景徳伝燈録巻第二十三
独行独坐して常に巍巍たり、百億の化身は数量無し。
吉州青原山行思禪師第八世七十四人
縱令逼塞して虚空に満つとも(底本は「偪塞」に作る)、看る時は微塵の相を見ず。
漳州羅漢院桂琛禪師法嗣七人金陵清涼文益禪師
笑うべし物かな比況無きを、口は明珠を吐いて光晃晃たり。
襄州清谿洪進禪師
尋常に見れば説けば不可思議、一語標名して言下に当たる。
金陵清涼休復禪師
また偈に曰く、
撫州龍濟紹修禪師
天は能く蓋わず地は載せず、去る無く来る無く障碍無し。
杭州天龍寺秀禪師
長き無く短き無く青黄無く、中間にも内外にも在らず。
潞州延慶傳殷禪師
群を超え衆を出でて太虚玄たり、物を指して心を伝うも人は会せず。
衡嶽南臺守安禪師(已上七人見錄)
その他叩くに随いて應じた。道俗の施す所を以て金字の『般若』・『法華経』を造った。時に衆が師に二経を講ずるを請い、文に随いて解を發した。復た門人の智顗に命じて代講せしめた。一心に万行を具すに至りて、疑有りて決を請うた。師が言った。「お前の疑う所は乃ち『大品』の次第の意のみ、未だ是れ『法華』の圓頓の旨に非ず。我は昔夏中に一念頓に發し、諸法前に見えたり。我すでに身に証せり、疑を致すを労せず。」顗は即ち咨へて『法華』の行を受け、三七日にして悟を得た(顗は即ち天臺教主の智者大師、下の章に出ず)。陳の光大元年六月二十三日、大蘇山より四十余僧を將いて徑く南嶽に趣き、便ち言った。「我はこの山に寄りて止まること十载を期す。已後は必ず遠游を事とせん。我が前身はかつてこの処を履めり。」巡りて衡陽に至り、一処の林泉の勝異に值った。師が言った。「これ古寺なり。我は昔かつて居たり。」掘らしむるに、基址なお存す。また岩下を指して言った。「我はここに坐禅して、賊が我が首を斬りたり。」尋ねて枯骸一聚を得た。これより化道彌いに盛んなり。陳主は屡々慰勞供養を致し、大禅師と目した。將に世に順わんと欲して、門人に謂うて言った。「もし十人有りて身命を惜しまず、常に『法華』・『般舟念仏三昧』・『方等懺悔』を修して、証見するに期する者は、須する所有らば我自ら供給せん。もしこの人無ければ、我は即ち遠く去らん。」時に衆は苦行の事難しと以て、答える者無し。師は乃ち衆を屏り、泯然として逝した。小師の雲辯が號叫した。師は目を開きて言った。「お前は是れ惡魔。我將に行かんとす。何ぞ驚動して我を妨乱するや。癡人出で去れ。」言い訖りて長く往いた。時に異香室に満ち、頂は暖かに身は軟らかにして、顔色常のごとし。即ち太建九年六月二十二日なり。寿六十四。およそ著述有るは皆口授して、删改する所無し。『四十二字門』兩卷、『無諍行門』兩卷、『釋論玄』『随自意』『安樂行』『次第禅要』『三智觀門』等の五部各一卷を撰み、並びに世に行われた。
福州僊宗契符大師法嗣二人福州僊宗洞明大師
天臺山修禅寺の智者禅師智顗は荆州華容の人。姓は陳氏。母は徐氏。始めて娠するや、五色の香煙懐に縈繞するの夢を見た。誕生の夕、祥光鄰里に燭く。幼くして奇相有り、膚は垢を受けず。七歳にして果願寺に入り、僧が『法華経』の『普門品』を誦するを聞きて即ち随い念じた。忽然として自ら七卷の文を憶記し、宛ら宿習のごとし。十五にして仏像を礼し、出家を誓志した。恍として夢のごとく大山海際に臨むを見、峰頂に僧の手を招く有り、復た一の伽藍に接し入れて言った。「お前は当にここに居るべし。お前は当にここに終るべし。」十八にして双親を喪い、果願寺に於て僧の法緒について出家した。二十にして具に進んだ。陳の天嘉元年に光州大蘇山の慧思禅師に謁した。思は一見して便ち彼に對して言った。