉利、人も亦た誠信を以て我の恩徳に感念せん。上九。人有りて来りて彼を増益する無く、反って人有りて彼を攻撃す。心を立つる能く恒久せず、凶険。
益者,增加其不足也。卦德上巽入、下震動,動而漸入,不急不緩而入之,故謂益。此益中用損之卦,承上解卦而來。解者,陽氣動而出險,漸生漸長,增益善之不足也。但益善非損不善,不能益其善,而損其不善,至於益之又益,損之又損,直至益無可益,損無可損,至於至善無惡之地而後已。是以利有攸往也。
「益」とは則ち是れ不足の部分を補足するなり。卦徳に就きて言えば、上卦巽は入・下卦震は動。一動すれば便ち漸漸深入し、急がず緩まずして入り進む。だから《益》と呼ばる。これは一卦の増益の中応に减損を用いるを講ずる卦で、上一卦《解》を承接して来る。《解》の講ずるは陽気一動して険陷を脱して出づ、漸生漸長す。亦たすなわち是れ不足の善に対して増益を加うるなり。可是善を増益せんと要せば、不善を减損せざれば便ち辦じ成る能わず。能く其の善を増益し・其の不善を减損し、益して又た益し・損して又た損しを做り到り、一直に益して益ぐべき無く・損して損ぐべき無きに到り、純善惡無きの地步に抵达してはじめて罷休す。だから卦辞に「往く所有れば利し」――往く所有るに利すると曰う。
人自無始劫以來,千生萬死,罪積如山,孽深似海,輪迴種子,愈久愈深,今欲行有益性命之事,非先拔去輪迴種子不能濟事。輪迴種子豈能遽去哉?其事有火候、有工程,非可懸虛不實,須要循序漸進,步步出力,益道心、損人心,益正氣、損邪氣,益中有損,方能有濟,利有攸在,利在於行出有益之事耳。
人無始劫以來より、千生万死して、罪業積もりて山の如く高く、孽障深きこと海の如く、輪廻の種子越えて積もれば越えて深し。如今有益の性命の事を做さんと想えば、先ず輪廻の種子を把って抜き掉らざれば、則ち事を辦じ成る能わず。輪廻の種子どこが能く一下子に除尽するを得んや。此の件の事に「火候」――即ち功を用うの緩急節度――有り、亦た「工程」――即ち修持の進程次第――有りて、能く虚空に懸けて談ずる能わず。必ず循序漸進して、一歩一歩に力を出し去るを須す。「道心」を増益し・「人心」を减損し、正気を増益し・邪気を减損し、増益の中減損を帯びて、はじめて能く成就有らん。いわゆる利の在る所とは、利は則ち有益の実事を做し出すに在るのみ。
但行有益之事,貴乎有始有終,若有始無終,仍是行而不利,無益有損。故有益、利行之道,惟在專心致志,下一番死工夫,從艱難困苦中做出,消盡歷劫輪迴種子,方能復我本來原物,是以又利涉大川也。大川至險,性命所關,若於至險之地能行去,則凡無險之處,自無不利矣。
但し有益の事を做するは、貴ぶは始有り終有るに在り。もし開頭有りて結尾無くんば、仍ほ是れ做すも亦た利を得ず、益処無くして反って損害有り。だから有益を修め・利を行い得るの門徑は、只だ専心致志に在り、一番の死功夫を下し、艱難困苦の当中より做し出して來り、歷劫以來の輪廻の種子を把って消磨して乾浄にして、はじめて能く我本来の原物――即ち先天真一の性――を恢復せん。だから卦辞に又た「大川を渉るに利し」と曰う。大川極めて険悪にして、性命に関係す。もし最も険悪の地方を連ねても倶に能く行き過ぐるを得ば、則ち凡そ険阻無きの地方は、自然に利あらざる無し。
卦德動而巽進,徐徐下功,不急不緩,其即隨時增減之道乎。初九,在益之初,即能勇猛直行,大作大用,是初念已真。能益於初,自能無咎於終。此用剛而決於益者也。