「昔靈鷲に同じく『法華経』を聴き、今復た來れり。」即ち普賢の道場を以て示し、四安樂行を説いた。師は觀に入ること三七日、身心豁然として、定慧融會した。宿通潜かに發し、唯だ自ら明らかに了とす。悟る所を以て思に白した。思が言った。「お前に非ざれば証せず、我に非ざれば識る莫し。此乃ち『法華』三昧の前の方便・初旋陀羅尼なり。縱令文字の師千万なりとも、お前の辯を窮める能わず。お前は燈を伝うべし。最後の仏種を斷ずる者と作る莫れ。」師はすでに印可を承け、太建元年に礼を辞し、金陵に住して化を闡いた。およそ法を説くに文字を立てず、辯才を以ての故に晝夜倦まず。七年乙未、徒衆を謝遣し、天臺山佛隴峰に隱れた。定光禅師有りて先にこの峰に居り、弟子に謂うて言った。「間もなく当に善知識有りて徒を領してここに至らん。」俄爾として師至る。光が言った。「まだ疇昔手を挙げて招引したる時を憶えるか否か。」師は即ち像を礼したるの征を悟り、悲喜懐に交わった。乃ち手を執りて共に庵所に至った。その夜空に鐘磬の声を聞いた。師が言った。「是れ何の祥ぞ。」光が言った。「これ是れ犍稚の僧を集むる得住の相。この処の金地は我已に之に居たり。北峰の銀地は、お前宜しくそこに居りて山を開くべし。」後に宣帝が修禅寺を建て、始豊縣の租を割いて以て衆費に充てた。及んで隋の煬帝が師に請うて菩薩戒を受けしめ、師は帝の為に法名を立て、總持と号した。帝は乃ち師を智者と号した。師は常に謂う。『法華』は一乗の妙典にして、化城の執教を蕩め、草庵の滯情を釋し、方便の權門を開き、真実の妙理を示し、衆善の小行を會して廣大の一乗に歸すと。遂に玄義を出だし、釋名・辨體・明宗・論用・判教相の五重を説く。名は則ち法喻齊しく挙ぐ。一乗妙法は即ち衆生の本性にして、無明煩惱に在りて染められず、蓮華の淤泥に處りて體…
泉州福清行欽禪師(已上二人見錄)
妙法蓮華は即ち復の一なり(法と譬は復と為す)。名は以て體を召す。體は即ち実相。一切の相は実相を離れて體無き故と謂う。宗は則ち一乗の因果。開示悟入して仏の知見を得べき尊尚の故。用は則ち力用。開・廢・會の義を以てその力有るが故。然る後に教相を判ずる者は、如来一代の説を以て、總じて五時八教と判ず。五時とは、一に、仏の初めて道を成じて上根の菩薩の為に華嚴を説く時、二に、小機の為に阿含を説く時、三に、偏を彈じ小を折り、大を歎じ圓を褒めて方等を説く時、四に、相を蕩め執を遣わして般若を説く時、五に、權を會して實に歸し、三乗の人および一切衆生に成仏の記を授け、『法華』・『涅槃』を説く時。八教とは、化儀の四教を謂い、即ち頓・漸・祕密・不定なり。化法の四教は、即ち蔵(生滅の四諦)・通(無生)・別(無量)・圓(無作の四諦は唯だ『法華』の圓理。乃至生産の業を治するも、一色一香も実相に非ざるなし)なり。三世の如来の演ぶる所を該め、殫くしてその致を盡くす(四正三接は本教のごとく廣し)。これを舍てれば皆魔説の故。教理すでに明らかなれば、觀行に非ざれば性を復する無し。乃ち一心三諦の理(真・俗・中)に依りて、三止三觀を示す。一一に心を觀じ、念々獲るべからず。先ず空、次に假、後に中。二辺を離れて一心を觀ずるは、雲外の月のごとき者、此乃ち別教の行相なり。かつて説く、一切の惑を破るは空より盛んなるは莫く、一切の法を建つるは假より盛んなるは莫く、一切の性を究竟するは中より大なるは莫し。故に一中は一切中、假無く空無くして中ならず。空と假もまた爾り。即ち圓教の行相。摩醯首羅天の三目のごとく、縱横並び別ならざるが故(第十四祖の龍樹菩薩の偈に曰く、因縁の生ずる所の法は、我が説く即是れ空、また名づけて假名と為し、また中道の義と名づく。これ『楞厳』・『圓覺経』の奢摩他・三摩鉢底・禅那の三觀を説くと、名目は殊なれどもその致は一なり。達磨大師は心を以て心を伝え、名数に滯らず、直に上々の根智の為にして、筌を忘れ意を忘れしむ。故にこの教と同じくして同じからず。智者禅師は理を窮め性を盡くす、備足の門。故に禅宗と異なりて而も異ならざるなり)。三觀圓に成れば、法身素ならず、即ち貧子に同じくするを免る。なお学者の修性に昧くあるいは偏執に堕ちんことを慮り、故に復た六即の義を創めて以てこの患を絕つ。一、理即の仏とは、十法界の衆生は下は蟭螟に至るまで、同じく妙性を禀け、本より已來常住清淨にして、覺體圓滿し、一理齊平なるが故(名相を執する者は即心即仏を信ぜず、これを睹て信を生ず)。二、名字即の仏とは、理性は坦平なれども、流に随う者は日用して知らず、必ず言教の外熏を假りて、名字を聞くを得て信を生じ解を發すが故(『起信論』に説く、妄想心有るを以ての故に、能く名義を知る。これより已下は暗證の者を簡ぶ)。三、觀行即の仏とは、すでに名を聞きて開解し、
杭州天龍重機大師法嗣一人高麗雪嶽令光禪師(一人見錄)
前の三觀を假りて源に返るを要すが故(圓教の外凡なり。圓に五陰を觀じて不思議の境と為す、即ち五品位なり。大師はこの位に居るを示す。別教の十信および蔵通教は、皆資糧位と名づく)。四、相似即の仏とは、觀行の功深く、相似の用を發すが故(内凡なり。圓に無明を伏え、十信の鐵輪位に入る。見思の惑を斷ぜず。七信に至りて以て去れば、見思の惑自ら隕れ、六根清淨を得。経の説くがごとく、父母の生じたる眼は悉く三千界を見る云云。思大禅師はこの位に居るを示す。もし別教は乃ち地前の三十心なり。蔵通は皆加行位と名づく。『楞厳経』・『唯識論』は三十心の後に、別に四加行を立つ。名位は同じと雖も、詮旨迥く異なり。唯だ通悟の者は善巧に融會す)。五、分真即の仏とは、三心開發して真如の用を得、位位増勝するが故(圓の初住を發すれば即ち銅輪位なり。龍女の一念成仏して百界の身を現ずるがごとし。これより轉じて勝れて等覺位に至る。およそ四十一心は盡く真因と目す。分位は殊なれども、圓理は別無し。もし別教は即ち十地と名づく。蔵通は皆見道位と言う)。六、究竟即の仏とは、無明永く盡き、覺心圓極まり、証して証する所無きが故(妙覺なり。『起信』に説く、始本不二、名づけて究竟覺と為す。『仁王』は寂滅の上忍と名づく。別教は權仏に攝し、圓行の第二位に對すのみ。蔵通の二教の仏は知るべし)。上のごとき六位すでに皆即ち仏(屈せず濫れず)、通じて法報化の三身を具えて正と為す(三寶三德は屬對交絡す。乃至十種の三法は含攝して遺す無し。偈に曰く、道は性般若を識る。菩提は大乘の身。涅槃は三寶の德。一一皆三法)。随い居るに四土を以て依と為す。四土とは、一に常寂光(法性の土なり。法身之に居り、身土相称す)、二に實報無障碍(二受用を攝す。自受用の土は報仏自ら居る。他受用の土は地に登る菩薩の居る所)、三に方便有余、四に淨穢同居(並びに應化の土なり。地前の菩薩・二乗・凡夫の居る所)。その實は則ち身に非ず土に非ず、優無く劣無し。機に對するが為の故に假に身土を説きて優劣を分つ。師は身土の互いに融り權實无碍なるを得たり。故に三十余年晝夜に宣演す。四種の益を生じ、四悉檀を具う(悉は遍なり。檀は翻して名づけて施と為す。禅師の法は遍く有情に施して、根に随いて益を得。説くがごとく、世界悉檀は歓喜の益を生ず云云)。門人の灌頂は日に万言を記して之を編結した。總じて目して天臺教と為す。別は則ち諸の部類に分かつ(『法華玄義』・『文句』・大小『止觀』・『金光明』・『仁王』・『淨名』・『涅槃』の諸觀章・『十六觀経』等および四教禅門、およそ百余軸)。歴代に付授して、江浙に盛んなり。隋の開皇十七年十一月十七日、帝は使を遣わして師を詔した。將に行かんとして、乃ち門人に告げて言った。「我は今往きて返らず。お前等は当に佛隴の南寺を成就すべし。一に我が圖に依れ。」