卦徳に就きて言えば、一動して而る後に柔順に深入し、慢慢として功夫を下し、急がず緩まず。此れ正に是れ随時に増減するの道理に非ずや。初九一爻、増益の開頭に処りて則ち能く勇猛に一直に前に、大いに作為有り・大いに施用有り。見るべし最初の一念已に真切なり。開頭能く増益すれば、結尾自然過咎無し。此一爻は是れ陽剛を用いて果決に増益を行うの一歩の工夫なり。
六二,柔順中正,識急緩、知吉凶,煉已持心,損之又損,先天之氣,自虛無中來,陰陽相合,如或益之十朋之龜矣。十朋之益,二五之精,妙合而凝,如龜之蟄神藏氣,聖胎有象,當斯時也,正宜守貞不二,沐浴溫養,至於十月功完,脫胎成真,積功累行,護國佑民,受皇王之封號;用享于帝,天爵修成,而人爵即從之,其吉為何如乎?此用柔而自然益者也。
六二一爻、柔順にして中に居りて正を得、緩急を認得し・吉凶を知り、能く「己を錬り心を持す」――即ち自身の習気を磨錬し・心念を把住す――損して又た損して、ここにおいて先天の気虚無の中より來り、陰陽相合す。猶爻辞のいう人有りて價値十朋の大亀を贈送するが如し。此の十朋の益は、正に是れ「二五の精、妙に合して凝す」、如同亀の一般に神気を蟄蔵し、「聖胎」――内丹凝結の象――已に形迹有り。此の個の時候に到りて、正に応当に貞一不二を守持し、「沐浴温養」の功を行い――即ち火候を停住し・静養して催さず――十月功成して、胎を脱して真と成るに到るを直す。再び功を積み行を累ね、国を護り民を佑け、帝王の封號を受く。いわゆる「用いて帝に享る」は、是れ先ず天爵を修成して、而して人間の爵位自然に随って來る。あの份の吉利は還た説かんを用いんや。此一爻は是れ陰柔を用いて自然に増益を得るの工夫なり。
六三,不中不正,咎過極多,不可益以吉事,須用凶事磨礪,自能戒懼修省,有孚於中行也。有孚則心誠,中行則行謹,心誠行謹,公而無私,事無不可告於人者,如用圭通信,損中有益,凶事亦可化為吉事,始而有咎者,終可無咎。此用柔而勉強益者也。
六三一爻、既に中に居らず又た正を得ず、過失極めて多し。可に順境吉事を用いてそれを増益する能わず、必ず凶険艱難の事情を用いて磨砺して、それをして戒懼自省せしめて、爻辞のいう心に誠信を懐きて行事中を守るを做り到らしめんを須す。誠信有れば、心は則ち真誠。行事中を守れば、行為は則ち謹慎。心誠にして行謹にして、公にして私無ければ、則ち何の事情か人に告げる可からざる無し。好比圭玉を手持して去りて信実を通達するが如し。减損の中増益有りて、凶事も亦た能く吉事に転化し、起初過咎有るも、最終に可に過咎無からん。此一爻は是れ陰柔を用いて逆境の中に於いて勉強して増益を得るの工夫なり。
六四,居於上巽之體,正當益己之後、益人之時,故中之於行,或因人指點,或借事開導,告其為人,人有益之公事,使學者心悅誠服,樂於從之耳。
六四一爻、上卦の巽体の中に処り、正に自己已に益を受け・応に去りて人を益すべきの時候に当たる。だから行事中を守る。或いは各人の資質に按じて指を点し加え、或いは具体の事情を借りて開導を加え、彼に人を為るの道理を告げ、人の為めに有益の公事を辦じ、道を学ぶの人をして心から悦び誠に服して、楽しみて跟從せしむ。
然道高者毀來,德修者謗興,必須依有大力者而為之,方能現身說法,使人遷善改過,是以利用為依遷國也。遷國之利,大行其道,如大顛之依文公,長春之依元帝。此無位者必借人力而益人者也。