婺州國泰瑫禪師法嗣一人婺州齊雲寶勝禪師(一人見錄)
侍者が言った。「師の力に非ざれば、豈に成辦せんことを得んや。」師が言った。「乃ち是れ王家の辦ずる所。お前等は之を見る、我は見ざるなり。」(師は初め石橋に寺を建てんと欲した。禅寂にして三の神人を見、皂幘絳衣にして一の老僧に從う。師に謂うて言った。「もし寺を造らんと欲せば、今その時に非ず。三国一成する時、当に大力の施主有りて師と寺を造らん。寺成れば国即ち清し。宜しく国清と号すべし。」言い訖りて見えず。開皇十八年、帝は司馬王弘を遣わして山に入りて圖に依りて寺を造らしめ、方に前の志に應えた。)師は二十一日に剡東の石城寺の百尺の石像の前に到りて進まず。二十四日に至りて侍者を顧みて言った。「觀音來迎す、間もなく去るべし。」時に門人の智朗が請うて言った。「いまだ何の位に何と生ずるかを審らかにせず。」師が言った。「我は衆を領せざれば、必ず六根を淨めん。己を捐ねて他を利すれば、五品に預るを獲るのみ。」(五品弟子は、即ち『法華』三昧の前方便の位にして、思大禅師の昔語と冥符す。)筆を命じて觀心の偈を作り、諸法門の綱要を唱え訖りて、趺坐して逝した。寿六十、臘四十。弟子等は迎えて佛隴岩に歸した。大業元年九月、煬帝は淮海に巡幸して、使を遣わして弟子の智璪および題せし寺額を送りて山に入りて師の忌齋に赴かしめた。到る日に僧を集め、石室を開けば唯だ空榻を睹るのみ。時に會する千僧至りて、忽ち一人剩りて、都て師の化身來りて国供を受くと謂えり。師は始め禅教を受け、滅度に終るまで、常に一の壞衲を披き、冬夏釋かず。來往して天臺山に居ること二十二年。大道場を建造すること一十二所、国清最もその後に居る。および荊州玉泉寺等共に三十六所。僧を度すること一万五千人。経を写すこと一十五藏。金銅の塑画像を造ること八十万尊。事迹甚だ廣し、本傳のごとし。
福州昇山白龍道希禪師法嗣五人福州廣平玄旨禪師
泗州の僧伽大師は、世に觀音大士の應化と謂う。本を推せば過去阿僧祇殑伽沙の劫に觀世音如来に值い、三慧の門に從りて道に入り、音声を以て仏事と為した。ただこの土の縁有る衆を以て、乃ち大師は西国より来たりと謂う。唐の高宗の時に長安・洛陽に至り、化を行うこと吳楚の間を歴た。手に楊枝を執り、緇流に混じった。あるいは師の何の姓かを問えば、即ち答えて言った。「我は姓は何。」また師は何の国の人かを問う。師が言った。「我は何国の人。」尋いで泗上に於て伽藍を構えんと欲して、因りて宿す。州民の賀跋氏が居る所を舍てた。師が言った。「これ本佛宇と為る。」地を掘らしむるに、果たして古碑を得て、香積寺と説き、即ち齊の李龍建の創る所。また金像を獲て、衆は燃燈如来と謂う。師が言った。「普光王仏なり。」因りて以て寺額と為した。景龍二年、中宗は使を遣わして大師を輦轂に迎え、深く礼を加えて異とし、大薦福寺に住せしめた。帝および百官は咸く弟子と稱し、慧儼・慧岸・木叉の三人を度すと與す。御書の寺額(普光王寺)。三年三月三日に大師は滅を示した。勅して薦福寺に就いて身を漆りて塔を起たしめた。忽ち臭気城に滿つ。帝は祝して師を臨淮に歸り送るに、言い訖りて異香騰馥した。帝は萬回に問うて言った。「僧伽大師は是れ何人ぞ。」言った。「觀音の化身のみ。」乾符の中に證聖大師と諡した。皇朝の太平興國の中、太宗皇帝は重ねて浮圖を創り、壯麗超絕なり。
福州白龍清慕禪師
萬回の法雲公は虢州閿郷の人。姓は張氏。唐の貞觀六年五月五日に生まれた。始め弱齡に在りて、啸傲すること狂のごとく、鄉黨は測る莫し。ある日家人に灑掃せしめて言った。「勝客來る有り。」是日三蔵の玄奘が西国より還りて之を訪えた。公は印度の風境を問うに、見る所のごとく了り。奘は礼を作し圍繞し、是れ菩薩と稱した。兄の萬年有りて、久しく遼左に征す。母の程氏はその音信を思う。公が言った。「これ甚だ易し。」乃ち母に告げて往き、暮に至りて還った。及んで書を持ちて到れば、鄰里驚異した。龍興寺の沙門の大明有りて、少くして相い狎れたり。公は來往して明師の室に入る。正諫大夫の明崇儼あって夜寺を過ぎるに属し、公の左右に神兵の侍衛するを見て、崇儼は之に駭いた。詰旦明師に言うて、復た厚く金繒を施し、礼を作して去った。咸亨四年、高宗は召して内に入れた。時に扶風の僧の蒙澒なる者有りて、甚だ多くの靈跡有り、先に内に在り、每に言った。「回來回來。」及んで公至るに、また言った。「替わりて到れば当に去るべし。」旬日を迨りて澒は卒した。景雲二年辛亥十二月八日、師は長安の醴泉里にて卒した。寿八十。時に異香氤氳として、體を挙げて柔軟なり。制して司徒・虢国公を贈り、丧事は官が給した。三年正月十五日に京西の香積寺に窆した。
福州靈峰志恩禪師
天臺の豊干禅師は、何の許の人かを知らず。天臺山国清寺に居た。髮を剪りて眉に齊しく、布裘を衣た。人あるいは佛理を問えば、ただ「随时」の二字を答えた。かつて道歌を誦唱し、虎に乘りて松門に入れば、衆僧驚畏した。本寺の厨の中に二の苦行有りて、寒山子・拾得と曰う。二人は爨を執り、終日晤語し、潜かに聴く者は都て體解せず。時に風狂子と謂う。獨り師と相い親しんだ。ある日寒山が問うた。「古鏡磨かざればどう照燭するか。」師が言った。「冰壺に影像無く、猿猴は水月を探る。」言った。「これは是れ照燭せざるなり、さらに師に道うを請う。」師が言った。「万德將て來らず、我に何を道わしめん。」寒拾は俱に礼拝した。師は尋いで獨り五臺山に入りて巡礼し、一の老翁に逢うた。師が問うた。「まさか是れ文殊か否か。」言った。「豈に二文殊有るべけんや。」師は礼を作して未だ起たざるに、忽然として見えず(趙州の沙彌が和尚に挙似す。趙州は豊干に代わりて言う、「文殊文殊」)。後に天臺山に回りて滅を示した。初め閭丘の公胤が丹丘の牧に出でんとして、將に巾車を議せんとすに、忽ち頭疼を患えて醫も愈す能わず。師は之に造りて言った。「貧道は天臺より使君に謁せんが為に來れり。」閭丘は且く病を告げた。師は乃ち淨器を索め、水を咒して之に噴けば、斯須に立ちて瘥えた。閭丘は之を異として、一言を乞うてこの去るの安危の兆を示さんとす。師が言った。「任に到りて文殊・普賢に謁するを記えよ。」言った。「この二菩薩は何に在るか。」師が言った。「国清寺の爨を執り器を洗う者の寒山・拾得是れなり。」閭丘は拜して辞した。方に行きて尋ねて山寺に至り、この寺に豊干禅師有るか否か、寒山・拾得は復た是れ何人ぞと問うた。時に僧の道翹あって對して言った。「豊干の旧院は經藏の後に在り、今は扃じて人無し。」(底本はこの字は門に從う、当に「扃」たるべし、疑を存す。)寒拾の二人は僧厨に見えて役を執る。閭丘は師の房に入りて、唯だ虎跡を見るのみ。復た道翹に問うた。「豊干はここに在りて何の行業を作すか。」翹が言った。「唯だ穀を舂きて僧に供することを事とし、閑かなれば則ち諷詠す。」乃ち厨に入りて寒拾を尋訪す、下の章に之を叙するがごとし。
福州東禪玄亮禪師