然而道行高きの人は抵毀を招來し、徳行修まるの人は誹謗を引來す。必ず大力量有るの人に依託して來りて推行し、はじめて能く身を現して法を説き、人をして過を改め善に遷らしむるを得。だから爻辞に大国に依託して国都を遷移するに利すると曰う。依託して国を遷すの好処は、能く其の道を大いに行うに在り。好比唐代の僧人大顛韓文公韓愈に依託し・元代の長春真人丘處機元朝の君主に依託したるが如し。此一爻の講ずるは権位無きの人は必ず他人の力を借助してはじめて能く人を益するなり。
九五,陽剛中正,大道完成,渾然天理,可信其惠心在內,而即有元善之吉矣。夫惠心者,天之心也。天良之心常存,視萬物為一體,視人我如一家,一言一行,俱有益於世道人心,又可信其有惠德矣。既有惠心,又有惠德,猶如風吹物,莫不鼓舞而興起,如許遜令於旌陽,梅福官於南昌,皆能存惠心而行惠德。此有位者,不借人力而益人者也。
九五一爻、陽剛にして中に居りて正を得、大道已に完成し、渾然一片の天理。可に信ず、それの内裡仁恵の心を存するを、因って則ち至善の吉利有り。いわゆる恵心とは、則ち是れ天の心なり。天良の心長に存し、万物を看て如同一体、別人を看て自己と如同一家、一言一行倶に世道人心に有益有れば、則ち又た可に信ず、それは恵徳を具備するを。既に恵心有り、又た恵徳有れば、猶風万物を吹拂して、鼓舞を受けて振作して起來らざる無きが如し。好比晋代の許遜旌陽県令を為り・漢代の梅福南昌に於いて職に任じたるが如く、倶に能く恵心を存して恵徳を行えり。此一爻の講ずるは権位有るの人は他人の力を借助せずして即ち能く人を益するなり。
上九,剛而誤用,不能益已,強欲益人,不但莫益於人,而且為人擊責矣。夫益人之道,先要能損己過,己過損去,而益於善矣。己善,而後可以善人。此循序漸進,恆久之心。若立心不恆,未益於己,即欲益人,無益有損,自取其凶,此好強者,未益己而即欲益人者也。
上九一爻、陽剛にして用いて錯えたるを地方、能く先ず自己を増益せずして、却って硬として去りて別人を増益せんと要す。結果但だ人に対して益処無きのみならず、反って人に攻撃責難せられん。知るを須す、人を益するの道理は、先ず要して能く自己の過失を减損せん。自己の過失减じ去れば、はじめて善に於いて増益せりと算す。自己先ず善にして、然る後にはじめて可に別人をして善に向かわしめん。これは是れ循序漸進・恒久改めざるの用心なり。倘若心を立つる能く恒久せず、還た未だ自己を益する有らざるに則ち急ぎて去りて人を益せんとすれば、益処無くして反って損害有り、是れ自ら凶険を取るなり。此一爻の講ずるは強を逞ぶるを好むの人還た未だ己を益せざるに則ち搶えて人を益すの毛病なり。
然則,益之為道,當道未成,必先益己,及道已成,再去益人。益己益人,各有其時,如未到已益之後,不可益人。然益己益人,總要先能損己之過耳。能損已過而至於無過,可以益己,可以益人,無往不利矣。
こく如く視れば、増益の道理は是れ。大道還た未だ成就せざるの時候は、必ず先ず自己を増益せんを須す。大道已に成るに及ぶを待って、再び去りて別人を増益す。己を益すると人を益すると、各々各々其の時候有り。もし還た未だ自己の受益完成するに到らざれば、則ち可に去りて人を益する能わず。然而己を益すると人を益するとを論ぜず、総じて要して先ず能く自己の過失を减損せん。能く過失を减じて過失無きに到れば、則ち既可に己を益し、亦可に人を益し、何処に走り到るも倶に利あらざる無し。