天臺の寒山子は本來氏族無し。始豊縣の西七十里に寒・明の二岩有り。その寒岩の中に居止するを以て名を得たり。容貌枯悴し、布襦零落し、樺皮を以て冠と為し、大きな木履を曳いた。時に国清寺に來り、拾得に就いて衆僧の残食の菜滓を取りて之を食う。あるいは廊下を徐行し、あるいは時に叫噪し、空を望みて慢罵す。寺僧は杖を以て逼逐せば、身を翻して掌を拊ち大笑して去った。言を出すこと狂のごとくと雖も意趣有り。ある日豊干が之に告げて言った。「お前我と五臺に游べば即ち我が同流、もし我と去らざれば我が同流に非ず。」言った。「我は去らず。」豊干が言った。「お前は我が同流に非ず。」寒山は却って問うた。「お前は五臺に去りて何を作すか。」豊干が言った。「我は去りて文殊に礼せん。」言った。「お前は我が同流に非ず。」暨んで豊干滅して後、閭丘公は山に入りて之を訪えた。寒拾の二人が爐を圍みて語笑するを見た。閭丘は覺えず拜を致した。二人は聲を連ねて咄叱した。寺僧驚愕して言った。「大官は何ぞ風狂の漢に拜するや。」寒山は復た閭丘の手を執り、笑うて言って曰く。「豊干は饒舌なり。」久しくして之を放した。これより寒拾は相携えて松門を出で、さらに復た寺に入らず。閭丘はまた寒岩に至りて礼謁し、衣服・藥物を送った。二士は高聲に之を喝して言った。「賊賊。」便ち身を縮めて岩石の縫中に入り、ただ言う。「お前の諸人に報ゆ、各々努力せよ。」その石の縫は忽然として合した。閭丘は哀慕して、僧の道翹に令してその遺物を尋ねしめた。林間に於て葉上の書する所の辭頌および村墅人家の屋壁に題する所を得て、共に三百余首、人間に傳布した。曹山の本寂禅師は注釋して、これを寒山子の詩に對すと謂う。
漳州報劬玄應禪師(已上五人見錄)
天臺の拾得は名氏を言わず。豊干禅師が山中を經行し、赤城の道側に至りて兒の啼く声を聞き、遂に之を尋ねて一の子を見るに可なり数歳なり。初め牧牛の子と謂えり。及んで之に問えば、孤棄して此に在りと言う。豊干は乃ち名づけて拾得と為し、携えて国清寺に至り、典座の僧に付して言った。「あるいは人來りて認めば、必ず之を還すべし。」後に沙門の靈熠が攝受して、食堂の香燈を知らしめた。忽ち一日輒爾として座に登り、仏像と對盤して餐す。復た憍陳如上座の塑形の前に於て呼びて言った。「小果の声聞。」僧は之を驅る。靈熠は忿然として尊宿等に告げ、その主る所を罷めて、厨內に器を滌わしめた。常日齋畢りて、食滓を澄濾して筒を以て之を盛る。寒山來れば即ち之を負いて去った。ある日地を掃う。寺主が問うた。「お前は名を拾得と曰う。豊干がお前を拾い得て歸らしめた。お前は畢竟何を姓とし、どの処に在りて住するか。」拾得は箒を放下して叉手して立った。寺主は測る罔し。寒山は胸を捶ちて言った。「蒼天蒼天。」拾得は却って問うた。「お前は何を作すか。」言った。「豈に道うを見ざらんや、東家に人死なば西家は哀を助くと。」二人は舞を作し哭笑して出でた。伽藍を護る神の廟有り。每日僧厨の下食は烏の所有と為る。拾得は杖を以て之を抶ちて言った。「お前は食を護る能わず、安んぞ伽藍を護る能わんや。」此の夕、神は合寺の僧に夢に附して言った。「拾得は我を打つ。」詰旦諸僧は夢を説くに符同せり。一寺紛然として、牒を州縣に申した。郡の符至りて言った。「賢士隱遁し、菩薩の應身なり、宜しく用いて之を旌すべし。」拾得を賢士と号す(石に隱れて逝す、寒山の章に見ゆ)。時に道翹は寒山の文句を纂録し、拾得の偈を以て之に附した。今略して数篇を録し、別卷に見ゆ。
泉州招慶法因大師法嗣七人泉州報恩宗顯大師
明州奉化縣の布袋和尚は、氏族いまだ詳かならず。自ら名を契此と稱す。形裁は腲脮(烏罪切・奴罪切)にして、額を蹙め腹皤然たり。語を出すに定まらず、寝臥は処に随う。常に杖を以て一の布囊を荷い、およそ身に供する具は盡く囊中に貯えた。市肆聚落に入り、物を見れば則ち乞う(底本の「市」の上一の字は网に從う、当に「市」たるべし)。あるいは醯醢魚菹も才かに口に接すれば、少許を分ちて囊中に投ず(底本の「菹」の字は草に從う、疑を存す)。時に長汀子の布袋師と号す。かつて雪の中に臥すも、雪は身に沾らず、人はこれを以て奇と為す。あるいは人に就いてその貨を乞えば則ち售る。人に吉凶を示せば、必ず期に應じて忒無し。天將に雨らんとすれば即ち濕草履を著けて途中に驟行す。亢陽に遇えば即ち高齒の木履を曳き、市橋の上に膝を竪てて眠る。居民はこれを以て験知した。一の僧有りて師の前を行けば、師は乃ち僧の背を拊つこと一下。僧は頭を回らす。師が言った。「我に一文錢を乞え。」言った。「道い得れば則ちお前に一文を與えん。」師は布囊を放下して叉手して立った。白鹿和尚が問うた。「どういうのが布袋か。」師は便ち布袋を放下した。また問うた。「どういうのが布袋の下の事か。」師は之を負いて去った。先に保福和尚が問うた。「どういうのが佛法の大意か。」師は布袋を放下して叉手した。保福が言った。「ただかくのごときのみか、為にさらに向上の事有るか。」師は之を負いて去った。師は街衢に立ちて在り。僧有りて問うた。「和尚はここに在りて何を作すか。」師が言った。「個の人を等つ。」言った。「來れり來れり。」(歸宗の柔和尚は別に言う、「歸去來」)師が言った。「お前は是れこの個の人に非ず。」言った。「どういうのがこの個の人か。」師が言った。「我に一文錢を乞え。」師に歌有りて曰く、
金陵龍光澄忋禪師
ただ個の心心心は是れ仏、十方の世界の最靈の物。
永興北院可休禪師
縱横の妙用は憐れむべし生、一切は心の真実に如かず。
郴州太平清海禪師
騰騰として自在に為す所無く、閑閑として究竟の出家の兒。
連州慈雲慧深大師
もし目前の真の大道を睹れば、纖毫を見ざるもまた大いに奇なり。
郢州興陽道欽禪師(已上六人見錄)
万法何ぞ殊ならん心何ぞ異ならん、何ぞさらに経義を尋ねるを労せん。
漳州保福清谿禪師(一人無機錄語句不錄)
心王は本より自ら多知を絶ち、智者はただ無學の地を明らむ。
婺州報恩寶資禪師法嗣一人處州福林澄和尚(一人見錄)
聖に非ず凡に非ず復た若くはや、強いて分別せず聖情孤なり。
處州翠峰從欣禪師法嗣一人處州報恩守真禪師(一人見錄)
無價の心珠は本より圓淨、およそ是れ異相は妄りに空しく呼ぶ。
襄州鷲嶺明遠禪師法嗣一人襄州鷲嶺第二世通和尚(一人見錄)
人は能く道を弘め道は分明、無量の清高は道情を稱う。
杭州龍華志球禪師法嗣一人仁王院俊禪師(一人見錄)
錦を携えてもし故国の路に登らば、諸処に声を聞かざるを愁うる莫れ。
漳州保福可儔禪師法嗣一人漳州隆壽無逸禪師(一人見錄)
また偈有りて曰く、
潭州延壽寺慧輪禪師法嗣二人廬山歸宗道詮禪師
一鉢千家の飯、孤身万里の游。
潭州龍興裕禪師(已上二人見錄)
青目は人を睹ること少なく、路を問うは白雲の頭。
韶州白雲祥和尚法嗣六人韶州大歷和尚
梁の貞明二年丙子三月、師將に滅を示さんとす。嶽林寺の東廊下に於て磐石に端坐し、而して偈を説いて曰く、
連州寶華和尚
彌勒真の彌勒、分身して千百億。
韶州月華和尚
時時に時人を示すも、時人自ら識らず。
南雄州地藏和尚
偈畢りて安然として化した。その後他州に人有りて師がまた布袋を負いて行くを見たり。ここに四衆競うてその像を圖す。今嶽林寺の大殿の東堂に全身見存す。
英州樂淨含匡禪師
諸方の雑挙・征拈・代別の語
